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第一寮棟で暮らした学生たち。(上) [気になる下落合]

学習院昭和寮跡.jpg
 近衛町Click!の南端にある、下落合1丁目406番地(現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)がひどいことになっている。寮棟のあった敷地や、西側のテニスコート周辺にあった緑が根こそぎ伐採され、バッケ(崖地)Click!下の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)の際まで含めて、大規模な集合住宅が建設される予定だという。これでまた目白崖線の緑が消え、斜面から丘上にかけて灰色のビルが出現するわけだ。
 さて、すでに解体されてしまった学習院昭和寮の4棟には、どのような学生たちClick!が暮らしていたのだろうか。昭和寮は、旧・学習院高等科の学生たちを入寮させていたので、今日の学制でいえば大学の教養課程を学ぶ、17歳から20歳ぐらいまでの若者たちだ。以前から、昭和寮で起きた出来事Click!エピソードClick!を中心に書いてきたので、今回は入寮していた学生たちに焦点を当て、その横顔を少しご紹介してみたい。
 学習院昭和寮Click!には、本館の南側に4棟の寮舎が建っていたが、そのうちの第一寮には15人の学生が入居していた。たいがいが皇族や華族、資産家の家庭出身者たちだが、お気楽にスポーツへ打ちこむ学生もいれば、さまざまな苦労を重ねて入学してきた学生もいて、寮生の顔ぶれは多彩だったようだ。1933年(昭和8)2月に発行された寮誌「昭和」Click!第8号には、第一寮の14室に住む学生たちのプロフィールが掲載されている。いちおう、氏名はイニシャルで書かれているが、学習院高等部へ通う学生が見たら、すぐに誰かが特定できただろう。
 同誌に掲載された、一寮生『一寮十五勇士』から引用してみよう。全14人しか紹介されていないが、最後の15人目は著者の「一寮生」だからだ。
  
 多分昭和寮の杜に鶯の囀ずる頃には私も此のなつかしいクリーム色の寮舎から、チユーブ入のライオン歯磨の様に、永遠に追出されなければならないでせう。ですから此の出口に留つてゐる間にチユーブの内容を、一般に招介(ママ:紹介)し又広い世界の空気をつぎ込む役目をするのも決して無益ではありますまい。併し内容物は歯磨とは一寸異つた血も肉も思考もある人間です。
  
 このような序文ではじまる第一寮の学生紹介は、寮誌「昭和」の12ページ分を占めたかなり長めの読み物となっている。ふだんから付き合っている、親しい友人たちを紹介するわけだから、いわゆる「仲間うち」でしか通用しない文脈や符丁、いわず語らずの共有経験を暗示する含みのある表現も多いが、昭和初期に下落合へ集合していた学習院生たちの特徴を、よく捉えている文章だと思われる。
 ◎第一室 文二乙 YK君
 「タイアン」というあだ名で、山登りが得意な学生。第一室は特に湿気がひどく、室内はカビだらけだったようだ。明るい性格のようで、どこか口八丁手八丁のようなとぼけた面もあったらしい。一寮全体が明るくなると、周囲から歓迎されている様子だ。
  
 尖い頭脳と体に不釣合な太い膽力の所有者で、本院否日本山岳会の権威の一人です。専門雑誌に寄稿して立派に原稿料を稼いでゐます。然し君の過去は決して平坦なものではなく、随分険阻な山道を歩いて来た様に見受けられます。
  
宮内庁公文書館1.jpg 宮内庁公文書館2.jpg
第一寮1932.jpg
学習院昭和寮12.JPG
 ◎第二室 文一丙 AM君
 かなり肥った学生だったらしく、「豚」などと書かれている学生。第一室のYK君が痩せていたのに対し、第二室の学生は丸々とした体格で童顔だったらしい。
  
 大のスポーツフアンでもあり亦スポーツマンでもあります。対附中戦の大将として本院の柔道史を飾り、又山岳部の委員として働いてゐるわけなんですが。最近は時代の波におされてかラグビー選手として偉大な体躯をグランドに現してゐます。
  
 ◎第三室 理二甲 MK君
 おカネ持ちで、絵に描いたようなイケメンだった学生。寮では読書室主任を引き受け、夏休みになると鎌倉の別荘へ出かけるのを楽しみにしている。また、軍事ヲタクClick!だったらしく当時の軍備に通じており、著者に「帝国主義者」と呼ばれている。
  
 スカールの名手。先日も井口盃レースに出場して活躍されました。未来はエンジニヤーとして我が建築界を背負つて立つ人。どうです皆さん! 新家庭の愛の巣を作る場合、君にお願いしては、又大の陸海軍通、と云ふよりは寧ろ帝国主義の権化です。
  
 ◎第四室 文三甲 FH君
 明るい性格のようだが、在寮時に不幸がつづいていた学生。文章も、FH君への慰めと励ましからはじまっている。入寮して1年もたっておらず、昭和寮では新人だった。努力を重ねる性格だったらしく、「ササ熊」というペンネームで寮日誌を引き受けている。
  
 スポーツのデパートです。生辞引(ママ:生字引)です。不明の点があつたら一寮の四室へいらつしやい。成る程見掛けは至つてしとやかな君も一旦丸裸になれば筋骨隆々たるモサです。柔道は二段、ラグビーは本院のnumberOne’兎に角すごい体です。
  
学習院昭和寮1.JPG
学習院昭和寮2.JPG
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 ◎第五室 理一乙 KM君
 「マホメツト」というあだ名のついた、青瓢箪のような学生。外出の札をかけっぱなしにして、寮のオバサンに外から鍵をかけられ、出られなくなったエピソードはすでにご紹介している。一寮の「変人」で、寮仲間との協調性がまるでなかったようだ。
  
 見掛けによらず、頭脳の明晰なること秋の夜の如きものです。世間は、殊に現代は性格を完備せる人間、之を換言せば人間の全性格や広範な知識を余り要求しないでせう。寧ろすぐれた深い一部分を望んで止みません。一くせある君の前途は決して平凡な人間には終らないでせう。それにしても、もう少し寮生との融和をはかつて欲しいと思ひます。
  
 ◎第六室 理三乙 GM君
 身長が低くて「胎児」というあだ名がついていたが、学習院の理系ではトップの成績だったようだ。一寮のティールームと電話の当番を引き受けていた。学習院では唯一のオカッパ頭で、別に「Poko(ポコ)」というあだ名もあった。
  
 来春の千葉医大受験準備で、秋の夜長を雄々しくも奮闘を続けてゐます。医者を友達に持てとはよく云ひますが、私は何だか不安です。蛙やバツタの調子で解剖された日にや、命がいくらあつても足りそうもありませんから。なるなら内科ですな。それより大のスポーツフアンである君には寧ろスポーツ医学は如何です。
  
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学習院昭和寮4.JPG
 当時の学習院昭和寮で暮らした学生たちは、みななんらかのスポーツをしていた。部屋に引きこもって、勉強や読書に専念するような学生は、むしろめずらしかったのだろう。そのような学生は、ここに登場している変人の「マホメツト」君ことKM君と、後編に登場する「熊さん」こと内気で引きこもりのBN君のふたりぐらいだろうか。
                                <つづく>

◆写真上:寮棟が解体され、周囲の樹林が伐採された学習院昭和寮の跡。左手の背景は、大黒葡萄酒工場Click!の跡地に建つ高田馬場住宅で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真中上は、宮内公文書館に残る1923年(大正12)5月28日に帝室林野局が東京土地住宅から近衛町の敷地42・43号Click!を購入したときの記録。(東京市及附近所在御料地調/識別番号61683) は、1932年(昭和7)に学習院が撮影した昭和寮の空中写真にみる第一寮。ちょうどこの撮影時、記事に登場している学生たちが暮らしていた。は、昭和寮の東側から眺めた第一寮(右)と第二寮。(提供:野口純様)
◆写真中下は、解体前の昭和寮の寮棟。は、昭和初期に撮影された寮室。
◆写真下は、学生たちが暮らした第一寮の入口。は、寮棟北側にある本館の階段。

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陸軍に注文の多い初年兵たち。 [気になるエトセトラ]

近衛師団司令部師団長室の窓.JPG
 国立公文書館に保存された、軍関係の資料(おもに陸軍が大多数)を参照していると、ときどき目についてひっかかる資料がある。それは、「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」というようなタイトルをつけた陸軍大臣や陸軍省副官あての報告書で、大正後期から昭和初期にかけて特に急増しているドキュメント類だ。
 内容をくだいていえば、帝国陸軍とはあい入れない思想の持ち主たちが、徴兵制により少なからずわが部隊に入営してきたので、「どうしたもんでしょ?」、「なるべく説諭で思想を矯正してはいますが」、「いうことをきかないし、上官の命令もきかない」、「宣誓文に署名しません」、「差別反対のパンフレットを撒きそうです」、「アナキズム研究をやらせろといってます」、「休暇で外出したまま、どっかへ行っちゃいました」……etc.といった、なかば困惑を含んだ内容が多い。これに対し、陸軍省では兵役期間は短いながらも、できるだけ地道に説諭するよう指示を出しているのだろう、その後の「要注意兵卒」に対する説得の経過や動向を知らせる報告書がつづく。
 報告書の出だしは、たとえばこんな具合だ。1926年(昭和元)12月に上げられた「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」から、典型的な文章を引用してみよう。
  
 陸軍大臣 宇垣一成殿
 本年度第〇師団に入営シタル思想要注意初年兵ハ六名ニシテ中三名ハ特ニ思想ノ根柢強因ナルモノノ如ク各々部隊長ニ連絡 言動視察中ナリ 状況別紙ノ如シ
  
 徴兵制は入営してくる人物を選べない、すなわちハナから軍人をめざす志願兵ではないため、多種多様な思想をもった若者たちが大量に入営してくることになる。特に、大正後期から昭和初期にかけては共産主義や社会主義、民本主義、自由主義、アナキズム、サンディカリズムなどさまざまな思想をもった初年兵が増え、いくら上官が「説諭」して考えを改めさせようとしても、逆に理屈をぶつけ合う議論ではまったく歯が立たなかったり、腕力で抑えつけようとしても組合運動を経験して来た筋金入りの「闘士」がいると、逆にやられかねないような危機感も報告書には見え隠れしている。
 現場から陸軍大臣や副官あての報告書では、ハッキリと明確に請願はしてはいないけれど、どうしても手に負えない兵卒たちは本人の不利や不名誉にならないよう、なんらかの理由をつけて穏便に除隊ないしは退官させるのが適切……といったようなニュアンスさえ感じとれるものさえある。「説諭」しようとした上官が、おそらく逆に思想堅固で闘志満々な兵卒に脅かされているような雰囲気だ。中には、争議の先頭に立っていた「兵隊やくざ」みたいな人物もいて、「てめえ、シャバに出たらタダじゃおかねえからな。おぼえてろよ」などと、脅迫された上官さえいたのかもしれない。
 中には理不尽な扱いを受けたら「抗争」も辞さずと、宣言してから入営する者もいた。1926年(大正15)1月の、金沢第九師団の報告事例をいくつか見てみよう。
  
 「自分ハ入営後軍規ニ服従スルモ不合理ナル制裁ヲ受クルトキハ下僚ヲ相手トセズ少クモ中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル意図ナリ」ト語レルコトアリ(中略) 宣誓式ニ於テ「如何ニ上官ノ命令ナリトモ反国家社会的行動ニハ服従スル能ハズ」トノ理由ノ下ニ最初宣誓ヲ拒ミタル (工兵第九大隊)
 入営前水平社同人ニ対シ軍隊ニ於テ差別的待遇ヲ為スニ於テハ徹底的糾弾ヲ為スベシ洩レ語リタリト云 (歩兵第十九聯隊)
  
入営生活.jpg
第九師団19260125.jpg
第三師団19260220.jpg
 また、名古屋第三師団では勤務中でもアナキズム研究をつづけさせろと、中隊長にねじこんだ初年兵がいる。1926年(大正15)1月の報告書から引用してみよう。
  
 入隊宣誓式ニ際シ直チニ署名セズ、中隊長ニ更ニ〇法第三条ノ説明ヲ求メシヲ以テ中隊長ハ之ニ答へ尚他人ヨリ不条理ノ取扱ヲ受ケタル時ハ上申ノ処置ヲ取ルコト許サレアルコトヲ説明セシ(中略) 又中隊長ニ在営間自己ノ研究ニ就キ自由ヲ許サレ度キ旨申出デタルモ中隊長ハ隊内ニテ主義ノ研究ハ許サザルコトヲ言ヒ渡セリ (歩兵第三十四聯隊)
 農民組合ニ関係シ岐阜県中部農民組合青年部ノ部長タリシコトアリ 間々過激ノ言ヲ吐ケルコトアリ (歩兵第六十八聯隊)
  
 また、休暇で外出旅行したら、そのままもどってこないエスケープ下士官や、尉官クラスの士官の中には「勉強したいのに忙しくて、もうやってらんないし!」と、ストライキまがいに勤務放棄をするなど、のちの日中戦争あたりから本格化したファシズム時代の陸軍に比べると、なんとも“牧歌的”な事件が次から次へと起きている。
 これらの報告書は、もちろんマル秘の印が押されて、陸軍省の資料室の奥へと仕舞いこまれていたのだろう。換言すれば、軍隊とはいえそれだけ人間臭い一面が大正期から昭和初期にかけての陸軍には、まだ色濃く残っていたということかもしれない。
 周囲の状況に刺激されたのか、あるいは初年兵の逆オルグにあって新たに思想を形成をしたものか、下士官が休暇をとったまま帰ってこないエスケープ事件を見てみよう。兵舎の所持品を調べてみると、アナキズム関連の書籍が見つかっている。1926年(大正15)4月に報告された、大阪第四師団から陸軍大臣あての報告書より引用してみる。
  
 大正十五年四月三、四日ノ両日奈良見物ト称シ外泊休暇ヲ願出所定ノ時間ニ帰営セザルヲ以テ伯太憲兵分遣所ト協力シテ捜索ニ従事シ其手懸ヲ得ル為 本人ノ手箱等ヲ点検シタル結果 無政府主義者ト認ムベキ逸見吉造(水平社幹部)石田政治(水平社幹事)両名ヨリノ来信ト主義ニ関スル左ノ書籍ヲ発見シ思想上ニ関シ相当研究セルコトヲハッケンセリ/左記/クロポトキンノ研究/大杉栄ノ日本脱出記/ゴーリキー全集第五編/啼レヌ旅/薄明ノ下ニ/解放/改造/自然科学/文章往来/アフガスチンノ懺悔録 (野砲兵第四聯隊)
  
閲兵式.jpg
第四師団19264026.jpg
近衛師団司令部(近美工芸館).JPG
 さらに、1927年(昭和2)2月には将校の少尉が、軍隊では多忙すぎて自身が進めている「支那に関する研究」が満足にできないのを理由に、いきなりいっさいの勤務を放棄してサボタージュし、懲罰として重謹慎30日を命じられたものの、その後も勤務放棄のストライキをつづけ、ついには退職が認められた事例も報告されている。
  
 (少尉は)精神ニ動揺ヲ来シ軍隊生活ヲ厭忌シ退職ノ手段トシテ素行ヲ紊シ隊務ヲ顧ミザル件ニ関シテハ既報ノ処 一月二十九日附免官ノ内達ヲ受ケ挨拶、整理ヲ済マシ翌三十日奉天ニ向ヒ出発セルガ支那事情ヲ研究セントスルモノゝ如シ (歩兵第七十三聯隊)
  
 彼ら軍内部のアナキズムや共産主義思想、あるいは社会主義思想などを少しずつ「説諭」(オルグ)して取りこみ、原理主義的社会主義Click!とでもいうべき思想が徐々に浸透して拡がった結果、陸軍皇道派によるクーデターとして爆発したのが、1936年(昭和11)の二二六事件Click!だという見方さえできうるかもしれない。
 1927年(昭和2)1月に、軍隊内へ配られそうになったアナキズム雑誌「無差別」に掲載の、『軍国主義ヲ吟味セヨ―無産青年諸君ヨ―』から、その一部を引用してみよう。全文漢字/カタカナで句読点もなく読みにくいので、ひらがな文に直し句読点を付加した。
  
 愛国と云ふ言葉も底を割つて見れば資本家の肥満し切つた懐中を余計に太くせんが為に、戦争が無ければ無益有害な軍閥領土的野心を満足せんが為に、そして彼等の存在を民衆にとつて意義あらしむべく俺達のたつた一つしかない生命を投出せと云ふ事になるのだ位の事は判つてきた。こうした意識が民衆の中に濃厚となつて人間的必然に、或は人道的主義立場人類平和の為に非戦的傾向を取るに至つた現今社会状態を見て取つた侒奸な奴ブルジヨアと軍閥共は俺達を尚ほこの上搾取せんために、何とかうまい考へはないかと頭を搾つた結果が彼の破壊的軍事思想の鼓吹を目的とする軍事教練と青年訓練所とである。
  
軍人会館(九段会館).jpg
少尉免官の件19270215.jpg
大久保射撃場解体1960.jpg
 1929年(昭和4)10月、竣工して間もない戸山ヶ原Click!大久保射撃場Click!で発見された、「軍隊ハ資本家ノ番犬ナリ/我等ハ真ノ国民ノ番犬ノ軍隊ナランコトヲ望ム」の落書事件Click!から、わずか6年と少しで国家を揺るがす二二六事件Click!が勃発している。

◆写真上:北ノ丸にある、近衛師団司令部(現・東京近代美術館工芸館)の師団長室の窓。
◆写真中上は、入営後に寝起きする兵舎。は、不合理な制裁を受けたら「中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル」と宣言する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)1月25日付け金沢第九師団報告書。は、入営後も「主義研究」の継続を申請する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)2月20日付け名古屋第三師団報告書。
◆写真中下は、代々木練兵場Click!における閲兵式。は、休暇中の伍長が出奔し所持品から無政府主義関連の書籍が見つかって動揺する、1926年(大正15)4月26日付け大阪第四師団報告書。は、明治期に竣工した近衛師団司令部の全景。
◆写真下は、東日本大震災の直前に撮影した旧・軍人会館(元・九段会館/解体)。は、勤務放棄のストライキで免官になった少尉の1927年(昭和2)2月16日付け最終報告書。は、1960年(昭和35)に撮影された解体が進む戸山ヶ原の大久保射撃場。
おまけ
10月10日になっても、セミの声が鳴きやまない。秋の深まりを感じさせるヒヨドリとアブラゼミ、そして秋の虫の3重奏はめずらしいので記録。

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子ども時代の記憶はいい加減。 [気になる映像]

聖路加病院.JPG
 子どものころの記憶ほど、あてにならないものはない。そろそろ黄昏どきになり、クタクタになって遊びから帰る午後6時ごろ、風呂の次には夕食が待っていた。原っぱでの草野球に、防風・防砂林の松林での“基地”づくり、夏なら午後いっぱいプールで泳ぎ、たまには浜辺に出て三浦半島や伊豆半島を眺めながら難しい蝉凧Click!揚げと、遊びたい放題に遊んでいた時代だ。わたしが小学生だったとき、1960年代後半の海岸っぺりClick!に住んでいたころの情景だ。
 親父は当時、忙しい設計や建設の仕事Click!に忙殺されていたのでたいていは帰りが遅く、先に夕食を済ませては宿題もせずにあとは寝るだけという生活だった。夕食をとりながら居眠りをしないよう、特別にTVを観ながらの食事が許されていた時間だ。そのとき、6時30分からはじまるドラマを観ていたのだが、なぜか強く印象に残っている。NHKの『素顔の青春』という連続ドラマで、キリスト教系の病院に付属する看護婦養成学校の物語だったと思う。もっとも、ドラマのタイトルはずいぶんあとから判明したもので、数年前まではとうに忘れていた。
 ドラマ名が判明したのは、そのテーマソングのメロディや歌詞をかなり憶えていたからだ。小学生の記憶力はあなどれない……と、タイトルとは矛盾するようなことを書いてしまうが、先年、何気なく60年代のCMをYouTubeで検索していたら、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』Click!という曲がひっかかった。憶えていた歌詞やメロディから、「もしや?」と思って聴いてみると大当たりだったのだ。作詞が岩谷時子で、作曲がいずみ・たくだったというのも知った。そして、このテーマソングが使われたドラマが、『素顔の青春』(NHK/1967年)というタイトルだったことも判明した。
 小学生のわたしが、なぜNHKの看護婦養成学校を舞台にした、子どもにはたいして面白くもなさそうなドラマを好んで観ていたのかといえば、「マタンゴ」でゴジラよりも強いキングギドラを連れてやってきた「X星人」の水野久美Click!が、白衣の看護婦役で出演していたからだ。この南洋の島に棲息するキノコのお化けから怪獣連れの宇宙人のあと、ほかでもない白衣の天使に姿を変えた水野久美が、子ども心に気になって気になってしかたがなかったのだ。だから、ほかの若い看護学生役の女の子たちなどどうでもよく、ただ水野久美の出演のみに興味が集中して観ていたのを憶えている。
 だが、あくまでも阿部京子や春丘典子、伊藤栄子、摩耶明美の4人の看護学生たちが物語の主人公であり、彼女たちがさまざまな経験を重ねて一人前の看護婦になるまでを描いた青春ドラマなので、いつも水野久美が登場するとは限らない。だから、彼女が出てこないと遊び疲れから、夕食の途中でつい居眠りをはじめてしまうのだ。すると母親が、「ほら、X星人が出たわよ!」と叫んで起こしてくれ、わたしはハッとして急いで白黒のTV画面に目を向けると、看護婦姿の水野久美が映っていて満足しながら食事をつづける……というような光景が日々繰り返された。
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 キリスト教系の看護婦養成学校では、入学して数年たつとチャペルの祭壇にある十字架の前で「戴帽式」が行なわれる。火のついた蝋燭を片手に、彼女たちはナイチンゲールの誓詞を読み上げるのだが、子ども心にも強く印象に残るシーンだった。大人になってから、ドラマのモデルになった病院に付属する看護学校とは、築地にある聖路加病院Click!か下落合にある国際聖母病院Click!だったのではないかと、漠然と想像していた。ところが、『素顔の青春』はNHK大阪が制作したドラマであり、大阪市内にあるという設定の「城南大学付属看護学院」が舞台だったのだ。
 改めて出演者を見ると、当時のわたしはまったく気づかなかったが、大阪出身の俳優たちが大半を占めている。同作品の出演者は、主人公である上記4人の看護学生と水野久美をはじめ、毛利菊枝、小坂一也、北沢彪、門之内純子、中村芳子、大塚国夫、近藤正臣、久富惟晴、中村雁治郎、浪花千栄子、西山辰夫、伊吹友木子、加島潤、桜田千枝子、曾我廼家明蝶、小田草之介、山田桂子、池田和歌子、武原英子などだ。彼ら(彼女ら)の多くは、まちがいなく大阪弁を話していたはずなのだが、まったく印象に残っていないのは、水野久美や看護学生たちが関東弁をしゃべっていたせいだからなのか?
 このドラマは、NHK総合テレビの月曜から金曜までの午後6時30分から放映され、1年間もつづいていたらしい。毎日、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』を夕食どきに聴かされつづけ、「いつ、X星人にもどるのだ?」と看護婦姿の水野久美を観ていたわけだから、どうりで強く印象に残ったわけだ。原作者は、木下惠介Click!プロダクションの脚本家・楠田芳子で、当時のエッセイが残っている。
 1967年(昭和42)に発行された「グラフNHK」10月15日号所収の、楠田芳子のエッセイ『“青春”いまむかし』から少し長いが引用してみよう。
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 NHKで決めてくれた<素顔の青春>とは、好ましい題名だと思う。一年間、自分のすべてをかたむけてとりくむ作品だから、わたしがきらいなわけはない。この作品の中で、わたしは人間のごく平凡な生活の中にある哀歓を、由紀子という主人公の若い目を通して描き、生きてゆくことの大切さ、美しさを、また平凡な人生の中の心にしみるドラマを書きたいと思った。/看護婦というきびしい職場の中で成長して行く彼女を、わたしは一生懸命自分の心の中に置いて、愛しもし、いたわりもしている。また彼女を囲むたくさんの登場人物のすべてが、わたしの胸の中でブツブツいったり、笑ったりしているような気さえもする。/このドラマのために、たびたび看護学院を訪れ、先生がたや学生の皆さんからお話をお聞きした。教師も学生も、わたしの想像を越えた自由と規律とを持っていることに感慨を抱いたのは歳のせいであろうか。そしてある日フト自分をふりかえってみる。わがままで激しく、そのくせ無力な少女が中都市の大通りをスタスタ歩いている。上級生には敬礼、飲食店には立入禁止、外出には制服着用、髪は三つ編み、スカート丈は床上三十センチ、ひだの数は……ああ、もう忘れました。あれもいけない、これもするな。なにが楽しくて生きていたのかと思うほど制約の多かった学生時代で、いま、わたしの身について時たま子どもたちをあきれさせることといったら、簡単な電気製品の修理であろう。刃物のとぎかた、柳行李をカメの子型に荷作りする方法など、満州の開拓村へ花嫁に行ったときのために教育されたのだから、なんともわびしく、味けない思いがする。
  
 いまだ、生活も思想・信条も不自由だった戦争の記憶が色濃い1960年代、作者の楠田芳子は看護学校の学生たちをうらやましく眺めながら、『素顔の青春』を書いていたのがわかる。「子どもたちをあきれさせる」彼女の得意ワザとは、男たちが前線にいってしまい男手のない“銃後”の生活でも、なんとか女子たちだけで切り盛りできるよう、身につけさせられた生活上の「技術」ばかりだ。
 でも、午後6時30分という子ども番組の時間帯で、「人間のごく平凡な生活の中にある哀歓」を描こうとした作品に、「マタンゴ」で「X星人」の水野久美をキャスティングしたらダメでしょ。子どもの頭の中では、あらぬ妄想がどこまでも際限なく拡がりつづけ、「生きてゆくことの大切さ、美しさ」どころではなく、いつ妖しげな媚態から彼女の正体がバレるのか、ウキウキ気分で1年間をすごしてしまったような気がする。
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 そういえば最近、水野久美が「マタンゴ」でも「X星人」でもなく、「口裂け女」Click!になったというウワサを耳にしたので、再び「とうとう正体を現したな」とウキウキ気分が再燃している。小学生のころから現在にいたるまで、好きな女優のひとりなのだ。

◆写真上:築地にある1874年(明治7)創立の、聖路加病院の旧・病院棟(1933年築)。
◆写真中上は、『素顔の青春』で印象的な戴帽式シーン。は、同作品で山崎葉子先生役の水野久美(右)。『素顔の青春』関連の写真は、いずれも「グラフNHK」より。下は、もう一生忘れられない「マタンゴ」()と「X星人」()の水野久美。
◆写真中下上左は、『素顔の青春』の原作者・楠田芳子。上右は、同ドラマの看護学生・杉本由紀子役の阿部京子。は、1931年(昭和6)に創立された下落合の国際聖母病院。は、聖路加病院のすぐ近くにある1874年(明治7)創立の築地教会礼拝堂。
◆写真下は、ドラマが放映されたころのナショナル・パナカラーと街中を走っていた大衆車ファミリア。は、倉本聰のドラマ『やすらぎの刻-道』(テレビ朝日/2019年)で「口裂け女」に変身した水野久美。(右から2人目) ちなみに左から右へ、いしだあゆみ、加賀まりこ、浅丘ルリ子Click!、大空真弓、水野、丘みつ子のお化けたち。中でも「お岩」「山姥」「口裂け女」が秀逸で、そのまま『金曜日のお岩たちへ』『バッケが原の山姥』『妖怪大戦争-口裂け女vsマタンゴ-』とかいう映画でも撮ってほしい。

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下落合を描いた画家たち・安藤広重/二代広重。 [気になる下落合]

藤稲荷社1.JPG
 下落合の御留山Click!中腹にある藤稲荷(東山稲荷)Click!には、水垢離を行なえる滝があったというのだが、いったいどのような形状の滝で、御留山のどこにあったのかがハッキリとはつかめなかった。1836年(天保7年)に刊行された斎藤月岑の『江戸名所図会』の巻之四「天権之部」Click!を見ると、長谷川雪旦の挿画には雑司ヶ谷道Click!に面した御留山の麓、藤稲荷の鳥居の東側に、どうやら小滝のような水流が見てとれるので、おそらく茶屋などが並んだ雑司ヶ谷道に面して、高さ数メートルの落水があったのだろうと想定していた。だが、それが具体的にどのようなかたちの滝で、滝の周囲の風情がどうだったのかまでは、『江戸名所図会』の表現では抽象的すぎて不明だった。
 同書には「藤杜稲荷社」として記載されているが、その記述はそっけない。
  
 藤杜稲荷社 岡の根に傍ひてあり また東山稲荷とも称せり 霊験あらたかなりとてすこぶる参詣の徒(ともがら)多し 落合村の薬王院奉祀す
  
 また、『江戸名所図会』よりも40年ほど前の寛政年間に書かれた、金子直德の『和佳場の小図絵』でも、同稲荷社の記述はわずかだ。
  
 東山稲荷大明神 俗に藤のいなりと云(いう) 大藤ありしが 今は若木あり 別当落合村真言宗薬王院と云
  
 おそらく『江戸名所図会』の斎藤月岑は、大江戸(おえど)Click!西北の資料である金子直德の『和佳場の小図絵』を参照しているとみられるが、滝の記述はどこにも表れない。同書に金子直德が添付した絵図「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」には、藤稲荷は「東山稲荷」として採取されているが、滝の表現はまったく見られない。
 また、金子直德が描いた画文集『若葉抄』の「東山藤稲荷社」にも、滝はどこにも採取されていない。幕末に作成された、堀江家文書のひとつである「下落合村絵図」には、下落合氷川社の北側(実際は北東側)に「藤稲荷」が描かれているが、こちらも滝の表現はない。だが、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』には、金子直德のみの著作ばかりでなく多種多様な資料を参照しているのだろう、藤稲荷社の滝が登場している。
 同書は、著者が実際に訪れた当時の情景(戦後の1950年代)と、江戸後期の情景描写があちこちで混在しているとみられるが、藤稲荷について少し長めに引用してみよう。
  
 落合氷川神社の東北の高地の麓に碑を建て、それに東山正一位稲荷大明神と彫り付けてある。つまさきのぼりに四、五十段の石段を登ると、頂上に宮社及び庵室がある。麓には瀧があり、水垢離場があり、社の北には縁結びの榎という神木がある。また大藤があってことに名高い。東南一面の耕地を展望して、風色見事である。春は花・時鳥によく、夏は蛍一面に飛びかう有様は、まことに奇観である。秋は紅葉、冬は雪、ことに仲春、紫雲草(れんげそう)の一面に咲きむれているのは、毛氈を敷いたようで、まことに雅景というほかない。/当稲荷社は、王子稲荷よりも年暦が古く、むかし六孫王源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天(だきにてん)の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。什物には、正宗の太刀一振があった。(中略) さらに水垢離場の崖には石の小天狗が据え付けられてある。寛延三年の作である。また外(ほか)に不動尊の石像もある。これには寛延五年刻とある。
  
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金子直德「若葉抄」東山藤稲荷社.jpg
 雑司ヶ谷の海老澤了之介は、下落合の事情にうとかったのか目白崖線につづく丘の地元の“山名”を記していない。ここに登場する「高地」は御留山のことであり、藤稲荷社の本殿があったのは「頂上」ではなくて中腹だった。御留山のピークは、藤稲荷の境内からさらに50mほど山道を西へ登ったあたりだ。
 また、「神社(じんじゃ)」Click!は明治以降の薩長政府教部省が規定した呼称だし、「東山正一位稲荷大明神」の石碑は戦後に建立されたものだ。さらに、寛延年間は4年までで「五年」は存在しない。単に「寛延四年」の誤写か、あるいは不動明王は寛延4年に彫刻されたが奉納は翌年に予定されていた可能性もある。寛延4年は10月27日までで、以降は「宝暦」と改元されている。
 御留山の西つづきの大倉山(権兵衛山)Click!と同様に、御留山にも神木があったのがわかる。大倉山の神木は樫の木Click!だったが、御留山の神木は榎だったらしい。板橋の大六天Click!にある「縁切り榎」Click!は昔から有名だが、下落合には「縁結び榎」があったのだ。この神木の伝承が現代までつづき榎が残っていたら、藤稲荷社は下落合の思わぬ観光名所(いまならパワースポット)になっていたかもしれない。
 御留山山麓の蛍狩りClick!や、三代豊国・二代広重の「書画五十三次・江戸自慢三十六興」第30景『落合ほたる』Click!について、あるいは奉納されたとみられる「正宗の太刀」Click!についてはすでに記事にしているので繰り返さない。
 由来が不明なほど古い藤稲荷社には、ヒンドゥー教に由来する陀祇尼天(荼吉尼天)が奉られているというが、もちろん後世(室町期以降)によるものだろう。「源経基の勧請といわれ」る伝承が残っているようだが、わたしはこれも後世の付会(後付け)由来ではないかと強く疑っている。山には深い雑木林が拡がり、御留山からは各所で水量が豊富な泉水が噴出し、平川Click!(旧・神田上水→現・神田川)に向け急峻なバッケ(崖地)Click!が連なる地形から、由来が不明な藤稲荷は朝鮮半島から畿内へと持ちこまれた農業の神「稲荷神」などではなく、周囲の考古学的な発掘成果や旧蹟・地名・川(沢)名などから、もちろん古代の大鍛冶=タタラの神「鋳成神」Click!が、室町期ないしは江戸期に転化して稲荷社になっているのではないかと想定している。
 なぜなら、藤稲荷社に奉納されていたのが真贋の課題はともかく、目白=鋼の代表的な作品である刀剣(「正宗」の太刀)である点に留意したい。また、藤稲荷から西へ1,000m余のつづき斜面から戦時中、改正道路(山手通り)Click!の工事現場でタタラ遺跡をしめす鐡液Click!(=金糞/かなぐそ)、すなわちスラグが少なからず出土しているからだ。
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広重「絵本江戸土産」藤稲荷.jpg
 さて、なかなか見つからなかった藤稲荷の水垢離場にあった滝の図絵だが、ようやくその全貌を描いた作品を見つけることができた。よく地域史料や歴史資料に引用される、地域の風景を描いた浮世絵や『江戸名所図会』などからいったん離れ、江戸へ物見遊山にやってきた見物客向けに土産物として売られていた冊子(観光ガイド)類を参照したら、藤稲荷の滝が描かれていたのだ。安藤広重Click!と二代広重が描いた『絵本江戸土産』の第9編に、藤稲荷の滝が大きくフューチャーされている。
 同書の全10編が、日本橋馬喰町の金幸堂からひと揃いで出版されたのは1864年(元治元)のことだが、安藤広重は1858年(安政5)にすでに死去している。第7編までが安藤広重が描き、それ以降は二代広重が描いたとされているが、モチーフとなった場所へ師と弟子が連れ立ってスケッチに出かけているのは、それ以前からスタートしていたかもしれない。同書の藤稲荷のページから、添えられた文を引用してみよう。
  
 藤稲荷に瀧あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ
  
 これを読むと、少なくとも二代広重は夏場に藤稲荷へと出かけ、水垢離場に入って実際に流れ落ちる滝に打たれてみたのかもしれない。だが師弟が連れ立ち、それ以前に下落合をスケッチしているとすれば、ふたりで滝の下までいって冷たい湧水のしぶきを浴びている可能性もある。ただし、安藤広重はそのころ60歳近い年齢だったから、実際に現場へ赴いたとしても「冷気肌を徹して」は体調が悪くなるので、「鎮平、おまえ浴びてこい」「師匠、もう10月ですぜ。勘弁してくださいよう」「よし。じゃ、わたしがいく」「師匠がいくなら、しゃあねえな、わたしもご一緒しますがね」「どうぞどうぞ」「……オレは上島か!」と、二代広重に任せただろうか。
 絵を細かく観察すると、不動明王の石像下には湧水を落とす龍の口が設置されているのが見える。おそらく銅製の龍の口だろうが、滝の正面から見て流水を剣に見立てた、刀剣の彫り物に多く縁起のよい「剣呑み龍」、つまり不動明王の化身として象徴させたものだ。海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』に登場している石像の「小天狗」は、滝の右手に設置されていたものか描かれていない。
 手前の雑司ヶ谷道沿いには、“お休み処”とみられる式台や屋根に板か簾を拭いた茶屋が並んでいるのは、『江戸名所図会』などの情景と同じだ。このような仕様の茶屋は、1909年(明治42)10月発行の『東京近郊名所図会』Click!によれば明治末まで残っており、東京郊外を散策する観光客や、近衛騎兵連隊Click!演習兵士Click!を相手に休憩所として商売をしていたとみられる。下落合には、明治末に3ヶ所の茶屋が記録されており、2ヶ所は下落合4丁目(現・中井2丁目)の小上(蘭塔坂Click!上)だが、もう1ヶ所は藤稲荷からもう少し西へ歩いた下落合氷川明神社Click!近くの本村にあった。
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 広重の『絵本江戸土産』には、下落合の藤稲荷だけでなく落合周辺に散在する名所が、あまり引用される機会もなく、めずらしい構図で描かれている画面が少なくない。機会があれば、高田村や戸塚村、雑司ヶ谷村、小石川村などの情景を改めてご紹介したい。

◆写真上:急峻な崖地がつづく、御留山の中腹にある藤稲荷社の現状。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』に添えられた「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」より。田島橋の犀ヶ淵Click!まで採取されているのに、藤稲荷(東山稲荷)の滝が描かれていない。は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』に採取された藤稲荷の滝。は、金子直德『若葉抄』に著者が描いた藤稲荷だが滝が見えない。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された荒廃が進んだ藤稲荷の境内。は、広重『絵本江戸土産』に描かれた藤稲荷の水垢離場。
◆写真下は、広重『絵本江戸土産』に描かれた滝の拡大。は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村図」をもとに各画面の描画方向を書き入れたもの。ただし、いずれも鳥瞰図のため視点が高い。は、藤稲荷の滝があったあたりの現状。1940年(昭和15)からスタートした第一徴兵保険(のち東邦生命)の宅地開発Click!で、御留山の西南部が崩され道路(おとめ坂)が敷設されている。また、戦後は大蔵省の官舎建設のために、御留山東側の深い谷戸Click!も地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋められた。

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大隈重信邸門前の妖怪「枕返し」。 [気になるエトセトラ]

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 So-netブログのドメイン変更にともない、FacebookなどSNSとの連携やカウントがすべての記事でゼロにもどり、外部からのリンクも、昨年のSSL設定時と同様無効になった……と思いきや、今回はリダイレクトできるではないか。これは外部サイトを修正する、膨大な手間ヒマをかけずに済んだかもと思っているが、油断は大敵。リダイレクトがいつまで有効か不明だし、今回のWebサーバはSSL未対応なので、ほどなく再対応などといだしかねない。メンテ作業がチームとして対応できるならまだしも、わたしひとりのメンテでは2,300記事ほどもあるので、そろそろ限界なのだが……。
  
 親父のアルバムを整理していたら、戦災で焼ける直前に撮影された大隈重信邸の写真が出てきた。早稲田第一高等学院Click!の制服を着た親父たちが前面に写り、背後には瓦職人が屋根を修繕している大隈重信邸がとらえられている。ゲートルを巻いた高校生たちの様子から、1944年(昭和19)ごろの撮影だとみられる。(冒頭写真)
 ほかにも、同高等学院(大学教養課程)から早稲田大学理工学部へ進学予定の、学徒出陣Click!からまぬがれたクラスメイトたちとともに写る、大隈講堂Click!の写真も残っていた。大隈講堂の背後には、当時はいまだ現役で使われていた焼却炉の煙突がとらえられている。親父たちはこのあと、高等学院の授業が停止されて勤労動員に駆りだされ、実際に卒業試験が実施され大学へと進学(復学)できるのは、敗戦後の1947年(昭和22)4月以降のことになる。大隈講堂はともかく、戸塚町下戸塚稲荷前68~108番地(現・新宿区戸塚町1丁目)にあった大隈邸とその庭園の写真は、戦災で焼けてしまったので貴重だ。
 いつかの記事でも取り上げたが、明治中期の大隈庭園で確認できる瓢箪型の突起(築山にされていたと思われる)や、いくつかの円形あるいは楕円形の丘が気になる。これらは、戸塚(十塚Click!)の地名由来となった富塚古墳Click!や、百八塚Click!の伝承に連なる古墳の墳丘ではないかと疑われるからだ。大正初期に書かれた大隈邸の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)から、一部を引用してみよう。
  
 大隈伯爵邸 下戸塚の東隅にあり、牛込区早稲田鶴巻町に接するを以て、俗間には早稲田の大隈邸を通称す、同邸はもと高松藩主松平頼聰の別邸なりしが、明治六年以後松本病院、英学校等の敷地となり、同十七年始めて伯の所有に帰せり、其の庭園は慈善会若くは公共団体の集会等には何人にも随意に之を使用せしむ、(中略) 此処より庭園に入る路と菜園に入る路とに岐る、即ち庭園に入れば左方小丘の上に一宇の神祠あり、神祠の下に数寄屋あり、其の稍々前方なる小丘には老檜三株聳立し、樹下に大理石の平盤を置く、一隅に桜樹ありて露仏を安置し、一隅に古松ありて石燈籠を配す、此の丘と相並べる一丘は悉く松林にして渠流を隔てゝ桜楓の林と対す、渠水々潺々丘を遶りて流る、前方芝生の画くる処に邸舘あり、(後略)
  
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 大隈邸の敷地にあった「松本病院」とは、幕府の御殿医だった松本順Click!(松本良順)の病院のことだ。松本順は、日本初の海水浴場Click!大磯Click!に開設した人物として湘南海岸ではつとに有名だが、大磯のこゆるぎの浜Click!に面して建つ藩主筋の鍋島直太郎邸と陸奥宗光邸にはさまれた大隈重信の別邸Click!(現存)も、松本がなんらかの関与をしている可能性がある。子どものころ、親に連れられて大磯の旧・東海道沿いの松並木を散歩するたび、親父が「ここが大隈重信の別荘だ」と指さしていたのを思いだす。もうひとつの「英学校」は、松本病院に隣接して建てられていた「明治義塾」のことだ。やはり明治初期に、山東直砥が開設した英語を学ぶ学校だった。
 また、庭園の小丘の上には「神祠」が建立されていたり、「露仏」が安置されているのが興味深い。もちろん、これらの史蹟は大隈家が配置したものではなく、もともとそこにあった小丘に建立されていたものを、そのまま庭園の風情に取り入れているとみられる。ちょうど、華頂宮邸の庭に残された亀塚Click!や、松平摂津守の下屋敷にあった津ノ守山=新宿角筈古墳(仮)Click!、水戸徳川家上屋敷(後楽園)に残された後楽園古墳、駒込にあった土井子爵邸の祠が奉られた稲荷古墳などと同様のケースだ。「神祠」は、かなり歴史のある石祠を感じさせるし、「露仏」は室町期に百八塚を供養したと伝えられ、大隈邸のすぐ南にある宝泉寺にもゆかりが深い僧・昌蓮Click!の仕事を連想させる。
 さて、大隈邸の門前に位置し、昌蓮の百八塚の伝承が色濃く残る宝泉寺に、面白い妖怪譚が伝えられているのでご紹介したい。宝泉寺の境内には、江戸末期まで毘沙門堂が建立されていたが、おそらく明治政府の廃仏毀釈で寺が困窮した際、境内を切り売りしたのか毘沙門山とともに現在は残されていない。当初は4,540坪あった境内が、大正期には700坪ほどに縮小されている。
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 その毘沙門堂に宿泊した人々は、翌朝になるとみな驚愕することになる。自身が就寝していた場所から、布団や枕とともにとんでもない位置にまで身体が移動しているからだ。再び、『豊多摩郡誌』より引用してみよう。
  
 毘沙門堂の怪談 維新の頃まで大字下戸塚宝泉寺旧境内に毘沙門堂ありたり、其の地今は石黒邸内に入れり、旧時の堂は丹塗りにして左まで大なる建物にあらざりしも、妖怪ありて、堂内に宿泊するときは、寝入れる間に其の人の位置変ぜらるゝが例なりしよし、村の若人等そは不可思議なる事よとて、再三試みたるに、皆な夢の間に枕の向きを変へられ、孰れも怪み怖れて再び試みんものもなかりしよし。
  
 戸塚村の村民は、そろいもそろって寝相が悪かったのでないとすれば、明らかに妖怪「反枕(枕返し)」のしわざだと思われるが、同様の妖怪譚あるいは類似の伝承を近辺では聞かないので、宝泉寺の毘沙門堂だけに出現していたものの怪だろうか。
 枕返しの怪談は、関東地方や東北地方ではよく耳にするが、その正体はどの地方でもいまいちハッキリしない。東北では、枕返し=座敷童(ざしきわらし)とされている地域も多いようだ。また、その部屋で死んだ亡霊のしわざとか、実は化け猫Click!が真夜中に悪さをしているのだとか、人をたぶらかす狐狸のしわざだとか、各地にはさまざまな説があって一定しない。その姿も、子どもや坊主、怖ろしい幽霊、鬼、化け猫、はては美女にいたるまで多種多様だ。ちなみに、北陸地方に伝わる美女の枕返しは、その姿を目にしたとたんに死ぬといわれているおっかない妖怪だ。
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画図百鬼夜行「反枕(まくらかえし)」1776.jpg
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 晩年に早稲田大学で教鞭をとっていた小泉八雲Click!だが、宝泉寺の毘沙門堂怪談を耳にしていたら、さっそく同寺に取材を申しこんでノートに記録していただろうか。あるいは、大隈重信は肥前(佐賀)の鍋島藩の元藩士なので、「鍋島屋敷ノ化ケ猫Click!騒動ッテ、マジデスカ?」と総長室に突撃取材を試みていたかもしれない。w

◆写真上:1944年(昭和19)に撮影されたとみられる、下戸塚の大隈重信邸と大隈庭園。
◆写真中上は、1917年(大正6)の写真に人着がほどこされた大隈邸。は、冒頭写真と同じく1944年(昭和19)に撮影された大隈講堂。は、1886年(明治19)の1/5,000地形図にみる大隈邸。庭園のあちこちに、気になる突起が採取されている。
◆写真中下は、1909年(明治36)に撮影された大隈庭園で、北側の小丘の上から撮影されたとみられる。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる大隈邸と宝泉寺。は、大磯のこゆるぎの浜にある大隈重信別邸。
◆写真下上左は、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)。上右は、1776年(安永5)に出版された『画図百鬼夜行』(前編/陰の巻)。は、同書に収録された「反枕(まくらがえし)」。は、現在の宝泉寺境内で左手のビルは早大法学部8号館。

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