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戸山ヶ原の旧・陸軍コンクリート構築物。 [気になるエトセトラ]

陸軍軍楽隊階段1.JPG
 以前、大正期から昭和初期に建てられた、下落合のコンクリート構造物Click!について書いたことがある。大正後期から、一般の住宅Click!や宅地造成でセメントClick!が多用されるようになった。おもにコンクリート塀を観察した事例が多かったが、多摩川の砂利と秩父のセメント資材Click!を運搬する、高田馬場駅の南に西武鉄道Click!が設置した建設資材・砂利置き場Click!や、大正期に同社が全面協力した村山貯水池Click!(多摩湖)の建設に用いられたコンクリート堤防Click!などを観察して記事にしている。
 今回は、旧・陸軍施設が集中し、新宿が戦前に「軍都」Click!と呼ばれるきっかけとなった、戸山ヶ原Click!について細かく観察してみたい。ただし、山手線をはさみ東西に展開していた陸軍施設Click!構造物Click!については、これまでも何度か取り上げ、素材のコンクリートが壊されたあとの残滓については、何度か記事Click!に取りあげてきているので、きょうは山手線東側の戸山ヶ原Click!に残るコンクリートの構造物について、改めて細かく観察してみたい。
 まず、明治期から設置されていた陸軍戸山学校Click!と、古くからの陸軍軍楽学校の周辺を観察してみよう。初期の陸軍戸山学校は、大正期まではのちの陸軍衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の位置から、大久保通り沿いに箱根山Click!の南東下ぐらいまで細長くつづいていた。戸山学校が、東側の敷地を陸軍衛戍病院にゆずり、大久保通りから箱根山の東側一帯へ広く、そして深く展開するのは、大正末から昭和期に入ってからのことだ。また、箱根山をはさんで戸山学校の西側に、陸軍幼年学校の校舎が建てられるのも大正末以降のことだ。
 軍楽学校と軍楽隊は混同されがちだが、軍楽学校の西側の箱根山東山麓、戸山学校敷地の北側へ、昭和初期に軍楽隊の兵舎が建設されている。また、陸軍衛戍病院の北側へ陸軍軍医学校を建設する際、戸山ヶ原の大きな谷戸が中途で埋め立てられ、衛戍病院と軍医学校の往来をしやすくしている。ちょうど、下落合の第一文化村Click!における前谷戸の追加造成Click!と同様に、谷戸の途中が土砂で埋められてしまったため、湧水源にあたる谷戸の突き当たりの谷間は、ほぼそのままの地形で残されている。現在、国立健康・栄養研究所の南側敷地が、急に凹状にへこんでいるのはそのせいだ。このあたりの土木工事は、戸山学校が西側へ移動するとともに衛戍病院が建設される、大正末から昭和初期にかけて行なわれている可能性が高い。
 さっそく、その付近のコンクリートの残滓を観察すると、戸山学校の敷地や軍楽学校、あるいは軍楽隊のあたりには、それらしい遺物をいくつか確認することができる。まず、昭和初期に建てられた将校会議室Click!(現・戸山教会)の西側には、随所に玉砂利の粒が大きいコンクリート片が散らばっている。当時は、鉄筋を支柱あるいは芯にしてコンクリートの構造物を造るよりも、多摩川の良質で大きめな玉砂利をふんだんに使い、セメントとともにそのまま固めて用いる例が少なくなかった。場所からいえば、これらの玉砂利(というか小石と表現したほうが適切な大きさだ)を用いたコンクリートの残滓は、戸山学校の校舎かその基礎、外壁、あるいは塀などに使われていたものではないだろうか。
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 その戸山学校跡から、箱根山を左まわりへ西へ歩くと、軍楽隊兵舎跡と野外音楽堂跡に出る。軍楽隊の野外音楽堂は1943年(昭和18)3月に竣工したものだが、実はそれ以前から軍楽学校の練習場として、この窪地は使用されていたのではないだろうか。なぜなら、同音楽堂へと下る階段のコンクリートが、意外に古いとみられるからだ。この階段は、表面を薄いコンクリートでコーティングされているが、その下からのぞくコンクリート階段は、やはり大粒の玉砂利が用いられていて古い仕様だ。つまり、表面を覆うコンクリートは、階段を設置するのと同時の可能性もあるが、野外音楽堂ができた際、あるいは後世に追加でコーティングされたのかもしれず、本来のコンクリート階段はその下層に塗りこめられている可能性がある。
 大正期から昭和初期にかけてのコンクリート構造物には、大粒で良質な玉砂利がふんだんに使われている。ところが、昭和に入ってしばらくすると、河川で採取できる良質な玉砂利がなかなか採れずに高騰し、セメントとともに混ぜる砂利は、より安価な小粒のものへと変わっていく。戦時中から戦後にかけてはさらに不足し、小粒の砂のような砂利が用いられるようになった。戦後は、河川の良質な砂利(小粒でさえ)を手に入れるのが困難となり、やむをえず海の砂利を用いることが多いため、塩分で内部の鉄筋が腐食しやすいという課題が浮上しているのは周知のとおりだ。
 つまり、見分け方のひとつの目安として、大粒の良質な玉砂利をふんだんに用いて、芯として鉄筋が用いられていないコンクリート構造物は年代が古く、その砂利が細かくなるほど新しい……という、たいへん大雑把なとらえ方だが、あながち的外れではない観察法ができることになる。もっとも、昭和10年代に建設された大金持ちの住宅には、良質な玉砂利が惜しげもなく使われているだろうし、経費節約のために小粒の砂利を用いた大正初期のコンクリート建築もあるので、いちがいに決めつけるわけにはいかない。そしてもうひとつ、それがなんらかの軍事施設であれば、少しぐらい経費がかさんでもコンクリートに高価な玉砂利を混ぜることには、なんら支障がなかったという事情も考慮しなければならないだろう。
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 さて、つづいて戸山学校と衛戍病院の北側一帯を見てみよう。このあたりは、昭和10年代に入ると次々に陸軍施設(おもに秘匿を要する特別施設)が建てられるエリアだ。戸山学校の北側には、陸軍中野学校Click!の統括機関である兵務局分室Click!(通称ヤマ)が設置されている。また、軍医学校の西側にある谷間には、防疫研究室や細菌研究室Click!(731部隊の本拠地)が設置されている。だが、10年ほど前に歩いて写真に収めた、戸山学校北側のコンクリートブロックを重ねた築垣が、コンクリートの新しい擁壁に変わってしまっていた。かろうじて、衛戍病院の北側に少し残されていたが、こちらの築垣は西側の箱根山までつづいていた築垣に比べやや新しそうだ。
 防疫研究室や細菌研究室と兵務局分室(ヤマ)を仕切っていたコンクリート塀はそのままだが、10年ほど前に撮影した随所に転がる大粒の玉砂利を用いたコンクリート片は、すっかり片づけられてなくなっていた。元・看護師の証言から、敗戦と同時に戸山ヶ原の随所へ埋められたとみられる人骨標本の第2次発掘調査の際に、散らばるコンクリート片を集めて廃棄したものだろうか? 衛戍病院の西側につづくコンクリート塀も、のちに補修されているとはいえ古そうだ。ただし、用いている砂利がかなり細かいため、昭和期に入ってからの建築ではないかと思われる。この塀の上には、かつて新しいコンクリートを重ねたり、新たなブロックを積み上げたりした痕跡が残っている。
 防疫研究室や細菌研究室の跡にできた、戸山公園多目的広場も歩きまわってみたかったが、あいにく少年野球の試合日でゆっくり見学することができなかった。ほかにも、戸山公園の西側、明治通りに面してつづいていた幼年学校跡にも、大正末から昭和初期とみられるコンクリート片がいまだに散在している。校舎の基礎あるいは塀、外壁などに用いられたものか大きな玉砂利が密に詰まる、たいへん贅沢な造りをしている。
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 先述した軍楽隊の野外音楽堂へ下りる階段の造りは、1922年(大正11)に橋上駅化された目白駅Click!でも見ることができる。内面は、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜて頑丈な構造にしつつ、外面にはなめらかなコンクリートを薄くコーティングして、階段を上り下りしやすいようにしている。確かに、大粒の玉砂利がのぞく階段は、蹴つまずく怖れがあって危険だし、なによりもなめらかにコーティングしたほうが見栄えがいいにちがいない。ちなみに戸山ヶ原Click!への散歩は、自宅からすべて徒歩でまわったため約10kmも歩いてしまった。緑が多いとはいえ、盛夏の戸山ヶ原Click!散歩は疲れるのだ。

◆写真上:陸軍軍楽隊の野外音楽堂に下りる、谷間の2ヶ所に設置された階段。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の戸山ヶ原東部の1/10,000地形図。は、以前に撮影していたコンクリート残滓で、戸山学校北側の擁壁(上)、防疫研究所跡に転がるコンクリートブロック(中)、防疫研究所・最近研究所と兵務局を仕切る塀(下)。は、1944年(昭和19)の敗戦直前に撮影された戸山ヶ原東部。
◆写真中下は、軍楽隊の野外音楽堂へと下りる階段の表面が剥がれた中面の様子。は、1956年(昭和31)に地元で復元された野外音楽堂(上)と、公園のまるで四阿風に変えられた現代の風情(下)。は、2枚とも戸山学校跡の周辺(箱根山の東側)に散らばる大粒の良質な玉砂利を使ったコンクリート片。
◆写真下は、陸軍衛戍病院の東側擁壁(上)と西側の塀(中)。東側の擁壁表面に貼られたコンクリートブロックの亀裂から、中面のより頑丈な擁壁がのぞいている。コンクリート建築のため空襲でも焼けず、戦後は国立第一病院としてそのまま使われつづけた陸軍第一衛戍病院。は、明治通り沿いに残る陸軍幼年学校跡のコンクリート塊。は、エレベーター工事のため解体中の目白駅階段の断面。鉄筋は使われておらず、大粒の玉砂利を使った無垢のコンクリートで、表面を小砂利混じりのセメントでなめらかにコーティングしているのは、戸山ヶ原の軍楽学校あるいは軍楽隊の階段と同じ仕様だ。
おまけ
東五反田は池田山のバッケ坂に残る、大正末の建設とみられるコンクリートの柵柱(上)と、大正期に竣工した村山貯水池(多摩湖)の高欄柱の断面(下)。
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うなぎの「天井ぬけの極高非道」。 [気になる下落合]

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 「♪ひととせを今日ぞ祭りの当たり年~警護、手古舞い華やかに~」と、親父が湯につかりながら唄いそうな清元Click!『神田祭』Click!だが、学校の授業より優先した三味Click!のおさらい会や芝居、千代田小学校Click!の授業をサボらせて円タクで見物してまわった二二六事件Click!東京市街Click!など、わたしの祖母にはつまらない学校へ通わせるよりも、優先する「実地学習イベント」がたくさんあった。
 そんな親たちを反面教師にしたせいか、親父は非常にマジメな性格の人間に育ち、謹厳実直な公務員として生涯を終えている。だが、そんな真面目で融通がきかないカタイ親に育てられたせいか、わたしは逆に軟弱な性格に育ったようだ。学生時代には、親父との議論でまず負けることはなかったが、女子との議論ではすぐ折れるという軟弱ぶりを発揮し、クラスメイトから「らしいやね」などといわれていた。
 先日、1977年(昭和52)に東京書房から出版された川口昇『うなぎ風物誌』を読んでいたら、親父が育った家庭環境にそっくりな記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。著者の川口昇は日本橋鉄砲町の出身で、うちの元・実家からは南西に1,000mほどのところだが、同書より少し引用してみよう。
  
 ある日、授業中に教室の戸があいて、私の長姉が入って来た。そして田中先生に何事か話していたあと、田中先生が「家に用事があるそうだから帰ってよろしい」といわれた。一寸てれくさかったが帰り仕度をして、姉と一緒に教室を出た。家に帰ると他所行の着物を着せられ、その中に川上といふ人力車宿から二台の車が来て家の前に止った。やがて母や姉達とその人力車に乗せられ、着いたところはニ長町の市村座だった。/「なァんだ」と子供心にも思った。それからは芝居へ連れて行かれる時は、学校へ行く前に話してくれと、その時に云ったような気がする。/当時の市村座は菊五郎、吉右エ門、三津五郎、彦三郎、勘弥、東蔵、菊次郎といった、若手芝居で人気があった。
  
 川口昇の母親と、うちの祖母がピタリと重なるような気がするのだ。学校の教師には、おそらく長姉に家族の誰かがケガをしたか病気になった……などといわせているのかもしれない。マネするのを怖れたのか、わたしには詳しく話してはくれなかったが、おそらく親父も芝居や帝劇の舞台、新作映画にと、祖母に連れ歩かれていたのではないだろうか。学校の勉強よりも、江戸東京では「常識」であり「世間並み」だった舞台や音曲に関する「教養」や「素養」のほうが、よほど大切だと感じていた世代だ。
 余談だが、わたしは母親からよく「勉強しなさい」といわれて不愉快に育ったせいか(いくらいわれても家では宿題さえせず、よく罰として学校の廊下に正座させられていた)、わたしの子どもには「勉強しろ」とは一度も口にしたことがない。子ども時代にたっぷり遊ばないと「大人になってから遊んでも面白かないぞ」とか、遊びを通じて人間関係の機微を識り多彩な経験をするから「心の引き出しがいくつもできて、多角的な視座・視点が獲得できるんだぜ」とか、いい加減なことをいっては遊ばせていたので、学校のお勉強はあまり芳しくはなかったけれど、それでもなんとか一家を構えたり、わたしが見ても「いい女」のガールフレンドを連れてこられる男たちに育っている。
 著者は、鉄砲町の蒲焼き屋「大和田」(旧・親父橋大和田)の四男として生まれており、自身は大手銀行へ就職してまったくちがう道を歩んで家業を継がなかったが、うなぎの研究では蒲焼きヲタクの間で広く知られている。うなぎと芝居のかかわりといえば、すぐに落合地域の北東隣り、目白駅の向こう側の雑司ヶ谷四ツ谷(四ツ家)町Click!を舞台にした、4世南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』が思い浮ぶ。もちろん、三幕の「砂村隠亡堀の場」に登場する直助権兵衛のうなぎ搔きだ。
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 直助権兵衛 以前は直助中頃は、藤八五父の薬売り、今は深川三角屋敷寺門前の借家住み、見世で商う代物は三文花に線香の、煙りも細き小商人、後生の種は売りながら片手仕事に殺生の、簗を伏せたり砂村の隠亡堀で鰻かき、ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛と金箔付の貧乏人さ。
 ちょっと余談だけれど、「隠亡堀の場」で民谷伊右衛門がお弓を川へ蹴り落としたあと、直助と交わすセリフで「首が飛んでも……」が、原作にないことをつい最近知った。うなぎとからめた印象的な台詞だが、同芝居が大坂(阪)で上演された際に、特に台本へ加えられたものらしい。
 直助 伊右衛門さん、なるほどお前は強悪(ごうあく)だなァ。
 伊右衛門 天井ぬけの不義非道。
 直助 働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)、どうで仕舞は身を割かれ。
 伊右衛門 首が飛んでも動いてみせるワ。
 直助 まことに関心、奇妙。
 この台詞について、宇野信夫が監修した舞台のことを同書より引用してみよう。
  
 宇野信夫さん監修で鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」が先年国立劇場で中村勘三郎、松本幸四郎の主演で上演された。宇野さんはその解説で、隠亡堀で伊エ衛門の「首が飛んでも」の名ぜりふは、大阪の上演本「いろは仮名四谷怪談」にあるので、この台本はあまり上等とは思われませんが、こうした名ぜりふは取入れましたと言っている。
  
 わたしは、民谷伊右衛門の「雑司ヶ谷四谷町浪宅」の近く(直線距離で1.5kmほど)に住みながら、「砂村隠亡堀」=南砂町は訪ねたことがない。ひょっとすると子どものころ、親は連れていってくれたのかもしれないが、まったく憶えがない。大人になってからも出かけていないのは、ただただ遠いからだ。
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 「砂村隠亡堀」は、現在の江東区南砂3丁目にある疝気(せんき)稲荷Click!あたりといわれているが、うなぎ搔きの直助権兵衛がなぜ堀割りが縦横に走り、「江戸前」のうなぎがふんだんに獲れる地元の深川界隈から、わざわざ砂村まで“出張”してきているのかがわからない。ついでに、釣竿をかついで雑司ヶ谷村から砂村までやってきた民谷伊右衛門の散歩にいたっては、なおさら不可解だ。直線距離で片道12km(道を歩いたらゆうに15kmで往復30kmは超えるだろう)もあるところへ、いくら江戸期の人々は健脚だったとはいえ、釣竿かついで散歩に出かけるだろうか? よほど急ぎ足で帰らないと、夏なら魚籠の中の釣った魚が傷みだしそうな距離だ。
 まあ、それをいうなら面影橋あたりから神田上水へお岩と小平の死骸を打ちつけて放りこんだ戸板が、なぜ砂村まで流れ着いて“戸板返し”ができるのかも意味不明なのだ。夜中とはいえ、神田上水へドボンと大きな音を立てて“ゴミ”を棄てたりしたら、見廻りの水道番にしょっぴかれるのがオチだし、うまく水道番屋の監視はすり抜けても、遺体の戸板は椿山Click!下の大洗堰Click!にひっかかって、それより下流へは流れていかないだろう。万が一、関口から上水開渠Click!を流れて水戸藩上屋敷Click!まで流入したりすれば大騒ぎとなり、即座に悪事が露見してしまう。そんな一か八かのリスクが高い“殺し”をやってしまう伊右衛門は、よほど楽観主義者のオバカか大ボケかましに見える。それに、うなぎ搔きの直助権兵衛がことさらユーモラスでドジに感じられてしまうのは、少し足を悪くしたあとの、先々代の勘三郎Click!が演じた役を観ているからかもしれない。
 もうひとつ、わたしの実家があった日本橋の薬研堀界隈(現・東日本橋)を舞台にした矢田弥八『露地の狐』という芝居があるが、わたしは一度も観たことがない。(子どものころ、親に連れられ観賞したかもしれないが記憶にない) もともと、14代目・守田勘弥が得意とした芝居のようだが、薬研堀にある蒲焼き屋「花川」という見世が登場する。まるで落語の『うなぎの幇間(たいこ)』そっくりの筋立てだが、14代目の死去とともに上演されることがなくなったのだろう。
 通りがかりの幕府御家人を、「花川」へ引っぱりこんで蒲焼きをおごらせようとするのだが、逆に食い逃げされてしまうという他愛ないストーリーだ。勘定を払えない幇間(野太鼓)の主人公が、「花川」の見張りを連れて大川端をウロウロするという奇妙な筋立てで、機会があれば観てみたいうなぎ芝居のひとつだ。
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 さて、うなぎといえば街角で気軽に食べられる“うな丼”か、芝居茶屋への冷めない出前から生まれた“うな重”なのだが、最近は高価すぎてなかなか気楽に蒲焼き屋の暖簾をくぐるというわけにはいかない。このデフレが収まらない世の中で、高度経済成長期のようなインフレーション状態にあるのが、タバコとオーディオClick!蒲焼きClick!なのだ。「天井ぬけの極高非道」とは、伊右衛門ではなくうなぎClick!のことだ。

◆写真上:高価でちょくちょくは食べられず、せめてペーパークラフトの蒲焼きで……。
◆写真中上は、「砂村隠亡堀の場」で15代目・市村羽左衛門の伊右衛門と2代目・市川左団次の直助権兵衛。は、1953年(昭和28)撮影の疝気稲荷社境内。は、周囲の風景が一変し隠亡堀の面影が皆無になった現在の疝気稲荷社。
◆写真中下は、うなぎ鉤にうなぎ魚籠を担ぎお岩さんの鼈甲櫛を見つけた直助権兵衛。下左は、1977年(昭和58)に出版された川口昇『うなぎ風物誌』(東京書房)。下右は、1960年代に水戸で売られていた「うなぎめし」弁当で180円が羨ましい。
◆写真下は、大正時代から営業をつづける上落合の蒲焼き「源氏」Click!は、親父の遺品のひとつで1948年(昭和23)に出版された『名せりふさわり集』(第一書店)。

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画塾「どんたくの会」の月謝は5円。 [気になる下落合]

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 10月1日からSo-netブログのドメインが変わり、名称も「SSブログ」へ変更になるとか。昨年のSSL対応は理解できるが、今回のドメイン変更には呆れた。昨年のSSL対応で、外部からのリンクの修正を少しずつ4ヶ月かけて済ませたが、今度はドメインの修正を延々とつづけなければならないのか。しかも、今回のWebサーバはSSL対応ではないようだ。再びSSL対応などということになったら、わたしは何度、メンテ作業をやらされるハメになるのだろう。システム計画や運用管理戦略を、ちゃんと立ててるのか?
  
 鶴田吾郎Click!は、アトリエを持っていなかった1921年4月から1923年(大正12)9月までの間、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!で制作し帝展へ出品している。曾宮アトリエで描かれたタブローで、現在判明しているものが3点ほどある。
 1921年(大正10)に制作された、新築のアトリエから写生に出かけようとしている曾宮一念をとらえた『初秋』Click!。同年に描かれた、アトリエの中でぼんやりと立っている曾宮一念を描いた『余の見たる曾宮君』。同作は、翌1922年(大正11)の第4回帝展で入選している。そして、1922年(昭和11)に曾宮邸の隣りに住んでいた植木屋の娘を描いた『農家の子』Click!の3点だ。この3作とも、すでにこちらでご紹介している。
 鶴田吾郎は、仕事をするときは曾宮アトリエを訪ねていたようだが、ふだんすごしていたのは兄が紹介してくれた下落合645番地の借家Click!だった。1920年(大正9)には、新婚の“その”夫人との間に長男・徹一が生まれていたが、鶴田の家には若い画家たちや画学生たちが集まっては酒盛りをして騒いでいたようだ。当時の様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版より刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 山の画家で通った茨木猪之吉などは、四、五日も泊りがけで来ていて、最後にもう倦きたから帰るんだといって、どこかまた出掛けて行くことがあり、曾宮は毎日のようにやって来ては、彼一流の話をして一人で愉しんでいるようであった。朝来て、また夕方になって手拭をぶらさげて湯屋に行こうと誘うこともあった。/私達の生活は、勿論定収入というものはない。絵だって頼まれもしないし、余程困った時には電車賃だけつくって、滅多にしない絵を買って貰うことをしたり、少しばかりの原稿料が入ったりするくらいのことだった。
  
 ここに登場する「湯屋」は、鶴田吾郎宅から東南東へ100mほど、曾宮アトリエからも北へ150mのところにある、目白通り沿いで現在も営業中の「福の湯」のことだろう。すでに大正期の地図に採取されているので、下落合でも最古クラスの銭湯だ。
 今村繁三Click!から支援を受けていたとはいえ、ふたりの画家には定収入がないため曾宮一念が鶴田にもちかけ、絵を趣味にするアマチュア画家相手の画塾を開くことになった。資金は曾宮が10円を用意し、画塾設立のパンフレットや生徒たちがアトリエで使う履物、椅子、休憩で必要な土瓶と茶碗、モチーフとなる静物などを準備している。画塾の名前は、曾宮がオランダ語で日曜を意味する「どんたく」がいいと、日曜画家にひっかけて「どんたくの会」と決めた。
 このとき、「どんたくの会」の趣意書を考案したのは鶴田吾郎で、パンフレットを新聞社あてに郵送している。その全文を、『半世紀の素描』から引用してみよう。
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 自然の美しさを知ること、解ることが何人にとっても生きがいの有る事と思います。/この美しさを表すには画をかくのが最善の方法です。/こういう意味から画家として志す方でなくとも、特に日曜だけを自然研究に費して、深い、愉快な生活をしたいという人々の為めにこの会を開きます(御夫人も差支えありません)。/右のようなお心さえあれば、全く初歩からはじめます。/科目は、素描(鉛筆木炭)及び彩画(油絵水彩)とします。/講師は鶴田吾郎、曾宮一念の両氏がうけもちます。/会場は曾宮氏のアトリエを用いますが、郊外写生にも出かけます。/会費は一ヶ月五円とします。但要具、材料は会員の皆さんの自弁です。/第四日曜日は会員作品の批評をし合う茶話会にあてます。そして、時には別に講師を招いて美術に就いての種々の話をしてもらいます。研究時間は当分毎日曜正午より五時までと致します。/入会希望の方は左記事務所へ御申越し下さい。/用具その他委細御きき合せの方(三銭切手封入)には御答へします。
  
 どんたくの会は、月に4~5回の教室なので、生徒さえ集まればなんとか元はとれると考えたらしい。新聞の消息欄に、どんたくの会の趣意書が掲載されると、翌週には10人ほどの生徒が集まった。この時点で、曾宮一念が出した資金10円は回収できている。なお、曾宮一念が主宰した第2次どんたくの会では、会費が10円に値上がりしている。授業は、石膏デッサンを鶴田が受けもち、油彩の静物画は曾宮一念が担当した。
 鶴田吾郎は、「恐らく画室を解放して土、日などにアマチュアの絵の勉強を施すことになったのは、このどんたくの会が最初ではなかったろうか」と書いているが、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、もっと早くから画塾Click!を開いて絵を趣味にする近所の人たちや女学生を集めていたし、下落合679番地の笠原吉太郎Click!もまた、アトリエClick!でおもに女学生たちを相手に絵を教えていた。外山卯三郎Click!と結婚した一二三(ひふみ)夫人Click!も、笠原吉太郎が主宰していた画塾に通ってくる生徒のひとりだった。
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鶴田吾郎「半世紀の素描」1982.jpg 曾宮一念「画家は廃業」1992.jpg
 1921年(大正10)から、2年弱ほどつづいたどんたくの会は、曾宮と鶴田のケンカで終わってしまったが、その仲たがいの内容についてはふたりとも黙して語らない。では、曾宮一念の側からどんたくの会について書かれた文章を、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された『画家は廃業』より引用してみよう。
  
 日曜の画学校だったどんたくの会は、初めの第一次は私と鶴田とで始めました。第一次の生徒は、住友海上火災保険の元社長の花崎さんたちです。今村繁三さんから後援費をいくらかもらっていましたが、絵が売れるわけじゃない。アトリエができたんだから、二人で日曜日だけの絵の塾をやろうということになり始めたのです。/腰かけだけは近所の道具屋から最も安いのを買ってきました。描くものは主に静物です。たまにモデルを頼むこともありました。今の油彩の教授なんていうのは、子供を教えるのに、一時間から二時間くらいで帰して、交代させるそうです。その自分の人は、朝九時ごろ来ると、日が暮れるまでいたものです。日曜に頑張って描いてました。それを鶴田と代わり番こに、描けない人はなんとかまとめてやりました。
  
 住友海上火災保険の関係者のほか、鶴田吾郎によればのちの美術評論家・今泉篤男Click!も、一高の制服を着たまま習いにきていた。当時の今泉篤男は画家をめざしていたようで、帝大の学生時代には1930年協会展に応募して入選している。
 パトロンの今村繁三Click!の名前が出ているけれど、このあと関東大震災Click!と昭和の大恐慌で今村銀行は経営が傾き、画家への援助どころではなくなってしまう。晩年の今村繁三が、曾宮アトリエから南へわずか260m、聖母坂の下にあたる下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)の小さな邸で暮らし、死去Click!することになるとは、曾宮一念も鶴田吾郎も当時は夢想だにしなかっただろう。
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 曾宮一念と鶴田吾郎は、ときに連れ立って風景画のモチーフを探しに練馬方面まで遠征している。あるとき、曾宮は大根の収穫を終えた黒い畝を6号に描き、鶴田はカシの木に囲まれた農家をSM(サムホール)に描いたようで、曾宮の抜群の記憶力によれば「三月一日」とのことだ。どんたくの会をふたりで開催していた、1922年(大正11)か1923年(大正12)のいずれかの3月1日のことだろう。

◆写真上:曾宮一念のアトリエ跡から、諏訪谷のある南側を眺めた現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の第4回帝展に入選した鶴田吾郎『余の見たる曾宮君』()と、翌1922年(大正11)に制作された鶴田吾郎『農家の子』()。は、関東大震災で傾き住めなくなってしまった下落合645番地の鶴田吾郎邸跡。
◆写真中下は、1921年(大正10)に新築のアトリエから写生に出ようとする曾宮一念を描いた鶴田吾郎『初秋』。同年の4月、建設中のアトリエの参考にとカラーリングを見学に訪れた佐伯祐三Click!は、腰高の板壁を同じグリーン系に塗っている点に留意したい。は、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』()と、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された曾宮一念『画家は廃業』()。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された素描彩色の曾宮一念『麦秋(白潟)』。は、1946年(昭和21)制作の鶴田吾郎『池袋への道』と同『早春の日光三山』。

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東京郊外にあった「遊園地」の系譜。 [気になる下落合]

新井薬師公園1.JPG
 明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。
 その名称のとおり「庭園を回遊する地」のことで、特に乗り物や遊具、展示館などは存在しなかった。現代風にいえば、整備された森林公園ないしは緑地庭園といったところだろうか。施設や整備が豪華で、手入れがいきとどいた大規模な遊園地は有料のところもあったが、むしろ現在の公園と同様に無料で誰もが気軽に利用できた施設も少なくなかった。経営主体も、地域一帯に広い土地を所有する地主が敷地の一画を活用した例や、広大な華族屋敷の一部を開放したもの、将来の宅地開発を見こんだディベロッパーが集客目的で開園したもの、参詣者でにぎわう寺社境内の一部を庭園化したもの、地域の自治体が設置したものなど形態もさまざまだった。
 「遊園地」の元祖型は、早くも江戸期の後半(大江戸時代)から郊外各地で見られていた。オオシマザクラとエドヒガンザクラを掛けあわせソメイヨシノClick!を産みだした、江戸の植木職人たちが大勢集まって住み、幕末に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンによれば、ロンドン王立植物園を凌駕する「世界最大のフラワーセンター」だった染井地区(現・駒込地域)をはじめ、ウメやキク、ショウブ、ツツジなどを屋敷の庭園や畑地に隣接して植え、季節になると観光客に見せていた「花屋敷」Click!あるいは「〇〇(花の名前)屋敷」の系譜など、明治以降に「遊園地」へと直結していく素地は、すでに大江戸(おえど)Click!の郊外で早くから育まれていた。
 落合地域にも、そのような遊園地がいくつか存在していた。たとえば明治期の下落合でいうと、近衛篤麿邸Click!の敷地内にあった谷戸の湧水源を整備し、庭園のような風情に仕立てて開放した「落合遊園地」Click!が挙げられる。牛込区馬場下町41番地(現・新宿区馬場下町)に下宿していた若山牧水Click!が、散歩がてら下落合を訪れて『東京の郊外を想ふ』に記録している庭園だ。
 東京土地住宅Click!「近衛町」Click!につづき、1923年(大正12)に落合遊園地を含む一帯を「近衛新町」Click!として販売したが、そのほとんどの敷地を東邦電力Click!が買い占め、のちに「落合遊園地」改め「林泉園」Click!と名づけた谷戸の湧水源だ。中村彝Click!は、1916年(大正5)に「落合遊園地」の北側にアトリエを建設したが、死去する1年ほど前、1923年(大正12)ごろから名称が「林泉園」Click!に変わり、社宅の西洋館群Click!やテニスコートなどが造られるのを庭先から眺めながら、晩年をすごしていただろう。
 また、下落合の中部では、箱根土地Click!堤康次郎Click!落合府営住宅Click!の土地を東京府に寄付したあと、その南側に「不動園」Click!という遊園地を開発している。落合遊園地と同様に谷戸地形を活用した遊園地で、府営住宅の住民たちへ憩いの場を提供するような趣向だったが、もちろん不動園は郊外への「人寄せ」プロモーションの一環だったとみられ、ほどなく同園は解体され1922年(大正11)より目白文化村Click!の建設がスタートしている。不動園の様子や、それが壊される過程を第二府営住宅に住んでいた目白中学校の生徒Click!が観察して、学内誌に記録を残している。
 箱根土地は、不動園を解体して文化村住宅地に整地したあと、下落合1340番地の本社ビルClick!建設とともに、その南側に造園した庭を改めて「不動園」Click!と名づけ、文化村をはじめ周辺の住民に開放している。また、前谷戸の弁天社Click!がある北西側の湧水地も、昭和初期までは遊園地風の風情(弁天社裏の谷戸にはモモの樹林が植えられていたようだ)を残して、周辺の住民に開放していた。第一文化村の北側、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄Click!が、弁天池のほとりで遊び長女・彩子様Click!を抱っこしている写真Click!が残されている。
林泉園1935.jpg
松下春雄「文化村入口」1925.jpg
弁天池の松下春雄.jpg
華洲園(大正期).jpg
 上落合の近くには、小滝台の上に四季折々の花々を咲かせる、明治期に造られた華洲園Click!(御花畑)があった。街道(現・早稲田通り)を越え、バッケ(崖地)Click!に通う急坂を上ると丘上が開け、広大な花畑が拡がっていた。この郊外遊園地もまた、大正期に入ると宅地造成が開始され、周辺でも名うての高級住宅街に変貌している。
 近隣住民たちや観光客に開放されていた、これらの郊外遊園地は昭和期に入るとその多くが住宅街となり、現在ではほとんど残されていないが、その雰囲気を感じとることができる「遊園地」(というか今日では「公園」や「庭園」と呼称される)は、明治期から大正期にかけて東京郊外だったエリアで、いまでもかろうじて見ることができる。落合地域の近くでは、大正初期に造られた新井薬師遊園(のち新井薬師公園)が、当時の遊園地にもっとも近い風情を残しているだろうか。
 新井薬師遊園は、妙正寺川へと下る新井薬師の北北西側に展開する丘の斜面と、麓全体を包括した敷地で、いまでは中野通りに南北を分断されているが、新井薬師境内の緑地も加えるとかなり広めな公園となる。明治期からつづいた遊園地の特徴として、広場があり一画には花々が植えられ、築山や斜面には武蔵野の雑木林が繁り、湧水源を含む谷間には池ないしは泉が形成されている……という“お約束”の風景と、同園はよく一致している。1914年(大正3)開園と、明治期からつづく遊園地ではないものの、本来は新井薬師の境内だった敷地を遊園地化して、参詣者や周辺の住民たちへ開放したものだ。
 現在の新井薬師公園は、1934年(昭和9)に改めて公園として整備されたあとの姿だが、江戸期には梅照院(新井薬師)の修行場でもあった経緯から、大正期の風情はより“自然公園”に近い趣きだったのではないかと想定できる。現在は、斜面には雑木林に囲まれた広場や児童館、児童遊園などが設置され、麓には妙正寺川へと注ぐ湧水源のひとつだったとみられる“ひょうたん池”(小規模化したとみられる)が残されているが、いずれも昭和期の公園化とともに本来の姿とはかなり異なっているのではないだろうか。
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新井薬師公園1941.jpg
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 その旧・新井薬師遊園を取材していたら、気になる地形を見つけてしまった。当初は、郊外遊園地らしく斜面に盛り土をし、築山に見立てて木や花を植えたのだろうと考えていたが、家にもどって各時代の空中写真を検証すると、この築山がどうやら戦後すぐのころまで“鍵穴”のかたちをしているのに気がついた。特に、一帯が空襲を受けた戦後の焼け跡写真を観察すると、地面の色が異なり鍵穴のフォルムが浮きでて見えるようだ。全長は60m前後で、それほど大きな規模のフォルムではない。確かに地形的にも、谷間へ向けた見晴らしのいい斜面に位置しており、古代人が古墳を築造するにはもってこいの場所だ。念のため、周辺で発掘された古墳期の集落跡がないかどうか確認したが、地元の新井地域でも、また隣接する沼袋地域Click!でも古墳期の住居跡が発見されている。
 残念ながら、新井薬師公園の発掘記録は見あたらないが、水戸徳川家の上屋敷庭園だった後楽園古墳や上野公園の摺鉢山古墳Click!、三田の土岐美濃守の下屋敷庭園だった亀塚古墳Click!、新宿駅西口の松平摂津守下屋敷庭園にあった新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、大名庭園や公園を造園する際に築山としてそのまま墳丘が利用された前方後円墳の残滓ではないだろうか。また、丘上にあたる新井薬師の境内自体も、もともとはどのような敷地の形状をしていたのかに興味をひかれる。
 昭和期に入ると、東京郊外の小規模な遊園地は次々と姿を消すか、大規模な遊園地はアトラクションやゲーム、パビリオンを備えた新しい呼称としての“遊園地”に変貌していったけれど、新井薬師のケースは遊園地から公園へとスイッチしたために、大正期の風情をなんとか想像することができるめずらしい事例だ。また、戦後もしばらくたつと遊具のある一般的な公園とは別に、本来の意味での「遊園地」に近い風情の施設が、再び自然公園や緑地庭園として整備されるようになってきた。
新井薬師公園2.JPG
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藤兵衛公園.jpg
 下落合でいえば、規模は小さいが第二文化村の島峰徹Click!邸の跡地に造られた「延寿東流庭園」Click!や、下落合の南側に接した上戸塚地域にある「藤兵衛公園」などが該当するだろうか。明治期から大正期にかけての郊外遊園地に比べれば面積や規模がかなり小さいので、さすがに丘や斜面などは存在しないけれど、小流れがあって池があり樹木が繁茂している風情は、100年前を模した「ミニ遊園地」とでもいうべき存在といえるだろう。

◆写真上:新井薬師公園の斜面に見られる、現在は40mほどが残る“ふくらみ”部分。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された林泉園。(提供:堀尾慶治様Click!) は、1925年(大正14)制作の松下春雄『文化村入口』に描かれた箱根土地本社前の庭園「不動園」と、第一文化村の谷戸にあった弁天池で遊ぶ松下春雄。(提供:山本彩子様) は、大正初期に撮影された小滝台の華洲園(御花畑)。
◆写真中下は、公園として再整備された直後の1936年(昭和11)に撮影された新井薬師公園。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された新井薬師公園。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる鍵穴状のフォルム。
◆写真下は、丘麓にある新井薬師公園のひょうたん池。中野通りが貫通する、背景左手の斜面から丘上までが新井薬師公園になっている。は、下落合の目白文化村(第二文化村)にあった島峰邸跡に造られた延寿東流庭園。は、上戸塚(現・高田馬場3丁目)の中村邸跡に造られた日本式庭園の藤兵衛公園。
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1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。 [気になる下落合]

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 1916年(大正5)の落合村の風景は、明治期から華族や政治家、財閥、おカネ持ちの別荘地として東部の一部が拓けていた以外、江戸近郊の農村地帯の風情をそのまま残していただろう。旧・神田上水Click!や妙正寺川(北川Click!)の周囲には稲田が拡がり、そこから眺める目白崖線には鬱蒼とした雑木林が繁っていた。
 いまだ数が少なく、赤土がむき出しで滑りやすい坂道を上ってようやく丘上に出ると、一帯には畑か草原が拡がっており、ところどころに屋敷林に囲まれた大農家や小規模な墓地が点在している。ところどころに見えるこんもりとした雑木林の下には、大小の谷戸が口を開け、関東ロームの地層から露出した東京層Click!付近からは清水が噴出していた。その清水で形成された湧水池が、落合村のいたるところで澄んだ水面をたたえ、ときおり近所に住む農家のおかみさんたちが農作物を籠に入れて背負い、洗い場Click!と呼ばれた池で野菜を洗っている姿が見られただろう。
 南側を眺めながら、目白崖線の丘上を歩いていくと、麓には村の総鎮守である下落合氷川明神Click!の杜が見え、山腹には薬王院Click!の大きめな灰色の屋根と茅葺きの太子堂Click!が見え隠れしている。旧・神田上水の浅瀬で水浴びしている馬は、目白駅(地上駅)Click!前にある古口運送店Click!の飼い馬たちだろうか。川面がキラキラ光り、大きく蛇行する神田川に架かる田島橋の向こうには、3年前に建てられたばかりの独特な意匠をした目白変電所Click!のコンクリート建築が見え、変電所までつづく東京電燈谷村線Click!高圧線木製塔Click!が、西のほうから田畑の中に建ち並んでつづいている。
 旧・神田上水と妙正寺川が落ちあう向こう岸には、一面の麦畑の中に福室軒牧場Click!の乳牛だろうか、放し飼いにされているホルスタインClick!が何頭か点のように小さく見え、その左側には月見岡八幡社Click!の藁葺き屋根が木立ちに囲まれてチラリとかいま見えている。また、牧場のやや右手にある深い森の中には、光徳寺Click!の堂宇が、少し離れて最勝寺Click!が建っているはずだ。そして、はるか彼方の上高田との境界あたりに、落合火葬場Click!の高い煙突がかすんで見えている……。
 1916年(大正5)に豊多摩郡役所から出版された『豊多摩郡誌』には、当時の落合村の風情や民俗が採取されている。今日の落合地域からは想像できない、昔ながらの江戸東京の近郊風景が展開していた。その紹介文を、少し引用してみよう。
  
 風俗 村内土着の民は一般に淳朴(ママ)にして、旧幕時代の組合今も其俤を存し、隣侶相助くるの美風あり、衣食住また質素なるも、近時移住し来れる都人士多きを加へ、従て風俗漸く華奢ならんとす。 信仰 村内の寺院は尽く真言宗なるを以て、従来の住民は殆ど全部同宗の檀徒たり、近来耶蘇教天理教等の伝道を試むるものなきにあらざるも、未だ著しき勢力を認むるに至らず。
  
 近衛町Click!の開発前、目白駅(地上駅)前の丘上には近衛篤麿邸Click!が、目白通りをはさみ北側には戸田康保邸Click!(徳川義親Click!が転居してきて自邸Click!が竣工するのは1934年)が建っていた。近衛家が所有する谷戸には、若山牧水Click!が目にした「落合遊園地」Click!という碑が建立されたままで、いまだ周囲から林泉園Click!とは呼ばれていない。
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福室軒牧場牛.jpg
 御留山Click!に目を向けると、前年(1915年)に竣工したばかりの豪華な相馬孟胤邸Click!がそびえ、少し西に目を移せば岬のように突き出た西坂Click!バッケ(崖地)Click!上には、徳川義恕邸Click!の大きな西洋館が建っていた。徳川邸の南崖下、下落合では本村(もとむら・ほんむら)のエリアである旧・安井息軒邸Click!の西側に、軍人らしい質素さでこじんまりした川村景明邸Click!が見えていただろう。
 相馬孟胤邸と徳川義恕邸の中間にあたる、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!には、翌年(1917年)の竣工をめざす大島久直邸Click!が建設中で、足場が組まれた西洋館の尖塔のある特徴的な大屋根Click!ができあがっていただろうか。その北側には、大倉山(権兵衛山)Click!の丘上にあたり伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る一画に、箕作俊夫邸Click!が瀟洒なたたずまいを見せていただろう。
 落合村にあった真言宗の寺院とは、薬王院と最勝寺、自性院Click!、光徳寺の4寺だ。蘭塔坂Click!(二ノ坂Click!)上には、いまだ大日本獅子吼会Click!(日蓮宗系)は移転してきていない。また、「耶蘇教」(キリスト教)の教会は、明治末に竣工した清戸道Click!(目白通り)沿いの目白福音教会Click!はあるが、東京同文書院Click!(目白中学校Click!)の斜向かいにあたる目白聖公会Click!は、まだ設置されておらず病院施設のままだ。目白駅(地上駅)前や、目白通り沿いにはようやく企業や商店が増えてきたが、いまだ江戸期からの繁華街である椎名町界隈Click!(現・山手通りと目白通りの交差点あたりを中心とした東西の街道筋)のほうが賑わっていただろう。
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 『豊多摩郡誌』から落合村の風情を、つづけて引用してみよう。
  
 遊芸 従来農村部落なりし本村にありては、遊芸等の流行を見ず、学校の女児の如き師に就て之が修得を為すものなし、但近来移住し来れる都人士中にありては琴曲其他の音楽趣味の喜ばるること、都会の風と異なるなし。 衣食住 一般に質素にして、近年移入せる都人士一部を除くの外、平常は綿衣を着け麦飯を用ふるを例とす。旧来土着の民家にありては、住宅物置等多くは茅葺にして、左方に入口を設け土間を広く取りて農業用に便せり。  村内の鉄道線路に近くして市街化したる部分を除き、旧来の住民は今尚ほ一ヶ月遅れの盂蘭盆及び正月をなす、是を月おくりの盆、正月と称ふ。
  
 「都人士」という言葉が頻出するが、これは東京市街地から武蔵野Click!の緑が多く、自然環境が保全されている郊外へ移住してきた市民たちのことをさしている。
 1922年(大正11)に目白文化村Click!近衛町Click!の販売がスタートしてから、あるいは関東大震災Click!以降に市街地からドッと移住者が押し寄せてきた“民族大移動”とは異なり、まだ落合村が牧歌的な時代のことだ。この時代、落合尋常小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)に通っていた子どもたちは、下校すると習いごとどころではなく、家の用事=農作業を手伝わされていたのだろう。
 1916年(大正5)現在、移住してきた「都人士」には、目白駅(地上駅)前の丘上にアトリエをかまえていた熊岡美彦Click!、のちに豊玉水道Click!の落合町水道組合員を引き受けることになる下落合435番地の舟橋了助Click!夫妻、落合遊園地の北側にアトリエを建てたばかりの下落合464番地に住む中村彝Click!笠井彦乃Click!がアトリエを訪問していたとみられる下落合370番地の竹久夢二Click!、そして旧・伊藤博文別邸があったとされる敷地の斜向かい、大倉山ピークに近い下落合323番地には東京美術学校Click!森田亀之助Click!も住んでいただろうか?
 目白通りの北側、下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の近くにあった茅葺きの「百姓家」には、大阪の小出楢重Click!が一時期住んでいたが、大久保作次郎が引っ越してくるのは2年後なので、まだ小出楢重の「行き倒れ」Click!物語は生まれていない。
 風習で興味深いのは、いまだ暦が江戸時代のままだったことだ。正月を2月1日(旧正月)に祝い、8月中旬(旧盆)に迎え火を焚いていたのだろう。落合地域に限らず現代の新宿区では、さすがに1月1日が正月で、7月中旬には街中で僧侶の姿を多く見かけ、8月中旬は地方で旧盆を迎える人たちのために「夏休み」、あるいは古い人々には「藪入り」Click!と呼ばれている。
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佐伯祐三「洗濯物のある風景」1926.jpg
 大正初期には、「麦飯を用ふるを例とす」とあるが、現代の下落合住民であるわたしも、麦飯や雑穀米を常食としている。健康を考えてのことだが、当時は白米を節約し質素な食生活を送るための、江戸時代からつづく変わらぬ食習慣だったのだろう。

◆写真上:最近、東京牧場Click!が復活したのか下落合駅前にいる大きなガンジー種。
◆写真中上は、1880年(明治13)の1/20,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、上落合の南耕地にあった福室軒牧場のホルスタイン。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、吉屋信子Click!が1928年(昭和3)の夏に中ノ道(現・中井通り)の西武電鉄沿いで撮影したホルスタインClick!で、線路向こうにある牧成社牧場の乳牛だとみられる。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三Click!連作『下落合風景』Click!のうち「洗濯物のある風景」Click!だが、洗濯物をホルスタインだといい張る美術家の方がいる。w

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小島が棄て佐伯が拾い里見が保存した作品。 [気になる下落合]

小島善太郎サイン.jpg
 小島善太郎Click!が描いた、初期の代表作である『四ツ谷見附』Click!(1914年)には、10点ほどの画面があったようなのだが、わたしは1作を除いてできの悪い作品はすべて、小島自身の手で写生現場にキャンバスごと棄てられたか、処分されたと思っていた。ところが、少なくとも1918~1919年(大正7~8)ごろまでは3種類の画面が残っており、小島の部屋の壁に架けられていたという証言が残っている。
 そもそも、四谷見附の隧道(トンネル)をモチーフにした『四ツ谷見附』は、小島善太郎が21歳の1913年(大正2)から取り組みはじめ、翌々1915年(大正4)に安井曾太郎Click!から作品を賞賛されるまで、制作はつづいていたとみられる。わたしは、現存するひとつの画面しか観たことがないが、時刻や季節を変え同じタイトルで3つの画面が、少なくとも大正中期まで存在していた。そう証言しているのは、画家で劇作家の松岡義和だ。しかも、3作品のうち『四ツ谷見附』の1作「夕景」を、彼は小島から贈られている。松岡義和は、同作を自分の部屋の壁に架けて、訪れる友人たちに自慢していた。
 なぜ、小島善太郎が四谷見附の風景画を、3年間にもわたり数多く描きつづけることになったのか、その秘密についても松岡は証言している。当時、四谷(正確には麹町区麹町)にあったF女学校(四ツ谷駅前の雙葉高等女学校Click!)へ通ってくる、Fという女性に恋をしていたのだ。だから、彼女が登下校で利用する省線・四ツ谷駅東口のすぐ近くで、イーゼルを立てて描きつづけていた。雙葉高等女学校と小島の描画ポイントは、わずか200mほどしか離れていない。ふたりは毎朝、同じ時間の電車で落ちあい、おそらく帰るときもいっしょの電車に乗ったのだろう。
 だが、女学生のFは女学校を卒業すると、別の地方へ転居してしまい、ふたりは二度と逢えなくなってしまった。また、小島のほうでは、いまだ絵画を勉強中の身で生活の自立ができず、彼女を迎えにいけないという現実に苦悩していた。3年にわたり、10点にもおよんだ『四ツ谷見附』の画面の背後には、小島善太郎の悲哀に満ちた恋の物語が隠れていたのだ。
 では、松岡義和が小島から譲られた夕景の『四ツ谷見附』は、どのような画面だったのだろうか? 小島善太郎の次女・小島敦子様Click!よりいただいた、1992年(平成4)出版の『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版社)収録の、松岡義和『「四ツ谷見附」の思い出―小島善太郎兄に捧ぐ―』(1920年)から引用してみよう。
  
 レモンイエロウを基調とした巳に夕陽が斜めにさし込んで、その画面上の総てのもの、隧道も、桜の木々、電信柱、向こうの側の土堤も逆光線の為に黒ずんで、レモンイエロウの悲哀に満ちた光線の中に浮かんでいた。桜の葉の全く落ちた梢の先端まで、そして端正に堀に沿うてカギ形に曲って並んでいる杭の一本、一本まで涙と悲哀の中にたどって画かれた事は、それを見る人は直ぐ感ずるであろう。そして木々の陰、向こう側に立っている電信柱の長く引いた影、これ等はK(小島)の震える手で画かれた事を見ることが出来る。それから隧道の真っ暗な、中に吸い込まれる様な深さ。Kはこの闇を画くに、どれ程苦心したか知れぬ事をよく物語った。闇に対する空想、恐怖が常に彼を捕らえ、それがKが幾度小刀を出してカンバスを削って画き直しても、Kは、それ等が知らず知らずの中に表れるのを見た。彼はその絵を抱いて、戸山ヶ原で絶望のあまり号泣した事もあった。
  
 松岡義和が壁に架けていた『四ツ谷見附』(夕景)は、隣家から出火した火災で松岡家が全焼し、あえなく同作は失われている。また、残った2作の『四ツ谷見附』のうち、現存する画面でないもう1作も失われたのか、現在では目にすることができない。
小島善太郎「四ツ谷見附」1914.jpg
四谷見附隧道.jpg
雙葉高等女学校1912.jpg
 さて、小島善太郎Click!は野外で風景画を制作をしている際、画面のできが悪いとキャンバスごと写生地へ棄ててくるクセがあった。松岡の証言にも出てきた戸山ヶ原Click!で、小島はずいぶんキャンバスを遺棄Click!しているようだ。まず、キャンバスの表に風景を描きはじめるが、気に入らないとナイフで削っては描き直しを繰り返し、それでも気に入らないと今度はキャンバスの裏を使って描く。それでも思うように描けないと、おもむろにキャンバスを棄てて帰ってしまう。
 この性癖は、フランス留学中にも表れて、クラマールの森では小島が描きかけたキャンバスがずいぶん棄てられていたらしい。そんな棄てられた『クラマール風景』のキャンバスを、「もったいない」と拾って持ち帰っていたのが佐伯祐三Click!だ。誰かは忘れたけれど(鈴木良三Click!だったか?)、確か戸山ヶ原Click!でも遺棄された小島善太郎のキャンバスを見つけて、持ち帰った人物がいたはずだ。
 同書に収録された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(1933年)から引用してみよう。
  
 小島の巴里時代の作品の一つ『クラマール風景』は、佐伯がクラマールの森の中から----小島のこんな傑作が捨ててあった……と言って拾って来た。そして、今は僕が珍蔵している。二十号/第一面はプランタンの並木、地面は影になって黒と緑の交叉。第二面は建築中の家と丘へ登る道。道の両側の家はやがて遠景となり明るい空に連続する。/半完成ではあるが、調子は実に制限としている。筆触は単純で強い。色彩は美しい。小島のモチーフにおける第一印象は十分に表現されている。
  
 里見勝蔵は他界する1981年(昭和56)まで、小島善太郎との60年近い交流Click!がつづいていたので、おそらく死ぬまで未完の『クラマール風景』は、フランスでの懐かしい留学生活の思い出として手もとに置いていたのだろう。
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小島善太郎「戸山ヶ原風景」1911.jpg
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 その20号の『クラマール風景』と格闘する、小島自身が書いた文章が残っている。画面がどうしても気に入らず、小島善太郎はクラマールからパリへと出て、画家仲間たちと気晴らしの交流をしている。当時、フランスへ留学していた小島が知る画家たちの顔ぶれは、初期の1930年協会Click!でいっしょになる画家仲間のほか、川口軌外Click!鬼頭鍋三郎Click!、中山魏、林倭衛Click!、坂本繁二郎、小松清Click!、阿以田治修、宮坂勝Click!などだった。
 1981年(昭和56)に出版された小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会)から、クラマールで制作する様子を引用してみよう。
  
 クラマールの宿の裏門の丘から見下ろした風景画は、二十号大で大作といえないのに、1ヵ月もたつが出来ない。場所に惚れて描くのでなく、与えられた場で腰を据えて描いているのだが、ただ塗っていけばよいのではなく、画としての空間処理に気を配りながら、色々有機的な関係の問題とか、その色感とか立体感、物質感などの総合したものを組み立てながら思索し、徐々に進めるといったやり方である。/ことにパリに来てからは、日本での垢が気になり、自分を苦しめる。詩情に浸るのでなく、理に立ち向かうような切迫感があって、できた画面を削っては直す。これは私の癖で画は一向に出来上がらない。こういう時、酒の味をしらなかった私は、ぶらっとパリの学生街に出るのが常であった。
  
 ひょっとすると、制作途中でカンシャクを起こし、宿へ帰る途中の森の中へ遺棄してきた20号の『クラマール風景』は、上記の画面のことかもしれない。
小島善太郎「晩秋(戸山ヶ原」)1915.jpg
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 パリの「サロン・ドートンヌ」展Click!に、クラマールで描いた小島善太郎『パリ郊外』が入選するのは、1923年(大正12)のことだった。その後、彼はティントレット『スザンナ』(300号)を模写するために、ルーブル美術館へ2年間も通いつづけることになる。

◆写真上:小島様にいただいた本の、内扉に書かれた小島善太郎の直筆サイン。
◆写真中上は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『四ツ谷見附』。は、当時とほとんど変わらない四谷見附隧道(トンネル)の現状。は、1912年(大正元)に撮影された雙葉高等女学校の校庭でボール遊びをする女学生たち。
◆写真中下は、1912年(大正元)作成の「四谷区全図」にみる描画ポイントと雙葉高等女学校の位置。は、1911年(明治44)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、現在は一部が公園になっている戸山ヶ原の現状。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』Click!は、パリでは「フェニックス会」のホスト(主人)だったフェニックス役の小島善太郎。は、1923年(大正12)にサロン・ドートンヌ展に初入選した小島善太郎『パリ郊外』。

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下落合を舞台にしたドラマ2019。 [気になる下落合]

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 下落合が気になったきっかけのひとつとして、同地を舞台にした1974年(昭和49)のドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV開局20周年記念作品)のことを、最初期の2004年(平成16)11月にアップした記事Click!以来、わたしは何度かつづけてここに書いてきた。コメント数もかなりの数にのぼり、気になっていた方もたくさんいらっしゃるのだろう。今年(2019年)の旧盆(藪入りClick!)の真っ最中である8月13日午後3時すぎ、場所は下落合の喫茶「小苦楽(こくら)」Click!の、1階と2階をウロウロと往来しながら、わたしはドラマの“出番”を待っていた、下落合を舞台にしたドラマの撮影現場は初めてだが、まさか自分が出演することになるとは思わなかった。
 単にインタビュー番組で出演するだけなら、気が楽だし自分の言葉で自由に話せるのだけれど、インタビューに加え3つのシーンにしっかり長めのセリフもある。当然、役者はもちろん演劇の経験はゼロなのでセリフなどはまったく憶えられず(夏なので浮かれて遊び、憶えようともせず/爆!)、ノートPCにカンニングペーパーならぬセリフのテキストデータを用意して撮影にのぞんだ。わたしの役どころが、ノートPCを開いて喫茶店で原稿を書いている役どころだったからだ。それでも、自分の言葉ではない脚本家が書いたセリフは、どこかわざとらしく感じてスムーズに口にはなじまず憶えられない。そこで、まことに僭越ながら『さよなら・今日は』に出演した森繁久彌の台本Click!のように、セリフへいろいろとアカ入れ修正を加えさせていただいた。
 ところが、わたしのカンニングデータを用意したノートPCは、製品名のロゴがディスプレイの背後に大きく書かれていたため急きょ却下となり、かわりに抽象的なマークしか入っていないSurfaceに変えられてしまった。ズルを考えてたわたしは、さあたいへん。そう、このドラマはNHKが制作している作品なので、企業名や製品名はすべて基本的にNGなのだ。当日は撮影が押していたのか、本番前に2時間ほどの待ち時間があったため、少しでもセリフを記憶しようとしたのがよかったのかもしれない。シーンの変更や道具立ての入れ替え待ち時間を除けば、わたしの撮影は正味40分ほどで終了した。俳優を相手にセリフをいうわたしは、きっと紅潮していたにちがいない。
 ドラマは、NHKのEテレで2015年(平成27)より放送されている、4年越しの連続ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』Click!だ。わたしのお相手「ハルさん」は、俳優・渡部豪太氏だった。舞台が古民家(近代建築)の「小苦楽」(下落合3丁目/旧・下落合1丁目542番地)だったので、わたしは番組ディレクターを下落合(現・中落合/中井含む地域)の東部Click!へご案内した。近衛町Click!から御留山Click!、林泉園の中村彝アトリエClick!へとご案内したが、このうち近衛町の目白ヶ丘教会Click!学習院昭和寮Click!本館(現・日立目白クラブClick!)が、ドラマの台本に登場している。
 ストーリーは、ハルさんが下落合を訪れ、街を散策するうち昭和初期に建てられた数寄屋の古民家(築90年余)を発見して、そこで開業している喫茶店に入り、内部を見学しながら地元の人たちと出会う……という展開だ。「小苦楽」の建物は空襲からも焼け残り、わたしは知らなかったが戦後に不二山というお茶のお師匠さん(おっしょさん・おしょさんで親しい場合はおしさん)が住んで、弟子たちに茶道(表千家)を教授していたそうだ。
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 わたしは、同店の開店早々に女将の瓜生美行様より茶室を含む室内を拝見していたが、建物が古くて落ち着いているせいか空気がゆったりしており、小庭を眺めながら飲むお茶の味は、近衛町の「花想容」Click!(喫茶部は閉店)にも似て、その後、落合地域の休憩ポイントとして何度か利用させていただいている。このお店を紹介してくれたのは、以前、「佐伯祐三生誕120年記念シンポジウム」Click!にご家族で参加された木下元介様だ。瓜生女将も出演されているので、いまから放送を楽しみにしている。
 先ほど「紅潮していたにちがいない」と書いたが、わたしの“出番”に合わせてか、4時ごろになると続々とお客さん役のエキストラたちが現場に入りはじめた。昼間は甘味喫茶のせいか、お客さん役も女性が多い。女優さんや女優の卵さんが多いものか、みなさん美しくてきれいな方ばかりだ。そのうちの濃紺(?)の着物姿のおひとりが、「セリフがあるとタイヘンですよね」と同情してくれた。そんなウキウキ気分で“本番”に臨んだため、セリフも“楽屋裏”でマジClick!に憶えようとけんめいに悪戦苦闘し、結果、なんとかご迷惑をかけずに撮影を終えることができたものだろうか?
 5時すぎより撮影をスタートし、6時すぎには終了していた。監督は黒澤明Click!大島渚Click!ばりに、スタッフたちへ「ばっかやろ-!」「まぬけ!」「のろま!」と怒鳴りつけていたけれど、スタッフたちはニヤニヤ笑いながらセッティングしていたので、ほんとは優しい監督で撮影現場のノリかポーズのひとつなのだろう。わたしがどのシーンもテイク1~3ほどで撮り終えたせいなのか、「なんだよ、タバコを吸ってるヒマもねえじゃないか!」と、ブツブツいう声が背後で聞こえた。w ときどきドラマや映画のクランクアップで見かけてはいたが、ほんとうに花束と記念品と拍手をいただいてから、ロケ現場の「小苦楽」=旧・不二山邸をあとにした。
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 本番の7日前に台本(最終稿)をいただいたのだが、それを読んでいて改めて感じたことがある。ちょうど、このドラマが撮影されているさなか、わたしも映像の構成台本を書いているまっ最中だった。もちろん、ドラマではなく米国や国内で上映される、ICTシステム関連の映像だった。おもに、レベル4~5のコネクティッド・カー(いわゆる自動運転)に関する内容だが、車内のECUや配置されたIoTセンサーから、OpenFlowプロトコルの仮想ネットワーク(SDN)を通じて収集された多種多様なデータを、CGWを介して外部に設置されたAI仕様のクラウド監視マネジメント基盤とリアルタイムに連携し、クルマへ安全で最適な指示だし(操作命令)をする……という、Society 5.0では大前提として企画されているモビリティ環境(いわゆるCASE)のテーマだ。
 昨年の仕事でも感じたのだが、映像作家やディレクターが頭の中で構成するシナリオと、わたしが構成するテキスト台本との間には、いつも少なからず齟齬が生じることになる。わたしの頭の中はテキストの集積で構築・構成されているが、映像作家やディレクターの方はもっとも効果的なイメージの集積と展開で構成されている。だから、テキストで構成された台本は、読めば順序だててわかりやすく感じるのだが、それを音声と映像で表現する場合には、まったく事情が異なってくるのだ。特に映像が完成したあとの作品を観ると、「なるほど」と納得するシーンがいくつもあった。
 この感覚は、昨年(2018年)5月に美術家の方にご協力いただいた前述の佐伯祐三Click!生誕120年記念シンポでも、強く感じたことだ。こちらは映像ではなく、パワポを使ったスライドショーのシナリオづくりだったが、美術家の方は次々と湧きあがるイメージの展開でスライドを構成したけれど、わたしはアウトラインのストーリーを前提にテキストの集積で順序だてながらシナリオを考えていった。だから、双方がその流れを突き合わせてみたとき、イメージが先行する思考とテキストが先行する思考とであい入れず、収拾がつかなくなりそうになった。わたしのテキスト頭は、イメージが先行する思考の方には理屈っぽくてまだるっこしく、饒舌でクドく感じられたのではないだろうか。今回のドラマの台本を拝見したとき、テキスト頭のわたしは改めてそのことを痛感したしだいだ。
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 戦後、「小苦楽」の古民家に住んでいた茶道の不二山という方、茶道具には「不二山」(楽焼白片身変茶碗)という作品もあるので本名かどうかは不明だが、この地域をドリルダウンするうちになにか発見したら、改めて書いてみたいと思う。そういえば、下落合には関東大震災Click!東京大空襲Click!の直後からだろう、清元や常磐津など三味のお師匠さんClick!や浮世絵の刷師など、(城)下町Click!の人たちが多くやってきては住んでいる。
 ◆ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』 下落合編
  ・2019年9月12日(木) PM9:00~ NHK Eテレ(地上D/2ch)
  ・毎週木曜 午後9時/再放送:毎週水曜 午後0時25分
 余談だけれど、保存運動がつづく上鷺宮の三岸好太郎・節子アトリエClick!(1934年築/国登録有形文化財)も、月に何日かカフェを開催しているようなので、このドラマにはぴったりな舞台ではないだろうか? 同アトリエは、美術(独立美術協会Click!)や建築(設計・山脇巌Click!/バウハウス様式)をめぐる物語が数多く眠る宝庫のひとつだ。

◆写真上:「小苦楽」の庭で、左側に見えている躙り口が数寄屋。手水が「花想容」の藤田邸Click!とそっくりで、地中には水琴窟Click!が隠れているのではないか。
◆写真中上:暖簾の下がった「小苦楽」の入口()と室内()、そしてネコ()。大正期から大久保作次郎アトリエClick!の南庭へとつづく、路地の左手に位置する。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前にF13Click!から撮影されたのちの不二山邸と1947年(昭和22)に撮影された同邸。は、1980年代の「住宅明細図」(下落合1~4丁目)に収録された不二山邸。
◆写真下は、躙り口から点前座のほうへ向いた茶室内。は、黒蜜で甘みが調節できる「小苦楽」のあんみつ。は、クランクアップの花束と記念品。左側にいるのは、御留山でスカウトしてきた洋種が混じるキバが大きなオトメオオヤマネコClick!(♀/2歳)。

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下町と山手の用法がゴチャゴチャする件。 [気になるエトセトラ]

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 「下町」という言葉が、城下町をちぢめた用語であることは、ずいぶん前に江戸期からつづく江戸東京語のひとつであることを、三田村鳶魚(えんぎょ)Click!の証言としてご紹介したことがある。江戸東京地方では、まだるっこしい言葉はどんどんちぢめて発音されるので、別の地方の人が誤解することも多い。
 たとえば水道(すいどう)は「すいど」Click!と読まれ、それでも長いので「いど」と略されて呼ばれていたため、江戸の街中に乃手にあるような井桁が組まれた、地下水の井戸が登場するおかしな時代劇も少なくない。江戸市街地で井戸を掘っても、塩分を含む水が湧いて飲用に適さなかったから、ほぼ100%の水道網Click!の普及が幕府の大きな課題となったのだ。江戸期から白木屋の井戸や佃島の井戸が有名だったのは、めずらしく真水が湧いてしょっぱくはなかったからだ。
 ちょっと余談だけれど、先日、佃島の丸久Click!の主人と長話をしてたら、このところ佃島の井戸に塩分が混じりはじめてしょっぱくなり、生活水には適さなくなってしまったというのを知った。石川島の高層マンションや、月島に増えはじめたビルの杭打ちで、地下水脈の形状が変わるか、地層の破壊で海水が入りこんでしまったのではないかと思う。(城)下町にはめずらしい400年来の井戸だけに、たいへん残念なことだ。
 ちぢめ言葉の話をつづけよう。清元や常磐津、長唄などの三味Click!、あるいは茶道や華道、能、詩吟、踊りなどのお師匠さんも、「おししょうさん」などとは呼ばれずに「おっしょさん」あるいは「おしょさん」となり、師弟関係が親しくなるとついには「おしさん」と略されて呼ばれるようになる。「おしさん」を、江戸東京へ布教や商売(病気平癒の祈祷や巫術)にやってきた三峯講や大山講、富士講などの修験者や霊山ガイドの「御師」Click!と勘ちがいした時代劇もどこかにありそうだ。真剣で「真面目なこと」が、江戸芝居の世界で「マジ」Click!と略されたことはすでに書いた。
 「(城)下町」と「(山)乃手」が、あたかも海外の街のように、平地と丘陵地帯を表すダウンタウン(平地)やアップタウン(丘陵地)とほぼ同義でつかわれるようになったのは、おもに明治期以降のことだろうか。「(城)下町」は本来、「(山)乃手」を含む旧・大江戸(おえど)市街地(旧・東京15区Click!)の概念であり、「下町」は「山手」の対語ではない。それが、いつの間にか海外の街並みを表現する用法にならい、平地が「下町」で丘陵地が「山手」としてつかわれるようになっている。
 だが、少し考えればわかることだが、いわゆる山手にある江戸期からの町々のことを、そこに住む地付きの人たちは誰も乃手だとは思ってはいない。神田(旧・神田区エリア)の半分は丘陵地帯だが、岡本綺堂Click!が「銭形平次」の舞台に選び、神田明神Click!のある一帯を江戸期からの地付きの方は、誰も山手だと思ってやしないだろう。同様に、江戸期や明治期から江戸東京(というか日本)を代表する商業地として発達した、日本橋や京橋・尾張町(銀座)のことを誰も山手とは呼ばないのと同様だ。地形がどうであるにせよ、それとは無関係に神田も日本橋も京橋・銀座も(城)下町だ。
 うちの義父は麻布出身(ちなみに江戸期からの龍土町でも六本木町でもない)だが、チャキチャキの町っ子だった。わたしの家によく遊びにきては、家庭麻雀を楽しんで1週間ほど泊っていったが、典型的な下町の雰囲気を漂わせていた。逆に、根っからの下町である日本橋育ちの親父のほうが、謡(うたい)Click!をやるなど乃手人のような趣味をしていたので、このふたりの性格は合わなかった。東京弁も、義父のほうは江戸の少し品のない職人言葉の流れをくんだざっくばらんな町言葉(いわゆる「べらんめえ」)だったが、親父は江戸期からの商人言葉をルーツとするていねいな(相対的にきれいな)東京弁下町言葉を話すので、どっちが「下町」っぽいのかわからないふたりだった。
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 私立の麻布中学校に通うようになって、初めて(城)下町人と接したときの驚きを書いたエッセイがある。今年(2019年)の7月14日に日本経済新聞に掲載された、古典芸能評論家の矢野誠一『東京やあいッ』だ。少し引用してみよう。
  
 麻布中学に入って、私は初めて東京は東京でも、下町育ちの友達を知ることになる。彼ら下町育ちは、幼い頃から親の手に引かれ、芝居小屋や寄席の木戸をくぐり、相撲や洲崎球場の当時は職業野球と称していたプロ野球観戦などを体験していた。ごくたまに、文部省推薦の健全きわまる映画を観せてくれた、山の手の素堅気のサラリーマン家庭に育った身には信じかねることだった。/彼らはふだんの会話でも、下町特有の生活環境をうかがわせてくれた。中学生の分際で、/そりゃきこえませぬだの、絶えて久しき対面ですなとか、/遅なわりしは手前が不調法/などと芝居や浄瑠璃の文句が、ぽんぽんとび出すのだ。そんな下町育ちの手引きで、放課後の肩鞄を提げたまんまの格好で、盛り場をうろつき、映画館や日本劇場、国際劇場のレビューをのぞくことを覚えた。
  
 矢野誠一は、「山の手の素堅気」などとユーモラスな表現をしているが、「すっかたぎ」は東京弁の下町言葉であって山手言葉には存在しない。
 著者の故郷は代々木八幡(旧・代々幡町代々木)だが、位置的にいえば落合地域と同様に山手線に接した内外地域は、大正期以降に住宅地が拓かれた新山手(新乃手)ということになる。中学生の当時、麻布という地域を「下町」ととらえていたのか「山手」ととらえていたのか、それとも(城)下町=旧・市街地という意味で下町ととらえていたのかは曖昧だが、少なくとも義父にいわせれば山だらけの麻布地域は、江戸からつづくれっきとした由緒正しい下町の認識だったろう。
 いつか、不用意に「日本橋や銀座は下町じゃないですよ~」などといったら、誇り高い下町人の岸田劉生Click!「バッカ野郎!」Click!とぶん殴られると書いたが、義父もまったく同じ感覚をしていたにちがいない。第一師団へ入営前の学生時代にはボクシングが趣味だったと聞いたので、義父の前で「麻布は下町じゃないですよ~」などといったら、マジにカウンターパンチが飛んできたかもしれない。
 つまり、海外の都市で見られるダウンタウンとアップタウンの関係と、東京の(城)下町と山手との関係は、少なくとも親の世代まではそこに暮らす住民の意識からして、まったく異なっている地域も少なくなかったのだ。そこには、「農工商」に寄生して生きる「士」に対する、「人が悪いよ糀町(麹町)」(町人からの借金を踏み倒す大旗本が住んでいた地域)に象徴される、江戸期からの階級的な反発の残滓もあったろうし、明治以降しばらくすると旧・幕臣たちClick!が続々と(城)下町にもどりはじめたとはいえ、丘陵地帯(用法がアップタウン化して混乱しはじめた「山手」)には地元民ではない人間が入りこみ威張り散らしているという反感が、少なくとも薩長政府(大日本帝国)が破産・滅亡する1945年(昭和20)までの77年間Click!、底流として執拗に連綿とつづいていたのかもしれない。
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 さて、うちの親はわたしが子どものころ、芝居(歌舞伎・新派・新国劇など)に寄席、都内の神社仏閣や名所旧蹟はほとんど連れまわしてくれたが、相撲は母親がキライで出かけず、プロ野球は親父がまだるっこしくて好まず観戦にはいかなかった。母親は、むしろ「文部省推薦の健全きわまる映画」(要するにつまんない映画)と怪獣映画Click!は見せてくれたが、夏になると『トゥオネラの白鳥』や『悲しきワルツ』(ともにシベリウス)を聴いている、おしなべて乃手人らしい趣味Click!をしていた。
 麻布出身で下町娘だった向田邦子Click!の母親は、正月になると来客の接待に駆り出される娘を哀れでかわいそうに思い、父親には内緒で遊びに逃がしてClick!くれたことがあった。下町の娘は、正月は外出して初詣のあと、街へ遊びに繰りだすのがあたりまえだったが、「山手」の一部では「おっかない父親Click!のもとに家族全員が集合してないと許されない家が多かったようだ。この「怖い父親」という概念も、たとえば日本橋育ちの小林信彦Click!にしてみれば、とうてい信じられない存在だった。
 矢野誠一『東京やあいッ』は、いわば新山手の眼差しから見た(城)下町人(旧・山手人含む)の姿だが、どこか乃手人の永井荷風Click!から見た(城)下町地域に通じる眼差しを感じる。矢野誠一『東京やあいッ』から、もう少し引用してみよう。
  
 世にいう江戸っ子気質、いなせな生活は、東京の下町にその威を見出してきた。山の手は地方から侵入してきた部外者によって構築された、言ってみれば植民地のようなものだった。/一九六四年の東京オリンピックは、その後の東京の町をすっかり様がわりさせてしまった。私たちが子供の頃を過ごした東京とは、およそ肌合のちがった東京に生まれ変ってしまったのである。気がついてみれば、風景、風俗、言語、文化、趣味嗜好、すべての面でかなりはっきりとしてあった、下町と山の手との生活習慣のちがいが失われてしまった。世の中みんな一色化していくこの国の傾きぐあいに、我らが東京も追従しているのがつまんない。
  
 「つまらない」ではなく「つまんない」と、東京方言の下町言葉をここでもう一度つかう著者だが、1964年(昭和39)の東京オリンピックが、そしてついでに同時期に行われた愚劣な町名変更Click!が、旧・大江戸市街地に当時まで連綿とつづいていたコミュニティを、次々と打(ぶ)ちこわしClick!ていったという認識は、わたしもまったく同感だ。
 だが、わたしはそれほど悲観はしていない。東京の風景は関東大震災Click!東京大空襲Click!、そして東京オリンピック1964Click!で破壊されたが、江戸東京地方ならではの風俗Click!言語Click!文化Click!趣味嗜好Click!は想像以上に根強くて根深く、かなり頑固に残りつづけている。換言すれば、それが残り守られつづけているからこそ、いまだ「江戸東京らしさ」がどこかで連綿とつづいているのだし、風景でさえ変革(復元)Click!していこうというモチベーションにつながっているのだと思うのだ。  
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「素堅気(すっかたぎ)」で思い出したが、いつかTBSの男性アナが千住の小塚原Click!を「こづかはら」と読んだのを聞いて、思わず噴きだしてしまった。幕府の処刑場があり、杉田玄白が腑分けを行なった地名は「こづかっぱら」だ。噴きだすのとは逆にキレたのは、テレビ東京の女性アナが日本橋のことを「にっぽんばし」と読んだので、劉生ではないが思わず「てめぇ、もいっぺんいってみろ、バカ野郎」(職人言葉で失礼)とTVに向かって話しかけてしまった。w 地元のTV局であるテレビ東京が、江戸東京の中核であり日本の五街道の起点にある地名をまちがえるとは、心底、恥っつぁらしで情けない!

◆写真上:歌舞伎座が建て替えられた2013年(平成25)以前の、懐かしい4代目・歌舞伎座の場内。先年の秋、久しぶりに歌舞伎座を訪れたが、なぜか季節外れの黙阿弥Click!『三人吉三巴白浪』Click!(さんにんきちさ・ともえのしらなみ)を演っていた。最近、人気芝居なら季節には関係なくいつでも上演するのだろうか?
◆写真中上は、2019年7月14日に日本経済新聞に掲載された矢野誠一のエッセイ『東京やあいッ』。は、麻布中学の友人は上方の浄瑠璃か芝居、あるいは落語が趣味だったものだろうか、「そりゃきこえませぬ伝兵衛さん」の『近頃河原達引』(ちかごろかわらのたてひき)に登場する与次郎の文楽人形Click!
◆写真中下は、「絶えて久しき対面に~」の『仮名手本忠臣蔵』五段目で、千崎の3代目・市川左団次(右)に勘平の3代目・尾上松緑(左)。は、上方落語の『七段目』でも登場する「遅なわりしは不調法」の『仮名手本忠臣蔵』七段目。7代目・尾上梅幸のおかる(左)に、3代目・坂東寿三郎の由良助(右)。
◆写真下は、『仮名手本忠臣蔵』八段目で由良助の8代目・松本幸四郎や本蔵の2代目・市川猿之助などが見える。は、1955年(昭和30)ごろ撮影の山科大石閑居跡。は、歌舞伎座にある歌舞伎稲荷大明神の社(やしろ)にお詣り。
おまけ
「そりゃ聞えませぬの伝兵衛さん」でフテ寝するうちのネコで、仔ネコだったのが大型化して座布団からはみ出す最近のオトメオオヤマネコ(♀/2歳/御留山出身)。
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山田清三郎の「出版・入獄記念会」。 [気になる下落合]

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 かつて上落合に住んでいた、数多くのプロレタリア作家や美術家について調べているとき、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎Click!の『プロレタリア文学史/上・下』も、資料のひとつとして参照していた。おそらく、戦後まもなく出版された同書は、当時、もっとも詳細なプロレタリア文学史料だったろう。
 山田清三郎が住んでいたのは、上落合(2丁目)791番地(現・上落合3丁目14番地)で最勝寺Click!境内のすぐ西側だ。ごく近くには、一時期だが上落合(2丁目)740番地には宮本百合子Click!が住んでいたし、上落合(2丁目)549番地に住む壺井繁治Click!を「村長」に結成された、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」Click!(漫画家・加藤悦郎邸)があり、その周囲には数多くのプロレタリア作家や美術家たちが住んでいた。その山田清三郎が検挙され、1934年(昭和9)6月に撮影された「出版・入獄記念集会」と題する記念写真が残っている。(冒頭写真)
 「入獄記念会」とか「出獄記念祝賀会」というパーティは、別にプロレタリア作家たちの専売特許ではなく、滑稽新聞の宮武外骨Click!が1904年(明治37)にはじめたものだ。当時、官吏侮辱罪で実刑判決を受けた彼は、大阪監獄へ収監される直前に祝賀会を開いている。権力を批判して入獄4回、罰金15回、発禁14回のレコードをもつ宮武外骨Click!は、検挙されて入出獄を繰り返すうちに「祝賀会」を催すようになった。また、毎号「記者入獄記念碑」を紙面に「建立」し、当時の官憲や政府への抵抗をやめなかった。くしくも、山田清三郎を中心に「出版・入獄記念集会」が開かれたのと同年、1934年(昭和9)には45年前の入獄3年の冤罪が明らかになった宮武外骨の「筆禍雪冤祝賀会」が開催され、大審院(現・最高裁)の判事(尾佐竹猛)までが出席している。
 さて、山田清三郎の「出版・入獄記念集会」写真にもどろう。この記念写真には上落合を中心として、その周辺地域に住んでいた多くの人々がとらえられている。まず、上段左側には下落合の南側、戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子Click!)と窪川鶴次郎Click!がお互い少し離れて写っている。そのまま右横へ目を移すと、上落合689番地(のち上落合460番地へ移転)にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)の付近に住んでいたとみられる、『文化村を襲った子供』を書いた小説家の槇本楠郎Click!がいる。同作は、1928年(昭和3)の「戦旗」12月号に掲載されているので、槇本はそのころ上落合にいたものだろう。
 槇本楠郎の右隣りには、上落合460番地に住んだ劇作家で脚本家の久板栄二郎がいる。1934年(昭和9)という年は、久板が池田生二とともに『演劇運動の新らしき発展のために』を日本プロレタリア演劇同盟出版部から刊行したばかりのころだ。なお、上落合460番地は村山知義・籌子アトリエClick!のあった上落合186番地の北側、約130mほどのところにあった家屋で、全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所だ。
 次に、久板栄二郎のひとりおいて右隣りには、上落合602番地から葛ヶ谷303番地(のち西落合1丁目303番地)へと転居している、洋画家でグラフィックデザイナーの柳瀬正夢Click!が写っている。写真が撮られた1934年(昭和9)6月は、鬼頭鍋三郎Click!の隣りにある旧・松下春雄アトリエClick!で仕事をはじめていたはずだ。松下春雄の淑子夫人Click!は、すでに彩子様Click!たちを連れて池袋の実家にもどっていただろう。
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 写真の中段左には、上落合688番地に住んでいた小説家で劇作家の藤森成吉Click!が見える。藤森は前年の1933年(昭和8)、治安維持法違反で特高Click!に検挙されて「転向」したはずだが、山田栄三郎の記念集会に参加しているのでその心中は異なっていたのだろう。戸坂潤をはさんで右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」Click!から上落合599番地へと転居した、詩人で小説家の上野壮夫Click!がいる。全日本無産者芸術連盟(ナップ)から引きつづき日本プロレタリア文化連盟(コップ)へと参加していたが弾圧が激しく、この記念写真が撮られるころには解散を余儀なくされていた。
 また中列の中ほど、当時は同人雑誌「現実」を刊行していたころの文芸評論家・亀井勝一郎の前には、上野壮夫と同じく上落合829番地の「なめくじ横丁」から上落合599番地へと転居した、上野の妻であり小説家でエッセイストだった、ちょっと派手めなコスチュームの小坂多喜子がいる。また、彼女の右上隣りには、第三文化村Click!にあたる下落合1470番地の「目白会館」Click!から、上落合460番地へと転居した武田麟太郎Click!が写っている。前年に、小林秀雄Click!らと刊行した「文学界」で執筆しており、いまだ「人民文庫」(1936年)は創刊していない。
 武田麟太郎の右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」で暮らしていた小説家の立野信之Click!がいる。小林多喜二Click!とともに書いた、『新芸術論システム・プロレタリア文学論』(天人社/1931年)などで特高に検挙されたが「転向」して出獄し、記念写真と同年には転向文学とされた『友情』を執筆している。また、立野信之のひとりおいて右隣りには、上落合630番地の詩人・野川隆Click!が写っている。記念写真の翌年(1935年)、壺井繁治らが結成した「サンチョクラブ」へ参加することになる。
 中段の右側には、落合地域の北隣りにあたる長崎町を転々としていた詩人で小説家、また画家でもある小熊秀雄Click!の姿がある。小熊も「サンチョクラブ」に参加して、頻繁に上落合(2丁目)783番地の事務局を訪れていた。1930年代に入ると、小熊秀雄のスケッチに落合地域や、その往来に描いたとみられる作品Click!がみられるが、おそらく「サンチョクラブ」への行き帰りで目にとまった風景を素描にしたものだろう。
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サンチョクラブ1935.jpg
サンチョクラブ跡.JPG
太陽のない街千川跡.JPG
 下段左の生田花世Click!の前には、落合地域の北東隣りにあたる高田町の、雑司ヶ谷鬼子母神門前の雑司ヶ谷24番地に住んでいた、詩人で劇作家、小説家、童話作家の秋田雨雀Click!の姿がある。この記念写真が撮られた1934年(昭和9)には、新協劇団を結成して事務長となり雑誌「テアトロ」を創刊したころだ。1929年(昭和4)には、三木清Click!や羽仁五郎などとともにプロレタリア科学研究所(プロ科)を創設して所長を引き受けており、1940年(昭和15)ついに特高に検挙されることになる。
 秋田雨雀の右並びにいる老夫婦は、上落合502番地に住んでいた教育家で政治家だった蔵原惟郭と、北里柴三郎Click!の妹であるシウ夫人だ。息子で次男の蔵原惟人Click!は、1932年(昭和7)に治安維持法違反で特高に検挙され、この記念写真のときは懲役7年の実刑判決を受けて獄中にあった。出獄するのは、記念写真から5年後の1939年(昭和14)になってからのことだ。そして、蔵原夫妻の右並びが「出版・入獄記念集会」の主役である、上落合791番地の山田清三郎と山田きよ夫人だ。
 山田きよの右隣りには、上落合215番地に住んでいた小説家で文芸評論家の林房雄Click!がいる。林は、上落合186番地の村山知義・籌子邸Click!と上落合460番地の久板栄二郎邸(ナップ本部)の、ちょうど真ん中あたりに住んでいた。また、林房雄が鎌倉・坂ノ下の舟大工「米さん」に無理やり頼みこみ、由比ヶ浜でフロートClick!波乗りをしていたエピソードは、つい先ごろご紹介している。林房雄の右隣りには、やはり上落合460番地のナップ本部に住んでいた小説家の江口渙が写っている。前年(1933年)に虐殺された小林多喜二の葬儀委員長をつとめたが、それを理由に特高に逮捕されていた。
 江口渙の右隣りには、当時は上落合549番地に住んでいた壺井繁治Click!が座っているが、妻の壺井栄Click!の姿が見えない。また、壺井の右並びには共同印刷争議に取材した『太陽のない街』で知られる、小説家の徳永直が写っている。記念写真の撮られたころは、転向小説とされる『冬枯れ』を執筆中だろうか。
白十字1933頃.jpg
新宿盛り場地図1933-1935.jpg
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 この記念写真が撮られたのは、四谷区新宿2丁目71番地にあった喫茶店「白十字堂」だが、所在地に「新宿」とあるものの四谷新宿(よつやしんしゅく)のことで、四谷区新宿2丁目=現・新宿区新宿(しんじゅく)3丁目に相当する地番だ。新宿伊勢丹Click!から新宿通りを、四谷方面に150mほど歩いたところに「白十字堂」は開店していた。
 さて、この記事にはいまだここで取りあげていない、落合地域とその周辺域に住んでいた人々がおおぜい登場している。この文学関係者たちの物語を書いていくとすれば、あといったい何年ぐらいかかるのだろうか?

◆写真上:1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた、山田清三郎の「出版・入獄記念会」で下段中央が山田清三郎・きよ夫妻。
◆写真中上は、1968年(昭和43)出版の山田清三郎『プロレタリア文学史/上・下』(理論社)。は、戦後に撮られた山田清三郎。は、記念写真の左側に写る人々。
◆写真中下は、写真右側に写る人々。赤の人名は、いずれも落合地域在住者または在住経験者だが、その他の人々も落合地域に隣接するエリアの居住者が多い。は、1935年(昭和10)結成の「サンチョクラブ」。前列左から3人目が中野重治Click!、4人目が壺井繁治で右端に小熊秀雄。小熊秀雄の左隣りは、神戸にある光子夫人の実家から上落合1丁目510番地に“単身赴任”で住んでいた岩松淳(八島太郎)Click!だろうか? は、上落合2丁目783番地の「サンチョクラブ」跡()と徳永直『太陽のない街』の舞台となった小石川の千川沿いの住宅街()。
◆写真下は、1933年(昭和8)にほていやデパートの屋上から撮影された四谷方面。右手に見えている緑地は新宿御苑で、喫茶店「白十字堂」は黄色の矢印あたり。は、1933~35年(昭和8~10)の「火保図」をもとに作成された「新宿盛り場地図」(新宿歴史博物館)にみる「白十字堂」。は、「白十字堂」があった四谷区新宿2丁目71番地界隈で現在の画材店「世界堂」の斜向かいあたり。

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雑司ヶ谷地域の関東大震災。 [気になるエトセトラ]

目白駅付近より東京市街地19230901.jpg
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今回は高田町の北東側に位置する、雑司ヶ谷の震災当時の様子を書いてみたい。
 雑司ヶ谷における関東大震災時のエピソードは、少し前に地震による延焼で全滅した洲崎遊郭から脱出し、楼主たち追手から逃れるために、鬼子母神参道前の雑司ヶ谷の交番へと駆けこんだ娼妓たちのエピソードClick!をご紹介している。その記事で、事件の経緯を記録していた資料として、同年10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)から引用しているが、地元の高田町の資料では関東大震災に関する記述がほとんどないことにも触れている。
 たとえば、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述はわずか5行弱にすぎない。同書より引用してみよう。
  
 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
  
 実際には、学習院の特別教室から出火した火災で同校舎が全焼したり、住宅にも少なからず被害が出て負傷者もいたはずなのだが、それほど深刻な被害がなかったせいか東京市街地の街々とは異なり、非常にあっさりとした記述になっている。
 これは、豊島区全体の歴史を概観した区史でも同様で、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)にいたっては、わずか2行と少しの記述で終わっている。同書の、「各町の町制時代」の項目から引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日、関東地方に大震火災起り、幸にこの地方は災禍を免れたが、東京市中は殆んど全滅の状態となつた。罹災者は陸続とこの町に避難して来たので、町は全力をあげて救済につとめた
  
 豊島区のレベルで見るなら、立教大学のレンガ造りの本館が崩落したり、そこそこの被害は出ているはずなのだが、犠牲者がおらず負傷者しか出なかったことが、おしなべて関東大震災の印象を希薄にしているのだろう。
 地震による被害よりは、市街地から押し寄せる膨大な被災者たちの救援や、罹災者の避難場所としての記憶のほうが強く残ったのだと思われる。大震災の当時は、住宅が近接して建てられておらず、火災が拡がる怖れはきわめて低かっただろうし、住宅の周囲には田畑や空き地があちこちに残っていたせいで、避難場所にも困らなかった。
高田四ツ谷町通り1918.jpg
高田村役場(高田若葉7)1918.jpg
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 また、東京市街地と武蔵野の台地エリアでは、地震による揺れの大きさが異なっていた可能性が高い。2011年(平成23)の東日本大震災でも、東京の低地や埋め立て地を中心とする市街地一帯では震度5強を記録したのに対し、新宿区の上落合に設置されている地震計は震度5弱にとどまっている。関東大震災でも同様だったとは、具体的なデータが残されていないので断言できないが、目白崖線沿いの地盤は市街地よりも震動がひとまわり小さかった可能性がある。
 しかし、それまで経験のない関東大震災の大きな揺れは、雑司ヶ谷の住民たちを驚愕させるには十分だった。1977年(昭和52)に新小説社から出版された、中村省三『雑司ヶ谷界隈』から引用してみよう。著者は子どものころ雑司ヶ谷電停のすぐ西側、雑司ヶ谷水原621番地界隈(現・南池袋2丁目)に住んでいた。
  
 私の家は今でも残っているその土蔵の西側で、大震災の時にはこの土蔵の瓦が数枚、私の家のせまい庭先に落下してきたものだ。(中略) 大正十二年九月一日、いわゆる関東大震災は、私の小学校一年生の時、その雑司ヶ谷の家で遭遇した。始業式を終えて家へ帰ると、父が昼食の仕度をしていた。母は夏休みで郷里へ戻った姉と妹とを迎えるために帰省して不在であった。 / 父に言われるまま茶卓の上に茶碗や箸などを並べていたが、いきなり大きくゆれ出したと思うともう坐ってもいられなかった。襖が大きく弓なりに曲り、はじかれたようにとんできた。気が付くとその時はもう父は私のかたわらに居て、私をおさえつけるようにして茶卓の下にもぐり込ませていた。後での父の話だと、大ゆれがくる前にゴーッという物凄い地鳴りのような音がしたということだが、子供の私にはおぼえがない。
  
 このあと父親は、著者を家の北側にあった空き地へ避難させたあと、隣家で腰を抜かして動けずにいた「小母さん」を助けだして、空き地へと連れてきている。
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 父親は、昼食がまだなのを思いだし、家の中へ何度か駈けこんでは飯櫃や茶碗などの食事道具を持ちだすと、「小母さん」も含めた3人で茶漬けClick!を食べはじめた。その後、周辺の住民たちが全員無事なのを確認すると、家の中にいては余震が危ないということで、住民たちは柿の木のある広場状の空き地へ集まった。
 しばらくすると南の空、つまり早稲田方面に黒煙が上がりはじめたのを見て、著者の父親は様子を見に出かけている。この黒煙は、おそらく学習院のキャンパス内で起きた、特別教室が全焼した火災の煙だろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ところが夕方近くなっても父が戻って来ないので私は心細かったが、とにかく泣きもしなかったことだけはおぼえている。夜はその柿の木を中心に隣り組の者達が畳をしき蚊帳を吊って雑魚寝をした。流言が出始めたのはその頃からで、男の大人達は竹槍などを用意し交代に見張りについた。私の父も隣りのお兄さんもいつの間にか戻っていて、仲間に加わっていたのを蚊帳の中から眺めた記憶はある。/一方私の母は郷里で、東京方面全滅のニュースで居ても立ってもいられなかったそうである。(中略) 母と叔父は惨たんたる下町方面の被害状況を目のあたりにして、雑司ヶ谷までたどりついてみると、余り変っていない町の姿にかえってびっくりしたそうである。事実雑司ヶ谷の私の家の附近で、倒れたり傾いたりした家は殆ど皆無で、私の家の被害も障子や襖の破損と、棚の上などから落ちてこわれた器具などで大したことではなかったらしい
  
 しかし、1923年(大正12)当時の1/10,000地形図を参照すれば明らかだが、雑司ヶ谷はあちこちに森が点在する緑豊かな地域で、家々も密集して建てられてはおらず、随所に空き地が拡がるような風情だった。したがって、同じ関東大震災クラスの揺れが再び雑司ヶ谷地域を襲ったら、現在の稠密な住宅街では被害がどれほど拡がるのかは不明だ。
雑司ヶ谷の森.JPG
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 東日本大震災がそうだったように、(城)下町Click!に比べて揺れがやや小さめなのはまちがいかもしれないが、どこかで大きな火災が発生すれば、おそらくひとたまりもないだろう。関東大震災では、犠牲者のおよそ95%以上が大火災による焼死者だった。

◆写真上:関東大震災の直後、目白駅付近から眺めた東京市街地の大火災による煙。
◆写真中上は、1918年(大正7)に撮影された四ッ谷(四ッ家)付近の目白通り。右手に見えている白亜の洋館は、できたばかりの高田農商銀行Click!は、同年に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道近く(高田若葉7番地)にあった高田村役場。は、震災と同年に作成された1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷地域とその周辺。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月の関東大震災で崩落した立教大学本館の中央塔。は、同震災で火が出て全焼した学習院の特別教室跡。
◆写真下は、いまも大正当時の面影が残る雑司ヶ谷の森の大樹。は、1975年(昭和50)ごろに撮影された中村省三の旧居跡。奥に見えるのが大震災で屋根瓦が落下した土蔵で、背後の高層ビルは建設中のサンシャイン60。は、本記事とは直接関係ないが鬼子母神の参道沿い雑司ヶ谷古木田487番地にあった初見六蔵邸跡。初見六蔵は、長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!を企画して建設している。

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