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「だらだら長者」埋蔵金の後日譚。 [気になる神田川]

津久戸明神門前町.JPG
 新年、あけましておめでとうございます。本年も「落合道人」サイトを、どうぞよろしくお願いいたします。さて、お正月は、おめでたい新宿区に眠る「お宝」物語から。
  
 少し前に、江戸東京に残る「長者」伝説のひとつとして、牛込の筑土八幡町から牛込白銀町にかけて伝わる「だらだら長者」Click!についてご紹介した。だらだら長者こと生井屋久太郎は、なにがきっかけで町奉行所の与力・鈴木藤吉郎と組んで、御蔵米の買い占めに手を出したのかは不明だが、それで儲けた莫大な財産を屋敷とその周辺域に埋蔵したという伝承は、「宝さがし」のエピソードとともに昭和期まで伝わっている。気になるので、その後のエピソードを含めてご紹介したい。
 江戸期が終わるまでに発見されたカネは、奉行所の家宅捜査で手文庫から見つかった200両+埋蔵金を隠した場所とみられる絵図と、久太郎の屋敷から道をはさんだ屋敷へと通じる地下トンネルから発見された1,200両を合わせても、わずか1,400両にすぎない。事件当初から、御蔵米の買い占めで得た暴利は3万~5万両では足りないといわれており、残りをどこに隠したのかが周辺住民ばかりでなく、多くの江戸市民の話題をさらった。そのゆくえを唯一知るかもしれない、与力・鈴木藤吉郎の妾で久太郎の娘といわれている於今(おいま)は、事件が発覚すると同時に姿をくらましている。
 明治期に入ると、お今がらみの人物が「宝さがし」のために、会津から筑土八幡社界隈へとやってくる。江戸を離れたお今は、諸国を転々としたのち会津へと逃れ、明治に入ると田島半兵衛という男と親しくなって所帯をもった。田島半兵衛は、会津にいた当時から周辺の「宝さがし」をしており、室町末期、伊達正宗に敗れた蘆名義広が常陸の江戸ヶ崎へ逃れる際、猪苗代湖の湖底に沈めたといわれる財宝探しにかかわっていた。地下への埋蔵金ばかりでなく、全国には湖底あるいは池底へ隠した財宝伝説が散在しており、猪苗代湖のケースもそのひとつだ。東京では、太田道灌に敗れた豊島氏が滅亡する際、石神井の三宝池へ金銀財宝を沈めたという伝説が、もっとも知られているだろうか。
 会津で田島半兵衛と暮らしていたお今は、小さな飲み屋「古奈家」を経営していたが、特に店が繁盛しなくても困窮することがなく、彼にはそれが少し不思議だったようだ。田島には、江戸にいたころは“与力の妻”だったというふれこみで接しており、彼はそれなりの蓄えがあるのではないかと想像していた。猪苗代湖で「宝さがし」をする田島は、お今がふと漏らした「水の中のものまで探さないでも、おかにだってまだ沢山あるさ」という言葉を記憶している。お今は、1884年(明治17)12月に病死している。
 お今は、臨終の床でだらだら長者に関する一部始終と、御守り袋に入れて肌身離さずにもっていた絵図を取りだし、田島半兵衛にあとを託して死んだ。このとき、お今がもっていた埋蔵場所の絵図は、だらだら長者屋敷の手文庫から見つかった絵図と、同一のものか異なるものかがハッキリしない。もし、お今が保管していた絵図がホンモノだとすれば、手文庫に残された絵図はフェイクの可能性がある。お今は、だらだら長者こと久太郎の娘だという説が正しければ、手文庫からホンモノの絵図を抜きとり、代わりにニセの絵図を入れておくこともたやすくできたにちがいない。
江戸名所図会築土八幡社.jpg
津久戸明神と築土八幡.jpg
築土八幡.JPG
 お今が死んだとき、田島がだらだら長者の埋蔵金話を信じたのは、いまだ2,000円もの大金が家の中に残されていたからだろう。明治初期の2,000円といえば、現在の貨幣価値に換算すると1,500万~2,000万円ぐらいにはなるだろうか。そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された角田喜久雄『東京埋蔵金考』から引用してみよう。
  
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたというのである。埋蔵場所は二ヵ所に分れていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。そして、その屋敷内の方の埋蔵は、必ず長者自身の手で行われたので、お今も位置は知らないが、から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。権の名前は権兵衛とか権太郎とかいうのだろうが、お今も知らない。/権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので、一度秘密の通路から長者の寝室へ忍んで来たのをお今も見たことがある。その態度から見て、おそらく兄弟ではあるまいかと思える。長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。
  
白銀公園(中山備後守上屋敷).jpg
築土八幡社1947.jpg
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 これほど微に入り細に入り、筑土八幡社裏にあった久太郎=だらだら長者屋敷の様子がわかっていながら、田島半兵衛は東京にきて間もなく、「宝さがし」ができなくなった。銭湯帰りの女性を襲った、婦女暴行容疑で警察から手配され、東京にいられなくなったからだ。以上の話は、だらだら長者の「宝さがし」仲間からの取材による経緯ということになっている。したがって、どこまでが事実でどこからが付会や尾ヒレなのかハッキリしないが、田島がわざわざ会津からやってきたこと、そこにお今という女性がいたことだけは、どうやら事実らしい。
 さて、その後も、だらだら長者の絵図なるものを手に、筑土八幡社界隈を訪ね歩く人々が新聞ダネになっているが、その絵図が久太郎屋敷の手文庫から出たものか、田島半兵衛がお今からいまわの際に譲り受けたものか、はたまたまったく別の絵図なのかは不明のままだ。絵図を手に、現在の筑土八幡町や白銀町を訪れたいくつかの「宝さがし」チームは、しばらく付近を捜索したあと、あきらめては引き上げていったらしい。
 なぜなら、筑土八幡社の周囲は、明治も後期になると再開発が進み、だらだら長者の屋敷がどこにあったかさえ、地元の人間にも不確かになっていたからだ。傾斜地やバッケ(崖地)Click!は、ひな壇状に宅地造成が行われ、万昌院の広い境内もなくなり新しい道路が敷設された。昭和に入ってからも、「宝さがし」はつづいていたようだが、ついに埋蔵金発見の報道が流れることはなかった。
角田喜久雄「東京埋蔵金考」1962.jpg 神楽坂邸宅(万昌院跡).jpg
三宝池.JPG
 唯一、戦時中に付近の住民が防空壕を掘っていたところ、生井屋久太郎の家紋「橘紋」が入った鉄瓶を掘り当ててニュースになったことがあった。その住民の家が建っていた場所こそが、だらだら長者の屋敷跡だと騒ぎになったが、戦争末期の混乱時だったために「宝さがし」が行われないまま、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で付近一帯は焼け野原になっている。現在なら、金属探知機を使って地中を探ることもできるだろうが、住宅が密集していて実質的にはまったく不可能だろう。

◆写真上:数年前の道路建設で、消えてしまった津久戸明神社の門前町の一画。
◆写真中上は、長谷川雪旦の挿画で『江戸名所図会』に描かれた津久戸明神社と筑土八幡社の界隈。は、明治時代の撮影と思われる津久戸明神社(左)と筑土八幡社(右)。は、筑土八幡社の階段(きざはし)から眺めた急斜面下の現状。
◆写真中下は、中山備後守上屋敷跡にある白銀公園。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる津久戸明神社と筑土八幡社の焼け跡。は、社裏につづくバッケの擁壁。
◆写真下上左は、1980年(昭和55)に出版された中公文庫版の角田喜久雄『東京埋蔵金考』。上右は、万昌院の境内跡に建設されたモダンな近代住宅だが解体されて現存しない。は、豊島氏の滅亡時に財宝が沈められた伝説が残る石神井公園の三宝池。

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三昧と「弥勒浄土」思想が重なる古墳域。 [気になる神田川]

正見寺.JPG
 東京メトロ東西線を落合駅で下り、上落合から上高田を抜ける早稲田通り(旧・昭和通り)を西へ200mほど歩くと、ほどなく寺町が出現する。もっとも東寄りにある正見寺は以前、大江戸の稀代のアイドル・笠森お仙Click!の墓所として紹介していた。
 正見寺から西へ青原寺、高徳寺、龍興寺、松源寺、宗清寺、保善寺、天徳院とつづく寺々の境内には、朱楽菅公や新井白石(ちなみに『折りたく柴の記』は高徳寺で執筆された)、河竹黙阿弥Click!、水野忠徳、新見正興など歴史本でよく目にする人々が眠りについている。ただし、これらの寺院は明治末から大正初期にかけ、江戸東京の(城)下町Click!から上高田地域へ移転してきたもので、もともと同地で建立された縁起ではない。
 街道沿いにつづく寺町について、1982年(昭和57)出版の『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)より、中村倭武『私の歩んだ道と上高田』から引用してみよう。
  
 まず一番東にある正見寺。ここには江戸第一の美人といわれた、笠森お仙の墓がある。上野谷中の「笠森稲荷」の水茶屋鍵屋五郎兵衛の娘で、のち幕府のお庭番、倉地家に嫁して円満な家庭を作り、武家の妻として九人の子供を育て、文政十年正月二十九日、七十九歳で死した。/源通寺には、近世の大劇作家・河竹黙阿弥の墓がある。/次の西隣りには、江戸時代の儒学者・新井白石の墓がある。墓石は低い石棚で囲まれ、夫人の墓と並んでいる。(中略) 西隣りに龍興寺がある。当時には、徳川秀忠、家綱、綱吉、柳沢吉保、吉保の側室・橘染子などの書が残っている。境内には、染子の墓がある。(中略) 天徳院は、一番西の寺である。墓地には、浅野内匠頭が、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に刃傷におよんだ際、内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛の墓がある。
  
 吉良義央Click!の墓所である功運寺と、松ノ廊下で殺人を防いだ旗本・梶川与惣兵衛の墓がある天徳寺とは、わずか400mしか離れていないのが面白い。12月になると、ふたりはときどき訪ね合っては烏鷺でも囲みながら、「いやいや吉良様、お城の松ノお廊下ではたいへんな目にお遭いなされましたな」、「いやなに、もはや昔話じゃ。ところで梶川殿、わしの墓所もそこもとの墓所も同様じゃが、周囲をめぐる目ざわりな竿はなにかの?」、「電柱でござる」とか、世間話でもしているのかもしれない。
 さて、友人から、正見寺と青原寺の境内にまたがって妙なふくらみがあるよ~……と教えられたのは、つい先だてのことだった。陸地測量部の1/10,000地形図では気づかなかったが、早い時期につくられた1933年(昭和8)の「火保図」には、確かに周辺の地勢を踏まえると自然地形とは思えない人工的なふくらみが採取されている。そのふくらみのある尾根筋から斜面には、両寺院の本堂と墓地が建設されていた。この古くから尾根筋に走る街道(旧・昭和通り→現・早稲田通り)を東へたどると、神田川に架かる小滝橋へと抜けるが、その途中には明治初期に「落合富士」Click!へと改造されていた大塚浅間古墳Click!(昭和初期に山手通り工事で破壊)があり、また小滝橋の東詰めには、境内が150mほどのきれいな鍵穴型をした観音寺の本堂と墓地が確認できる。
 以前から「百八塚」Click!の伝承にからみ、旧・平川(江戸期より神田上水→1966年より神田川)とその周辺域に散在していたとみられる、膨大な古墳群の痕跡について書いてきたけれど、大塚浅間古墳(落合富士)から上高田地域にかけても、そのような大小の墳墓が谷間へ向けた丘上や斜面に展開していたのではないだろうか。1/10,000地形図を細かく観察すると、灌漑用水ではなく湧水流とみられる小流れ(妙正寺川支流)の斜面に沿って、正見寺の西500mほどのところにも、明らかな人工物とみられる楕円形の突起状地形(風化した帆立貝式古墳か?)が、陸地測量隊によって採取されていた。
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 尾根上の街道(現・早稲田通り)をはさみ、江戸期から落合側と中野側の双方に「大塚」Click!の字名がつづいているのは、以前にもこちらで何度かご紹介している。このエリアで唯一、古墳時代の墳墓として認定されているのが、富士講の落合富士へと改造され、昭和初期に行われた環状六号線(山手通り)の敷設工事で破壊されるまで存在した、上落合大塚に位置する大塚浅間古墳だ。
 落合富士に改造される際、前方部が崩されて正円状の塚に整形されるまで、本来は小型の前方後円墳だったのかもしれないが、字名に「大塚」がふられるにしては直径が数十メートルとあまりにも規模が小さすぎる。「大塚」の字名にふさわしい、より巨大な古墳とみられるサークル状の痕跡が上落合Click!に、また下落合Click!にも存在していることも、何度か記事Click!に取りあげてきた。
 正見寺と青原寺の境内にまたがる、全長130mほどの楕円突起も、南側を貫通する街道に削られてはいるものの、墳丘の一部が崩され風化した古墳の痕跡なのかもしれない。さらに、正見寺から西へ500mほどのところにある、全長80mほどの自然地形ではない円形構造物もまた、見晴らしのいい河岸段丘の傾斜地に築造された前方後円墳、または帆立貝式古墳の可能性が高い。後者の突起は、宅地開発で整地・ひな壇化の土木工事が行われて崩され、いまでは住宅街の下になってしまっている。
 さて、青山Click!上大崎Click!、中野から成子Click!角筈Click!などに残る「長者」伝説Click!や、品川Click!あるいは江古田Click!などの例にならえば、なんらかの不吉な伝説や怪談、屍屋にまつわる山(丘)や森、立入禁止の禁忌的なエリアの伝承が、上高田地域に残っているだろうか? 実は、中野区教育委員会が1987年(昭和62)から1997年(平成9)までの10年間かけて蒐集した、口承文芸調査報告書の正・続『中野の昔話・伝説・世間話』には、上高田地域の怪異・霊異譚が圧倒的に多い。それは、古くから寺町が形成されていたのと、なによりも「三昧」地ないしは「荼毘所」としての火葬場が、江戸の後期より隣接する上落合(落合火葬場Click!)に存在していたからにちがいない。
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妙正寺川支流跡.JPG
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 しかし、換言すれば、なぜ上落合と上高田の境界にあたるこの地が、あえて三昧(荼毘所)として選ばれているのか?……という、より根が深いテーマにつながってくる。落合火葬場が設置されたのは、『江戸砂子』などを参照すると江戸後期とみられ、三昧として砂村新田、深川(霊厳寺)、小塚原、千駄谷(代々木狼谷)、渋谷、桐ケ谷、そして上落合(法界寺)と7ヶ所の火葬場が確認できる。だが、なぜこれらの地域が選ばれ、三昧(荼毘所)が設置されたのかは特に書きとめられていない。
 それは、なぜ寺町や墓域として古くから青山や品川宿の牛頭天王社(品川神社)の隣接地などが選ばれているのか?……というテーマと、まったく同様の課題が想起されるのだ。しかも、古墳上に築造されたとみられる、あの世とつながる「弥勒浄土」の富士塚とセットになっているケースも少なくない。
 富士塚の「弥勒浄土」思想について、1985年(昭和60)に人文社から出版された新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編―』所収の、福田アジオ『高田富士と落合火葬場』から引用してみよう。
  
 富士塚はミロク浄土としての富士山を江戸町人が自分たちの生活の場に実現したものであるという。しかし、富士塚は町人たちの屋敷内にあるわけでもないし、江戸の市中に造られているわけでもない。多くが、江戸の周縁としての町奉行所支配外の朱引内に築造されている。これも空地が都心部になかったからという理由によるものではなく、周縁部に造ることに意味があったものと思われる。ミロク浄土という他界は、都心部から歩くという形の分離儀礼を経ることで達することができるのである。別の考え方をすれば、内と外を明確に区別する地帯は同時に異なる二つの世界を結びつける所であり、そこがミロク浄土としての富士と人々の日常的世界を結びつける地点になったということである。/江戸市中の人々にとって異なる世界に接し、異なる世界に入ることのできる現実の空間が周辺に帯状に存在した。戸塚や落合もその一部であった。
  
 この「分離儀礼」は、漠然とした「江戸市中」と郊外の「周縁部」というテーマだけにとどまらず、富士塚が築かれた地域内にも確実に存在していただろう。三昧(荼毘所)や富士塚が築かれたのは、人が誰も住まない原野でも未耕地でもなく、富士講などを組織できるほどに人々か古くから居住していたエリアだ。つまり、「江戸市中」と「周縁部」との「分離」以前に、それぞれの村や町の中における共同体としての「分離儀礼」が可能な特別の禁忌エリア、死と生との境界を意識できる故事伝承が語られつづけた、「弥勒浄土」にはもってこいのエリアがあったことを物語っていやしないだろうか。
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 江戸期から明治期までは、なんとか伝えられていたかもしれない「分離儀礼」や「弥勒浄土」に適合する、すなわち三昧(荼毘所)や墓地の設置、あるいは寺町を勧請し富士塚を構築するには適した地域の「分離儀礼」物語が、換言すれば屍屋あるいは死者が住む山(丘・森)や禁忌的なエリア=古墳時代の墳墓群(落合地域では百八塚など)の伝承が、明治以降の急速な宅地化ですっかり忘れ去られてしまった……そんな気配が強くするのだ。

◆写真上:正見寺境内の東側だが、戦後の本堂再建工事のせいか土地の隆起はない。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月に竹田助雄Click!が撮影した工事中の地下鉄東西線・落合駅。同工事で、なにか出土物はなかっただろうか。は、西側に全長80mほどの人工突起が描かれた1921年(大正10)作成の1/10,000地形図(上)と、正見寺から青原寺の境内にかけてみられる不自然な突起が採取された1933年(昭和8)作成の「火保図」(下)。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる正見寺と青原寺。
◆写真中下は、青原寺の墓地がある北向き斜面(上)と、谷底を流れていた妙正寺川支流跡(下)。は、昭和初期の山手通り工事で消滅した大塚浅間古墳(落合富士)。は、小滝橋をわたった東側の斜面にある1948年(昭和23)撮影の観音寺境内。
◆写真下は、1941年(昭和16)撮影の西側のふくらみあたり。は、住宅街になり痕跡が皆無の同所。は、源通寺(上)と同寺にある河竹黙阿弥一門の墓所(下)。おそらく観劇回数がもっとも多い芝居の作者なので、ていねいにお参りしておく。

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「だらだら長者」の御蔵米買い占め資金。 [気になる神田川]

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 ある日突然、羽ぶりがよくなってカネ持ちになり「〇〇長者」になったという伝説は、江戸東京はもちろん全国各地に類似の物語として伝承され現存している。以前、落合地域の南西側に伝わる「中野長者(朝日長者)」をはじめ、いくつかの長者伝説Click!をご紹介した。きょうは落合地域の東側、牛込地域で語り継がれた「だらだら長者」伝説について検討してみたい。
 「だらだら長者」の「だらだら」は、しじゅうヨダレをたれ流しオバカのようにふるまっていたので(一条大蔵卿Click!のように偽装だったという説もある)、そう名づけられたとされているけれど、後世の芝居がかった付会臭がして真偽のほどはわからない。「だらだら」は、もうひとつ別の意味としての「だらだら」していた、つまりひがな1日働きもせずゴロゴロしていた怠け者にもかかわらず、なぜか突然おカネ持ちになった「長者」だから、あえて付与された副詞なのかもしれない。同様の伝承は、信州の有名な「ものぐさ太郎」に物語の類似形をたどることができる。
 「だらただら長者」と呼ばれた(生井屋)久太郎は、筑土八幡社や津久戸明神社の裏手に大きな屋敷をかまえて住んでいたという以外、本人の素性には諸説あってまったくハッキリしない。筑土八幡社の周囲は、幕府の旗本屋敷がひしめき合うように建ちならび、それぞれ氏名まで含めて素性はあらかた知られている。かろうじて町場が形成されているのは、筑土八幡社と津久戸明神社、そして万昌院のそれぞれ門前町のみだ。根岸や向島の別荘地とは異なり、乃手Click!であるこれらの町辻には、町人が大きな屋敷をかまえる余地はなさそうに見えるが、寺社の境内や旗本の屋敷地の一画を借りて、大きな屋敷を建てていたものだろうか。
 筑土八幡社の裏手には、現在でも銀町(しろがねちょう=現・白銀町)の地名が残っているが、この「銀」が「だらだら長者」と具体的にどうつながるのかも不明で、また上大崎や青山に残る「黄金長者」や「白金長者」との近似性や関連性も、もはや途絶えたのかまったく伝わっていない。だが、「だらだら長者」が実在の人物だったのは確かなようで、町奉行所の与力上席・鈴木藤吉郎(市中潤沢係/20人扶持)らとともに、不正蓄財の容疑で町奉行・池田頼方から摘発・追及を受けている。
 不正蓄財とは、米の価格をつり上げる相場師のようなことを、「だらだら長者」と役人の鈴木藤吉郎が組んでやっていたのだ。ふたりは、江戸市中の御蔵米を大量に買い占めて市場に出まわる米の流通量を抑制し、米価が高騰したところで売り逃げするというボロい商売をしている。鈴木藤吉郎は町奉行所の役人なので、当然米の買い占めや出荷の意図的な操作を取り締まる側のはずだった。御蔵米の買い占めで貯めた財産は、両人合わせて膨大な額になると想定されていた。
 それを裏づけるかのように、奉行所の家宅捜査では筑土八幡裏の「だらだら長者」屋敷にあった手文庫から200両の現金と絵図が、また摘発からしばらくたった1859年(安政6)には、同屋敷から道をはさんだ向かいの廃墟のような屋敷へと抜ける地下トンネルから、油樽に入った1,200両の小判が発見されている。
 さらに奇怪なことに、奉行所に捕縛され小伝馬町牢屋敷Click!の揚屋へ入牢した鈴木藤吉郎は、ほどなく急死(毒殺といわれる)している。御蔵米の買い占めが、単に久太郎と鈴木による犯行ではなく、それを黙認して上澄みをかっさらっていたらしい、老中をはじめ幕閣の存在が浮かんできたため、口封じに殺されたのだとする説が有力だ。当時、米穀の売買には幕府の認可が必要で、鑑札がなければできないはずだった。このあたり、幕府上層もからんだ不正売買の可能性が臭うので、“口封じ”説がリアリティをもつ。
 同様に、与力・鈴木藤吉郎の捕縛から間もなく、「だらだら長者」こと久太郎も屋敷内で変死(こちらも毒殺といわれる)している。こうして、御蔵米買い占めで貯めた莫大な利益が、いったいどこに隠されているのかが、江戸市中の話題をさらうことになった。
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 そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された、角田喜久雄『東京埋蔵金考』所収の「筑土八幡の埋宝」から引用してみよう。
  
 とにかく、そのような奇怪な、長者屋敷のからくりが世に出たため、埋宝説は一層有力となって、土地の有志が先達で、長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、安政六年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活からみても、それが埋宝の全部でないことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
  
 角田喜久雄は、戦前に活躍した大衆小説や推理小説の作者であり、その文章を読んでいると、まるで自身がその場に立ちあって見てきたような会話や情景が描かれており、あちこちに講釈師あるいは講談師の臭気を感じて、どこまでが史的な裏づけがある事実なのかはハッキリしない。だが、筑土八幡社周辺の“宝さがし”は明治以降もつづけられ、昭和に入ってからも新聞ダネになっているのは事実だ。
 さて、この「だらだら長者」伝説で重要なポイントは、不正蓄財でもうけた大判小判の宝がどこに埋まっているか?……ではない。生井屋久太郎が、御蔵米を買い占められるほどの元手を、どうやってこしらえたのか?……という点だ。すなわち、しじゅうヨダレを流している、あるいはふだんはなにもしないで遊び呆けているような人物が、ある日突然、御蔵米の買い占めという大きな資金を必要とする“投機”に手をつけはじめ、町奉行所の与力を巻きこみつつ、雪だるま式に財産を増やしていき、やがて筑土八幡社の裏にたいそうな屋敷をかまえる富豪にまで「成長」することができたのは、どのようないきさつやきっかけがあったのか?……ということだ。
 以前にも書いたけれど、もともと蔵をいくつも所有しているようなカネ持ちが、なにかの事業に投資し改めて成功しても物語としては成立しにくいが、もともと貧乏だった人物が、ある日を境に突然カネまわりが目に見えてよくなり、次々とビジネスにも成功して大富豪になる、あるいは立身出世するという話は、人々へ強烈な印象を残すので、後世までの語り草となり伝承されやすいものだ。
 また、そのような物語には周囲の妬みや嫉みが強くからみ、「悪行のむくい」「祟り」「バチ当たり」「憑き物」「因果応報」「凶事」など、怪談や妖怪譚などをまじえた不幸な教訓話が付随・習合することもめずらしくない。おそらく「だらだら長者」にも、当初はさまざまな付会=怪しげなウワサや尾ひれがついていたのではないかと思われるのだが、今日まで伝わる不吉な出来事やエピソードは、主犯の変死以外には残っていない。
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 さて、久太郎が暮らしていた筑土八幡社裏の高台は、神田上水Click!(大堰から下流は江戸川Click!)沿いに形成された河岸段丘の北向き斜面であり、室町期に起因するとみられる昌蓮Click!がらみの百八塚Click!伝承のエリア内だ。特に、筑土八幡社から西へ万昌院、赤城明神社へと連なる丘は、北側が絶壁に近いバッケ(崖地)Click!状の段丘地形をしており、古墳が形成されてもおかしくない地勢をしている。事実、筑土八幡町と白銀町は下落合とまったく同様に、縄文時代から現代まで人々が住みつづけている重層遺跡として、新宿区から指定を受けている。もちろん、古墳時代の遺跡もその中に含まれている。
 そのような視点から、戦後の焼け野原となった同地域一帯を、1947年(昭和22)の空中写真で観察してみたが、残念ながら古墳らしいフォルムはもはや発見できなかった。いや、むしろ筑土八幡社や万昌院、九段へ移転してしまった旧・津久戸明神社跡(住宅地)、そして赤城明神社など寺社の境内がそれらの遺跡なのかもしれないのだが、戦前の発掘調査の有無とともに明確に規定することができない。
 しかし、すぐ西隣りの下戸塚(現・早稲田地域)では、江戸時代に富塚古墳Click!(高田富士Click!)ないしはその陪墳域から、周辺を開墾していた農民が「竜の玉」と「雷の玉」という宝玉Click!を見つけ、牛込柳町の報恩寺(廃寺)へと奉納している。これらの宝玉は、たまたま盗掘をまぬがれていた玄室から発見された副葬品とみられており、当時はかなりの価値をもつものだったろう。同様に、古墳の玄室には金銀宝玉を用いたさまざまなアクセサリー類の副葬品が埋蔵されており、それらの財宝を掘り当てる(盗掘する)ことを職業にしていたプロも存在していた。
 副葬品の金銀財宝はもちろん高額で売れ、もはやサビだらけで朽ちそうな鉄剣・鉄刀などの古墳刀Click!もまた、江戸時代にはかなりの高値で取り引きされている。なぜなら、古代のタタラで鍛えられた古墳刀の目白(鋼)Click!を、江戸期の鉄鉱石から製錬された鋼に混ぜて折り返し鍛錬をすると、より強靭で折れにくく、斬れ味の鋭い日本刀が製造できたからだ。江戸に住み、新刀随一の刀匠とうたわれた長曾根興里入道虎徹(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)の「虎徹」は、寺社の古釘や古墳刀の目白(鋼)を、つまり「古鉄」を混ぜる独自技法を発明したからそう名乗っているのであり、のちに模倣者が続出して稀少な「古鉄」の価格は急上昇することになった。
 また、古墳刀についた赤サビは、刀の研師Click!の最終工程である「刃どり」を仕上げる際の、理想的な磨き粉として貴重かつ高価なものだった。古い目白(鋼)にわいた赤サビを粉砕してつくる粉は、現在でも日本刀の磨き粉として研師の間で珍重されており、江戸期とまったく変わらない技法が伝承されている。
 さて、これらのことを踏まえて考えてくると、働きもしないでだらだら怠惰に暮らしていた生井屋久太郎こと「だらだら長者」が、なぜ御蔵米を買い占める元手=資金を突然手に入れられたのかが、なんとなく透けて見えてきそうだ。それは、淀橋をわたって大型の古墳域だったと思われる柏木地域へ出かけていく「中野長者」が、日々裕福になっていった経緯と同一のものだったのではないだろうか。もっとも、「だらだら長者」伝説には、とりあえず「橋」にまつわる出来事は伝えられていないが、より古墳の羨道や玄室をイメージさせる、地下トンネルにまつわるエピソードがリアルに伝承されている。
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 全国各地には、動物の導きで地面を掘ったり、藪をかきわけて山(森)に分け入ってみたら、大判・小判や財宝がザクザク出てくるフォークロアが伝承されている。すぐに思いつくだけでも、有名な「花咲爺」や「舌切り雀」などが挙げられるけれど、みなさんの地元では「にわか長者」に関するどのような昔話や民話が伝わっているだろうか?

◆写真上:筑土八幡社の西側に隣接する、平将門を奉った津久戸明神社跡の現状。津久戸明神社は戦災で焼けたため、1954年(昭和29)に九段へと遷座している。
◆写真中上は、筑土八幡社の拝殿へと向かう階段(きざはし)。は、同社の拝殿。は、右側が筑土八幡社で左側が津久戸明神社の階段があった跡。
◆写真中下は、筑土八幡社の階段上からバッケ状の地形を見下ろしたところ。は、津久戸明神社跡の崖地。は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版の切絵図「牛込礫川小日向絵図」にみる、筑土八幡社と津久戸明神社の周辺域。
◆写真下は、「花咲爺」の挿画(作者不明)。は、1857年(安政4)制作の二代広重「昔ばなし一覧図絵」。は、明治期の制作とみられる河鍋暁斎『舌切り雀』。

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清戸道の鶴亀松に登った景観は。 [気になる神田川]

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 かなり以前のことになるが、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」を見ていて、細川越中守の抱え屋敷Click!(現・目白運動場/肥後細川庭園界隈)の清戸道Click!(現・目白通り)門前に「鶴亀」の記載を見つけ、当時連載していた「ミステリーサークル」シリーズClick!で塚ではないかという記事Click!を書いた。
 すると、さっそくコメント欄で小江戸っ子さんより、松の大樹で「鶴松」と「亀松」と呼ばれていた名木だとお教えいただいた。その際、長崎大学図書館の古写真データベースに保存された、貴重な写真類もご教示いただいている。高田老松町のいわれにもなった鶴亀松の由来にはじまり、目白という地名に関する本来の故地らしい一帯にがぜん興味がわいて、その後、あちこちのフィールドワークや調べものを重ね金山稲荷Click!目白不動尊Click!の拙記事としてまとめてきた。その中で、もうひとつひっかかっていた資料類やテーマがある。
 天保年間に斎藤月岑が著し、長谷川雪旦の挿画で有名な『江戸名所図会/巻之四・天権之部』に目を通していたとき、古えには護国寺のある周辺一帯までが「西大塚」あるいは「富士見塚」と呼ばれた時期があり、執筆当時(天保期)の波切不動尊(本伝寺)が、その昔は塚の上に建立されていた……という伝承が収録されていることを知った。以下、市古夏生・鈴木健一の校訂による斎藤月琴『江戸名所図会』(筑摩書房)から引用してみよう。
  
 (前略)また南向亭(酒井忠昌、一八世紀中頃)云く、「安藤対馬侯[陸奥平藩主]の東の方、森川氏の構へのうちに一堆の塚あるといふ」とも。『紫の一本』[戸田茂睡、一六八三]に、「塚の上に不動堂あり」とあれば、いまの波切不動尊の地、大塚と称する旧跡にや。相云ふ、太田道灌(一四三二-八六)相図の狼煙を揚ぐる料に築きたる塚なり。ゆゑに、昔は太田塚と唱へけると。あるいはまた、鎌倉将軍守邦親王(一三〇四-三三)乱をさけて、武州比企郡大塚村に逝去す。その廟を王塚と称す。ここに大塚と号くるもこの類ならんといへども詳らかならず。(江戸の内に大塚の名多し。なほ考ふべし)。
  
 それによれば、後世に「塚」に関するさまざまな付会が創作されていることがわかるが、結局は不明として記述を終えている。著者が「大塚の名多し」としているとおり、落合地域とその隣接地域だけみても、すぐに3ヶ所の字名「大塚」を発見できる。江戸東京じゅうを見まわせば、「大塚」ないしは「〇〇大塚」と呼ばれる古くからの字名は、おそらく100ヶ所をゆうに超えるのではないだろうか。現在は平坦に整地された場所にある波切不動(本伝寺)が、『江戸名所図会』によれば江戸前期には塚の上に不動堂が建立されていたと伝えられており、小石川大塚とも呼ばれていたようだ。
 また、現在の行政区画ではなく、より古い時代の同所一帯はどこまでが「(西)大塚」と呼ばれていたのかに興味がわいてくる。いうまでもなく、目白から小石川にかけての地域は、旧石器時代から現代まで一貫して人が住みつづけてきた痕跡が見つかっており、明治以降の史観で植えつけられた無人に近い「武蔵野の原野」ではなかったことが、戦後の考古学的あるいは歴史学的な発掘調査の成果物によって裏付けられている。
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 そこで、同書の「なお考ふべし」を実践すると、上記にご紹介した拙記事のような風景が改めて見えてきた。それは、古代のタタラ(大鍛冶Click!)=製鉄との関連や、「目白」(砂鉄から精錬した鋼の古語)という地名考、そして金川=神奈川(弦巻川Click!カニ川Click!の古名)の由来などで書いたとおりだが、「金山」の南西に展開する「神田久保」(現・不忍通り沿い)の谷間にふられた字名、そして幸神社(荒神社)や目白不動などが建立されていた関口台(本来は目白台とも)に挟まれた地域、すなわち清戸道(現・目白通り)の北側は、これまで子細には観察してこなかった。先年に解体された東大病院分院の跡地や、筑波大学付属視覚特別支援学校がある目白台3丁目一帯だ。
 大正期に発行された古地図を見ていたら、ちょうど戦前には府立盲学校Click!(旧・盲学校永楽病院Click!)や東京帝大病院分院があったあたりに、大きな瓢箪型の盛り上がりがあるのを見つけた。その地形図を参照すると、その300m前後の大きな突起がきれいに採取されている。現在は、上掲の大規模な学校や病院の建設、または住宅地の造成による整地作業で、地形の盛り上がりは希薄になっているが、北は目白台3丁目24番地あたりから南は同3丁目7番地ぐらいまでの、北北西から南南東にかけて形成された地形の突起だ。江戸期の清戸道沿いにあった鶴亀松の枝に登ったら、おそらくこの瓢箪型に盛り上がった突起がよく見えたかもしれない。また、一帯は江戸期に「源兵衛山」とも呼ばれていたようで、台地の下には金川(弦巻川)が大きく蛇行しながら西から南へと方向を変え、旧・平川(のち神田上水)へ注いでいただろう。
 江戸後期には松江藩松平出羽守(16万8千石)の下屋敷になり、幕末には百人組同心大縄地にされていたようなので、射撃場などの設置により、すでに地形の大幅な改造が行なわれていたかもしれない。幕末は、頻繁に姿を見せる外国船や国内の政治的な緊張に備え、大江戸Click!の各地では土木工事が積極的に実施されていた時代だ。だが、大正期の地形図にも、その痕跡が明瞭に採取されているとおり、突起物を全的に消滅させるには至っていなかった。大正末から昭和期にかけ、大規模な学校や病院の建設(増築)で、より急速に整地開発が進捗したのだろう。そして、戦後はビル状のコンクリート建造物が一帯に林立するに及び、瓢箪型の突起はほぼ全的に消滅してしまった……、そんな気が強くするのだ。
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 現在、地形図に採取された瓢箪型に沿うかたちで歩いても、地面からの突起はほとんど確認できない。むしろ、規模の大きな東大病院分院があったせいか、地下階の設置で地面がえぐられているところさえある。また、瓢箪型地形の北西部にあたる住宅地も、おもに大正期の道路敷設や宅地開発で、本来の地形の面影は希薄となっている。ちなみに、瓢箪型の突起北西部には、腰掛稲荷が奉られている。なお、江戸期あるいは明治期に、このあたりの風情を記録した文献が残っていないか探しているのだが、いまだに見つけられずにいる。
 さて、瓢箪型の突起が北側に眺められたとみられる鶴亀松だが、その記述は寛政年間にまでたどることができる。金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 六角越後守様御下屋敷 表御前に松の樹二本有り、有徳院殿御土産松と云て、道の上に覆ども枝を伐事ならず、寛政九年の春大雪降て、西之方の松倒れけるが、起して植ける。此松に十年斗前より蛇住て、木の空穴より出ては往来の枝の上に寝て、いびきの声高し。或時は男女縄のごとくなりて、三五日番居けるが、倒て後はその沙汰なし。
  
 寛政年間の鶴亀松は、細川家下屋敷ではなく六角家下屋敷の門前にあったことがわかる。大雪で西側の松が倒れたとあるが、そのダメージがのちのちまで尾を引き、幕末ないしは明治初期の落雷により樹体の脆弱化が進み、枯死が決定的になったのだろう。明治期には、西側の松は枯死して伐られ、東側の老松だけになってしまった時期があったらしい。
 ただし、残った東側の老松も明治のうちに枯死して伐採され、大正期には後継の若松に植えかえられていた様子が伝えられている。大正期が終わったばかりの、1927年(昭和2)に東京日日新聞に連載された、上落合685番地のプロレタリア作家・藤森成吉Click!『小石川』から引用してみよう。
  
 学校(日本女子大)の斜め向いには、旧大名細川邸の長い黒板塀が連なっている。その正門の両側に、「細川さんの鶴亀松」と呼ばれて名高い老松があった。私の記憶でも、その一本――あとでは確か後継の若松――は震災前まであった。が、あの天災で門が大破し、そこを潰して一連の塀に変ったと同時に、松の姿も消えて了った。(カッコ内引用者註)
  
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 明治期に、鶴亀松の向かいには「美人の評判が高かった」(同書)娘がいたそうだが、やがて蔦のからまる西洋館のカフェに変わり、茶屋の娘のそのまた娘が経営していたようだ。藤森成吉は、目白台に住む青年たちが訪ねてくると、「親に似た美人だ」という評判を昭和初期にさんざん聞かされているらしい。

◆写真上:広い草原が拡がる、帝大病院分院(のち東京大学病院分院)の跡地。
◆写真中上は、幕末か明治の最初期に日下部金兵衛が撮影した細川家下屋敷門前の鶴亀松。は、大正期と思われる地形図にみる源兵衛山の瓢箪型台地。は、帝大病院の分院時代から残るレンガとコンクリートの塀。
◆写真中下は、同じく東京大学病院分院の跡地。は、盲学校永楽病院(のち東京府立盲学校)へ向かう西側接道。大正期には、この道を新宿中村屋Click!に寄宿していたエロシェンコClick!が通った道だ。は、現在の筑波大学付属視覚特別支援学校。
◆写真下は、瓢箪型突起の西北側に建立された腰掛稲荷社。は、神田久保の谷間(現・不忍通り)へと下るバッケ(崖地)Click!坂。は、明治期に撮影された鶴亀松。

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江戸東京の「長者」伝説と古墳域。 [気になる神田川]

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 江戸東京の各地には、「長者」伝説が散在している。その中で、もっとも有名なのが江戸期の資料にも数多く書きとめられ、近代に入ってからは民俗学の柳田國男Click!が採取して有名になった、東京の西北部に拡がる「中野長者」伝説だ。
 昔話に現れる長者というと、初めからおカネ持ちだったわけではなく、なにかの功徳を積む生活を送っていたり、正直者が夢や動物のお告げで示された場所を掘ったりすると、にわかにカネ持ち=長者になるエピソードが多い。確かに、最初からカネ持ちであれば、特に物語化する必然性が生まれにくいだろうし、また貧しい人々へ希望や夢を与えられる「教訓話」や「道徳話」としても成立しにくい。そこには、なにかがきっかけで長者へと生まれ変わる、変身譚が不可欠な要素となる。
 多くの昔話は、子どもに語るのを前提とするせいか、最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンが多い。だが、実際の大もとになっている物語は、必ずしも幸福で終わるとは限らないものも少なくない。地域の長者物語が語られるとき、なにか不吉なエピソードとセットになっているケースも少なくないのだ。「中野長者」(または「朝日長者」とも)の伝説も、まさにその典型的な事例だと思われる。
 1732年(享保17)ごろに書かれた『江戸砂子』から、その様子を引用してみよう。
  
 むかし多摩郡中野の内、正観寺(成願寺)の薬師堂の棟札に、朝日長者正蓮(中野長者)が書たるには、漆千盃朱千盃、黄金千両、銭十六萬貫、朝日さす夕日かゞやく藤の下にありといふ。これを埋むる時、下男に負せて此のはしをわたりけるに下男が後にぬすむ事もあらんと、そこにて殺しけると也。その下男のわたりたるは人見たれども、帰る所を見ざるゆへに姿見ずの橋といふ也と、里人の物語也。
  
 『江戸砂子』は概略しか採取していないが、室町期の応永年間ごろ中野村字塔屋敷(現・中野区本町2丁目)の成願寺あたりに住んでいたとされる、元・武士の鈴木九郎(正蓮)という人物が浅草寺の観音に願掛けしたところ、にわかに長者になって大きな屋敷をかまえたところから物語がはじまる。次々に財宝が増えるものだから、九郎は屋敷内に貯蓄しておくことができず、やむなく橋をわたった「藤の下」に隠し場所を用意して、納まりきれない財宝を下男に運ばせて埋蔵した。
 ところが、隠し場所のありかが外部に知られると困るので、そのつど下男を殺害してくるため、長者ひとりが橋をわたって帰ってくる。村人はいつしか、この橋のことを「姿不見橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになり、それが現在の新宿・淀橋Click!に相当する橋だったという経緯だ。つまり、中野村側から淀橋をわたって角筈村側(東側=新宿側)のどこかへ、財宝を埋めていたことになる。「朝日さす夕日かゞやく藤の下」とは、どこか高台の地形を連想させるポイントだ。しかも、長者が“東”を意味する「朝日長者」と呼ばれていたことにも留意したい。夜間にいずこへか出かけ、朝日が昇るころ橋をわたって帰ってくるというイメージのネーミングだ。
 この話にはバリエーションが数多く存在し、その後、殺された下男の祟りで中野長者が一家全滅したり、長者の娘と殺される下男との悲恋物語をはさんだり、祟りで娘が龍(蛇)になって角筈十二社池へ飛びこんだりと、伝承のされ方は千差万別だ。中野区教育委員会も、「中野長者」伝説を多数蒐集しているが、1987年(昭和62)に発行された『中野の昔話・伝説・世間話』では、次のように書いている。
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 今回の調査では江戸時代の地誌や随筆などにも見られる中野長者の伝説が、中野区内ではどのように伝えられているかに注目し、各調査質問事項にもした。(略)長者伝説を伝える旧中野地区の地元の話者の中には、「長者の話は十人みーんなちがう」と話す人もあるように、「中野長者」の伝説は、多種多様に伝えられている。/淀橋(姿見ず橋)を嫁入りの行列が渡ってはいけない、という伝承は知る人も多い。そのいわれは、中野長者が財宝を隠させた下男を殺したところだからとする長者伝説の系統と、井の頭の主の伝説(宝仙寺の竜頭骨の由来)の系統との、二つの伝説に大別される。そして、その祟りのために、花嫁が通ると不幸になる、縁が切れるなどと、嫁入りのときに橋を渡ることが忌まれてきた。
  
 この物語が、いかに強烈な印象を地域に残していたかは、明治以降もずっと婚礼の行列は不吉な淀橋を通行せず、わざわざ上流や下流の橋を迂回していたことからもうかがえる。1913年(大正2)1月21日になって、ようやく迷信打破のための大規模な祭礼が淀橋で行われ、わざわざ結婚式を挙げたカップルに淀橋をわたらせている。この“厄払い”式典には、柳田國男も呼ばれて出席していた。1913年(大正2)1月22日の東京朝日新聞や東京日日新聞は、淀橋の祭礼の様子を大々的に報じているが、記事がよくまとまっている東京日日新聞から引用してみよう。
  
 府下淀橋町と中野町との間に架する淀橋に迷信ありて、婚礼の行列此の橋を渡るを忌む事は既に報じたが、同地の浅田政吉氏主催となり此の迷信を一掃する為め、昨日午前十一時から神官を聘して河精を祭り迷信払いの神事を執行した、式場は淀橋の畔の川上に床を張りて設け正面を祭壇として神官二十名にて最と荘厳に式が行はれ、式後食堂を開いて観盃を挙ぐる間に、関直彦(衆議院副議長)の「迷信と神経」の演説、神話童話の研究家柳田國男氏(法制局長官)の「伝説の尊重と迷信の打破」の演説があった。
  
 このあと、花婿花嫁の婚礼行列が淀橋の「わたり初め」をして祝福されている。
 室町期(江戸東京の「長者」伝説は鎌倉期までさかのぼるものもあるので、あるいはもっと以前からかもしれないが)、平川(神田上水→神田川)Click!に架かる淀橋を中野から向こう側(角筈側)へわたると不吉なことが起きる……という伝説に、中野長者の娘の悲恋あるいは娘が龍(または蛇)に化身する化け物譚が習合し、やがて嫁入り行列がわたると不幸になる……という物語が形成されているように見える。では、中野側から淀橋をわたり角筈の成子坂へと抜ける、青梅街道のどのあたりに不吉な影が射すのだろうか。
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 このサイトをつづけてお読みなら、すでにピンときている方も多いのではないだろうか。そうなのだ、成子坂の斜面から青梅街道を現在の新宿駅方面へ進むと、その両側には大きな古墳とみられるフォルムが並んでいたことが想定できる。こちらでもご紹介した、新宿駅西口に位置する「新宿角筈古墳(仮)」Click!と、成子富士のある天神山の「成子天神山古墳(仮)」Click!だ。これらは、かろうじて現代からたどれる古墳の痕跡だが、大規模な淀橋浄水場が建設される以前、あるいは一帯が住宅街で埋まる以前に、その広い斜面の畑地にはどのようなフォルムが残されていたのかは、いまとなっては不明だ。
 中野側から語られる、「橋をわたると不吉なことが起きる」、あるいは「橋をわたると不幸になる」など多彩な物語群は、より古い時代からの禁忌的なエリアへ足を踏み入れることを戒めた伝承なのではないか。古墳域で多く語られる、屍家・死屋(しいや)Click!伝説のバリエーションなのではないだろうか。当初は、墓域への敬虔な崇拝的慣習からくる禁足域だったものが、いつしか別の物語へと習合・転化を繰り返し、あるいは盗掘を戒めるための“怖い話”へと変じて、現代まで継承されている可能性が高いように思う。
 もうひとつ、「長者」伝説に多いパターンとして、突然にわかにカネ持ちになった人物は、あえて禁忌的な古墳域に足を踏み入れ、墳丘を掘り返し玄室にある宝玉や黄金(こがね)・白銀(しろかね)の副葬品を持ちだしているのではないか?……というところまで、想像の羽が拡がっていく。周囲の人々は、突然羽ぶりがよくなった「長者」を見て不審に思い、禁忌を侵したことに薄々気づいてウワサをし合っただろう。なにか「不吉」で「不幸」なことが起きれば、尾ひれをたっぷりつけて「それみたことか」と物語化したかもしれない。
 さて、このような「長者」伝説は、新宿のすぐ南にも散在している。地名にまでなっている目黒駅東側の上大崎地域の「長者丸」と、青山地域の「長者丸」だ。これらの地域に登場するのは、「黄金長者」と「白金長者」と呼ばれる人物たちだが、その物語にはやはり「不吉」な影と、鬼と化した幽霊が襲う「橋」が登場してくる。すでにお気づきのように、この地域にもまた巨大な古墳の痕跡と思われる人工構造物、すなわち上大崎には「森ヶ崎古墳(仮)」Click!「上大崎今里古墳(仮)」Click!が、南青山には「南青山古墳(仮)」Click!の痕跡を、古い地形図や空中写真からかろうじてたどることができる。
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 「長者」伝説に登場する「橋」とは、この世からあの世(死者の国)へとわたる象徴としての架け「橋」なのか、それとも周濠をわたって古墳域を侵すというメタファーとしての不吉な「橋」なのか……。江戸東京地方の屍家・死屋伝説と、「長者」伝説とがどこかで交わらないものか、非常に根が深くて興味深いテーマだ。

◆写真上:鈴木九郎こと「中野長者」の屋敷跡といわれる成願寺(別名:正観寺)。
◆写真中上は、1920年(大正9)に撮影された木橋のままの淀橋。は、1933年(昭和8)撮影の石橋となった淀橋。は、淀橋から神田川の上流域を眺める。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる成願寺と淀橋周辺。は、1941年(昭和16)ごろの斜めフカンで撮影された空中写真にみる同地域。は、1947年(昭和22)に撮影された淀橋東側の斜面に拡がる焼け跡の同地域。
◆写真下は、成子天神山古墳(仮)の陪墳のひとつに見える成子富士。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる「黄金長者」あるいは「白金長者」伝説が継承された上大崎地域。は、同年撮影の空中写真にみる同伝説が語り継がれた南青山地域。

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