SSブログ

岡不崩と本多天城の下落合アトリエ。 [気になる下落合]

本多天城アトリエ跡.JPG
 日本画界には歴代、「四天王」と呼ばれる画家たちがいる。江戸の末期、木挽町狩野派の10代・勝川院雅信(まさのぶ)の弟子たちだった狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)、木村立嶽(りつがく)、狩野勝玉(しょうぎょく)は「狩野派最後の四天王」と呼ばれたし、橋本雅邦や狩野芳崖の弟子たちだった下村観山(かんざん:芳崖弟子)、横山大観(たいかん)、菱田春草(しゅんそう)、西郷孤月(こげつ)は「雅邦四天王」、あるいは「朦朧体四天王」などと呼ばれている。
 そして、雅邦四天王とほぼ同時代を歩んだ狩野芳崖の弟子たち、岡不崩(ふほう)Click!岡倉秋水(しゅうすい)Click!、本多天城(てんじょう)、高屋肖哲(しょうてつ)の4人は芳崖四天王と呼ばれた。その四天王のうち、岡不崩とともに本多天城もまた下落合にアトリエをかまえていたことが判明した。情報をお寄せくださったのは、岡不崩のご子孫にあたるMOTさんだ。以下、コメント欄から引用してみよう。
  
 父より本多天城宅について改めて聞きました。落合道人様ご指摘の通り一ノ坂の途中にあって,坂を上がった突き当りのひとつ前の十字路を右に曲がった場所にあったと申してました。岡不崩の遣いで出向くと褒美に1銭の駄賃がもらえて,それで大福6個が買えたらしいです。十字路の左側には駄菓子屋?があって駄賃を使ったとか。岡不崩アトリエの裏は空き地になっていて中井通りを回らずに一ノ坂に抜けることができたそうです。
  
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!沿いの下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)にある岡不崩(岡吉壽)アトリエ(やはり表札が達筆で読めなかったのか姓が「岡吉」と誤記されている)のすぐ北側、急な一ノ坂を上りきってしばらく歩くと、上の道(坂上通り)Click!に突きあたる2本手前の路地を、右に折れた角から2軒目に本多天城アトリエを見つけることができる。当時の住所でいうと、下落合4丁目1995番地だ。
 この敷地は、まったく同じ住所である川口軌外アトリエClick!の3軒南隣りであり、下落合4丁目1986番地にあった阿部展也アトリエClick!の2軒北隣りという位置関係になる。また、本多天城アトリエの西隣りには、「熊倉」という苗字が採取されているが、これがMOTさんの書かれている「熊倉否雨」の住まいであり、同じく日本画家のアトリエだろうか? 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら岡不崩とともに、本多天城や熊倉否雨の名前は記録されていない。
 MOTさんのお父様、つまり岡不崩のご子息の証言によれば、岡不崩アトリエ裏の空き地を通ってそのまま一ノ坂に抜け、坂を上りきった上の道(坂上通り)へ出る手前の十字路を右へ曲がると、本多天城アトリエ(2軒目)があった……という道順は、「火保図」ともピタリと一致し、しかも1936年(昭和11)に撮影された空中写真では、1銭のお駄賃が楽しみな“おつかい散歩道”を完全に再現することができる。おそらく、大福を売っていた店は下落合4丁目1990番地、すなわち十字路の北西角に店開きしていたタバコ店(店名は不明)のことで、目白文化村Click!近くの商店がみなそうだったように、タバコといっしょに副業で菓子も販売している店舗だったのだろう。
 岡不崩が、狩野芳崖のもとに入門したのは1884年(明治17)ごろといわれ、芳崖の弟子では最古参といわれている。本多天城は、翌1885年(明治18)に芳崖のもとへ30回以上も通って、ようやく入門を許されている。それは、芳崖が「己れの画風は飯が喰えぬから夫れでもよろしきや?」(高屋肖哲の回想)というように、弟子をとることにかなり消極的だったせいだろう。天城は最初、近澤勝美について洋画を学んでいたが、芳崖の作品に魅了されて転向したらしい。不崩と天城とは同年ごろ知り合ったとみられるが、弟弟子の天城は不崩の2歳年上だった。だが、狩野芳崖は1988年(明治21)に死去してしまうため、実際に彼らが師弟だった時間はわずか4~5年にすぎない。
本多天城アトリエ1938.jpg
岡不崩アトリエ1938.jpg
本多天城アトリエ1936.jpg
岡不崩アトリエ.jpg
 狩野芳崖の指導法は独特だったらしく、実際に日本画の技術面を教えていたのは狩野友信であり、芳崖はおもに画論や作品に対する批評を弟子たちに聞かせていた。当時、狩野芳崖は小石川植物園にあった図画取調掛(所)に勤務しており、弟子たちはそこへ当然のように出かけていっては絵を習っていた。当時の様子を、2017年(平成29)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王-近代日本画、もうひとつの水脈』所収の、椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』で引用されている岡不崩『鑑画会の活動』から孫引きしてみよう。
  
 芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持って出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白いのだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、(狩野)勝玉や(山名)貫義がやってくる、(狩野)探美や(木村)立嶽なども遊びにくる。どを(ママ)しても画塾である。(カッコ内引用者註)
  
 小石川植物園に置かれた図画取調掛(所)の実態は、狩野派の画家たちが集って新しい日本画を研究し模索した画塾だったのだろう。ときに写生旅行も行われ、芳崖が死去する前年、1887年(明治20)4月には芳崖とともに狩野友信、岡倉秋水、岡不崩、本多天城が連れだって妙義山に出かけている。
 狩野芳崖は、臨本や粉本の類を嫌っていたようで、図画取調掛(所)の実情は画塾だったにしても、とても日本画の塾とは思えない自由な学びや表現が許されていたようだ。
岡不崩アトリエ1926.jpg
岡不崩「一騎討」不詳.jpg
岡不崩「群蝶図」1921.jpg
 同書の椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』より、再び引用してみよう。
  
 (前略) 芳崖は放任主義であるが、決して弟子のことを顧みなかったわけではない。不崩によれば出来上がった画を芳崖に持っていくと、紙に塵が混じっていれば小刀で削り取って、色なり墨なりで繕ってくれたという。そんな芳崖に対して不崩は「其親切と熱心なのには敬服の次第である」と述べている。また芳崖が下画を直す際には「その図の心持ちを取って、それを完全ならしめるやうに」したという。自身の型を押し付けるのではなく、芳崖の教育方針はあくまで自主性を重んじたものであった。
  
 芳崖の死の翌年、1889年(明治22)に図画取調掛(所)や鑑画会を母体にした東京美術学校(初代校長:岡倉覚三=天心)が設立されると、芳崖四天王の4人は天心の勧めもあって同校の第1期生として入学している。だが、翌1890年(明治23)に天心の引き抜きで、岡不崩は東京高等師範学校の美術講師に、岡倉秋水は女子高等師範学校の美術講師に就任するために同校をわずか2年で中退している。本多天城は、高屋肖哲とともに卒業しているが、やはりのちに教職を経験している。
 さて、本多天城が下落合へアトリエをかまえたのは、いつごろのことだろう? 岡不崩は大正末、すでに下落合へアトリエを建てて転居してきており、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には採取されているが、本多天城アトリエの敷地はいまだ草原のままだ。1930年(昭和5)の1/10,000地形図を参照しても、相変わらず空き地表現のままなので、天城アトリエの建設は1931年(昭和6)以降のように思える。同年、岡不崩と高屋肖哲は東京美術学校創立時のエピソードを語る座談会に出席しており、それを読んで懐かしくなった天城が、不崩のもとへ連絡を入れた可能性もありそうだ。
 また、本多天城は岡不崩から日本画と西洋画を問わず、画家たちのアトリエが集中している下落合の様子を聞いていたのかもしれない。さらに、もう一歩踏みこんで推測すれば、大正末に計画されていた東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画も、岡不崩あるいは日本画がベースであるアビラ村の発起人のひとりである夏目利政Click!あたりから、事前にウワサ話として聞きおよんでいたのかもしれない。
岡不崩.jpg 本多天城.jpg
本多天城「水草」不詳.jpg
本多天城「水墨山水」不詳.jpg
 わたしの母方の祖父Click!は、売れない書家で日本画家だったが、苗字は代々「狩野」だった。おそらく明治維新とともに大江戸(おえど)とその周辺域から失職して四散した、江戸狩野派の末流だと思われるのだが、早くから横浜に住んでいる。きっと、明治以降に失業した数多くの幕府や諸藩の御用絵師たちと同様に、欧米へ輸出用の書画や器物用の絵柄を描きつづけていた、狩野一派のなれの果てではないかと想像している。

◆写真上:下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にあった、本多天城のアトリエ跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる本多天城と岡不崩のアトリエ。は、MOTさんのお父様がおつかいに出かけた「大福楽しみお遣いコース」。は、本草学会を結成し多彩な植物の鉢が置かれていた岡不崩のアトリエ庭。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる岡不崩アトリエ。いまだ本多天城アトリエは建設されておらず、十字路も敷設されていない。は、坂東武者の騎馬戦を描いたと思われる岡不崩『一騎討』(制作年不詳/部分) 時代は鎌倉期の想定だろうか、太刀と長巻による太刀打ちの刹那を描いている。は、1921年(大正10)制作の植物や蝶の描写が精細かつ正確な岡不崩『群蝶図』(部分)。
◆写真下:上は、岡不崩()と本多天城()。は、制作年不詳の本多天城『水草』(部分)。は、やはり制作年不詳の本多天城『水墨山水』(部分)。画面の背景に描かれた樹木や草原、山々の描写には、明らかに雅邦四天王による朦朧体からの影響が色濃い。
おまけ
MOTさんのお父様が、本多天城アトリエへお遣いに出かけ、途中で立ち寄っていた十字路角地の商店。1938年(昭和13)の「火保図」では「タバコ」店と記載されているが、おそらく菓子類も置いて売っていたのだろう。写真は、タバコ店のあった跡の現状。
タバコ屋1938.jpg
タバコ屋跡.JPG

下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)の山手坂上にあった、赤尾好夫邸=旺文社の「火保図」(1938年)と写真(1935年ごろ)です。
赤尾邸1938.jpg
赤尾邸1935頃.jpg

読んだ!(14)  コメント(27) 
共通テーマ:地域

救世観音の呪いではなさそうな天心邸の怪。 [気になるエトセトラ]

筑土八幡社.JPG
 岡倉覚三(天心)Click!は、1883年(明治16)から1885年(明治18)の3年間に、4回も転居を繰り返しているようだ。まず、日本橋蠣殻町にあった実家から根岸の御行の松Click!に近い鄙びた寮風(江戸期の別荘風)の家へ、半年ほどで巣鴨庚申塚Click!に近い音無川の新築の家へ、次にやはり1年足らずで牛込区の筑土町に建っていた江戸期の大屋敷へ、つづいてほんの数ヶ月で同じ牛込区を流れる江戸川(現・神田川)の舩河原橋Click!も近い新小川町へと、まことにせわしない生活を送っていた。
 岡倉天心の“引っ越し魔”は有名だったらしく、家族はもちろん友人・知人たちは別に驚かなかったらしい。彼は、引っ越しを気分転換のように考えていたようだが、それに付き合わされる家族や書生、女中たちはたまったものではなかっただろう。しかも、このときの岡倉天心は、E.フェノロサとともに関西の美術品調査への出張を繰り返していた時期と重なり、本人がほとんど家にいないような状態だった。にもかかわらず、出張から帰ってくると引っ越しをしているような生活だった。
 ちょうど1884年(明治17)、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされ、法隆寺の夢殿に封印されていた救世観音Click!を、僧たちが止めるのも聞かず開扉して布を取り去り、強引に“取調”を行なっている。聖徳太子伝説とともに、「呪い」や「祟り」で名高い救世観音だが、そのときの様子を『天心全集』(美術院版)から引用してみよう。
  
 余明治十七年頃フェノロスサ、及加納鉄斎と共に、寺僧に面して其開扉を請ふ。寺僧の曰く之を開かば必ず雷鳴あるべし。明治初年、神仏混淆の論喧しかりし時、一度之を開きしが、忽ちにして一天搔き曇り、雷鳴轟きたれば衆大に怖れ、事半ばにして罷めり。前例此くの如く顕著なりと、容易に聴き容れざりしが、雷の事は我等之を引受く可しとて堂扉を開き始めしかば、寺僧皆怖れて遁去る。開けば則ち千年の鬱気紛々鼻を撲ち殆ど堪ゆ可からす、蛛糸を掃ひて漸く見れは前に東山時代と覚しき几案あり。之を除けば直に尊像に触るを得べし、像高さ七八尺計。布片経切等を以て幾重となく包まる。人気に驚きてや蛇鼠不意に現はれ、見る者をして愕然たらしむ。頓かて近より其布を去れば白紙あり、先に初年開扉の際雷鳴に驚きて中止したるはこのあたりなるべし。白紙の影に端厳の御像を仰がる。実に一生の最快事なり。
  
 このサイトでは、なぜか救世観音の「救世ちゃん焼き」Click!でかなりのアクセス数を記録しているが、このときに夢殿から出現し、その後も法隆寺の秘仏あつかいが長いことつづいた同像は、大正期に入ると顔面の石膏型までとられ、下落合の霞坂秋艸堂Click!に住んでいた会津八一Click!までがマスクを所有するまでになっていた。
 さて、岡倉天心が夢殿を開扉し救世観音の調査を行なった翌年、すなわち1885年(明治18)の初夏に転居してきたのが、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)に建っていた元・旗本屋敷のひとつだった。このころの天心は、政府の官階も進んで文部属となり、正式の判任官となっていたころだ。給料も上がり“一等下級俸”と決められたので、生活はかなり楽になっていただろう。
 岡倉天心は、短期間で引っ越しを頻繁に繰り返すので、転居を予定している家の由来や謂れなどを落ち着いて調べたり、その物件や地域について隣り近所を調査してまわるような手間のかかることはせず、空き家の話を聞きつけると一度ザッと下見しただけで、すぐに引っ越し先を決めていたようなふしが見える。しょっちゅう転居を繰り返していると、当時の表現でいえば「凶宅」あるいは「凶屋敷」、現代風にいえば「事故物件」を引き当ててしまうのは、小山内薫Click!も岡倉天心も同様のようだ。
岡倉天心.jpg 岡倉元子.jpg
岡倉一雄「父岡倉天心」岩波現代文庫.jpg 救世観音.jpg
 当時、岡倉家には岡倉天心に元子夫人、子ども(長女のみで岡倉一雄は祖父母の家にいた)、画学生の岡倉秋水(天心の甥)、本多天城、山本松谿などの書生たち、女中や俥夫などが住んでいた。下宿していた書生たちは、いずれも狩野芳崖の弟子たちで、のちに四天王と呼ばれるようになる画学生たちが含まれていた。
 ちょっと余談だが、本多天城は下落合(現・中落合/中井含む)にアトリエをかまえていたのを、岡不崩Click!のご子孫であるMOTさんよりうかがった。不崩と天城ともに、芳崖四天王の日本画家たちだ。岡不崩は下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の二ノ坂上だが、本多天城は一ノ坂沿いの下落合4丁目1995番地にアトリエがあった。これら日本画家たちが下落合の中部から西部にかけてに集合したのも、1922年(大正11)から東京土地住宅により計画されていた「アビラ村(芸術村)」Click!と関連があるのだろうか? 一ノ坂上の本多天城アトリエについて、それはまた、次の物語……。
 さて、筑土町の屋敷での凶事は、引っ越しの当日に起きた長女の大怪我からはじまった。長女は、玄関の式台から靴脱ぎの石の上に転落し、石の角で左頬をえぐる大怪我をしている。裂傷はかなり深く、その傷跡は生涯消えなかったようだ。つづいて、屋敷の中2階の8畳間に住んでいた画学生たちがおびえはじめた。その様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された、岡倉一雄『父 岡倉天心』から引用してみよう。
  
 六月に入って、五月雨そぼ降る陰鬱の日がつづいたある日の真昼時、素絢を展べて画事に精進の筆を走らせていた二人が、二人ながら急に悪寒を感じて、滅入るような心地となり、あたかも鬼気に襲われたように、うちつれてドヤドヤと階段を転び落ちてきた。そして、茶の間に下りてくると異口同音に、/「どう考えても不思議だ。われわれは何か超自然のものから呪いをかけられているようだ。」/と、元子はじめ家人の前で訴えるのであった。/元子はあまり二人の態度が真面目なので、くだんの中二階をくまなく捜索してみると、白紙に包んだ一丁の古剃刀が、天井の上に封じこめられたのを発見した。稀有なものとみてとった彼女は、中年の下女を隣家につかわして、年配の者にたずねさせると、彼らはひとしく驚異の面持ちで、/「そんなものが残っていましたかねえ……」/と首を傾けるのであった。
  
 ここで、「すわ、夫が無理やりこじ開けちゃった救世ちゃんの祟りだわ!」とならないところに、元子夫人の剛胆さがあるのだろう。おびえる画学生たちを尻目に、中二階の捜索をして天井裏に封印された剃刀を発見している。その封印を、いともたやすく解いてしまう元子夫人もまた、夫と同じように迷信を信じない文明開化の女子だったようだ。
筑土町.JPG
礫川牛込小日向絵図1852.jpg
筑土八幡社拝殿.JPG
 天井裏に封印されていた古剃刀は、ここに住んでいた旗本の愛妾が明治維新による世の中の急激な転変をはかなんで、自害した際に使ったものだということが判明した。この旗本屋敷に限らず、江戸東京の古い屋敷の天井裏には、多種多様なモノが封印されたり隠匿されている例が多い。たとえば、死者の毛髪や形見、位牌、刀剣、書簡類、書画骨董などだが、その家で死んだ人間にかかわる遺品は、死者の魂がいつまでも身近に宿ることを祈願したものか、あるいは一種の「魔除け」「護符」の意味がこめられているのか、個々の屋敷によってさまざまな理由や事情があったのだろう。
 つづけて、岡倉一雄『父 岡倉天心』より引用してみよう。
  
 くだんの剃刀は、維新のさい、先住の旗本の愛妾が、急激に変りはてた世を恨み、時代を呪って、自殺をとげたさい、使用した凶器であると、のみならず台所にある内井戸は、その妾が剃刀の一剔で死にきれず、身を投げたところだと、因縁が明らかになった。元子は気丈な女性であったものの、こういう因縁を聞いてみると、晏然そこに落着いているに耐えられなくなってきた。そして、京阪地方の宝物取調べの旅から戻ってきた天心にありようを告げると、彼は、/「そうか、そんな因縁づきの家だったか、では、さっそく他を捜すがよかろう。」/と、わけもなく移転に同意したので、急に船河原橋に近い、江戸川に畔する新小川町に仮越して、この筑土の凶宅とは縁を切ってしまった。
  
 日々の飲料水に使われる、台所の内井戸に身を投げて死んだと聞かされては、いくら胆が太い元子夫人でもさすがに気味が悪くなったのだろう。舩河原橋に近い新小川町は、筑土町の屋敷とはわずか300~400m前後の距離しか離れていないが、千代田城の外濠も近い静かなたたずまいで、桜並木の神田川(当時は江戸川Click!)沿いの街並みが、岡倉家の人々は気に入っていたのかもしれない。天心は散歩に出ると、よく江戸川の大曲(おおまがり)付近の釣り人たちを眺めてすごしていたという。
筑土町1887.jpg
新小川町.JPG
 徳川幕府が倒れると、山手Click!に屋敷や長屋のあった旗本や御家人たちの多くは無理やり追いだされ、空き屋敷だらけになってしまった時期がある。そこで語り継がれてきた、薩長政府に対する恨み怪談のひとつが、筑土町でも伝承されていたものだろう。

◆写真上:旧・筑土町の中核に位置する、筑土八幡社Click!の階段(きざはし)。左手には将門伝承が残る筑土明神社があったが、1954年(昭和29)に九段へ遷座している。
◆写真中上:上は、岡倉天心()と元子夫人()。は、2013年(平成25)出版の岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波書店/)と法隆寺の救世観音()。
◆写真中下は、筑土八幡社の門前町にあった近代住宅だが道路建設ですでに解体された。は、1852年(嘉永5)に出版された尾張屋清七版の切絵図「礫川牛込小日向絵図」にみる筑土町界隈。は、長い階段を上ると正面にある筑土八幡社の拝殿。
◆写真下は、1887年(明治20)の1/5,000地形図にみる筑土町界隈。このどこかに、岡倉家の「凶宅」が描かれているはずだ。は、新小川町にみる古い建物の一画。

読んだ!(15)  コメント(19) 
共通テーマ:地域

小坂多喜子と伊藤ふじ子。 [気になる下落合]

クララ洋裁学院跡.jpg
 小林多喜二Click!が書いた小説『党生活者』(1932年)に登場するハウスキーパー「笠原ふじ子」を、平野謙は「ふじ子」の名前が重なることから、“ウラ取り”せずにフィクションをそのまま解釈して、伊藤ふじ子Click!のことをハウスキーパーだと規定したため、戦後の長期間にわたり誤った言説がつづくことになった。
 その後、潜行した小林多喜二の周囲にいた人々の証言から、伊藤ふじ子は多喜二の正式な妻だったことが判明し、平野謙は自身の誤りを認めているようなのだが、わたしはその文章をいまだ確認していない。小林多喜二と伊藤ふじ子が初めて出逢ったのは1931年(昭和6)の早春、彼女が新宿の果物店の2階に住んでいたころ、ビラ張りを手伝っていた人々に混じって多喜二がいたという経緯からのようだ。当時、多喜二は豊多摩刑務所Click!から保釈されたばかりで、3月から大山Click!(神奈川県)の麓にある七沢温泉に逗留する直前の出来事ということになる。
 画家になりたかった伊藤ふじ子は、このころ明治大学の事務局に勤務しながら、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!プロレタリア美術学校Click!)へ通うため、目白駅から目白通りを頻繁に往来していた。画家が大勢住み、あちこちにアトリエがあった下落合地域(現・中落合/中井含む)に馴染んだのも、ちょうどこのころからだったのだろう。ほどなく、差出人に「七沢の蟹」と書かれた手紙が、伊藤貞助が経営していた新宿の書店経由で、伊藤ふじ子のもとへ頻繁にとどくようになる。もちろん「七沢の蟹」とは小林多喜二のことで、中身は求愛の手紙だった。1932年(昭和7)4月、伊藤ふじ子は多喜二と結婚して地下へもぐり、ともに潜行生活を送ることになる。
 1933年(昭和8)2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された夜、杉並町馬橋3丁目375番地に遺体が運ばれ通夜が行なわれていたとき、小坂多喜子Click!は異様な光景を目撃することになった。原泉Click!は、伊藤ふじ子が特高Click!に検挙されるのを懸念して、事前に「あんたが(小林多喜二の)女房だなどといったらどういうことになると思うの」といい含めておいたのだが、伊藤ふじ子は取り乱して夫の遺体にすがりついた。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現われたのだ。灰色っぽい長い袖の節織の防寒コートを着たその面長な堅い表情の女性は、コートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を両手に取って自分の頬にもってゆき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や毛、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。(四十年を経た現在、これを書いていて、上野壮夫にその時の印象をきくと、やはりその場に居合せた人はあっけにとられて見ていたという。) その場を押しつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらってしまった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛情の表現をするからには、多喜二にとってそれはただの人ではないということだけは分ったが、それが誰であるかは分らなかった。その場に居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないかと思う。如何に愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思われた。
  
時事新報19330222(夕刊).jpg
小林多喜二通夜20150220.jpg
 小坂多喜子Click!は「愛人」だと想像したようだが、彼女は多喜二の妻だったのだ。しかも、結婚してから10ヶ月ほどしかたっていない新婚夫婦だった。小坂多喜子は、「居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないか」と書いているが、少なくとも原泉と「そっとここから消えてしまいなさい」と忠告した江口渙は、どこかでふたりの関係を耳にして知っていたのかもしれない。
 伊藤ふじ子は、多喜二の母・小林セキにも妻だと名乗って挨拶をしたようだが、澤地久枝によれば田口タキを多喜二の妻同然にあつかってきた手前、「死人に口無しだ」と彼女の申しでを突っぱねたとされている。
 小坂多喜子は『わたしの神戸わたしの青春』の中で、平野謙の「ハウスキーパー論」をそのまま踏襲して、伊藤ふじ子のことをハウスキーパーだと思いこんでいる。「イデオロギーの便宜のための、そういう女性の役目に私は釈然としないものを感じるのだ」と書いているが、その後、何度か伊藤ふじ子と偶然に出会っているにもかかわらず、多喜二の通夜の席で見せた彼女の言動を、あえて確認しようとはしなかったようだ。
伊藤ふじ子1.jpg 伊藤ふじ子2.jpg
クララ洋裁学院1936.jpg
目白中学校跡1928頃.jpg
 小坂多喜子が多喜二の死後、伊藤ふじ子と偶然知り合ったのは洋裁を通じてだった。小坂多喜子が上落合2丁目829番地に住んでいたころで、伊藤ふじ子は1933年(昭和8)11月30日にクララ洋裁学院を卒業して、下落合から東京帝大セツルメントClick!の講師として通いはじめ、同時に長崎のプロレタリア美術学校に通っていたころのことだ。伊藤ふじ子は、1934年(昭和9)に特高に逮捕され、やがて森熊猛と再婚しているので、その少し前ということになるだろうか。小林多喜二の虐殺から、およそ1年ほどが経過していた。同書より、再び引用してみよう。
  
 私はその彼女とその事件のあと偶然知り合い、私の洋服を二、三枚縫って貰った。その時の彼女の話をよく覚えている。それはどこか寂しい夜道を、彼女が棒をふりふり洋裁を習いに通ったという話である。人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道を女が一人歩くのには護身用の棒が必要であったのであろう。彼女は多喜二の死のあと、自活するために洋裁を習いに通ったのであろうか。私はその彼女の芯の強さと行動力に打たれた。その時二人の間には小林多喜二の話は一言も出なかった。それからしばらくして、私たちの交際は何となく切れてしまった。
  
 文中の「人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道」とは、目白中学校Click!が練馬へ移転したあと、下落合1丁目437~456番地の旧・近衛文麿邸Click!の所有地内にあった、広大な空き地(原っぱ)のことだ。その北西側にポツンと建っていたのが、下落合1丁目437番地に移転して間もない小池元子のクララ洋裁学院Click!だった。
 つまり、小坂多喜子の聞いた言葉が誤りでなければ、目白通りから入ってすぐ(約50m)のクララ洋裁学院へ、伊藤ふじ子は目白通り側からではなく南側または東側から、広大な空き地(草原)を縦断ないしは横断して、「棒をふりふり」通っていたことになる。換言すれば、下落合で暮らした伊藤ふじ子の借家ないし下宿先は、目白中学校跡地の南側ないしは東側のどこかである可能性がきわめて高いことになるのだ。
クララ洋裁学院路地.JPG
下落合の雪景色.JPG
 小坂多喜子が、もう少し伊藤ふじ子と親密になっていれば、謎が多い小林多喜二の地下生活について詳細な証言が得られ、また下落合での彼女の住所も判明したのではないかと思うと残念でならない。伊藤ふじ子は森熊猛との再婚後、晩年に残したわずかなメモ類や「彼は」で終わる未完の手記を除き、多喜二についてはいっさい黙して語らなかった。

◆写真上:下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)に2000年(平成12)まであった、クララ洋裁学院の跡地。当時は、突き当たりから左手一帯が広い空き地だった。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月22日の時事新報に掲載された小林多喜二の死亡記事。特高による検閲で拷問死とは書けず、「怪死」がせいいっぱいの表現だった。は、新発見の写真にとらえられた小林多喜二の遺族と通夜に駈けつけた人々。
◆写真中下は、森熊猛と再婚後の伊藤ふじ子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるクララ洋裁学院と目白中学校跡地で、広大な空き地の南東側のどこかに伊藤ふじ子の下宿ないしは借家があったとみられる。は、1928年(昭和3)ごろの冬季に撮影された目白中学校跡地Click!から目白通りの商店街を眺めたところ。
◆写真下は、クララ洋裁学院があった路地で正面を横切るのが目白通り。路地は行き止まりだが、画面右手から背後にかけてが広大な草原だった。は、下落合の森に降り積もる雪。黒い喪服がわりの洋服を身につけつづけた伊藤ふじ子にとって、1933年(昭和8)は下落合での立ち直りを賭けた、厳しく寂しい“冬物語”の1年間そのものだったろう。「限りなき孤独/ひたすらにかたむく思想/ありし日の夢も失せて/凍る冬 死の虚ろさ……」(上野壮夫『抒情』/「人民文庫」1937年6月号)より。

読んだ!(20)  コメント(23) 
共通テーマ:地域

島抜けをまたかとため息つくだじま。 [気になるエトセトラ]

佃島1.JPG
 先日、佃島Click!「丸久」Click!さんへ佃煮を買いに出かけたら、舟入堀の水を抜いた面白い風景に出あった。漁舟のもやい場だった堀に土砂がたまり、より深く浚渫する工事のまっ最中だったのだろう。堀底にカルガモの親子がにぎやかに駈けまわる、めったに見られない光景だ。住吉祭の例大祭で使われる、大幟の柱と抱木を埋めておく佃小橋ぎわに囲われた堀底も、引き潮を待たずによく観察できた。
 佃島の舟入堀には、江戸最初期の普請の痕跡が残っていただろうか? 中央区の教育委員会による学術調査が入ったのかどうかは知らないが、堀割りを浚渫すると面白いものがいろいろ見つかりそうな気がする。まさか、この浚渫作業によって「丸久」の主人Click!が嘆いていたように、佃島の井戸に塩分が混じるようになったのではあるまい。地下水脈の破壊は、石川島や月島の再開発でもっと以前から進行していたのだろう。
 佃島は、もともと大川(隅田川)の河口に近い三角洲で、2丁四方の小島だった。また、佃島の北側には同様に鎧島と呼ばれた洲があったのだが、鎧島を埋め立てて佃島に隣接させ、新たに石川島と呼ばれるようになる。例の寛政年間に、加役(若年寄支配火付盗賊改方)の長谷川平蔵らが設置した、元罪人や終身懲役人、無宿者などに手職をつける世界初の犯罪者更生プログラム=「人足寄場」だ。当時、大川の河口域にあった島はこのふたつだけで、1892年(明治25)に埋め立てられた月島は、いまだ存在していない。
 わたしが物心つくころ、佃島には1964年(昭和39)竣工の佃大橋が架けられておらず、都営の佃渡し舟(蒸気船:無料)で渡ったのをかすかに憶えている。親父はいつも「天安」の佃煮が定番だったが(祖父母の代も「天安」だったのだろう)、子どもの舌に「天安」の製品はかなりしょっぱく感じたので、わたしの代からは「丸久」で買うようになった。当時、佃島の北側に接する石川島は、ところどころにクレーンが建つほとんどが倉庫街だったらしいのだが、わたしの記憶はハッキリしない。
 子どもの目に映った佃島は、まるで時代劇のセットか芝居の書割りに登場するような街並みだった印象があるので、おそらく江戸期からの建物や明治期の住宅が、いまだそのままの姿で残っていたのだろう。佃島は、1923年(大正12)の関東大震災Click!でも、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!でも炎上せず、江戸期から明治期そのままの姿を残してきた。それは、島民が一丸となって防火や消火に努めてきたからだが、バブル経済がスタートする1980年代ごろから明治以降の建物ばかりになり、現在は明治・大正・昭和初期の住宅は数えるほどしか残っていない。
 ちなみに、1984年(昭和59)に東京都教育庁社会教育部文化課が行なった実地調査「中央区佃島地区文化財調査報告」によれば、明治期の住宅は22軒、大正期の住宅が83軒、昭和初期で戦前の建物が27軒、その他が戦後の現代住宅だった。もし、震災や戦争がなくて焼けていなければ、1980年代まで東京の他の地域にも佃島と同様の割合で、近代建築の住宅が街中のいたるところに残っていたかもしれない。
佃島2.JPG
佃島3.JPG
佃島渡船1960年代.jpg
 さて、江戸の寛政期から元罪人や終身懲役人、無宿者の更生施設=人足寄場として機能していた石川島だが、もちろん「なんでおいらが、マジな仕事しなきゃならねえんだよ」と、更生を拒否して人足寄場から逃げだす者も少なからずいた。人足寄場は、小伝馬町の牢屋敷Click!とは異なり、罪をつぐなった元罪人や無宿者なども手に職をつけるために収容していた施設なので、彼らが逃げたからといってすぐさま追手を差し向け、執拗に探索して捕縛するわけにはいかない。だが、服役中の終身懲役人が逃げた場合には牢破りとみなされ、火盗やのちには町奉行所の追及を受けることになる。
 現在では、上演される機会もまれになってしまったけれど、石川島の人足寄場を舞台にした「安政奇聞佃夜嵐(あんせいきぶん・つくだのよあらし)」という芝居がある。1892年(明治25)に古河新水(こがしんすい=12代目・守田勘弥と同人)が書き下ろした、いわゆる「菊吉時代」(人気の高かった6代目・尾上菊五郎Click!初代・中村吉右衛門Click!の大看板コンビ)の当たり狂言だ。初演は1914年(大正3)というから、佃島の住民たちも「ちょいと、江戸東京へいってくら」(佃島では築地側や日本橋側など大川の右岸へでかけることを「江戸へいく」、または明治以降は「東京へいく」と表現していた)と、浅草の市村座まで観劇に出かけていたのかもしれない。
 この芝居は、安政年間に起きた実際の牢破り事件を題材にしており、終身懲役刑で送りこまれた元・幕府御家人で主人公の青木貞次郎と神谷源蔵のふたりは、石川島の人足寄場で日々絶望的な苦役をさせられていた。青木貞次郎は、親を殺害した仇を探しだしてどうしても仇討ちがしたいと望んでいたが、それを聞いた神谷源蔵が、人足寄場からの脱出を勧めるという筋立てだ。ところが、牢破りを勧めた神谷源蔵こそが、親を殺害した張本人で憎んでも憎みきれない旧仇だった……という、現代では韓流ドラマでしかお目にかかれないようなストーリー展開だ。
安政奇聞佃夜嵐1.jpg
安政奇聞佃夜嵐2.jpg
佃島4.JPG
 物語はさして面白くもなく、当時は花形で大人気だった菊五郎と吉右衛門でもっていた舞台のせいか、1987年(昭和62)以降は上演される機会がなくなってしまったのだろうが、その中の1幕だけが有名でいまでも語り草になっている。それは、石川島を脱出した青木貞次郎と神谷源蔵が、大川の水に流されながら対岸めざして泳ぎわたる、それまでの歌舞伎では見られなかった水泳シーンが登場したからだ。ふたりは当然、佃の渡しがある築地側へ泳いでいったのだが、流れがあるので対岸の本湊町や舩松町ではなく、もう少し流されて十軒町や明石町のほうへ上陸しているのかもしれない。
 ふたりが大川を泳ぐシーンは、舞台全体に張られた波模様の大きな布の、横に引き裂かれたところから首だけをだし、いかにも泳いでいるような浮き沈みの演技をしてみせる。役者は、舞台に膝をついて身体の浮沈を表現するため、立って演技をするのとは勝手がちがい、かなり体力を消耗しただろう。これまでに見られない、新鮮な舞台表現を「菊吉」コンビがやって見せたので話題をさらい、以降、「安政奇聞佃夜嵐」の上演はストーリー展開などもはやどうでもよく、歌舞伎の舞台にはめずらしい斬新な水泳シーンの一幕のみ上演されるようになっていく。
 親父は、大正期以前の薬研堀近くにあった水練場Click!ではなく、昭和10年代には両国橋の本所側に設置されていた水練場Click!で泳ぎをおぼえ、実際に大川を何度か泳いでわたっているが、木村荘八Click!のように台場までの遠泳をやったかどうかは訊きそびれている。たぶん、大川や東京湾が工場排水で汚染された昭和初期には、そのような遠泳は禁止され、別の「試験」で水泳帽の赤線を増やし、進級していったのだろう。潮の干満にもよるが、引き潮のときの大川は案外流れが速く、対岸へ泳いでわたるのはかなりの体力が必要だと聞いている。青木貞次郎と神谷源蔵のふたりも、潮の満ち引きを十分に考慮に入れて人足寄場を脱出しているのだろう。
 ふたりが水に流されながら泳ぎわたったあたりは、1879年(明治12)になって海面平均値の「0m」が規定・採用され、日本のすべての標高値を決める水準原点Click!となった大川河口の間近だ。月島はいまだ影もかたちもなく、佃島の南側の水面は陸軍参謀本部(陸地測量部)Click!が7年間にわたり0m測量を繰り返していたエリアだ。0mを規定するのに7年間もかかるほど、潮の干満が激しかったことがわかる。現在、大川から東京湾にかけての潮位変化は、ゆうに2mを超えている。
舟入堀1953.jpg
佃島5.JPG
佃島6.JPG
 大川の流れや太平洋の潮の干満により、江戸東京を縦横に走っていた堀割りには土砂など大量の堆積物が運ばれてくる。それを除去し、堀割りの定期メンテナンスで水深を確保しないと、舟の通行にも支障をきたすことになる。佃島の舟入堀も、この400年間にわたり何度か浚渫を繰り返してきたにちがいない。今回の工事では、同時に舟入堀のビオトープの観察施設も建設されるらしい。神田川Click!と同様に大川(隅田川)にも、サケをはじめ多種多様な生き物がもどってきている証拠で、わたしとしても嬉しいかぎりだ。そういえば、日本橋川にもサケがもどってきたという話も近ごろ聞いたばかりだ。

◆写真上:水が抜かれた舟入堀で、手前にカルガモの親子が8羽ほどエサを漁っている。
◆写真中上は、佃小橋から眺めた水抜きの舟入堀で右手の囲いが大幟柱や抱木の埋設地。は、住吉社裏から西を向いた舟入堀。堀の右岸には石川島の人足寄場役所や見張番所、女長屋などが並んでいた。は、佃大橋がない1960年前後に撮影された佃の渡し。対岸の右手には聖路加病院が写り、遠景には東京タワーが見える。
◆写真中下は、「安政奇聞佃夜嵐」のブロマイドで6代目・尾上菊五郎の青木貞次郎(左)と神谷源蔵の初代・中村吉右衛門(右)。は、大川の水門上から水抜きの舟入堀を眺めたところで右岸が佃島で左岸が石川島。
◆写真下は、1953年(昭和28)撮影の舟入堀。正面の石川島にある倉庫あたりが、人足寄場の長屋や稲荷のあったところ。は、上写真と同じ方向で撮影した普段の舟入堀。は、牢破りしたふたりが泳いでわたった佃大橋のある築地側の川面。
おまけ
1861年(文久元)制作の、尾張屋清七版の切絵図「京橋南築地鉄砲洲絵図」に描かれた佃島と石川島。切絵図が制作された数年前に、石川島からの島抜け事件が起きている。
京橋南築地鉄砲洲絵図1861.jpg

読んだ!(18)  コメント(25) 
共通テーマ:地域

下落合18番地で印刷された「時代」。 [気になる下落合]

祖谷印刷跡1.JPG
 1935年(昭和10)4月に民族社から刊行された文芸誌「時代」は、下落合1丁目18番地にあった祖谷印刷所で刷られていた。この「時代」という文芸誌は、創刊号だけで終わってしまったようだが、あまたの文芸時評の中に、同年に開催された独立美術協会Click!の第5回展の展評が掲載されていて目をひく。いまや古書店でも見かけない、同誌の貴重なコピーを送ってくださったのは、三岸アトリエClick!山本愛子様Click!だ。
その後、同じく山本様の情報により、文芸誌「時代」は1935年(昭和10)の時点で第35号まで確認できることが判明した。
 「時代」創刊号が印刷されたのは下落合の祖谷印刷所だが、1938年(昭和13)になると同印刷所はすでに見あたらない。同年作成の「火保図」を見ると、下落合1丁目18番地には新たに月光堂印刷が開業している。おそらく、祖谷印刷所から社名を変更したか、印刷機など設備一式を居抜きで譲り受け、そのまま営業している次の印刷所なのだろう。同地番は、現在の十三間通りClick!(新目白通り)に面した清水川公園の西隣りで、西武線の線路をはさみ指田製綿工場Click!の北東側にあたる敷地だ。
 さて、同誌に掲載された「独立美術合評会」には、5人の評者が出席している。そのメンバーとは、画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!、フランス文学者で評論家の小松清、小説家で劇作家の高橋丈雄、イタリア文学者の三浦逸雄、そして美術評論家の土方定一だ。おわかりのように、美術畑の人物は清水と土方だけで、あとの3人は文学畑の評者たちだ。合評は、清水多嘉示の「独立美術は現在日本に於て最も前衛的なものと思ひます。在来の日本絵画を見直してそこから新しく動きださうと云ふ気持が展覧会の指導的な立場になるんじやないかと考へてゐる」と、意気ごんでスタートした合評だが、清水は徐々に黙しがちになってしまう。
 なぜなら、独立展の多くの画家たちが、おもに文学畑の評者によってボロクソにいわれはじめたからだ。言葉少なになる清水多嘉示は、たとえばこんな具合だ。
  
 小松 どうです、清水君。/(清水氏躊躇してゐる間に三浦氏)
  
 清水多嘉示Click!が言葉少なになるにつれ、「どうです、清水君?」「清水君、どうかね?」という問いかけが増えていく。そもそも、この展評は洋画の前衛を自負する独立美術協会の画家たちを、ハナから批判する目的で開かれたのではないかとさえ思えるふしがある。合評の前提として提示されたテーマが、次のようなやり取りだったからだ。
  
 土方 (前略) 最近四、五年前まではともかく前進してきた一般人の芸術意識の後退といふことが考へられやしないでせうか? そして、独立展にしても、さういふものに直面した混乱といふか、追従といふか、それに対する各人の態度も興味深くでてゐる。(中略)
 三浦 思想的といふよりも、エスプリをかいてフオルムから入つて行つた画家の多いことを表はしてゐる。フオルムから行けばそれだけで一寸画はすゝんだやうに思ふ。しかし、真に新しいエスプリが新しいメチエを見付けた場合でないかぎり、一二年もつづけてやつてゐると、メチエの発見がない。
  
 ある意味で本質を突いている言葉なのだろうし、彼らにいわせれば「ホントのことだからしょうがないもん」なのだろうが、「誰のどこがいい」というポジティブな展評よりも「誰のどこがダメ」という言葉が大半を占めるにつれ、意気ごんで座談会に臨んだ清水多嘉示は、暗澹たる気持ちになっていったのではないか。清水は、少しでもいいたい放題の「悪評大会」を是正しようと試みているが、周囲の人たちとの会話が噛みあわない。
時代奥付.jpg
時代193504.jpg 独立美術合評会.jpg
時代目次.jpg
 第5回展の「第一室」から具体的な作品を対象とした評論がはじまり、清水は「良い悪いは別として」若い人たちががんばっていると水を向けるが、「作品として特別感心させられるものはない様だね」(小松)とにべもない。次々に出展作品が取りあげられるが、曾宮一念Click!については「絵画としてはそれほど進んでゐないと思ふ。矢張り諦観主義だよ」(小松)。野口彌太郎Click!については、「どこがよいのかわからなかった。風俗画という感じがした」(三浦)、「巴里風景などは下らないね」(小松)。児島善三郎Click!については、「マンネリズムだと思ふ、あの人の獲得したものは」(高橋)、「サロン的エレガンスに余り魅力も持てないし、また期待ももたない」「感性ばかりに阿ねつていて、思想性が欠けてゐる」(土方)という具合だ。
 伊藤廉については、「下らんね」(高橋)、「あの山々も大観ばりで、全くどうかと思ふ」(小松)。須田国太郎については、「結局頭でしかかいてゐないと云つた風な絵だね」(小松)、「死んだやうな絵だね」(三浦)。ここで清水多嘉示が、須田国太郎について「この人の力といふものが判つてきた様な気がする」とやや弁護するが、周囲から一蹴されてしまう。中村節也については、「作家の感性生活内容の貧しさをかくすため芸修行と云つたところ」(小松)……。そして、中村節也や松島一郎、熊谷登久平などの新人が、これからの独立展を牽引していかなければならないんだから、「もつとしつかりやつてもらわねば」ダメじゃないかと結んでいる。
 この展評の中で、評者たちから無条件で褒められているのは、「時代」の寄稿者でもある福澤一郎Click!と、あと2年で独立美術協会から脱退する里見勝蔵Click!、そして三岸節子Click!だ。特に、同協会の会員でもない(女性なので会員にしてもらえない)三岸節子についてはベタ褒めに近い。同誌から、再び引用してみよう。
祖谷印刷跡2.JPG
祖谷印刷所(下落合1-18).jpg
児島善三郎.jpg 野口彌太郎.jpg
須田国太郎.jpg 中村節也.jpg
  
 小松 (前略) ところでこの辺で第二室に移つて三岸節子の作はどうかね。色彩のハーモニーの点から云つても画面全部の構成の点からみても立派な出来ばへだと思ふ。去年より一段と良くなつたと思ふが。(略) 単純な色を使つておそらく三色か四色使つてそれで豊かな感じを出すところなぞ独立にも珍らしい。
 三浦 あれはいい。三岸夫人の絵は素直なところがいい。この人の線は物体をかぎるだけの線でなくて、絵画的なポエジイを秩序づける句読点のやうなものだ。非常に素質のいい人だといふ感じがする。
 小松 今まで日本の女流作家であれだけの作風なり技術をもつたものは、先ず皆無と云つていゝ。兎も角サンチマンと云ひ理智の働きと云ひ、その二つの要素の共同の働きと云ひ、僕はそのユニテに感心する。
 三浦 女で今のところともかく本質的な意味でもよく出来てゐる人だと思ふ。
 小松 マチスやデユフイの影響は多い。しかしそれをあそこまにで十分咀嚼して自己のものにしたと云ふことには心から感服出来るね。
 三浦 去年も里見君と話したが、実に豊かな絵をかく人だ。女でなく男だつてあれだけは仲々描けないよ。
  
 辛口の批評者たち(清水多嘉示は除く)にしては、手放しで褒めているのが目立つ。福澤一郎と里見勝蔵を除き、その他の独立美術協会会員にしてみれば面目を丸つぶれにされたような展評だが、このような批評が積み重なって、児島善三郎をはじめ会員たちの嫉妬が高まり、三岸節子は4年後の1939年(昭和14)、「女性は会員になれないとの内規」を理由に同協会離脱する(弾きだされる)ことになるのだろう。
 第5回展の第十一室には、没後1年めにあたる三岸好太郎Click!の遺作も特別陳列されていた。それについて、「技術的にこの人の今までの仕事は概括的に説明出来ない」(土方)としながらも、「とに角、多くの影響をうけて自己の個性を育てて行つた点は三岸君の感覚の多様性を示すものだ」(小松)、「あれ位ひスウルレアリストで完成された人は居なかつたけれど」(三浦)と、おしなべて好評価されている。
三岸好太郎・里見勝蔵1933頃.jpg
時代紀伊国屋書店広告.jpg
 そして、「もちろん、ああいう人だから」という前提で、三岸好太郎Click!に「イデオロジツクのものを求めるのは無理かも知れぬが、エモーションは求められる」(小松)と、どこか憎めない「ああいう人」という性格も含めて、好意的にとらえられている。

◆写真上:下落合1丁目18番地の祖谷印刷所があったあたり(画面右手)、左側が十三間通り(新目白通り)で奥に見えているのが山手線のガード。
◆写真中上は、1935年(昭和10)4月に発刊された「時代」創刊号の奥付。は、「時代」の表紙()と座談会「独立美術合評会」の扉()。は、同誌の目次。
◆写真中下は、祖谷印刷所(のち月光堂印刷)の跡。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月光堂印刷。中下は、独立美術協会の児島善三郎()と野口彌太郎()。は、同じく須田国太郎()と中村節也()。
◆写真下は、独立美術協会の創立メンバーだった三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。は、同誌に掲載された新宿の紀伊国屋書店の田辺茂一・編による『能動精神パンフレット』出版広告。十返一や森山啓、舟橋聖一、田村泰次郎、窪川鶴次郎など落合地域やその近辺に関わりの深い作家たちの名前が並んでいる。

読んだ!(15)  コメント(17) 
共通テーマ:地域

小坂多喜子と小林多喜二。 [気になる下落合]

中井駅.jpg
 小坂多喜子Click!は、クールかつ進歩的な観察眼で人間を見つめる表現者であり、思想でゴリゴリに凝りかたまった融通のきかない共産主義者でも闘士でもない。思想や理想よりも先に、家庭や家族を愛し優先する生活者だった。だから、いろいろな局面で予断や思想的なフィルターを眼差しにあまりかぶせることなく、人間を細かくていねいに観察できたのではないだろうか。
 また、思いきりがよく寡黙がちだが、基本的には明るく楽観的な性格をしており、オシャレにも気を配る自由闊達でフレキシブルな精神の底流には、一度決めたらテコでも動かないような、芯の強情さも秘められていたようだ。彼女が生涯を通じて神近市子Click!を師のようにとらえ、その生き方に共鳴したのも、どこか共通する性格の根幹のようなものを感じていたからだろうか。
 そんな彼女が遭遇した許しがたい場面のひとつに、築地署の特高Click!による小林多喜二Click!の虐殺事件がある。小坂多喜子は、共産主義運動に加えられた階級敵の弾圧によって生じたあからさまで必然的な虐殺というような、左翼思想をベースとする理性的で位置づけ的な解釈よりも、こんなひどいことを平然と行なう政治は徹底的にまちがっている……というような、良識のある一般的な市民感覚で事件をとらえ、のちにトラウマになるほどの強烈な恐怖心を抱いた。虐殺事件を、あとあとまで感性的な認識でとらえるところに、小坂多喜子が夫とともに身を置いた思想の活動家としての「弱さ」があり、表現者としての息の長い「強さ」があったのかもしれない。
 小坂多喜子が小林多喜二Click!と出会ったのは、1930年(昭和5)3月に勤めはじめた有楽町駅のガード脇にあるビルの2階だった。神近市子Click!が紹介してくれた山田清三郎Click!を通じて、猪野省三が出版部長だった戦旗社の出版部で仕事をしはじめている。といっても、猪野部長に対して部員は彼女ひとりしかおらず、月給はわずか30円(現代の貨幣価値で10~12万円ぐらいか)だった。
 業務の内容は、同社が出版する書籍の校正作業がメインで、本を印刷している早稲田鶴巻町の印刷所へ出向することもめずらしくなかった。上落合から東中野駅へ出て、ラッシュアワーの中央線と山手線を乗り継いで有楽町に出社するよりも、西武線の中井駅から高田馬場駅まで出て近くの早稲田へ直行したほうが、徒歩あるいは高田馬場駅前からダット乗合自動車Click!に乗ればすぐなので楽だったろう。猪野省三とともに出向先の校正作業では、印刷所が昼食に天丼をとってくれたようで、神戸育ちの彼女にはそれがめずらしかったのか、特に美味だったことを記憶している。ちなみに、おそらく同じ印刷所なのだろう、上野壮夫Click!は親子丼が美味だったことを憶えていた。
 小坂多喜子が戦旗社出版部に勤めはじめたころは、同社刊の徳永直『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』(ともに1929年刊)の2冊が、文学界のベストセラーになっていた時期と重なるので、大手新聞に次々と広告を出稿していた。その広告版下づくりも、彼女は手伝っている。当時の戦旗社には、中野重治Click!壺井繁治Click!、古沢元、のちの夫になる上野壮夫などが立ち寄っていたが、小林多喜二も顔を見せた。
有楽町駅へ1930.jpg
太陽のない街1929.jpg 蟹工船1929.jpg
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 そういうある日、小林多喜二が来たのだ。私の机すれすれの窓枠に腰をかけ、足をぶらぶらさせながら、「小坂多喜子というのは僕と同じ名前だね」と云った。小柄で、着流しの大島絣の裾からやせた足がのぞいていた。皮膚の薄い色白の顔がすぐ桜色にそまるようで、猪の省(猪野省三)と私に向って、というより主に私に向ってなにかひっきりなしにしゃべっていたが、私の覚えているのはその一言だけである。その時私が思ったことは「おしゃべりな男は嫌い」ということだった。私はその時二十一歳で、そういう若さの潔癖がそう思わせたのかも分らないが、やせて小柄な身体に似合わず、精力的な饒舌家というその時の印象は今も消えていない。(カッコ内引用者註)
  
 戦旗社出版部のドル箱作家のひとりで、プロレタリア文学のスターで象徴的な存在だった小林多喜二を前にして、「おしゃべりな男は嫌い」というのが、人を見る眼差しに予断やフィルターをかけない小坂多喜子らしい感想だ。
 その2年後の1932年(昭和7)、彼女は「プロレタリア文学」に小説『日華製粉神戸工場』を書くことになるが、そのとき「僕と同じ名前だね」といった小林多喜二の言葉がひっかかって、ペンネームを「小坂たき子」とひらがな表記にした。彼女が上野壮夫と結婚し、上落合郵便局近くのケヤキの大樹が見える借家から、出産のため一時的に池袋駅西口にある豊島師範学校Click!近くの長屋に転居し、1932年(昭和7)の秋に改めて阿佐ヶ谷の借家へ移るころのことだ。だが、阿佐ヶ谷の暮らしは1年ほどで切りあげ、彼女は夫とともに再び上落合の“なめくじ横丁”Click!へともどってくる。
 その阿佐ヶ谷時代に起きた最大の事件は、近くに家があった小林多喜二の虐殺事件だった。1933年(昭和8)2月20日の深夜、小坂多喜子と上野壮夫は突然「小林多喜二の死体が戻ってくる」という連絡を受け、真暗な道を阿佐ヶ谷駅に近い小林邸へと息せき切って走っている。1932年(昭和7)に起きた日本プロレタリア文化連盟(コップ)の弾圧で、小林多喜二は地下に潜行しているはずだった。
中井駅の道.JPG
小林多喜二邸1936.jpg
小林多喜二邸1941.jpg
 駈けつける途中、作家の若杉鳥子邸近くの道で、うしろから幌をつけた大きなクルマが、走る夫妻を追い抜いていった。警察の車両だったのだろう、多喜二の遺体が乗せられているのをふたりは直感している。夫妻は、今度はそのクルマのあとを追いかけはじめた。このとき、上野壮夫は近くの亀井勝一郎宅へ急を知らせたが、亀井が通夜の席へ顔を出すことはなかった。ちなみに、若杉鳥子もまた凶報を聞いて小林宅へ向かっていたが、途中で特高に逮捕され池袋警察署に連行されている。
 ふたりがようやく追いつくと、車両は両側に檜葉の垣根がある行き止まりの路地の突き当たりに停車しており、路地奥の左側が杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった平屋建ての小林宅だった。玄関を含めて三間ほどしかない家だが、庭に面した奥の間に小林多喜二の遺体は寝かされていた。
 そのときの小坂多喜子が受けた強い衝撃を、同書より再び引用してみよう。
  
 眼をとじた白蝋の顔はすでに死顔で、頬のあたりに斑点になった内出血のあとや首すじや手首に鮮明な輪になった黒い内出血のあとがあり、大腿部のあたりも一面真黒で、拷問による死であることが歴然としていた。剛い、豊かな髪が青白い電燈の光りで緑色に見えるほど黒々と、そこだけ生きているようで、私はいたましいというよりも恐怖で一ぱいだった。その不気味な髪の色は、その後折にふれ目に浮びあがってきて私をなやませた。その真すぐな剛い毛質が私のつれあいの髪の毛にダブって見え、私はその恐ろしい呪縛からぬけ出るのにその後十年余の年月を必要としたほど、それは強く私の脳裡に焼付いて離れなかった。
  
 小坂多喜子は葬儀の直後から、夏目漱石の弟子だった江口渙からの依頼で、小林多喜二の遺族への救援基金集めに近所の作家や画家たちの間を奔走している。吉祥寺の山本有三をはじめ、野口雨情、細田民樹、貴司山治、荻窪の細田源吉、津田青楓(画家)らが、逮捕覚悟で即座にカンパに応じてくれたようだ。
 日本の敗戦後、小坂多喜子は中央線の高円寺に住んでいるが、区役所や税務署が阿佐ヶ谷駅の近くにあるので、しばしば出かけている。彼女は同書の中で、荻窪駅や西荻窪駅、吉祥寺駅、高円寺駅などと比べ、「中央沿線で阿佐ヶ谷ほどつまらない街はないと思う」と書いている。それは、阿佐ヶ谷駅の周辺に特色のある商店街や、独特な雰囲気の街並みが見られないからだと書いているが、そればかりではないように思う。1933年(昭和8)の冬、小林多喜二の虐殺事件にいき合わせ、阿佐ヶ谷という地域全体が灰色になってしまったからではないだろうか。
小坂多喜子「わたしの神戸わたしの青春」1986.jpg 小林多喜二.jpg
小林多喜二通夜.jpg
 小坂多喜子が、小林多喜二の枕もとに座りこんでまもなく、ひとりの和服姿の女性が通夜の席へ飛びこんできた。のちに下落合に住み、下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)のクララ洋裁学院Click!へ通うことになる、前年に多喜二と結婚していた妻の伊藤ふじ子Click!だった。そして、小坂多喜子と伊藤ふじ子は、その後、上落合と下落合の近所同士で何度か交流をつづけているようなのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:中央線の東中野駅とともに、小坂多喜子が上落合時代によく利用したと思われる、1935年(昭和10)すぎに撮影された西武電鉄の中井駅。
◆写真中上は、ちょうど小坂多喜子が戦旗社に勤めていた1930年(昭和5)撮影の新橋側から見た有楽町駅のガード沿い。は、1929年(昭和4)に戦旗社から出版されベストセラーになった徳永直『太陽のない街』()と小林多喜二『蟹工船』()。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸Click!を出て、中井駅へ向かう近道となる細い道筋。背後が鈴木文四郎(文史朗)邸跡で、画面の左手が古川ロッパ邸跡。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった小林多喜二邸の界隈。
◆写真下上左は、1986年(昭和61)出版の小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)。上右は、1929年(昭和4)撮影の小林多喜二。は、1933年(昭和8)2月20日深夜から翌21日未明にかけ小林多喜二の通夜に駈けつけた人々。最近、同写真のバリエーションが新たに発見されているので、次回の記事で人物とともにご紹介したい。

読んだ!(16)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

わたしの頭はクウルなのかもしれません。 [気になる下落合]

白蓮歓迎会19210211.jpg
 このサイトでは、おもに関東大震災Click!ののち下落合753番地Click!に転居してきたあとの、九条武子Click!の生活についてクローズアップClick!してきた。また、九条武子が書いたエッセイや私信Click!、インタビューなどの内容から、彼女の思想や信条Click!、活動、日常生活Click!趣味Click!などについても触れてきている。
 今回は、九条武子が下落合へやってくる以前、すなわち九条良致との結婚直後から、夫の12年間にもおよぶ「英国留学」ののち、表面上の“つくろい”や建て前上はともかく、別居を決意して夫と訣別するまで、どのような考え方や社会観、認識をしていたのかを垣間見てみたい。九条武子は、帰国してほぼ12年ぶりに再会した夫と、最初はやり直そうとしていたようだ。1921年(大正10)の早い時期に、中村富久野子のインタビューに答えて、「これからは一家の主婦となつて、直接に總ての交渉が迫つて来ました。でもまだ幼稚園を出たばかりのものですから、半年か一年も経たなければ、とてもうまくはまゐりますまい」と答えている。
 だが、すでに自身の生活には大きな疑問を抱きはじめており、「私は今まで、物質に係のない生活をして参りました」が、それはマズイことだと明確に意識している様子がうかがえる。中村富久野子は、それを「平民的な思想」と表現するが、単純な階級観のみによる自身の立場への疑義にとどまらず、夫である九条良致との修復しようのない思想的あるいは性格的な対立が、彼女を突き動かしているようにも感じとれる。
 1921年(昭和10)に発刊された「婦人世界」2月号から、中村富久野子によるインタビュー記事『十二年目に同棲の春に逢うた九条武子夫人と語る』から引用してみよう。九条武子は、マスコミの記者から直接取材を受けることは、下落合時代になってからはともかく当時はまれで、彼女の親しい友人や、友人から紹介された知人がインタビュアーになることが多い。中村富久野子も、そんな知り合いのひとりなのだろう。
  
 「(前略) 一体に私どもは、勿体ない生活をしてゐます。これに慣れて、呑気な気分に浸つてしまふのが常です。でも私のみは違反者となるつもりです。」貴族社会の安逸な生活に飽きたらない夫人の想ひは、その紅唇を迸つて鋭く出ました。/また何処までも平民的な夫人の性格が、その言葉には溢れてゐます。/「父からは、比較的厳格な教育を受けて来ましたが、兄たちは実に自由(フリー)に導いてくれました。その結果は、女とも男ともつかぬやうな性格の者ができてしまひました。」と夫人は微笑まれて、/「家の中の整理がつきましたら、今まで出来なかつた勉強を、これから始めます。たびたび外出もいたしますから、電車にも乗つてみて、早く東京の地に親しみたいと思つてゐます。」/爽やかなお言葉の中には、この貴人に思ひ設けなかつた強い音が、時時耳を打つ。私は驚いて顔を上げました。
  
九条武子1921.jpg
九条夫妻1909.jpg 九条夫妻1921.jpg
 ここでは、すでに夫をはじめ、その贅沢な暮らしや周囲の華族たちからも、「私のみ」を切り離して「違反者」になることを宣言しているように受けとれる。また、後世では常に「美人」と書かれる彼女の言動を見るかぎり、「女とも男ともつかぬやうな性格」ではなく、明らかに男っぽくて一度決めたらテコでも動かない頑固さと、挑戦的で雄々しい性格をしていた様子がうかがえる。
 インタビュアーはとまどいつつ、あくまでも彼女を華族の枠にあてはめ、あらかじめカテゴライズされた美辞麗句を駆使して、既存の「九条武子像」を崩さないように努めてはいるが、すでにその枠からはみ出しそうな勢いだ。関東大震災をきっかけに、「家の中の整理」をするだけでなく、夫との関係もさっさと「整理」して別居し、彼女は下落合へやってくることになる。
 わたしが同記事で面白いと感じるのは、インタビューする中村富久野子が華族の「夫人」あるいは「麗人」としての答えや反応を期待して、事前に準備してきたとみられる頭の中の想定問答が、次々と裏切られ壊されていく点だろうか。インタビュアーは、はからずもそれを「平民的」と表現しているが、「華族的」で理想的な麗人像を取材しようと思ったら、ぜんぜんちがう結果になってしまいそうなので、できるだけこの手の記事でつかわれる美辞麗句を文章中に散らしながら、なんとか予定調和の内容にもっていこう(記事が没にならないようにまとめよう)としているのが透けて見える。
 九条武子の過去の育ちや、「麗人」としてのエピソードあるいは趣味の話を大幅に増やし、せっかく対面できた取材であるにもかからわず、彼女との実際のやり取りは全体の4分の1にも満たない。著者は、華族界の「違反者」の話が深まるとマズイと思ったものか、趣味のテーマに話題を変えようとする。
 九条武子は、子どものころから活花に茶道、謡(うたい)、舞踊、ヴァイオリンと多趣味だったが、これらの趣味があったからこそ新婚後まもない時期から12年もの間、恋しい夫の不在にも押しつぶされずに耐えられたのでは?……という、どこか決まりきった答えが予測できる型どおりの質問に、九条武子は「私の頭はクウルなのかも」と、これまた取材者の期待を裏切り意表をつくような返事をしている。
竹柏会1921.jpg
華族会館麹町区内山下町.jpg
華族会館倶楽部.jpg
  
 「よく十年の長い間、お心もお体もお健やかにゐらせられたのが、私どもには不思議に思はれます」 心おきない質問に、夫人は微笑みながら、/「一つには趣味の生活もあつたからでせうが、有難いことには、お腹の中にゐる時から、自然に頭に浸みこんだ信仰の念は、何事につけても、諦めが早うございます。それと同時に、苦痛の伴はない努力があつて、いつもスラスラと心をのばして暮らしてゐます。ある新聞にヒステリイになつたと書かれましたが、三度の御飯もおいしく頂いて、人一倍お寝坊のできるヒステリイであつたら、私は何時までもこの病でゐたい、と女中たちと話しました。あるひは私の頭は、冷静(クウル)なのかもわかりませんよ」/夫人に理智の閃きはあれど、これを以て、その全部と見ることができませうか。
  
 想定とは異なる返事が、あまりに次々と返ってくるのにじれったくなったのか、著者は半分投げやりな感じでインタビューを終えたようだ。このあと、昔の短歌作品を再び引っぱりだし、穏便な予定調和で終われそうな文末の“まとめ”に入ろうとしている。
 おそらく取材者は帰りぎわ、辞令のつもりだったのか夫がようやく帰朝したあと、これから東京の「社交界」では「どのようなご活躍を?」とでも訊いたのだろう。この質問に対し、九条武子はおそらくインタビュアーを驚愕させた答えを返している。華族同士が集まり、ただ交際するだけの「社交界は意味がない」といったのだ。
  ▼
 「忙しい生活にもなつたことですから直接に公共のお役にたつ会ならば、働かして頂きませうが、意味のない社交界へは、失礼するつもりです。」
  
 このとき、彼女は大島の着物に藤色の半襟をのぞかせ、黒っぽい羽織を着ていたようだが、中村富久野子に一礼すると、当時の女性としては160mをゆうに超えるスラリとした長身のうしろ姿を見せながら、長い廊下の奥へと消えていった。
九条武子邸跡.JPG
九条武子下落合1.jpg
九条武子下落合2.jpg
 「無意味な社交界」へ出入りする夫を批判したばかりでなく、華族会館に集ってゲームや音楽、美食、酒など無為徒食にあけくれる華族全員の姿勢を暗に“刺した”ことになる。だが、九条武子の彼女らしい本格的な活動は、麹町区三番町の九条邸を出てから1923年(大正12)の関東大震災をはさみ、下落合へ転居してくるころから始動することになる。

◆写真上:1921年(大正10)2月11日、短歌会「竹柏会」出席のため東京へもどった柳原白蓮Click!の上野精養軒における歓迎会。右から左へ伊藤燁子Click!(柳原白蓮)、九条武子、藤田富子、跡見花渓、加賀文子で立っているのは佐々木信綱。
◆写真中上は、夫が12年ぶりに英国から帰国したころの九条武子。下左は、1909年(明治42)に結婚した当時の九条武子と九条良致。下右は、夫の帰国直後に撮影された九条夫妻だが、ふたりの関係を象徴するかのような写真。
◆写真中下は、「竹柏会」の記念写真で、右から左へ樺山常子、九条武子、大谷籌子、三条千代子、佐々木雪子(佐々木信綱夫人)。は、関東大震災前は麹町区内山下町にあった華族会館の入口(上)と館内にあった倶楽部(下)。
◆写真下は、下落合753番地の九条武子邸跡の敷地だが現在は2棟の住宅が建設されている。は、下落合の邸内における親友によるスナップ写真で、書斎で仕事をする九条武子(上)と近所の野良ネコを餌付けして縁側でくつろぐ彼女(下)。

読んだ!(22)  コメント(25) 
共通テーマ:地域

いつから下落合が「日本文化村」なのだ? [気になる下落合]

オバケ坂上.JPG
 下落合(現・中落合/中井含むClick!)の西坂Click!を上りきった突き当たりに、介護付き有料老人ホームが建設中だ。高額な入居費用の同施設には、「グランダ目白落合」という名称がつけられている。「目白落合」という聞きなれない名称もおかしいが、そのチラシのキャッチとリードを見て、思わず身体がのけぞってしまった。
  
 優雅なひとときをご提案する、全41室の小規模ホームが誕生!
 かつて「日本文化村」と呼ばれた、趣ある閑静な住宅街で、心穏やかに、いつまでもご自分らしい暮らしを----。ベネッセの介護付有料老人ホーム/グランダ目白落合
  
 下落合は、いつから「日本文化村」などと呼ばれるようになったのか、「心穏やかに」自分らしく暮らせないので、のけぞってしまったのだ。
 下落合の中部にあった目白文化村Click!のことを、地元の人たちや画家・作家たちが地名どおりに「下落合文化村」Click!という別名(通称)で表現するのは聞いたことがあるし、当時は東京郊外にあたる落合地域の文化住宅地全体(近衛町Click!アビラ村Click!など含む)のことを、大正期から昭和初期にかけてのマスコミ表現をそのまま、大雑把で概念的かつ抽象的に「下落合文化村」と呼称されているのは承知しているけれど、「日本文化村」というのはまったくの初耳だ。
 なんだか、以前はよくTVで放映されていた、「きょうはセラミック包丁に、このセラミックナイフをお付けして、なんと9,980円! …♪マルマルのニーニーニーニー」の、テレホンショッピングが得意な通販会社名のようではないか。じゃあ、入居費用も特別サービスでおまけがついて安いのかというと、これがけっこうな金額なのだ。標準入居金が1,380万円、月額利用料が258,580円で、さらに介護保険の自己負担分がかかるから、頭金は別にして老後に毎月30万円以上の収入がなければお小遣いも捻出できないので、「日本文化村」はとても安売り通販のようなわけにはいかない。
 施設内のサービス内容はというと、「介護職員を24時間、看護職員を日中365日配置」とミッションクリティカルな介護サービスに加え、「四季折々の食材、器や盛り付けにもこだわるお食事」が提供され、「心身ともに健やかに。機能訓練指導員を配置」するという、なにもせずただ毎日をボーッと暮らせる(非常にうらやましい環境w)、いたれりつくせりのサービス内容だ。そして、入居者の「ライフスタイル」にあわせた暮らしができる例として、地下の音楽スタジオやティールーム、酒も飲めるラウンジ、カルチャー講座などの設置が予定されている。マタンゴでX星人のお姐さんClick!も入居してる、「やすらぎの郷」レベルの待遇なのだ。
 この会社は、次回の介護付き有料老人ホームとして「グランダ常盤台弐番館」の建設を予定しているとか。東京の「文化村」や近代建築がお好きな方なら、もうなんとなくお気づきだろう。この会社の建てる老人ホームは、大正期から昭和初期にかけて“郊外文化住宅地”と呼ばれた地域にマトを絞って、次々と同様の施設を建設しようとしているようなのだ。そのうち、「グランダ国立」とか「グランダ大泉学園」、「グランダ池田山」、「グランダ華洲園」、「グランダ田園調布」とかの介護付き有料老人ホームのチラシが、新聞の挟みこみやポストに配布されるのかもしれない。(もうすでに存在したりして?)
グランダ目白落合.jpg
グランダ目白落合(西坂).jpg
グランダ目白落合建設中.JPG
目白文化村1941.jpg
 もう1ヶ所、オバケ坂の樹々を伐採して緑の環境を打(ぶ)ち壊してくれた、タヌキの森Click!に建設中の「ソナーレ目白御留山」という同様の老人ホームもある。こちらは、まるで大型低層マンションのような仕様だが、そのキャッチとリードを引用してみよう。
  
 自然豊かな都心に誕生する、新しいホーム。
 「本当の長生き」とは何かを追求します。手厚い介護のできる環境と、ご入居者ご自身に合った生活を実現するライフケアプランで、ご自身らしい「本当の長生き」を私たちは追求しています。/介護付有料老人ホーム/ソナーレ目白御留山
  
 「自然豊かな」環境を打(ぶ)ち壊し(冒頭写真)にして、いったいなにをいっているのかと腹立たしいが、ホーム内の介護サービスメニューは西坂の「グランダ目白落合」とほぼ同様だ。御留山Click!から西へ250mも離れ、大倉山(権兵衛山)Click!のさらに西側のタヌキの森に建設しているのに、「ソナーレ目白御留山」というネームも恥ずかしく感じるほどだが、もっと離れているマンションに「御留山」とついている物件もあるので、おかしな建物名はこの施設に限らない。
 ただし、入居に必要なおカネは、西坂の「グランダ目白落合」どころではない。たとえば「前払いAプラン」の場合には、入居時に2,365万円超が必要で、月々の利用料は269,500円、「Bプラン」では入居時に1,771万円超かかり、月々の利用料が380,000円と、とんでもないメニューになっている。ちなみに、毎月均等の「Cプラン」は月々691,500円と途方もない金額だ。これ以外にも、敷金や介護保険などの必要経費がかかるので、たとえば「Bプラン」を選んだとすると、頭金は別にしても毎月50万円ほどの収入のある老後を送っている人でなければ、とても安心して入居できそうもない。
ソナーレ目白御留山.jpg
ソナーレ目白御留山(タヌキの森).jpg
ソナーレ目白御留山(オバケ坂).JPG
 ちょっと考えればわかりそうだけれど、下落合には国際聖母病院Click!と目白病院の2ヶ所の救急指定病院が存在し、それなりの規模で各科の医師や看護師がそろう、比較的めぐまれた地域だ。また、各種の専門医院も数多く開業している。その近くにマンションかアパートを買うか借りるかして、警備会社による日々の見守りサービス(映像+腕時計タイプのヘルスマネジメント用スマートデバイス)を契約したほうが、よほど安上がりに済むのではないだろうか。ちなみに、上記の料金体系は自分ひとりで入居する場合であって、夫婦で入居の場合はまた異なる条件になるのだろう。
 建設業者は、「ご近隣の皆様」と題するビラをタヌキの森の周辺地域に配布しているようで、「今後も当ホームの建設工事にて、いま暫くご迷惑ご不便をお掛けいたしますが、何卒ご理解ご協力賜りたく」と記載しているが、キャッチフレーズに「自然豊かな」と書いておきながら下落合の住民が100年来親しんできた、野鳥の森に隣接するオバケ坂(うちの坂Click!)の豊かな自然を打(ぶ)ち壊しておいて「ご理解ご協力」もないものだ。いっていることとやってることが正反対で、日本語が不自由なのか、はたまた用法を知らないのかまったくお話にならない。
 最近、東京でも緑が比較的豊かな地域へ、老人施設を建設するのがブームのようだ。それは、都内にある集合住宅が飽和状態になり、マンションやアパートを合計すると23区内だけで、実に47万室を超える空き室がカウントされている現状と無縁ではないのだろう。今度の台風19号と、つづく大雨災害でも明らかなように、予想される大震災などで電気(や水道)が途絶えると、高層マンションでは即座に災害難民が発生しかねない危機的な状況(基本的なリスク管理だと思うが)を、東日本大震災Click!のとき以来目の当たりにして、今後は高層マンションの上階で空き家が増加するという課題が加わるのかもしれない。だが、老人施設を都内へ企画する際に、かろうじて保存されている保護林も含めた緑地を破壊してまで建設するのは、なんとしても止めたい大きな社会課題のひとつだろう。
常盤台1935頃.jpg
国立(昭和初期).jpg
田園調布(昭和初期).jpg
 さて、下落合はそのうち「日本文化村」どころか、「東京文化村」(なんだか演劇が上演されそうな)とか、「日本文化センター村」とかw、「西武文化村」とかわけのわからない、意味不明な名称で呼ばれるようにならないともかぎらない。下落合で史的に存在したのは「目白文化村」、強いて当時の地元で呼ばれていた通称(別称)にしたがえば「下落合文化村」であって、「日本文化村」などかつてこの世には存在していない。

◆写真上:ケヤキなど大樹が繁る雑木林が、丸裸にされたオバケ坂上部の惨状。
◆写真中上は、西坂上に建設中の「グランダ目白落合」のチラシ。「日本文化村」というのは、いったいどこにあったのだろう? は、西坂の上に建設中の様子。(空中写真はGoogle Earthより) は、1941年(昭和16)に斜めフカン撮影の第一・第二文化村。
◆写真中下は、オバケ坂上のタヌキの森に建設中の「ソナーレ目白御留山」チラシ。は、建設中の様子。は、東側の緑地が破壊されたオバケ坂上部。
◆写真下:大正末から昭和初期に開発された東京郊外の文化住宅地で、1935年(昭和10)ごろの常盤台()、1940年(昭和15)ごろの国立()、同じく田園調布()。

読んだ!(20)  コメント(30) 
共通テーマ:地域

やはり存在した目白文化村絵はがきシリーズ。 [気になる下落合]

目白文化村絵はがき1.jpg
 わたしの手もとには、初期の第一文化村のほぼ全景を撮影した、もっとも知られている目白文化村Click!絵はがきClick!が2枚と、第一文化村の神谷邸と北東側に隣接する敷地に建てられた箱根土地のモデルハウスとみられる西洋館が写る絵はがきClick!が1枚の、計3枚がある。いずれも人着がほどこされたカラー絵はがきで、発送された時期や宛先の住所などから、箱根土地がどのようなマーケティングをベースにDMを展開していたかを類推した記事Click!も書いていた。
 また、目白文化村の風景を写した写真が2種あることから、さらにDM用に印刷された同様の絵はがきがシリーズで存在するのではないか?……という記事も書いている。その推測は、やはり当たっていたのだ。人着による鮮やかなカラー絵はがきではないが、モノクロの絵はがきが複数制作されていた。しかも、モノクロ絵はがきのうちの2枚は、第一文化村に建つ邸の室内を写したもので、応接間とキッチンが撮影されている。そのうちの1枚が、永井外吉邸の応接間をとらえた冒頭の写真だ。
 わたしはうかつにも、この3種の絵はがきが収録された本を、14年ほど前に入手して読んでいたにもかかわらず、うっかり見落としていた。その書籍とは、2002年(平成14)に河出書房新社から出版された内田青蔵『消えたモダン東京』だ。当時、目白文化村を調べはじめたばかりで、次々と関連する書籍や資料に目を通していたため、気づかずに読み飛ばしていたらしい。なんとも情けないことに、先日、蔵書の整理をしていたときにパラパラめくっていて気づいたしだいだ。
 永井博・永井外吉邸は、1923年(大正12)に埋め立てClick!が完了した第一文化村の前谷戸の北寄りに建っていた邸宅だ。永井外吉は堤康次郎Click!の妹と結婚し、1920年(大正9)に箱根土地が設立されると監査役に就任している役員のひとりだ。また、上落合136番地に東京護謨が設立された際は、実質的な事業責任者として経営役員に送りこまれている。永井外吉が箱根土地の経営陣だったせいで、邸内の写真を撮らせてツール(DM)を作成し、販促プロモーションに利用したのだろう。
 永井外吉について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から引用してみよう。
  
 東京護謨(株)取締役 永井外吉 下落合一,六〇一
 石川県士族永井孝一氏の二男にして拓務大臣永井柳太郎氏の従弟である、(ママ) 明治二十二年十月の出生、同二十七年家督を相続す。郷学を卒へるや直に業界に入り前掲会社の外、嘗ては駿豆鉄道箱根土地(ママ)、東京土地各会社の重役たりしことあり。家庭夫人ふさ子は拓務政務次官堤康次郎氏の令妹である。
  
 下落合4丁目1601番地(現・中落合3丁目)の永井邸は、第一文化村の北辺の二間道路に面している。清水多嘉示Click!が、1935年(昭和10)前後にその二間道路上で撮影した写真Click!でいうと、撮影者の背後40mほどのところに大きな永井邸が建っていたはずだ。初期の永井邸の竣工は、1989年(平成元)に出版された『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に掲載された、「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」から想定すると、1923年(大正12)中あるいは翌年にかけての早い時期だったとみられる。第一文化村では神谷卓夫邸とならび、かなり大きな西洋館だった。
永井外吉邸1926.jpg
永井外吉邸1936.jpg
永井外吉邸1941.jpg
 ところが、おそらく当初の世帯主である永井博が死去したものか、永井外吉は大正末に既存の邸を解体して、さらに大きな邸へとリニューアルしているとみられ、この絵はがきの写真はリニューアル後、つまり昭和初期に竣工した邸内をとらえている可能性がある。その根拠は、箱根土地が当初制作した「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」に採取されている家のかたちと、同じく『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に収録された同邸の平面図とが、まったく一致しないからだ。
 また、目白文化村の空中写真にとらえられた永井邸、あるいは1938年(昭和13)に作成された「火保図」に収録の永井邸は、前者の大正期作成の地割図に描かれた邸のかたちとは異なっているが、後者の平面図とはよく一致している。さらに、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三の『下落合風景』Click!では、永井邸のあるはずの位置が空き地になっており、なんらかの看板が建てられているので(「永井邸建設予定地」とでも書かれていただろうか)、同作は旧・永井博邸が解体されたあと新たな永井外吉邸が建てられるまでの、その刹那の情景をとらえている可能性が高いことだ。
 昭和初期まで、つまり箱根土地本社が下落合から次の開発地域である国立Click!へ移転(1925年12月)してしまったあとまで、目白文化村のDM用絵はがきが制作されていたとすれば、なかなか売れなかった深い谷間の第四文化村Click!や、第二文化村の北側に予定されていた箱根土地の社宅建設敷地Click!の処分(第二文化村の追加分譲販売)とからめた、販促ツールづくりの一環ととらえることもできる。
 さて、冒頭写真の応接間は、永井外吉邸の南東側に突きでた位置に設置されており、窓からは南側の庭が眺められただろう。また、南面に設置された両開きのガラス張りドアから、ポーチや庭へと出ることができた。写真は、応接間の北西側にあった入口から、南東側を向いて撮影されたものだろう。南からの強い陽射しでハレーションを起しているが、画面左奥のドアが開いているので、肉眼では庭先が見えていたはずだ。また、暖炉がわりに置いてあるのは電気ストーブのようで、目白文化村にかなり遅れてガス管が引かれる以前に撮影されたものと思われる。
 これは目白文化村に限らないが、下落合の中部から西部にかけてはガス管の敷設が遅れ、その間、ストーブなどの暖房機器や台所の調理器具は電気製品が主流だったため、月々の電気代がかなり高額になって困ったというお話をうかがっている。
目白文化村絵はがき2.jpg
目白文化村絵はがき3.jpg
文化村絵はがき2表19230522.jpg
 永井邸のもう1枚は、台所をとらえたものだ。やはりガスがいまだ引かれておらず、鍋釜は白いタイルを貼った竈で、湯は電気コンロで沸かしていたようだ。女中部屋も近い、奥の廊下の壁には古い壁かけ電話が見えているので、やはり文化村に電話が急速に普及しはじめた昭和初期に撮影されたものだろう。先の応接間もそうだが、台所も実際に使われている状態をほぼそのまま撮影しているので、このモノクロ絵はがき2葉は「文化村の暮らし」というようなコンセプトのもと、顧客へよりリアルな目白文化村での生活をアピールする目的で作られたものだろうか。
 絵はがき2枚の写真は、タテヨコの比率が異なっているが、これは『消えたモダン東京』に掲載する際、レイアウトに合わせ写真がトリミングされているのだろう。手もとにある目白文化村絵はがき(人着カラー)と比較してみると、永井邸の応接間を撮影した冒頭写真の比率が、既存のカラー絵はがきとほぼ同じ比率になっている。
 さて、もう1枚のモノクロ絵はがきは、永井邸の南西80mのところに建っていた第一文化村の神谷卓男邸Click!(下落合3丁目1328番地)を写したものだ。この写真も、同書に掲載するにあたりトリミングがほどこされ、絵はがきの比率とは異なっている。ライト風の神谷邸は、南東に向いた門前から北西の母家を撮影しており、換気をしているのか窓の仕様が細かく観察できてめずらしい。
 同じ第一文化村の中村正俊邸Click!と同様に、フランク・ロイド・ライトClick!の弟子である河野伝による設計と推定されているが、目白文化村が建設されたとき河野伝は箱根土地の設計部に勤務していた。したがって、箱根土地社内の設計チームが手がけた作品として、既存の人着カラー絵はがきの神谷邸とともに、販促にはもってこいの“商材”だったのではないだろうか。ちなみに、もうすぐ復元される三角屋根の国立駅舎も、箱根土地の河野伝が設計したといわれている。
 絵はがきの主人・神谷卓男は、東邦電力Click!の常務取締役をつとめていたが、『落合町誌』の「人物事業編」には収録されていない。なお、姻戚だとみられる東邦電力の理事兼秘書役の神谷啓三も、下落合367番地の林泉園住宅地Click!に住んでいたが、こちらは『落合町誌』に収録されている。以下、同誌から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三 下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛氏の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり、夫人甲代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
永井外吉邸1938.jpg
近衛邸応接室.jpg
島津邸台所.jpg
 箱根土地による目白文化村は、第一文化村(1922年)、第二文化村(1923年)、第三文化村(1924年)、第四文化村(1925年)、そして第二文化村追加分譲(大正末~昭和初期)と5回にわたり販売されている。(勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」Click!販売は除く) そのつど、新聞には販売広告が出稿され、販促プロモーションが行なわれたとみられるので、DM用に制作された絵はがきも、まだまだ存在する可能性がありそうだ。

◆写真上:モノクロの目白文化村絵はがきの1枚で、第一文化村の永井外吉邸応接間。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる永井外吉邸。同事情明細図の作成時は、旧・永井博邸のままだったかもしれない。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる新たな永井邸。
◆写真中下は、目白文化村絵はがきの1枚で永井邸の台所。電話機の手前に、スーツ姿の人物の半身がブレて写っているが永井外吉本人だろうか。は、同じく絵はがきでトリミングされた神谷卓男邸。は、神谷邸を写したカラーの同絵はがき。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる第一文化村の永井外吉邸と神谷卓男邸。は、近衛町Click!の北側に竣工した近衛文麿邸Click!(下落合436番地)の応接間。は、アビラ村Click!に建っていた島津源吉邸Click!(下落合2095番地)の台所。当時は輸入品が主流で高価だった電気レンジに電気コンロ、電気冷蔵庫、換気扇、そして電気炊飯器と、ガス管が敷設されていないため“オール電化”のキッチンだった。

読んだ!(19)  コメント(22) 
共通テーマ:地域

上落合郵便局近くの大ケヤキの下で。 [気になる下落合]

上落合郵便局.jpg
 1930年(昭和5)5月に、詩人・上野壮夫と結婚した作家・小坂多喜子Click!は妙正寺川の北側、葛ヶ谷(のち西落合)の飛び地である御霊下(のち下落合5丁目)で、新婚生活をスタートしているようだ。まったく同じ時期の1930年(昭和5)5月、上落合842番地Click!に転居していた尾崎翠Click!は、知人の林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻に自身が1928年(昭和3)6月まで松下文子とともに住んでいた、大きく蛇行する妙正寺川の南側にあたる上落合850番地の空き家Click!を紹介している。
 林芙美子・手塚緑敏夫妻は、すぐにこの家へ引っ越してくるが、妙正寺川をはさみ対岸の葛ヶ谷御霊下(北側)に、小坂多喜子と上野壮夫Click!の最初の新婚家庭があったとみられる。もちろん、現在の妙正寺川は1935年(昭和10)前後からスタートした直線整流化工事Click!がほどこされ、蛇行を繰り返していた当時の川筋とは大きく異なっている。上記の林芙美子・手塚緑敏夫妻が暮らした上落合850番地の家は、現在の妙正寺川の川筋では大半が“水没”しており、北岸の家並みや道筋も大きく異なっている。
 林・手塚夫妻が上落合850番地の家を引き払い、1932年(昭和7)に五ノ坂Click!下の下落合2133番地に建っていた、自称“お化け屋敷”Click!と呼んだ大きな西洋館Click!へ転居したのは、『放浪記』がヒットして印税が入ったせいもあるのだろうが、すでに妙正寺川の直線整流化工事が予定されており、いずれ近いうちに立ち退かなければならないのを承知していたからだと推測している。
 さて、妙正寺川をはさみ上落合850番地の林・手塚邸の対岸にあったとみられる小坂多喜子・上野壮夫夫妻の家は、おそらく落合町葛ヶ谷御霊下836番地、ないしは同857番地のどちらかだろう。同地が1932年(昭和7)に下落合5丁目へ編入されたのちも、この地番はそのまま変わっておらず、下落合には2丁目と5丁目とで同時に800番台の地番が並列することになってしまった。1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、南岸にある林・手塚夫妻が暮らした上落合850番地の家々は、妙正寺川の工事にひっかかってすでに解体・撤去されているが、工事にはひっかからなかった北岸の家々は、ほぼそのままのかたちで残っているのがわかる。
 2007年(平成19)に図書新聞から出版された、小坂多喜子の次女である堀江朋子の『夢前川』から、当時の様子を引用してみよう。
  
 (中井)駅を降りるとすぐ左手に妙正寺川。そのほとりに新婚の父と母が暮らし、その川を隔てて向かい側に林芙美子が住んでいた。昭和五年頃のことである。その後すぐ二人は、(上落合)郵便局近くの家に移り、林芙美子も他へ移った。その川淵を歩くのは二度めである。十年ほど前の記憶を辿ってみた。佇まいは、殆どかわっていない。小さな民家。古びたアパート、酒場。妙正寺川を挟んで南側は、昭和二十年五月に激しい空爆をうけたが、北側は、キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた。父と母が住んだのは妙正寺川の川縁の南側だったろうか、北側だったろうか。(カッコ内引用者註)
  
 川向こうに林芙美子が住んでいたとすれば、まちがいなく北側だったろう。妙正寺川は、当時の川筋とはまったく形状が変わってしまっている。
上落合850番地界隈1938.jpg
上落合850現状.JPG
御霊下836・857現状.JPG
上落合郵便局1936.jpg
上落合郵便局1941.jpg
 このサイトの記事をお読みの方なら、いくつかの気になる記述にお気づきだろう。落合地域の街並みは、下落合と上落合を問わず1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!とで、大半が焼失している。著者が書いている国際聖母病院Click!は、4月13日の焼夷弾攻撃に対して必死の消火活動Click!が試みられ(それでも一部焼失はまぬがれなかった)、また戦争末期には同病院をねらった戦闘爆撃機(P51だとみられる)の空爆により、250キロ爆弾の直撃を受けている。
 「キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた」は、戦後にGHQのGSないしはG2などの言論工作機関Click!が意図的に流布した、日本を占領しやすくするための結果論的プロパガンダだろう。米軍が公開している米国公文書館Click!の空襲資料には、「病院を避けた」というような指令や命令はどこにも存在していない。特に(城)下町Click!にあった公的病院や入院施設のある大規模な医院は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でことごとく焼きつくされている。
 さて、このあと小坂多喜子・上野壮夫夫妻はすぐに上落合へ転居している。当時の様子を、1967年(昭和42)に不同調社から発行された「槐」復刊第4号収録の、堀田昇一『わが日わが夢(三) 五、「落合ソヴェト」風土記』より、上掲書から孫引きしてみよう。
  
 中井駅のそばの橋をわたって南の方へいくと、つきあたりに小さい郵便局があり、大きな欅がたっていた。先日そのあたりを歩いてみたら、もう大きな欅の木はきりはらわれて見られなかったが、当時は大きな幹が帝々とそびえたって、あたりの一点景をなしていた。その郵便局の前に、三・一五、四・一六の公判の裁判長であった宮城某という男が住んでいた筈だ。当時は表札をかくし、別の名札をかけていたのではないか、と思う。のちに参議院議員などにもなったようである。
  
 橋は妙正寺川をわたる寺斉橋Click!で、郵便局は上落合665番地の上落合郵便局のことだ。「裁判長であった宮城某」とは、上落合郵便局の向かいの角地に大きな屋敷を建てて住んでいた、裁判官ではなく東京地裁で検事をしていた宮城長五郎のことだ。
宮城長五郎邸1938.jpg
上落合郵便局1938.jpg
上落合郵便局1948.jpg
 宮城は治安維持法の策定にも関わっているが、三・一五事件Click!では特高Click!に検挙された「思想犯」を、どしどし起訴して豊多摩刑務所Click!へ送りこんだ弾圧の中心人物のひとりだ。治安維持法が拡大解釈されるにつれ、共産主義者や社会主義者ばかりでなく政府に「異」を唱える人物を、思想や信条を問わず片っ端から弾圧していく。宮城は、上落合の「落合ソヴェト」のまん真ん中に位置する大きな屋敷に住んでいたため、報復を怖れたのか表札を隠していたのだろう。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」には、上落合730番地に「宮城」の名が採取されているので、そのころには不安が薄れたのか表札を架けていたと思われる。堀田昇一は「参議院議員」と書いているが、宮城は1942年(昭和17)に死亡しているので貴族院議員の誤りだ。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、やはり後難を怖れたのか「人物事業編」には掲載されていない。
 落合郵便局の近くに住んだ小坂・上野夫妻の様子を、『夢前川』から引用してみよう。
  
 新宿上落合郵便局。この郵便局はいつ頃からあるのだろうか。窓口の女性に尋ねてみる。少しお待ち下さい、と言って女性は二階に上がった。四、五分ほど待ったろうか。二階から降りてきた女性は、笑顔で大正十三年三月に創設されました、という。父と母が妙正寺川のほとりの新婚の家から移り住んだ家は、やはりこの郵便局の側だ。私は思わず微笑んだ。外ら出てあたりを見回す。付近は民家をそのまま改築したような二階建のアパート、小さな店、床屋、特高に踏み込まれた家はどのあたりか。大きな欅があったと母は書き残しているが、欅は見当たらなかった。
  
 この大ケヤキは、上落合郵便局の南側にある中村家、ないしはさらに南に位置する高山家の大きな邸宅敷地に生えていた屋敷樹だとみられる。同ケヤキは、空襲で焼けたが戦後に息を吹き返し、1970年代まで伐られずに生えていたと思われる。上落合郵便局の周囲は、先の宮城邸もそうだが大邸宅が建ち並ぶ一帯で、改正道路(山手通り)の建設工事Click!はいまだスタートしていない。
 その大ケヤキの近くということは、小坂多喜子・上野壮夫夫妻の2軒めの新婚家庭は、上落合665番地ないしは同667番地の家々のうちのどれかで、上落合666番地の中村家が建設した借家の1軒だった可能性がある。中村邸の南側にある高山彦太郎・松之助邸も、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」によれば一帯の地主だった。
大ケヤキ跡現状.jpg
小林多喜子1933.jpg 堀江朋子「夢前川」2007.jpg
 1932年(昭和7)の秋、小坂・上野夫妻は一時的に阿佐ヶ谷へと転居するが、翌1933年(昭和8)の秋に再び上落合829番地へもどってくる。その短い阿佐ヶ谷時代に、小林多喜二Click!が虐殺される事件に遭遇することになるのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:上落合665番地(現・上落合2丁目)にある、上落合郵便局の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合850番地の林・手塚邸の位置と対岸の御霊下836・857番地界隈。いずれかの住宅が、小坂多喜子・上野壮夫が新婚早々に住んだ家だろう。は、大半が“水没”した上落合850番地の現状(上)と、対岸の御霊下836・857番地の現状(下)だが実際は川筋が蛇行していたためもう少し北側にずれる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合郵便局界隈(上)と、1941年(昭和16)に斜めフカンで撮影された空中写真の大ケヤキ周辺(下)。
◆写真中下上・中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合郵便局とその周辺。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる上落合郵便局周辺。
◆写真下は、大ケヤキが生えていたあたりの現状。下左は、1933年(昭和8)2月20日に撮影された小林多喜二の通夜の席での小坂多喜子と窪川稲子(佐多稲子)Click!。薄暗い室内で、フラッシュはたかれているがシャッタスピードが遅いため、ふたりともブレて写っている。下右は、2007年(平成19)に出版された堀江朋子の『夢前川』(図書新聞)。

読んだ!(20)  コメント(23) 
共通テーマ:地域