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武者小路実篤邸は坂道のどっち? [気になる下落合]

 下落合における武者小路実篤邸は、第二文化村の南端にあったことは知られているが、ずいぶん前から邸の写真を探していた。1929年(昭和4)4月から、わずかな期間しか住んでいなかったので、写真は絶望的だと思っていた。武者小路邸のことは、目白文化村Click!について書いていたころにも触れているけれど、住んでいた家の写真を見つけることができなかった。
 下落合1731番地、これが武者小路邸のあった住所だ。この場所が第二文化村の中でも、もっとも早くから家を建てられたA邸Click!の斜向かいだとうかがい、記事中Click!にもそのように書いた。地元の伝承を最優先したいわたしは、いまでもそう思っているのだけれど、ここにもうひとつやっかいな課題がある。第二文化村が造成されたとき、この南へと向かう坂道は下落合1731番地の敷地を、ちょうど真っ二つに割るように貫通しているからだ。
 武者小路が住んだ、まさに1929年(昭和4)現在の地図を見ると、道の両側に1731番地が存在しているのがわかる。「A邸の斜向かいにあった」という証言とも矛盾しないのだが、のちに東側の地番変更が行われた。この坂道の西側=A邸がある側の、少し坂下の地番は1731番地のままなのだけれど、坂道の東側、つまり武者小路邸があったとされる斜向かいの一帯が、1736~1737番地へと変更されている。この地番変更は、武者小路が住んでいた時期には行われておらず、1935年(昭和10)の地図でも東側は1731番地のままなので、変更はそれ以降ということになる。だから、坂道のどちら側にあったかを証明するキメ手にはならない。

 武者小路が下落合の邸前に立つ写真を、ある方がわざわざ探し出してくださった。1955年(昭和30)に筑摩書房から出た、『武者小路実篤』(亀井勝一郎・解説)に掲載された写真だ。これを見る限りでは、坂道の東側とも西側ともわからない。光線の当り方を見ても、午前と午後には道の両側でこのような日照が見られただろう。なんとなく、構図が写真の左手から右手へ下がっているようにも見えるが、それだけの印象ではなんともいえない。また、武者小路が立っている下に、道へと降りる階段があるかどうかもわからない。建物の形状は日本家屋ではなく、当時の概念でいえば西洋館、ないしは裏側に和風の建物が付随していれば和洋折衷のデザインということになるだろう。
 もうひとつ、坂道の東側にあったとする証言に対して“不利”なことがある。この写真からうかがえる建物の形状が、1938年(昭和13)現在の詳細な750分の1「火保図/淀橋区No.81」では、坂道の東側には見あたらない・・・ということだ。この750分の1の詳細図は、住宅の形状までが1軒1軒描きこまれている。むしろ、西側のA邸の坂下(南)に、それらしい住宅の形状を見つけることができる。この地図では、坂の東側にあった1731番地は、すでに1736~1737番地へと変更されたあとだ。でも、この詳細図は武者小路がここに住んでから、10年近くの歳月が経過しているので、家々がどのように建て替えられているか、あるいは新築または増改築されているかがわからない。
 
 昔からの友人だった岸田劉生Click!が死ぬ1ヶ月ほど前、1929年(昭和4)11月に下落合の自宅を引き払って、武者小路はせわしなく祖師ヶ谷441番地へと転居している。この年の暮れから、彼は神田前猿楽町で美術店「日向堂」の経営を始めているが、頻繁に引っ越しを繰り返すこの時期、借金取りにでも追われていたのだろうか?
 第二文化村界隈をめぐる、居住地の不可思議なテーマに安倍能成の住まいがある。わたしもうっかりしていたのだけれど、安倍家の本宅が1960年代まで第二文化村にあったことは、1階のピアノを弾かせてもらいに通われていた方の証言で間違いないが、一時期(1950年代)、近くに仕事場でも借りていたのだろうか? このテーマについては、また改めて後日に・・・。

コメント蘭でナカムラさんより、目白学園創立60周年を記念して出版された、目白学園女子短期大学国語国文科研究室・著の『落合文士村』(双文社出版/1984年)の中に、下落合1731番地の武者小路邸は山路益三邸の隣りだったという記述があるのをご指摘いただいた。111ページの「六.ふたりの尾崎」の章のはじめだ。出典は不明だけれど、この記述が確かだとすると、上記の「火保図」で坂の西側に近似の建物として赤丸をつけた家屋こそが、当時の武者小路邸だと思われる。その左側にある、2棟ならんで建物が見えている敷地が山路邸。

■写真上:武者小路邸は、この坂道のどちら側に建っていたのだろうか?
■写真中:下落合1731番地にあった自邸前にたたずむ、1929年(昭和4)の武者小路実篤。
■写真下は、1929年(昭和4)の「豊多摩郡落合町全図」。坂道の両側に、下落合1731番地が分割されているのがわかる。は、1938年(昭和13)に作成された750分の1「火保図」。すでに坂の東側は1736~1737番地へ変更されている。赤丸の建物が、写真の武者小路邸とよく似ているが詳細は不明だ。


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ChinchikoPapa

Qちゃんさん、nice!をありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2007-04-14 21:10) 

Nylaicanai

わたしはてっきり、坂の上に立って右側にあったのだろうと思っていました。
番地が分かれていたとは……。
Chinchiko Papaさん、よくぞ見つけられたものです!

思い込みはいけませんね(^^ゞ
by Nylaicanai (2007-04-15 11:08) 

ChinchikoPapa

わたしは逆に、ご近所の方の証言から、坂上から見て地番変更前の左側だとばかり思ってました。(笑) でも、1938年(昭和13)の地図でご覧のように、それらしい建物と門口が存在しないんですよね。
でも、このころの住宅の建て方は、建築様式や生活スタイルの変化が急激だったせいもあるのでしょうが、住民が変わると築数年そこそこの真新しい家でも、平気で壊して次の家を建ててしまう・・・ということが恒常的にあったようですので、はっきりしたことは言えないんです。
by ChinchikoPapa (2007-04-15 11:44) 

ナカムラ

武者小路実篤邸の地番は道に分断されているのは知っておりましたが、どちら側にあったものかと考えたことはありませんでした。私も昭和4年の地図を片手に文学散歩をしますので、改めて地図をみながら考えました。何をみたかは定かでないのですが、昭和4年春の引越しで「山路益三のとなり邸に移った」とのコメントがあったように記憶しています。山路邸は下落合事情明細図に1730と地番が付記されているので、昭和4年地図との間で地番変更がなければ道の西側の1731番地と背中あわせの隣になります。このことから私は西側だと考えますがいかがでしょうか。
by ナカムラ (2007-04-15 22:35) 

ChinchikoPapa

貴重な情報を、ありがとうございます。
もし、ご覧になった資料を思い出されましたら、ぜひご教示ください。わたしのほうも、もう少しこのテーマを追いかけてみます。
もし、山路邸の隣りということであれば、久保邸あるいは元・久保邸跡の敷地に建てられた新たな住宅・・・ということになりますね。
by ChinchikoPapa (2007-04-15 23:34) 

ナカムラ

山路益三のとなり邸の件、改めて確認しましたら目白大学の『落合文士村』の111ページでした。なので、当時の作家が書いた文章に私がじかに確認した内容ではありませんでした。その部分は「実篤が下落合一七三一番地、すなわち山路益三の隣り邸に移った四年の春からのことだった。以来、二宮尊徳や日蓮などの伝記物で、実篤は激しい時勢をしのいできた。」とありました。前後からは実篤自身が「僕の失業時代」という文章でこのようなことを書いているように読める部分ではありますが、原本の確認はできていません。
by ナカムラ (2007-04-18 00:58) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、わざわざお調べいただきありがとうございました。・・・と、わたしも『落合文士村』は手元にあり、随分前に読んでいたりして。(爆!) すっかり忘れていました。(^^ゞ 帰りましたら、さっそく確認しています。
『落合文士村』は、ほとんどが“落合ソビエト”物語の印象が強かったせいか、細かな精査を怠っています。もう一度、精読しなければなりませんね。ほんとうにありがとうございました。おそらく、この記事の赤丸で囲んだ家が、武者小路邸となりますね。明日にでも、確認・修正記事を上げたいと思います。
by ChinchikoPapa (2007-04-19 12:37) 

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