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わたしの頭はクウルなのかもしれません。 [気になる下落合]

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 このサイトでは、おもに関東大震災Click!ののち下落合753番地Click!に転居してきたあとの、九条武子Click!の生活についてクローズアップClick!してきた。また、九条武子が書いたエッセイや私信Click!、インタビューなどの内容から、彼女の思想や信条Click!、活動、日常生活Click!趣味Click!などについても触れてきている。
 今回は、九条武子が下落合へやってくる以前、すなわち九条良致との結婚直後から、夫の12年間にもおよぶ「英国留学」ののち、表面上の“つくろい”や建て前上はともかく、別居を決意して夫と訣別するまで、どのような考え方や社会観、認識をしていたのかを垣間見てみたい。九条武子は、帰国してほぼ12年ぶりに再会した夫と、最初はやり直そうとしていたようだ。1921年(大正10)の早い時期に、中村富久野子のインタビューに答えて、「これからは一家の主婦となつて、直接に總ての交渉が迫つて来ました。でもまだ幼稚園を出たばかりのものですから、半年か一年も経たなければ、とてもうまくはまゐりますまい」と答えている。
 だが、すでに自身の生活には大きな疑問を抱きはじめており、「私は今まで、物質に係のない生活をして参りました」が、それはマズイことだと明確に意識している様子がうかがえる。中村富久野子は、それを「平民的な思想」と表現するが、単純な階級観のみによる自身の立場への疑義にとどまらず、夫である九条良致との修復しようのない思想的あるいは性格的な対立が、彼女を突き動かしているようにも感じとれる。
 1921年(昭和10)に発刊された「婦人世界」2月号から、中村富久野子によるインタビュー記事『十二年目に同棲の春に逢うた九条武子夫人と語る』から引用してみよう。九条武子は、マスコミの記者から直接取材を受けることは、下落合時代になってからはともかく当時はまれで、彼女の親しい友人や、友人から紹介された知人がインタビュアーになることが多い。中村富久野子も、そんな知り合いのひとりなのだろう。
  
 「(前略) 一体に私どもは、勿体ない生活をしてゐます。これに慣れて、呑気な気分に浸つてしまふのが常です。でも私のみは違反者となるつもりです。」貴族社会の安逸な生活に飽きたらない夫人の想ひは、その紅唇を迸つて鋭く出ました。/また何処までも平民的な夫人の性格が、その言葉には溢れてゐます。/「父からは、比較的厳格な教育を受けて来ましたが、兄たちは実に自由(フリー)に導いてくれました。その結果は、女とも男ともつかぬやうな性格の者ができてしまひました。」と夫人は微笑まれて、/「家の中の整理がつきましたら、今まで出来なかつた勉強を、これから始めます。たびたび外出もいたしますから、電車にも乗つてみて、早く東京の地に親しみたいと思つてゐます。」/爽やかなお言葉の中には、この貴人に思ひ設けなかつた強い音が、時時耳を打つ。私は驚いて顔を上げました。
  
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 ここでは、すでに夫をはじめ、その贅沢な暮らしや周囲の華族たちからも、「私のみ」を切り離して「違反者」になることを宣言しているように受けとれる。また、後世では常に「美人」と書かれる彼女の言動を見るかぎり、「女とも男ともつかぬやうな性格」ではなく、明らかに男っぽくて一度決めたらテコでも動かない頑固さと、挑戦的で雄々しい性格をしていた様子がうかがえる。
 インタビュアーはとまどいつつ、あくまでも彼女を華族の枠にあてはめ、あらかじめカテゴライズされた美辞麗句を駆使して、既存の「九条武子像」を崩さないように努めてはいるが、すでにその枠からはみ出しそうな勢いだ。関東大震災をきっかけに、「家の中の整理」をするだけでなく、夫との関係もさっさと「整理」して別居し、彼女は下落合へやってくることになる。
 わたしが同記事で面白いと感じるのは、インタビューする中村富久野子が華族の「夫人」あるいは「麗人」としての答えや反応を期待して、事前に準備してきたとみられる頭の中の想定問答が、次々と裏切られ壊されていく点だろうか。インタビュアーは、はからずもそれを「平民的」と表現しているが、「華族的」で理想的な麗人像を取材しようと思ったら、ぜんぜんちがう結果になってしまいそうなので、できるだけこの手の記事でつかわれる美辞麗句を文章中に散らしながら、なんとか予定調和の内容にもっていこう(記事が没にならないようにまとめよう)としているのが透けて見える。
 九条武子の過去の育ちや、「麗人」としてのエピソードあるいは趣味の話を大幅に増やし、せっかく対面できた取材であるにもかからわず、彼女との実際のやり取りは全体の4分の1にも満たない。著者は、華族界の「違反者」の話が深まるとマズイと思ったものか、趣味のテーマに話題を変えようとする。
 九条武子は、子どものころから活花に茶道、謡(うたい)、舞踊、ヴァイオリンと多趣味だったが、これらの趣味があったからこそ新婚後まもない時期から12年もの間、恋しい夫の不在にも押しつぶされずに耐えられたのでは?……という、どこか決まりきった答えが予測できる型どおりの質問に、九条武子は「私の頭はクウルなのかも」と、これまた取材者の期待を裏切り意表をつくような返事をしている。
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 「よく十年の長い間、お心もお体もお健やかにゐらせられたのが、私どもには不思議に思はれます」 心おきない質問に、夫人は微笑みながら、/「一つには趣味の生活もあつたからでせうが、有難いことには、お腹の中にゐる時から、自然に頭に浸みこんだ信仰の念は、何事につけても、諦めが早うございます。それと同時に、苦痛の伴はない努力があつて、いつもスラスラと心をのばして暮らしてゐます。ある新聞にヒステリイになつたと書かれましたが、三度の御飯もおいしく頂いて、人一倍お寝坊のできるヒステリイであつたら、私は何時までもこの病でゐたい、と女中たちと話しました。あるひは私の頭は、冷静(クウル)なのかもわかりませんよ」/夫人に理智の閃きはあれど、これを以て、その全部と見ることができませうか。
  
 想定とは異なる返事が、あまりに次々と返ってくるのにじれったくなったのか、著者は半分投げやりな感じでインタビューを終えたようだ。このあと、昔の短歌作品を再び引っぱりだし、穏便な予定調和で終われそうな文末の“まとめ”に入ろうとしている。
 おそらく取材者は帰りぎわ、辞令のつもりだったのか夫がようやく帰朝したあと、これから東京の「社交界」では「どのようなご活躍を?」とでも訊いたのだろう。この質問に対し、九条武子はおそらくインタビュアーを驚愕させた答えを返している。華族同士が集まり、ただ交際するだけの「社交界は意味がない」といったのだ。
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 「忙しい生活にもなつたことですから直接に公共のお役にたつ会ならば、働かして頂きませうが、意味のない社交界へは、失礼するつもりです。」
  
 このとき、彼女は大島の着物に藤色の半襟をのぞかせ、黒っぽい羽織を着ていたようだが、中村富久野子に一礼すると、当時の女性としては160mをゆうに超えるスラリとした長身のうしろ姿を見せながら、長い廊下の奥へと消えていった。
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 「無意味な社交界」へ出入りする夫を批判したばかりでなく、華族会館に集ってゲームや音楽、美食、酒など無為徒食にあけくれる華族全員の姿勢を暗に“刺した”ことになる。だが、九条武子の彼女らしい本格的な活動は、麹町区三番町の九条邸を出てから1923年(大正12)の関東大震災をはさみ、下落合へ転居してくるころから始動することになる。

◆写真上:1921年(大正10)2月11日、短歌会「竹柏会」出席のため東京へもどった柳原白蓮Click!の上野精養軒における歓迎会。右から左へ伊藤燁子Click!(柳原白蓮)、九条武子、藤田富子、跡見花渓、加賀文子で立っているのは佐々木信綱。
◆写真中上は、夫が12年ぶりに英国から帰国したころの九条武子。下左は、1909年(明治42)に結婚した当時の九条武子と九条良致。下右は、夫の帰国直後に撮影された九条夫妻だが、ふたりの関係を象徴するかのような写真。
◆写真中下は、「竹柏会」の記念写真で、右から左へ樺山常子、九条武子、大谷籌子、三条千代子、佐々木雪子(佐々木信綱夫人)。は、関東大震災前は麹町区内山下町にあった華族会館の入口(上)と館内にあった倶楽部(下)。
◆写真下は、下落合753番地の九条武子邸跡の敷地だが現在は2棟の住宅が建設されている。は、下落合の邸内における親友によるスナップ写真で、書斎で仕事をする九条武子(上)と近所の野良ネコを餌付けして縁側でくつろぐ彼女(下)。

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