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第一寮棟で暮らした学生たち。(上) [気になる下落合]

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 近衛町Click!の南端にある、下落合1丁目406番地(現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)がひどいことになっている。寮棟のあった敷地や、西側のテニスコート周辺にあった緑が根こそぎ伐採され、バッケ(崖地)Click!下の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)の際まで含めて、大規模な集合住宅が建設される予定だという。これでまた目白崖線の緑が消え、斜面から丘上にかけて灰色のビルが出現するわけだ。
 さて、すでに解体されてしまった学習院昭和寮の4棟には、どのような学生たちClick!が暮らしていたのだろうか。昭和寮は、旧・学習院高等科の学生たちを入寮させていたので、今日の学制でいえば大学の教養課程を学ぶ、17歳から20歳ぐらいまでの若者たちだ。以前から、昭和寮で起きた出来事Click!エピソードClick!を中心に書いてきたので、今回は入寮していた学生たちに焦点を当て、その横顔を少しご紹介してみたい。
 学習院昭和寮Click!には、本館の南側に4棟の寮舎が建っていたが、そのうちの第一寮には15人の学生が入居していた。たいがいが皇族や華族、資産家の家庭出身者たちだが、お気楽にスポーツへ打ちこむ学生もいれば、さまざまな苦労を重ねて入学してきた学生もいて、寮生の顔ぶれは多彩だったようだ。1933年(昭和8)2月に発行された寮誌「昭和」Click!第8号には、第一寮の14室に住む学生たちのプロフィールが掲載されている。いちおう、氏名はイニシャルで書かれているが、学習院高等部へ通う学生が見たら、すぐに誰かが特定できただろう。
 同誌に掲載された、一寮生『一寮十五勇士』から引用してみよう。全14人しか紹介されていないが、最後の15人目は著者の「一寮生」だからだ。
  
 多分昭和寮の杜に鶯の囀ずる頃には私も此のなつかしいクリーム色の寮舎から、チユーブ入のライオン歯磨の様に、永遠に追出されなければならないでせう。ですから此の出口に留つてゐる間にチユーブの内容を、一般に招介(ママ:紹介)し又広い世界の空気をつぎ込む役目をするのも決して無益ではありますまい。併し内容物は歯磨とは一寸異つた血も肉も思考もある人間です。
  
 このような序文ではじまる第一寮の学生紹介は、寮誌「昭和」の12ページ分を占めたかなり長めの読み物となっている。ふだんから付き合っている、親しい友人たちを紹介するわけだから、いわゆる「仲間うち」でしか通用しない文脈や符丁、いわず語らずの共有経験を暗示する含みのある表現も多いが、昭和初期に下落合へ集合していた学習院生たちの特徴を、よく捉えている文章だと思われる。
 ◎第一室 文二乙 YK君
 「タイアン」というあだ名で、山登りが得意な学生。第一室は特に湿気がひどく、室内はカビだらけだったようだ。明るい性格のようで、どこか口八丁手八丁のようなとぼけた面もあったらしい。一寮全体が明るくなると、周囲から歓迎されている様子だ。
  
 尖い頭脳と体に不釣合な太い膽力の所有者で、本院否日本山岳会の権威の一人です。専門雑誌に寄稿して立派に原稿料を稼いでゐます。然し君の過去は決して平坦なものではなく、随分険阻な山道を歩いて来た様に見受けられます。
  
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 ◎第二室 文一丙 AM君
 かなり肥った学生だったらしく、「豚」などと書かれている学生。第一室のYK君が痩せていたのに対し、第二室の学生は丸々とした体格で童顔だったらしい。
  
 大のスポーツフアンでもあり亦スポーツマンでもあります。対附中戦の大将として本院の柔道史を飾り、又山岳部の委員として働いてゐるわけなんですが。最近は時代の波におされてかラグビー選手として偉大な体躯をグランドに現してゐます。
  
 ◎第三室 理二甲 MK君
 おカネ持ちで、絵に描いたようなイケメンだった学生。寮では読書室主任を引き受け、夏休みになると鎌倉の別荘へ出かけるのを楽しみにしている。また、軍事ヲタクClick!だったらしく当時の軍備に通じており、著者に「帝国主義者」と呼ばれている。
  
 スカールの名手。先日も井口盃レースに出場して活躍されました。未来はエンジニヤーとして我が建築界を背負つて立つ人。どうです皆さん! 新家庭の愛の巣を作る場合、君にお願いしては、又大の陸海軍通、と云ふよりは寧ろ帝国主義の権化です。
  
 ◎第四室 文三甲 FH君
 明るい性格のようだが、在寮時に不幸がつづいていた学生。文章も、FH君への慰めと励ましからはじまっている。入寮して1年もたっておらず、昭和寮では新人だった。努力を重ねる性格だったらしく、「ササ熊」というペンネームで寮日誌を引き受けている。
  
 スポーツのデパートです。生辞引(ママ:生字引)です。不明の点があつたら一寮の四室へいらつしやい。成る程見掛けは至つてしとやかな君も一旦丸裸になれば筋骨隆々たるモサです。柔道は二段、ラグビーは本院のnumberOne’兎に角すごい体です。
  
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 ◎第五室 理一乙 KM君
 「マホメツト」というあだ名のついた、青瓢箪のような学生。外出の札をかけっぱなしにして、寮のオバサンに外から鍵をかけられ、出られなくなったエピソードはすでにご紹介している。一寮の「変人」で、寮仲間との協調性がまるでなかったようだ。
  
 見掛けによらず、頭脳の明晰なること秋の夜の如きものです。世間は、殊に現代は性格を完備せる人間、之を換言せば人間の全性格や広範な知識を余り要求しないでせう。寧ろすぐれた深い一部分を望んで止みません。一くせある君の前途は決して平凡な人間には終らないでせう。それにしても、もう少し寮生との融和をはかつて欲しいと思ひます。
  
 ◎第六室 理三乙 GM君
 身長が低くて「胎児」というあだ名がついていたが、学習院の理系ではトップの成績だったようだ。一寮のティールームと電話の当番を引き受けていた。学習院では唯一のオカッパ頭で、別に「Poko(ポコ)」というあだ名もあった。
  
 来春の千葉医大受験準備で、秋の夜長を雄々しくも奮闘を続けてゐます。医者を友達に持てとはよく云ひますが、私は何だか不安です。蛙やバツタの調子で解剖された日にや、命がいくらあつても足りそうもありませんから。なるなら内科ですな。それより大のスポーツフアンである君には寧ろスポーツ医学は如何です。
  
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 当時の学習院昭和寮で暮らした学生たちは、みななんらかのスポーツをしていた。部屋に引きこもって、勉強や読書に専念するような学生は、むしろめずらしかったのだろう。そのような学生は、ここに登場している変人の「マホメツト」君ことKM君と、後編に登場する「熊さん」こと内気で引きこもりのBN君のふたりぐらいだろうか。
                                <つづく>

◆写真上:寮棟が解体され、周囲の樹林が伐採された学習院昭和寮の跡。左手の背景は、大黒葡萄酒工場Click!の跡地に建つ高田馬場住宅で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真中上は、宮内公文書館に残る1923年(大正12)5月28日に帝室林野局が東京土地住宅から近衛町の敷地42・43号Click!を購入したときの記録。(東京市及附近所在御料地調/識別番号61683) は、1932年(昭和7)に学習院が撮影した昭和寮の空中写真にみる第一寮。ちょうどこの撮影時、記事に登場している学生たちが暮らしていた。は、昭和寮の東側から眺めた第一寮(右)と第二寮。(提供:野口純様)
◆写真中下は、解体前の昭和寮の寮棟。は、昭和初期に撮影された寮室。
◆写真下は、学生たちが暮らした第一寮の入口。は、寮棟北側にある本館の階段。

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