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下落合を描いた画家たち・安藤広重/二代広重。 [気になる下落合]

藤稲荷社1.JPG
 下落合の御留山Click!中腹にある藤稲荷(東山稲荷)Click!には、水垢離を行なえる滝があったというのだが、いったいどのような形状の滝で、御留山のどこにあったのかがハッキリとはつかめなかった。1836年(天保7年)に刊行された斎藤月岑の『江戸名所図会』の巻之四「天権之部」Click!を見ると、長谷川雪旦の挿画には雑司ヶ谷道Click!に面した御留山の麓、藤稲荷の鳥居の東側に、どうやら小滝のような水流が見てとれるので、おそらく茶屋などが並んだ雑司ヶ谷道に面して、高さ数メートルの落水があったのだろうと想定していた。だが、それが具体的にどのようなかたちの滝で、滝の周囲の風情がどうだったのかまでは、『江戸名所図会』の表現では抽象的すぎて不明だった。
 同書には「藤杜稲荷社」として記載されているが、その記述はそっけない。
  
 藤杜稲荷社 岡の根に傍ひてあり また東山稲荷とも称せり 霊験あらたかなりとてすこぶる参詣の徒(ともがら)多し 落合村の薬王院奉祀す
  
 また、『江戸名所図会』よりも40年ほど前の寛政年間に書かれた、金子直德の『和佳場の小図絵』でも、同稲荷社の記述はわずかだ。
  
 東山稲荷大明神 俗に藤のいなりと云(いう) 大藤ありしが 今は若木あり 別当落合村真言宗薬王院と云
  
 おそらく『江戸名所図会』の斎藤月岑は、大江戸(おえど)Click!西北の資料である金子直德の『和佳場の小図絵』を参照しているとみられるが、滝の記述はどこにも表れない。同書に金子直德が添付した絵図「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」には、藤稲荷は「東山稲荷」として採取されているが、滝の表現はまったく見られない。
 また、金子直德が描いた画文集『若葉抄』の「東山藤稲荷社」にも、滝はどこにも採取されていない。幕末に作成された、堀江家文書のひとつである「下落合村絵図」には、下落合氷川社の北側(実際は北東側)に「藤稲荷」が描かれているが、こちらも滝の表現はない。だが、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』には、金子直德のみの著作ばかりでなく多種多様な資料を参照しているのだろう、藤稲荷社の滝が登場している。
 同書は、著者が実際に訪れた当時の情景(戦後の1950年代)と、江戸後期の情景描写があちこちで混在しているとみられるが、藤稲荷について少し長めに引用してみよう。
  
 落合氷川神社の東北の高地の麓に碑を建て、それに東山正一位稲荷大明神と彫り付けてある。つまさきのぼりに四、五十段の石段を登ると、頂上に宮社及び庵室がある。麓には瀧があり、水垢離場があり、社の北には縁結びの榎という神木がある。また大藤があってことに名高い。東南一面の耕地を展望して、風色見事である。春は花・時鳥によく、夏は蛍一面に飛びかう有様は、まことに奇観である。秋は紅葉、冬は雪、ことに仲春、紫雲草(れんげそう)の一面に咲きむれているのは、毛氈を敷いたようで、まことに雅景というほかない。/当稲荷社は、王子稲荷よりも年暦が古く、むかし六孫王源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天(だきにてん)の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。什物には、正宗の太刀一振があった。(中略) さらに水垢離場の崖には石の小天狗が据え付けられてある。寛延三年の作である。また外(ほか)に不動尊の石像もある。これには寛延五年刻とある。
  
金子直德「和佳場の小図絵」.jpg
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金子直德「若葉抄」東山藤稲荷社.jpg
 雑司ヶ谷の海老澤了之介は、下落合の事情にうとかったのか目白崖線につづく丘の地元の“山名”を記していない。ここに登場する「高地」は御留山のことであり、藤稲荷社の本殿があったのは「頂上」ではなくて中腹だった。御留山のピークは、藤稲荷の境内からさらに50mほど山道を西へ登ったあたりだ。
 また、「神社(じんじゃ)」Click!は明治以降の薩長政府教部省が規定した呼称だし、「東山正一位稲荷大明神」の石碑は戦後に建立されたものだ。さらに、寛延年間は4年までで「五年」は存在しない。単に「寛延四年」の誤写か、あるいは不動明王は寛延4年に彫刻されたが奉納は翌年に予定されていた可能性もある。寛延4年は10月27日までで、以降は「宝暦」と改元されている。
 御留山の西つづきの大倉山(権兵衛山)Click!と同様に、御留山にも神木があったのがわかる。大倉山の神木は樫の木Click!だったが、御留山の神木は榎だったらしい。板橋の大六天Click!にある「縁切り榎」Click!は昔から有名だが、下落合には「縁結び榎」があったのだ。この神木の伝承が現代までつづき榎が残っていたら、藤稲荷社は下落合の思わぬ観光名所(いまならパワースポット)になっていたかもしれない。
 御留山山麓の蛍狩りClick!や、三代豊国・二代広重の「書画五十三次・江戸自慢三十六興」第30景『落合ほたる』Click!について、あるいは奉納されたとみられる「正宗の太刀」Click!についてはすでに記事にしているので繰り返さない。
 由来が不明なほど古い藤稲荷社には、ヒンドゥー教に由来する陀祇尼天(荼吉尼天)が奉られているというが、もちろん後世(室町期以降)によるものだろう。「源経基の勧請といわれ」る伝承が残っているようだが、わたしはこれも後世の付会(後付け)由来ではないかと強く疑っている。山には深い雑木林が拡がり、御留山からは各所で水量が豊富な泉水が噴出し、平川Click!(旧・神田上水→現・神田川)に向け急峻なバッケ(崖地)Click!が連なる地形から、由来が不明な藤稲荷は朝鮮半島から畿内へと持ちこまれた農業の神「稲荷神」などではなく、周囲の考古学的な発掘成果や旧蹟・地名・川(沢)名などから、もちろん古代の大鍛冶=タタラの神「鋳成神」Click!が、室町期ないしは江戸期に転化して稲荷社になっているのではないかと想定している。
 なぜなら、藤稲荷社に奉納されていたのが真贋の課題はともかく、目白=鋼の代表的な作品である刀剣(「正宗」の太刀)である点に留意したい。また、藤稲荷から西へ1,000m余のつづき斜面から戦時中、改正道路(山手通り)Click!の工事現場でタタラ遺跡をしめす鐡液Click!(=金糞/かなぐそ)、すなわちスラグが少なからず出土しているからだ。
藤稲荷1955_1.jpg
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広重「絵本江戸土産」藤稲荷.jpg
 さて、なかなか見つからなかった藤稲荷の水垢離場にあった滝の図絵だが、ようやくその全貌を描いた作品を見つけることができた。よく地域史料や歴史資料に引用される、地域の風景を描いた浮世絵や『江戸名所図会』などからいったん離れ、江戸へ物見遊山にやってきた見物客向けに土産物として売られていた冊子(観光ガイド)類を参照したら、藤稲荷の滝が描かれていたのだ。安藤広重Click!と二代広重が描いた『絵本江戸土産』の第9編に、藤稲荷の滝が大きくフューチャーされている。
 同書の全10編が、日本橋馬喰町の金幸堂からひと揃いで出版されたのは1864年(元治元)のことだが、安藤広重は1858年(安政5)にすでに死去している。第7編までが安藤広重が描き、それ以降は二代広重が描いたとされているが、モチーフとなった場所へ師と弟子が連れ立ってスケッチに出かけているのは、それ以前からスタートしていたかもしれない。同書の藤稲荷のページから、添えられた文を引用してみよう。
  
 藤稲荷に瀧あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ
  
 これを読むと、少なくとも二代広重は夏場に藤稲荷へと出かけ、水垢離場に入って実際に流れ落ちる滝に打たれてみたのかもしれない。だが師弟が連れ立ち、それ以前に下落合をスケッチしているとすれば、ふたりで滝の下までいって冷たい湧水のしぶきを浴びている可能性もある。ただし、安藤広重はそのころ60歳近い年齢だったから、実際に現場へ赴いたとしても「冷気肌を徹して」は体調が悪くなるので、「鎮平、おまえ浴びてこい」「師匠、もう10月ですぜ。勘弁してくださいよう」「よし。じゃ、わたしがいく」「師匠がいくなら、しゃあねえな、わたしもご一緒しますがね」「どうぞどうぞ」「……オレは上島か!」と、二代広重に任せただろうか。
 絵を細かく観察すると、不動明王の石像下には湧水を落とす龍の口が設置されているのが見える。おそらく銅製の龍の口だろうが、滝の正面から見て流水を剣に見立てた、刀剣の彫り物に多く縁起のよい「剣呑み龍」、つまり不動明王の化身として象徴させたものだ。海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』に登場している石像の「小天狗」は、滝の右手に設置されていたものか描かれていない。
 手前の雑司ヶ谷道沿いには、“お休み処”とみられる式台や屋根に板か簾を拭いた茶屋が並んでいるのは、『江戸名所図会』などの情景と同じだ。このような仕様の茶屋は、1909年(明治42)10月発行の『東京近郊名所図会』Click!によれば明治末まで残っており、東京郊外を散策する観光客や、近衛騎兵連隊Click!演習兵士Click!を相手に休憩所として商売をしていたとみられる。下落合には、明治末に3ヶ所の茶屋が記録されており、2ヶ所は下落合4丁目(現・中井2丁目)の小上(蘭塔坂Click!上)だが、もう1ヶ所は藤稲荷からもう少し西へ歩いた下落合氷川明神社Click!近くの本村にあった。
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豊多摩郡落合村1911.jpg
藤稲荷社2.JPG
 広重の『絵本江戸土産』には、下落合の藤稲荷だけでなく落合周辺に散在する名所が、あまり引用される機会もなく、めずらしい構図で描かれている画面が少なくない。機会があれば、高田村や戸塚村、雑司ヶ谷村、小石川村などの情景を改めてご紹介したい。

◆写真上:急峻な崖地がつづく、御留山の中腹にある藤稲荷社の現状。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』に添えられた「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」より。田島橋の犀ヶ淵Click!まで採取されているのに、藤稲荷(東山稲荷)の滝が描かれていない。は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』に採取された藤稲荷の滝。は、金子直德『若葉抄』に著者が描いた藤稲荷だが滝が見えない。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された荒廃が進んだ藤稲荷の境内。は、広重『絵本江戸土産』に描かれた藤稲荷の水垢離場。
◆写真下は、広重『絵本江戸土産』に描かれた滝の拡大。は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村図」をもとに各画面の描画方向を書き入れたもの。ただし、いずれも鳥瞰図のため視点が高い。は、藤稲荷の滝があったあたりの現状。1940年(昭和15)からスタートした第一徴兵保険(のち東邦生命)の宅地開発Click!で、御留山の西南部が崩され道路(おとめ坂)が敷設されている。また、戦後は大蔵省の官舎建設のために、御留山東側の深い谷戸Click!も地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋められた。

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