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下落合の画家たちと東京藝大正木記念館。 [気になる下落合]

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 以前、本郷の西片町に清水組の施工で建設された、金澤庸治アトリエClick!をご紹介した。今回は、その金澤庸治が設計した東京美術学校に現存する、正木記念館の建設について少し書いてみたい。なぜなら、同記念館が1935年(昭和10)7月に建設されるに際し、落合地域と周辺域に住む画家たちが、その建設費を支援しているからだ。
 東京美術学校の正木記念館は、同校の5代目校長を32年間もつとめた正木直彦を記念したものだ。もともと美術とは直接縁のない東京帝大法科出身の正木が、東京美術学校の校長に就任したのは1901年(明治43)8月のことで、以来1932年(昭和7)3月に退任するまで延々と美校の校長をつとめた。つまり、絵画や彫刻、工芸、図案、建築などの分野を問わず、明治末から昭和初期にかけて東京美術学校へ通った学生たちは、すべて正木校長の下で学んでいたことになる。
 正木は、32年も校長をつとめる中で、何度か退任の意向を文部省に伝えているようだが、同省はそれを認めなかった。なぜなら、かろうじて統制がとれている東京美術学校の現状から、正木校長がいなくなると同校がバラバラになり、組織として混乱の収拾がつかなくなるのを同省が怖れたからだといわれている。つまり、「芸術家ではない人間」が校長をつとめているからこそ、かろうじてガバナンスがきいているのであり、いずれかの分野出身の「芸術家」が校長になったりしたら、たちどころに校内外からの反発や混乱が起き、東京美術学校は成立しないのではないかという危惧が大きかったらしい。
 要するに、個性が強い(わがままなw)芸術家ばかりの校内をまとめるのは最初からムリな話であって、正木直彦のもとで組織が破綻・崩壊せず曲がりなりにも内部統制がとれているのは“奇跡”に近い状態だから、このままソッとしておこう……というのが当時の文部省の本音だったようだ。ただし、正木直彦は校長就任後、奈良博物館学芸委員時代や一高の教授時代の経験を活かして、一時期は工芸史の講義も受けもっていたようなので、まったく美術とは縁がなかったわけではない。美校校長へ就任する直前には、美術視察の名目でヨーロッパへ出張したりしている。
 当寺の様子を、1977年(昭和52)に日本文教出版から刊行された、桑原實・監修による『東京美術学校の歴史』から引用してみよう。
  
 『校友会月報』(第31巻第1号、第3号)は職員及び生徒一同に対する正木の退官挨拶を掲載しているが、その中で正木直彦はこの長年月どのような方針で学校を導いてきたかということを謙虚に語っている。正木は自ら「際立ったことが嫌であるのと、何でも事柄をなだらかに済したい性質」といっているように穏やかな性格の人であったらしく、また数々の美術に関する役職のため、非常に多忙の人であった。天心時代の後の校長という困難な仕事を命ぜられた時、正木はまず教員達に精一杯働いてもらい、何ら掣肘(せいちゅう)を加えないようにしてかれらが十分に力を発揮しうるようにしようと考えたという。
  
 そこには、いずれも我か強く個性的な部門をいかに束ねるかに尽力し、不平や不満がミニマムになるよう常に腐心していた「中庸の人」のイメージ、いってみればいい意味での公務員的なバランス感覚が見え隠れしている。
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 そして、東京美術学校の運営に内外からの批判が強くなってくるたびに、なんとか批判を抑えて学校運営を切り盛りしていたため、退任すると決まってからは逆に留任運動まで起きそうになっている。換言すれば、正木直彦以外のどの人物が校長に就任しても、学内の問題が拡大・深刻化し、こじれる可能性のほうが大きく感じられたからだろう。引きつづき、同書より引用してみよう。
  
 また美校には美術と工芸という区分があり、世間でもそれを純正美術と応用美術とに区分し、幾分工芸に掣肘を加える傾きがあるが、それは立場の違いであって美術の上では軽重はないと考え、この信念を広めるために美術と工芸を平等に進展させようとした。更に美校の少ない予算の中で極力研究や教育のための美術品、資料等を集め、世の中に発展してゆく卒業生のために尽力し、教課の効果を実地に現すための依嘱制作に力を入れた。もとより正木校長の美校運営方針に反対の意見もなかったわけではなく、在職期間には数々の問題が生じ、特に美校改革運動の時のように激しく攻撃されたこともあったが、非常に統率しにくい美校をともかく大きな破綻もなく治めてきたのであり、その手腕、人物を高く評価する人人によって遺留運動まで起こりかけたのである。
  
 正木直彦の退官にあたり、美校の運営方針や美術に関する意見の相違は別にしても、「とにもかくにも、長い間お疲れさん」と感じた学内外の芸術家は多くいたようで、正木記念館の建設と銅像建設の企画がもち上がると、短期間で寄付金67,000円が集まっている。その中には、下落合の洋画家たちの名前も多い。
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 たとえば、1934年(昭和9)7月に発行された「校友会会報」第1号(東京美術学校校友会)には、「正木記念館建設資金寄付申込者芳名」として名簿の一部が掲載されているが、落合地域とその周辺からは金山平三Click!藤川勇造Click!南薫造Click!曾宮一念Click!満谷国四郎Click!笠原吉太郎Click!吉田博Click!野田半三Click!らの名前が見えている。また、落合地域にゆかりの洋画家や拙ブログの物語に登場している人物では、梅原龍三郎Click!和田三造Click!竹内栖鳳Click!荒木十畝Click!安宅安五郎Click!小寺健吉Click!住友寛一Click!中澤弘光Click!上村松園Click!辻永Click!藤島武二Click!柚木久太Click!などの名前も見える。
 変わったところでは、カルピスの三島海雲Click!や岩波書店の岩波茂雄Click!根津嘉一郎Click!安田善次郎Click!細川護立Click!寛永寺Click!三越Click!といった企業の経営者や店舗、団体などからも寄付を集めている。この名簿は4回目の掲載なので、1~3回に掲載された名前の中にも、落合地域の画家たちの名前が掲載されているのだろう。また、わたしは名簿の洋画家を中心に抽出しているので、落合地域に住んだ日本画家を含めるなら、寄付者の人数はもっと多いのではないかと思う。
 こうして、記念計画の実行委員会(委員長・和田英作Click!)のもとに集まった寄付金をもとに、金澤庸治の設計で1935年(昭和10)7月に純書院造りの日本間を備えた、総建坪約143坪で耐震耐火の鉄筋コンクリート仕様の正木記念館が竣工した。同記念館は戦災にも焼けず、どこか日本の城郭建築のような姿を藝大通りで見ることができる。
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 「校友会会報」第1号の最後には、東京美術学校内に開店していた食堂や出入りしていた洋服屋、画材店、文具店などの広告が掲載されている。洋服屋の広告が多いのは、美校の制服や制作作業衣、ルパシカなどの注文を受けていたものだろうか。美校の正門近くに開店していた、こちらではおなじみの浅尾丁策Click!が経営する画材店・佛雲堂Click!も、最後に広告を掲載している。

◆写真上:東京藝大美術館の陳列館の南東並びに建つ、金澤庸治設計の正木記念館。
◆写真中上は、正木記念館の鬼瓦。下左は、32年間も東京美術学校校長をつとめた正木直彦。下右は、1934年(昭和9)7月発行の「校友会会報」第1号。
◆写真中下:同会報に収録された、4回目の発表と思われる寄付者名簿。拙ブログでもお馴染みの画家たちが、ページのあちこちに散見できる。
◆写真下は、藝大通りから眺めた正木記念館。は、「校友会会報」に掲載された巻末の広告で、浅尾丁策の佛雲堂がトリの掲載となっている。

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