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淡谷のり子の語る“生き霊”怪談。 [気になる下落合]

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 淡谷のり子Click!は、関東大震災Click!の直前まで恵比寿に住み、震災後は上落合に転居してきている。そして、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエがあった田口省吾Click!の専属モデルをつとめるために、アトリエの近くへ引っ越したのだろう、大正末から昭和初期にかけ母とともに下落合の家で暮らしていた。だが、彼女の落合地域における住所はわからず、いまもって判明していない。
 上落合の住居は見当がつかないが、下落合における淡谷のり子の住居は、おそらく田口省吾のアトリエからそれほど離れてはいない、目白通りの近くではなかったかと想定している。また、当時は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通っていたので、下落合の東寄り、目白駅の近くではなかっただろうか。ちょうど淡谷のり子が東洋音楽学校へ通っていたころ、1924年(大正13)11月に同校は神田の裏猿楽町から、高田町雑司ヶ谷(現・東京音楽大学の所在地)へと移転している。下落合の目白駅寄りであれば、同校までは直線距離でも1kmちょっととなり、ゆっくり歩いても20分ほどでたどり着ける。
 さて、落合地域での淡谷のり子の住まい探しは保留にして、今回は夏らしく再び彼女の怪談話をひろってみよう。前回は、淡谷のり子に未練を残した田口省吾の死霊Click!だったけれど、今回は彼女のもとを訪れた“生き霊”のエピソードだ。時代は、歌手としてコロムビアからデビューして、住まいを下落合から大岡山へと移し、レコードの吹きこみがスタートしていた1933~34年(昭和8~9)ごろの出来事だ。
 大岡山の家は、内風呂がついた戸建ての住宅を借りられたらしく、玄関を入るとすぐ右手に応接間があり、左手には風呂場があった。廊下を右折すれば台所で、その向かい側が茶の間となっている間取りだった。夕食を終えた午後8時ごろ、彼女と母親が茶の間で話をしているときに、それはふいに起きた。1959年(昭和34)に大法輪閣から発行された「大法輪」6月号収録の、淡谷のり子『私の幽霊ブルース』から引用してみよう。
  
 すると、玄関の方角でガランガランと、洗面器でもひっくりかえしたような音がした。「うるさいわね」と私がつぶやくと、母は、「あなたは何いってるの、何にも聞えないじゃないか」という。/それでも誰か来て物音をたてたような気がするので、玄関まで出てみたが、何でもない。部屋に帰って母と話しはじめると、「ガランガラン」が耳にひびいてしょうがない。「うるさいな、何だろう」口に出した途端、「あんたの方が、よっぽどうるさいわ」と母は逆に私を叱り、不思議そうに見つめるのだった。/「だって、誰か来ているようじゃないの?」/今度は玄関ばかりでなく、湯殿から台所まで電灯をつけて見て廻った。しかし玄関にはちゃんとカギがかかっているし、窓もちゃんと閉っている。風で洗面器がひっくりかえったとも思われないのだ。やはり人は来なかったのだな、と部屋に帰ったが、それからは、音は聞えなかった。
  
田口省吾アトリエ跡.JPG
淡谷のり子「私此頃憂鬱よ」1931.jpg
 淡谷のり子には、イブニングドレスなどの衣裳を裁縫し、無償で提供してくれる熱烈な女性ファンがいた。淡谷のり子ともよく気が合い、彼女の好みやセンスをよく理解しているのか、それらドレスなどの衣裳は淡谷も気に入って、よくコンサートなどでも着ていたようだ。その女性ファンの名前は「夏子」といい、実はこのとき、彼女は肺結核が悪化して病床で重態に陥っていた。
 間もなく、「夏子」は息を引きとるのだが、生前に彼女が付添人に語っていたという言葉を聞いて、淡谷のり子は愕然とする。同誌から、再び引用してみよう。
  
 「私はのり子さんに逢いたくてしようがないわ。私、それで、お宅に伺ったら、玄関はぴたっとしまっていて、入れないの。どこか開いてないかしらと探したら、都合よくお風呂場の窓に隙間があったので、そこから入っていったのよ。なにしろ真暗闇でしょ、私は洗面器につまずいたの。のり子さんは二度ばかりやって来て電灯をつけたのだが、とうとう逢えなかったわ。かなしいけれど、私、もう、だめね。だけど、私が死んだら誰が、一体、のり子さんのイブニング・ドレスを縫ってあげるのかしら」(中略) たとえ夏子さんの言葉がうわごとであったにせよ、私が洗面器の音を聞き、玄関、湯殿にたっていった日時と、夏子さんが訪ねて来たという日時はぴったり合っている。私は、夏子さんの、奇しき縁につらなる執念を思わずにはおられなかった。
  
 風呂場の窓の隙間から、たまたま強い風が吹きこんで、不安定な位置に置かれた洗面器が洗い場へ落ちただけじゃないの?……とか、ひょっとしていたずら好きなネコを飼ってなかった?……とか、音の原因を理性的に考えてみたくなるけれど、淡谷のり子は何度か繰り返し洗面器の落ちる音を聞いているので辻褄があわない。病床の「夏子」が、しじゅう淡谷のり子のことを気づかってばかりいたため、肉体から期せずして「幽体」が抜けだし、大岡山の淡谷邸を訪問していた……とでもいうのだろうか。
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 わたしは、おそらく幽霊は一度も見たことはないが、“生き霊”は一度経験がある。まだ若いころ、とあるビデオの編集をまかされたことがあった。それは学術関連のビデオで、以前こちらにも登場している米国H大学の教授やそのブロンド秘書Click!も登場する、長野県で行われた学術セミナーのドキュメントを撮影したものだ。テーマ曲やBGMも含め、好き勝手に編集してもいいといわれたわたしは、スタジオにこもってディレクターやエディターなどスタッフたちとともに、終電まぎわまで編集作業に没頭していた。
 ラッシュの確認から編集へと移り、家から持ちこんだJAZZの小宅珠美(fl)Click!のLPレコードでテーマやBGMを録音して、映像にかぶせる作業へと進んだところで、わたしも含めスタッフはへとへとに疲れていた。すでにスタジオへ通いはじめてから、3日はたっていただろうか。当時はPCによる手軽なデジタルビデオ編集システムなど存在せず、本格的なアナログ仕様の編集機器によるスタジオの編集ルームでの突貫作業で、日々終電を気にしながらの仕事だった。あと1日で、なんとかマザーテープが完成というフェーズだったので、おそらく4日目の午前10時ごろだったと思う。
 駅を降りたわたしは、編集スタジオへ向けて歩いていたのだが、40~50mほど前を歩くディレクターに気がついた。いつも夜が遅いので、昼近くになってからスタジオに入るディレクターだったのだが、なぜかいつもより2時間ほど早めだ。「きょうはビデオが完成予定だから、彼も張り切ってるな」…と、黒いショルダーバッグにいつものキャップをかぶった、うしろ姿を追いかけながら距離をちぢめていった。やがて、彼は編集スタジオがあるビルに入ると、わたしもそのあとを追ってビルに入った。
 スタジオに着くと、すでに映像エディターは編集機器の前でコーヒーを飲んでいたが、ディレクターの姿がない。トイレにでも寄っているのかと、しばらくエディターと雑談していたが、なかなかもどってこないので「〇〇さん(ディレクターの名前)、入ってますよね?」と確認したら、「いえ、あの人はきょうも昼ごろでしょ」という返事。「ウソでしょ?」と、ビルまでいっしょに前を歩いてきたことを話したが、エディターは不思議そうな顔をするだけだった。昼近くになり、ようやく当のディレクターがやってきたのでさっそく確認すると、今朝は11時少し前に起きて電車に乗ったので、ブランチにサンドイッチを買ってきた……などと答えた。だが、わたしが見た人物は、その身体つきや服装、挙動などを含め、まちがいなく彼だったのだ。なんだか、東京のまん真ん中でキツネにつままれたような話だが、わたしが経験した事実だ。
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 これも、「きょうで、仕事が終わる!」と気が急いた映像ディレクターの“生き霊”が、ひと足先にスタジオへ入ったものだろうか。それとも、彼のドッペルゲンガーが出現した……とでもいうのだろうか。ちなみに、くだんのディレクターはいまでもご健在だ。

◆写真上:1959年(昭和34)に撮影された、淡谷のり子のもやもやブロマイド。
◆写真中上は、長崎1832番地にあった田口省吾のアトリエ跡。は、1931年(昭和6)に初のヒット曲となった古賀政男作曲の「私此頃憂鬱よ」のコロムビアレーベル。
◆写真中下は、東京音楽大学(旧・東洋音楽学校)の雑司ヶ谷本学キャンパス。は、淡谷のり子()と『私の幽霊ブルース』収録の1959年(昭和34)に発行された「大法輪」6月号(大法輪閣/)。は、東京音楽大学近くに出没する野良ネコ。
◆写真下は、山手線・目白駅に近い下落合東部の現状。(Google Earthより) 雑司ヶ谷の東洋音楽学校に通うのに便利で、田口省吾のアトリエにもほど近い、このどこかに淡谷のり子が住んでいたはずなのだが……。は、ドキュメンタリーのテーマとBGMに使った小宅珠美(fl)のアルバム『Someday』(1982年/)と『Windows』(1984年/)。は、現代の映像スタジオ風景で当時とはまったく機器が異なる眺め。

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