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1962年(昭和37)の新宿区勢要覧。 [気になる下落合]

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 1955年(昭和30)に出版された、いちばん最初の『新宿区史』Click!(新宿区役所)の以前に記録された新宿区全体の情報はめずらしく、先に1954年(昭和29)に発行された『新宿区勢要覧』Click!をご紹介していた。今回は、それから8年後の1962年(昭和37)に発行された『新宿区勢要覧』と、同冊子に添付された1962年(昭和37)発行の「新宿区広報」4月20日号をご紹介したい。
 なぜ、1962年(昭和37)の新宿区が気になったかというと、新宿は1960年代の後半から「若者の街」あるいは「副都心」として注目を集めはじめ、1970年代前半には淀橋浄水場Click!の跡地を中心に新宿駅西口の再開発が進捗して、街全体が「副都心」あるいは「新都心」と呼ばれはじめている。ところが1960年代前半の新宿区は、いまだそれほど目立たず「武蔵野」あるいは「郊外」のイメージを払拭しきれておらず、旧・市街地からは相変わらず東京近郊のように見えていただろう。
 そんな地味だった時代の新宿区について、1962年(昭和37)発行の『新宿区勢要覧』は、当時の様子を具体的な数値データなどとともに教えてくれる格好の資料だ。『新宿区勢要覧』(昭和37年版)の冒頭、新宿区の概況から引用してみよう。
  
 本区は、昭和22年3月15日旧四谷、牛込、淀橋の三区を統合して創設され、本年3月で、15周年を迎えることとなった。面積18.04平方キロメートル、人口41万3千人を有しほぼ都の中心部に位(ママ:位置)している。新宿駅を中心とする周辺は江戸時代の「内藤新宿」といわれ、甲州・青梅の両街道の追分にある宿場として交通の要衝にあたったところであり昭和初期頃は、まだ東京市の西郊に過ぎなかったが、今日では、新宿駅は、東京駅、上野駅と並んで、国鉄環状線(山手線)にある3大駅として、東京駅とともに全国第1位の混雑を極めており、かつ都外数県に通ずる国鉄の大動脈である中央線の発着駅である。従ってこの周辺は、都の内外に通ずる西玄関として重要な地点となっている。国鉄、私鉄、地下鉄、都電、バス等のあらゆる交通機関集まり、いよいよ都の新たな中心地と目されるに至っている。国鉄新宿駅も時勢の進展に伴い狭隘となり、昨年12月起工式を行い、地上8駅の民衆駅として大改築が行われることとなった。(カッコ内引用者註)
  
 現在の新宿区の面積は、18.23平方キロメートルとやや広めだが、区域が増えたというよりも当時と現代の測量技術のちがいで生じた誤差ではないだろうか。人口は当時のほうが圧倒的に多く、現在は34万929人(2022年2月現在)となっている。
 1962年(昭和37)の当時、国鉄の路線のみでカウントした新宿駅の1日の乗降客は約107万人と、すでに全国一の規模になっていた。また、2位は東京駅の約75万5,000人、3位は上野駅の約59万5,000人、4位は大阪駅の約56万人だった。ちなみに、現代のJRの路線のみに限った乗降客数の全国ランキング(2021年現在)は、1位が新宿駅の約223万人、2位が渋谷駅の約206万人、3位が池袋駅の約194万人、4位が横浜駅の約158万人、5位が北千住駅の約116万人、そして6位が名古屋駅の約87万人となっている。
 上掲の文章で、「都の新たな中心地」と自信満々に書いているのには、このころ大きな開発計画が始動していたからだ。1898年(明治31)以来、東京の上水道のカナメだった淀橋浄水場Click!が東村山へ移転することが決まり、その跡地(約82万平方メートル)を東京の一大ビジネスセンターとして再開発するめどが立ちつつあった。同時に、東京都が総合的な第二副都心建設の構想を発表し、新宿副都心建設公社が設立されていたからだ。
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落合地域東側1962.jpg
落合地域西側1962.jpg
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 文中にある新宿駅の大規模なリニューアル工事は、同構想の実現へ向けた計画の一部であり、また2年後に行われる予定の東京オリンピック1964に向けた整備工事の一環でもあった。また、大規模なオフィス街の建設とともに行政機関の移転も計画には含まれており、実際に東京都庁が丸ノ内から新宿駅西口へ移転してきたのは、上掲の文章から29年後の1991年(平成3)になってからのことだ。
 つづいて、『新宿区勢要覧』から住環境に関する部分を引用してみよう。
  
 区内の地勢は、四谷台、牛込台、角筈、柏木、大久保、戸塚、目白、落合の台地からなり、地盤は堅牢で高層建築物にも堪えられるので、近年高層建築物が増加しているので市街美を一変されると思われる。(ママ) 台地の間を神田上水、妙正寺川、渋谷川などが流れ、かつ、風水害も比較的に軽微なので、都内屈指の住宅地帯である。/以上のような立地的条件に恵まれた本区は、戦後15ヵ年間、道路の美化清掃、舗装、建築の指導相談を通じ、市街美の完成を目標として清潔な新宿区の発展を、また区立学校の施設の完備を図り文教地区として新宿区の育成を、中小商工業者に対しては、短期融資制度を設け、(以下略)
  
 冒頭の文章表現がおかしいが、ここに書かれている「高層建築物」は、今日にイメージするような高層建築のことではなく、せいぜい15階建てぐらいのビルを想定しているのだろう。確かに、当時に比べれば「市街美」は一変してしまったが、それを「美」と見るか「醜」と見るかは個人の主観なのでさておき、少なくとも「市街美を一変」したことによって新宿区から失われた森林や樹木=緑は、現代にいたるまで広大な面積にのぼるとみられる。同時に、それを「息苦しくて住みにくい」と感じ、新宿区から転居していった住民もまた、膨大な人数にのぼるのではないだろうか。
 ちょうど、親父たちの世代の多くが1964年(昭和39)の東京オリンピック前後に、日本橋から「もはや、人の住むとこじゃねえや」と東京西部へ転居Click!していき、1980年代には人口がほぼ半減(15万人余→8万人)したのと同じような現象を想起してしまう。現在、またしても緑地の大量伐採が新宿区を含む神宮外苑で計画されているが(もっとも計画主体は新宿区ではなく東京都だが)、ホッと一息つける閑静な場所がない地域に、人は徐々に住みたいとは思わなくなるだろう。東京都は、60年前に日本橋で踏んだ同じ轍を、新宿とその周辺域でもう一度浅はかにも踏もうとしている。街を壊される(日本橋では“町殺し”Click!と呼ばれた)地元の新宿区は、ぜひいまからでも「待った!」をかけるべきではないか。
下落合東部19620131.jpg
下落合西部19620131.jpg
上落合19620131.jpg
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 1962年(昭和37)当時は、「少高齢多子化」の時代だったので、新宿区にはものすごい勢いで学校が増えつづけていた。公私立あわせた学校の数は、大学10校、各種専門学校69校、高等学校20校、中学校23校、小学校37校、そして幼稚園が45園あった。このあと、1960年代後半から70年代にかけて、さらに増加しつづけることになる。
 新宿区も教育には注力しており、さまざまな施設や教室を整備している。中でも、幼児や小学生を対象とする「子ども科学教室」というのを、1961年(昭和36)より内藤町87番地にあった新宿文化会館(現・四谷地域センター)内に開設しており、多彩な設備や実験機器などをそろえて子どもたちを集めていた。1962年(昭和37)4月には、同教室へ新たにプラネタリウムが導入されたようで、「宇宙時代」の勉強にはピッタリだと宣伝している。
 「子ども科学教室」の様子を、同年の『新宿区勢概要』と同梱して区民に配布されたとみられる、同年の「新宿区広報」4月20日号から引用してみよう。
  
 科学時代にそくして、子どもたちが科学に親しみをもつようにとのねらいで、「子ども科学教室」=内藤町八七新宿文化会館内二階=を開設してから十ヵ月になりました。/弾丸列車、日本最大の長距離模型鉄道、強力日本一の豆機関車、よい子の人気者巨人ロボット、ロボット楽団とフランス人形楽団、天体望遠鏡や地球儀、その他電力利用の模型、各種解説模型、工作用具の備わった工作室などがあります。さらに、今度はプラネタリウムの新設、科学の進歩に応じた工作室の完備、科学の基礎がたのしく勉強できる科学講座の充実が行なわれます。/宇宙時代にふさわしい科学の勉強に役立せてください。
  
 なぜ、「科学」だの「宇宙時代」がことさら強調されたのかは、前年の1961年(昭和36)4月にソ連のガガーリン宇宙飛行士が地球の周回軌道をまわることに成功しており、にわかに「宇宙」ブームが巻き起こったからだった。
 また、子ども科学教室には、今日の鉄道マニアなら垂涎の「日本最大の長距離模型鉄道」とか、おそらく実際に走行できる機関車のミニチュアとみられる「強力日本一の豆機関車」が置かれており、子どもだけでなく大人も楽しめるようなコンセプトだったのだろう。「弾丸列車」や「巨人ロボット」などは、少年雑誌で人気が高かった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」からの影響ではないか。弾丸列車はどのようなものか想像できないが、巨大ロボットには今日の地域“ゆるキャラ”のように、人が入って操作してなければいいのだが……。
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新宿区の学校1962.jpg
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 夏休み、子どもたちが目を輝かせて巨大ロボの前に集まっていると、「……真空管いっぱい付けやがって、暑(あち)いったらねえぜ」、「ママ、いまロボットが暑いっていったよ」、「そうね、この暑さはロボットさんにもこたえるわね」、「ママ、いまロボットが気持ち悪いっていったよ」、「あら、ロボットさんもたいへんね」、「ねえママ、ロボットさんが吐きそうだって」、「そうね、ロボットさんが吐かないうちにあっちへいきましょ」。

◆写真上:新宿通り上空から西の新宿駅方面を向いて撮影した、1962年(昭和37)の「新宿区広報」4月20日号に掲載された空中写真。眼下中央の大きめなビルは新宿伊勢丹で、新宿駅西口には淀橋浄水場の濾池が見えている。
◆写真中上は、『新宿区勢要覧』(昭和37年版)が配布時に入れられていた袋(左)と、同冊子の行政関連解説ページ。は、1962年(昭和37)現在の落合地域東部(上)と西部(下)の市街図。は、交通事故の急増も大きな課題のひとつだった。
◆写真中下は、1962年(昭和37)1月31日に撮影された下落合東部(上)、下落合西部と西落合(中)、そして上落合(下)の空中写真。は、同年に新宿文化会館の「子ども科学教室」に設置された「宇宙旅行とロケット」コーナー。
◆写真下は、1962年(昭和37)の新宿区の交通情報と観光名所。は、新宿区立の小中学校および幼稚園を除いた学校一覧。は、「新宿区広報」の表紙ヘッダー。
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ぼんぼちぼちぼち

あっしは1962年に新宿の病院(日赤病院)で産まれたので
今回の記事、とても興味深く拝読しやした。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-03-12 14:59) 

ChinchikoPapa

ぼんぼちぼちぼちさん、コメントをありがとうございます。
ぼんぼちさんは、新宿のお生まれだったんですね。日赤病院は、戸山ヶ原のすぐ南側にありますので、高い建物がない当時は病院の東側に向いた窓からは、尾張徳川家下屋敷跡の「箱根山」が、よく見えていたのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2022-03-12 16:19) 

NO14Ruggerman

下落合東部の航空写真では神田川と妙正寺川の合流が
くっきりと見られ、とても懐かしいです。
合流地点の同和化学の建物に友達が住んでいて、窓から
川の流れを眺めていたんです。
妙正寺側の水流は穏やかでしたが神田川は急流で迫力が
ありましたね。
by NO14Ruggerman (2022-03-12 18:42) 

ChinchikoPapa

NO14Ruggermanさん、コメントをありがとうございます。
記事末に、両河川が落ち合う地点のクローズアップ写真を掲載しました。ご参照ください。この時期の私設橋だった滝沢橋は、いまだクルマが通れない歩行者専用の狭い橋のまま写っていますが、実際にご覧になっているのでしょうね。
そういえば、このあたりの写真をずいぶん以前に、ドラマ『バラ色の人生』とからめてご紹介したことがありました。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2018-08-18

by ChinchikoPapa (2022-03-12 19:44) 

Marigreen

東京都には是非新宿地区への町殺しに待ったをかけたいです。無暗矢鱈に自然を潰して欲しくない想いはよそ者の私も同じです。
by Marigreen (2022-03-20 17:20) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
いま問題になっているのは自然林ではなく、明治期から外苑に植えられた樹木や街路樹ですが、緑が減れば人々の憩いの場が失われるという課題以前に、それだけ気温上昇など街の環境悪化は避けられないわけで、「持続可能な環境づくり」などどこ吹く風と、1960~70年代の土建国家の焼き直しのような「開発」という名の破壊は、ぜひやめてほしいですね。おそらく、東京都の裏にはゼネコンが糸を引いているのでしょうが……。
by ChinchikoPapa (2022-03-20 21:50) 

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