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「近衛町」と「長崎町」を耕す川村女学院。 [気になる下落合]

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 以前、目白駅前の目白市場Click!で喫茶&飲食店を運営する、昭和初期の川村女学院Click!で学ぶ生徒たちClick!についてご紹介していた。院長の川村文子による、女子の実践教育の一環として1929年(昭和4)の夏よりスタートした店舗だった。
 この飲食・喫茶店が、いつごろまでつづいたのかは不明だが、まるでヨーロッパの古城のようなデザインをした、目白駅前に位置する目白市場(現・トラッド目白の位置)に入る店舗は、生徒たちのセーラー服に白い割烹着ないしはエプロン姿(ちなみにキャンパス内でも家政科の生徒はこの姿が普通だった)とともに、モダンでオシャレな店だったのではないだろうか。運営の中心となっていたのは、同学院の「割烹部」(高等部家政科)だ。この目白市場について、1932年(昭和7)に東京毎夕新聞社から出版された『東京の現勢』では、次のように報告している。
  
 市場の規模及び設備/(中略) 新市部に於ては蒲田及び目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく 殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店式に設計せられたる市場である。
  
 「新市部」とは、1932年(昭和7)10月に施行された東京市35区制Click!のことで、目白市場は旧・高田町にあるので同年より豊島区に属することになった。
 川村女学院が、生徒の家族や一般の人たちへ授業の成果物(製造品)を販売するのは、1925年(大正14)から「バザー」と名づけて行なわれていた。目白市場ができると、接客が必要な料理や喫茶、雑貨などは実践教育として同市場内で販売されたとみられるが、それまでは年に春4月と秋10月の2回にわたり「学院バザー」および「謝恩バザー」を開催し、授業で製作したさまざまな物品(手芸品が中心だったようだ)を販売している。今日でいえば、多彩な模擬店が並ぶ学園祭のような催しだったろうか。
 「バザー」のはじまりは、同学院の「音楽会」で多種多様な製品を販売したのがきっかけだったようだ。販売されたのは、生徒たちが毎週火曜と金曜に設けられた「自習時間」で、技芸修得を目的とした教育の一環として製作する日用品が中心だった。当初は、ガーゼ布やハンカチ布へ縁縫いをしたような単純な「技芸」だったが、徐々に複雑な手芸・工芸品にまで製作の範囲を拡げていった。子ども用のお手玉をはじめ、百華眼鏡(万華鏡)、手提げ袋、切符入れ、キューピー人形の着せかえ洋服、封筒づくり、造花づくりなど、しまいには多種多様な製品づくりにまで挑戦するようになった。
 年に2回開催される「バザー」と、それとは別の「謝恩バザー」について、1934年(昭和9)に川村女学院鶴友会雑誌部から出版された『川村女学院十年史』より引用してみよう。
  
 学院のバザーは、バザーとは言つても他の一般のものとは余程趣旨の異なるものであつて、陳列品の主体は生徒の製作品であつて、それも極めて簡単な手芸品が其の大部分である。それでも父兄の方方(ママ)が年々大勢お出かけ下さつてなかなかの盛会である。このバザーの収益は主として公益事業に充てられるのであつて、災害の場合に奉仕部より贈る慰問費の一部ともなるのである。/謝恩バザーといふのは、主催者として卒業生が中心となり、学院の職員であるところの旧師のために謝恩の意を表したいといふところから由来して居るのであつて、其の収益の一部を職員の勤績功労者の慰労等に充てたいといふ趣意が含まれて居るのである。
  
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 これらのバザーでは、「手芸品」が大部分を占めると書かれているが、川村女学院の園芸部が収穫した生花や野菜なども販売されていたのではないだろうか。同学院では、生徒たちの寮舎があった高田町と長崎町で、わりと規模が大きめな農園を経営している。そこでは、生花・野菜を育てるばかりでなく、家畜(ヒツジなど)も飼育されていた。
 また、割烹部を中心とした高等部家政科では、目白市場Click!にオープンした飲食&喫茶店の料理に、農園で収穫した野菜類などを材料に用いていたのではないだろうか。割烹部は、高等部家政科の生徒と家事科の教職員、および卒業生などで構成されており、学院内の会食や音楽会、バザーなどにおける食事会や接待などの料理・喫茶いっさいを担当していた。割烹部は、1924年(大正13)に川村女学院が創立された直後から活動しており、同学院では1934年(昭和9)の時点でもっとも古いサークル活動となっている。
 では、高田町と長崎町に農園のある園芸部の活動を同書より引用してみよう。
  
 質素の風を養成すると共に、花を愛することが女性には特に必要である、といふ院長の考から、創立のはじめ頃から、我が学院には園芸部が設けられたのであつた。そして主として和田先生の指導のもとに、或は学院の校庭に或は長崎町の農場に或は近衛町の農園に於て、部員である職員及生徒が土に親しんで居る。播種、害蟲の駆除、除草、其の他園芸の仕事は実に愉快であると言つて居る。
  
 「和田先生」とは、同学院教師の和田德三のことだ。ここでは、草花の育成についてしか記載されていないが、農場あるいは農園には野菜も植えられ、ニワトリの飼育やヒツジの放牧も行われていた。ちなみに、「女=花好きという刷りこみ教育じゃないか」とか、「わたし花粉症なので花は大っキライ!」とかいう声は存在せず、当時の川村女学院は「良妻賢母」教育が川村文子の創立趣旨だったので、「女性とはこうあるべきもの」という画一的な教育が、なんら不自然かつ不可解に感じられなかった時代だ。
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 さて、「長崎町の農場に或は近衛町の農園」とは、いったいどこのことだろうか? まず、「近衛町の農園」は、すぐに場所を特定することができる。現在でも、川村女子大学の校舎や図書館、学生寮が建っている目白3丁目の崖上Click!キャンパスだろう。
 1932年(昭和7)までは高田町金久保沢1142~1146番地、東京35区制の施行で豊島区が成立してからは目白町1丁目1142~1146番地で、淀橋区下落合の近衛町Click!ではなく北東側に隣接するエリアだ。豊島区の成立とともに、本学キャンパスが目白町2丁目で農園が目白町1丁目なので、キャンパスを明確に区別するために、東京土地住宅Click!が開発した下落合側の住宅地名「近衛町」Click!を借用したものだろう。
 もう1ヶ所の「長崎町の農場」は、武蔵野鉄道・東長崎駅Click!の北側、長崎仲町3丁目3793番地にあった。1932年(昭和7)までは長崎町水道向3793番地で、豊島区になってからは長崎仲町の新しい町名+番地となっている。『川村女学院十年史』が出版された1934年(昭和9)の時点では、いまだ周囲には住宅よりも畑地が多い風情だった。
 「近衛町の農園」に比べ、「長崎町の農場」のほうが規模が大きく、前述したように家畜舎や鶏舎まで設けられていた。飼われていたヒツジは年に一度、羊毛が採取されて毛糸への加工のうえ、編み物に使われていたものだろうか。ニワトリの飼育は、鶏卵の採取が目的だったのだろう。1936年(昭和11)の空中写真で確認してみると、「近衛町の農園」は同学院の建物(寮舎など)と近衛町の開発で開かれた三間道路にはさまれた、それほど広くはない農園の耕作だが、「長崎町の農場」はヒノキ林や芝生、あるいは飛び地として家畜舎や牧草地などもあって、かなり本格的な農場として営まれていたようだ。
 『川村女学院十年史』(1934年)に収録の、川村文子「序にかへて――過ぎし十年の回顧」では、園芸部について「和田先生も、十周年を機会に園芸部の拡張発展を計つて下さるといふことで、これも楽しみの一つ」と書いているので、同年以降はさらに「長崎町の農場に或は近衛町の農園」の耕作規模を拡げていったのかもしれない。
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 戦前から戦後にかけ、目白駅のホームで行われていたガーデニングは同学院園芸部の活動であり、山手線の線路土手に咲く花々の世話もまた、園芸部が少なからず協力しているのだろう。これら園芸部の院外活動は、創立10周年を契機にスタートしたのかもしれない。

◆写真上:川村学園(左手)と、川村中学校・川村高等学校(右手)の現状。
◆写真中上は、1930年(昭和5)ごろに制作された小熊秀雄『目白駅附近』(部分)。椿坂から坂上を描いたもので、正面に見える古城のような建築が目白市場。中上中下は、川村女学院の本校舎と第二校舎。は、1934年(昭和9)に川村女学院鶴友会雑誌部から出版された『川村女学院十年史』()と、同学院の創立者・川村文子()。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「近衛町の農園」=目白町1丁目のキャンパス。中上中下は、同年の写真にみる「長崎町の農場」と同平面図。は、長崎仲町の農場で飼育されていたヒツジとニワトリが見える。
◆写真下は、1930年(昭和5)に撮影された元・川村院長邸。中上は、1934年(昭和9)現在のキャンパス平面図。中下は、同年に目白市場側から撮影された川村女学院全景。は、現在は川村学園女子大学になっている下落合の近衛町に隣接する「近衛町の農園」跡。
おまけ
 『川村学園40年のあゆみ』(1964年)には、本校舎から西南西を向いて1925年(大正14)に撮影されたパノラマ写真が掲載されている。中央左寄りに、3年前に橋上駅化された目白駅舎Click!とともに、そこには下落合の近衛町も写っているが、なぜかキャプションには「目白文化村」と誤記されている。w また、遠景ながら画面に戸田康保邸Click!のとらえられているのがめずらしい。写真下は、戦後に目白駅ホームの花壇を手入れする同校生徒たち。
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