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小坂多喜子と伊藤ふじ子。 [気になる下落合]

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 小林多喜二Click!が書いた小説『党生活者』(1932年)に登場するハウスキーパー「笠原ふじ子」を、平野謙は「ふじ子」の名前が重なることから、“ウラ取り”せずにフィクションをそのまま解釈して、伊藤ふじ子Click!のことをハウスキーパーだと規定したため、戦後の長期間にわたり誤った言説がつづくことになった。
 その後、潜行した小林多喜二の周囲にいた人々の証言から、伊藤ふじ子は多喜二の正式な妻だったことが判明し、平野謙は自身の誤りを認めているようなのだが、わたしはその文章をいまだ確認していない。小林多喜二と伊藤ふじ子が初めて出逢ったのは1931年(昭和6)の早春、彼女が新宿の果物店の2階に住んでいたころ、ビラ張りを手伝っていた人々に混じって多喜二がいたという経緯からのようだ。当時、多喜二は豊多摩刑務所Click!から保釈されたばかりで、3月から大山Click!(神奈川県)の麓にある七沢温泉に逗留する直前の出来事ということになる。
 画家になりたかった伊藤ふじ子は、このころ明治大学の事務局に勤務しながら、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!プロレタリア美術学校Click!)へ通うため、目白駅から目白通りを頻繁に往来していた。画家が大勢住み、あちこちにアトリエがあった下落合地域(現・中落合/中井含む)に馴染んだのも、ちょうどこのころからだったのだろう。ほどなく、差出人に「七沢の蟹」と書かれた手紙が、伊藤貞助が経営していた新宿の書店経由で、伊藤ふじ子のもとへ頻繁にとどくようになる。もちろん「七沢の蟹」とは小林多喜二のことで、中身は求愛の手紙だった。1932年(昭和7)4月、伊藤ふじ子は多喜二と結婚して地下へもぐり、ともに潜行生活を送ることになる。
 1933年(昭和8)2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された夜、杉並町馬橋3丁目375番地に遺体が運ばれ通夜が行なわれていたとき、小坂多喜子Click!は異様な光景を目撃することになった。原泉Click!は、伊藤ふじ子が特高Click!に検挙されるのを懸念して、事前に「あんたが(小林多喜二の)女房だなどといったらどういうことになると思うの」といい含めておいたのだが、伊藤ふじ子は取り乱して夫の遺体にすがりついた。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現われたのだ。灰色っぽい長い袖の節織の防寒コートを着たその面長な堅い表情の女性は、コートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を両手に取って自分の頬にもってゆき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や毛、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。(四十年を経た現在、これを書いていて、上野壮夫にその時の印象をきくと、やはりその場に居合せた人はあっけにとられて見ていたという。) その場を押しつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらってしまった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛情の表現をするからには、多喜二にとってそれはただの人ではないということだけは分ったが、それが誰であるかは分らなかった。その場に居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないかと思う。如何に愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思われた。
  
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 小坂多喜子Click!は「愛人」だと想像したようだが、彼女は多喜二の妻だったのだ。しかも、結婚してから10ヶ月ほどしかたっていない新婚夫婦だった。小坂多喜子は、「居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないか」と書いているが、少なくとも原泉と「そっとここから消えてしまいなさい」と忠告した江口渙は、どこかでふたりの関係を耳にして知っていたのかもしれない。
 伊藤ふじ子は、多喜二の母・小林セキにも妻だと名乗って挨拶をしたようだが、澤地久枝によれば田口タキを多喜二の妻同然にあつかってきた手前、「死人に口無しだ」と彼女の申しでを突っぱねたとされている。
 小坂多喜子は『わたしの神戸わたしの青春』の中で、平野謙の「ハウスキーパー論」をそのまま踏襲して、伊藤ふじ子のことをハウスキーパーだと思いこんでいる。「イデオロギーの便宜のための、そういう女性の役目に私は釈然としないものを感じるのだ」と書いているが、その後、何度か伊藤ふじ子と偶然に出会っているにもかかわらず、多喜二の通夜の席で見せた彼女の言動を、あえて確認しようとはしなかったようだ。
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 小坂多喜子が多喜二の死後、伊藤ふじ子と偶然知り合ったのは洋裁を通じてだった。小坂多喜子が上落合2丁目829番地に住んでいたころで、伊藤ふじ子は1933年(昭和8)11月30日にクララ洋裁学院を卒業して、下落合から東京帝大セツルメントClick!の講師として通いはじめ、同時に長崎のプロレタリア美術学校に通っていたころのことだ。伊藤ふじ子は、1934年(昭和9)に特高に逮捕され、やがて森熊猛と再婚しているので、その少し前ということになるだろうか。小林多喜二の虐殺から、およそ1年ほどが経過していた。同書より、再び引用してみよう。
  
 私はその彼女とその事件のあと偶然知り合い、私の洋服を二、三枚縫って貰った。その時の彼女の話をよく覚えている。それはどこか寂しい夜道を、彼女が棒をふりふり洋裁を習いに通ったという話である。人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道を女が一人歩くのには護身用の棒が必要であったのであろう。彼女は多喜二の死のあと、自活するために洋裁を習いに通ったのであろうか。私はその彼女の芯の強さと行動力に打たれた。その時二人の間には小林多喜二の話は一言も出なかった。それからしばらくして、私たちの交際は何となく切れてしまった。
  
 文中の「人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道」とは、目白中学校Click!が練馬へ移転したあと、下落合1丁目437~456番地の旧・近衛文麿邸Click!の所有地内にあった、広大な空き地(原っぱ)のことだ。その北西側にポツンと建っていたのが、下落合1丁目437番地に移転して間もない小池元子のクララ洋裁学院Click!だった。
 つまり、小坂多喜子の聞いた言葉が誤りでなければ、目白通りから入ってすぐ(約50m)のクララ洋裁学院へ、伊藤ふじ子は目白通り側からではなく南側または東側から、広大な空き地(草原)を縦断ないしは横断して、「棒をふりふり」通っていたことになる。換言すれば、下落合で暮らした伊藤ふじ子の借家ないし下宿先は、目白中学校跡地の南側ないしは東側のどこかである可能性がきわめて高いことになるのだ。
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下落合の雪景色.JPG
 小坂多喜子が、もう少し伊藤ふじ子と親密になっていれば、謎が多い小林多喜二の地下生活について詳細な証言が得られ、また下落合での彼女の住所も判明したのではないかと思うと残念でならない。伊藤ふじ子は森熊猛との再婚後、晩年に残したわずかなメモ類や「彼は」で終わる未完の手記を除き、多喜二についてはいっさい黙して語らなかった。

◆写真上:下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)に2000年(平成12)まであった、クララ洋裁学院の跡地。当時は、突き当たりから左手一帯が広い空き地だった。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月22日の時事新報に掲載された小林多喜二の死亡記事。特高による検閲で拷問死とは書けず、「怪死」がせいいっぱいの表現だった。は、新発見の写真にとらえられた小林多喜二の遺族と通夜に駈けつけた人々。
◆写真中下は、森熊猛と再婚後の伊藤ふじ子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるクララ洋裁学院と目白中学校跡地で、広大な空き地の南東側のどこかに伊藤ふじ子の下宿ないしは借家があったとみられる。は、1928年(昭和3)ごろの冬季に撮影された目白中学校跡地Click!から目白通りの商店街を眺めたところ。
◆写真下は、クララ洋裁学院があった路地で正面を横切るのが目白通り。路地は行き止まりだが、画面右手から背後にかけてが広大な草原だった。は、下落合の森に降り積もる雪。黒い喪服がわりの洋服を身につけつづけた伊藤ふじ子にとって、1933年(昭和8)は下落合での立ち直りを賭けた、厳しく寂しい“冬物語”の1年間そのものだったろう。「限りなき孤独/ひたすらにかたむく思想/ありし日の夢も失せて/凍る冬 死の虚ろさ……」(上野壮夫『抒情』/「人民文庫」1937年6月号)より。

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