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大正期の「目白」情報が満載の『我が住む町』。 [気になるエトセトラ]

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 ちょっとこれまで類例がない、面白い資料を古書店で見つけた。1925年(大正14)に卒業を目前にした自由学園高等科の女学生たちが中心になってまとめ、自由学園Click!羽仁もと子Click!が同年5月に出版した『我が住む町』という詳細なレポートだ。ここでいう「町」とは東京府北豊島郡高田町で、現在の目白、雑司が谷、高田、西池袋、そして南池袋の地域一帯のことだ。
 当時の住所表記では、高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)に開校していた自由学園の高等科女学生たちは、自分が住んでいる高田町、あるいは通学する学校のある高田町がどのような町勢なのかを知るために、多種多様なリサーチを試みている。彼女たちの取り組みに対する主旨や考え方を、同書の「私共の卒業制作について」から少し長いが引用してみよう。
  
 一人一人の独立的な生活の外に、私共は団体を通して自己を生かすことを学ばなくてはならない。この二つの生活が一つになつて、はじめて本当の自由と独立がかち得られるといふのが、私共の日頃の勉強の最も重要な部分の一つになつてゐるものですから、卒業に際しても、各個人的にめいめいの収穫について考へたり、発表したりする外に、組全体の力を以て何か一つの創作を試みることは、前からの例にもなつて居ります。(中略) これから私共が社会事業をするにしても、何の仕事をするにしても、先づめいめいの住んでゐる町村の状態を明かに知ることから始めなければならないし、近き将来に於て必ず与へられなくてはならない女子の参政権も、私たちが各々住む町村の事情に通じ、その幸福と改善を希ふ心の深くあることによつて、はじめて十分に行使されることが出来るものだと思ひましたから、この学園の所在地である高田町、そしてはじめての私共には、丁度面積も手頃な高田町を知るための仕事をすることがよいことだと思ひ、それがまた少しでも高田町の進歩のために益する所があつたなら幸ひだと、段々皆が熱心になつて来ました。さうしてその結果いよいよクラスが一団となつてその事に当らうと決心しました。
  
 さすが、女子の主体性を重んじる自由学園ならではの“宣言文”だ。最初は、卒業する「クラスが一団」となって行う調査のはずだったが、プロジェクトが大規模化するにつれ自由学園の全校生徒が、このリサーチに参画するようになっていく。上記の主旨をまとめたのは、1925年(大正14)3月に卒業する高等科第3回卒業生の女学生たちで、プロジェクトの中心となったのは22名のメンバーだった。
 1925年(大正14)の時点で、高田町の戸数は7,322戸、世帯数は7,870世帯、人口は35,653人とされていたが、なんと彼女たちはそれらの全戸調査を試みているのだ。一般の住宅(華族の屋敷から貧乏長屋まで)はもちろん、目白通りや雑司ヶ谷鬼子母神の表参道に開店していた商店、工場地帯、乳牛を飼う牧場、学校など、およそ人が住むすべての場所を調査している。
 しかし、7,870戸といわれた世帯のうち、調査票を手にした女学生たちの顔を見たとたん、「帰(けえ)れ、帰れ! ここは、お前らのくるとこじゃねえや!」と追い返された家や、何度訪れても不在の住宅が246戸もあったため、実際に調査ができた家は差し引き7,076戸だった。この調査で、7,870世帯といわれていた世帯数が、調査の範囲内だけで実際には8,144世帯だったのがわかり、人口も35,653人と行政にカウントされていたものが、36,760人に増加していることが判明した。関東大震災Click!から1年半しかたっておらず、高田町の人口が急増するまっただ中で、彼女たちはリサーチを実施している。1世帯あたりの住民は、同時点で約4.5人ということになる。
 また、当時の町内にあった工場を95ヶ所、学校を11校、いずれかの工場ないしは学校の寄宿舎15ヶ所もすべて調べており、その敷地内に建つ人が住める施設も含めると、300戸弱の空き家があったと報告されている。
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 これらのリサーチについては、自由学園に専門分野の教授がいなかったため、彼女たちは早稲田大学の教授だった安部磯雄Click!を訪ね、社会調査の方法論について詳しく学んでいる。安部磯雄は、同じ高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいたので、同じ町内ということで訪問しやすかったのだろう。安部磯雄は彼女たちの来訪について、同書の「序」の中で次のように書きとめている。
  
 今度自由学園を卒業する人々が卒業記念として其所在地たる高田町のために何かを遺して置きたいといふことから、此一区域内に於ける貧乏状態、衛生状態等に関する調査を行ふことになつた。貧乏状態の調査は主として本年卒業すべき人々により行はれたのであるが、衛生状態の方は生徒全部の協力によりて行はれた。調査者が若い婦人であつゝたためでもあらうが、町民が余り厭な顔もしないで其質問に答へて呉れたのは有り難かつた。(中略) さて戸別訪問をやつて材料を得ることになると、中々容易なことではない。自由学園の学生であればこそ此難事業も予期以上の成績を見ることが出来たのであるが、これを他の方法によりて遂行することは殆んど不可能のことではなかつたかと思ふ。これによりても自由学園の教育に一大特色のあること窺ひ知る事が出来る。
  
 安部磯雄のいう「貧乏状態」の調査とは、ロンドンに住んでいた実業家のチャールズ・ブースという人物が、1891年(明治24)に行った社会科学的な調査手法のことを指している。ブースは、ロンドンで生活するのに必要な最低の費用を算出し、この水準に「貧乏の水平線」と名づけた。食費の指標はエンゲル係数だが、食費も含めた生活費すべての最低ラインを「貧乏の水平線」と呼んだわけだ。
 のちに通称「貧乏線」と呼ばれるようになる同指標だが、ロンドン市では人口の約30%強が貧困状態に置かれていたことが判明している。また、同時期にラウントリーという人物がヨーク市で実施した同じ調査では、「貧乏線」以下で生活している人々が全人口の27.8%に及ぶことが明らかになっている。
 1925年(大正14)の高田町の場合、この「貧乏線」を想定するにあたり、1軒の家にひとりで住むときに必要な最低費用を25円/月としている。また、生活にかかる費用を70歳以上と8歳未満に限り半人分と計算し、家内に人数が増えるのに応じ逆進計算を用いて、家に1.5人が住めば最低費用は30円/月、2人の場合は35円/月、2.5人のときは40円/月、3人は45円/月……というような指標を設定した。
 また、安部磯雄は「貧乏状態」と「衛生状態」の調査と書いているが、彼女たちの調査はそれだけにとどまらなかった。高田町の商業現場を訪ね歩き、多種多様な商店や売店における仕入れの流通経路や原価率と利益率、季節ごとの売上高、季節ごとの売れ筋商品、おもな顧客層などを詳細にインタビューしてレポーティングする、今日のリテールリサーチのようなことも実施していたのだ。
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 自由学園の女学生たちは、同校の「自由と独立」の理念を胸に勇気をふりしぼって、どのような住宅や商店、町工場でも臆さずに訪問している。高田町に大屋敷をかまえる華族から、誰が住んでいるか得体の知れない貧乏長屋まで突撃取材を行い、ときには叩きだされ、ときにはお茶やお菓子、昼食をご馳走になりながら、調査を全町内へと拡大していった。ここでいう「大屋敷」とは、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(のち42番地/現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!(現・徳川邸Click!)だったとみられるが、執事や書生など誰かの手で早々に追い払われているようだ。
 『我が住む町』の「高田町の概観」から、再び引用してみよう。
  
 (高田町の)住民を、私たちの調査した職業から見てみると、表にもある通り総数七二八九(七千七十六戸の他、副業として小売店を出してゐるものと、工場をふくむ)の中、大小の店を出しているものは二七九〇。所謂しもたや四四〇四で、その中勤人―大臣もあれば小学校の小使いさんもあり、官公吏、教師、会社員などさうした勤人は二一一四、其他として芸術家、地主、家主、及び職人、職工、人夫等の労働者を一纏にしたのが一五九一、その上九五の工場がある。即ち高田町の住民は勤人、其他、小売商と三分することが出来る。さうしてその大多数は中流階級に属する。勤人の中にも教師をしてゐる人が多かつたのをみても、知識階級の人が多く住んでゐることが分つた。/又学生世帯が一〇六あつたり、無職が五七一あつたりしたのは、附近に学校の多いこと、恩給生活又は多少の資産によつて生活してゐるものが可なりあるといふことを語つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 卒業を控えた女学生をはじめ、まだ幼い面影が残る生徒たちが訪ねた住宅や商店、工場などのインタビューの様子が、同書の後半で詳しくレポートされているが、当時の高田町界隈(現在の目白地域)の様子が活きいきと、手にとるようにわかって非常に興味深い。どうせなら、南隣りに位置する落合町の全戸調査もやってほしかったのだが、自由学園の卒業生によるこのような制作やプロジェクトは、毎年行われていたようなので、ほかにどのような卒業生による成果物があったのか興味津々だ。
 商店や工場などへのインタビューで、おかしかったことや怖い目にあったエピソードなど、彼女たちは歯に衣を着せず自主規制もせずに学園名のとおり、ありのまま自由に書いているので、『我が住む町』は行政資料以上に貴重な高田町を知る第一級資料でありルポルタージュとなっている。機会があれば、「貧乏線」や「衛生調査」ともども、それらの訪問記をぜひシリーズ化して書いてみたい。
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 ちなみに、普通選挙法が施行された1925年(大正14)の同書には、「近き将来に於て必ず与へられなくてはならない女子の参政権」と書いてあるが、彼女たちが初めて選挙で投票できたのは、それから21年後、1946年(昭和21年)4月の敗戦後のことだった。

◆写真上F.L.ライトClick!が1921年(大正10)に設計した、自由学園(明日館)の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)5月に出版された第3回卒業生の制作プロジェクトによる『我が住む町』の表紙()と奥付()。は、開校から間もない時期の自由学園キャンパス。は、高田町を6つのブロックに分けて調査したエリア図。
◆写真中下は、自由学園の実習「壁画制作」。は、1927年(昭和2)に遠藤新Click!が設計した自由学園講堂。は、カラーで表現されている高田町民の職業別表。
◆写真下は、芝庭(旧・校庭)から眺めた自由学園明日館の現状。は、女中に依存しない自由学園の実習「洗濯」。は、校舎内でのランチの様子。

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