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下落合18番地で印刷された「時代」。 [気になる下落合]

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 1935年(昭和10)4月に民族社から刊行された文芸誌「時代」は、下落合1丁目18番地にあった祖谷印刷所で刷られていた。この「時代」という文芸誌は、創刊号だけで終わってしまったようだが、あまたの文芸時評の中に、同年に開催された独立美術協会Click!の第5回展の展評が掲載されていて目をひく。いまや古書店でも見かけない、同誌の貴重なコピーを送ってくださったのは、三岸アトリエClick!山本愛子様Click!だ。
その後、同じく山本様の情報により、文芸誌「時代」は1935年(昭和10)の時点で第35号まで確認できることが判明した。
 「時代」創刊号が印刷されたのは下落合の祖谷印刷所だが、1938年(昭和13)になると同印刷所はすでに見あたらない。同年作成の「火保図」を見ると、下落合1丁目18番地には新たに月光堂印刷が開業している。おそらく、祖谷印刷所から社名を変更したか、印刷機など設備一式を居抜きで譲り受け、そのまま営業している次の印刷所なのだろう。同地番は、現在の十三間通りClick!(新目白通り)に面した清水川公園の西隣りで、西武線の線路をはさみ指田製綿工場Click!の北東側にあたる敷地だ。
 さて、同誌に掲載された「独立美術合評会」には、5人の評者が出席している。そのメンバーとは、画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!、フランス文学者で評論家の小松清、小説家で劇作家の高橋丈雄、イタリア文学者の三浦逸雄、そして美術評論家の土方定一だ。おわかりのように、美術畑の人物は清水と土方だけで、あとの3人は文学畑の評者たちだ。合評は、清水多嘉示の「独立美術は現在日本に於て最も前衛的なものと思ひます。在来の日本絵画を見直してそこから新しく動きださうと云ふ気持が展覧会の指導的な立場になるんじやないかと考へてゐる」と、意気ごんでスタートした合評だが、清水は徐々に黙しがちになってしまう。
 なぜなら、独立展の多くの画家たちが、おもに文学畑の評者によってボロクソにいわれはじめたからだ。言葉少なになる清水多嘉示は、たとえばこんな具合だ。
  
 小松 どうです、清水君。/(清水氏躊躇してゐる間に三浦氏)
  
 清水多嘉示Click!が言葉少なになるにつれ、「どうです、清水君?」「清水君、どうかね?」という問いかけが増えていく。そもそも、この展評は洋画の前衛を自負する独立美術協会の画家たちを、ハナから批判する目的で開かれたのではないかとさえ思えるふしがある。合評の前提として提示されたテーマが、次のようなやり取りだったからだ。
  
 土方 (前略) 最近四、五年前まではともかく前進してきた一般人の芸術意識の後退といふことが考へられやしないでせうか? そして、独立展にしても、さういふものに直面した混乱といふか、追従といふか、それに対する各人の態度も興味深くでてゐる。(中略)
 三浦 思想的といふよりも、エスプリをかいてフオルムから入つて行つた画家の多いことを表はしてゐる。フオルムから行けばそれだけで一寸画はすゝんだやうに思ふ。しかし、真に新しいエスプリが新しいメチエを見付けた場合でないかぎり、一二年もつづけてやつてゐると、メチエの発見がない。
  
 ある意味で本質を突いている言葉なのだろうし、彼らにいわせれば「ホントのことだからしょうがないもん」なのだろうが、「誰のどこがいい」というポジティブな展評よりも「誰のどこがダメ」という言葉が大半を占めるにつれ、意気ごんで座談会に臨んだ清水多嘉示は、暗澹たる気持ちになっていったのではないか。清水は、少しでもいいたい放題の「悪評大会」を是正しようと試みているが、周囲の人たちとの会話が噛みあわない。
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 第5回展の「第一室」から具体的な作品を対象とした評論がはじまり、清水は「良い悪いは別として」若い人たちががんばっていると水を向けるが、「作品として特別感心させられるものはない様だね」(小松)とにべもない。次々に出展作品が取りあげられるが、曾宮一念Click!については「絵画としてはそれほど進んでゐないと思ふ。矢張り諦観主義だよ」(小松)。野口彌太郎Click!については、「どこがよいのかわからなかった。風俗画という感じがした」(三浦)、「巴里風景などは下らないね」(小松)。児島善三郎Click!については、「マンネリズムだと思ふ、あの人の獲得したものは」(高橋)、「サロン的エレガンスに余り魅力も持てないし、また期待ももたない」「感性ばかりに阿ねつていて、思想性が欠けてゐる」(土方)という具合だ。
 伊藤廉については、「下らんね」(高橋)、「あの山々も大観ばりで、全くどうかと思ふ」(小松)。須田国太郎については、「結局頭でしかかいてゐないと云つた風な絵だね」(小松)、「死んだやうな絵だね」(三浦)。ここで清水多嘉示が、須田国太郎について「この人の力といふものが判つてきた様な気がする」とやや弁護するが、周囲から一蹴されてしまう。中村節也については、「作家の感性生活内容の貧しさをかくすため芸修行と云つたところ」(小松)……。そして、中村節也や松島一郎、熊谷登久平などの新人が、これからの独立展を牽引していかなければならないんだから、「もつとしつかりやつてもらわねば」ダメじゃないかと結んでいる。
 この展評の中で、評者たちから無条件で褒められているのは、「時代」の寄稿者でもある福澤一郎Click!と、あと2年で独立美術協会から脱退する里見勝蔵Click!、そして三岸節子Click!だ。特に、同協会の会員でもない(女性なので会員にしてもらえない)三岸節子についてはベタ褒めに近い。同誌から、再び引用してみよう。
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児島善三郎.jpg 野口彌太郎.jpg
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 小松 (前略) ところでこの辺で第二室に移つて三岸節子の作はどうかね。色彩のハーモニーの点から云つても画面全部の構成の点からみても立派な出来ばへだと思ふ。去年より一段と良くなつたと思ふが。(略) 単純な色を使つておそらく三色か四色使つてそれで豊かな感じを出すところなぞ独立にも珍らしい。
 三浦 あれはいい。三岸夫人の絵は素直なところがいい。この人の線は物体をかぎるだけの線でなくて、絵画的なポエジイを秩序づける句読点のやうなものだ。非常に素質のいい人だといふ感じがする。
 小松 今まで日本の女流作家であれだけの作風なり技術をもつたものは、先ず皆無と云つていゝ。兎も角サンチマンと云ひ理智の働きと云ひ、その二つの要素の共同の働きと云ひ、僕はそのユニテに感心する。
 三浦 女で今のところともかく本質的な意味でもよく出来てゐる人だと思ふ。
 小松 マチスやデユフイの影響は多い。しかしそれをあそこまにで十分咀嚼して自己のものにしたと云ふことには心から感服出来るね。
 三浦 去年も里見君と話したが、実に豊かな絵をかく人だ。女でなく男だつてあれだけは仲々描けないよ。
  
 辛口の批評者たち(清水多嘉示は除く)にしては、手放しで褒めているのが目立つ。福澤一郎と里見勝蔵を除き、その他の独立美術協会会員にしてみれば面目を丸つぶれにされたような展評だが、このような批評が積み重なって、児島善三郎をはじめ会員たちの嫉妬が高まり、三岸節子は4年後の1939年(昭和14)、「女性は会員になれないとの内規」を理由に同協会離脱する(弾きだされる)ことになるのだろう。
 第5回展の第十一室には、没後1年めにあたる三岸好太郎Click!の遺作も特別陳列されていた。それについて、「技術的にこの人の今までの仕事は概括的に説明出来ない」(土方)としながらも、「とに角、多くの影響をうけて自己の個性を育てて行つた点は三岸君の感覚の多様性を示すものだ」(小松)、「あれ位ひスウルレアリストで完成された人は居なかつたけれど」(三浦)と、おしなべて好評価されている。
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 そして、「もちろん、ああいう人だから」という前提で、三岸好太郎Click!に「イデオロジツクのものを求めるのは無理かも知れぬが、エモーションは求められる」(小松)と、どこか憎めない「ああいう人」という性格も含めて、好意的にとらえられている。

◆写真上:下落合1丁目18番地の祖谷印刷所があったあたり(画面右手)、左側が十三間通り(新目白通り)で奥に見えているのが山手線のガード。
◆写真中上は、1935年(昭和10)4月に発刊された「時代」創刊号の奥付。は、「時代」の表紙()と座談会「独立美術合評会」の扉()。は、同誌の目次。
◆写真中下は、祖谷印刷所(のち月光堂印刷)の跡。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月光堂印刷。中下は、独立美術協会の児島善三郎()と野口彌太郎()。は、同じく須田国太郎()と中村節也()。
◆写真下は、独立美術協会の創立メンバーだった三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。は、同誌に掲載された新宿の紀伊国屋書店の田辺茂一・編による『能動精神パンフレット』出版広告。十返一や森山啓、舟橋聖一、田村泰次郎、窪川鶴次郎など落合地域やその近辺に関わりの深い作家たちの名前が並んでいる。

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