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大隈重信邸門前の妖怪「枕返し」。 [気になるエトセトラ]

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 So-netブログのドメイン変更にともない、FacebookなどSNSとの連携やカウントがすべての記事でゼロにもどり、外部からのリンクも、昨年のSSL設定時と同様無効になった……と思いきや、今回はリダイレクトできるではないか。これは外部サイトを修正する、膨大な手間ヒマをかけずに済んだかもと思っているが、油断は大敵。リダイレクトがいつまで有効か不明だし、今回のWebサーバはSSL未対応なので、ほどなく再対応などといだしかねない。メンテ作業がチームとして対応できるならまだしも、わたしひとりのメンテでは2,300記事ほどもあるので、そろそろ限界なのだが……。
  
 親父のアルバムを整理していたら、戦災で焼ける直前に撮影された大隈重信邸の写真が出てきた。早稲田第一高等学院Click!の制服を着た親父たちが前面に写り、背後には瓦職人が屋根を修繕している大隈重信邸がとらえられている。ゲートルを巻いた高校生たちの様子から、1944年(昭和19)ごろの撮影だとみられる。(冒頭写真)
 ほかにも、同高等学院(大学教養課程)から早稲田大学理工学部へ進学予定の、学徒出陣Click!からまぬがれたクラスメイトたちとともに写る、大隈講堂Click!の写真も残っていた。大隈講堂の背後には、当時はいまだ現役で使われていた焼却炉の煙突がとらえられている。親父たちはこのあと、高等学院の授業が停止されて勤労動員に駆りだされ、実際に卒業試験が実施され大学へと進学(復学)できるのは、敗戦後の1947年(昭和22)4月以降のことになる。大隈講堂はともかく、戸塚町下戸塚稲荷前68~108番地(現・新宿区戸塚町1丁目)にあった大隈邸とその庭園の写真は、戦災で焼けてしまったので貴重だ。
 いつかの記事でも取り上げたが、明治中期の大隈庭園で確認できる瓢箪型の突起(築山にされていたと思われる)や、いくつかの円形あるいは楕円形の丘が気になる。これらは、戸塚(十塚Click!)の地名由来となった富塚古墳Click!や、百八塚Click!の伝承に連なる古墳の墳丘ではないかと疑われるからだ。大正初期に書かれた大隈邸の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)から、一部を引用してみよう。
  
 大隈伯爵邸 下戸塚の東隅にあり、牛込区早稲田鶴巻町に接するを以て、俗間には早稲田の大隈邸を通称す、同邸はもと高松藩主松平頼聰の別邸なりしが、明治六年以後松本病院、英学校等の敷地となり、同十七年始めて伯の所有に帰せり、其の庭園は慈善会若くは公共団体の集会等には何人にも随意に之を使用せしむ、(中略) 此処より庭園に入る路と菜園に入る路とに岐る、即ち庭園に入れば左方小丘の上に一宇の神祠あり、神祠の下に数寄屋あり、其の稍々前方なる小丘には老檜三株聳立し、樹下に大理石の平盤を置く、一隅に桜樹ありて露仏を安置し、一隅に古松ありて石燈籠を配す、此の丘と相並べる一丘は悉く松林にして渠流を隔てゝ桜楓の林と対す、渠水々潺々丘を遶りて流る、前方芝生の画くる処に邸舘あり、(後略)
  
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 大隈邸の敷地にあった「松本病院」とは、幕府の御殿医だった松本順Click!(松本良順)の病院のことだ。松本順は、日本初の海水浴場Click!大磯Click!に開設した人物として湘南海岸ではつとに有名だが、大磯のこゆるぎの浜Click!に面して建つ藩主筋の鍋島直太郎邸と陸奥宗光邸にはさまれた大隈重信の別邸Click!(現存)も、松本がなんらかの関与をしている可能性がある。子どものころ、親に連れられて大磯の旧・東海道沿いの松並木を散歩するたび、親父が「ここが大隈重信の別荘だ」と指さしていたのを思いだす。もうひとつの「英学校」は、松本病院に隣接して建てられていた「明治義塾」のことだ。やはり明治初期に、山東直砥が開設した英語を学ぶ学校だった。
 また、庭園の小丘の上には「神祠」が建立されていたり、「露仏」が安置されているのが興味深い。もちろん、これらの史蹟は大隈家が配置したものではなく、もともとそこにあった小丘に建立されていたものを、そのまま庭園の風情に取り入れているとみられる。ちょうど、華頂宮邸の庭に残された亀塚Click!や、松平摂津守の下屋敷にあった津ノ守山=新宿角筈古墳(仮)Click!、水戸徳川家上屋敷(後楽園)に残された後楽園古墳、駒込にあった土井子爵邸の祠が奉られた稲荷古墳などと同様のケースだ。「神祠」は、かなり歴史のある石祠を感じさせるし、「露仏」は室町期に百八塚を供養したと伝えられ、大隈邸のすぐ南にある宝泉寺にもゆかりが深い僧・昌蓮Click!の仕事を連想させる。
 さて、大隈邸の門前に位置し、昌蓮の百八塚の伝承が色濃く残る宝泉寺に、面白い妖怪譚が伝えられているのでご紹介したい。宝泉寺の境内には、江戸末期まで毘沙門堂が建立されていたが、おそらく明治政府の廃仏毀釈で寺が困窮した際、境内を切り売りしたのか毘沙門山とともに現在は残されていない。当初は4,540坪あった境内が、大正期には700坪ほどに縮小されている。
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 その毘沙門堂に宿泊した人々は、翌朝になるとみな驚愕することになる。自身が就寝していた場所から、布団や枕とともにとんでもない位置にまで身体が移動しているからだ。再び、『豊多摩郡誌』より引用してみよう。
  
 毘沙門堂の怪談 維新の頃まで大字下戸塚宝泉寺旧境内に毘沙門堂ありたり、其の地今は石黒邸内に入れり、旧時の堂は丹塗りにして左まで大なる建物にあらざりしも、妖怪ありて、堂内に宿泊するときは、寝入れる間に其の人の位置変ぜらるゝが例なりしよし、村の若人等そは不可思議なる事よとて、再三試みたるに、皆な夢の間に枕の向きを変へられ、孰れも怪み怖れて再び試みんものもなかりしよし。
  
 戸塚村の村民は、そろいもそろって寝相が悪かったのでないとすれば、明らかに妖怪「反枕(枕返し)」のしわざだと思われるが、同様の妖怪譚あるいは類似の伝承を近辺では聞かないので、宝泉寺の毘沙門堂だけに出現していたものの怪だろうか。
 枕返しの怪談は、関東地方や東北地方ではよく耳にするが、その正体はどの地方でもいまいちハッキリしない。東北では、枕返し=座敷童(ざしきわらし)とされている地域も多いようだ。また、その部屋で死んだ亡霊のしわざとか、実は化け猫Click!が真夜中に悪さをしているのだとか、人をたぶらかす狐狸のしわざだとか、各地にはさまざまな説があって一定しない。その姿も、子どもや坊主、怖ろしい幽霊、鬼、化け猫、はては美女にいたるまで多種多様だ。ちなみに、北陸地方に伝わる美女の枕返しは、その姿を目にしたとたんに死ぬといわれているおっかない妖怪だ。
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画図百鬼夜行「反枕(まくらかえし)」1776.jpg
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 晩年に早稲田大学で教鞭をとっていた小泉八雲Click!だが、宝泉寺の毘沙門堂怪談を耳にしていたら、さっそく同寺に取材を申しこんでノートに記録していただろうか。あるいは、大隈重信は肥前(佐賀)の鍋島藩の元藩士なので、「鍋島屋敷ノ化ケ猫Click!騒動ッテ、マジデスカ?」と総長室に突撃取材を試みていたかもしれない。w

◆写真上:1944年(昭和19)に撮影されたとみられる、下戸塚の大隈重信邸と大隈庭園。
◆写真中上は、1917年(大正6)の写真に人着がほどこされた大隈邸。は、冒頭写真と同じく1944年(昭和19)に撮影された大隈講堂。は、1886年(明治19)の1/5,000地形図にみる大隈邸。庭園のあちこちに、気になる突起が採取されている。
◆写真中下は、1909年(明治36)に撮影された大隈庭園で、北側の小丘の上から撮影されたとみられる。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる大隈邸と宝泉寺。は、大磯のこゆるぎの浜にある大隈重信別邸。
◆写真下上左は、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)。上右は、1776年(安永5)に出版された『画図百鬼夜行』(前編/陰の巻)。は、同書に収録された「反枕(まくらがえし)」。は、現在の宝泉寺境内で左手のビルは早大法学部8号館。

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