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下落合を描いた画家たち・片多徳郎。 [気になる下落合]

片多徳郎「風景」1934.jpg
 片多徳郎Click!が、名古屋の寺院で自裁する少し前に描いた、絶作『風景』(1934年)という作品が残されている。通常のキャンバスではなく、板に描かれ木目が浮き出ているから薄塗りで、かつ23.5×33.0cmの小品だ。収蔵先の大分県立美術館によれば、「自宅近くを描いたもの」と規定されている。
 片多徳郎は最晩年、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエから、目白通りをはさんだ長崎のアトリエ(地番不明)に転居しているが、『風景』に描かれたような大規模なバッケ(崖地)Click!は、当時の長崎地域では地形的にも想定しにくい。長崎地域の西端、西落合との境には千川上水の落合分水Click!が流れていた崖地があるけれど、妙見山Click!の麓にあたる谷戸はV字型渓谷で、画面のような風情ではなかっただろう。おそらく、パレットよりも小さな板を携えて、片多徳郎は近所を彷徨しながらどこの情景を描いたものだろうか?
以前にも、pinkichさんよりご教示いただいたのを失念していました。長崎の住所は、長崎東町1丁目1377番地です。ただし、片多徳郎が転居してすぐの1933年(昭和8)より、長崎東町1丁目90X番地に変更されています。詳細はコメント欄をご参照ください。
 片多徳郎の下落合アトリエについて、鈴木良三Click!がこんな証言を残している。1999年(平成11)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて』から引用してみよう。なお、九条武子Click!の邸が出てくるけれど、これはまったくの方角ちがいなので、明らかに鈴木良三の誤記憶だと思われる。
  
 二瓶(等)さんのところを逆戻りして西の方へ五十メートルほど進むと九条武子夫人(ママ)の住居があり、その角を二、三軒行った左側に二階建ての庭もない、木戸を開けると直ぐ玄関がある、あまり大きくないサラリーマンの住宅といったところの二階に片多さんは下宿していたらしい。私は一度も訪ねたことはないが、中村研一さんの洋行中は初台のアトリエを借りていたらしく、それ以外はみな畳の上で制作していたそうだ。/研一さんが帰朝したので、下落合の家に移った。その頃江藤純平さんがその付近に住んでいたので、江藤さんの世話で移ったとのことであった。(中略) 二瓶さんはときどき訪ねてボナールの画集など見せたりして喜ばれたし、曽宮(一念)さんも近いし、美校の卒業だったから訪ねたり、訪ねられたりしたが、一度だけ酒を振る舞ったらたいそう意気投合して、色紙に榛名湖の絵を描いてくれたそうだ。/酒好きの牧野虎雄さんのところは勿論訪ねて杯を酌み交わした仲だったろう。(カッコ内引用者註)
  
 下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!まで、およそ東西の道のりで200m強。文中に登場している画家たちのアトリエは、下落合732番地の片多アトリエに下落合604番地の牧野虎雄アトリエClick!と、この東西の道沿いの両側に点在していた。また、片多とは西ヶ原以来のつき合いである帝展の江藤純平Click!長野新一Click!も、それぞれ下落合1599番地と下落合1542番地の第三府営住宅Click!内にアトリエをかまえていた。
 鈴木良三が「九条武子夫人の住居」と勘ちがいしているのは、下落合595番地の田中浪江邸(一時期は本田宗一郎邸Click!、現在の下落合公園Click!の敷地)のことで、住民が女性だったことから誤記憶につながったものだろうか。
落合町誌片多徳郎1932.jpg
片多徳郎「春畝」1932.jpg
片多徳郎「自画像」1926.jpg 片多徳郎「自画像」1929.jpg
 さて、『風景』の画面を観察すると、家々や樹木に当たる光線と陰影の具合から右手が南か、または右寄りの奥が南東のように感じられる。手前は、平地に近いなだらかな斜面のように見え、傾斜は左から右へ微かに下っているようだ。画面中央から左手にかけては、明らかにバッケと思われる崖線が連なっており、手前に描かれた微妙な傾斜の様子を勘案すると、左手が丘になっていそうな地形であることは容易に想像がつく。左手につづく崖線の下、微かな傾斜地あるいは平地のように見える土地には、なにやら住宅には見えない横長の建物が重なるように建設されている。ことに、手前の建物の屋根向こうに大きく突きでて見える、空気抜きのありそうな青い屋根などの形状は、当時の大型倉庫か工場を連想させるような規模の建物だ。
 垂直に近い崖地の下にも、家々の屋根らしいかたちがいくつか並んでいるが、こちらは通常の住宅ぐらいの大きさだろうか。この家並みに沿うようなかたちで、崖下には道路が通っていそうだ。画面全体は、樹木の葉が変色するか落ちたあとの晩秋ないしは初冬の景色のように見えるが、同作が1934年(昭和9)に描かれたものだとすると、片多徳郎は4月末には名古屋の寺で自死してしまうので、同年1~2月に制作しているのだろう。ひょっとすると、前年の秋か暮れ近くにスケッチしておいたものを、翌年になり改めて手を加えて完成させているのかもしれない。
 『風景』にはたった1点、描画場所を特定できそうな大きなヒントが描きこまれている。それは、崖上の樹間にかいま見えている、白っぽいビル状の建物だ。小さく見えるビルのような建物には、窓が規則的に並んでいるのが確認でき、屋上の片側には大きな突起物が見てとれる。画面のような擁壁のない崖地に建つ、このようなビル状の建物は、1934年(昭和9)現在の落合地域をはじめ長崎地域や高田地域を含めても、わたしが思いあたる場所は1ヶ所しか存在しない。白いビル状の建物は、崖上に開発された近衛町Click!42・43号敷地Click!にあたる、1928年(昭和3)に下落合406番地へ竣工した学習院昭和寮Click!寮棟Click!のひとつだ。
 より詳しく位置関係を規定すると、見えている寮棟は丘上から南側に張りだしている、第四寮棟ないしは第二寮棟のうちのどちらかだろう。そう規定すると、手前に見えている赤い屋根の建物は石倉商会の包帯材料工場であり、その向こう側に見えている横長の青い屋根や大きな建築群は、甲斐産商店(大黒葡萄酒)Click!の壜詰め工場や倉庫、あるいは事務所の建物群である可能性が高い。画面手前が少し高まって見えるのは、近衛町のある丘から張りだした等高線が、まるで半島か岬のように崖下まで舌先を伸ばしているからで、崖下に沿うように通っている雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)も、この時期にはいまだ切通し状の場所が、いくつか残っていたかもしれない。
片多徳郎「風景」拡大.jpg
「風景」描画位置1936.jpg
「風景」描画位置1933.jpg
 おそらく、片多徳郎はこの場所を下落合に住んでいたころから、近所の散策などでよく知っていただろう。彼は転居してきたばかりの長崎のアトリエから、画道具と小さな板切れを持って目白通りをわたった。下落合側に入ると、いずれかの坂道を下り、目白崖線の麓に沿って鎌倉期に拓かれた雑司ヶ谷道へと出ると、東に向かって歩いている。下落合氷川社Click!から相馬孟胤邸Click!のある御留山Click!をすぎると、崖上の色づいた樹間から白亜の学習院昭和寮Click!が見えてくる。高い建物が存在しなかった当時、丘上の寮棟Click!はかなり目立っただろう。
 工場の建屋の向こう側、画面右手には山手線の線路土手Click!が斜めに望見できてもよさそうな位置だが、あえて省略されたのか、あるいは昭和期に入ると工場や倉庫などの建物の陰で実際に見えにくくなったのかは不明だ。片多徳郎がイーゼルを立てたのは、雑司ヶ谷道の南側で下落合45番地あたりの敷地だ。この敷地は、もともと山本螺旋(ねじ)合名会社伸銅部工場が建っていたところだが、昭和初期の金融恐慌あるいは大恐慌で倒産したのか1934年(昭和9)現在は更地になっていたとみられる。(1936年の空中写真でも、更地のままに見える) この敷地の南側にあったのが、昭和初期の地図類に採取されている硝子活字工業社目白研究所ということになる。
 さて、同空き地にイーゼルをすえた片多徳郎は、近衛町42・43号の崖地が大きく左手に入るアングル、北東の方角を向いて画面に向かいはじめた。学習院昭和寮の南側を囲む、背の高い樹木の間から寮棟の3階から上の部分がのぞいている。おそらく、完全にアルコール依存症になった最晩年のことだから、ポケットの中には日本酒の入った小壜か、ポケットウィスキーが入っていたかもしれない。彼は、それをときどきグビッとあおりながら、少し震える筆先で風景を写しとっていったような気がする。ひょっとすると、ときおりなんらかの幻覚でも見えていたのかもしれない。
 指先の震えをカバーするためか、筆づかいは風景を大胆に大づかみにして切りとり、局所的で微細な描写は避けているように見える。従来の作品にみられる、厚塗りで繊細な筆致とはかなり異なるマチエールで、どことなく投げやりな筆づかいさえ感じとれる仕上がりだ。画面を綿密に仕上げる根気が奪われているのは、もちろん身体から抜けきらないアルコールと、この時期に陥っていた精神状態のせいだろう。これまでの片多徳郎とは、かなり異なる別人のようなタブロー画面となっている。
学習院昭和寮寮名.jpg
学習院昭和寮崖地.JPG
学習院昭和寮解体.jpg
 それでも、制作をつづけようとする意欲は残っていたらしく、長崎地域から下落合の近衛町下の工業地まで、最短で往復3km強の道のりを画道具を抱えてやってきている。絶作となる『風景』の出来が不本意だったのか、あるいはなんらかの別の要因から絶望のスイッチが入ってしまったものか、このあと片多徳郎は数ヶ月しか生きなかった。

◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に掲載された片多徳郎。は、1932年(昭和7)に制作された片多徳郎『春畝』。は、1926年(大正15/)と1929年(昭和4/)に制作された片多徳郎『自画像』。
◆写真中下は、『風景』に描かれた崖上の拡大。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『風景』の描画ポイント。は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町に建つ学習院昭和寮。右下には甲斐産商店の工場が見え、点線は片多徳郎の描画方向。
◆写真下は、空襲で工場街が焼けた1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。は、現在の学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の崖地。は、集合住宅の建設のために解体中の学習院昭和寮(現・日立目白クラブの寮棟)でGoogle Earthより。
片多徳郎アトリエ1932.jpg
片多徳郎アトリエ1947.jpg
長崎地図1933.jpg

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