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企画されかけて流れた笠原吉太郎展。 [気になる下落合]

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 笠原吉太郎Click!が1954年(昭和29)に死去したあと、しばらくして遺作の展覧会が企画されかけている。遺作展を企画したのは、『気まぐれ美術館』で知られる洲之内徹Click!だ。だが、笠原吉太郎について情報を集め作品を観て歩くうちに、同展の企画は白紙になってしまった。そのときの経緯を、洲之内徹は「芸術新潮」に連載していた『気まぐれ美術館』の中で触れている。
 洲之内が笠原吉太郎を知るきっかけとなったのは、洋画家・横手由男=雨情縁との交遊からだった。横手由男は群馬県渋川町の出身で、戦時中に笠原吉太郎とその家族が疎開してきた際、彼は笠原のもとへ絵を習いに通っていた。それがきっかけで、横手は画家をめざすようになったようだ。
 当時の様子を、1975年(昭和50)に新潮社から発行された「芸術新潮」8月号に所収の、洲之内徹『気まぐれ美術館20―大江山遠望―』から引用してみよう。
  
 雨情さんは、戦争中、上州の自分の郷里に笠原吉太郎という画家が疎開してきていて、自分はそこでその人に絵を習ったのだが、その笠原という自分の先生は、昔、榎本武揚の世話でフランスに留学したはずだと言うので、そう聞いて私は驚いた。私はその頃ちょうど、その笠原吉太郎の遺作展をやりたいと思っているところだったからである。私のほうは前に高良真木さんのお父さんの、高良武久博士の病院で、笠原吉太郎という未知の画家の作品を何点か見たことがあり、面白い画家だと思って、そのとき遺作展を思いついたのだったが、画家は生前高良博士の近所に住んでいたと聞くだけで、遺族の所在も判らず、まだ、どう手をつけていいか判らない状態であった。そこへ、突然、その笠原氏の弟子の雨情さんが現れたのだった。
  
 この証言は、きわめて重要な情報をいくつか含んでいる。高良武久Click!高良とみClick!夫妻は、下落合679番地(のち680番地)に住んでおり、下落合679番地の笠原吉太郎アトリエClick!から南へ2軒隣り(のち4軒隣り)に建っていた。大正末から昭和初期にかけ、高良武久は笠原の絵を気に入り、たびたび作品を購入している。そして、1940年(昭和15)に妙正寺川沿いの下落合(3丁目)1808番地へ高良興生院Click!を建設した際、同院の壁面に多くの笠原作品を架けている。
 空襲にも焼けなかった高良興生院だが、戦後、おそらく洲之内徹が目にした1960年代から70年代にいたるまで、同院の壁面には笠原作品がそのまま架けられていたのが確認できる。そして、高良武久が笠原作品を蒐集したのは、笠原吉太郎が近くに住む佐伯祐三Click!の影響を強く受け、「下落合風景」Click!を連作している最中の時期と重なることだ。つまり、笠原の「下落合風景」作品Click!のいずれかが、いまでも高良家の子孫宅を中心に、どこかで保存されている可能性が高いことがわかる。
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芸術新潮197508.jpg 峰村リツ子「洲之内さん」1985.jpg
 洲之内徹は、笠原吉太郎の略歴を次のように紹介している。つづけて引用してみよう。
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 笠原吉太郎氏は明治八年に桐生の、代々意匠と機業(ママ)を業とする家に生まれ、明治三十年、日本郵船のヨーロッパ航路試運転第一号に乗ってフランスに渡り、三十二年には日本政府海外実業練習生というのになって、リヨン国立美術学校に入って図案を学ぶのである。榎本武揚の世話になったというのはこのときのことだろう。三十六年に帰国して農商務省の技師になるが、四十二年に退官して、その後は画家生活に入る。しかし、明治四十四年には昭憲皇太后の御裳(トレーン)の図案をし、大正元年には皇后陛下の礼服の服地図案を七十種あまりも制作している。退官したとはいっても、ルイ王朝以来の伝統のある衣裳の服地図案をやれる技術者は、この人を措いて他にいないからであった。
  
 笠原吉太郎の三女・昌代様の長女・山中典子様Click!のお話によれば、それぞれのご子孫宅に「下落合風景」はほとんど残っておらず(『下落合風景(小川邸)』Click!の1点を除く)、その多くは東京朝日新聞社で開かれた個展で、また高良武久のような親しい近所の笠原ファンへ、あるいは十和田湖畔に建っていたホテルのオーナーのようなパトロンの手もとへ、譲渡されてしまったのではないかとみられる。だからこそ、戦後まで無事に高良家へ残されていたとみられる、「下落合風景」の作品群が気がかりなのだ。そしてもうひとつ、朝日晃が戦後に確認している『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』Click!のゆくえも、大いに気になるところだ。
 このあと、洲之内徹は笠原吉太郎の遺族のもとを訪れ、実際の作品画面を観てまわるうちに、遺作展へのモチベーションを徐々になくしていく。それは、どの作品が笠原吉太郎「らしさ」なのか、どのような表現が笠原吉太郎「ならでは」のオリジナリティなのか、つかみどころが見つからなくなってしまったせいだ。
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 多くの画家たちは、自身が惹かれる作家や作品の表現を模写をするところからスタートしている。これは画業に限らず、音楽でも文学でもしばしば見られる現象だ。だが、笠原吉太郎は日米戦争をはさみ、「らしさ」「ならでは」の表現を獲得する以前に、きっぱりと画業を止めてしまっている。戦後から1954年(昭和29)に死去するまで、笠原は絵筆(彼の場合はペインティングナイフ)をまったく手にしていない。洲之内徹は、模倣から脱しきれない途絶を画面から見切っていたのだろう。
 再び、洲之内徹『気まぐれ美術館20―大江山遠望―』から引用してみよう。
  
 私は雨情さんに笠原氏の遺族の居所を教えてもらい、その後間もなく訪ねて行って長男という人に会ったが、しかし、遺作展をやってみたいという私の気持は、そこで遺作を見て、変った。笠原氏は昭和の初め頃、同じ下落合の界隈に住んでいた前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三などと親しく、その関係で、一九三〇年協会が発足するとそこへ出品したりもしているが、佐伯に近づくと佐伯張りの絵をかき、里見に近づくと絵が里見風になり、そうかと思うと官展風のアカデミックな静物画もかくという具合で、才能はある人らしいが、いったいこの人のほんとうの姿は何なのか、正体が知れないような気がしてきたからである。/むしろ、この人の本領は、やはり図案だったのではあるまいか。
  
 洲之内は、図案(グラフィック・デザイン)をことさら軽視しているようなニュアンスの書き方をしているが、だからこそ今日の視点から見るなら、下落合の佐伯祐三や前田寛治Click!里見勝蔵Click!、ときに帝展風の画面などを野放図に模倣した、その先にどのような画風が現れたのか、戦前から戦後をはさみどのような表現へと移行し行き着いたのかが、興味をそそられるテーマなのだ。
笠原吉太郎「下落合風景(小川邸)」.jpg
横手由男.jpg 横手由男「慈音」.jpg
 いい意味でも悪い意味でも、笠原吉太郎はフランスの美術学校出身であり、日本の美術教育をまったく受けていない。東京美術学校Click!の権威や、日本洋画壇の派閥・人脈の影響からは、いちばん遠いところにいた画家だろう。そんな彼だからこそ、途中で絵筆(ペインティングナイフ)を折ってしまったのが、ともすれば残念に感じるゆえんだろうか。

◆写真上:昭和初期に制作されたとみられる、笠原吉太郎『ガレージ』。当時、目白通りのあちこちにできはじめたガレージか、1930年代の満州風景だろうか。
◆写真中上は、大正末か昭和初期に制作された笠原吉太郎『海岸風景』(仮)。は、大正末制作の笠原吉太郎『房州(舟の艫)』Click!下左は、1975年(昭和50)発行の「芸術新潮」8月号。下右は、1985年(昭和60)制作の峰村リツ子Click!『洲之内さん』。
◆写真中下は、昭和初期に制作にされた笠原吉太郎『下落合風景(笠原吉太郎アトリエ)』。は、同じく昭和初期の笠原邸内を描いた笠原吉太郎『室内風景』(仮)で、描かれている少女は四女の多恵子様とみられる。は、大正末か昭和初期に制作された笠原吉太郎『ピアノを弾く少女』(仮)。ピアノを弾く少女は、三女の昌代様。
◆写真下は、昭和初期にアトリエの向かいに建つ小川邸の門を描いた笠原吉太郎『下落合風景(小川医院)』。は、横手由男()とタブローの『慈音』()。
おまけ
下落合の北、高田町1152番地(現・西池袋2丁目)にあるF.L.ライト設計の自由学園明日館から眺めた夜のソメイヨシノ。近くでライトアップされていたシダレザクラも満開だ。
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