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子どもを食らう深大寺の仁王。 [気になるエトセトラ]

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 「仁王塚」と呼ばれる遺跡が、全国各地に散在している。そう名づけられた由来は、寺の山門にいる仁王像(金剛力士像)が阿吽の2体1対のため、よく似ている“左右”の塚墓だから「仁王塚」と呼ばれるようになった……とするものが多いようだ。もちろん、この名称は後追いの付会と思われ、「仁王塚」と呼ばれる以前から、左右で1対に見える双子のような塚(古墳)は存在していたのだろう。
 東京にも、いくつかの仁王塚が散在しているが、怪談が付随しているのは深大寺門前の仁王塚だけだ。ただし、いまでは深大寺の仁王塚がどこなのか、まったく不明となっているようだ。仁王塚があったとされるあたり(深大寺元町3丁目界隈)で発見された、縄文早期から中世までの遺跡は、自治体が「仁王塚遺跡」と名づけているが、これは塚名というよりも地域名として遺跡に仁王塚を付加したものだろう。下落合の「丸山」Click!と同様に、近世以降は字名として採用されていたのかもしれない。現在の同地は、一面に住宅や各種施設が建ち並び、もはや塚状の地形はどこにも存在しない。
 また、深大寺元町3丁目の斜面から発見された古墳群には、「御塔坂横穴墓群」と名づけられている。もちろん、同古墳群は古墳末期の横穴墓であって塚状突起の墳墓ではない。さらに、深大寺の門前の坂のひとつで、仁王塚があったとされる仁王坂が通う斜面一帯だが、戦前からの空中写真を年代を追って眺めても一面に田畑が拡がるだけで、塚らしい明確な地面の突起は確認できない。ただし、冬場に撮影された空中写真を見ると、仁王坂の坂下に近い斜面西側に、小さな突起物らしきものがふたつ並んで見えているが、武蔵野に多い巨大な樹木(常緑樹)の影かもしれず断定することができない。
 深大寺で語られてきた怪談とは、仁王塚にはその名のとおり深大寺の山門にいるべき仁王像が埋められているという、まことに人を食ったような伝説だ。そのせいで、深大寺の山門には仁王がいなくなってしまったのだという。江戸期あたりの付会臭がプンプンする伝承だが、なぜ仁王が埋められることになったのかといえば、人を食ったからだ。すなわち、深大寺の怪談とは、近所に住む子どもを食った仁王たちの話なのだ。
 わざわざ深大寺まで出かけ、当時の住職に取材した磯萍水Click!のレポートが残っている。1943年(昭和18)出版の『武蔵野風物志』(青磁社)から引用してみよう。
  
 私は深大寺の和尚さんに訊いてみた。和尚は一寸迷惑らしい眉を顰めたが、やがて旧の諦めた顔に復つて、/「実は……」/四辺を憚る挙動で、声を竊めて、/「実は、彼の二王(ママ)は人を喰ひましたので」/「エツ、人を……」/私は不覚ず息を吸いた。
  
 和尚の話はこうだ。時代は不明だが、日が暮れるまで遊びほうけた村の子どものひとりが、黄昏どきになっても帰ってこない。子どもを心配した両親が、暗くなるまで村内をあちこち探してまわったが、まったく行方が知れなくなった。やがて、村じゅうが大騒ぎとなり、村民が総出でたいまつを片手に捜しまわったが見つからない。一度探したところも、人を変え目を変えて繰り返し探したが、ついに発見することができなかった。
 そこで、誰かが念のために深大寺の境内も探してみようということになり、村人たちが山門にやってくると、仁王の口からなにかが下がっている。たいまつの灯りをかざしてよく見ると、子どもが着ていた着物の付き紐がひっかかっていた。
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 馳集る人々、その母は、疑れもないわが児の着物の付紐だと云ふ。/何と云ふ事であらう、浅猿しとも、残酷しとも、何とも云ひやうもない大変である。正に、小児は二王さまに喰はれて了つたのだ、二王が小児を喰つて了つたのだ。
  
 このあと、両親の悲しみと村人たちの憤怒とで、深大寺の山門はただちに打(ぶ)ち壊され、2体の仁王像はバラバラにされ近くに穴を掘って埋められた……。
 この経緯は、おそらく話の順序が逆立ちしているのだろう。古墳時代の末期ごろに造られたとみられる御塔坂横穴墓群の丘上には、ふたつの双子のように築造された塚(時代は発掘調査の記録が見あたらないので不明)が並んでいた。おそらく当時の村人が、まるで寺の山門の左右にいる仁王像のような趣きなので「仁王塚」と名づけ、ほどなく丘上に出られ深大寺への参道筋である近くの坂道は、村人たちから「仁王坂」と呼ばれるようになった。何世代かたつうちに、「仁王」の名称がひとり歩きをしはじめ、おそらく江戸時代からだろうか、深大寺の住職が仁王塚にもっともらしい物語を語りはじめた。「子どもの蒸発」→「仁王に喰われた」→「山門を壊して仁王2体を埋めた」→「だから子どもは暗くならないうちに帰宅するように」という教訓話が、後世に付会されているように思われる。
 現在は形状をとどめない仁王塚だが、磯萍水は当の仁王塚を帰りがけに訪ねている。「秋晴の日何時しか曇つて、今にも降つて来さうな逢魔ヶ時、私はその二王の埋められてゐる、二王塚なるものを訪れた」とあるが、記述が曖昧でハッキリしない。地獄の閻魔大王ならともかく、仏に属する仁王が子どもを食うのはおかしいと、いろいろ推理を重ねていく。
  
 人を食べたが為に生埋めにされた、それなら何故四谷の大宗寺(ママ:太宗寺)の閻魔だの、蔵前の長延寺や大圓寺の十王堂の閻魔などは生埋にされないのであらう。大宗寺のなぞは反つてその為に売出して、付紐閻魔とさへ唱れるやうになつた。四谷と云へば誰しも先ず大宗寺の閻魔を連想する。よくも売込んだものである。處で、おなじ人を喫べながら、二王の場合には生埋めにされて、閻魔だと其儘に黙過されるのであらう。寔に依怙の沙汰ではないか。私は未だに人を喫べた閻魔が生埋めにされたと云ふ伝説を聞いてゐない。
  
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 そして、磯萍水は悪賢い“人さらい”のせいだと推理する。さすがに彼は20世紀人なので、「天狗にさらわれた」というような設定ではなく、人さらいが少年をさらったが、子どもがもどらないと村人が総出で探索・追跡してくるだろうから、追いつかれて見つかるかもしれない。そこで、子どもの着ていた着物の一部を仁王(おそらく阿形だろう)にくわえさせ、あたかも仁王が食ったように見せかけて時間を稼ごうとした……という推理だ。
 「仁王に食われた」よりは、江戸期の社会環境を考えるならかなりリアリティのある想定だろう。でも、当時の人々さえ仏である仁王が「なんで子どもを食らうんだ?」と、疑問をまったく感じないのはおかしいし、当事者である深大寺とのやり取りもないまま、こののちすぐに山門ごと破却され、仁王像が打(ぶ)ち壊されて穴に埋められてしまうのも不自然だ。つまり、子どもが行方不明になったという前提からして、全部丸ごと作り話なのではないかと考えるのがわたしの推測だ。
 なによりも、山門ごと仁王像が破壊されているのに、かんじんの深大寺側からの反応がなにも語り継がれていないし、仁王塚が宅地化される際に縄文期から中世までの遺跡は発掘されているものの、かんじんの仁王像はどこからも出土していない。江戸期から、仁王像のいる大きな山門が存在しない深大寺では、いつも「なぜ天平からつづくこれだけの古刹なのに、仁王のいる山門がないのか?」と訊ねられ、当時の住職がそれを常々残念に思っていて、たまたま坂の途中に地元民から仁王塚と呼ばれる墳墓があるのとからめて、もっともらしい物語を創作したのではないだろうか。
 この怪談は、『江戸名所図会』にも収録されているので、幕末も近い天保年間にはすでに成立していたのがわかる。したがって、語られはじめたのは江戸時代の前中期のいずれかの時期ではなかっただろうか。
 さて、話は変わり、秋めいた深大寺を訪ねた磯萍水だが、そのころからニュウダイスズメ(ニュウナイスズメ)の姿が目立ってきたという。わたしは、スズメにに頬が黒い個体と白い個体があるのは知っていたが、特に別の種だとはとらえてはいなかった。白い頬をしたスズメを、ニュウダイ(入内)と呼ぶのだそうだ。両者は、頬の色を除いてはとてもよく似ており、ちょっと見はふつうのスズメだが、秋から冬にかけて北のほうから渡ってくるのがニュウダイスズメだとか。思うに、京の御所の公家たちが顔に白粉を塗りたくっていたので、入内したスズメということで名づけられたのだろう。
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 磯萍水は地元の村々で、武蔵野の小鳥たちに付けられていた愛称も採取している。たとえば、ミソサザイは「棚さがし」または「下女のぞき」、キビタキは「山の神」または「団子背負い」、キクイタダキは「算盤たたき」、鷺は「雪客」、ヨタカは「瓜もみ」「黄瓜きざみ」「嫁起し」、カワセミは「魚虎」、そしてメジロは「奥さま」と呼ばれていたそうだ。でも、現代では野鳥をこのような名前で呼ぶ人に、わたしは一度も会ったことがない。

◆写真上:玉眼の水晶が美しい、鎌倉比企谷(ひきがやつ)にある妙本寺の仁王(阿形)。
◆写真中上は、仁王門が存在しない深大寺のコンパクトな茅葺きの山門。は、1958年(昭和33)に撮影された深大寺の門前蕎麦と現在の同店。
◆写真中下は、1958年(昭和33)撮影の深大寺雑木林。は、仁王坂の西側にふたつの突起らしいものが写る1947年(昭和22)と1948年(昭和23)の空中写真。
◆写真下は、内藤新宿の太宗寺にある閻魔堂の鰐口と閻魔大王。は、冬になると見かけるニュウダイスズメ(ニュウナイスズメ/)とスズメ()。
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