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中国民謡を演奏する陸軍軍楽隊。 [気になる音]

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 少し前に、戸山ヶ原Click!の陸軍軍楽学校や戸山学校軍楽隊の野外音楽堂にいまでも残されている、良質な玉砂利をふんだんに使用したコンクリート塊Click!についての記事を書いた。そのとき、野外音楽堂では実際にどのような吹奏楽曲が演奏されていたのかに興味をもった。戦後1956年(昭和31)に復元された、軍楽隊野外音楽堂(現在は解体されて再整備され、屋根のない四阿風のモニュメントに変わっている)では、かなり大編成の軍楽隊が演奏できたと思われる。(冒頭写真)
 野外音楽堂はコンクリート製で、ステージは低層の3段に分かれており、両側に反響壁が設置されている。いちばん手前の広いステージは、大編成の際は楽団員が、小編成の場合は将官やゲストのイスが並べられたのかもしれない。音楽堂のステージは、窪地の南南東側に向けて口を開いており、なんらかの記念日などで観客が多い場合には、平坦な客席ばかりでなく周囲の斜面にもあふれていただろう。
 箱根山の北東に位置する野外音楽堂は、戦前までふたつの湧水池が形成されていた南東側の段斜面にあたり、江戸期の尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)Click!だったころは、この位置にも水が湧き小流れや小池が形成されていた可能性がある。音楽堂は三方が傾斜地となる窪地として造成されたため、そこで演奏された楽曲は野外にもかかわらず、特に南東側に向けてよく反響したかもしれない。
 明治期に陸軍軍楽隊が設立されたころ、当然だが洋楽も洋楽器も経験のない日本では、ヨーロッパから専門分野の外国人を招聘した。いわゆる“御雇外国人”だが、陸軍ではフランスとドイツから教師を招いている。フランスからは、陸軍軍楽隊長の経験があるシャルル・ルルーが来日し、陸軍軍楽隊のために『抜刀隊』や『陸軍分列行進曲(扶桑歌)』Click!などを作曲している。2曲目は、1943年(昭和18)に「小雨にけぶる神宮外苑競技場……」の実況で有名な、学徒出陣の壮行会Click!で演奏されたタイトルで、文系の学生を戦場へ送ったいまやおぞましい曲だ。
 また、ドイツからは、やはり海軍軍楽隊長の経験があるフランツ・エッケルトが招聘された。エッケルトは陸軍軍楽隊へ教師として赴任する前後、宮内省雅楽課の顧問もつとめていたので、『君が代』の吹奏楽への編曲や『哀の極』などを作曲している。1899年(明治32)に帰国するが、再び東アジアへやってきて今度は朝鮮で李王朝の音楽教師をつとめている。1910年(明治43)の日韓併合で教職を失うが、そのまま朝鮮にとどまり民間での洋楽普及に尽力し、ドイツにもどることなく現地で死去している。エッケルトの墓は、現在でも韓国国内にある。
 さて、陸軍軍楽隊(のち陸軍戸山学校軍楽隊と呼称された)は、どのような曲を演奏していたのだろうか? いわゆる「軍歌」「軍楽」はもちろんだが、ときにシューベルトやベートーヴェン、ワグナーなどエッケルト故国の作品も演奏したらしい。また、軍楽隊のメンバーが作曲した作品も、積極的に演奏していた。さまざまな学校の校歌をはじめ、李香蘭Click!出演の映画音楽(国策映画)用に作曲したテーマ音楽Click!の演奏、有名な歌曲や日本民謡の編曲・演奏なども手がけている。陸軍軍楽隊の出身者で、戦後に活躍することになる作曲家には芥川也寸志や団伊玖磨、萩原哲晶、奥村一などがいる。
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 先日、「MUSIC MAGAZINE」(2019年9月号)を読んでいたら、寺尾紗穂のエッセイ『戦前音楽探訪』の中に上記のフランツ・エッケルトの名前と、陸軍戸山学校軍楽隊のネームが出てきて、思わず声を出して反応してしまった。陸軍軍楽隊の演奏曲の中には、中国の民謡が含まれていたことを初めて知ったからだ。いまでも演奏され、唄われる機会も多い中国民謡『太湖船』Click!だ。それをフランツ・エッケルトが行進曲として編曲し、『太湖船行進曲』Click!として軍楽隊のレパートリーに加えている。
 確かに、どこかで聴きおぼえのある行進曲で、全体がヨーロッパの協和音のように構成されてはいるが、ふいに中国の旋律が顔をのぞかせたりする。彼が編曲した『君が代』(のちに低音部2ヶ所が修正されるが、現在でも基本的にそのまま)も中国の旋律を思わせる響きがあるが、おそらく中国の旋律も日本の旋律も大雑把に“東アジアモード”とでもカテゴライズして、作曲や編曲に用いたものだろう。明治期の日本では、いまだヨーロッパの協和音よりも中国の旋律のほうに、より多くの親しみを感じていたのかもしれない。だが、今日ではあたりまえだが日本国内でさえ、それぞれ地方によっては地域ベースのモード(旋律)はかなり異なっている。
 ではなぜ、フランツ・エッケルトは日本の陸軍軍楽隊に、中国民謡の「太湖船」を取り入れたのだろうか? 『戦前音楽探訪』から、少し引用してみよう。
  
 その彼が作った「太湖船行進曲」は、元は「膠州湾行進曲」として、明治31年のドイツによる山東(膠州湾)租借の報を知って作曲されたものらしい。明治39年10月には日比谷公園で陸軍軍楽隊によって演奏もされている(『本邦洋楽変遷史』)から、このころから民間にも広まっていった可能性があるだろう。ドイツが山東を租借という名で99年間占領するとした、その喜びから、中国民謡と管弦楽を合わせたこの曲を日本にいたエッケルトは作ったのだろうか。
  
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 「山東(膠州湾)租借」とは、1898年(明治31)に渤海湾と黄海の間にある山東半島の南部一帯を、ドイツが清国政府に圧力をかけて租借・統治する「膠州湾租借条約」を締結したこと、要するに植民地化することに成功したことをさしている。この租借地獲得によって、アジアへの進出に出遅れたドイツは、東アジアに橋頭保を確保したことになるが、それを祝うためにエッケルトは『太湖船』のメロディーラインを拝借して、『膠州湾行進曲』を作曲(編曲)しているとみられる。
 でも、陸軍軍楽隊が演奏するときは『膠州湾行進曲』ではなく、原曲の名を冠して『太湖船行進曲』としたのは、中国への配慮からなどではなく、欧米列強のアジア侵略に対する軍内部の反感や警戒感からではないだろうか。軍楽隊が日比谷公園で同曲を演奏した1906年(明治39)、日本は日露戦争に勝利してロシアの南下を喰い止め、「アジアの盟主」を自任しはじめていたころだ。下落合にあった東京同文書院Click!(=目白中学校Click!)には、欧米の侵略から祖国を救い独立を勝ちとるため、数多くの中国人留学生Click!ベトナム人留学生Click!が参集していた時期と重なる。
 だが、1914年(大正3)に日本は日英同盟を口実にして山東半島のドイツ租借地を攻撃・占領すると、翌1915年(大正4)にはときの袁世凱政府に対華二十一カ条の要求を突きつけ、ドイツの租借地ばかりでなく、より広範囲の権益拡大を要求することになる。このとき以来、『太湖船行進曲』は中国人にとって侵略国ドイツを象徴する楽曲ではなく、新たに侵略国として立ち現れた日本を象徴する楽曲へと変異していったのだろう。事実、この要求の直後から中国各地で反日のデモやストライキ、暴動が頻発することになる。
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 原曲の『太湖船』は、中国の江蘇省にある太湖のたそがれどき、湖面の風を受けた船がすべるように静かに進む情景を唄ったものだが、『太湖船行進曲』のほうは中国大陸を奥へ奥へと際限なく踏み入ってくる、軍靴の響きを感じさせるような曲になってしまった。

◆写真上戸山ヶ原Click!にあった、軍楽学校の近くに設置された野外音楽堂(戦後復元)。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる軍楽隊の野外音楽堂が設置された位置。は、1947年(昭和22)の空中写真にとらえられた野外音楽堂の残滓(復元前)。は、野外音楽堂の現状で東西南を斜面に囲まれている。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に東京駅前で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。下左は、ドイツの御雇教師フランツ・エッケルトの肖像。下右は、1928年(昭和3)にビクターから発売された『太湖船行進曲』のレーベルで演奏は陸軍戸山学校軍楽隊。
◆写真下は、1944年(昭和19)3月10日の陸軍記念日に街中で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。紅白幕の指揮台が設けられ、どこかの新聞社か出版社の前だろうか戦時標語Click!「撃ちてし止まむ」の横断幕が掲げられている。翌1945年(昭和20)の陸軍記念日には、東京大空襲Click!で市街地の大半が炎上・壊滅する惨憺たるありさまだった。は、野外音楽堂跡の現状でコンクリートの演奏ステージは画面の左手背後にあった。

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家出して下落合に直行した小坂多喜子。 [気になる下落合]

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 1930年(昭和5)2月、神戸にあるパルモア英学院の修業式のあと、小坂多喜子(ペンネーム:小坂たき子)Click!は家出同然に汽車で単身東京へとやってきて、そのまま下落合に直行している。当時、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建つ、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!に住んでいた、神戸時代からの知り合いである片岡鉄兵Click!を訪ねるためだ。
 だが、あいにく片岡鉄兵は講演旅行に出て不在で、当時は片岡家の書生だった大江賢次Click!と光枝夫人が応対している。何度も映画化された『絶唱』で有名な小説家・大江賢次だが、独立して上落合732番地で暮らすようになる少し前の話だ。のちに大江賢次は、上野壮夫Click!と小坂多喜子が結婚して住みはじめた上落合829番地の“なめくじ横丁”Click!へ、頻繁に顔を見せるようになる。
 片岡邸で1泊したあと、神戸時代からのつき合いだったボーイフレンドを下宿に訪ねるが迷惑顔をされ、しかたがなく神戸からあらかじめ電報で知らせておいた、上落合469番地Click!神近市子Click!を訪ねている。昼にカレーライスをご馳走になったあと、多喜子はそのまま神近市子の家に寄宿することになった。
 その当時のことを、小坂多喜子は鮮明に憶えている。1986年(昭和61)に三信図書から出版された、小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 東中野から曲りくねった道をかなり奥迄行くと、西武線の中井駅の方におりてゆく道がある。そのゆるく曲った角の石だたみの奥深くに神近家はあり、隣家は鈴木文史朗という朝日新聞の論説委員か何かをしていた人の家だったが、私の家出してきた時には喜劇俳優の古川ロッパ邸であったように思う。その隣家の庭の木立ちがすかして見える垣根に沿った奥深い家の玄関に、娘にしてはすこし年をとった律儀そうな女中さんが三ツ指をついて、「先生が電報を差上げようかといっておられたところでした」といった。
  
 ちなみに、鈴木文四郎Click!(ペンネーム:鈴木文史朗)の家は上落合470番地で、古川ロッパ邸Click!は道をはさんだ向かいの上落合670番地で別々の家だ。
 神近市子Click!と鈴木厚の夫妻には、すでに3人の子どもたちがいて安定した生活をつづけていた。「寒い時にはも足が痛むのですよ。刑務所の冬の寒さが一番身にこたえました」という彼女の言葉を、小坂多喜子は記憶している。神近市子は、小坂多喜子にいろいろな仕事を紹介しはじめた。その中に、牛込区四谷左内町31番地の長谷川時雨Click!が主宰する「女人藝術」編集部Click!や、飯田橋駅の近くにあった全国購買組合連合会中央会事務所などで校正業務のアルバイトがあった。
 それでも生活は苦しく、身につけてきた高価なものは質草となって次々に消えていった。ある日、片岡鉄兵から3円のカネを借りてもどると、神近市子はいつになく激昂して多喜子を叱った。21歳の娘が、人から借りた(半ばもらった)カネで生活しようという性根が、神近市子には我慢ならなかったのだ。
 こういうところに、神近市子の潔癖で妥協しないまっすぐ性格が垣間見えるのだが、多喜子はカネを返そうとはしなかった。本人に断りもなく、片岡鉄兵は多喜子をモデルにした『生ける人形』(1928年)を発表し、彼女はすぐに抗議の手紙を送っていたので、作品のモデル料というような感覚も含まれていたのかもしれない。
 神近市子の姿を、もう少し『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 あるとき雑誌か何かの座談会に出るため盛装して、隣家の朝日新聞論説委員鈴木文史朗邸の垣根の側に立った神近さんの美しさに私は一瞬息を飲む思いだった。お召の着物に黒っぽい蔦の葉模様か何かのこはまちりめんの羽織姿で、薄くおしろいをはたいたほりの深い顔はつりあがった眼が奥深く輝いていて、私はそのときどういうわけかドイツの女性を連想して重ね合わせていた。私がそのときアメリカでもフランスでもなくドイツの女性を連想したのは、その無駄のないひきしまった知的な美しさからそう感じたのだった。
  
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 わたしが小坂多喜子に興味をもったのは、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿2丁目71番地の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎Click!の「出版・入獄記念会」の記念写真Click!で、亀井勝一郎の前に立つ彼女の姿を見てからだ。昭和初期に入獄中の人物は除き、プロレタリア芸術運動をになった在京の人々が勢ぞろいしている写真だが、その中でひときわ派手なコスチュームを着て写る彼女が、場ちがいのように浮いて見えた。彼女を追いかければ、落合地域をめぐる興味深い物語がたくさん見つかりそうだと直感した、わたしの勘はまちがっていなかったようだ。
 その後、神近市子の紹介から山田清三郎と富本一枝Click!に会い、東京へやってきてから約1ヶ月後に戦旗社出版部への就職が決まった。1928年(昭和3)現在、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!は新宿駅西口の淀橋浄水場Click!近くへ移転しており、同様に中井駅からすぐのところにあった上落合689番地の戦旗社出版部Click!は、有楽町駅近くの五番館2階へと移転していた。
 ちょうどこのころ、戦旗社は全日本無産者芸術連盟(ナップ)からの独立問題をめぐってゴタゴタがつづいていた時期と重なる。特に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)内での対立がつづき、独立反対派には山田清三郎や鹿地亘Click!川口浩Click!らが、独立賛成派には江口渙や貴司山治、西沢隆二たちがいた。同誌の主要な執筆者だった小林多喜二Click!中野重治Click!壺井繁治Click!たちはみな獄中にあり、蔵原惟人Click!は海外にいて戦旗社の内紛には関われなかった。
 小坂多喜子が戦旗社につとめはじめたころの様子を、2007年(平成19)に図書新聞から出版された多喜子の次女である堀江朋子『夢前川』から引用してみよう。
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 目の高さに電車の走るのが見える線路よりの部屋が編集部、その反対側の部屋が出版部だった。猪野省三が出版部長、部員は多喜子一人。向かい合わせの机で、校正やわりつけの仕事をした。月給三十円。/その頃、戦旗社主事山田清三郎、経理部長壺井繁治、組織部長宮本喜久雄、編集長林房雄、のちに中野重治、そして上野壮夫。古澤元や田邊耕一郎なども姿を見せた。/小林多喜二「蟹工船」と徳永直「太陽のない街」の新聞広告原稿を猪野が作成し、そのゲラが刷り上がった。猪野が、その身体つきのように丸っこい字で書いた原稿がゲラ刷りになった感激で多喜子は高揚していた。朝日新聞横ぶち抜きの広告ゲラだった。猪野と二人で、ゲラを見ていると、うしろから上野壮夫がのぞき込んだ。編集部に時々顔を見せる男だ。
  
 小坂多喜子が、神戸の家を出たのが1930年(昭和5)2月、神近家から独立して近くに小部屋を借り戦旗社Click!に就職したのが1ヶ月後の3月下旬、そこで上野壮夫と出逢い結婚したのが2ヶ月後の5月、ほぼ同時に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)加入……と、彼女にとっては目のまわるような激動の1年間だった。
 神戸時代から、多喜子は東京で発行されていた文芸誌「若草」などへ作品を送っていたが、本格的な小説は1932年(昭和7)に文芸誌「プロレタリア文学」に執筆した『日華製粉神戸工場』だ。最初期の同作について、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎『プロレタリア文学史/下巻』から引用してみよう。
  
 小坂たき子「日華製粉神戸工場」(同上)、作者は神近市子をたよって東京に出、上野壮夫と結婚した。この作は、満州事変で中国市場を一時的に失った日華製粉が、支店合併と従業員の整理で不況をきりぬけようとするのを、会社側に協力する組合幹部をけって総連合の革命的反対派の指導で、出征兵士の丘陵の全額支給、馘首者の即時復職、時間延長の割増金要求の闘争が、ストライキに発展するまでのことをあつかっていねが、こうした題材にさけがたい概念的なつくりものからすくわれ、ダラ幹の阪本、酒飲みで正義派の中年職工の秋原、阪本と「鞄」の組合書記の河上、反対派の若い闘士で大胆で人なつこい松本などの個性が、かなり浮彫りに描かれていた。
  
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 小坂多喜子は、戦前戦後を通じて小説家でありエッセイストだが、当初は「小坂たき子」のペンネームで執筆していた。それは、プロレタリア文学の雄である小林多喜二Click!と名前が3文字までかぶり、本人からもそれを指摘されて気おくれがしたからのようだ。その小林多喜二とは戦旗社出版部で初めて出会い、築地署で虐殺された際は夫の上野壮夫とともに通夜の席へ駆けつけることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:小坂多喜子が何度も歩いたカーブの道で、右手にある上落合公園の向こう側が古川ロッパ邸跡で、道をはさんだ向かい側が鈴木文四郎(文史朗)邸跡。
◆写真中上は、小坂多喜子が修業式から東京へ飛びだした神戸市中央区のパルモア英学院。は、下落合1712番地の第二文化村にあった片岡鉄兵邸跡で右手の白い柵あたり。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる片岡鉄兵邸。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸跡。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる神近市子邸。鈴木文四郎邸は五味邸をはさんだ2軒隣りであり、小坂多喜子の文章は記憶ちがいだろうか。は、1928年(昭和3)に上落合460番地で結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部跡。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる神近市子邸とその周辺で、赤い矢印は冒頭に掲載した現状写真の撮影ポイント。下左は、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎の「出版・入獄記念会」記念写真に写る小坂多喜子。下右は、1934~35年(昭和9~10)ごろに撮影された小坂多喜子。

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平民の子を抱くのは死ぬより辛い屈辱。 [気になるエトセトラ]

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 目白通りの北側、高田町雑司ヶ谷上屋敷(あがりやしき)3621番地(現・西池袋2丁目)で暮らしていた宮崎白蓮Click!(柳原白蓮Click!)、あるいはその夫である宮崎龍介Click!については、これまで落合地域から遠くない場所で起きたことなので、ここの記事でも何度か取りあげて書いてきた。
 1921年(大正10)10月22日に大阪朝日新聞に掲載された、いわゆる白蓮の「絶縁状」Click!についても、ずいぶん以前にご紹介している。これに対し、夫である伊藤伝右衛門の「反論」が、1921年(大正10年)10月24日の大阪朝日新聞から4回にわたり連載されはじめている。いくらご近所であるとはいえ、白蓮側の視点のみだけ掲載しているのはフェアではないので、いちおうご紹介しておきたい。白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論は、両人の了承を得たものか同年の「婦人世界」12月号に全文が転載されている。なお、伊藤伝右衛門の反論は、大阪朝日新聞の記者が行なったインタビューにもとづきまとめたもので、本人が執筆したものではない。
 白蓮側の資料のみを読んでいると、伊藤伝右衛門が「野卑」で「カネ」のことしか考えておらず、成金特有の下品な人物像を想定してしまうわけだが、反論の内容を読むかぎり、頭がよく人間の観察眼に優れており、教養や倫理観は希薄だったのかもしれないが、ものごとを論理的かつ理性的にとらえ深く考えることができる人物だったことがわかる。また、直接カネのことに触れているのは、長い反論の中でたった2ヶ所にすぎない。白蓮批判の中でもっとも多いのが、伊藤伝右衛門をはじめ関係者に対する彼女の「平民」蔑視の眼差しについてだ。
 「白蓮事件」を、単に「大正デモクラシーを背景に、主体的に生きることに目ざめた女性」のエピソードという一面だけで眺めていては、実態を見誤るだろう。伝右衛門の批判骨子をテーマ別に分類してみると、以下のような構成になる。
 (1)「平民」への差別観について(華族の選民意識)……4ヶ所
 (2)思いどおりにならない生活へのイラ立ち(野放図な自尊心)……2ヶ所
 (3)すぐに被害者意識へ逃げこむ卑怯さ(没主体性)……2ヶ所
 (4)気まぐれなカネづかいの荒さ(浪費癖)……2ヶ所
 伝右衛門は反論『絶縁状を読みて叛逆の妻に与ふ』の冒頭、自身を大磯Click!の別荘で暗殺された安田善次郎Click!にたとえ、「安田は刀で殺されたが、伊藤は女の筆で殺された」などといっているが、それほどのことでもないだろう。また、大金を贈って白蓮を妻にしたという風説には、「柳原家には、俺としてお前の為に鐚(びた)一文送つた事は無い」と完全否定している。
 (1)の、「平民」蔑視への批判から見てみよう。伝右衛門は、結婚式の直後からそれに気づいている。帰りのクルマの中で、式の付添人が何人かいるにもかかわらず、白蓮はシクシク泣きだした。「平民」の伝右衛門が、華族である自分よりクルマへ先に乗ったので、悔しくて泣いていたのだ。
 生活をはじめてからも、「平民」蔑視はつづいた。伝右衛門は死んだ姉の子を引きとり、同じ家の中に住まわせていたが、まだ幼児なので母親代わりにいっしょに寝てやってくれと頼むと、「平民の子を抱いて寝るといふことは死ぬより辛い屈辱」だといって、また悔し涙を流した。この幼児は、女中にはなつくが白蓮が現われるとベソをかいたらしい。ときどき起こる「ヒステリイ」に対し、伝右衛門はなだめたりすかしたりしながら諭そうとしたが、白蓮はまったく聞く耳をもたなかったようだ。
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 俺はお前のために何事でも良かれとこそ願へ、悪かれとは少しも思はなかつた筈だ。時時家庭内に起る黒雲は、お前の生れながらにもつた反撥的な世間知らずから起つたのに過ぎない。家庭といふものをまるで知らず、当然自分は貴族の娘として尊敬されるものとのみ考へて居たお前の単純さは、一平民から血の汗を絞つてやつと今日までの地位を得て、人間世間といふものを知り過ぎて居るほどの俺にとつては、叱つたりさとしたりしなければならなかつた。それを叱れば虐待だといつて泣いた。
  
 白蓮は、「伊藤」という「平民」の苗字を名のることも拒否している。第三者にも、夫のことは常に「伊藤」と呼び、自身のことは「燁子」と表現している。
 (2)の、思いどおりにならないことへの癇癪は、生活のあらゆる場面で起きていたようだ。まず、その矛先は家庭内をとり仕切る女中の“おさき”に向けられた。家事いっさいができないことを前提に、家内をマネジメントする女中頭を用意していた伝右衛門だが、白蓮はことあるごとに彼女と衝突したらしい。
  
 お姫様育ちで、主婦としては何の経験も能力もない自分のことを棚に上げてしまひ、おさきがまめに家内に立働くのを見て、お前はムラムラと例のヒステリイを起した。おさきのする事を見、おさきの顔を見れば腹が立つといつて泣いた……しかしおさきに対する嫉妬的な、狂気じみた振舞は、ますます盛んになつて止め度がなく、毎日病気といつては寝てしまひ、食事もせずに泣き通してゐた。
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 おそらく、(1)のような姿勢とともにこんなことをつづけていれば、誰からも尊敬も好かれもせず、周囲の「平民」からは呆れられ嫌われたのではないか。その裏返しとして、被害者意識のみが大きくなり、ますますカネづかいが荒くなっていったようだ。伊藤家の財産は、いくらつかっても尽きないと思っていたらしく、伝右衛門に箱島神社のある観光地の「(丸ごと)箱島を買つてくれ」とねだり、彼を呆れさせている。
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 (3)の、被害者意識のかたまりになっていく主体性のなさは、当時の華族に生まれた女性にはしかたのない面もあるのだろうが、すべてを伝右衛門のせいにしていく没主体的な主張は、のちの「白蓮事件」にみられる自身の主体的な行為・行動と、どう整合性がとれるのだろうか?……と、つい考えてしまう。
  
 お前は虚偽の生活を去つて真実に就く時が来たといふが、十年十年と一口にいふけれども、十年間の夫婦生活が虚偽のみで送られるものであるまい。永い年月には虚偽もまた真実と同様になるものだ。嫌ひなものなら一月にしても去ることができる。何の為に十年といふ永い忍従が必要であつたのだ。お前は立派さうに「罪ならぬ罪を犯すことを恐れる」といふが、さういふ罪を恐れるほどの真純な心がお前にあつたかどうか。
  
 たとえ周囲からの強い勧めで結婚されられたにせよ、白蓮は伝右衛門を一度は選択して10年間にもわたりともに生活をつづけており、次の宮崎龍介Click!も自身が選択した人生ではないのか? 「自身の選択を棚上げなどにせず、自分自身の主体性はどこにある?」という伝右衛門の問いかけは、しごく当たり前の疑問だったろう。
 生活の後半には、白蓮自身の被害者意識が当時のジェンダーフリー思想からか、女性一般の被害意識へと敷衍化されていた様子がわかる。だが、これも自身が夫に望んだことが、いつの間にか夫から押しつけられた虐待行為へとスリかわってしまったようだ。白蓮が、伝右衛門の妾になり話し相手になってくれと懇願した“おゆう”が、病気で京都へ帰ってしまったあと、今度は舟子という女性を夫の妾にと懇願して家に入れたあとの話だ。
  
 今度の舟子(燁子が夫に勧めた妾のこと)のことも、自分としてはもう止したらといふのを、おゆうも居ないし、どうか私の話相手にしてくれと頼むから、お前の好いやうにさせたのだ。お前はそれを、金力を以て女を虐げるものだといつてゐる。お前こそ同じ一人の女を犠牲として虐げ泣かせ、心にもない躓きをさせてゐるではないか。
  
 (4)の、カネづかいの荒さについては、具体的に金額をあげて批判しているのは2ヶ所だ。ひとつは、夫婦は毎月のこづかいを500円と平等に決めていたが、白蓮は宝飾類や着物は500円の中に含まれないと考えたらしく、そのつど伝右衛門にねだっている。また、歌集の出版もこづかいの範囲の外で、歌集『踏絵』には600円の特別支出をさせている。そして、伝右衛門はこう嘆く。「それから漸くお前の文名が世の中に知れて来た。夫として罵(のの)しられながら、呪はれながら、なほお前の好きな事だ、お前が楽しむ事だとさう思つて、じつゝと耐へたことは一度や二度ではない」。
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 反論を読むかぎり、伝右衛門は確かに品がなく知的な会話もできない男だったのかもしれないが、ことさら暴君でも残虐でも守銭奴でもなく、まともな生活を営みたかった、大金持ちだが本質的には平凡な「平民」のように見える。このふたり、上野精養軒Click!で出逢ってはならない、ましてや結婚などしてはならない正反対の相性だったのだろう。

◆写真上:宮崎邸のすぐ北側に位置する、上り屋敷公園の大きなムクノキ。
◆写真中上は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の上屋敷駅があったあたりの現状。は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる宮崎邸。は、1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真にみる宮崎龍介・白蓮邸。
◆写真中下は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」12月号で白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論が併載されている。は、伊藤伝右衛門と柳原燁子(白蓮)の結婚写真。は、高田町雑司ヶ谷上屋敷3621番地にある宮崎邸の現状。
◆写真下は、伊藤家を出た直後の白蓮と宮崎龍介。は、ふたりのプロフィール。

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シラスが大漁だと漁師は泣いた。 [気になるエトセトラ]

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 ときどき、身厚で美味しいムロアジの干物やキンメの煮付け、懐かしいシラスなどを食べに平塚Click!大磯Click!、二宮、鎌倉Click!を散歩することがある。海岸の近くには、たいがい昔からの食堂があり、その朝に獲れた魚を食べさせてくれる。特に、わたしの大好きな大型のムロアジ一夜干しは絶品だ。地産地消が原則で、東京の魚市場経由ではあまり食べることができない、相模湾と黒潮・親潮流れる太平洋の新鮮で豊富な魚介類は、わたしが子どものころからの“舌”を形成したかけがえのない魚たちだ。
 わたしがもの心つくころ、湘南海岸のあちらこちらでは盛んに地曳き網漁Click!が行なわれていた。「湘南海岸」という大くくりの名称ではなく、それぞれの街ごとにつけられた海岸名や浜辺名ごとに、海が荒れて浜から地曳き舟が出せない日を除き、毎朝、地元の漁師たちが地曳き漁をしていた。たとえば、湘南海岸の中央にあたる平塚や大磯では、それぞれ東から西へ須賀ノ浜、袖ヶ浜、虹ヶ浜、花水川河口をはさんで北浜、こゆるぎの浜と地曳きが行なわれていて、各漁場は当時の相模湾沿いに展開していた漁業組合によって規定・管理されていたのだろう。
 地曳き漁で獲れた魚たちは、その日のうちに近所の魚屋の店先で売られるか、干物の場合は翌日から数日後になって店頭に並んだ。(魚屋が自ら干物づくりをしていた時代だ) もちろん、魚屋では地曳き漁で獲れた魚ばかりでなく、漁港にもどった漁船から揚がった新鮮な魚たちも扱っており、その種類はたいへん豊富だった。神奈川県の中央だと、三浦半島の三崎港で揚がった黒潮や親潮にのってやってくる魚たち、あるいは小田原から伊豆半島の各港で獲れた魚たちの双方が、新鮮なうちに競り落とされては魚屋に並んだ。いま考えてみれば、魚に関しては非常に贅沢な環境だったと思いあたる。
 わたしが地曳きを手伝いはじめたのは、幼稚園へ入園前後のころだろうか。午前5時半から6時ごろ、わたしの家へ遊びにきていた祖父Click!に連れられ海岸に出かけると、ちょうど網を曳きはじめるころだった。当時は、巻き上げモーターの耳障りな音の記憶がまだないので、漁師たちは腰紐と素手で曳いていたように思う。1時間ぐらい曳くのを手伝うと、沖に出て網を張った舟がだんだん浜に近づいてきて、当時は木製の小さな樽などでできた網の“浮き”が海岸に揚がりはじめる。すると、朝暗いうちからはじまった地曳き漁も終盤だ。やがて網が開かれ、かかった魚は樽や木箱に分類される。
 漁師たちは手伝った礼にと、生きたままのマサバなら1尾、ムロアジやマアジなら数尾ほどを分けてくれる。祖父はそれを喜々として持ち帰り、台所でさばいて刺身にすると、朝から葡萄酒(ワインという言葉は一般的ではなかった)を飲みながら味わっていた。1960年代の当時、相模湾の地曳き漁で獲れる魚には、マアジ、ムロアジ、メアジ、コアジ、アオアジ、マサバ、ゴマサバ、イサキ、イナダ、ブリ、マダイ、カマス、タチウオ、サワラ、ホウボウ、マイワシ、キンメ(台風の接近時か通過した直後)などがいただろう。あとは、雑魚(ざこ)の稚魚としてのシラスも大量に網へかかった。他の魚はともかく、雑魚のシラスはほとんど値打ちがなく、二束三文で売られていた。
 ちょっと余談だが、近ごろ雑魚(ざこ)のことを「じゃこ」と発音する方がいるが、西のほうの出身者だろうか? 江戸東京を舞台にした映画などで、「雑魚はすっこんでろ」を「じゃこはすっこんでろ」じゃ、セリフ的にも地域的にも変でおかしいでしょ?
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 魚屋の店先で、ざるに大盛り10~20円で売られるシラスは、たいがい生のままではなく潮水で茹でられたものが多かった。いまにして思えば、漁師たちは生シラスを市場に持ちこんでも、ほとんど値がつかなかったので、潮水で茹でてひと手間加え、“付加価値”をつけてから市場へ卸していたのだろう。まるで駄菓子同然の値段で売られるシラスは、もちろん家計にはやさしいのでわたしは毎朝、大根おろしとともに食べさせられるハメになった。いい加減ウンザリしたけれど、母親から「カルシウムがたくさんあって、虫歯にならないのよ」といわれ毎日食べつづけたが、この歳になるまで虫歯になったことがないのは、確かに相模湾のシラスのおかげかもしれない。
 ただ、シラスを食べるときのひそかな楽しみもあった。シラスと呼ばれる小魚は、たいがいカタクチイワシやマイワシ、ウルメイワシ、コウナゴ(イカナゴ)などの稚魚なのだが、たまにタコやイカ、カニ、エビの“赤ちゃん”が混じっていることがあり、それを見つけるとなんだか得をしたような気分になった。当時は、現在ほど品質管理が厳密ではないので、シラスをひと山買うと思いがけない魚介類の稚魚が混じっていたりして、それを探すのが面白かったのだ。特にタコは、茹でられると赤くなるので見つけやすかった。でも、そんなことをしていると学校に遅れるので、いつも「なにしてるの、早く食べなさい!」と叱られていた記憶がある。
 小学生になったころ、ユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線でいわゆる湘南道路)が、大磯の国道1号線まで舗装されてクルマの往来が徐々に増え、やがて西湘バイパスが開通するころから、相模湾の地曳きは振るわなくなっていった。おそらく海岸沿いの緑地が減り、魚たちが徐々に沿岸へ近づかなくなったのだろう。いくら網を仕掛けても、かかるのはシラスばかりで大型の魚はなかなか獲れなくなってしまった。漁師の数も減って、若い人は勤めに出て年寄りばかりになり、そのぶん網の巻き上げモーターを導入して機械化されたが、魚たちは二度と浜の近くにはもどってこなかった。
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 わたしが最後に地曳きを手伝ったのは、小学校の高学年になるころだったろうか。網にかかるのはほとんどがシラスばかりで、漁師たちはみんな暗い顔をしていたのを憶えている。威勢のいい掛け声や、網が砂浜に引き揚げられるとき、その膨らみ具合から起きた「おおーーっ!」というようなどよめきも絶え、地曳きは波音と耳障りなモーター音が響く中で静かに行われていた。たまにイワシの群れが入ることもあったが、イワシとシラスを市場へ出荷しても、当時はほとんど値がつかなかったろう。以前は、手伝うとくれていた魚もなくなり、浜辺の地曳き漁は荒んだ雰囲気に変わっていた。
 湘南各地の地曳きが、いつまで行われていたのか厳密には知らないが、自分たちの食べるぶんとモーターなどの燃料費を除けばほとんど手もとには残らず、網の修繕費や舟のメンテ費なども捻出できなかったのではないだろうか。現在、観光用に行われている地曳き漁のうち、わたしが子どものころから操業をつづける地曳き漁師の家系がはたしてどれぐらい残っているのか、調べたことがないので不明だ。
 1960年代末ごろまで操業していた、相模湾の地曳き漁師たちが生きていたら、現在の「シラスブーム」には目を丸くして驚愕するだろう。まともな魚がかからず、シラスばかりがあふれるほどに入ったいくつかの樽を前にし、暗い顔でため息をついていた漁師たちは、いまなら十分に生活が成り立つと思うだろうか。それとも、地曳き漁は手間ばかりかかって効率が悪く、港から船で沖漁に出たほうがシラスも含めて実入りがいいと考えるだろうか。おそらく、わたしが子どものころに比べれば、シラスの価格は500~1,000倍ぐらいにはなっていそうだ。
 毎日、くる日もくる日も食べさせられてウンザリした相模湾のシラスだが、この歳になるとたまに懐かしくなって食べたくなることがある。東京で売っているシラスは、しょっぱくて硬くてマズイばかりだ。その日の朝に獲れたシラスは、料亭か高級料理屋へいってしまうのだろう。だから、ときどきシラスやアジ類の干物が食べたくなると、相模湾が見える街に出かけては料理屋や旅館、食堂などで欲求を満たすことになる。
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 わたしは魚の中では、アジの仲間がいちばん好きだが、中でも大型で身厚な相模湾のムロアジには目がない。もちろんムロアジは刺身でも美味いが、うす塩で一夜干しにすると旨味が格段に増す魚だ。相模湾の海辺にある魚屋や市場を歩くと、必ず30cmをゆうに超えるムロアジの干物に出あうことができる。でも、子どものころの思い出が詰まった頭のままで出かけるわたしは、たいがい値札を見ると買うのをためらうことになる。同様に、雑魚のシラスをかけた丼飯が1,500円とかの価格を見ると、1960年代末の暗い顔をしてシラスの樽を見つめていた漁師たちのように、ハァ~ッと深いため息をつくのだ。

◆写真上:網にかかった獲れたてのシラスで、しょうが醤油かわさび醤油が美味い。
◆写真中上は、吾妻山から眺めた相模湾で、沖に連なるのは三浦半島と房総半島の山々。は、地曳き漁が行なわれていた平塚海岸の虹ヶ浜。は、潮水で茹でたシラス。子どものころは「茹でシラス」で、「釜揚げシラス」とは呼ばなかった。
◆写真中下は、大磯海岸のこゆるぎの浜。は、二宮海岸にある地曳き漁向けの舟だがおそらく観光地曳き用だろう。は、二宮海岸の穏やかな袖ヶ浦。
◆写真下は、鎌倉の七里ヶ浜。は、同じく鎌倉の由比ヶ浜から材木座海岸。は、いまでは目の玉が飛びでるほどの高級品になってしまったムロアジの開き。

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第一寮棟で暮らした学生たち。(下) [気になる下落合]

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 学習院昭和寮Click!が解体されはじめてから、わたしは何度か日立目白クラブの周辺を訪れているが、先日はテニスコートの西側に繁っていた竹林の伐採に遭遇した。崖上の竹林は、秋の夕陽を受けると黄金色に輝いて美しく、それが消滅してしまったことは非常に残念でならない。それにしても、どこまで緑ゆたかな目白崖線の景観を破壊し、灰色のビルを建設すれば気が済むのだろうか? ちなみに、東京23区における集合住宅の空き室戸数は、477,100室(2018年現在)といわれている。
 昭和寮で暮らした学生たちのプロフィールを、前回Click!につづいてご紹介しよう。
 ◎第七室 文二乙 MM君
 北大農学部をめざす、「大明神」と呼ばれていた学生。明朗な性格だったようで、独特な方言を話すこともあって親しみやすく、著者はつき合いやすかったらしい。流行のスポーツが好きで、いろいろな種目に手をだしては楽しんでいたようだ。
  
 大のスポーツマンです。凡そスポーツと名のつくあらゆるものに、手は仮令すぐ、引くにしろ兎に角一応は出します。今じやラグビーと柔道にはなくてならない、本院スポーツ界の最尖端を走る君です。先日の乗馬会で君の立派な額の様なカツプを取つて来ました。コリコリした筋肉の塊ですが、人は至つて善良ですから安心して交際が出来ます。
  
 ◎第八室 文三丙 MI君
 昭和寮一の秀才で、「若きオヂーチヤン」というあだ名をもらっている学生。アテネ・フランセへ隔日に通い、フランス語に堪能で外交官をめざしている。寮誌が発行された年度の夏休みには、仏領ベトナムのサイゴンへ外遊していた。だが、時局柄からこれからの外交は知識ばかりでなく、国事多難から胆力が必要だとアドバイスしている。
  
 長岡(半)博士の言を拝借するならば、『小銃から出来た人間でなく、大砲から出来た人間』になる事が必要じやないかと思ひます。余り頭のよい人は先が見えすぎて手が出せず、時には口をポカンと開いている人がより偉大な結果を生む事は決して少い例ではありませんから。併し学習院は昭和寮は将来の君に期する処蓋し大なるものがあるでせう。
  
 ◎第九室 理三甲 BN君
 内気な性格で、「熊さん」とあだ名された大人しい学生。第一寮の委員を引き受けているが、関わっていたスポーツはみんな止めてしまい、東大農学部をめざして勉強中だ。ひがな1日、寮室ですごすことが多いようで、多少引きこもりの気がありそう。
  
 東南の一隅に巣を食ひ、人々称して熊さんと云ひますが、気立は至つておだやかですから、決して逃げる必要はありません。非社交的な、内気な性質です。鬚の中から顔と目玉が見えると云つた方がより適切かも知れません。
  
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 ◎第十室 文三乙 MN君
 14名の寮生の中では、いちばん紹介の文章ボリュームが多い学生なので、よほど特徴のある性格か独特なクセをもっていたのだろう。「土人」というあだ名で、学習院の中等部時代はスポーツをやっていたが、身体を壊してからは哲学書にのめりこみ、ドイツ語が堪能だった。それでも高等部では、水泳とスキーだけはつづけていたらしい。「♪羊群声なく牧舎に帰り」の寮歌で有名な北大で、自然科学を専攻しようと勉強中のようだ。
  
 鬚に於ては前住人に一日の長ある君、何等装飾のないその部屋の物語る通り、全く質朴純真な真理の追求者です。鏡の如き透徹せる尖い頭脳と強固な意志の人格者です。土人、土人で尊敬されてゐます。その名のよつて来る所、多分表皮のPigmentが人一倍発達してゐる為なんでせう。
  
 ◎第十一室 文一甲 UT君
 世の中の苦労をまったく知らず、童顔で明るいボンボン的な性格から第一寮の人気者だった学生。理系に進んでいたが、途中で文系に進路変更しためずらしい学生で、急に経済学が勉強したくなったようだ。水上部(ボート部)に属し、かつてスカルでは日本ジュニアスカル選手権のタイトル保持者だった。新たに流行りのラグビーをはじめたが、過酷でケガの多いスポーツなので実家がかなり心配している様子だ。
  
 第六室の住人の様に半狂乱的真剣味こそありませんが、よく漫遊に出掛けます。ルーズヴルト(ママ)の言葉を借りるならば、『生活の義務を行する』ことを忘れて『生活の歓喜のみを味』つてゐるんじゃないでせうか。
  
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 ◎第十二室 文一丙 SY君
 兄も学習院だったが、兄が卒業したあとすぐに入寮してきた弟の学生。兄は滑舌が悪かったのか、話していてもフカフカとなにをいっているのか聞きとりにくかったが、弟は「発音は案外明瞭」と書かれている。陸上競技の選手で、なにかと女子たちにもてたので「若き異性の渇望の的」と書かれている。「爆弾三勇士」Click!がブームになっているころで、SY君は学習院陸上の「競技部三勇士」のひとりに選ばれている。1932年(昭和7)の全国中学陸上大会で、優勝旗を受けとる大役をつとめた。
  
 文学的才能を豊富に具へて、『輔仁会雑誌』『昭和』等に創作やカットをドシドシ投稿される万事が器用な君です。学問に運動に黙々として独自の途を開拓されてゐます。寮の為、部の為今後君の御奮闘を期待して止みません。
  
 ◎第十三室 文一甲 KK君
 朝鮮からの留学生で、かなりの淋しがり屋だったようだ。まだ、入寮して1年とたっておらず、なかなか学習院や昭和寮の生活になじめない様子が書かれている。「寮の為融和をはかる事が目下の急務」とあるので、昭和寮では孤立しがちだったのだろうか。「朝鮮を双肩に担つて立つてください」と、最後には励まされている。
  
 玄界灘を遥々越えて今春入学された君です。目指すは赤門法学部とか。今から決心物凄く馬力を掛けてゐます。兎角ダレ勝な高等科でその志は見あげたものです。でも余り外出し過ぎやしませんか? テニス、ピンポンがお得意です。私もよくお相手仰せつかりますが大抵にペチヤンコに負けてしまひます。
  
 ◎第十四室 理二乙 TS君
 「トノサマ」というあだ名の、東大電気科をめざす学生。小さい体格だが、野球やボート競技もこなすスポーツマンだった。第三室のMK君とともに、読書室主任を引き受けている。健康に気をつかう性格だったのか、第一寮でもっとも早起きだった。
  
 当寮で一番大きくない人です。電気工事の大家で芝居の照明係としてなくてはならぬ君です。でも此の頃は可愛い少年助手が出来たと喜んでゐます。将来は東大電気科専攻になるそうですが、やはり理科二年は苦労の種らしいです。
  
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 これらの学生たちが、その後、どのような人生を歩んだのかは氏名がイニシャルなのでたどれないが、各分野で成功した人もいただろう。だが、日米戦争が間にはさまっているので、中には1945年(昭和20)8月を迎えることなく死亡した人もいるかもしれない。
                                 <了>

◆写真上:夕陽を受けると輝いた、テニスコート西側の竹林を伐採する建設業者。
◆写真中・下:解体前に撮影しておいた、学習院昭和寮のいろいろなスナップ類。の3葉は、夕陽があたると美しく黄金色に映えていた竹林と昭和寮の雑木林、そして上空から眺めた解体中の昭和寮跡で第一寮の残骸が本館裏に見えている。(Google Earthより)

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第一寮棟で暮らした学生たち。(上) [気になる下落合]

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 近衛町Click!の南端にある、下落合1丁目406番地(現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)がひどいことになっている。寮棟のあった敷地や、西側のテニスコート周辺にあった緑が根こそぎ伐採され、バッケ(崖地)Click!下の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)の際まで含めて、大規模な集合住宅が建設される予定だという。これでまた目白崖線の緑が消え、斜面から丘上にかけて灰色のビルが出現するわけだ。
 さて、すでに解体されてしまった学習院昭和寮の4棟には、どのような学生たちClick!が暮らしていたのだろうか。昭和寮は、旧・学習院高等科の学生たちを入寮させていたので、今日の学制でいえば大学の教養課程を学ぶ、17歳から20歳ぐらいまでの若者たちだ。以前から、昭和寮で起きた出来事Click!エピソードClick!を中心に書いてきたので、今回は入寮していた学生たちに焦点を当て、その横顔を少しご紹介してみたい。
 学習院昭和寮Click!には、本館の南側に4棟の寮舎が建っていたが、そのうちの第一寮には15人の学生が入居していた。たいがいが皇族や華族、資産家の家庭出身者たちだが、お気楽にスポーツへ打ちこむ学生もいれば、さまざまな苦労を重ねて入学してきた学生もいて、寮生の顔ぶれは多彩だったようだ。1933年(昭和8)2月に発行された寮誌「昭和」Click!第8号には、第一寮の14室に住む学生たちのプロフィールが掲載されている。いちおう、氏名はイニシャルで書かれているが、学習院高等部へ通う学生が見たら、すぐに誰かが特定できただろう。
 同誌に掲載された、一寮生『一寮十五勇士』から引用してみよう。全14人しか紹介されていないが、最後の15人目は著者の「一寮生」だからだ。
  
 多分昭和寮の杜に鶯の囀ずる頃には私も此のなつかしいクリーム色の寮舎から、チユーブ入のライオン歯磨の様に、永遠に追出されなければならないでせう。ですから此の出口に留つてゐる間にチユーブの内容を、一般に招介(ママ:紹介)し又広い世界の空気をつぎ込む役目をするのも決して無益ではありますまい。併し内容物は歯磨とは一寸異つた血も肉も思考もある人間です。
  
 このような序文ではじまる第一寮の学生紹介は、寮誌「昭和」の12ページ分を占めたかなり長めの読み物となっている。ふだんから付き合っている、親しい友人たちを紹介するわけだから、いわゆる「仲間うち」でしか通用しない文脈や符丁、いわず語らずの共有経験を暗示する含みのある表現も多いが、昭和初期に下落合へ集合していた学習院生たちの特徴を、よく捉えている文章だと思われる。
 ◎第一室 文二乙 YK君
 「タイアン」というあだ名で、山登りが得意な学生。第一室は特に湿気がひどく、室内はカビだらけだったようだ。明るい性格のようで、どこか口八丁手八丁のようなとぼけた面もあったらしい。一寮全体が明るくなると、周囲から歓迎されている様子だ。
  
 尖い頭脳と体に不釣合な太い膽力の所有者で、本院否日本山岳会の権威の一人です。専門雑誌に寄稿して立派に原稿料を稼いでゐます。然し君の過去は決して平坦なものではなく、随分険阻な山道を歩いて来た様に見受けられます。
  
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 ◎第二室 文一丙 AM君
 かなり肥った学生だったらしく、「豚」などと書かれている学生。第一室のYK君が痩せていたのに対し、第二室の学生は丸々とした体格で童顔だったらしい。
  
 大のスポーツフアンでもあり亦スポーツマンでもあります。対附中戦の大将として本院の柔道史を飾り、又山岳部の委員として働いてゐるわけなんですが。最近は時代の波におされてかラグビー選手として偉大な体躯をグランドに現してゐます。
  
 ◎第三室 理二甲 MK君
 おカネ持ちで、絵に描いたようなイケメンだった学生。寮では読書室主任を引き受け、夏休みになると鎌倉の別荘へ出かけるのを楽しみにしている。また、軍事ヲタクClick!だったらしく当時の軍備に通じており、著者に「帝国主義者」と呼ばれている。
  
 スカールの名手。先日も井口盃レースに出場して活躍されました。未来はエンジニヤーとして我が建築界を背負つて立つ人。どうです皆さん! 新家庭の愛の巣を作る場合、君にお願いしては、又大の陸海軍通、と云ふよりは寧ろ帝国主義の権化です。
  
 ◎第四室 文三甲 FH君
 明るい性格のようだが、在寮時に不幸がつづいていた学生。文章も、FH君への慰めと励ましからはじまっている。入寮して1年もたっておらず、昭和寮では新人だった。努力を重ねる性格だったらしく、「ササ熊」というペンネームで寮日誌を引き受けている。
  
 スポーツのデパートです。生辞引(ママ:生字引)です。不明の点があつたら一寮の四室へいらつしやい。成る程見掛けは至つてしとやかな君も一旦丸裸になれば筋骨隆々たるモサです。柔道は二段、ラグビーは本院のnumberOne’兎に角すごい体です。
  
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 ◎第五室 理一乙 KM君
 「マホメツト」というあだ名のついた、青瓢箪のような学生。外出の札をかけっぱなしにして、寮のオバサンに外から鍵をかけられ、出られなくなったエピソードはすでにご紹介している。一寮の「変人」で、寮仲間との協調性がまるでなかったようだ。
  
 見掛けによらず、頭脳の明晰なること秋の夜の如きものです。世間は、殊に現代は性格を完備せる人間、之を換言せば人間の全性格や広範な知識を余り要求しないでせう。寧ろすぐれた深い一部分を望んで止みません。一くせある君の前途は決して平凡な人間には終らないでせう。それにしても、もう少し寮生との融和をはかつて欲しいと思ひます。
  
 ◎第六室 理三乙 GM君
 身長が低くて「胎児」というあだ名がついていたが、学習院の理系ではトップの成績だったようだ。一寮のティールームと電話の当番を引き受けていた。学習院では唯一のオカッパ頭で、別に「Poko(ポコ)」というあだ名もあった。
  
 来春の千葉医大受験準備で、秋の夜長を雄々しくも奮闘を続けてゐます。医者を友達に持てとはよく云ひますが、私は何だか不安です。蛙やバツタの調子で解剖された日にや、命がいくらあつても足りそうもありませんから。なるなら内科ですな。それより大のスポーツフアンである君には寧ろスポーツ医学は如何です。
  
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 当時の学習院昭和寮で暮らした学生たちは、みななんらかのスポーツをしていた。部屋に引きこもって、勉強や読書に専念するような学生は、むしろめずらしかったのだろう。そのような学生は、ここに登場している変人の「マホメツト」君ことKM君と、後編に登場する「熊さん」こと内気で引きこもりのBN君のふたりぐらいだろうか。
                                <つづく>

◆写真上:寮棟が解体され、周囲の樹林が伐採された学習院昭和寮の跡。左手の背景は、大黒葡萄酒工場Click!の跡地に建つ高田馬場住宅で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真中上は、宮内公文書館に残る1923年(大正12)5月28日に帝室林野局が東京土地住宅から近衛町の敷地42・43号Click!を購入したときの記録。(東京市及附近所在御料地調/識別番号61683) は、1932年(昭和7)に学習院が撮影した昭和寮の空中写真にみる第一寮。ちょうどこの撮影時、記事に登場している学生たちが暮らしていた。は、昭和寮の東側から眺めた第一寮(右)と第二寮。(提供:野口純様)
◆写真中下は、解体前の昭和寮の寮棟。は、昭和初期に撮影された寮室。
◆写真下は、学生たちが暮らした第一寮の入口。は、寮棟北側にある本館の階段。

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陸軍に注文の多い初年兵たち。 [気になるエトセトラ]

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 国立公文書館に保存された、軍関係の資料(おもに陸軍が大多数)を参照していると、ときどき目についてひっかかる資料がある。それは、「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」というようなタイトルをつけた陸軍大臣や陸軍省副官あての報告書で、大正後期から昭和初期にかけて特に急増しているドキュメント類だ。
 内容をくだいていえば、帝国陸軍とはあい入れない思想の持ち主たちが、徴兵制により少なからずわが部隊に入営してきたので、「どうしたもんでしょ?」、「なるべく説諭で思想を矯正してはいますが」、「いうことをきかないし、上官の命令もきかない」、「宣誓文に署名しません」、「差別反対のパンフレットを撒きそうです」、「アナキズム研究をやらせろといってます」、「休暇で外出したまま、どっかへ行っちゃいました」……etc.といった、なかば困惑を含んだ内容が多い。これに対し、陸軍省では兵役期間は短いながらも、できるだけ地道に説諭するよう指示を出しているのだろう、その後の「要注意兵卒」に対する説得の経過や動向を知らせる報告書がつづく。
 報告書の出だしは、たとえばこんな具合だ。1926年(昭和元)12月に上げられた「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」から、典型的な文章を引用してみよう。
  
 陸軍大臣 宇垣一成殿
 本年度第〇師団に入営シタル思想要注意初年兵ハ六名ニシテ中三名ハ特ニ思想ノ根柢強因ナルモノノ如ク各々部隊長ニ連絡 言動視察中ナリ 状況別紙ノ如シ
  
 徴兵制は入営してくる人物を選べない、すなわちハナから軍人をめざす志願兵ではないため、多種多様な思想をもった若者たちが大量に入営してくることになる。特に、大正後期から昭和初期にかけては共産主義や社会主義、民本主義、自由主義、アナキズム、サンディカリズムなどさまざまな思想をもった初年兵が増え、いくら上官が「説諭」して考えを改めさせようとしても、逆に理屈をぶつけ合う議論ではまったく歯が立たなかったり、腕力で抑えつけようとしても組合運動を経験して来た筋金入りの「闘士」がいると、逆にやられかねないような危機感も報告書には見え隠れしている。
 現場から陸軍大臣や副官あての報告書では、ハッキリと明確に請願はしてはいないけれど、どうしても手に負えない兵卒たちは本人の不利や不名誉にならないよう、なんらかの理由をつけて穏便に除隊ないしは退官させるのが適切……といったようなニュアンスさえ感じとれるものさえある。「説諭」しようとした上官が、おそらく逆に思想堅固で闘志満々な兵卒に脅かされているような雰囲気だ。中には、争議の先頭に立っていた「兵隊やくざ」みたいな人物もいて、「てめえ、シャバに出たらタダじゃおかねえからな。おぼえてろよ」などと、脅迫された上官さえいたのかもしれない。
 中には理不尽な扱いを受けたら「抗争」も辞さずと、宣言してから入営する者もいた。1926年(大正15)1月の、金沢第九師団の報告事例をいくつか見てみよう。
  
 「自分ハ入営後軍規ニ服従スルモ不合理ナル制裁ヲ受クルトキハ下僚ヲ相手トセズ少クモ中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル意図ナリ」ト語レルコトアリ(中略) 宣誓式ニ於テ「如何ニ上官ノ命令ナリトモ反国家社会的行動ニハ服従スル能ハズ」トノ理由ノ下ニ最初宣誓ヲ拒ミタル (工兵第九大隊)
 入営前水平社同人ニ対シ軍隊ニ於テ差別的待遇ヲ為スニ於テハ徹底的糾弾ヲ為スベシ洩レ語リタリト云 (歩兵第十九聯隊)
  
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 また、名古屋第三師団では勤務中でもアナキズム研究をつづけさせろと、中隊長にねじこんだ初年兵がいる。1926年(大正15)1月の報告書から引用してみよう。
  
 入隊宣誓式ニ際シ直チニ署名セズ、中隊長ニ更ニ〇法第三条ノ説明ヲ求メシヲ以テ中隊長ハ之ニ答へ尚他人ヨリ不条理ノ取扱ヲ受ケタル時ハ上申ノ処置ヲ取ルコト許サレアルコトヲ説明セシ(中略) 又中隊長ニ在営間自己ノ研究ニ就キ自由ヲ許サレ度キ旨申出デタルモ中隊長ハ隊内ニテ主義ノ研究ハ許サザルコトヲ言ヒ渡セリ (歩兵第三十四聯隊)
 農民組合ニ関係シ岐阜県中部農民組合青年部ノ部長タリシコトアリ 間々過激ノ言ヲ吐ケルコトアリ (歩兵第六十八聯隊)
  
 また、休暇で外出旅行したら、そのままもどってこないエスケープ下士官や、尉官クラスの士官の中には「勉強したいのに忙しくて、もうやってらんないし!」と、ストライキまがいに勤務放棄をするなど、のちの日中戦争あたりから本格化したファシズム時代の陸軍に比べると、なんとも“牧歌的”な事件が次から次へと起きている。
 これらの報告書は、もちろんマル秘の印が押されて、陸軍省の資料室の奥へと仕舞いこまれていたのだろう。換言すれば、軍隊とはいえそれだけ人間臭い一面が大正期から昭和初期にかけての陸軍には、まだ色濃く残っていたということかもしれない。
 周囲の状況に刺激されたのか、あるいは初年兵の逆オルグにあって新たに思想を形成をしたものか、下士官が休暇をとったまま帰ってこないエスケープ事件を見てみよう。兵舎の所持品を調べてみると、アナキズム関連の書籍が見つかっている。1926年(大正15)4月に報告された、大阪第四師団から陸軍大臣あての報告書より引用してみる。
  
 大正十五年四月三、四日ノ両日奈良見物ト称シ外泊休暇ヲ願出所定ノ時間ニ帰営セザルヲ以テ伯太憲兵分遣所ト協力シテ捜索ニ従事シ其手懸ヲ得ル為 本人ノ手箱等ヲ点検シタル結果 無政府主義者ト認ムベキ逸見吉造(水平社幹部)石田政治(水平社幹事)両名ヨリノ来信ト主義ニ関スル左ノ書籍ヲ発見シ思想上ニ関シ相当研究セルコトヲハッケンセリ/左記/クロポトキンノ研究/大杉栄ノ日本脱出記/ゴーリキー全集第五編/啼レヌ旅/薄明ノ下ニ/解放/改造/自然科学/文章往来/アフガスチンノ懺悔録 (野砲兵第四聯隊)
  
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近衛師団司令部(近美工芸館).JPG
 さらに、1927年(昭和2)2月には将校の少尉が、軍隊では多忙すぎて自身が進めている「支那に関する研究」が満足にできないのを理由に、いきなりいっさいの勤務を放棄してサボタージュし、懲罰として重謹慎30日を命じられたものの、その後も勤務放棄のストライキをつづけ、ついには退職が認められた事例も報告されている。
  
 (少尉は)精神ニ動揺ヲ来シ軍隊生活ヲ厭忌シ退職ノ手段トシテ素行ヲ紊シ隊務ヲ顧ミザル件ニ関シテハ既報ノ処 一月二十九日附免官ノ内達ヲ受ケ挨拶、整理ヲ済マシ翌三十日奉天ニ向ヒ出発セルガ支那事情ヲ研究セントスルモノゝ如シ (歩兵第七十三聯隊)
  
 彼ら軍内部のアナキズムや共産主義思想、あるいは社会主義思想などを少しずつ「説諭」(オルグ)して取りこみ、原理主義的社会主義Click!とでもいうべき思想が徐々に浸透して拡がった結果、陸軍皇道派によるクーデターとして爆発したのが、1936年(昭和11)の二二六事件Click!だという見方さえできうるかもしれない。
 1927年(昭和2)1月に、軍隊内へ配られそうになったアナキズム雑誌「無差別」に掲載の、『軍国主義ヲ吟味セヨ―無産青年諸君ヨ―』から、その一部を引用してみよう。全文漢字/カタカナで句読点もなく読みにくいので、ひらがな文に直し句読点を付加した。
  
 愛国と云ふ言葉も底を割つて見れば資本家の肥満し切つた懐中を余計に太くせんが為に、戦争が無ければ無益有害な軍閥領土的野心を満足せんが為に、そして彼等の存在を民衆にとつて意義あらしむべく俺達のたつた一つしかない生命を投出せと云ふ事になるのだ位の事は判つてきた。こうした意識が民衆の中に濃厚となつて人間的必然に、或は人道的主義立場人類平和の為に非戦的傾向を取るに至つた現今社会状態を見て取つた侒奸な奴ブルジヨアと軍閥共は俺達を尚ほこの上搾取せんために、何とかうまい考へはないかと頭を搾つた結果が彼の破壊的軍事思想の鼓吹を目的とする軍事教練と青年訓練所とである。
  
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 1929年(昭和4)10月、竣工して間もない戸山ヶ原Click!大久保射撃場Click!で発見された、「軍隊ハ資本家ノ番犬ナリ/我等ハ真ノ国民ノ番犬ノ軍隊ナランコトヲ望ム」の落書事件Click!から、わずか6年と少しで国家を揺るがす二二六事件Click!が勃発している。

◆写真上:北ノ丸にある、近衛師団司令部(現・東京近代美術館工芸館)の師団長室の窓。
◆写真中上は、入営後に寝起きする兵舎。は、不合理な制裁を受けたら「中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル」と宣言する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)1月25日付け金沢第九師団報告書。は、入営後も「主義研究」の継続を申請する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)2月20日付け名古屋第三師団報告書。
◆写真中下は、代々木練兵場Click!における閲兵式。は、休暇中の伍長が出奔し所持品から無政府主義関連の書籍が見つかって動揺する、1926年(大正15)4月26日付け大阪第四師団報告書。は、明治期に竣工した近衛師団司令部の全景。
◆写真下は、東日本大震災の直前に撮影した旧・軍人会館(元・九段会館/解体)。は、勤務放棄のストライキで免官になった少尉の1927年(昭和2)2月16日付け最終報告書。は、1960年(昭和35)に撮影された解体が進む戸山ヶ原の大久保射撃場。
おまけ
10月10日になっても、セミの声が鳴きやまない。秋の深まりを感じさせるヒヨドリとアブラゼミ、そして秋の虫の3重奏はめずらしいので記録。

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子ども時代の記憶はいい加減。 [気になる映像]

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 子どものころの記憶ほど、あてにならないものはない。そろそろ黄昏どきになり、クタクタになって遊びから帰る午後6時ごろ、風呂の次には夕食が待っていた。原っぱでの草野球に、防風・防砂林の松林での“基地”づくり、夏なら午後いっぱいプールで泳ぎ、たまには浜辺に出て三浦半島や伊豆半島を眺めながら難しい蝉凧Click!揚げと、遊びたい放題に遊んでいた時代だ。わたしが小学生だったとき、1960年代後半の海岸っぺりClick!に住んでいたころの情景だ。
 親父は当時、忙しい設計や建設の仕事Click!に忙殺されていたのでたいていは帰りが遅く、先に夕食を済ませては宿題もせずにあとは寝るだけという生活だった。夕食をとりながら居眠りをしないよう、特別にTVを観ながらの食事が許されていた時間だ。そのとき、6時30分からはじまるドラマを観ていたのだが、なぜか強く印象に残っている。NHKの『素顔の青春』という連続ドラマで、キリスト教系の病院に付属する看護婦養成学校の物語だったと思う。もっとも、ドラマのタイトルはずいぶんあとから判明したもので、数年前まではとうに忘れていた。
 ドラマ名が判明したのは、そのテーマソングのメロディや歌詞をかなり憶えていたからだ。小学生の記憶力はあなどれない……と、タイトルとは矛盾するようなことを書いてしまうが、先年、何気なく60年代のCMをYouTubeで検索していたら、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』Click!という曲がひっかかった。憶えていた歌詞やメロディから、「もしや?」と思って聴いてみると大当たりだったのだ。作詞が岩谷時子で、作曲がいずみ・たくだったというのも知った。そして、このテーマソングが使われたドラマが、『素顔の青春』(NHK/1967年)というタイトルだったことも判明した。
 小学生のわたしが、なぜNHKの看護婦養成学校を舞台にした、子どもにはたいして面白くもなさそうなドラマを好んで観ていたのかといえば、「マタンゴ」でゴジラよりも強いキングギドラを連れてやってきた「X星人」の水野久美Click!が、白衣の看護婦役で出演していたからだ。この南洋の島に棲息するキノコのお化けから怪獣連れの宇宙人のあと、ほかでもない白衣の天使に姿を変えた水野久美が、子ども心に気になって気になってしかたがなかったのだ。だから、ほかの若い看護学生役の女の子たちなどどうでもよく、ただ水野久美の出演のみに興味が集中して観ていたのを憶えている。
 だが、あくまでも阿部京子や春丘典子、伊藤栄子、摩耶明美の4人の看護学生たちが物語の主人公であり、彼女たちがさまざまな経験を重ねて一人前の看護婦になるまでを描いた青春ドラマなので、いつも水野久美が登場するとは限らない。だから、彼女が出てこないと遊び疲れから、夕食の途中でつい居眠りをはじめてしまうのだ。すると母親が、「ほら、X星人が出たわよ!」と叫んで起こしてくれ、わたしはハッとして急いで白黒のTV画面に目を向けると、看護婦姿の水野久美が映っていて満足しながら食事をつづける……というような光景が日々繰り返された。
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 キリスト教系の看護婦養成学校では、入学して数年たつとチャペルの祭壇にある十字架の前で「戴帽式」が行なわれる。火のついた蝋燭を片手に、彼女たちはナイチンゲールの誓詞を読み上げるのだが、子ども心にも強く印象に残るシーンだった。大人になってから、ドラマのモデルになった病院に付属する看護学校とは、築地にある聖路加病院Click!か下落合にある国際聖母病院Click!だったのではないかと、漠然と想像していた。ところが、『素顔の青春』はNHK大阪が制作したドラマであり、大阪市内にあるという設定の「城南大学付属看護学院」が舞台だったのだ。
 改めて出演者を見ると、当時のわたしはまったく気づかなかったが、大阪出身の俳優たちが大半を占めている。同作品の出演者は、主人公である上記4人の看護学生と水野久美をはじめ、毛利菊枝、小坂一也、北沢彪、門之内純子、中村芳子、大塚国夫、近藤正臣、久富惟晴、中村雁治郎、浪花千栄子、西山辰夫、伊吹友木子、加島潤、桜田千枝子、曾我廼家明蝶、小田草之介、山田桂子、池田和歌子、武原英子などだ。彼ら(彼女ら)の多くは、まちがいなく大阪弁を話していたはずなのだが、まったく印象に残っていないのは、水野久美や看護学生たちが関東弁をしゃべっていたせいだからなのか?
 このドラマは、NHK総合テレビの月曜から金曜までの午後6時30分から放映され、1年間もつづいていたらしい。毎日、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』を夕食どきに聴かされつづけ、「いつ、X星人にもどるのだ?」と看護婦姿の水野久美を観ていたわけだから、どうりで強く印象に残ったわけだ。原作者は、木下惠介Click!プロダクションの脚本家・楠田芳子で、当時のエッセイが残っている。
 1967年(昭和42)に発行された「グラフNHK」10月15日号所収の、楠田芳子のエッセイ『“青春”いまむかし』から少し長いが引用してみよう。
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 NHKで決めてくれた<素顔の青春>とは、好ましい題名だと思う。一年間、自分のすべてをかたむけてとりくむ作品だから、わたしがきらいなわけはない。この作品の中で、わたしは人間のごく平凡な生活の中にある哀歓を、由紀子という主人公の若い目を通して描き、生きてゆくことの大切さ、美しさを、また平凡な人生の中の心にしみるドラマを書きたいと思った。/看護婦というきびしい職場の中で成長して行く彼女を、わたしは一生懸命自分の心の中に置いて、愛しもし、いたわりもしている。また彼女を囲むたくさんの登場人物のすべてが、わたしの胸の中でブツブツいったり、笑ったりしているような気さえもする。/このドラマのために、たびたび看護学院を訪れ、先生がたや学生の皆さんからお話をお聞きした。教師も学生も、わたしの想像を越えた自由と規律とを持っていることに感慨を抱いたのは歳のせいであろうか。そしてある日フト自分をふりかえってみる。わがままで激しく、そのくせ無力な少女が中都市の大通りをスタスタ歩いている。上級生には敬礼、飲食店には立入禁止、外出には制服着用、髪は三つ編み、スカート丈は床上三十センチ、ひだの数は……ああ、もう忘れました。あれもいけない、これもするな。なにが楽しくて生きていたのかと思うほど制約の多かった学生時代で、いま、わたしの身について時たま子どもたちをあきれさせることといったら、簡単な電気製品の修理であろう。刃物のとぎかた、柳行李をカメの子型に荷作りする方法など、満州の開拓村へ花嫁に行ったときのために教育されたのだから、なんともわびしく、味けない思いがする。
  
 いまだ、生活も思想・信条も不自由だった戦争の記憶が色濃い1960年代、作者の楠田芳子は看護学校の学生たちをうらやましく眺めながら、『素顔の青春』を書いていたのがわかる。「子どもたちをあきれさせる」彼女の得意ワザとは、男たちが前線にいってしまい男手のない“銃後”の生活でも、なんとか女子たちだけで切り盛りできるよう、身につけさせられた生活上の「技術」ばかりだ。
 でも、午後6時30分という子ども番組の時間帯で、「人間のごく平凡な生活の中にある哀歓」を描こうとした作品に、「マタンゴ」で「X星人」の水野久美をキャスティングしたらダメでしょ。子どもの頭の中では、あらぬ妄想がどこまでも際限なく拡がりつづけ、「生きてゆくことの大切さ、美しさ」どころではなく、いつ妖しげな媚態から彼女の正体がバレるのか、ウキウキ気分で1年間をすごしてしまったような気がする。
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 そういえば最近、水野久美が「マタンゴ」でも「X星人」でもなく、「口裂け女」Click!になったというウワサを耳にしたので、再び「とうとう正体を現したな」とウキウキ気分が再燃している。小学生のころから現在にいたるまで、好きな女優のひとりなのだ。

◆写真上:築地にある1874年(明治7)創立の、聖路加病院の旧・病院棟(1933年築)。
◆写真中上は、『素顔の青春』で印象的な戴帽式シーン。は、同作品で山崎葉子先生役の水野久美(右)。『素顔の青春』関連の写真は、いずれも「グラフNHK」より。下は、もう一生忘れられない「マタンゴ」()と「X星人」()の水野久美。
◆写真中下上左は、『素顔の青春』の原作者・楠田芳子。上右は、同ドラマの看護学生・杉本由紀子役の阿部京子。は、1931年(昭和6)に創立された下落合の国際聖母病院。は、聖路加病院のすぐ近くにある1874年(明治7)創立の築地教会礼拝堂。
◆写真下は、ドラマが放映されたころのナショナル・パナカラーと街中を走っていた大衆車ファミリア。は、倉本聰のドラマ『やすらぎの刻-道』(テレビ朝日/2019年)で「口裂け女」に変身した水野久美。(右から2人目) ちなみに左から右へ、いしだあゆみ、加賀まりこ、浅丘ルリ子Click!、大空真弓、水野、丘みつ子のお化けたち。中でも「お岩」「山姥」「口裂け女」が秀逸で、そのまま『金曜日のお岩たちへ』『バッケが原の山姥』『妖怪大戦争-口裂け女vsマタンゴ-』とかいう映画でも撮ってほしい。

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下落合を描いた画家たち・安藤広重/二代広重。 [気になる下落合]

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 下落合の御留山Click!中腹にある藤稲荷(東山稲荷)Click!には、水垢離を行なえる滝があったというのだが、いったいどのような形状の滝で、御留山のどこにあったのかがハッキリとはつかめなかった。1836年(天保7年)に刊行された斎藤月岑の『江戸名所図会』の巻之四「天権之部」Click!を見ると、長谷川雪旦の挿画には雑司ヶ谷道Click!に面した御留山の麓、藤稲荷の鳥居の東側に、どうやら小滝のような水流が見てとれるので、おそらく茶屋などが並んだ雑司ヶ谷道に面して、高さ数メートルの落水があったのだろうと想定していた。だが、それが具体的にどのようなかたちの滝で、滝の周囲の風情がどうだったのかまでは、『江戸名所図会』の表現では抽象的すぎて不明だった。
 同書には「藤杜稲荷社」として記載されているが、その記述はそっけない。
  
 藤杜稲荷社 岡の根に傍ひてあり また東山稲荷とも称せり 霊験あらたかなりとてすこぶる参詣の徒(ともがら)多し 落合村の薬王院奉祀す
  
 また、『江戸名所図会』よりも40年ほど前の寛政年間に書かれた、金子直德の『和佳場の小図絵』でも、同稲荷社の記述はわずかだ。
  
 東山稲荷大明神 俗に藤のいなりと云(いう) 大藤ありしが 今は若木あり 別当落合村真言宗薬王院と云
  
 おそらく『江戸名所図会』の斎藤月岑は、大江戸(おえど)Click!西北の資料である金子直德の『和佳場の小図絵』を参照しているとみられるが、滝の記述はどこにも表れない。同書に金子直德が添付した絵図「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」には、藤稲荷は「東山稲荷」として採取されているが、滝の表現はまったく見られない。
 また、金子直德が描いた画文集『若葉抄』の「東山藤稲荷社」にも、滝はどこにも採取されていない。幕末に作成された、堀江家文書のひとつである「下落合村絵図」には、下落合氷川社の北側(実際は北東側)に「藤稲荷」が描かれているが、こちらも滝の表現はない。だが、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』には、金子直德のみの著作ばかりでなく多種多様な資料を参照しているのだろう、藤稲荷社の滝が登場している。
 同書は、著者が実際に訪れた当時の情景(戦後の1950年代)と、江戸後期の情景描写があちこちで混在しているとみられるが、藤稲荷について少し長めに引用してみよう。
  
 落合氷川神社の東北の高地の麓に碑を建て、それに東山正一位稲荷大明神と彫り付けてある。つまさきのぼりに四、五十段の石段を登ると、頂上に宮社及び庵室がある。麓には瀧があり、水垢離場があり、社の北には縁結びの榎という神木がある。また大藤があってことに名高い。東南一面の耕地を展望して、風色見事である。春は花・時鳥によく、夏は蛍一面に飛びかう有様は、まことに奇観である。秋は紅葉、冬は雪、ことに仲春、紫雲草(れんげそう)の一面に咲きむれているのは、毛氈を敷いたようで、まことに雅景というほかない。/当稲荷社は、王子稲荷よりも年暦が古く、むかし六孫王源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天(だきにてん)の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。什物には、正宗の太刀一振があった。(中略) さらに水垢離場の崖には石の小天狗が据え付けられてある。寛延三年の作である。また外(ほか)に不動尊の石像もある。これには寛延五年刻とある。
  
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 雑司ヶ谷の海老澤了之介は、下落合の事情にうとかったのか目白崖線につづく丘の地元の“山名”を記していない。ここに登場する「高地」は御留山のことであり、藤稲荷社の本殿があったのは「頂上」ではなくて中腹だった。御留山のピークは、藤稲荷の境内からさらに50mほど山道を西へ登ったあたりだ。
 また、「神社(じんじゃ)」Click!は明治以降の薩長政府教部省が規定した呼称だし、「東山正一位稲荷大明神」の石碑は戦後に建立されたものだ。さらに、寛延年間は4年までで「五年」は存在しない。単に「寛延四年」の誤写か、あるいは不動明王は寛延4年に彫刻されたが奉納は翌年に予定されていた可能性もある。寛延4年は10月27日までで、以降は「宝暦」と改元されている。
 御留山の西つづきの大倉山(権兵衛山)Click!と同様に、御留山にも神木があったのがわかる。大倉山の神木は樫の木Click!だったが、御留山の神木は榎だったらしい。板橋の大六天Click!にある「縁切り榎」Click!は昔から有名だが、下落合には「縁結び榎」があったのだ。この神木の伝承が現代までつづき榎が残っていたら、藤稲荷社は下落合の思わぬ観光名所(いまならパワースポット)になっていたかもしれない。
 御留山山麓の蛍狩りClick!や、三代豊国・二代広重の「書画五十三次・江戸自慢三十六興」第30景『落合ほたる』Click!について、あるいは奉納されたとみられる「正宗の太刀」Click!についてはすでに記事にしているので繰り返さない。
 由来が不明なほど古い藤稲荷社には、ヒンドゥー教に由来する陀祇尼天(荼吉尼天)が奉られているというが、もちろん後世(室町期以降)によるものだろう。「源経基の勧請といわれ」る伝承が残っているようだが、わたしはこれも後世の付会(後付け)由来ではないかと強く疑っている。山には深い雑木林が拡がり、御留山からは各所で水量が豊富な泉水が噴出し、平川Click!(旧・神田上水→現・神田川)に向け急峻なバッケ(崖地)Click!が連なる地形から、由来が不明な藤稲荷は朝鮮半島から畿内へと持ちこまれた農業の神「稲荷神」などではなく、周囲の考古学的な発掘成果や旧蹟・地名・川(沢)名などから、もちろん古代の大鍛冶=タタラの神「鋳成神」Click!が、室町期ないしは江戸期に転化して稲荷社になっているのではないかと想定している。
 なぜなら、藤稲荷社に奉納されていたのが真贋の課題はともかく、目白=鋼の代表的な作品である刀剣(「正宗」の太刀)である点に留意したい。また、藤稲荷から西へ1,000m余のつづき斜面から戦時中、改正道路(山手通り)Click!の工事現場でタタラ遺跡をしめす鐡液Click!(=金糞/かなぐそ)、すなわちスラグが少なからず出土しているからだ。
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 さて、なかなか見つからなかった藤稲荷の水垢離場にあった滝の図絵だが、ようやくその全貌を描いた作品を見つけることができた。よく地域史料や歴史資料に引用される、地域の風景を描いた浮世絵や『江戸名所図会』などからいったん離れ、江戸へ物見遊山にやってきた見物客向けに土産物として売られていた冊子(観光ガイド)類を参照したら、藤稲荷の滝が描かれていたのだ。安藤広重Click!と二代広重が描いた『絵本江戸土産』の第9編に、藤稲荷の滝が大きくフューチャーされている。
 同書の全10編が、日本橋馬喰町の金幸堂からひと揃いで出版されたのは1864年(元治元)のことだが、安藤広重は1858年(安政5)にすでに死去している。第7編までが安藤広重が描き、それ以降は二代広重が描いたとされているが、モチーフとなった場所へ師と弟子が連れ立ってスケッチに出かけているのは、それ以前からスタートしていたかもしれない。同書の藤稲荷のページから、添えられた文を引用してみよう。
  
 藤稲荷に瀧あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ
  
 これを読むと、少なくとも二代広重は夏場に藤稲荷へと出かけ、水垢離場に入って実際に流れ落ちる滝に打たれてみたのかもしれない。だが師弟が連れ立ち、それ以前に下落合をスケッチしているとすれば、ふたりで滝の下までいって冷たい湧水のしぶきを浴びている可能性もある。ただし、安藤広重はそのころ60歳近い年齢だったから、実際に現場へ赴いたとしても「冷気肌を徹して」は体調が悪くなるので、「鎮平、おまえ浴びてこい」「師匠、もう10月ですぜ。勘弁してくださいよう」「よし。じゃ、わたしがいく」「師匠がいくなら、しゃあねえな、わたしもご一緒しますがね」「どうぞどうぞ」「……オレは上島か!」と、二代広重に任せただろうか。
 絵を細かく観察すると、不動明王の石像下には湧水を落とす龍の口が設置されているのが見える。おそらく銅製の龍の口だろうが、滝の正面から見て流水を剣に見立てた、刀剣の彫り物に多く縁起のよい「剣呑み龍」、つまり不動明王の化身として象徴させたものだ。海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』に登場している石像の「小天狗」は、滝の右手に設置されていたものか描かれていない。
 手前の雑司ヶ谷道沿いには、“お休み処”とみられる式台や屋根に板か簾を拭いた茶屋が並んでいるのは、『江戸名所図会』などの情景と同じだ。このような仕様の茶屋は、1909年(明治42)10月発行の『東京近郊名所図会』Click!によれば明治末まで残っており、東京郊外を散策する観光客や、近衛騎兵連隊Click!演習兵士Click!を相手に休憩所として商売をしていたとみられる。下落合には、明治末に3ヶ所の茶屋が記録されており、2ヶ所は下落合4丁目(現・中井2丁目)の小上(蘭塔坂Click!上)だが、もう1ヶ所は藤稲荷からもう少し西へ歩いた下落合氷川明神社Click!近くの本村にあった。
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 広重の『絵本江戸土産』には、下落合の藤稲荷だけでなく落合周辺に散在する名所が、あまり引用される機会もなく、めずらしい構図で描かれている画面が少なくない。機会があれば、高田村や戸塚村、雑司ヶ谷村、小石川村などの情景を改めてご紹介したい。

◆写真上:急峻な崖地がつづく、御留山の中腹にある藤稲荷社の現状。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』に添えられた「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」より。田島橋の犀ヶ淵Click!まで採取されているのに、藤稲荷(東山稲荷)の滝が描かれていない。は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』に採取された藤稲荷の滝。は、金子直德『若葉抄』に著者が描いた藤稲荷だが滝が見えない。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された荒廃が進んだ藤稲荷の境内。は、広重『絵本江戸土産』に描かれた藤稲荷の水垢離場。
◆写真下は、広重『絵本江戸土産』に描かれた滝の拡大。は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村図」をもとに各画面の描画方向を書き入れたもの。ただし、いずれも鳥瞰図のため視点が高い。は、藤稲荷の滝があったあたりの現状。1940年(昭和15)からスタートした第一徴兵保険(のち東邦生命)の宅地開発Click!で、御留山の西南部が崩され道路(おとめ坂)が敷設されている。また、戦後は大蔵省の官舎建設のために、御留山東側の深い谷戸Click!も地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋められた。

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大隈重信邸門前の妖怪「枕返し」。 [気になるエトセトラ]

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 So-netブログのドメイン変更にともない、FacebookなどSNSとの連携やカウントがすべての記事でゼロにもどり、外部からのリンクも、昨年のSSL設定時と同様無効になった……と思いきや、今回はリダイレクトできるではないか。これは外部サイトを修正する、膨大な手間ヒマをかけずに済んだかもと思っているが、油断は大敵。リダイレクトがいつまで有効か不明だし、今回のWebサーバはSSL未対応なので、ほどなく再対応などといだしかねない。メンテ作業がチームとして対応できるならまだしも、わたしひとりのメンテでは2,300記事ほどもあるので、そろそろ限界なのだが……。
  
 親父のアルバムを整理していたら、戦災で焼ける直前に撮影された大隈重信邸の写真が出てきた。早稲田第一高等学院Click!の制服を着た親父たちが前面に写り、背後には瓦職人が屋根を修繕している大隈重信邸がとらえられている。ゲートルを巻いた高校生たちの様子から、1944年(昭和19)ごろの撮影だとみられる。(冒頭写真)
 ほかにも、同高等学院(大学教養課程)から早稲田大学理工学部へ進学予定の、学徒出陣Click!からまぬがれたクラスメイトたちとともに写る、大隈講堂Click!の写真も残っていた。大隈講堂の背後には、当時はいまだ現役で使われていた焼却炉の煙突がとらえられている。親父たちはこのあと、高等学院の授業が停止されて勤労動員に駆りだされ、実際に卒業試験が実施され大学へと進学(復学)できるのは、敗戦後の1947年(昭和22)4月以降のことになる。大隈講堂はともかく、戸塚町下戸塚稲荷前68~108番地(現・新宿区戸塚町1丁目)にあった大隈邸とその庭園の写真は、戦災で焼けてしまったので貴重だ。
 いつかの記事でも取り上げたが、明治中期の大隈庭園で確認できる瓢箪型の突起(築山にされていたと思われる)や、いくつかの円形あるいは楕円形の丘が気になる。これらは、戸塚(十塚Click!)の地名由来となった富塚古墳Click!や、百八塚Click!の伝承に連なる古墳の墳丘ではないかと疑われるからだ。大正初期に書かれた大隈邸の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)から、一部を引用してみよう。
  
 大隈伯爵邸 下戸塚の東隅にあり、牛込区早稲田鶴巻町に接するを以て、俗間には早稲田の大隈邸を通称す、同邸はもと高松藩主松平頼聰の別邸なりしが、明治六年以後松本病院、英学校等の敷地となり、同十七年始めて伯の所有に帰せり、其の庭園は慈善会若くは公共団体の集会等には何人にも随意に之を使用せしむ、(中略) 此処より庭園に入る路と菜園に入る路とに岐る、即ち庭園に入れば左方小丘の上に一宇の神祠あり、神祠の下に数寄屋あり、其の稍々前方なる小丘には老檜三株聳立し、樹下に大理石の平盤を置く、一隅に桜樹ありて露仏を安置し、一隅に古松ありて石燈籠を配す、此の丘と相並べる一丘は悉く松林にして渠流を隔てゝ桜楓の林と対す、渠水々潺々丘を遶りて流る、前方芝生の画くる処に邸舘あり、(後略)
  
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 大隈邸の敷地にあった「松本病院」とは、幕府の御殿医だった松本順Click!(松本良順)の病院のことだ。松本順は、日本初の海水浴場Click!大磯Click!に開設した人物として湘南海岸ではつとに有名だが、大磯のこゆるぎの浜Click!に面して建つ藩主筋の鍋島直太郎邸と陸奥宗光邸にはさまれた大隈重信の別邸Click!(現存)も、松本がなんらかの関与をしている可能性がある。子どものころ、親に連れられて大磯の旧・東海道沿いの松並木を散歩するたび、親父が「ここが大隈重信の別荘だ」と指さしていたのを思いだす。もうひとつの「英学校」は、松本病院に隣接して建てられていた「明治義塾」のことだ。やはり明治初期に、山東直砥が開設した英語を学ぶ学校だった。
 また、庭園の小丘の上には「神祠」が建立されていたり、「露仏」が安置されているのが興味深い。もちろん、これらの史蹟は大隈家が配置したものではなく、もともとそこにあった小丘に建立されていたものを、そのまま庭園の風情に取り入れているとみられる。ちょうど、華頂宮邸の庭に残された亀塚Click!や、松平摂津守の下屋敷にあった津ノ守山=新宿角筈古墳(仮)Click!、水戸徳川家上屋敷(後楽園)に残された後楽園古墳、駒込にあった土井子爵邸の祠が奉られた稲荷古墳などと同様のケースだ。「神祠」は、かなり歴史のある石祠を感じさせるし、「露仏」は室町期に百八塚を供養したと伝えられ、大隈邸のすぐ南にある宝泉寺にもゆかりが深い僧・昌蓮Click!の仕事を連想させる。
 さて、大隈邸の門前に位置し、昌蓮の百八塚の伝承が色濃く残る宝泉寺に、面白い妖怪譚が伝えられているのでご紹介したい。宝泉寺の境内には、江戸末期まで毘沙門堂が建立されていたが、おそらく明治政府の廃仏毀釈で寺が困窮した際、境内を切り売りしたのか毘沙門山とともに現在は残されていない。当初は4,540坪あった境内が、大正期には700坪ほどに縮小されている。
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 その毘沙門堂に宿泊した人々は、翌朝になるとみな驚愕することになる。自身が就寝していた場所から、布団や枕とともにとんでもない位置にまで身体が移動しているからだ。再び、『豊多摩郡誌』より引用してみよう。
  
 毘沙門堂の怪談 維新の頃まで大字下戸塚宝泉寺旧境内に毘沙門堂ありたり、其の地今は石黒邸内に入れり、旧時の堂は丹塗りにして左まで大なる建物にあらざりしも、妖怪ありて、堂内に宿泊するときは、寝入れる間に其の人の位置変ぜらるゝが例なりしよし、村の若人等そは不可思議なる事よとて、再三試みたるに、皆な夢の間に枕の向きを変へられ、孰れも怪み怖れて再び試みんものもなかりしよし。
  
 戸塚村の村民は、そろいもそろって寝相が悪かったのでないとすれば、明らかに妖怪「反枕(枕返し)」のしわざだと思われるが、同様の妖怪譚あるいは類似の伝承を近辺では聞かないので、宝泉寺の毘沙門堂だけに出現していたものの怪だろうか。
 枕返しの怪談は、関東地方や東北地方ではよく耳にするが、その正体はどの地方でもいまいちハッキリしない。東北では、枕返し=座敷童(ざしきわらし)とされている地域も多いようだ。また、その部屋で死んだ亡霊のしわざとか、実は化け猫Click!が真夜中に悪さをしているのだとか、人をたぶらかす狐狸のしわざだとか、各地にはさまざまな説があって一定しない。その姿も、子どもや坊主、怖ろしい幽霊、鬼、化け猫、はては美女にいたるまで多種多様だ。ちなみに、北陸地方に伝わる美女の枕返しは、その姿を目にしたとたんに死ぬといわれているおっかない妖怪だ。
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画図百鬼夜行「反枕(まくらかえし)」1776.jpg
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 晩年に早稲田大学で教鞭をとっていた小泉八雲Click!だが、宝泉寺の毘沙門堂怪談を耳にしていたら、さっそく同寺に取材を申しこんでノートに記録していただろうか。あるいは、大隈重信は肥前(佐賀)の鍋島藩の元藩士なので、「鍋島屋敷ノ化ケ猫Click!騒動ッテ、マジデスカ?」と総長室に突撃取材を試みていたかもしれない。w

◆写真上:1944年(昭和19)に撮影されたとみられる、下戸塚の大隈重信邸と大隈庭園。
◆写真中上は、1917年(大正6)の写真に人着がほどこされた大隈邸。は、冒頭写真と同じく1944年(昭和19)に撮影された大隈講堂。は、1886年(明治19)の1/5,000地形図にみる大隈邸。庭園のあちこちに、気になる突起が採取されている。
◆写真中下は、1909年(明治36)に撮影された大隈庭園で、北側の小丘の上から撮影されたとみられる。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる大隈邸と宝泉寺。は、大磯のこゆるぎの浜にある大隈重信別邸。
◆写真下上左は、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)。上右は、1776年(安永5)に出版された『画図百鬼夜行』(前編/陰の巻)。は、同書に収録された「反枕(まくらがえし)」。は、現在の宝泉寺境内で左手のビルは早大法学部8号館。

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