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なぜ駅名と地名は乖離したがるのか。 [気になるエトセトラ]

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 先日、駅のホームで電車を待っていたら面白い……というか、愕然とする発見をした。西武新宿線の「新井薬師駅」で電車を待ちながら、駄菓子を大人買いしたあとホーム上でぼんやりしていたときのことだった。ここの駅名は「新井薬師駅」ではなく、「新井薬師前駅」が正確な名称だったのに気がついたのだ。(爆!) 帰ってから、さっそく拙サイトの13記事25ヶ所にわたる「新井薬師駅」を、「新井薬師前駅」に訂正した。
 でも、そこで気づいたことだが、勝巳商店地所部Click!が売り出した「新井薬師駅前分譲地」Click!でも、「新井薬師前駅前分譲地」ではなく同駅は「新井薬師駅」と認識されている。そうなのだ、同駅を「新井薬師駅」と認識しているのは、わたしや昭和初期の勝巳商店地所部のみに限らない。新聞に入ってくる日々の折りこみ不動産チラシでも、「新井薬師駅徒歩12分」とか「交通至便! 新井薬師駅より徒歩わずか3分」とか、同駅を「新井薬師駅」と認識している人たちが少なからず存在することに気づく。
 駅名をめぐる、このような面白い錯覚や「あれれっ?」と思うような誤解は、落合地域周辺でも多種多様なエピソードとともに伝承されている。西武池袋線の椎名町駅が、実際に江戸期から「椎名町」Click!と通称で呼ばれていた、長崎村(町)と落合村(町)にまたがる清戸道Click!沿いの街並みから、北へ500mほどズレているのは何度かここでも触れてきた。野方村(町)の江古田(えごた)地域から東北東へ800mほど離れた位置に、西武池袋線の江古田駅がある。同駅の駅名をめぐっては高田馬場駅と同様、大正期に地元からクレームでもついたものか、中野区の江古田(えごた)地域とはいちおう関係のない練馬の江古田(えこだ)駅となっている。
 山手線の目白駅Click!も、小石川村(町)目白(台)の地名位置から西へ1.2kmほどズレている。もともとは、日本鉄道が新長谷寺Click!目白不動尊Click!にちなんでつけた駅名のようなのだが、目白不動は室町末期ないしは江戸時代最初期に、足利から同寺へ勧請したといういわれがあるので、神田上水の大洗堰Click!が施工される以前、つまり江戸期に椿山東麓へ「関口」という町名が誕生する以前から、椿山一帯Click!は「目白」と呼ばれていた可能性が高い。目白駅が設置された当時、目白坂Click!の新長谷寺(目白不動)から同駅までは、直線距離で2.2kmも離れていたことになる。当時、駅が開設された高田地域では、駅名に関して「おかしい」「反対!」「なんだそりゃ?」という声は特に記録・伝承されてはいないものの、あまりの不自然な地名ちがいに徳川義親Click!がつい「高田駅と呼ばれた」……とつぶやいたのも、無理からぬような気がするのだ。
 その「高田」つながりで、ひとつ南の山手線・高田馬場(たかだのばば)駅は、設置当初から波乱ぶくみだった。山手線の駅設置請願運動の中心にいた上戸塚+諏訪町(現・高田馬場1~4丁目界隈)の町内では、具体的な駅名を地元の地名に由来する「諏訪之森」か「上戸塚」と規定して請願を展開していた。ところが、鉄道院は1910年(明治43年)に近くの史蹟である幕府練兵場の「高田馬場(たかたのばば)」を駅名にしてしまった。そのときの様子を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)から、同書では異例の皮肉たっぷりな記述より引用してみよう。
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 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが、現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアー(ママ:ユーモア)さるゝに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、上戸塚にある駅がなんで高田馬場駅なのか、意味不明で「ユモアー」だ。
 これに黙っていなかったのが、幕府の高田馬場(たかたのばば)を抱える下戸塚(現・西早稲田地域)の町内だった。同地域の「里民」たちは、鉄道院へ強力な抗議(それもかなりの)を繰り返したらしい。戸塚村民(町民)が、なんらかの運動や気に入らないことが起きると「力づく」で「手段を選ばない」のは、以前、戸塚町議会の大混乱Click!でもご紹介しているとおりだ。w
 戦前の『戸塚町誌』は、それでも筆をかなり抑えて書いているが、1970年代から地元の町会や古老などに取材して、その伝承などをていねいに書きとめている芳賀善次郎は、1983年(昭和48)に山交社から出版された『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』では、次のように書きとめている。
  
 この時戸塚町民(ママ)は駅名を「上戸塚」または「諏訪森」(ママ)と要望したが、国鉄(ママ:鉄道院)は「高田馬場」とした。それをきいた戸塚一丁目(現・西早稲田地域のこと)の住民は、馬場跡から遠く離れたこの駅にその名がつくと、馬場跡が駅の近くにあるように間違われるからと猛反対運動を起した。困った鉄道省(ママ:鉄道院)は、窮余の一策、戸塚一丁目の方は「タカタノババ」だが、この駅名は「タカダノババ」だと言いのがれをしてけりがついたという話が残っている。/山手線で、駅所在地名を駅名としないのはここだけである。(カッコ内引用者註)
  
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 江古田(えこだ)駅もそうだが、高田馬場(たかだのばば)駅も開設当時は地名・地域とはなんの関係もない(とされる)、“架空”の名称のClick!だったことがわかる。鉄道院の担当者は、まさか説明会場の鉄道院席へ踊りこんだ下戸塚の議員ないしは住民から殴り倒され、のちの町議会のような流血騒ぎになってはいないだろうが、相当きつい猛抗議(つるし上げ)を喰ったであろうことは想像にかたくない。
 芳賀善次郎は、「駅所在地名を駅名としないのはここだけ」と書いているけれど、実は「目白」と目白駅のケースでも見たとおり、山手線の駅名はそのほとんどが所在地の本来地名と駅名とがまったく一致していない。高田馬場駅のひとつ南の新大久保駅も、当初はその地名どおりの「百人町停車場」とされて地図にまで駅名が記載・印刷されていたが、のちに「新大久保停車場」と改められた。いちばん近い本来の西大久保地域からでさえ、駅まで700m以上は離れている。
 さらに南の淀橋町角筈にある新宿(しんじゅく)駅も、実際の地名では存在しない駅名だ。旧・四谷区には「新宿(しんしゅく)」の地名はあったが、内藤新宿(しんしゅく)に由来するとこじつけても、江戸期に賑わった甲州街道の内藤新宿の西端である四谷大木戸から、約1.5kmも西へ離れた位置に開設されている。新宿駅は、当初より“新駅の名称”とされていたので、それほど混乱もなくスムーズに受け入れられたようだ。
 いまや、駅名に引きずられて地名変更Click!をしてしまった事例は、下落合の中井駅Click!や高田馬場駅などを例にとるまでもなく、都内のあちこちに存在している。これにより、地域の歴史や風土、史蹟・事蹟、伝統・伝承、人々の物語など広い意味での地域文化が朦朧とモヤモヤ曖昧化し、ひいては営々と培われてきた街々のアイデンティティが東京から棄損され失われていくのは、なんとも惜しくまた切ないことだ。
 近々、高輪に設置される山手線の新駅は、その地名どおりに「高輪駅」になるはずだった。ところが、「高輪ゲートウェイ駅」というわけのわからない駅名になったと聞いている。ICT用語では、GW(ゲートウェイ)ないしはCGW(コネクティッド・ゲートウェイ)は頻繁につかわれる用語だが、なんとなく「現代風」で「グローバル感」があり、「未来志向」で「カッコいい」からという理由で採用したのだろうか? 山手線のネットワーク以外に、いったいどことどこをつなげる“手順”からGWなのだろう?
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 田町駅と品川駅の間にポツンと設置された同駅は、GWはおろかノードにもネットワークスイッチにも、ルータにも、ハブにさえなってやしないじゃないか。ちゃんと、用語の意味を理解して命名しているのだろうか? 「高輪ゲートウェイ駅」などと名づけても、利用者からは「高輪駅」としか呼ばれないのが、いまから目に見えるようだ。

◆写真上「マジですか」Click!と絶句してしまった、新井薬師前駅のネームプレート。
◆写真中上は、新聞の不動産チラシでは当たり前のように使われている「新井薬師駅」。は、1914年(大正3)の大久保町市街図にみる設置当初の「百人町停車場」。は、戦後に目白不動が遷座した金乗院の境内に残る鍔塚Click!。茎櫃が小さく小柄櫃に笄櫃を備えた、大刀用ないしは太刀用の丸鍔(彫りは雲龍か)だったのが判明した。
◆写真中下は、1935年(昭和10)撮影の目白貨物駅に停車する6789機関車。は、1954年(昭和29)に撮影された目白駅を通過中の貨物列車を牽引するD51。は、停車場が設置される直前の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図。.
◆写真下は、1968年(昭和43)撮影の高田馬場駅で、駅前広場の位置に見える家々は諏訪町の街並み。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅。

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上落合の村人はニホンオオカミに出会ったか? [気になる下落合]

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 肉食獣のオオカミが、塩を欲しがるという傾向は世界じゅうで記録されている。米国では、海水をなめるために山から下りたオオカミの群れが、わざわざ海岸線まで40kmも夜間移動するのが観察されている。肉食のオオカミの腸の長さは、体調の4倍ほどの長さにすぎず、雑食性のイヌに比べてかなり短い。塩分が不足気味になるのか、オオカミが塩を欲しがるのは国や地域の別なく、世界に共通する特徴のようだ。
 日本各地にも、ニホンオオカミClick!に関連して多種多様な伝承が残っている。山地では岩塩を探してなめるとか、人間がオシッコをした木の葉や土をなめるといった昔話だ。人間が弁当やオシッコなど、なんらかの「塩分」を持っているのをよく知るニホンオオカミが、それを目当てに人のあとを尾けてくるのを、オオカミに襲われそうになった……と解釈したとしても不思議ではない。
 以前の記事Click!にも書いたように、神経質で警戒心の強いニホンオオカミが人を襲ったケースはきわめて少ない。むしろ、江戸期に野犬の群れをニホンオオカミと見まちがえて、幕府や藩に「書き上げ」(報告)をしていた事例のほうが圧倒的に多そうだ。また、「ニホンオオカミ」と「ヤマイヌ」のちがいが判然とせず、山にいるイヌに似た動物はすべてニホンオオカミ=ヤマイヌと混同した可能性も高い。
 シーボルトが持ち帰り、ライデン博物館に展示されている「ニホンオオカミ」とされる動物のはく製標本(シーボルトは2種の個体を持ち帰ったが、博物館側が同一種だと安易に判断してもう1種を廃棄した)と、日本に伝わるやや大きめなニホンオオカミの毛皮のDNAが一致しない。ニホンオオカミと同様に、明治期のストリキニーネで絶滅したとされるヤマイヌ(コヨーテやジャッカルに近似する動物)のいたことが、近年の研究では指摘されている。また、江戸期の記録の多くが、ニホンオオカミとヤマイヌを混同していたフシも見える。ライデン博物館に展示されているのは、どうやらニホンオオカミではなくヤマイヌらしい……というところまで解明が進んできた。
 さて、完全な肉食獣のニホンオオカミClick!は、「塩分」を好むというテーマに話をもどそう。1993年(平成5)にさきたま出版会から刊行された柳内賢治『幻のニホンオオカミ』には、次のような伝承や逸話が紹介されている。
  
 昔の農家では、縁の下に小便溜まりがしつらえてあって、そこへオオカミが深夜小便を舐めに来たという話もある。しかし、オオカミが人間の小便を舐めるようになるのは、病気のかかり始めだという説もあるから注意を要する。/またオオカミは、神社仏閣や古い民家の床下などに発生するシラネバを好んで舐めた。シラネバとは、雨期などに湿った土の上に発生する、白がかった一種の菌ののことである。/家が焼けると味噌が焦げ、特異な臭いを発する。オオカミがそれを嗅ぎつけて集まってきたという昔話もあった。(略)/同じような話であるが、信州などにおいては、夜間味噌を入れてある蔵の戸を開けることを固く禁じてていたそうである。(略)/オオカミはそれほどまでに塩を欲しがるので、塩を携帯して道中する者がねらわれた。そういう場合昔の人は、道中必ずタバコや松明など火の気のある物を所持して行くように心掛けたものである。
  
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 上記の伝承は、おそらく江戸時代からのものとみられるので、「塩分」欲しさに集まってきたのがニホンオオカミだったのか、それともヤマイヌだったのかははっきりしない。人間をそれほど怖れていないところをみると、イヌに近い種のヤマイヌなのかもしれない。なお、シラネバは粘菌Click!の一種らしいが、どうやら地域の方言名のようなので正式な名称は不明だ。
 上落合にも、ニホンオオカミまたはヤマイヌをめぐる面白い昔話が残っている。落合地域は、江戸期から各種の「講」が盛んな土地柄だった。江戸東京では代表的な富士講Click!をはじめ、三峯講、大正講(?信仰内容が不明)、成田講、善光寺講、大師講などが昭和期まで伝えられている。成田講は千葉の成田山新勝寺へ、大師講は神奈川県の川崎大師へ参詣する講中のことだ。ほかにも、江戸期には月見岡八幡Click!の境内に勧請されていた第六天Click!にちなんだ第六天講や、山頂の阿夫利社へ参詣する大山講、道中手形が比較的容易に認可されて関西旅行ができた伊勢講などがあったかもしれない。
 この中で、三峯講をめぐる興味深い話が伝わっている。三峯講とは、もちろんニホンオオカミの一大棲息地だった埼玉県秩父の三峯社に参詣する講中のことだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した、『昔ばなし』から引用してみよう。
  
 三峯講は武州三峯神社を信仰するもので「火防せ(ひぶせ)」の神さまでした。大正の終わり頃までは、講中の人は三峯詣りに行き、神社で一晩泊りました。神社で泊っていると、夜中に「山犬」が群れをなして出て来て廊下を歩き廻ったそうです。廊下にお塩を盛っておくと、ペロペロとなめて居たそうです。この講中も昭和の初めになると、普通の参拝人のようになり日帰りでお詣りをしていましたが、戦後なくなってしまいました。
  
 話者の年齢からすると、この話を古老から聞いた時期とからめて、三峯社で「山犬」が塩をペロペロとなめていたのは、明治末から大正前期あたりのことではないかと思われる。つまり、1905年(明治38年)に絶滅したとされるニホンオオカミ(またはヤマイヌ)が、その後も秩父の山奥で生き残っていた可能性が高いということだ。文中には「廊下」と書かれているが、建物の外周をめぐる回廊のような造りの“縁側”に、秩父連山に棲息していた「山犬」たちは出没していたのかもしれない。
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 人間の気配がするにもかかわらず、平然と人家に近づいている点を考慮すれば、この動物は警戒心の強いニホンオオカミとは異なる、いわゆるヤマイヌ(ライデン博物館の標本と同一種)だったものだろうか。山に入りこんだ雑食性の野犬の群れにしては、盛り塩をペロペロなめている点が異様だ。それとも、イヌが野生化するとオオカミやヤマイヌと同様に「塩分」を欲しがるものなのだろうか。三峯講は下落合にもあったので、ひょっとすると同様の昔話がどこかに残っているかもしれない。
 日本では、過去50年間にわたり確認できない動物は「絶滅」したと規定されているが、確認し写真に撮られているにもかかわらず「それとは気づかれない」まま、「絶滅」扱いされている種もありそうだ。ニホンオオカミあるいは別種であるヤマイヌとされる動物もまた、その事例のような気がしてならない。江戸期からかろうじて生き残っているヤマイヌの写真を見ても、これは「オオカミの特徴を備えていない」とニベもない学者や専門家がいたり(コヨーテやジャッカルはオオカミの特徴を備えてはいない)、ニホンオオカミの写真が撮影されても「謎のイヌ科の動物」という当たり障りのない表現のしかたで逃げ、決して“現場”へ出かけて具体的な確認・検証をしようとはしない。
 そういえば25年ぐらい前、タヌキの家族Click!が近所のあちこちにたくさん棲んでるよと、生物学が専門の知り合いに話したら、「新宿に、タヌキが棲息できる環境はない。野犬かハクビシンの見まちがいだろう」と一蹴されたのを思いだす。「そんなこといったって、現実に目の前にいるんだってば」といっても、机上の記録や理論・規定が書かれた“紙”資料を優先する彼にしてみれば、想定の外で「ありえない」ことだったのだろう。だが、それから何年もたたないうちに、東京23区内だけで1,000頭を超えるタヌキの生息が想定されるようになった。
 既存の知識や「常識」にしがみついていては、科学(自然・社会・人文科学を問わず)は一歩も前へ進まない。仮説(問題意識)とまではいかなくとも、疑義や疑念があるのなら積極的に現場へ出向いて確認・検証を試みるのが学術的あるいは科学的な手法であり、また科学者や研究者としては最低限に必要な姿勢(思想)ではないだろうか。
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 なんだか少し脱線気味だけれど、上落合の三峯講中が秩父で遭遇した塩をなめる「山犬」たちは、ニホンオオカミだったのだろうか、それともヤマイヌだったのだろうか? いまでも秩父では、ニホンオオカミまたは近似動物の目撃情報が絶えることはない。

◆写真上:狛犬の代わりに狛狼が迎える、ニホンオオカミを奉った秩父三峰の三峯社。
◆写真中上は、大分県の祖母・傾山山中で2000年(平成12)に撮影されたイヌに近似した動物。(西田智『ニホンオオカミは生きている』のグラビアより) は、チュウゴクオオカミ。は、世界に広く分布するタイリクオオカミ。
◆写真中下は、1996年(平成8)に秩父山中で撮影されたイヌに近似する動物。(同書より) は、北米大陸のコヨーテ。は、アフリカ大陸のヨコスジジャッカル。.
◆写真下は、1849年(嘉永2)制作の国芳『為朝誉十傑』(部分)に描かれた狼。は、1861年(文久元)制作の国芳『宮本武蔵相州箱根山中狼退治』(3枚綴のうちの2枚)の狼。は、1886年(明治19)制作の芳年『月百姿 北山月 藤原統秋』(部分)の狼。いずれもニホンオオカミかヤマイヌかが不明で、実物を見ずに想像で描いていると思われる。

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淡谷のり子の語る“生き霊”怪談。 [気になる下落合]

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 淡谷のり子Click!は、関東大震災Click!の直前まで恵比寿に住み、震災後は上落合に転居してきている。そして、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエがあった田口省吾Click!の専属モデルをつとめるために、アトリエの近くへ引っ越したのだろう、大正末から昭和初期にかけ母とともに下落合の家で暮らしていた。だが、彼女の落合地域における住所はわからず、いまもって判明していない。
 上落合の住居は見当がつかないが、下落合における淡谷のり子の住居は、おそらく田口省吾のアトリエからそれほど離れてはいない、目白通りの近くではなかったかと想定している。また、当時は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通っていたので、下落合の東寄り、目白駅の近くではなかっただろうか。ちょうど淡谷のり子が東洋音楽学校へ通っていたころ、1924年(大正13)11月に同校は神田の裏猿楽町から、高田町雑司ヶ谷(現・東京音楽大学の所在地)へと移転している。下落合の目白駅寄りであれば、同校までは直線距離でも1kmちょっととなり、ゆっくり歩いても20分ほどでたどり着ける。
 さて、落合地域での淡谷のり子の住まい探しは保留にして、今回は夏らしく再び彼女の怪談話をひろってみよう。前回は、淡谷のり子に未練を残した田口省吾の死霊Click!だったけれど、今回は彼女のもとを訪れた“生き霊”のエピソードだ。時代は、歌手としてコロムビアからデビューして、住まいを下落合から大岡山へと移し、レコードの吹きこみがスタートしていた1933~34年(昭和8~9)ごろの出来事だ。
 大岡山の家は、内風呂がついた戸建ての住宅を借りられたらしく、玄関を入るとすぐ右手に応接間があり、左手には風呂場があった。廊下を右折すれば台所で、その向かい側が茶の間となっている間取りだった。夕食を終えた午後8時ごろ、彼女と母親が茶の間で話をしているときに、それはふいに起きた。1959年(昭和34)に大法輪閣から発行された「大法輪」6月号収録の、淡谷のり子『私の幽霊ブルース』から引用してみよう。
  
 すると、玄関の方角でガランガランと、洗面器でもひっくりかえしたような音がした。「うるさいわね」と私がつぶやくと、母は、「あなたは何いってるの、何にも聞えないじゃないか」という。/それでも誰か来て物音をたてたような気がするので、玄関まで出てみたが、何でもない。部屋に帰って母と話しはじめると、「ガランガラン」が耳にひびいてしょうがない。「うるさいな、何だろう」口に出した途端、「あんたの方が、よっぽどうるさいわ」と母は逆に私を叱り、不思議そうに見つめるのだった。/「だって、誰か来ているようじゃないの?」/今度は玄関ばかりでなく、湯殿から台所まで電灯をつけて見て廻った。しかし玄関にはちゃんとカギがかかっているし、窓もちゃんと閉っている。風で洗面器がひっくりかえったとも思われないのだ。やはり人は来なかったのだな、と部屋に帰ったが、それからは、音は聞えなかった。
  
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 淡谷のり子には、イブニングドレスなどの衣裳を裁縫し、無償で提供してくれる熱烈な女性ファンがいた。淡谷のり子ともよく気が合い、彼女の好みやセンスをよく理解しているのか、それらドレスなどの衣裳は淡谷も気に入って、よくコンサートなどでも着ていたようだ。その女性ファンの名前は「夏子」といい、実はこのとき、彼女は肺結核が悪化して病床で重態に陥っていた。
 間もなく、「夏子」は息を引きとるのだが、生前に彼女が付添人に語っていたという言葉を聞いて、淡谷のり子は愕然とする。同誌から、再び引用してみよう。
  
 「私はのり子さんに逢いたくてしようがないわ。私、それで、お宅に伺ったら、玄関はぴたっとしまっていて、入れないの。どこか開いてないかしらと探したら、都合よくお風呂場の窓に隙間があったので、そこから入っていったのよ。なにしろ真暗闇でしょ、私は洗面器につまずいたの。のり子さんは二度ばかりやって来て電灯をつけたのだが、とうとう逢えなかったわ。かなしいけれど、私、もう、だめね。だけど、私が死んだら誰が、一体、のり子さんのイブニング・ドレスを縫ってあげるのかしら」(中略) たとえ夏子さんの言葉がうわごとであったにせよ、私が洗面器の音を聞き、玄関、湯殿にたっていった日時と、夏子さんが訪ねて来たという日時はぴったり合っている。私は、夏子さんの、奇しき縁につらなる執念を思わずにはおられなかった。
  
 風呂場の窓の隙間から、たまたま強い風が吹きこんで、不安定な位置に置かれた洗面器が洗い場へ落ちただけじゃないの?……とか、ひょっとしていたずら好きなネコを飼ってなかった?……とか、音の原因を理性的に考えてみたくなるけれど、淡谷のり子は何度か繰り返し洗面器の落ちる音を聞いているので辻褄があわない。病床の「夏子」が、しじゅう淡谷のり子のことを気づかってばかりいたため、肉体から期せずして「幽体」が抜けだし、大岡山の淡谷邸を訪問していた……とでもいうのだろうか。
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 わたしは、おそらく幽霊は一度も見たことはないが、“生き霊”は一度経験がある。まだ若いころ、とあるビデオの編集をまかされたことがあった。それは学術関連のビデオで、以前こちらにも登場している米国H大学の教授やそのブロンド秘書Click!も登場する、長野県で行われた学術セミナーのドキュメントを撮影したものだ。テーマ曲やBGMも含め、好き勝手に編集してもいいといわれたわたしは、スタジオにこもってディレクターやエディターなどスタッフたちとともに、終電まぎわまで編集作業に没頭していた。
 ラッシュの確認から編集へと移り、家から持ちこんだJAZZの小宅珠美(fl)Click!のLPレコードでテーマやBGMを録音して、映像にかぶせる作業へと進んだところで、わたしも含めスタッフはへとへとに疲れていた。すでにスタジオへ通いはじめてから、3日はたっていただろうか。当時はPCによる手軽なデジタルビデオ編集システムなど存在せず、本格的なアナログ仕様の編集機器によるスタジオの編集ルームでの突貫作業で、日々終電を気にしながらの仕事だった。あと1日で、なんとかマザーテープが完成というフェーズだったので、おそらく4日目の午前10時ごろだったと思う。
 駅を降りたわたしは、編集スタジオへ向けて歩いていたのだが、40~50mほど前を歩くディレクターに気がついた。いつも夜が遅いので、昼近くになってからスタジオに入るディレクターだったのだが、なぜかいつもより2時間ほど早めだ。「きょうはビデオが完成予定だから、彼も張り切ってるな」…と、黒いショルダーバッグにいつものキャップをかぶった、うしろ姿を追いかけながら距離をちぢめていった。やがて、彼は編集スタジオがあるビルに入ると、わたしもそのあとを追ってビルに入った。
 スタジオに着くと、すでに映像エディターは編集機器の前でコーヒーを飲んでいたが、ディレクターの姿がない。トイレにでも寄っているのかと、しばらくエディターと雑談していたが、なかなかもどってこないので「〇〇さん(ディレクターの名前)、入ってますよね?」と確認したら、「いえ、あの人はきょうも昼ごろでしょ」という返事。「ウソでしょ?」と、ビルまでいっしょに前を歩いてきたことを話したが、エディターは不思議そうな顔をするだけだった。昼近くになり、ようやく当のディレクターがやってきたのでさっそく確認すると、今朝は11時少し前に起きて電車に乗ったので、ブランチにサンドイッチを買ってきた……などと答えた。だが、わたしが見た人物は、その身体つきや服装、挙動などを含め、まちがいなく彼だったのだ。なんだか、東京のまん真ん中でキツネにつままれたような話だが、わたしが経験した事実だ。
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 これも、「きょうで、仕事が終わる!」と気が急いた映像ディレクターの“生き霊”が、ひと足先にスタジオへ入ったものだろうか。それとも、彼のドッペルゲンガーが出現した……とでもいうのだろうか。ちなみに、くだんのディレクターはいまでもご健在だ。

◆写真上:1959年(昭和34)に撮影された、淡谷のり子のもやもやブロマイド。
◆写真中上は、長崎1832番地にあった田口省吾のアトリエ跡。は、1931年(昭和6)に初のヒット曲となった古賀政男作曲の「私此頃憂鬱よ」のコロムビアレーベル。
◆写真中下は、東京音楽大学(旧・東洋音楽学校)の雑司ヶ谷本学キャンパス。は、淡谷のり子()と『私の幽霊ブルース』収録の1959年(昭和34)に発行された「大法輪」6月号(大法輪閣/)。は、東京音楽大学近くに出没する野良ネコ。
◆写真下は、山手線・目白駅に近い下落合東部の現状。(Google Earthより) 雑司ヶ谷の東洋音楽学校に通うのに便利で、田口省吾のアトリエにもほど近い、このどこかに淡谷のり子が住んでいたはずなのだが……。は、ドキュメンタリーのテーマとBGMに使った小宅珠美(fl)のアルバム『Someday』(1982年/)と『Windows』(1984年/)。は、現代の映像スタジオ風景で当時とはまったく機器が異なる眺め。

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陸軍の地下壕が掘られた淀橋浄水場。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、戦時中に東京の市街地が、どのような組織Click!によって米軍による空襲Click!から「防衛」され、またどのような施策Click!によって空襲の被害を抑えようとしていたかを、落合地域を問わず東京各地の様子をあれこれご紹介してきた。だが、東京市内にあった社会インフラの施設や設備が、どのような方法で守られようとしていたのかには、ほとんど触れてきていない。
 そこで、落合地域も含まれる新宿エリアに明治期から設置されていた、東京の代表的な社会インフラのひとつだった淀橋浄水場Click!の防空対策について検証してみたい。同浄水場で、本格的な「水道防衛」がテーマになったのは、1942年(昭和17)4月18日のB25によるドーリットル隊初空襲Click!からだった。同空襲では、牛込区(現・新宿区の一部)の早稲田中学校のグラウンドにいた生徒が、焼夷弾の直撃を受けて即死Click!している。東京市では、浄水場と水道網をいかに防衛するかが大きな課題となった。そこで、さまざまな「防衛工事」計画が策定されている。
 だが、新宿駅西口に10万坪以上の面積がある淀橋浄水場は隠しようがなく、爆撃機が高高度で飛行してもハッキリと視認Click!できるほど目立つ施設だった。いくら地図から抹消Click!したとしても、偵察機から空中写真を撮られればすぐにバレてしまう。また、施設の構造自体もきわめて脆弱なため、防御を強化するという発想よりも偽装、すなわちカムフラージュを主体とした消極的な「防衛工事」にならざるをえなかった。1944年(昭和19)の暮れまでに、淀橋浄水場では水面の遮蔽(水田偽装)や、場内の工場をはじめとする建物の偽装(壁面迷彩)、煙突など目立つ建築物の解体などが行なわれている。
 これらの施策は、東京市水道局と軍部が淀橋浄水場をめぐる6つの課題について検討する中で、漸次決定されていったものだ。以下、6つの課題を挙げてみよう。
 (1)浄水場と敷地の幾何学的な地形をどのように変更させるか。
 (2)防護に要する膨大な資材と労力が調達可能か。
 (3)短期間に完成する見込みがあるか。
 (4)浄水作業に支障をきたさないか。
 (5)水道水に汚染その他の支障が生じないか。
 (6)風雨雪等に対する耐久性はあるか。
 これらの課題にもとづき、濾池や沈澄池を水田に見立てる工事などが開始されたが、1940年代ともなれば新宿駅の周辺は、すでに商業地の繁華街や住宅街、学校、工場などがびっしりと建ち並ぶ都会化が進んでおり、その中へいかにも不自然な水田が拡がっているようにカムフラージュしても、ほとんどまったく効果がなかった。
 「防衛工事」は、まず濾池×24面(約28,800坪)に偽装網(綿糸製9cm各目)を張り、網目には木くずやシュロの葉などを貼りつけてカムフラージュした。濾池×4面(約27,700坪)には葦簀(よしず)を張り、丸太でそれを支えるようにして偽装している。また、浄水池や敷地内の水路など約60,000坪の施設は、水田や空き地に見せかけて(少なくとも計画者のアタマの中では) 浄水場には見えないように偽装した。広い浄水場内の「防衛工事」には、数百人の学徒が毎日動員されている。
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 建物の「防衛工事」としてポンプ所と滅菌室の周囲には、爆撃時の爆風による被害を防ぐために土嚢が積まれた。浄水場から東京市内へ向けた配水幹線の上部には、直撃弾の対策として厚さ1mにもなるコンクリート製の防護遮蔽が取りつけられている。また、高い建造物は目標になりやすいということで、高さ130尺(約39m)のコンクリート煙突は解体され、場内いたるところにカムフラージュ用の樹木が植えられた。さらに、細菌類の投下による謀略戦を想定し、浄水池の通風筒を密閉する機能も追加されている。
 さて、上記のような「防衛工事」が施された淀橋浄水場だが、第2次山手空襲Click!では大きな被害が出ている。米軍はもちろん、新宿駅西口近くにある同浄水場のことは研究済みで知悉していた。1945年(昭和20)5月25日の22時3分に、東部軍管区情報として警戒警報が発令され、つづいて同日22時22分には空襲警報に変わった。約250機のB29が、おもに山手線西部の焼け残り地域を空襲し、M69集束焼夷弾と250キロ爆弾などあわせて148,700発を投下した。翌5月26日の未明にかけ、約2時間30分の空襲により山手線西側の街々は壊滅した。今日の新宿区(四谷区+牛込区+淀橋区)でいえば、この日までに全住宅地や全商工業地の約80%以上が焼け野原となった。
 5月26日の午前1時0分に空襲警報は解除されたが、淀橋浄水場では場内の建物火災は5時すぎまでつづき被害は深刻だった。火災により事務所(本部)1棟、木工所1棟、鍛冶工場1棟、原水ポンプ所3棟、硫酸ばんど注入所1棟の計332坪の建物を焼失した。また、機器設備として電動ポンプ×7基、硫酸ばんど注入設備×全部、自動車×1台を焼失している。これにより、東京市街へ給水する水道は配水量が50%にまで低下した。
 淀橋浄水場の空襲のみに限ってみれば、わずか1時間ほどの空襲で東京市の大部分にわたる水道インフラの、約50%の配水機能が喪失したことになる。水道が完全に断水しなかったのは、幸運とみるか「防衛工事」のおかげとみるかは意見の分かれるところだが、この空襲に先立つ同年3月10日の東京大空襲Click!により、淀橋浄水場系の本郷給水所(現・本郷給水所公苑)と芝給水所(現・港区スポーツセンター+芝給水所公園)が完全に破壊されている事例を考慮すれば、幸運だったといえそうだ。
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 第2次山手空襲のあとに計画された、不可解な証言も残されている。淀橋浄水場の地下にトンネルを掘り、米軍の本土上陸に備えるために極秘の部隊が配置されたという、当時、淀橋浄水場長だった方の証言だ。空襲後、「池の水面や構造物には、偽装、迷彩、防護などが施されていたし、資材や労力の不足で維持管理が行届かず、(浄水場の)機能は半減していた」ような状況で、トンネル掘りを命じられた部隊が配備されている。
 1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、小林重一『淀橋浄水場の思い出』から引用してみよう。
  
 当時、浄水場には、隊長が大尉の小部隊が駐屯していた。話に依ると、敵軍の本土上陸が予想される。上陸した敵軍は、甲州街道と青梅街道を東京に向かって進撃してくる。これを邀撃するため、浄水場の下に縦横に地下道を掘り、作戦に機動性をもたすようにする。この地下道を造るのが、駐屯部隊の仕事だ、ということであった。/甲州、青梅両街道に面している浄水場が、敵軍邀撃の好個の拠点であることは肯けたが、深い池の多い浄水場の下にトンネルを掘ることは大変な難工事である。隊にはトンネルの専門家はいないらしい。新宿駅西口広場に集積された木材は支保工になるしろものではなかった。土木屋の私には全く狂気の沙汰としか思えなかった。本気で掘る積りなら、専門家によく相談して段取りをしなさいと注意した。/勿論、隊長は掘る気でいた。そして、上官から、おまえらの墓場を掘る積りでしっかりやれ、といわれてきた、ともいっていた。
  
 当時の陸軍は、湘南海岸の中央にあたる平塚海岸に大部隊を上陸させ、馬入川(相模川)沿いに北上して八王子を攻略し、甲州街道や青梅街道を東へ進撃して東京市街地へと侵攻する米軍のコロネット作戦Click!を、その空襲の規模や傾向などから、かなり正確かつリアルに把握していた様子がうかがえる。
 実際にトンネルが掘られたのかどうかは、小林重一の証言には書かれていない。空襲から敗戦まで、いまだ3ヶ月も残す時期のことなので、新宿西口広場に集められた資材を用いて、浄水場内のいずれかの地下にトンネルが掘られていたのかもしれない。また、敗戦から20年後の証言とはいえ、当時の軍事機密に属することなので、あえて証言が控えられている可能性も考えられる。
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 あるいは、淀橋浄水場の跡地が競売にかけられているまっ最中に書かれた文章なので、地中には陸軍の地下壕が眠っているなどと書けば入札に影響が出ると考え、あえて証言を避けたのかもしれない。だが、トンネルが浄水場のどこかに掘られていたにせよ、跡地の大規模な「副都心開発」計画で、とうに破壊されているのはまちがいなさそうだ。

◆写真上:機関室の煙突がそびえていた、淀橋浄水工場が建っていたあたりの現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に陸軍によって撮影された淀橋浄水場。は、沈澄池と濾池の偽装(カムフラージュ)工事。1944年(昭和19)に工事は実施されたが、大編隊のB29による絨毯爆撃にはほとんど意味がなかった。
◆写真中下は、爆風に備え滅菌室の周囲に積まれた土嚢。は、機関室に付属する130尺(39m)コンクリート煙突の解体工事。は、1944年(昭和19)撮影の偽装工事が完了したあとの淀橋浄水場。ご覧のように、いくら網や葦簀で池の水面を遮蔽しても、上空から見れば浄水場の形状は明らかでカムフラージュの効果はほとんどなかった。
◆写真下は、1944年(昭和19)に撮影された新宿駅西口から淀橋浄水場にかけての一帯。新宿駅南口から浄水場にかけ、防火帯35号線(淀橋浄水場線)の建物疎開Click!がはじまっている。は、1945年(昭和20)5月25日夜半にB29から撮影された空襲下の新宿駅(下)と淀橋浄水場(上)。は、1971年(昭和46)に撮影された淀橋浄水場跡地で、濾池跡の東端には京王プラザホテルが建設中だ。
おまけ
下落合の森でミンミンゼミやアブラゼミ、ツクツクボウシの大合唱に混じり、めずらしくクマゼミの声を聞きました。暑い日がつづいたので、西から迷いこんだものでしょうか。

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絵の具がひっ迫する戦時下の画家たち。 [気になるエトセトラ]

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 戦時下、戦争画Click!をなかなか描かず軍部に協力的でない画家たちは、統制下におかれた絵の具の配給が満足に受けられず、油彩・水彩を問わず本格的な作品が描けないでいた。逆に戦争画を描く画家には、軍部からふんだんに絵の具や筆、キャンバスなどの画材・画道具がまわされ、画面の制作に困ることはなかった。
 戦争画を描かない画家たちは、絵の具がなかなか手に入らないため、雑誌や小説などの挿画をペン・鉛筆・墨などで描きながら、かろうじて糊口をしのぐようなありさまだった。1941年(昭和16)12月の日米開戦以来、さらに配給の厳しさが増すにつれ、秋の展覧会に向けて絵の具の欠乏を食いとめ、公平で効率的な絵の具の分配を実現しようと、1942年(昭和17)5月に上野精養軒で「美術家連盟」が結成されている。同連盟の中心となったのは、戦争画をほとんど描かない木村荘八Click!で、自宅Click!のある杉並区和田本町832番地が美術家連盟の事務局となっている。
 美術家連盟の発起委員には、辻永Click!石井柏亭Click!有島生馬Click!など40名以上のそうそうたる画家たちが名を連ねていたが、軍部に非協力的な画家たちも少なからず含まれており、上野精養軒の結成集会に呼ばれた大政翼賛会文化部陸海軍報道部の代表は、内心にがにがしく思っていたかもしれない。表面上は、軍部へ協力する作品を描きやすいよう、統制された絵の具を効率よく画家たちへ確実に配給し、より「非常時」にふさわしい作品を制作するための、戦時における画材流通基盤の確立のように謳われたのかもしれないが、制作される作品がすべて軍部の要請する「聖戦貫徹」の画面になる保証は、まったくどこにもなかったからだ。
 事実、事務局長を引き受けた木村荘八からして、そもそも春陽会や新文展への出品用に東京の風俗や風景、芝居、静物などの作品しか描こうとはせず、あとは好きな時代小説や風俗帖などの挿画を手がけるだけといったありさまで、絵の具配給の指示・統轄部局である大政翼賛会文化部陸海軍報道部には、ほとんど目に見えての「プロパガンダ・メリット」はなかったように見える。おそらく、木村荘八を含めた美術家連盟のおもな画家たちが、大政翼賛会文化部を巻きこんで絵の具の安定的な入手ルートを確保しさえすれば、あとはモチーフになにを描こうがこちらの勝手だ……とかなんとか相談して、全国の画家たちへ参加を呼びかけたのだろう。
 1942年(昭和17)の7月下旬、全国の絵の具小売店あてに、神田小川町にある東京洋画材料商業組合から、次のようなハガキがとどいた。
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 面白いのは、業界が業界なだけに「ホワイト」「メーカー」「ルート」など、日米戦がはじまっているにもかかわらず英語を自粛せず、従来どおりに多用している点だ。
 確かに、絵の具の専門色名に横文字がつかえなくなれば大混乱をきたし、そもそも画材を扱う業界は成立しえなくなってしまう。油絵の具の「ホワイト」には、メーカーにもよるが7種類前後はあるのが当たり前なので、文面の「ホワイト」がどのホワイトを指しているのかが不明だ。だが、物資不足が深刻化している戦時では、ジンクやチタニウム、シルバー、パーマネント、セラミック……などの別なく、白系統の絵の具をおしなべて「ホワイト」としていたのではないだろうか。
 とにかく、秋の展覧会へ向けた作品の制作には、ホワイト系の絵の具が絶対的に不足しており、要望を受けた美術家連盟では急遽、洋画材料商業組合と協議して、ホワイトを優先的に全国の画家たちへ配給するよう手配したものだろう。
 このハガキの内容について、1942年(昭和17)発行の「新美術」8月号に掲載されている、美術家連盟事務局の木村荘八『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 去る七月二十日付けを以つて左のやうな印刷ハガキが東京洋画材料商業組合から全国の絵具小売店へ送達された。/美術家聯盟の会員を限り臨時にホワイトを売渡す配分約束についての通牒であるが、美術家聯盟加入のものは、同時に左の購入券を受取つた。この購入券は絵具工業組合と材料商業組合及び聯盟の合議で印刷したものを(官製ハガキ)聯盟が一纏めに受取つて事務所から改めて全国の聯盟加入者に一人一通づゝ送つたものである。/一体が油絵本位の話だつたので此の購入券を見ても一言の説明さへも用ゐず、頭から油絵具に限るものとされてゐるが――聯盟会員の需要の関係から見て、それは後に、油絵具ならば一人十号チューブ二本、水彩ならば一人四本、といふことに此の同じ購入券を以つて便法風な取扱ひの出来ることを申合はせた。しかしこれは東京以外には徹底されぬ一部の便法に止どまつたかもしれない。――筆者が今この報告文章を誌すのは八月九日であるが、ホワイト購入券に依ればその現品引渡時期は八月八日以後としてあるから、もうそろそろ引渡しの手続になることだらう。
  
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 配給券=「ホワイト引替券」には、油絵の具を前提として「壱名に付十号チューブ弐本」としたが、水彩画家を考慮し水彩絵の具なら2本ではなく4本だと、急いで追加の告知をしている。でも、「新美術」8月号が店頭に並んだのは8月の中旬なので、油彩以上にホワイトを多用する水彩画家も、油絵の具と同様にチューブ2本と交換してしまったのではないかと危惧している。
 また、絵の具の原材料が稀少となり値上がりしているため、絵の具の販売価格についても触れている。戦時のため、絵の具の値段は一時的に「停止価格」(政府の統制により値上げをせず一定価格を維持すること)のまま推移していたが、原材料の高騰で改めてコストに見あった価格を設定したい、業者の要望が強まっていたと思われる。つづけて、木村荘八の『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 一方の洋画材料商業組合から各小売店に廻された通牒に依れば、「現品は公定価格発表と同時に」送るといふことになつてゐるけれども、これはまだ暫く時間の要る見込である。予めそれがわかつてゐるので、我々聯盟側は、不取敢この二本の臨時配給は公定価格発表以前であつても、品ものやその取扱上の手順さへ付いたならば成る可く早く現品引渡しの段取りとしてくれ、互ひに責任もあるし又秋を控へて需要の差し迫つてゐることでもあるからと、業者に懇談した。業者も亦首肯したのであつた。/この「公定価格の発表」といふことが外界からは説明されないとわかりにくい事情であらうが、又一つには、抑々それが凡ての「根」であつて、聯盟が受動的に絵具業者や材料商業組合とタイアップの形になつたのも誘因はそこにあれば、また、臨時ホワイト配給の今回の事も動機はそこから起つたと云へる。
  
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 先にも記したように、「新美術」8月号が書店の店頭に並んだのは早くても8月中旬、地方ではさらに遅くなったと思われるのだが、早い美術展は9月に幕を開ける。ホワイトのストックがない画家たちは、作品が完成できずかなり焦っていただろう。だが、このような配給が一般の画家たちまであるうちは、まだマシな状況だった。日本の敗色が強まるにつれ、軍部に協力的でない画家たちには絵の具はおろか画材がほとんど配給されず、闇で超高価なそれらを手に入れざるをえない時代が、すぐそこまで迫っていた。

◆写真上:敗戦時に工場が焼け残り、戦後いち早く絵の具を製造を再開した旧・長崎5丁目15番地のクサカベClick!のホワイト各種。上からチタニウム、ジンク、パーマネント。
◆写真中上は、1942年(昭和17)に発行されたホワイトの購入券(配給切符)。は、美術家連盟の役員だった木村荘八()と有島生馬()。
◆写真中下は、ホワイト配給券と同年の1942年(昭和17)制作の木村荘八『残雪』。は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!直前に制作された木村荘八『浅草元旦』。浅草が大空襲で壊滅する、2ヶ月前のにぎわいをとらえている。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された木村荘八『大鷲神社祭礼』の習作(下絵)。は、1943年(昭和18)に制作されたタブローの画面。

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「たべて見たいと思つたよ」の安倍能成。 [気になる下落合]

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 夏目漱石Click!の弟子だった松根東洋城が、1915年(大正4)に創刊した俳句誌に「渋柿」というのがある。現在も存続している創刊104年の非常に息の長い雑誌だが、安倍能成Click!は同誌に16回にわたって『下落合より』と題したエッセイを執筆している。戦時中の1942年(昭和17)の「渋柿」10月号から、1945年(昭和20)の「渋柿」2月号までの、2年半にわたる連載だった。
 1945年(昭和20)の「渋柿」4月号から、突然『駒場より』とタイトルを変更しているのは、下落合の自邸が同年4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失Click!しているからだ。その後、避難先である地域名を次々ととって、『経堂より』(同年10月号)から『代田一丁目より』(同年12月)と変わり、戦後の落ち着いたところで下落合へともどっている。『下落合より』は、すべての文章が戦時中に書かれているが、日常のさまざまな描写の間には、安倍能成の人柄や性格を知るうえで興味深い記述が多い。
 『下落合より』(全16回)は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版された安倍能成『戦中戦後』に収録された。その中に、彼の「東京郊外」観とでもいうべき文章があるので、1948年(昭和18)の『下落合より(三)』から少し長いが引用してみよう。
  
 併しそれよりも途中車の中でつくづく感じたことは、東京の郊外が大東京市になつて一層汚くなつたことである。大きなアスファルト道路、それもごく粗製のが到る処に出来て、その両側に歯の抜けたやうに家が立つて居る。粗末な洋風とも何ともつかぬ家の間に貧弱な畑が残つて居る。かと思ふと実にごたごたと猥雑に固まつた汚い商店街が横丁にある。今までは草の茂つた里川だつた所がコンクリートに固められて趣を失ひ、昔の木橋に代つてこれも粗末なコンクリートの橋がかかつて居る。(中略) 東京近郊の武蔵野の村落の好もしい風景が破壊されて、場末的な新開地的な殺風景な粗末極まる都会的風景は、まだその新開地的な性格をさへ定めるに至つて居ない。これは好んで「大」を冠したがる地方の都会に於いても皆同じであるが、東京はその点に於いて実に模範的都市である。東京がかうした破壊と粗末な生命の短い建設とをやめて、一国の首都としての充実と調和とを得るのはいつの時であらうかといふことは、空襲の災禍を覚悟せねばならぬ今日の危局の下にも、やはり考へずには居られなかつた。
  
 この文章でも、安倍能成は平然と英語(敵性語Click!)をつかっている。そして、1943年(昭和18)1月の時点で、明確に米軍による空襲の惨禍を予感している。
 同文は、知人の告別式に出席するために、池上本門寺を訪れた際の感想を書いている文章の一節だ。1932年(昭和7)に、東京15区が35区Click!「大東京市」Click!になったことで、郊外へ郊外へと拡がりつづける住宅街を、クルマで道々観察しての感想なのだろう。おそらく、安倍能成が初めて下落合に自邸を建設した大正期には、同じような風景が目白駅の周辺から下落合にかけて拡がっていたにちがいない。しかも、当時の道路は舗装などされておらず、安倍能成は靴を泥だらけにしながら第一高等学校(現・東大教養学部)へ通勤していただろう。
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 その通勤先の一高では、軍部からの圧力と生徒の主体性を尊重する教育とのはざまで、板ばさみになるような日々がつづいていた。しかも、勤労動員により劣悪な環境の工場で病死した生徒について、「名誉の奉仕報国」といわんばかりに「軍雇員」として「賜金」を給付するという軍部に対し、「誤つて死なしめた」と怒りを隠さない。1944年(昭和19)9月13日に書かれた、『下落合より(七)』から引用してみよう。
  
 十時前に登校して全校体操に立ちあふ。この頃の気候のせゐも手伝つてか、今日は非常に数が少ない。生徒の自覚に待つて居てはいけない、といふ声が周囲からはやかましい。自発性を殺さない緊張と統制との困難を思ひ、今日も少し憂鬱になる。(中略) 二時に陸軍被服廠の課長が来て、この間勤務奉仕の途中に病を得てその後なくなつた生徒を、軍雇員に命じ、殉職者としての賜金の沙汰を伝達するのに立ち合ふ。当人が無理をするほど義務心の旺盛な真面目な青年だつたことには、感心しても足りない気がするが、しかしこの好青年を誤つて死なしめた遺憾の方が遥かに大きい。当人父親から母親の悲嘆、弟の落胆の話などを聞くとこの感は愈々切である。
  
 一高の生徒たちは、「小学生じゃあるまいし、なんで朝っぱらから軍人の前で体操しなきゃならねえんだよ」と反発し、ほとんど出席しなかった様子がわかる。
 安倍能成は、日米開戦の当初から敗戦は必至と自覚しているので、軍部からの圧力を「教育の論理」でゆるゆると押し返しながら、なんとか生徒たちを守り生きのびさせようとしている様子がうかがえる。当時、軍部からの要請に対してあからさまに「やかましい」とか、勤労動員において「誤つて死なしめた」と書いて発表した文章を、公開しない個人の戦時日記レベルならともかく、わたしはほかに知らない。
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 陰に陽に軍部へ抵抗をつづけた安倍能成だが、空腹には勝てなかったようだ。以前、肖像画を描いてもらえるというので、1944年(昭和19)に安井曾太郎Click!アトリエClick!へ100回ほど通いつづけたエピソードClick!をご紹介Click!したが、それはアトリエで用意される昼食や、おやつに出される甘いもの(お菓子)が楽しみだったからだ。当時、食糧はすべて戦時配給制になり、腹いっぱい食べることはおろか、1日に三度の食事にありつけるかどうかも不安な時代だった。特に砂糖は貴重品で、安井アトリエで毎回出される甘いおやつに、食いしん坊の安倍能成はウキウキしながら通った様子が記録されている。
 空腹をかかえて原稿用紙に向かい、つい本音のラフな結びで書いてしまったユーモラスなエッセイも残っている。1944年(昭和19)12月13日の夜、夕食後に書かれたとみられる『下落合より(十五)』から引用してみよう。
  
 電車の中では本を読まぬことにして以来久しいのだが、ゴーゴリは竟にその禁を破らせてしまつた。ニ三日前にも乗合を待つて居る間に「馬車」を読み了つて、「肖像画」を三分の一ほどの所まで読みかけ、主人公の青年画家の心境に夢中になつて居る所へ、やつと江戸川行が来た。時計を見ると五十分立つて居たわけだ。ゴーゴリは天才だ。(中略) たゞ感じたことの一つには、小ロシヤなるウクライナ人は実によく喰らふ、殊に小説の中に現はれる地主階級は、自分が御馳走を喰ふことと人に喰はすこととに生存の意義を画して居るらしい、といふことがあつた。時節柄小生も彼等の午餐や晩餐によばれて、肉饅頭だとか仔豚の丸煮だとか凝乳をつけた団子だとかを、たらふくたべて見たいと思つたよ。
  
 文中の「乗合」は乗合自動車Click!=バスのことであり、「江戸川」は葛飾地域の江戸川Click!のことではなく、1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれた神田川に架かる江戸川橋Click!のことだ。安倍能成は、第二文化村から北へ歩いて目白通りへと抜け、文化村前停留所からバスに乗って都電(1943年より東京都)の走る江戸川橋へと向かっている。
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 最初は、いつものように時局への感想や身辺の出来事を、ロシア文学の作品群にからめて書くのかなと思いきや、最後には「たべて見たいと思つたよ」などとしゃべり言葉で終える、謹厳実直で学術的な安倍能成の文章もまた、わたしはほかに知らない。

◆写真上:下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)の、第二文化村にあった安倍能成邸前の三間道路。安倍邸は三間道路を突き当たった左側の角で、右側手前に見えている大谷石の縁石や築垣は石橋湛山邸Click!の敷地。
◆写真中上上左は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版され『下落合より』シリーズ計16編が収録された安倍能成『戦中戦後』。敗戦直後の物資不足で紙質が極端に悪いせいか、ページの変色や一部欠損が進んでいる。上右は、「神話」や「感情」ではなく「科学」と「論理」が教育の基盤だと映像で訴える1946年(昭和21)の安倍能成。は、内田祥三と清水幸重の設計による第一高等学校本館(現・東大教養学部)。
◆写真中下は、下落合4丁目1665番地にあった安倍能成邸跡の現状。は、晩年に住んでいた下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)の安倍能成邸跡の現状。は、東大駒場キャンパスに残る一高時代の講堂(900番教室)。
◆写真下は、同キャンパスに残る一高時代の特設高等科(101号館)。は、1966年(昭和41)3月14日発行の落合新聞に掲載された夏目漱石の記念碑除幕式での安倍能成。漱石の弟子だった安倍能成は、喜久井町夏目坂に建立された記念碑の揮毫を担当した。

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1945年4月14日のヴァイオリンソナタ。 [気になるエトセトラ]

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 さて、どちらが事実だろうか? 以前、向田邦子Click!巌本真理Click!へのインタビューで「東京大空襲の翌日」、すなわち1945年(昭和20)3月11日に日比谷公会堂でコンサートを開いたエピソードについて、1977年(昭和52)に発行された「家庭画報」2月号掲載の向田のエッセイで紹介していた。ところが、山口玲子の巌本真理へのインタビューでは、同年4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!の翌日、つまり4月14日に日比谷公会堂でコンサートが開かれたとしている。
 巌本真理の疎開(避難)先だった、祖父の家にあたる豊島区西巣鴨653~703番地(旧・西巣鴨町巣鴨庚申塚653~703番地)の巌本善治邸Click!は、東京の市街地から見れば新乃手Click!であり、3月10日の東京大空襲Click!の被害を受けにくい地域だが、同夜のB29は当初の計画エリアを爆撃し終えると、余った焼夷弾を周辺地域にも無差別に投下しているので、その余波を受けて延焼しているのではないかと推測していた。
 ところが、1984年(昭和59)に新潮社から出版された山口玲子『巌本真理 生きる意味』には、まったく異なる事実が書かれている。当時は、本郷にあった巌本邸が東京大空襲の6日前、1945年(昭和20)3月4日の局地的な空襲をうけて延焼し、巣鴨の祖父の家へ避難する経緯は同じだ。3月4日の午前8時すぎ、150機のB29が本郷から下谷(上野)地域を爆撃し、4,000戸が罹災し1,000人を超える死傷者が出ている。
 記述は、巌本一家が巣鴨庚申塚の祖父・巌本善治邸へ避難した、ほぼ1ヶ月後からはじまる。同所より、少し長いが空襲の様子を引用してみよう。
  
 一カ月後の四月十三日夜十一時から十四日未明にかけて、再び空襲を受けた。当時の新聞には、「B29百七十機来襲、爆弾焼夷弾を混用、約四時間に亙つて市街地を無差別爆撃せり」と報じられたが、早乙女勝元編『母と子でみる東京大空襲』によれば、この時の空襲は十五日まで続き、東京の西北部と京浜地帯に来襲したB29は延べ七百機、焼失家屋は二十二万戸に達したという。/この空襲によって真理の一家はまたもや焼け出された。バイオリンケース一つを抱えて防空壕にのがれた真理はそのまま、夜の明けるのを待った。その日、四月十四日、真理は日比谷公会堂で演奏することになっていた。午前九時までに消火したと新聞には発表されたが、実際はまだあちこち火がくすぶっていた。電車も止まってしまって、昼すぎになっても動かない。
 <井口(基成)さんと演奏会をやることになっていたんで、私、歩いていったんですよ。巣鴨から日比谷公会堂まで。前の晩に家焼けましてね。もう一日がかりみたいで歩いていってやっと新橋のあたりまで行ったら、向うからゾロゾロ歩いてくるんです。それでみんな、何となく私の顔を見るんですよ。なんでだろうと思いました。で、私がそのまま行ったら、その人たちもみんな私の後をゾロゾロついてくる。日比谷公会堂へ行ったら、張り紙がしてあってね、“巌本真理行方不明につき中止”って書いてある。それをはがして演奏会をやりました。ズボンをはいたままで、ずうっと歩いてきたんで足にマメができてしまって>(カッコ内引用者註)
  
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 この一文を読んで、もうカンのいい方はお気づきではないだろうか? 巌本真理は、向田邦子のインタビューで4月13日夜半の第1次山手空襲のことを、「東京大空襲」での出来事として語ってしまっているのだ。
 山手空襲に罹災した向田邦子もそうだが、東京では「東京大空襲」といえば1945年(昭和20)3月10日の、一夜にして死者・行方不明者10万人超の膨大な犠牲者を出した、おもに東京東南部の(城)下町をねらった空襲のことをさす。4月と5月の二度にわたる乃手の空襲は、「山手空襲」あるいは「山手大空襲」Click!と表現するのが祖父母の世代からの“お約束”であり、それらを「東京大空襲」とは呼ばない。地元では、空襲直後から地付きの人々の間で一般的につかわれてきている用法であり慣習だ。
 巌本真理が「東京大空襲の翌日」と答えてしまったため、向田邦子は当然、同年3月10日の東京大空襲をイメージし、その翌日の日比谷公会堂における演奏会は3月11日の出来事だという前提で、あとの記述を進めている。わたしも同様に、「東京大空襲の翌日」といえば、3月11日にちがいないので、その光景をイメージしながら記事を書いた。ところが、巌本真理は地元における「東京大空襲」と「山手大空襲」の呼称や規定を知らなかったか、あるいは東京で遭った空襲をすべてひっくるめて「東京大空襲」と大雑把に表現したものかは不明だが(近年、そのように混同し曖昧な表現をする人たちが増えている)、向田邦子の認識との間で少なからず齟齬が生じてしまったのだ。
 念のため、米軍のF13Click!が撮影した爆撃効果測定用の空中写真でも確認しておこう。1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろ、東京上空で撮影された空中写真の1枚に、遠景だがかろうじて巣鴨地域がとらえられた画面が残っている。それを見ると、どうやら同地域は空襲の被害を受けていないように見える。ところが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!の8日前、5月17日に撮影された爆撃効果測定用の空中写真を参照すると、巣鴨庚申塚界隈が焼け野原になっているのが見える。すなわち、巌本真理の避難先だった同地域は、同年4月13日夜半の第1次山手空襲で被災していることが明らかだ。
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 巌本真理が、日比谷公会堂へ徒歩で向かったのは第1次山手空襲の翌日、1945年(昭和20)4月14日(土)のことであり、東京大空襲から1ヶ月余がすぎた(城)下町界隈では、すでに余燼はくすぶってはいなかったはずだ。あちこちの焼跡には、疎開先のない地付きの人々による粗末なバラック小屋が建ちはじめていたかもしれない。だから、下町方面の人々は生きのびた幸運を噛みしめながら、いまだ食糧に飢えていたとはいえ、ヴァイオリンコンサートへ出かけてくる“余裕”が生れていたのだ。
 『巌本真理 生きる意味』には、巌本真理が生れた巣鴨庚申塚の邸についての興味深い記述もある。彼女の生家は、巌本善治が運営していた明治女学校の校舎に使われていた、真四角の西洋館だったというのだ。同書より、再び引用してみよう。
  
 (巌本真理の)住居は東京・巣鴨庚申塚の明治女学校跡にあった。かつてはこの辺り一帯、旧中山道に接してざっと五千坪あった土地が、廃校後は五百坪になっていた。内庭をかこんで三棟あり、善治は鉤の手の広い和風平屋建に住んでいた。東に隣接する二階建西洋館が、真理の両親の新居に当てられた。かつては明治女学校の教室に使われた、日本に唯一というスコットランド風の建物だったという。といっても格別の趣きはなく、殺風景な真四角の家で、一階は応接室と食堂の二部屋に、台所、風呂がつき、玄関脇の螺旋階段を上ると二階が寝室と書斎になっていた。(カッコ内引用者註)
  
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 いまに伝わる明治女学校の外観写真に、校舎の一隅だろうか正方形とみられる西洋館をとらえた写真がある。明治女学校の南西側に隣接した巌本善治邸の敷地に、部材を解体して移築したのか、あるいは床下にコロをあてがい“曳き家”をしたのかは不明だが、この建物がのちに巌本一家が暮らし、巌本真理が生まれた西洋館である可能性が高い。

◆写真上:またまた古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に。親父の遺品を整理していたら、満州までの郵便料金や航空郵便の情報などが掲載されたキング切手印紙葉書入Click!や、親父の学生時代のノート(ドイツ語)が出てきた。右端は、第5回帝展(1924年)で販売された二瓶等Click!の入選絵葉書『裸女』。
◆写真中上は、巌本真理のブロマイド()と東京藝術大学の教授時代に撮られたポートレート()。は、明治女学校の記念碑が建つ巌本善治邸の敷地跡。
◆写真中下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された巌本善治邸の敷地界隈。は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに撮影された東京市街地。(城)下町方面は焼け野原だが、乃手地域の巣鴨界隈は空襲を受けていないのが判然としている。は、第2次山手空襲(5月25日夜半)のわずか8日前=同年5月17日に撮影された巣鴨庚申塚地域。4月13日の第1次山手空襲で、すでに被爆していたのがわかる。
◆写真下は、王子電車(現・都電荒川線)の庚申塚電停。中左は、1984年(昭和59)出版の山口玲子『巌本真理 生きる意味』(新潮社)。中右は、1938年(昭和13)ごろ撮影の巌本真理。は、巌本真理の生家とみられる明治女学校時代の真四角な西洋館校舎。

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続々・ほとんど人が歩いていない鎌倉。 [気になるエトセトラ]

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 北鎌倉のアルバムの中に、住宅らしい建物がとらえられた写真が1枚が残っている。これが、わたしの母方の祖父の妹(大叔母)にあたる人物が、戦前から住んでいた自宅だろうか? わたしが幼稚園から小学校時代にかけての記憶なので(その後ほどなく彼女は亡くなっている)、住宅内部の様子やそこから見える風景などは断片的に憶えているけれど、住宅の外観というと記憶がかすんでハッキリしない。写真に収められた住宅には、明らかに躙り口のついた茶室を思わせる下屋が見えているが、その親戚の家に数寄屋がしつらえられていたかどうかも憶えていない。(冒頭写真)
 さて、前回の「続・ほとんど人が歩いていない鎌倉」Click!につづき、今回は北鎌倉の写真をご紹介したい。アルバムを見ていてまず驚くのが、当時でさえ鎌倉観光の重要スポットのはずだった円覚寺(えんがくじ)の境内に、人っ子ひとり見あたらないことだ。今日なら、鎌倉めぐりの観光バスがひっきりなしに発着し、ヘタをすると休日には横浜・東京方面からの横須賀線が北鎌倉駅へ到着するたび、山門まで行列さえできそうなほど混雑するのに、誰もいないのが信じられない風景なのだ。いや、わたしも静まり返った円覚寺とともに写っているので、当時は実際に目にしていた光景なのだろう。
 撮影のタイムスタンプがないが、わたしが小学校低学年の風貌で写っているので、おそらく以前の鎌倉写真と同様に1960年代の前半ごろの、とある日曜日ではないかと思われる。当時の土曜日は、仕事も学校も午前中のみ勤務や授業があったので、丸1日まとめて休みがとれるのは日曜日か祝日しかなかった。わたしの服装は、真冬の厚い着こみではなく、また寺々の境内では梅がほころびはじめているのが見えるので、おそらく3月中旬ぐらいの情景だろうか。
 さて、円覚寺の山門が茅葺きのままなのが懐かしい。鎌倉時代からつづく、山門へ登るすり減った階段(きざはし)は、先ごろ同寺を訪れた際には人々でごった返していたが、写真では訪れる参詣者もおらず静まり返っている。「♪建長円覚古寺の~山門高き松風に~昔の音やこもるらん~」と、唱歌『鎌倉』Click!の8番を地でいく眺めだ。いまは観光客のざわめきで、樹枝を揺らすかすかな「昔の音」などなかなか聞こえてこない。境内にある、居士林や壽徳庵、北条時宗ゆかりの開基廟(時宗廟)の前にも人はおらず、木々を透かして見る陽のあたった堂宇は、800年近い時代を超えた変わらぬ眺めなのだろう。
 きわめつけは、円覚寺の境内でもっとも混雑する観光ポイントの舎利殿だが、同殿に向かう参道にさえ人が誰もいないことだ。歴史の教科書などのグラビア写真でも紹介される、鎌倉時代を代表的する建築であり、修学旅行の生徒たちも必ず立ち寄る観光スポットなのだが、日曜日にもかかわらず人出がまったくない。おそらく、小学校低学年のわたしは、舎利殿とその周辺の風景を独り占めしたかのように拝観しているはずなのだが、まったく記憶にない。せっかく鎌倉をあちこち連れ歩いてくれた親父が聞いたら、苦笑とともに「いったい、なに観てたんだい」と深いため息を吐かれるだろう。
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 円覚寺境内の妙高池も、また北鎌倉駅前と円覚寺山門との間にある白鷺池も、人の気配がほとんどない。白鷺池のほうは駅にも近いので、商家とみられる建物が池の端に見えている。白鷺池は、現在とは異なり遊歩道のついた公園のような姿に整備されてはおらず、周囲に育った樹木や藪でうっそうとしている。
 円覚寺から、当時は簡易舗装だった国道21号線を踏み切りのある浄智寺や建長寺のほうへ歩いていけば、雨あがりならともかく晴天つづきだと、かなりの土ボコリを浴びた。クルマはほとんど通らなかったが、道路の周囲はむきだしの土面のため、風で飛ばされた土が路面に薄く積もっていた。たまに、地元の路線バスなどが走ると、その土ぼこりが舞いあがり髪や衣服について困ったのを憶えている。アルバムから、緑深い浄智寺の写真をピックアップしてみよう。
 ここで初めて観光客……というか、黒いバッグを下げたスーツ姿の学者か教師らしい人物が、「寶所在近」の扁額がかかる惣門(高麗門)の下に写りこんでいる。きっと、近くの東慶寺にある松ヶ岡文庫で仏教資料の研究をしていて、ついでに浄智寺にも立ち寄った学者か、春休みを利用してフィールドワークにやってきた歴史の教師といったところだろうか。また、独特な意匠で有名な山門(鐘楼門)の下にも人物が見えるが、こちらは手桶に花を持っているので、浄智寺の墓所へ墓参りにきた地元の人だろう。
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 アルバムのページをめくり、円覚寺の斜向かいに建立された東慶寺(かけこみ寺)の様子はどうだろうか? 東慶寺は、江戸期からかけこみ寺(縁切り寺)Click!としてことさら有名になったせいか、今日でも女性の参観客が目につくが、墓所には文化関係者の墓が多く文学ファンなどでもごった返す寺だ。同寺の墓地には、下落合ではおなじみの安倍能成Click!真杉静枝Click!をはじめ、西田幾多郎、岩波茂雄Click!和辻哲郎Click!小林秀雄Click!、高木惣吉、田村俊子、野上弥生子Click!高見順Click!、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、川田順などが眠っている。また、例によって中国や朝鮮半島の儒教思想に忠実な薩長政府が、女性の宮司(巫女)や住職を“追放”Click!したため、東慶寺は尼寺であるにもかかわらず、男の住職がつづく奇妙な状態がつづいている。
 さて、50年ほど前に撮影された東慶寺の写真を見ていくと、やはり境内には人っ子ひとり写っていない。例外は、同寺に隣接している鈴木大拙が開設した松ヶ岡文庫の利用者たちで、仏教(特に禅宗)に関する調べものが目的の専門家や研究者、男女の学生たちが、閉館間近なのか門を出る様子がとらえられている。無人の境内に比べると、同文庫だけが賑わっているのがかえって異様に見える。
 そのほか、百雲庵や龍隠庵、寿徳庵、黄梅庵、明月院、長寿寺とすべてが無人で、かろうじて建長寺の山門周辺のみ、チラホラと人物が写っている。国道21号線を外れると、道はすべて未舗装なので雨の日の散歩はやっかいだった。前日に雨が降った日など、山道のハイキングはもちろん、平地の道路もぬかるんでいるので歩きにくく、鎌倉散歩は中止になって横浜あたりで休日をすごしていたのを憶えている。
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 大叔母が暮らしていた、北鎌倉女子学園のある台山の丘上周辺が写ってないかどうか、けっこう注意してアルバムを眺めてみたのだが、それらしい情景の写真は見つからなかった。ひょっとすると、アルバムへ写真を整理する過程で、親父のフィルターにより取捨選択されているのかもしれない。北鎌倉駅の北西側は、古くからの閑静な住宅街がつづき、親父が興味を惹きそうな仏教建築や仏像がほとんど存在しないせいもあるのだろう。

◆写真上:北鎌倉の親戚らしい家だが、数寄屋のしつらえがあったかどうかは失念。
◆写真中上からへ、人っ子ひとりいない円覚寺の境内で、いまだ茅葺きの山門に居士林、壽徳庵、そして観光スポットの定番なのに誰もいない舎利殿参道。
◆写真中下の2葉は、北条時宗が開いた円覚寺の開基廟と同寺の妙高池。の3葉は、ようやく学者か研究者のような人に出会った浄智寺で、「寶所在近」扁額がかかる惣門(高麗門)と、地元の住民が墓参りでくぐるめずらしい意匠の山門(鐘楼門)、そして草叢に埋もれそうな未整備の甘露ノ井。
◆写真下は、クルマの往来もほとんどないため静まり返った北鎌倉駅前の白鷺池(円覚寺領)。の2葉は、やはり人とまったく出会わない東慶寺(かけこみ寺)の本堂や境内の階段(きざはし)。は、北鎌倉で当時は唯一人の出入りが多かった松ヶ岡文庫の閉館間際の情景。当時、同文庫の休館日は平日だったはずで(現在は火曜日)、1960年代でも日曜日には専門分野の研究者や学生たち、作家、記者などが数多く通ってきていた。

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バナナを手に出獄する神近市子。 [気になる下落合]

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 大正期の資料、たとえば秋田雨雀Click!などエスペランティストたちの記録や、竹久夢二Click!に関する数多くの書籍、新宿中村屋の相馬黒光(良)Click!に関するさまざまな資料を参照すると、神近市子Click!にピタリと寄り添うウクライナ人(ロシア人とする記述が多い)の姿が必ず登場する。1920年(大正9)9月に下落合の中村彝Click!アトリエで、彝と鶴田吾郎Click!のモデルになったワシリー・エロシェンコClick!だ。
 エロシェンコは滞日中、ただひたすら一方的に神近市子が好きだったようだ。エロシェンコを新宿中村屋に紹介したのは、東京日日新聞の記者をしていた当時の神近だった。そのころから、エロシェンコが彼女を慕っているのが、周囲の人々にもあからさまにわかるほどだったという。だが、神近市子のほうでは、特になんとも思っていなかった様子がうかがえる。エロシェンコが新宿中村屋に寄宿していたころ、彼はなにかというと秋田雨雀とともに、あるいはひとりで神近市子の家を訪ねている。この「恋の一方通行」は、エロシェンコが日本を追放されるまでつづいた。
 その様子を、間近で観察していた相馬黒光(良)は、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』の中でこんな証言をしている。
  
 神近さんとに(ママ:は)よほど親しかったようですが、私の打診では、神近女史のほうではエロさんに対して淡々としており、エロさんはなかなかそうでなかったと思います。二人が寄るとすぐ火花を散らすような激論が始まりました。ある晩などは店の表二階で二人の声があまり高すぎて、店員は喧嘩だと思って階段を登ってきたことさえありました。これは人を恋している場合、愛のやさしい語をささやく代りに、かえって反対の暴言を吐いたり、愛想づかしをいったりすることが往々あるものです。女史とエロさんの議論もその部類に属するものではなかったかと思います。
  
 神近市子Click!は、1916年(大正5)11月に大杉栄を短刀で刺して傷害事件(いわゆる葉山日蔭茶屋事件Click!)を起こし、傷害罪で懲役2年の実刑判決を受け、横浜拘置所から八王子刑務所分監へ移送されて刑に服した。
 刑期を終えた1919年(大正8)10月3日、八王子刑務所分監の門前には秋田雨雀とともにエロシェンコが出迎えにきていた。このとき、出獄直前の神近市子は着替えのセルの単衣や日用品とともに、バナナをひと房と外字新聞を最後の差し入れとして受けとっている。神近がいつも目を通していた、外字新聞(エスペラント語新聞?)を差し入れたのは秋田雨雀のような気がするが、彼女が大好物だったバナナを差し入れたのはエロシェンコではないだろうか。エロシェンコは身近にいて、神近市子の趣味や嗜好を知悉していたと思われるからだ。
 バナナがきわめて安い今日ならともかく、当時はきわめて高価なフルーツだった。日本へバナナの輸入が急増したのは1915年(大正4)ごろからだが、それでもひと房1円以上(現在の貨幣感覚で3,000円~5,000円)はしたのではないだろうか。
 神近市子が釈放される10月3日早朝、八王子刑務所の分監門前の様子を1919年(大正8)10月4日の東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 淋しい笑顔を見せつゝ神近市子出獄す
 好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ
 (前略)獄衣を茲に脱ぎ棄てゝ肌触りのよいセルの単衣に着替へた、是より先露人の盲文学者ワシーリー・エローシエンコ、秋田雨雀、当分市子を引取る麻布新広尾町一の一二一ヱハガキ屋蒼生堂宇井多方書生白土文三とが自動車で七時分監に到着したが一行は着替や日用品等を詰込んだバスケツト、それに市子が好物のバナナ、外字新聞などを携へてゐた、一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、市子は頭髪をお下げにしセルの単衣に金茶色博多の帯を締め風呂敷包みを抱へゴム草履をはいて居た、顔色は幾分蒼白であつたが頬の色も肉付きもよく左程痩せては居らぬ、清々しい面持で淋しい笑顔を見せつゝ語る『身体は幸ひ丈夫で感冒と腸加答兒を患つたが大したことはありませんでした、唯今非常に興奮して居りますから残念乍ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈で御免を蒙ります』 市子の辞を受けて秋田雨雀氏は語る『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』(後略)
  
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 記事には写真が添えられ、風呂敷に包んだバナナを抱えながら出所する、神近市子の姿がとらえられている。彼女が釈放される直前、刑務所の門前に旧知の仲である秋田雨雀とエロシェンコが迎えにきてくれたのは嬉しかっただろう。だが、それでも神近の心の内に、エロシェンコが棲みつくことはなかった。
 このあと、神近市子たち一行は、彼女を引きとって世話をしてくれ当面の住まいとなる白銀台町の中溝邸へと向かうが、その屋敷の豪華さに一同は驚いている。出所からの様子について、1972年(昭和47)に講談社から出版された『神近市子自伝』から、本人の証言を聞いてみよう。
  
 大正八年十月二日(ママ:三日)、私の刑期は終わった。事務所で書類に何か記入を命じられ、表ルームに行くと二組の迎えが来ていた。/一組は兄に頼まれた郷里の人だったが、一組は秋田雨雀氏と南方から帰って来たワシリー・エロシェンコだった。二人は明け方東京を出て、自動車で来てくれた。(中略) 私はその(中溝邸の)豪華さに度肝をぬかれた。広い玄関をはいると回り縁のついた表座敷があり、その夜は大饗宴が開かれた。お料理の見事さには、秋田氏もエロシェンコもびっくりしていた。二人は九時すぎに帰り、私だけその座敷に泊まった。(中略) この座敷には、私の友人たちや編集者が絶えずやってきた。中でも秋田雨雀氏とエロシェンコは常連であった。(カッコ内引用者註)
  
 エロシェンコについて、特に気にするような筆致では書いていない。あくまでも、彼女を支援してくれていた人々のOne of themのスタンスから、一歩も出ていなかったのがわかる。彼女の出獄を祝おうと、わざわざ早朝から八王子刑務所の門前で、好物のバナナを手して差し入れたにもかかわらず、エロシェンコは彼女の心に特別な感動をもたらすことはできなかった。
 神近市子はこのあと、堰を切ったように執筆をつづけることになるが、1921年(大正10)5月のメーデー事件にからみ、エロシェンコが国外追放処分を受けたときも、その処分取り消しを求めて奔走した相馬黒光(良)ほどには熱心に動かなかった。だが、エロシェンコはいまだ神近市子に恋い焦がれていたらしく、日本で出版した自著(叢文社『エロシェンコ創作集』1~3巻)の印税のうち、1巻ぶんのすべてを彼女に贈るよう編集者に依頼している。(相馬黒光は「全巻の印税すべてを贈る」としていたと証言している)
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 エロシェンコの神近市子への片想いは、当時の新聞種になるほど広く知られるようになっていた。エロシェンコが国外追放された6月4日から19日後、1921年(大正10)6月23日発行の読売新聞より引用してみよう。
  
 盲詩人エ氏の愁しき恋の筺/印税の一半を神近市子氏に
 (前略)然るにても恋は愁しきものよ、この漂泊の盲詩人が嘗て吾が国に滞在中、かの三角恋愛同盟に破れて世間の注目を惹いた神近市子女史と肝胆相照らし、ある時は共同生活をさへ申込んだのであつたが、それも彼女の方から断は(ママ:ら)れ、其後女史と片岡某(ママ:鈴木厚)との結婚によつて、盲詩人の彼女に対する愛情は根底から裏切られて終つた ◇けれどもエ氏は一たび己が心中に萌したその熱情をどうしても棄て去ることが出来ず、その愛情の己に還らぬ思ひ出となつた今日でも、その清い美しい思ひ出を懐しみつゝ、今度叢文閣から出版する二巻(ママ:三巻)の著書の印税中、後の一巻の分を懐しい昔の恋人神近市子女史に贈つてくれるやうに、涙と共に在京の友人に託して来たとのことである ◇女史果して之を受くるや、否や?(カッコ内引用者註)
  
 もちろん潔癖な神近市子は、このような筋の通らないカネの受領は拒否しただろう。
 神近市子の自伝では、エロシェンコの扱いはきわめて簡潔で素っ気ないが、彼が自分を好いてくれたのは知っていたらしく、最後の「あとがき」で次のように書いている。前出の『神近市子自伝』から、つづけて引用してみよう。
  
 盲人のエロシェンコが新宿から青山にある私の家まで歩いてきた日のことも、昨日のように思い出される。玄関でハタキをかけていた女中さんがその異様な姿に驚いて大声をあげたものだ。彼の作品を私が『新女苑』に紹介したのが縁で、児童雑誌から注文が押し寄せ、彼がロシヤ語で書くと、そばから早稲田の学生が訳して編集者に渡した。私は目の不自由な彼のために、外に出れば手をひいてあげたり、品物を取ってあげたりしたが、先方はそれによって愛情のようなものを感じたらしい。が、彼もそれを口には出さず、国外に退去を命じられるまで、私たちはなごやかな友情で結ばれた。
  
 わずか7行の文章だが、恋い焦がれていたエロシェンコは満足したかもしれない。
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 1952年(昭和27)に故郷のウクライナへともどり、同年12月23日にガンで死去するエロシェンコは、戦後、次々と精力的に著作を出しはじめた神近市子のことを、誰かからの風の便りで知っていただろうか? エロシェンコが死去した翌年、彼女は衆議院議員選挙に当選して政治家となり、「売春防止法」の制定に向け全力を傾けることになる。

◆写真上:1919年(大正8)10月3日早朝、風呂敷のバナナを手に出獄する神近市子。
◆写真中上は、新宿中村屋で撮影された神近市子とエロシェンコたち。は、1919年(大正8)10月4日発行の神近市子の出獄を伝える東京朝日新聞。
◆写真中下は、大正期のエスペラント大会の様子で壇上の中央にエロシェンコの姿が見える。は、ワシリー・エロシェンコ()と新聞記者時代の神近市子()。は、1921年(大正10)6月23日に発行された印税の寄贈を伝える読売新聞。
◆写真下:昭和期に入り落合地域に住んだ神近市子の旧居跡で、上落合506番地()と上落合469番地()、そして上落合1丁目476番地()。

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続・画家たちへの奇妙なアンケート調査。 [気になる下落合]

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 ずいぶん以前、1925年(大正14)の春に中央美術社Click!が実施した、画家たちへの奇妙なアンケートの記事Click!を書いたことがある。その際、村山知義Click!の回答と小出楢重Click!池部鈞Click!など一部の回答についてはご紹介していた。今回は、他の画家たちの回答も見つかったので、改めてご紹介したい。
 中央美術社が用意した画家たちへの質問は、以下の10項目だった。
 一、貴方は毎朝何時にお起きになりますか。
 二、床屋へは何日隔き若しくは何ケ月隔き位ゐに行かれますか、失礼ですが。
 三、御酒と煙草はどれくらゐ召し上りますか、序でに御愛用の品種を。
 四、御健康を保つ上に何か特別の養生法をおやりになつて居られますか。
 五、奥様をお呼びにになるのに常々どういふお言葉をお用ゐになりますか。
 六、此の世で一番憎らしいとお思ひになるものは何んですか。
 七、貴方がお得意とする隠し芸を。
 八、貴方の娯楽と道楽をお聞かせ下さい。
 九、一ケ年を通じての御制作は平均どれ位ゐになられますか。
 十、和歌、俳句、短詩、都々逸、端唄――何んでも一ツ二ツ御近作を。
 まずは下落合の596番地、牧野虎雄アトリエ(604番地)の真ん前、曾宮一念アトリエ(623番地)の斜向かいのアトリエで暮らしていた、片多徳郎Click!の回答から見てみよう。
  
 一、子共達の御蔭で八時には起きます。
 二、一ト月隔き或は二タ月隔き。
 三、酒は一日五合迄。煙草は敷島を一日に一包。
 四、麦飯を喰ふ事。
 五、『オーイオーイ』又或時は「母ちやん」。
 六、金。
 七、歯ぎしりと寝言。
 八、止むを得ず飲む酒。
 九、不定。
 十、考えた事がありませぬ。
  
 八の設問に、「止むを得ず飲む酒」と答えているのが目をひく。牧野虎雄は酒が大好きだったが、片多徳郎はそれほど好きで飲んでいたのではないのがうかがわれる。それでも、「酒は一日五合迄」と決めているのが、いまから見ればどこか痛々しい。「五合」は、決して少ない量ではないので、おそらく自制しなければ1升はすぐに飲んでしまったのではないだろうか。
 「此の世で一番憎らしい」のが「金」と答えており、常に芸術と生活とのはざまで追いつめられていった様子が透けて見えそうだ。こののち、アルコール依存症が昂じて1934年(昭和9)に家を出たまま失踪し、名古屋の寺で自裁している。
中央美術192506.jpg
片多徳郎「自画像」1932.jpg 萬鉄五郎「赤い目の自画像」1913.jpg
 つづけて、東京美術学校の5年後輩であり、目白中学校Click!の美術教師をしていた清水七太郎Click!へ、下落合にアトリエの空きがないかどうかを問い合わせしていた、茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地の萬鉄五郎Click!から寄せられた回答を見てみよう。
 このとき清水七太郎は、中村彝Click!の弟子であり下落合584番地に住んでいた、二瓶等Click!の留守アトリエを紹介している。ちょうど二瓶等Click!は、制作活動と個展開催のために故郷の北海道に帰省しており、アトリエは長期間使われないままの状態だった。萬鉄五郎は、市街地から西北に位置する郊外風景を数多く残しているので、画家の集まる下落合には親しみを感じていたのかもしれない。
  
 一、其の時のねむさ加減で朝七時から九時までに起きます。
 二、床屋で待たされるのがいやですから、バリカンで妻に短くからせます。
 三、酒は五勺まで。煙草は禁じて居ますが他出すると遂吸ひます。
 五、妻を呼ぶ時名前を呼べば差支ありませんが場合により変化することあり。
 九、大概毎日何かやつて居ますが制作の数を勘定して見た事はありません。
  
 萬鉄五郎は、病身の娘ともども茅ヶ崎で暮らす療養生活に、そろそろピリオドを打ち心機一転したかったのだろう、1926年(大正15)の夏から下落合の貸しアトリエの物件探しをはじめている。ところが、同年の暮れに16歳になった長女・登美を結核で亡くし、それが原因で大きく気落ちした面もあるのだろう、その萬自身もまた翌1927年(昭和2)5月、41歳の若さで急死している。
 二瓶等のアトリエに、萬鉄五郎が引っ越してきていたら、下落合の美術界にも大きなインパクトや変化があったのではないかと思うと、ちょっと残念だ。
 下落合に住む沖縄の画家たちClick!が、よく通っていた画塾に「同舟舎洋画研究所」があるが、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通った同画塾を主宰する小林萬吾Click!の回答を見てみよう。このとき、小林萬吾はすでに東京美術学校の教授であり、帝展審査員もつとめ作品をパリ万博へも出品していた。
片多徳郎「裏庭」1924.jpg
片多徳郎「春暖」1931.jpg
  
 一、七時から八時の間。
 二、髪の毛の五月蠅くなつた時。
 三、晩酌小量、ウエストミンスター拾五本位。
 四、便秘に注意する。
 五、さん付けにする。
 七、謡曲。
 八、音楽と旅行。
 九、平均とれず。
  
 さすがに作品も売れ、それなりに地位もおカネもある余裕の画家は、趣味が謡いClick!で英国一流の“洋モク”をふかしながら、コンサートや旅行にと生活を楽しんでいるのがわかる。夫人を「さん付け」で呼ぶのは、林武Click!幹子夫人Click!のように、性格的にかなりおっかなかったのだろうか。
 アンケートを概観すると、画家たちは朝起きる時間が案外早いことに気づく。このあたり、同じ表現者でも作家たちとは根本的にちがう点だろう。作家は真夜中でも仕事ができるが、画家たちは基本的に外光の下で仕事をするので、起床時間に双方で5~6時間ほどのズレがありそうだ。ただし、朝夕に関係なくアトリエで制作をする画家もいるし、早朝から机に向かう作家もいるので、例外がないわけではない。
 特に大正後期になると、マツダ電気や東京電気などからより自然光に近い照明器具Click!が発売され、夜でもアトリエにこもる画家がそろそろ出はじめている。また、アブストラクトな表現の画家たちは昼夜関係なく制作しているので、別に午前中に起きる必要はなかっただろう。
萬鉄五郎「戸山が原の冬」1905.jpg
萬鉄五郎「郊外風景」1918頃.jpg
二瓶等アトリエ跡.JPG
 画家たちへのアンケート結果が掲載されたのは、1925年(大正14)に発行された「中央美術」6月号だが、ほかにも下落合にゆかりのある画家たちが、同様の回答を寄せていると思われるので、また機会があれば見つけしだいご紹介してみたい。

◆写真上:下落合596番地にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。そのすぐ裏手には、1927~1930年(昭和2~5)まで村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた。
◆写真中上は、1925年(大正14)発行の「中央美術」6月号。は、自裁する2年前の1932年(昭和7)に描かれた片多徳郎『自画像』()と、1913年(大正2)制作の萬鉄五郎『赤い目の自画像』()。表現の時代が、まるで逆転しているかのようだ。
◆写真中下は、1924年(大正13)に制作された片多徳郎『裏庭』。は、1931年(昭和6)に描かれた片多徳郎『春暖』。
◆写真下は、1905年(明治38)に描かれた萬鉄五郎『戸山が原の冬』。は、1918年(大正7)ごろに制作された萬鉄五郎『郊外風景』。は、もう少し長生きしていたら萬鉄五郎が住んだかもしれない下落合584番地の二瓶等アトリエ跡。

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