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小坂多喜子と小林多喜二。 [気になる下落合]

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 小坂多喜子Click!は、クールかつ進歩的な観察眼で人間を見つめる表現者であり、思想でゴリゴリに凝りかたまった融通のきかない共産主義者でも闘士でもない。思想や理想よりも先に、家庭や家族を愛し優先する生活者だった。だから、いろいろな局面で予断や思想的なフィルターを眼差しにあまりかぶせることなく、人間を細かくていねいに観察できたのではないだろうか。
 また、思いきりがよく寡黙がちだが、基本的には明るく楽観的な性格をしており、オシャレにも気を配る自由闊達でフレキシブルな精神の底流には、一度決めたらテコでも動かないような、芯の強情さも秘められていたようだ。彼女が生涯を通じて神近市子Click!を師のようにとらえ、その生き方に共鳴したのも、どこか共通する性格の根幹のようなものを感じていたからだろうか。
 そんな彼女が遭遇した許しがたい場面のひとつに、築地署の特高Click!による小林多喜二Click!の虐殺事件がある。小坂多喜子は、共産主義運動に加えられた階級敵の弾圧によって生じたあからさまで必然的な虐殺というような、左翼思想をベースとする理性的で位置づけ的な解釈よりも、こんなひどいことを平然と行なう政治は徹底的にまちがっている……というような、良識のある一般的な市民感覚で事件をとらえ、のちにトラウマになるほどの強烈な恐怖心を抱いた。虐殺事件を、あとあとまで感性的な認識でとらえるところに、小坂多喜子が夫とともに身を置いた思想の活動家としての「弱さ」があり、表現者としての息の長い「強さ」があったのかもしれない。
 小坂多喜子が小林多喜二Click!と出会ったのは、1930年(昭和5)3月に勤めはじめた有楽町駅のガード脇にあるビルの2階だった。神近市子Click!が紹介してくれた山田清三郎Click!を通じて、猪野省三が出版部長だった戦旗社の出版部で仕事をしはじめている。といっても、猪野部長に対して部員は彼女ひとりしかおらず、月給はわずか30円(現代の貨幣価値で10~12万円ぐらいか)だった。
 業務の内容は、同社が出版する書籍の校正作業がメインで、本を印刷している早稲田鶴巻町の印刷所へ出向することもめずらしくなかった。上落合から東中野駅へ出て、ラッシュアワーの中央線と山手線を乗り継いで有楽町に出社するよりも、西武線の中井駅から高田馬場駅まで出て近くの早稲田へ直行したほうが、徒歩あるいは高田馬場駅前からダット乗合自動車Click!に乗ればすぐなので楽だったろう。猪野省三とともに出向先の校正作業では、印刷所が昼食に天丼をとってくれたようで、神戸育ちの彼女にはそれがめずらしかったのか、特に美味だったことを記憶している。ちなみに、おそらく同じ印刷所なのだろう、上野壮夫Click!は親子丼が美味だったことを憶えていた。
 小坂多喜子が戦旗社出版部に勤めはじめたころは、同社刊の徳永直『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』(ともに1929年刊)の2冊が、文学界のベストセラーになっていた時期と重なるので、大手新聞に次々と広告を出稿していた。その広告版下づくりも、彼女は手伝っている。当時の戦旗社には、中野重治Click!壺井繁治Click!、古沢元、のちの夫になる上野壮夫などが立ち寄っていたが、小林多喜二も顔を見せた。
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 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 そういうある日、小林多喜二が来たのだ。私の机すれすれの窓枠に腰をかけ、足をぶらぶらさせながら、「小坂多喜子というのは僕と同じ名前だね」と云った。小柄で、着流しの大島絣の裾からやせた足がのぞいていた。皮膚の薄い色白の顔がすぐ桜色にそまるようで、猪の省(猪野省三)と私に向って、というより主に私に向ってなにかひっきりなしにしゃべっていたが、私の覚えているのはその一言だけである。その時私が思ったことは「おしゃべりな男は嫌い」ということだった。私はその時二十一歳で、そういう若さの潔癖がそう思わせたのかも分らないが、やせて小柄な身体に似合わず、精力的な饒舌家というその時の印象は今も消えていない。(カッコ内引用者註)
  
 戦旗社出版部のドル箱作家のひとりで、プロレタリア文学のスターで象徴的な存在だった小林多喜二を前にして、「おしゃべりな男は嫌い」というのが、人を見る眼差しに予断やフィルターをかけない小坂多喜子らしい感想だ。
 その2年後の1932年(昭和7)、彼女は「プロレタリア文学」に小説『日華製粉神戸工場』を書くことになるが、そのとき「僕と同じ名前だね」といった小林多喜二の言葉がひっかかって、ペンネームを「小坂たき子」とひらがな表記にした。彼女が上野壮夫と結婚し、上落合郵便局近くのケヤキの大樹が見える借家から、出産のため一時的に池袋駅西口にある豊島師範学校Click!近くの長屋に転居し、1932年(昭和7)の秋に改めて阿佐ヶ谷の借家へ移るころのことだ。だが、阿佐ヶ谷の暮らしは1年ほどで切りあげ、彼女は夫とともに再び上落合の“なめくじ横丁”Click!へともどってくる。
 その阿佐ヶ谷時代に起きた最大の事件は、近くに家があった小林多喜二の虐殺事件だった。1933年(昭和8)2月20日の深夜、小坂多喜子と上野壮夫は突然「小林多喜二の死体が戻ってくる」という連絡を受け、真暗な道を阿佐ヶ谷駅に近い小林邸へと息せき切って走っている。1932年(昭和7)に起きた日本プロレタリア文化連盟(コップ)の弾圧で、小林多喜二は地下に潜行しているはずだった。
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 駈けつける途中、作家の若杉鳥子邸近くの道で、うしろから幌をつけた大きなクルマが、走る夫妻を追い抜いていった。警察の車両だったのだろう、多喜二の遺体が乗せられているのをふたりは直感している。夫妻は、今度はそのクルマのあとを追いかけはじめた。このとき、上野壮夫は近くの亀井勝一郎宅へ急を知らせたが、亀井が通夜の席へ顔を出すことはなかった。ちなみに、若杉鳥子もまた凶報を聞いて小林宅へ向かっていたが、途中で特高に逮捕され池袋警察署に連行されている。
 ふたりがようやく追いつくと、車両は両側に檜葉の垣根がある行き止まりの路地の突き当たりに停車しており、路地奥の左側が杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった平屋建ての小林宅だった。玄関を含めて三間ほどしかない家だが、庭に面した奥の間に小林多喜二の遺体は寝かされていた。
 そのときの小坂多喜子が受けた強い衝撃を、同書より再び引用してみよう。
  
 眼をとじた白蝋の顔はすでに死顔で、頬のあたりに斑点になった内出血のあとや首すじや手首に鮮明な輪になった黒い内出血のあとがあり、大腿部のあたりも一面真黒で、拷問による死であることが歴然としていた。剛い、豊かな髪が青白い電燈の光りで緑色に見えるほど黒々と、そこだけ生きているようで、私はいたましいというよりも恐怖で一ぱいだった。その不気味な髪の色は、その後折にふれ目に浮びあがってきて私をなやませた。その真すぐな剛い毛質が私のつれあいの髪の毛にダブって見え、私はその恐ろしい呪縛からぬけ出るのにその後十年余の年月を必要としたほど、それは強く私の脳裡に焼付いて離れなかった。
  
 小坂多喜子は葬儀の直後から、夏目漱石の弟子だった江口渙からの依頼で、小林多喜二の遺族への救援基金集めに近所の作家や画家たちの間を奔走している。吉祥寺の山本有三をはじめ、野口雨情、細田民樹、貴司山治、荻窪の細田源吉、津田青楓(画家)らが、逮捕覚悟で即座にカンパに応じてくれたようだ。
 日本の敗戦後、小坂多喜子は中央線の高円寺に住んでいるが、区役所や税務署が阿佐ヶ谷駅の近くにあるので、しばしば出かけている。彼女は同書の中で、荻窪駅や西荻窪駅、吉祥寺駅、高円寺駅などと比べ、「中央沿線で阿佐ヶ谷ほどつまらない街はないと思う」と書いている。それは、阿佐ヶ谷駅の周辺に特色のある商店街や、独特な雰囲気の街並みが見られないからだと書いているが、そればかりではないように思う。1933年(昭和8)の冬、小林多喜二の虐殺事件にいき合わせ、阿佐ヶ谷という地域全体が灰色になってしまったからではないだろうか。
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 小坂多喜子が、小林多喜二の枕もとに座りこんでまもなく、ひとりの和服姿の女性が通夜の席へ飛びこんできた。のちに下落合に住み、下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)のクララ洋裁学院Click!へ通うことになる、前年に多喜二と結婚していた妻の伊藤ふじ子Click!だった。そして、小坂多喜子と伊藤ふじ子は、その後、上落合と下落合の近所同士で何度か交流をつづけているようなのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:中央線の東中野駅とともに、小坂多喜子が上落合時代によく利用したと思われる、1935年(昭和10)すぎに撮影された西武電鉄の中井駅。
◆写真中上は、ちょうど小坂多喜子が戦旗社に勤めていた1930年(昭和5)撮影の新橋側から見た有楽町駅のガード沿い。は、1929年(昭和4)に戦旗社から出版されベストセラーになった徳永直『太陽のない街』()と小林多喜二『蟹工船』()。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸Click!を出て、中井駅へ向かう近道となる細い道筋。背後が鈴木文四郎(文史朗)邸跡で、画面の左手が古川ロッパ邸跡。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった小林多喜二邸の界隈。
◆写真下上左は、1986年(昭和61)出版の小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)。上右は、1929年(昭和4)撮影の小林多喜二。は、1933年(昭和8)2月20日深夜から翌21日未明にかけ小林多喜二の通夜に駈けつけた人々。最近、同写真のバリエーションが新たに発見されているので、次回の記事で人物とともにご紹介したい。

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