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空襲下に聖母病院で出産したひで夫人。 [気になる下落合]

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 戦争末期の1945年(昭和20)、大江賢次Click!は故郷への疎開を考えはじめている。相変わらず小滝橋Click!近くの旧・神田上水(1966年より神田川)沿い、このときは結婚して柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の借家だと思われるが、二度めの連れ合いであるひで夫人とともに住んでいた彼は、前線に従軍取材した作家たちとともに、全国を講演旅行しながらなんとか飢えずに食べていた。前線では、立野信之Click!武田麟太郎Click!川端龍子Click!鶴田吾郎Click!らといっしょだった。
 前年の暮れに、片岡鉄兵Click!が旅先の和歌山で急逝している。大江賢次は、若いころから非常に世話になった恩人なので、和歌山から光枝夫人Click!川端康成Click!とともに西落合へもどった遺骨を囲む通夜の席に急行すると、元・プロレタリア文学派や芸術派を問わず、当時のおもな作家たちが続々と集まってきた。大江賢次は、改めて片岡鉄兵の顔の広さと、人間関係の厚さや人づきあいのていねいさに感嘆している。
 その席で、立野信之Click!から全国各地での「前線」講演についてひやかされると、横光利一Click!がすかさず「大江君なら……壇上でだまつていたつて、受けるよ」と、真面目な顔をしていわれた。そのひと言で、通夜の席にもかかわらず参列者たちがドッとわいた。ふだんは寡黙な横光利一がしゃべったので、よけいに周囲の作家たちから受けたのだろうが、大江賢次のアゴにからめての冗談に、いくら食うためとはいえ「転向」したプロレタリア作家が積極的に軍に協力してどうするのか、それでいいのかよ?……という批判がこめられていたと、大江はその言葉を真摯に受けとめている。
 特高による検挙と、たび重なる拷問に耐えきれず表面上は「転向」を装ってはいたが、多くの作家たちがそうであったように彼もまた、内面の思想性はほとんど変わっていなかったのだ。それを知っている横光利一から、大江賢次は改めて主体性を問いつめられたと強く感じている。それに、特徴のあるアゴについて冷やかされるのにはすっかり慣れ、自意識過剰だった昔のように頭へ血がのぼって怒り狂うこともなくなり、横光利一の言葉を、冷静に受けとめられる余裕が生まれていた。
 大江賢次が東京にやってきて間もなく、実業之日本社に勤めていた若いころ、こんなことがあった。東京朝日新聞社が主催する「歳末救済週刊」で、岡本一平Click!が似顔絵を描くイベントがあった。大江賢次は、当時から著名な漫画家だった岡本一平に描いてもらおうと列に並んだ。自分の番がくると、岡本一平はそれまでのていねいさとは異なり、いかにも無造作に描いて「君はお代はいいんです」といった。もちろん、アゴをことさら強調したラフな似顔絵だったのだろうが、周囲から笑いもんにされた大江賢次はカネを払って色紙を受けとると、数寄屋橋の上からビリビリに破いて内濠に色紙を投げ棄てている。その少しあと、武者小路実篤邸Click!岸田劉生Click!との間でも同じことが起きているが、そのときはやや自制がきくようになっていたせいか破り棄てるようなことはなかった。
 1944年(昭和19)秋の「台湾沖航空戦」と呼ばれた戦闘で、大本営は「米空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、その他15隻を撃沈および撃破した」と「集計」し、日本近海に進出していた大規模な米機動部隊を「殲滅」したと発表したが、もちろんその戦果はまったくのデタラメで、同年の暮れから翌1945年(昭和20)にかけ東京への空襲はますます激しさを増していった。そのような状況下、柏木5丁目の借家で暮らしていた大江賢次の連れ合い、ひで夫人は3人めの子どもを身ごもっていた。
 狭い庭に防空壕を掘り、空襲警報のサイレンが鳴るたびに、ふたりの子どもと夫人を中へ避難させていたが、大江自身は町内役員を引き受けていたため、空襲のたびに敵機の動きを見張る役目をはたしていた。おそらく、池袋上空を見張っていた武井武雄Click!と同様に、“防空班長”を引き受けていたのだろう。このとき、町内に住む住民たちの疎開や避難を熱心に手助けしていたことが、戦後、それを憶えていた住民たちの好意で、江古田に安く自邸を建設することができている。
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 「転向」したとはいえ、元・プロレタリア作家などの自宅は「アカの家」Click!などと呼ばれて敬遠された当時、近所の町民たちから頼られ慕われた大江賢次は、まったくの例外的な存在だ。小作人が出自の大江賢次は、多くの作家たちがそうだったように大学出のインテリ臭さがまったくなく、アゴに特徴のある親しみやすい風貌をしていたせいで、周囲の町民たちからあまり警戒されなかったのだろう。
 空襲のさなか、防空壕に避難していたひで夫人に陣痛がはじまったときも、近所の人々と相談して、大急ぎで聖母病院へ担ぎこんでいる。そのときの様子を、1958年(昭和33)に新制社から出版された大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 「お腹が痛みだしてきたの……困つたわね」と、ひでは子供たちに気取られまいとおだやかに告げた。/これは事である、一刻の猶予もならない。まさか貧弱な壕で分娩もできまい。とつさに頭へひらめていのは、下落合の聖母病院だつた。ここは外国資本だし(ママ)するから大丈夫にちがいない。が、乗物とて何もありはしないのだ。そこで近所の人たちに相談をして、やつとリヤカーを壱台借りうけるとそれに座布団をしいて坐らせ、人かげのない道路をいつさんにひつぱつて走つた。/「ま、綺麗……!」と、ひではかるく呻きながら空を仰いで思わず叫んだ。/西日をうけた上空を、B29が銀色にかがやく三機編成の梯隊となつて、それに追いすがる戦闘機の飛行機雲が白くあざやかに弧をえがき、曲線も流麗な悽愴きわまる友禅模様をえがいていた。
  
 ひで夫人は、リヤカーで聖母病院Click!にたどり着くと無事に男の子を産み、大江家は5人家族となった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、(城)下町Click!の大火災で柏木5丁目の自宅で新聞が読めるほどだったという。これとまったく同じ証言を、東中野駅の近くに住んでいた秋山清Click!が新聞が読めたと、『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房/1986年)の中で証言している。おそらく、大火災の火焔とともに大量に投下された照明弾の光が、灯火管制で真っ暗な東中野界隈までとどいていたのだろう。
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 大江賢次は、妻子を連れて鳥取への疎開を考えはじめたが、町内の役目を放棄していち早く疎開するのは卑怯なことだと感じ、家族で話しあって近くに避難できる広大な戸山ヶ原Click!もあるので、空襲で自宅が焼けるまではがんばろうと決めた。この思いは、小滝台住宅地Click!に自邸を建設して住んでいた芹沢光治良Click!も同じだったようで、ふたりは東京の最期をこの目で見ようと悲愴な思いで語りあっている。
 だが皮肉なことに、旧・神田上水沿いに建っていた大江賢次の自宅は、都心(1944年より東京都)から徐々に伸びてくる防火帯建設Click!(建物疎開Click!)にひっかかり、1週間以内に立ち退けという命令がきた。この建物疎開は、江戸川橋から伸びてきた防火帯36号江戸川線と、新宿駅から伸びてきた防火帯32号線が、柏木地域で旧・神田上水沿いに合流するという計画だった。突然、自宅を壊すのですぐに立ち退けといわれたら、誰でも混乱するだろう。大江賢次は、ここでも町内の住民たちに相談している。
 住民たちは、大江賢次に去られるのが心細かったのか、妻子は疎開させても家を提供するので町内に残ってくれと懇願されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 急に神田上水にそつた私たちの住宅が強制疎開ときまり、大きな防火溝になるから一週間以内に立退けという達しがきた。容赦のない厳命である。その短日時にどうして満足に疎開できよう。で、ひとまず私の故郷の生家へ妻子を疎開させて、自身はふたたび引返してこの町のどこかに住もうと思いたつた。町の有志たちも、心強いからぜひそうしてくれと疎開空家を提供してくれたので、私は寝具と机や炊事道具をそこへ運び、若干は下落合の古田昂生の家へあずけ、おそらくとても届きはしないだろうが家具類を荷造りして、東中野駅へ持つていつた。駅の貨物係は山のような疎開荷物に埋もれて、/「この駅だけで、ひと列車がとこいりますぜ」と、肩をすくめた。
  
 町民たちの好意から、せっかく柏木5丁目に住む空き家を提供され、東京に残ることが決まっていた大江賢次だったが、彼が妻子を故郷へ送りとどけにいっている最中に山手大空襲にみまわれ、柏木5丁目一帯は一夜のうちに焦土と化してしまった。
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 上記の文中に、「下落合の古田昂生」の名前が登場している。脚本家で作詞家だった古田昂生は戦時中、下落合のどこに住んでいたのかは不明だが、名古屋で発刊していた映画雑誌『中京キネマ』や『キネマ文藝』はとうに廃刊していたのだろう。その後は、映画の脚本づくりに専念しており、戦前には『水戸黄門』や『風流やくざ』、『大名古屋行進曲』などを執筆していた。また、作詞では1933年(昭和8)に『中京小唄』がヒットしている。

◆写真上:小滝橋付近を流れる、神田川(旧・神田上水)の現状。
◆写真中上は、大江賢次が住んでいた柏木5丁目(現・北新宿4丁目)界隈の現状。は、当時は「小説の神様」といわれていた横光利一()と、売れていた漫画家の岡本一平()。は、1940年(昭和15)ごろに撮影された小滝橋とその周辺。
◆写真中下は、小滝橋の橋柱で大江賢次が暮らしていた当時のままだ。は、1945年(昭和20)4月7日に撮影された小滝橋界隈で、防火帯工事(建物疎開)の進んでいるのが見える。は、1945年(昭和20)8月28日に撮影された聖母病院。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲でB29から撮影された東京市街地。焼夷弾が落ちていく街並みが、東京のどこなのか調べているがいまだに不明だ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる柏木5丁目の焼け跡、は、戦時中は下落合に住んでいた古田昂生が1972年(昭和47)に出版した『酒井潔覚え書』()と、大正期から名古屋で編集していた映画雑誌「中京キネマ」の後継雑誌の「キネマ文藝」()。

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若いころのJAZZ喫茶めぐりのことなど。 [気になる音]

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 今年の11月24日で、ブログをはじめてから丸17年が経過し、18年目に入りました。同時に今週の初め、訪問者数がのべ2,100万人を超えました。いつも拙サイトをご訪問いただきありがとうございます。さすがにくたびれてきたのか、打鍵しすぎの腱鞘炎とドライアイが進み、新型コロナ禍も重なって思うような取材や記事が書けなくなりました。ある日、記事のアップロードが途切れたら、「あ、とうとうくたびれてイヤんなっちゃったんだな」……とご賢察ください。さて、18年目の最初の記事は、落合地域とも江戸東京ともあまり関係のない音楽の話ですので、興味のない方は早々にフォールアウトいただければ幸いです。
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 わたしの学生時代には、京都に老舗のJAZZ喫茶がごまんとあったのだが、そのほとんどが廃業して、いまでは既知の店は「大和屋」(最近はローマ字綴りの「YAMATOYA」のようだ)のみになっている。東京や横浜でも、ずいぶんと廃業した店が多いけれど、いまだに頑張っているJAZZ喫茶Click!も少なくない。左記のリンク先の記事に書いた、学生時代からいきつけの「マイルストーン」は、2019年(平成31)に閉店してしまった。
 JAZZ喫茶というと、条件反射のように「吉祥寺」を挙げる人も少なくないが、JAZZの基盤となった2ビートのニューオリンズなど最初期のJAZZはもちろん、4ビートから出発している8ビート(60年代)も16ビート(70年代)も許容しない、この音楽を4ビートのみに収斂して矮小化しようとする、偏屈なマスター(米国でいえば、時代とともに息づいている音楽=JAZZを博物館へピンでとめて展示するようなW.マルサリスみたいな存在)のいる街には昔から近づかなかったので、どうなっているのかは知らない。
 学校へ出かける前、または終ってから、あるいはアルバイトの勤め帰りなど、時間に余裕があると東京じゅうのJAZZ喫茶やライブハウスを訪ねてまわった。学校が休みに入ると、首都圏はおろか旅行がてら地方のJAZZ喫茶まで探訪して歩いたものだ。たいがい、どこの店でもLP片面のリクエストを受けつけていたが、初めてリクエストを断られたのは後にも先にも岩手県一関にある「ベイシー」のみだ。「いま、東京からお客さんがみえてるから」というのが、店員から伝えられたお断りのトンチンカンな理由だが、わたしも東京からの「お客さん」なんだけどな……と、あきれて連れと顔を見あわせたのを憶えている。
 当時は、『日本列島JAZZ喫茶巡り』とか『ジャズ日本列島』とかいうようなムックも出版されていて、日本全国どこへ旅行するにも持って歩くか、旅行先にあたる地方のページをメモしてもっていった。そんな中でも、とても居心地がよくて印象に残っているのは、横浜については以前に詳しく記事Click!にしているので省略するが、特に離れたところの店を挙げると、島根県松江の宍道湖温泉街にある「ウェザーリポート」だ。
 1970年代に開店した新しい店だったが(もちろん当時JAZZシーンを席巻していた「ウェザーリポート」にちなんだ店名だろう)、お客を好きなだけ放っておいてくれ、温泉街のせいか空いていて静かなのも快適だった。とうに閉店しただろうと思っていたのだが、あにはからんや現在も健在で内装も一新して営業をつづけている。わたしが立ち寄ったころは、なんだかJAZZ喫茶というよりは豪華な内装の名曲喫茶のような意匠だったが、いまではいかにも居心地がよさそうな店内に衣がえしている。今度、松江へ遊びにいく機会があれば、絶対に立ち寄るので閉じませんように。
 JAZZ喫茶だけが出版する独自のカタログが欲しくて、通いつづけた店もあった。高田馬場にいまもある「イントロ」で、現在は夜間のみのライブハウスになっているようだが、わたしの学生時代にはJAZZ喫茶としても午後から営業していた。この店のみで出版されている『JOHN COLTRANE DISCOGRAPHY』は、当時(1980年前後)に存在するコルトレーン(ts,ss,fl)の完全ディスコグラフィーとして全国的というか世界的にも有名で、手に入れられる限りのブートレグClick!まで網羅した、この店でしか手に入らないものだった。
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 ちょうど増刷か、あるいは再編集のタイミングだったのかもしれないが、わたしが求めに訪れたときはたまたま品切れで、その後、何度か通ってようやく手に入れたときはうれしかった。いまも手もとに置いているが、1977年(昭和52)の夏に出版されているので、わたしが手に入れたのは制作から3年後ということになる。
 ちょっと懐かしい同ディスコグラフィーの、小野勝による序文から引用してみよう。
  
 ジョン・コルトレーンのディスコグラフィーは過去に何回作られたであろうか? 私の記憶によれば、国内ではまず、コルトレーンの死んだ年のSJ誌(リーダーアルバムの写真のみ)、次に同じくSJ誌別冊(これはイエプセンを参考にしたと思われる)、その他さまざまなジャズ専門誌において取り上げられている。外国では、イエプセン、それに現在一番詳細であると思われる、ブライアン・デヴィス氏の編集がある。日本のものはジャケット写真を載せているものが多いが、レコード単位の編集の為、未発表セッションが抜けていて明らかにデータ不足と思われるし、また、外国のものは、データは非常に詳しいが、ジャケット写真が載っていないということで、どちらも不満に思っていた。/そこで今回、その両方を満足させるべく、ジャケット写真は出来るかぎり、オリジナルなものを茂串氏と私のものでそろえ、現在日本で得られる最新の情報を基に作成した。
  
 この中に「SJ誌」と出てくるのは、2010年(平成22)に休刊(廃刊?)となった「スイングジャーナル」(スイングジャーナル社)のことだ。当時は、「スイングジャーナル」と「ジャズ批評」(ジャズ批評社/健在)が2大JAZZ誌といわれ、プロのミュージシャンや専門家向きには「JAZZ Life」(ジャズライフ社/健在)や「ADLIB」(スイングジャーナル社/2010年休刊)などがあった。当時はおカネがなかったので、たいてい書店で新着ニュースや新譜のリリース情報を立ち読みしていたのを憶えている。
 当時の「イントロ」は、コルトレーンのブートレグを含めた完全コレクションが聴ける店として全国的に知られていたが、完全ディスコグラフィーを発行している店としても有名だった。もっとも、現在ではコルトレーンのアルバムは当時の倍以上、つまり彼が生きていた時代よりも圧倒的に数が多く、ブートレグにいたっては世界じゅうで数えきれないほどリリースされているので、いま「完全ディスコグラフィー」を画像入りで作成するとすれば、とてつもなくたいへんな仕事になってしまうだろう。
 わたしも、当時から新宿や御茶ノ水、神田などにあった輸入盤の専門店で、日本ではめったに手に入らないアルバムやブートレグを漁っていたが、コルトレーンほどのビッグネームならともかく、ちょっとメジャーから外れるミュージシャンだと国内盤が充実していて輸入されるLPレコードは枚数が少なく、「きのう売り切れました」といわれることも多かった。輸入盤のLPレコードは、国内のリリース盤よりも30~50%も安かったため(そのかわり、ジャケットのどこかが必ず三角形に切りとられていたが)、わたしのように貧乏な学生がしじゅうマメに訪れては、美味しい作品をいち早くかっさらっていったのだ。
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 当時、JAZZ喫茶へ出かけると面白い遊びをしたことがある。たいがいJAZZの名盤と呼ばれるようなメジャーレーベルのアルバム、たとえばVerveやPrestige BlueNote、Impulse!、Columbia、RIVERSIDE、Bethlehem、ECMなどの作品が、有名どころのJAZZ喫茶ではしょっちゅうかかっていることが多かったが、わたしの好きなアルバムだけれど滅茶苦茶マイナーで地味な、クロード・ウィリアムソン(pf)Click!の『クレオパトラの夢』(Venus Record /1977年)とかをリクエストして店内に流れると、お客たちが「このアルバムはなんなんだよ?」と、柱や壁などのスタンドに立てかけられたジャケットを確認しに、ゾロゾロとあちこちから席を立って見にくる。
 いまから考えてみれば、野暮でイヤミでつまらない遊びを臆面もなくしていたものだが、当時は「こんなアルバム、知らないだろ?」「モブレー聴くなら、こんなのもあるよ」と自慢しているようで、それが恥ずかしながら面白かったのだ。玄人好みといわれ、「白いバド・パウエル」などと呼ばれたクロード・ウィリアムソン(pf)でもそうだが、まるで演歌かよと思うようなコブシのきいたFlying Dutchmanのガトー・バルビエリ(ts)や、デビューして間もない高瀬アキ(pf)でも同じような現象が起きて、内心「やった!」などと思っていたのだから、いまから思えば汗顔のいたりだ。
 でも、有名なアルバムばかりでなく、こういう作品もちゃんとそろえているJAZZ喫茶が、都内ではどこでもあたりまえのように存在していた。名盤や名前の知られたミュージシャンから大きく外れ、アルバムがリリースされたこと自体さえあまり知られていないような作品でも、たいがいの店には当たり前のようにたいてい置いてあったのだ。つまり、店のオーナーやマネージャーが、それだけ敏感にアンテナを張りめぐらして、毎月リリースされる作品を几帳面にチェックし、いつリクエストがあっても応えられるよう店の棚にきちんとそろえていたことになる。ただし、こんなJAZZアルバムは置いてないだろうと、ブートレグレベルの作品を次々にリクエストして「なぜ置いてないの?」とマスターを困らせる客もいたというから、わたしの遊びなどかわいい部類に入るのかもしれないが……。
 だが、メディアがLPレコードからCDへ移行するにつれ、広い収納スペースが必要で場所をとる(そしてとてつもない重量の)LPレコードを整理・処分するJAZZ喫茶も増えはじめ、LPからCD化されなかったアルバムは、次々とこの世から姿を消していくことになった。いまだにアナログプレーヤーで、DENONやオーディオテクニカ、GRADO、オルトフォンなどのカートリッジを装備してLPレコードを処分していない店では、そんな古いアルバムをリクエストしてもたいていは聴くことができるが、1980年代以降に開店したJAZZ喫茶orJAZZバー(もどき?)ではCDが主体で、しかもリクエストを受けつけない店も少なくない。
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 頑固にLPレコードをそのまま保存し、最新のオーディオシステムClick!ではなく、当時のレコードの再生に見あった昔のシステムで聴かせる店は、いまやJAZZ喫茶よりもクラシックの名曲喫茶のほうが多いだろうか。いまにして思えば、JAZZ喫茶がバタバタと店じまいをはじめたのは、新宿の歌舞伎町にあった「木馬」の閉店がきっかけだったかもしれない。お客はいつも多く入ってにぎやかだったし、新派Click!の水谷良重(現・水谷八重子)が経営していたので、まさか早々に閉店するとは思ってもみなかった。「木馬」でのリクエストは、地下の広い空間に大音量で流せる、エレクトリック・マイルスがいちばん多かっただろうか。

◆写真上:LPジャケットを壁紙がわりにして、壁一面に貼っている店も多かった。ジャケットデザインを見ただけで、サウンドやvoが聴こえてくる“名盤”アルバムばかりだ。
◆写真中上は、2019年に閉店した高田馬場の「マイルストーン」。学生時代はオリジナルエンクロージャの巨大なJBLだったが、今世紀に店内を改装してからはマッキントッシュClick!+JBLオリンパスになった。は、こちらもオリンパスの松江「ウェザーリポート」。わたしが寄ったときは、もっと豪華な内装でかなり明るかった印象だ。は、後藤マスターで有名な四谷の「いーぐる」で、マイルス作品はよくここで勉強した。
◆写真中下は、地味なクロード・ウィリアムソン『クレオパトラの夢』(1978年/)と、ガトー・バルビエリ『アンダー・ファイアー』(1973年/)。は、1986年に発行された最新版(?)『ジャズ日本列島』(ジャズ批評社/)と、1977年に発行された『JOHN COLTRANE DISCOGRAPHY』(イントロ/)。は、学生時代とはちょっと印象がちがうイントロの店内で、当時の装置はALTECだったと思う。
◆写真下は、同ディスコグラフィーのコンテンツで緑色の〇印がついている作品は入手済みだったが、〇印のない希少盤は東京じゅう探しまわったのを憶えている。は、同冊子の奥付で「ムトウ楽器店」とか「タイムレコード」などの店名が懐かしい。(あっ、画像にネコの毛が……。スキャナの上が温かいものだから、最近そこで寝たりするのだ)

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いわくつきだった高根町の無人踏み切り。 [気になる下落合]

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 中井駅前の辻山医院Click!で開かれていた文学サロンClick!には、東京帝大の全協グループClick!に属していた荒木巍(たかし)もいた。大江賢次Click!林芙美子Click!らとともに、ときどき辻山医院に立ち寄っては院長の辻山義光や、妻の辻山春子らと文学談義に花を咲かせていたのだろうが、このとき荒木巍は中野区の城山町に住んでいた。
 鶴見で特高Click!に逮捕され、川崎署に拘留されて拷問を受けたあと釈放された大江賢次Click!は、最初の妻と別れて再び上落合にもどると、鶴見に住んでいたころの家具調度を下落合4丁目2133番地の五ノ坂下にあった、林芙美子・手塚緑敏邸Click!の地下室にあずけ、神田川に架かる小滝橋近くの借家2階にひと間を借りて下宿している。この2階家の住所がどこだったのか、大江の著作には書かれていないので不明だが、おそらく村山知義アトリエClick!からそれほど離れていない位置だったのではないかと思われる。ほどなく、旧・神田上水沿いの中野区側に転居してしまうので、住んだ期間もかなり短かったのだろう。
 このころから、大江賢次は近くの小滝台に住んでいた芹沢光治良邸Click!や、歩いて20分ほどの城山町に住んでいた荒木巍のもとを頻繁に訪ねている。当時の荒木巍は、東京帝大の全協グループがつぶされたあと転向し、「改造」の懸賞小説に当選して作家活動をつづけており、武田麟太郎Click!が主催する「日暦」に参加していた。「日暦」グループには、下落合の矢田津世子Click!や友人の大谷藤子Click!が参加していたが、荒木巍は大谷藤子とつきあっているというウワサがあった。
 1958年(昭和33)に新制社から出版された、大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 彼(荒木巍)は結核で夭折したが貴公子然たる男ぶりだった。「日暦」の大谷藤子と愛しあっているという、もっぱらの噂に私が結婚をすすめると、/「大谷さんは、故郷が近いよしみだけでそんなことはないよ。むしろ、矢田さんをすすめてるくらいなんだ。……しかし、個性のつよい作家同士は不幸だし、君の破婚ばなしを聞くと、恐くなつてねえ」/その、美しい矢田津世子も死んだ。うつくしいものは愛惜されながら、はやくほろんでいく。そして私みたいなヒネこびた容貌の持主は、いくらもみくちやにされても生き永らえて……死神すらそつぽを向いている!(カッコ内引用者註)
  
 この当時の矢田津世子は、姻戚関係にある坂口安吾Click!との仲もなんとなく中途半端で、当時はいまだ時事新報社(のち中外商業新報社に転職)の記者をしていた、和田日出吉との交際もつづいていただろう。それとも、和田と別れてフリーになったことを知っていた親友の大谷藤子が、荒木巍に矢田津世子との交際を勧めたものだろうか。
 大江賢次が「ヒネこびた容貌の持主」と書くのは、もの心つくころから前に突きでた自分のアゴに大きなコンプレックスを抱いていたからだ。自伝である著作を『アゴ傳』としたのも、子どものころからアゴのことでさんざん繰り返し嫌な目にあってきたからで、やや自嘲気味にタイトルをつけたのだろう。この容姿(顔貌)へのコンプレックスは、彼の精神生活に終生ついてまわり、どこか道化て“トレードマーク”のようにも表現しているエッセイが頻繁に登場する。ちなみに、大江賢次は花王石鹸Click!花王のマークClick!が入った商品もことのほか嫌いだったと書いているので、おそらく同じ下落合でもミツワ石鹸Click!のほうを使っていたのだろう。w
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 この特徴のあるアゴに、すかさず目をつけた画家がいた。大江賢次が、小岩の武者小路実篤邸Click!で書生をしていたころ、頻繁にやってきていた岸田劉生Click!だ。劉生は、武者小路実篤の子どもと戯画を描いて遊んでいたが、さっそく彼の前に座ると筆で写生をはじめている。いわゆる劉生マンガClick!を写生用に持ち歩く和紙へ描いたのだろうが、そのときの様子を同書より再び引用してみよう。
  
 あるとき、酔余の筆をとつて、可愛いざかりのお子さん相手に、鍾馗と桃太郎が相撲をとつている戯画をかいていたが、私がお茶をもつていくとジロリと見るなり、/「おやおや、書生さんの三日月アゴとおいでなすつた……よいこらどつこいしよ――」と、いきなり筆勢もあざやかに私の横顔をえがくと、その長いアゴを渥美半島のようにのばして、みるみる鍾馗と桃太郎の土俵にしたではないか。/「やあ、お見事お見事!」/「こいつは岸田劉生の、畢生の傑作だぜ」/「高山寺の、鳥羽僧正の絵巻よりもシニカルでいいや。岸田はなぜこんなのを書かないんだね、きつと受けるんだがなあ!」/一座のひとびとが賛辞を呈すると、彼はおどけて厚いおでこをたたいて、/「それこそ、この書生さんの額面どおりガク然としまさあ、えつへ! えつへ!」と、わらいのめした。/私は、赤くなりながら記念に乞うた。すると画伯は「双雄力闘宇宙顎然之図」と右に書き、左下に「老花子 劉生」と署名してくれた。
  
 絵をもらい受けた大江賢次は、のちに額装しようと大切にしまっておいたのだが、特高によるガサ入れ(家宅捜査)で押収され、二度ともどってはこなかった。この事例でもそうだが、ガサ入れで押収した物品の中から検挙理由になりそうなもののみをリスト化し、そうではないカネ目のものは押収品リストから外して横領したり、横流しして金品を着服する腐敗した特高刑事たちがずいぶんいたようだ。
 要するに、警察権力をバックにしてドロボーを働いていた特高刑事たちで、ガサ入れで「押収」された高価な品々や金品はもどってこないことのほうが多かった。大江賢次のたいせつな絵も、端に「劉生」という署名を見つけた特高が、どこかの画商へでもいい値段で横流しした可能性が高い。押収した特高のいる警察署へ、大江賢次は繰り返し「お百度」参りをしているが、「知らぬ存ぜぬ」ととぼけられたうえ追い返されたようだ。戦災で焼けていなければ、「渥美半島」のような大江賢次のアゴの上で相撲をとる鍾馗と桃太郎の劉生マンガは、いまでも日本のどこかの骨董屋をさまよっているのかもしれない。
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 さて、上落合の小滝橋近くにあった下宿から、そして転居した小滝町さらには柏木5丁目の借家から、大江賢次は東中野駅と中野駅の中間にあたる中野区城山町(現・中野1丁目)の荒木巍をよく訪ねている。どちらの家からも、東中野駅に出て線路沿いに西へ歩き、中央線の南側にある城山町へ抜けるためには、その手前で線路を渡ることになる。
 城山町への最短の道筋は、中央線の線路沿いをまっすぐ西へ歩いてきたあと、同町の東に接する高根町14番地と15番地の間にある無人踏み切りをわたるのが、まわり道をせず距離も近くてアクセスに効率がいい。その220mほど手前、氷川町14番地に架かっていた跨線橋(現在は撤去)をわたると道路が少し南へ下るため遠まわりになる。高根町の無人踏み切りを利用していた大江賢次は、なぜかわたるたびに無性に電車へ飛びこみたくなる不思議な衝動を味わいつづけていた。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 彼(荒木巍)は武田麟太郎の「日暦」グループで、高見順や新田潤と轡をならべていた。同じ共通した転向の悩みにつながつているだけに、私たちはよく連れだつてそこらあたりをテクテク歩いた。彼もまた、私の愚痴ばなしのゴミ箱を任じてくれたものだ。城山町の下宿へいく途中に、中央線の無人踏切があつたが、そこは妙にとびこみたくなる誘惑を感じるともらすと、荒木巍は顔色をサッとかえて、/「あそこは、今年になつて三人もとびこんだ。君は今後、絶対に陸橋をわたれ――」と、忠告したものだ。/その後、どうも胸さわぎがしてならないから、君の安否をたしかめにきた、と深夜にきてくれた友情をどうして忘れ得よう!(カッコ内引用者註)
   
 この高根町の無人踏み切りは、過去の拙記事にもすでに登場している。吉岡憲Click!が深夜に中央線へ飛びこんだ、あの踏み切りだ。
 書き置きも遺書もなにもなく、「あれは事故だった」としたがる画家仲間や、「制作のいきづまりか」と書くマスコミ、そして「妻の病気と家政の逼迫」という家庭環境を理由に挙げる書籍などとは別に、大江賢次によれば踏切りが近づくと、「妙にとびこみたくなる誘惑」にかられるという不可解な要因を、もうひとつ加えなければならないだろう。この無人踏み切りで、過去にいったいなにがあったのだろうか?
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 あまりに人身事故が多かったせいだろうか、同踏み切りは廃止され、現在はそのすぐ東隣りに跨線橋が設置されている。荒木巍は、踏み切りのことを聞くと「顔色をサッとかえて」いるので、なにかこの場所にまつわる因縁話でも知っていたのかもしれない。

◆写真上:人身事故が多くて廃止されたとみられる、高根町の無人踏み切り跡。
◆写真中上は、1958年(昭和33)に新制社から出版された大江賢次『アゴ傳』()と著者の献呈サイン()。は、矢田津世子()と大谷藤子()。は、若き日の岸田劉生()と1956年(昭和31)に撮影された大江賢次()。若いころの大江賢次は、顔貌にコンプレックスを抱えていたせいか写真がきわめて少ない。
◆写真中下は、岸田劉生「ばけもの」画帖の1作で『料理のない時をる化けもの』(部分)。筆で大江賢次の横顔を描いた戯画も、おそらくこのようなタッチだったのだろう。は、城山町の荒木巍のもとへ向かう大江賢次の訪問コースと、死の誘惑からの危険を避ける荒木巍のおすすめ安全コース。は、高根町の廃止された踏み切り跡の現状。
◆写真下は、1936年(昭和11)ごろの空中写真にみる中央線が通過する高根町の無人踏み切り。は、高根町踏み切り跡を北側から。は、駅のベンチで一服する吉岡憲。

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上落合の大江賢次と芹沢光治良。 [気になる下落合]

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 上落合での芹沢光治良Click!の影は薄い。ほどなく、上落合から華洲園Click!跡に造成された中野町の小滝台住宅地Click!に新邸を建てて転居しているので、上落合206番地は敷地探しと自邸が竣工するまでの短期間しか住まなかったからだろう。
 ちょうど芹沢光治良が住んでいた1930年(昭和5)ごろ、上落合にはプロレタリア文学の作家や美術家たちが大勢住んでおり、大江賢次Click!もその中のひとりだった。同年の春、改造社が主催した第3回懸賞創作(小説)募集で、大江賢次の『シベリヤ』が2等賞に入選し、賞金の750円(今日の価値で370万円前後)をもらっている。このとき、1等賞だったのが芹沢光治良の『ブルジョア』で1,500円の賞金を手にしている。ふたりは、芝区愛宕下町にあった改造社の賞金授与式で、初めて顔をあわせた。
 大江賢次Click!は、2等賞に入選したこの年を「わが人生で最良の年」と表現し、「風船玉のようにフワフワと、天にも昇らん心地」だったと、『故旧回想』(1974年)の中で述懐している。芹沢光治良の『ブルジョア』は、別に階級観を押しだしたプロレタリア文学ではなく、パリ留学で胸を病みスイスのサナトリウムにおける自身の生活体験を描いた芸術派の作品で、1935年(昭和5)の「改造」4月号に掲載された。一方、大江賢次の『シベリヤ』は、日本のシベリア出兵をテーマにした反戦小説で、特高Click!の検閲により伏字だらけで同年の「改造」5月号に掲載されている。ちなみに、改造社の文学賞は第1回の1等が下落合に住んだ龍胆寺雄Click!で、第2回の1等は該当作なしだった。
 当時の上落合は、「落合ソヴェト」などと呼ばれたぐらい左翼作家たちが集合して住んでおり、芹沢光治良や檀一雄Click!尾崎一雄Click!などは場ちがいで、疎外感すらおぼえていたのではないだろうか。当時の街の様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から刊行された大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 そのころの上落合は、いうなれば左翼文学のメッカで、私服の特高刑事も目をつけていた。だから立野(信之)は急に私の肩をつかんで、横っ飛びに路地を走り、/「あいつは本庁のイヌだ」/私はあえぎながら、いっぱしの闘士ぶった心境に浸ったものである。だから中央線の東中野駅前の交番には、でっかい鏡で昇降口の人びとを映して、刑事は一般から見えない横っちょから、赤いやつらを見張っているしまつであった。東中野には「ユーカリ」という、昼は喫茶、夜は酒場があって賑合った(ママ)ものだ。よっちゃんというマドンナがいて、当時わかい左翼作家の林房雄など、さかんに張っていた。これは余談だが、それからずっとあと、もうユーカリもつぶれた付近に、岸田劉生の「麗子像」の本人が店をだしたので、私は行ってみたがすでにあの童女でなく、齢より老けた爛熟の頽廃が見るにしのびなかった。(カッコ内引用者註)
  
 家が近くだった立野信之Click!と、連れ立って歩いていたときの情景だが、東中野駅前の交番に大きな鏡を置いて、左翼の作家たちの動向を監視していたのは初めて知るエピソードだ。ここでも、喫茶店「ユーカリ」Click!「よっちゃん」Click!が登場しており、やはり林房雄Click!の名前が挙がっているのでよほど熱心に通ったものだろう。
 15歳で父親を亡くした岸田麗子Click!が、1934年(昭和9)1月から母子の生活のために、東中野に喫茶店「ラウラ」を出していた話は有名だが、当初は本人がカウンターに入って接客していたものの、いちいちマスコミに騒がれるのでイヤになり、ほどなく出勤しなくなってしまった。岸田麗子は、このとき20歳になったばかりのいまだ童顔の面影が残る顔立ちをしていたはずで、大江賢次が見て「齢より老けた爛熟の頽廃」を感じたのは、麗子に代わってカウンターに入っていた、成長した麗子に面影がよく似て歳よりは若く見えた岸田劉生Click!の夫人、岸田蓁Click!ではなかっただろうか。w
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 岸田家の喫茶店「ラウラ」は東中野駅から北上し、上落合から中野町小滝1567番地(1932年より中野区小滝町52番地)へ転居した芹沢光治良の家からも近かったようで、彼もたまに寄ってはコーヒーを飲んでいたようだ。ただし、それは4~5年ほどあとの話で、上落合206番地の芹沢邸にもどろう。大江賢次は、芹沢邸を初めて訪問したときの印象を、次のように書いている。同書より、再び引用してみよう。
  
 芹沢さんはそのころ、上落合の貸家に住まっていた。私が初めて訪問したとき、パリーで胸を患い、スイスの療養所で闘病後の彼は、東大で川端康成、大仏次郎、大森義太郎、三木清などと同級で、私とは十ちかく年上であった。奥さんは名古屋の私鉄社長の娘で、ざっくばらんに人柄が親しめたし、ことにあちら生まれの長女のマリコちゃんが、/「テ、テー」と、しきりにいうので、私はぶこつな手をつん出したら、/「いえ、フランスでは、お客さんにお茶を出すのをテイーというのです」と、説明をうけて赤面した。
  
 大江賢次は、成績がよかったにもかかわらず進学できず、尋常小学校を卒業したあと小作人の両親を手伝い、農閑期には土方をして暮らしていたという経歴だったが、芹沢光治良は帝大を卒業すると、フランス文学を学びにパリのソルボンヌ大学へ留学し、1928年(昭和3)の帰国後はすぐに新邸建設の敷地探しをしながら、上落合の借家に仮住まいをするような暮らしぶりだった。
 本来なら、まったく水と油の生活環境であり、文学も芸術派とプロレタリア派でどこにも交点がないようなふたりなのだが、改造社の文学賞を受賞したときから10歳の年齢差を超えて、なぜかお互いウマがあったようだ。ふたりとも育った家庭が貧しく、非常に苦労しながら文学を志していたところが共感を呼んだものだろうか。大江賢次が上落合を4年間も離れて、鶴見で特高に検挙され川崎警察署でしばらく拘留されたのち、小滝橋Click!近くに建っていた上落合の素人下宿にもどってきたとき、ふたりの交流はすぐに復活している。
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 大江賢次は、しばらくすると上落合の素人下宿を引きはらい、小滝橋の少し上流に位置する旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの1戸建てに移っている。その小さな2階家は、1階が6畳と4畳半、2階は6畳が2間の構成だったが、彼は2階の6畳1間を借りて住んでいる。小滝台住宅地へ転居していた芹沢光治良邸とは、「四百米ほどの近さであった」(同書)と書いているので、おそらく現在の中野区立第三中学校(旧・東中野尋常小学校)の川向こう、柏木5丁目(現・北新宿4丁目)のどこかに建っていた借家なのだろう。
 ふたりは、お互いの家を往来しては、近くの戸山ヶ原Click!を散歩している。大江賢次は、芹沢を訪問するとき小滝台の急坂かバッケ階段を上っていったはずで、大きな屋敷街の芹沢邸の前に立つと、イヤでも暮らしのちがいを見せつけられるような気になっただろうが、なぜか親しみは薄れなかった。芹沢光治良も、散歩に出ると大江宅に立ち寄っては、連れ立って歩くことが多かった。そんな道すがら、大江はロシア文学には詳しかったがフランス文学には疎かったので、芹沢光治良からずいぶん“講義”を受けたようだ。芹沢は盛んに、バルザックを研究するよう彼に勧めている。
 いちおう結核は回復しているとはいえ、芹沢光治良は寝室の窓を開け放して寝ていた。結核には新鮮な空気がいいという、当時の自然療法からの考え方からだが、スイスのサナトリウムでも冬に窓を開けたまま寝ていたので、窓から雪が吹きこんでベッドに積もるほどだったという。ある日、芹沢は「きみと会って話していると、若い健康な肉体が発散するエネルギーに、じつは息苦しい圧迫を感じたものでしたが、しだいに馴れてきたのは私の回復のしるしと、その目安にしてましたよ」と、大江にしみじみと語っている。
 バルザックの次は、ユーゴ―、フローベル、ドーデー、モーパッサン、スタンダール……と、芹沢光治良の“講義”はつづいた。ある日、散歩に出るとき芹沢は長女を連れてきたことがあったが、大江宅に上がるとあどけない声で「きたないわ」といったので、以後はひとりで誘いに寄るようになった。大江賢次が酔っぱらって終電で帰っても、小滝台の丘を下から見上げると、芹沢邸の書斎にはポッと灯りが点いており、執筆か勉強に打ちこんでいるのがわかった。芹沢は非常にストイックで、身体にさわるせいだろう酒もタバコもたしなまず、一心不乱に創作へ取り組みつづけていた。
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 大江賢次の友人が、「彼からフランスを取り除いたら、何が残るかね何が?」と意地悪く批判したとき、彼は「じゃあおれたちから、何をとりのぞけばいいだろう何を……?」と反論している。思想や表現の立場はちがったが、大江は芹沢光治良を終生尊敬していた。

◆写真上:小滝町52番地に新築の、自邸の庭で撮影されたとみられる芹沢光治良。
◆写真中上は、1930年(昭和5)の「改造」4月号に掲載された懸賞創作入選の発表と芹沢光治良『ブルジョア』。大江賢次の『シベリヤ』は、翌5月号に掲載された。は、戦前の中央線・東中野駅踏み切り。当時の駅舎は左手の少し先にあり、この踏み切りをわたってまっすぐ北上すると、芹沢邸のある小滝台の西側を通って上落合へと抜ける。は、戦後に撮影された大江賢次()と直筆のサイン()。
◆写真中下は、1938年(昭和11)作成の「火保図」にみる上落合206番地の旧・芹沢邸(2軒のうちのいずれか)。は、1940年(昭和15)ごろの空中写真にみる旧・芹沢邸。は、文学の集まりで中央が芹沢光治良で左側が林芙美子Click!
◆写真下は、1936年(昭和11)と1940年(昭和15)ごろの空中写真にみる中野町小滝1567番地(1932年より中野区小滝町52)の芹沢光治良邸。は、上落合の南隣りに接する小滝台に竣工した芹沢邸。は、小滝台の丘に上るバッケ(崖地)Click!の急坂。

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中井駅前の商店街で値切る林芙美子。 [気になる下落合]

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 林芙美子Click!は、浦和のうなぎ屋Click!での一件があったにもかかわらず、大江賢次Click!に対しては手のひらを返したようにはならず、驚くほどやさしく接しつづけている。片岡鉄兵・光枝夫妻Click!がそうだったように、大江賢次にはどこか「面倒みてやらなければ」という思いを他者に抱かせるような、得な性格をしていたようにも思えるが、彼が貧乏のどん底にあえいで明日をも知れない生活を送っていたせいもあるのだろう。
 どうやら、林芙美子には自分より生活が困窮している、あるいは困難に直面してとことん追いつめられている人間を見ると、とたんにやさしく保護したくなるような性癖があったようで、うがった見方をすれば下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んでいた船山馨夫妻Click!に終始やさしく接していたのも、ヒロポン中毒で夫妻が明日をも知れぬ破滅寸前にまで追いつめられていたからではないのかな……とさえ思えてくる。彼女が子どもをことさら愛して優しかったのも、自分が保護する対象としてのみ、安心して眺めていられたからではないだろうか。
 ところが、自分より豊かな生活をしている同性作家や、自分よりも優れた作品を書いていると認めざるをえない同性作家、あるいは自分よりも文壇あるいはマスコミでチヤホヤされている相手には、それを努力や精進のバネにしようという意識には転じず、口をきわめてあることないこと容赦のない悪口を記者たちにいい含めるか、ときに鎮痛剤中毒で上落合842番地Click!から鳥取へ帰郷した尾崎翠ケースClick!のように、各出版社をまわって平然と「死んだ」ことにするのさえいとわなかった。(戦後にNHKの“裏とり”取材で、ようやく尾崎翠Click!の生存が確認されている)
 そんな林芙美子も、プロレタリア文学の端くれをにない、きょうの食事にもこと欠いていた大江賢次には、うなぎ屋で襲って気心が知れた(?)ものか姉のようにやさしかった。ある日、腹を空かせた大江賢次が五ノ坂下の彼女の家を訪ねると、夕食をいっしょに食べていけと中井駅前の商店街へ買い物に誘われている。そのときの様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から刊行された大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 またあるとき、黄昏の谷底の町並をいっしょに歩いていた。外食はつらかろうから、今夜はうちで食べなさいといって、買出しのお手伝いである。西武線中井駅ちかくに商店が多く、林さんは姐ごらしく、私は少し離れて後を追うたが、どの店でもかならず値切る口上のうまさ、つい正札よりも安く仕入れる手ぎわのよさにたまげた。/「や、先生にかかっちゃたまらねえや」と、顔なじみの八百屋は鼻をこすって、「だからほら、最初から二十銭のとこを十八銭に負けてまさ」/「でも、仕入れは十五銭くらいでしょ、もう一銭がとこ負けて、十七銭にしときなさいてば」/行商人の両親について、旅から旅をめぐり、いっときは渋谷の道玄坂で夜店をやった経験があるだけに、商いのかけひきのよろしさ、ちゃんと相手の気ごころを見抜いて、がめつい値切りが愉しそうでさえあった。
  
 月額25円もする西洋館の家賃を楽々と払い、毎月大金を稼いでいる有名な流行作家が、大江賢次も「がめつい」と書いているように、地元の零細商店で商品を値切り倒してはダメでしょ……とふつうは思うのだが、林芙美子にはそのやり取りがゲーム感覚で面白かったのかもしれない。でも、中井の商店街にしてみれば、自分たちより月々何十倍、何百倍もの収入がある作家に値切られては、実にたまったものではなかっただろう。
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 いちおう、八百屋の店主は彼女を「先生」と呼んでいるけれど、カネづかいがキレイでない林芙美子のことを、地元の商店街ではなんといっていたのか、わたしは一度も取材したことがないので知らないが、地元の有名な「作家先生」として自慢し、誇りに思ってなどいなかったのではないだろうか。戦後、下落合3丁目1146番地(現・中落合1丁目)に自邸&プロダクションClick!があった赤塚不二夫Click!のことは、商店街では親しみをこめて語られているのを知っているが、林芙美子については一度も聞こえてきたことがない。
 さて、林芙美子は大江賢次に、小説の書き方のていねいな手ほどきさえしている。「私をいっそう可愛がってくれて、よく創作のコツを教えてくれた」(同書)と書くほど、彼女は大江賢次のことを「弟」のように扱っていたようだ。彼が書いた作品について、登場人物の具体的な特徴を指摘しながら、人物描写のリアリズムについて詳細に教えている。「あんたの小説の主人公、やたらにけんめいに描いているけど、あんなのだめ。小説は芝居と同様に、大道具や小道具をうまくあしらうもんよ」と、文章を添削するほど熱心に教えているところをみると、林芙美子は彼によほど気を許していたのだろう。
 作家なら誰もがもっている「創作の秘密」とでもいうべき、描き方の手法や独自の細かなテクニックまで、彼女は大江賢次に教示している。同書より、再び引用してみよう。
  
 示されたのは、書きそんじの原稿用紙の裏いっぱいに、登場人物の顔や姿をえがき、その横に「ここにホクロあり」とか、「ドモるくせ」とか、「髪に手をやるとき小指をピンとさせる」など、略図ながら人間像あまたに注釈していた。それらの綿密な設計図は、本人が焼却したかも知れないが、もし今あれば貴重な研究のよすがになろう。/のちに現住所から二百米ほど離れた、目白台(ママ)の丘の斜面を手に入れ、庭には伊豆ふうの竹林をしげらせ、養子を学習院に通わせて、「放浪記」の作者らしくない暮し向きに辟易した。立野(信之)とおなじく、かの女もぽっくりと死んだ。(カッコ内引用者註)
  
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 著者は「目白台」などと書いているが、もちろん目白崖線の斜面にあたる下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に建設し、1941年(昭和16)に五ノ坂下の「お化け屋敷」Click!から転居した現・林芙美子記念館の家のことだ。
 この記述から、林芙美子は作品の登場人物について、映画やドラマの脚本家、あるいは今日の漫画家などと同様にひとりひとり綿密なプロットを描きながら、場面場面の動きやしぐさを想像して書いていたのがよくわかる。わたしは林芙美子の資料で、そのような執筆上のプロットを一度も見たことがないので、大江賢次が書いているとおり作品が脱稿すると、庭の焚き火で落ち葉とともに燃やしていたのかもしれない。
 林芙美子が、小説を書くうえでの具体的なテクニックや、執筆する上での登場人物にリアリティをもたせる秘訣まで同業者に教えた例は、大江賢次をおいてほかには知らない。それほど、林芙美子は彼に気を許していたものだろうか。戦後、もう少し彼女が長生きして、大江賢次が1958年(昭和33)に書いた小説『絶唱』が大ヒットし、同年の映画も浅丘ルリ子と小林旭のコンビでロングランをつづけるのを目のあたりにしたら、はたして同様にやさしく接してくれたかどうかはさだかでない。
 ある日、鳥取出身の大江賢次に、林芙美子は安来節を唄ってくれとせがんだ。また、小説のネタに使われてはたまらないと大江賢次は断ったが、「後生だから唄ってちょうだい」とゴリ押しされ、彼はイヤイヤ唄いはじめている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 しかたなく私は唄ったが、まったく驚いたことに、かの女は姉さんかぶりにたすきがけでお盆をもち、唄に調子合わせて踊りだしたではないか。それをアラエッサッサーの、なんべんもくり返し。私は気が狂ったのではないか、と疑わざるを得なかったがあに図らん、「牡蠣」の出版記念会の席上で、かの女みずからいつしか衣裳を変え、唄いながら踊ったではないか。しかも、安来節の婦踊りは盆にかぎっているのに、ご念入りにも男芸の「どじょうすくい」さえ披露した。
  
 大江賢次は、リアル『放浪記』の舞台を目のあたりにしていたわけだが、安来節の練習を彼の唄声とともにしていたとは、わたしが初めて知った事実だ。
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 子どものころから芝居や新劇を問わず、わたしはよく舞台を観に連れていってもらったが、『放浪記』の舞台を生で見たことは一度もない。別に、うちの親たちは林芙美子が苦手だったわけではないのだけれど、おふくろが森光子を気に入らなかったせいだろう。

◆写真上:中井駅前通りに並ぶ商店街で、正面の右手が西武新宿線・中井駅。
◆写真中上は、中井駅近くの青果店(八百屋)。は、1928年(昭和3)作成の「大日本職業別明細図」にみる中井駅周辺。左手に下落合3丁目1986番地の赤尾好夫邸で開業した欧文社(現・旺文社)Click!が見える。は、大江賢次(左)と林芙美子(右)。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に作成された「大東京各区便益明細地図」にみる中井駅とその周辺。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる中井駅の北側周辺の様子。は、同年の「火保図」にみる中井駅の南側周辺の様子。
◆写真下は、四ノ坂下の自邸に設置した手塚緑敏Click!と林芙美子のアトリエ。は、1951年(昭和26)6月27日に「宮川」を出る生前最後の姿をとらえた林芙美子のショット。自宅にもどったあと、この夜に急死している。は、変わらない「宮川」のうな重。

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山田五十鈴と杉村春子のガールズ(?)トーク。 [気になるエトセトラ]

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 文学座の杉村春子Click!と新派の初代・水谷八重子Click!は、杉村が1906年(明治39)生まれで水谷が1905年(明治38)生まれと、わずか1歳しかちがわないにもかかわらず、杉村はまるで自分の師を見るような眼差しで水谷八重子を位置づけていた。また、1917年(大正6)生まれの山田五十鈴Click!のことは、杉村より11歳も年下だったにもかかわらず、酒を飲みながら楽しく話せる友だちのような感覚で接していたようだ。
 昔から、日本の舞台の「三大女優」といわれるこの3人だが、わたしは3人とも実際の舞台を観ている。だが、小学生時代に多く観た新派の舞台は、せっかく水谷八重子(初代)が熱演していても、申しわけないことに午睡する時間だった。小学生の子どもが『婦系図(おんなけいず)』Click!『日本橋』Click!『晴小袖』Click!『残菊物語』Click!などを見せられても、ストーリーが“大人の事情”ばかりなので子どもは睡魔に襲われるしかなかったのだ。歌舞伎の特に世話物は、展開がおもしろく七五調のセリフも心地よくて、飽きることなく興味津々に眺めていたけれど、新派の芝居は退屈で退屈で死にそうだった。
 文学座による杉村春子Click!の舞台も、子どものころから学生時代まで何度か観ているが、山田五十鈴は高校生のとき親父が好きだった『たぬき』の舞台を、たった一度だけ観たことがある。山田は自宅を持たず、ホテルを自宅代わりにしていたせいか、仕事で待ち合わせのホテルのロビーでもときどき見かけたことがあった。誰かと打ち合わせの予定だったのだろうか、目立たないよう少し色つきのメガネをかけ、地味な服装をしてオーラを消していたようなのだが、わたしがすぐに気づいたように、そこにドーンと「大女優」がいる気配は消しようもなく、そこだけが次元の異なる空間のように感じたものだ。
 余談だけれど、目白台の新江戸川公園(現・肥後細川庭園)の入口あたりで、わたしはずいぶん以前にイヌを連れた北林谷栄に会ったことがある。この人は「生きる演劇史」ともいわれた人で、ほとんどが脇役だったにもかかわらず「超」がつくほどの「大女優」だ。ところが、わたしはしばらくこの老婆が彼女だとは気づかず、わたしの足もとにイヌがまとわりついてきたとき、軽く会釈をされたので初めて気がついた。
 いつもイヌを散歩させながら、そのへんを歩いていそうなふつうの乃手に多いモダンなお婆さんに見え、とてもオーラなど感じなかったが、こんなところが自己をすっかり消して役に「なりきる」芝居がとび抜けてうまかった、北林谷栄の真髄であり秘密があるのだろうと感じた。わたしは昔から彼女の大ファンだったので、もう少しでノートを差しだして「サインしてください!」とお願いしたくなったけれど、いきなり大正時代に生きた畦道をゆく農婦に変身されて、顔をくしゃくしゃにし「わたす、はぁ、字が書けねえんだば」と断られても困るので、うしろからソッと見送った。
 杉村春子と山田五十鈴は、舞台の『やどかり』『月夜の海』などや、映画の『流れる』などでも共演しているけれど、雑誌やTVの対談などでもときどき顔を合わせていたので、プライベートな生活には深く踏みこまなかったものの、しだいに楽しい話し相手や飲み友だちとして親しくなっていったらしい。少し酒が入ってくると、山田五十鈴はつい出身の大阪弁で、杉村春子は舞台に立つようになってから演出家に叩きこまれた東京方言Click!で、お互いしゃべっていたのではないだろうか。
 2002年(平成14)に杉村春子への詳細なインタビューを編集・構成し、日本図書センターから出版された『舞台女優』から引用してみよう。
  
 いつかお正月に雑誌の対談でご一緒しましたとき、五十鈴さんはこんなことをおっしゃっておられました。「今まで、私はいろんな男遍歴があって、それを栄養にして、したたかに大きくなってきたかのようにいわれてきたけど、それは誤解というか、根本的にそんなものではないのよ。これからは私、黙っちゃいないわ」/やはりあのかたにしても、いろいろと腹にすえかねることもあるんだなあ、と何となく相通ずるものを感じたものです。/世間の噂なんて、ムキになって打ち消したところでどうしようもないもので、半分はあきらめてはいますが、あまりといえばあまりだ、と憤りをおさえられないこともおありなんだなあ、と思いました。
  
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 杉村春子は、山田五十鈴の言葉を東京弁風に変換してインタビュアーに話しているが、酒が入った山田五十鈴ならこんないい方はしなかったのではないか。
 わたしが勝手に想像してみるに、「今まで、あてはいろんな男はんの遍歴があって、それをぎょうさん栄養にしたゆうて、したたかに大きゅうなったいわはりますけどなぁ、ちょいと、聞いてえな春子さん、そら誤解ゆうか、根本的にそんなんあらしまへんのや。これからはな、春子さん、あてかてそんなん泣き寝入りすの、やめよう思うてますねん。……なぁ、もうちっと注いでえな、春子さん」と、こんな感じではないだろうか。w 
 山田五十鈴は、何歳になってもどこか娘のような無邪気な感覚を宿していて、スキを見せず「冷たい感じ」といわれた水谷八重子(初代)とは、まったく対照的な存在として杉村春子には映っていたようだ。杉村が、「これ召し上がる?」とお菓子を差しだすと、「まあ、うれしいわ」(翻訳:まあ、うれしわぁ、おおきに)と、嬉しそうにパクパク食べる無邪気さを見て、山田五十鈴といっしょにいると楽しくなってくると答えている。
 かなり酔いがまわってくると、山田五十鈴はエンエン泣き上戸になったといい、酒が進むと笑い上戸になりそうな杉村春子とは、かなりいいコンビネーションだったのではないだろうか。杉村は、「かわいい山田さん」と表現しているが、「ちょっと、春子さん、あての話、聞いてくらはります?」といろいろ聞かされているらしい。
 ふたりは、東西を代表する舞台女優だったので、それぞれ同じようなことで騒がれ、同じようなことでイヤな目にあってもきた人生なのだろう、上掲の『舞台女優』には女の生き方について、ふたりで長々としゃべりあったような気配が感じられる。同書には、お互いが共感しあったとみられる、「この世は男と女で」と題した章が挿入されている。
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 「山田さんとこんな話もしました」と書く一部を、同書よりつづけて引用しよう。
  
 でも私のように長く生きて、いろいろなものを見てしまうと、永遠なんてそんなことは絶対にあり得ない、逢ったら必ず終わりは来ると思ってしまいます。ですから、はかなくなってきますし、その時どきがひどく不安になってしまいます。考えすぎるのでしょうね。それは若くはなくなった証拠なのかもしれませんけど。/若い時は好きになったら何がなんでも……ですけれども、長い間生きてきますと、まわりにいっぱい藻がからみつくようにしがらみができてきて、とみこうみしていたら、恋なんてできなくなってしまいます。/それでもがんばって、すべてを捨てる覚悟で押し切ろうとしても、その感情は火花のようなものでパッと消えてしまうかもしれない、はじめがあれば必ず終わりがある、とつい思ってしまいますから、はかなくなってしまうのです。
  
 なんとなく、ふたりの会話は諦念とグチが混じっていそうな雰囲気のように思えるが、おしゃべりの「結論」はいつも非常に前向きだったようだ。酒に酔って、ちょっと開き直りぎみのふたりは、次の7つの「結論」を導きだしている。
 ①人間だから当然人を好きになるし、恋もできないなら役者なんてやってられないわ。
 ②世の中、男と女がいなければつまらないし、そもそも成り立たないじゃないの。
 ③男女が双方を尊重し合い、認め合い、よく協力し合って生きてこそ理想的なのよ。
 ④とにかく男と女がいるから楽しいし、嬉しいことも多くなるのだからお互い仲よくね。
 ⑤恋愛に歳は関係ないし、いつも好きな人がいてかまわないじゃないの、文句ある?
 ⑥「もう私はそんなもの(恋愛)なんていりません」なんて、とんでもないことだわよ。
 ⑦恋愛をしたからって、いちいち周囲がうるさく騒がないでちょうだいな。
 杉村春子と山田五十鈴、これだけの「大女優」になると、それこそ人生にはいろいろなことがあったのだろう。杉村は、山田のことを「並の女の人にない強さをもっていらっしゃいます」などと語っているが、そういう杉村自身さえ、山田五十鈴以上の強さをもっていたように思える。「わたくし、ほんとは弱い女なんですのよ」とかいう女性に限って、とんでもなく強情で頑固だったりするから、世の中おもしろくて飽きないのだ。
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 飲むと泣き上戸だった山田五十鈴が、おもむろにボソボソとなにか話しだすと、そこは大阪女性なのでユーモラスなしゃべりも交えるから、それを聞いた杉村春子が「アッハッハッハッハ」と屈託のない笑いで返す、そんな情景が浮かびそうなふたりの飲み会なのだ。

◆写真上:1956年(昭和31)に制作された成瀬巳喜男監督『流れる』(東宝)で共演した、杉村春子(左)と山田五十鈴(右)。その後、舞台でも共演することになる。
◆写真中上上左は、リリースされた『流れる』のDVDジャケット。上右は、1959年(昭和34)に制作の小津安二郎『浮草』(大映)に出演した杉村春子。立っているのは、共演した川口浩と若尾文子。は、『流れる』のワンシーン。は、1949年(昭和24)に制作された小津安二郎・監督『晩春』(松竹)で原節子とともに冒頭の数寄屋シーン。
◆写真中下上左は、1997年(平成9)に平凡社から出版された津田類・編『聞き書き/女優山田五十鈴』。上右は、1955年(昭和30)制作のマキノ雅弘・監督『人生とんぼ返り』(日活)。は、『人生とんぼ返り』のワンシーンで森繁久彌Click!と山田五十鈴で奥は左幸子。は、1974年(昭和49)の舞台『たぬき』のインタビューに答える山田五十鈴。
◆写真下は、1954年(昭和29)制作の成瀬巳喜男・監督『晩菊』(東宝)に出演した杉村春子と上原謙Click!は、1995年(平成7)に制作された新藤兼人Click!監督『午後の遺言状』(近代映画協会)に出演の杉村春子(左)と音羽信子。同作は杉村春子の最後の主演映画となったが、音羽信子の遺作ともなった。は、日本図書センターから出版された山田五十鈴『映画とともに』(2000年/)と杉村春子『舞台女優』(2002年/)。

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「葛」の字が「星」と同義であってみれば。 [気になる下落合]

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 縄文遺跡を研究していると、明らかに星座の運行を意識していたと思われる遺構が見つかる。ときに、それが環状列石(ストーンサークル)だったり、巨石に刻まれた天文ラインだったりするわけだが、1万年ほどつづいた縄文時代はいまだわからないことが山ほどある。彼らは、現代人と同じ脳の容量を備えており、科学的な視座は存在しなかったとしても、経験則にもとづく論理的な思考回路はもちろん、法則性の発見や豊富な言語体系による複雑なコミュニケーションも当然可能だったにちがいない。
 また、大規模なムラの形成や全国規模の物流ルート(陸路・海路)を整備し、それによってもたらされた鉱物やアスファルト、ときに農作物の種子などで田畑を開墾していたことも明らかになった。新潟のアスファルトを各地へ、長野や北海道の黒曜石、糸魚川の翡翠を全国へ流通させるためには、モノを運搬する技術や方位測定の手法を知らなければ、到底実現することができない。「縄文ランドスケープ論」と呼ばれる学問は、彼らがどのようにしてそのような技術を獲得し、身につけていたかを研究する新しい分野だ。
 ヘタをすると、ある側面では後代の弥生時代よりも高度な技術や芸術性を備えていた縄文期だが、稲作の問題も大きなテーマのひとつだろう。いまでは、稲作の開始は少なく見積もっても紀元前3世紀よりも500年ほどはゆうにさかのぼる縄文期からというのが常識となった。また、稲作は朝鮮半島経由の西からではなく、沿海州経由で日本海をわたり、早い時期に東北日本へもたらされている可能性も高くなっている。
 ちょっと横道にそれるけれど、これらの科学的な発掘調査Click!の成果を、皇国史観Click!の学者たちはまったく認めたがらない。縄文時代は「皇民化」が行われていない、「まつろわぬもの」たちが跋扈する無知蒙昧な蛮族の世界であり、彼らをいつまでも「ウッホウホホ」と半裸で槍を片手に動物を追いまわす野蛮な「原始人」にしておきたいのだろう。
 この姿勢は、別に縄文時代に限らない。日本でネコが飼われはじめたのは「平安時代の都(京)から」という、まことしやかな「史実」がある。クイズにも出題され、「平安時代」と答えないとダメらしいが、前世紀後半の科学的な成果からみても明らかに不正解だ。平安の皇族・貴族が、中国から“輸入”したネコが最初だとしておきたいのだろうが、縄文遺跡でたびたび見つかるイエネコの骨格は、ではいったいなんなのだろうか? 「皇民化」以前の、「まつろわぬもの」たちに関する科学的な成果を無視することで、彼らは数万年余におよぶ日本の歴史をおとしめ、ことさら「自虐」的に泥を塗りつづけている。
 さて、縄文期の方位測定あるいは測量技術は、天空の太陽や星座のほかに、周囲の山々やメルクマールとなる(あるいはメルクマールにするために意図的に運搬して構築された)巨石群などが挙げられている。そして、それらメルクマールを結ぶ交点に縄文遺跡が多いことも、多くの学者による研究で明らかになってきた。また、それらの測量交点には「星」を意味する地名が多々見られることも指摘されている。ここでいう「星」地名とは、別に「ほし」という音とは限らない。原日本語で、星を意味する音を想定した場合の、後世にその音に近い漢字が当てはめられた地名までも含まれている。
 在野の考古学者で医師の森下年晃は、それを「縄文語」と名づけている。縄文語とは、九州に上陸したヤマトClick!によって古朝鮮語がもたらされたとみられる以前、日本列島で広くつかわれていた言葉で、アイヌ語にその影響がいまだ残っていると規定する古い“日本語”のことだ。拙サイトでは、「原日本語(アイヌ語に継承)」Click!と表現してきた言語に近い規定だろうか。その中で、「葛(くず)」は星地名ではないかと考察していく過程がある。
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 2009年(平成21)にリベルタ出版から刊行された、森下年晃『縄文ナビゲーター/星の巫(かんなぎ)』から引用してみよう。
  
 (岩手県軽米町には)少し奥まったところに星野小学校があり(中略)、はたして星野川という美しい川も流れている。/(石川)啄木が星野のことを知っていたかどうかは別として、星野はまさに星降る野であろう。/「葛巻とは何か? 葛巻と星野には何か特別の関係が隠されているのであろうか?」 私のなかに漠然とではあるが既に、葛巻の葛(kuzu)も星地名ゆかりの地名ではないか、葛巻と星野は何らかの糸で結ばれているのではないだろうかという疑問が芽生えていた。(カッコ内引用者註)
  ▲
 こうして、「葛(kuzu)」=星地名という仮説を立てて検証していくのだが、同書を通読してはみたものの、浅学なわたしには「葛」が星地名であるという著者の仮説にもとづく飛躍的な論証や解説についていけず、納得することができなかった。本書を読み進めていると、知らないうちに「葛」が星地名として断定的に規定され、論が進められていく……そんな気がしたのだが、これは著者の前著『星の巫-縄文測量の視点で歴史をみる』(私家版/2000年)を未読のせいなのかもしれない。
 拙サイトでは、ずいぶん以前に落合地域の葛ヶ谷Click!(現・西落合)とからめ、鎌倉に残る「葛」の字がふられた地名との類似性について指摘した記事Click!をアップしていた。鎌倉の重要な「葛」地名のひとつである「葛原ヶ岡」を例に、落合地域の葛ヶ谷とでは、どのような共通項や類似点が見つかるかといった趣旨で、後世にまで伝承されているように葛=「隠れ里」にいた人々は、「特殊技能」を備えたプロ集団ではないかと想定していた。そして、周囲に散在する遺跡の状況から、葛ヶ谷にいたのは古代製鉄のタタラ集団だったのではないか?……と疑問形のまま記事を終えている。
 ところが、その後、葛ヶ谷には北斗七星や北極星の象徴とされる妙見山Click!が存在しており、それが鎌倉期以前から語り継がれてきた可能性のありそうなことが、自性院縁起Click!を通じて明らかとなって、なんらかの星あるいは星座に関係した古くからの地域ではないかとの想像が以前より働いていた。たとえば、星屑(ほしくず)という言葉があるが、この「くず」という発音が「葛」と同義であり、その意味が星の重複である「星々」ということになれば、天の川などの銀河をイメージする用語になる。
 少し余談めくが、葛ヶ谷(現・西落合)に住んだ瀧口修造が1979年(昭和54年)に死去したとき、大岡信は同年の『現代詩手帖』8月号に、「タキグチさん。/宇宙青ですか、/そこは。(中略) あなたの骨は、/つつましいひとかたまりの/星砂の枝骨。/でしたよ。」(『西落合迷宮』より)と、ことさら星や銀河をイメージする言葉で追悼しているのに気づく。大岡信が、西落合の前地名である葛ヶ谷の「葛」にこだわり、地名考を意識して書いたとは到底思えないので偶然だろうが、少なからず面白く感じた作品だった。
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 上述のように、「葛(kuzu)」という音と、その背景的な史的意味を取りあげた研究論文などには、感度が悪いながらもわたしなりのアンテナを張ってきたつもりで、日ごろからかなり敏感になっていた。そこにようやく感知できたのが、上掲の『縄文ナビゲーター/星の巫』だったのだ。でも、「葛」がなぜ星地名なのかを納得できる論証は、残念ながら同書で見つけることができなかった。
 「葛」=星地名と規定する、同書に書かれた森下年晃の方法論を引用してみよう。
  
 古代の方位測量を検証してゆく過程で、星地点に神社のあることがしばしば見られる。これは方位測量の中心点に建てられた何らかの目標が、やがて祠となり、その後神社になった可能性を示唆するものであろう。以上、星地名に共通する条件として次の三点が考えられた。/ ①三対の目標となる山や丘を結ぶ三本の直線が一点に交わる。/ ②複数の星地名が連携を保っている。/ ③地名の発音(音声)が星と何らかの繫がりを持っている。
  
 こうして抽出された、星地名(音)と思われる場所へのちに当てはめられた漢字として「葛」をはじめ、「越」「細」「保土」「伏」「五十」「押」「遅」「吹」「淵」「折」「虫」「楠」「久慈」など、およそ60種ほどがピックアップされている。
 だが、著者が指摘する社(やしろ)について、由来のはっきりしないほど創建年の古いものは、確かになんらかの聖域に建立された祠が起源の可能性があるし、従来、拙サイトで数多くご紹介Click!しているのは禁忌伝承Click!をベースに、古墳の上に建立された社ないしは祠Click!についてだった。このケーススタディは、全国的に見れば無数に存在しており、その社自体が、あるいは古墳自体が、縄文期となんらかのつながりがあることが証明できない限り、「縄文期の星地名」の根拠として位置づけるのには無理がある。
 同様に、日本列島は山ばかりなのだから、その山頂と山頂、特徴的な高所にある三角点などと山頂、あるいは山に祀られる古い社(やしろ)と山頂とに直線を引いていき、「三本の直線が一点に交わる」地点に残る地名について、「複数の星地名が連携」という主観的な解釈を付与しつつ捜索すれば、数多くの「星地名」を恣意的に「発見」できてしまうことになりかねない。あらかじめ仮定として提示された「星地名」をベースに、新たに見つけた「星地名」を再び重ねて前提とし、その「星地名」同士の連携を規定するのは、そもそも考証になっておらず、論理矛盾の堂々めぐりを引き起こしかねない。
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秋田県葛原事例.jpg
 「葛」=星地名であるとすれば、葛ヶ谷が和田氏Click!の伝承をともなう鎌倉街道の支道に位置する「隠れ里」の想定とは別に、より古い事蹟が「星降る山」の象徴である妙見山とともに浮かび上がってくるかもしれない。落合地域は、縄文期の遺跡も随所に散在している地勢で、つい先年も家の裏に位置する建設現場の発掘調査で、縄文期や弥生期の土器片が発見されたばかりだ。落合地域に隣接する野方や江古田などの地域は、さらに縄文遺跡が数多いエリアとなっている。はたして、縄文期の葛ヶ谷にはどのようなランドスケープが展開していたのだろうか? 納得できる論証の提示で、説得されたがっているわたしがいる。

◆写真上:葛ヶ谷(現・西落合)で落合分水の谷に落ちこむ、妙見山の東向き斜面。
◆写真中上は、妙見山の山頂から東向き斜面への落ちこみと、北向き斜面への落ちこみ。は、妙見山の急峻な南向き斜面。
◆写真中下は、境内自体が縄文期遺跡の葛ヶ谷御霊社。は、目白学園キャンパスで発掘された縄文集落遺跡。は、妙見山とその周辺に展開する縄文遺跡。早くから宅地化が進みピンポイントでの発掘が中心だが、これらの遺跡が点ではなく面だとしたらかなり大規模な縄文コミュニティとなるだろう。中でも目白学園落合遺跡と西落合2丁目遺跡は、縄文早期・前期・中期・後期とほぼ1万年にわたる重層遺跡であり、一貫して縄文人が住みつづけていた可能性が指摘されている。
◆写真下上左は、2009年(平成21)出版の森下年晃『縄文ナビゲーター/星の巫』(リベルタ出版)。上右は、戦災をほとんど受けなかった葛ヶ谷(西落合)地域には昭和初期の建築が多く残っている。は、秋田県大館市における「葛原」考察例。(同書より)

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うなぎ屋で林芙美子に襲われる大江賢次。 [気になる下落合]

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 大江賢次Click!林芙美子Click!との出会いが面白い。改造社の作家交歓会で、たまたま大江賢次と芹沢光治良Click!との間に座った彼女に、彼はいきなり「林さんは、なんぼですか」と歳を訊いている。芹沢光治良が紳士的に応対していたのに対し、彼は女性に歳を訊いてしまい「しまった!」と思たっが、林芙美子はすかさず「明治三十七年です」と答えている。この時点で、大江賢次は彼女を1歳だけ年上だと認識している。
 ぶしつけな質問に、まっすぐハッキリと答えた度胸に大江賢次は感心しているけれど、林芙美子は1903年(明治36)の生まれであり、1歳サバ読んでいるのに彼女が死ぬまで気づかなかった。8歳年上の芹沢光治良からは、会合のあとで「ご婦人に年齢をきくのは控えるべきだ」と強く戒められているようだが、大江賢次と林芙美子はどこかでウマがあったものか、その後も交歓会の席では会話が弾んでいたようだ。
 話をするうちに、大江賢次と林芙美子の家がすぐ近くにあったことに気づき、近所だからまた会いましょうということで別れている。1974年(昭和49)に牧野出版から刊行された、大江賢次『故旧回想』(500部限定)から引用してみよう。
  
 話すうちに、西武線中井の近くと知り、私と近いのを知った。芹沢も東中野で、おたがいに近いから又逢いましょうと約束した。/あとで訪れるとなかなかの家構えで、びっくりして見回していると、/「知合の人が領事で外国へ赴任したので、借りているだけなのよ。わたしには不相応で、ほんとに困ってるの」/そのときには、そうかなあと信じたものだが、仮の住いといった家に十年以上もいたところからみて、領事うんぬんは虚構だったのかも知れぬ。その席でご主人の手塚画伯も紹介されたが、画伯の郷里長野県から、健康そのものの林檎のような頬の女中さんが、出したのはお茶ではなくてコップ酒であった。
  
 この一文で、芹沢光治良の家が「東中野」としていることから、この改造社の交歓会は1932年(昭和7)以降に開催されたことがわかる。
 芹沢光治良Click!は、1928年(昭和3)にフランス留学から帰ると、ほどなく村山知義アトリエClick!の北60mほどのところにある、上落合206番地の借家に住んでいたが、1932年(昭和7)に建築中の自邸が竣工すると東中野へ転居している。ちなみに、東中野のこの家は空襲に遭い、パリで知りあった佐伯祐三Click!のセーヌ河畔の街並みを描いた風景画(50号)と、大江賢次が鳥取への疎開前に預けていった荷物や資料類が焼失している。
 ここに登場している林芙美子の家は、五ノ坂下の西側に建っていた下落合4丁目2133番地(現・中井2丁目)の大きな西洋館(内部は和洋折衷)Click!で、林芙美子は自称「お化け屋敷」Click!と呼んでいた住宅だ。大江賢次はその後、「領事うんぬんは虚構」だと推測しているように、この屋敷にはちゃんと下落合の地主が存在していた。
 1932年(昭和7)6月ごろ、妙正寺川の整流化工事計画にひっかかったからか、尾崎翠Click!に紹介してもらった上落合850番地の借家Click!から、転居先の住宅を探しに下落合まできていた手塚緑敏Click!林芙美子Click!は、居あわせた地主の老人に「借りてくれ」と懇願され、家賃として月々50円をふっかけられている。昭和初期の50円といえば、当時のサラリーマンの平均月収が50円余なので、月25~30万円ほどの家賃になる。
 地主の老人は、『放浪記』が売れに売れている新進作家の林芙美子Click!のことを知っていて、大きくふっかけたのだろう。だが、10年以上も同館に住みつづけられた、林芙美子の経済力もたいしたものだ。大江賢次はその後、彼女の「姐御」のような器の大きさを信頼し、結婚して転居した鶴見で特高Click!に検挙されたあと、落合地域にもどって小滝橋近くに住んでいたとき、鶴見時代の家財道具を林芙美子邸の地下室に預かってもらっている。
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 上落合2丁目732番地にあった大江賢次Click!の家から、下落合4丁目2133番地の林芙美子邸へ出かけるには、最勝寺Click!に接する北側の道を西へとたどり、妙正寺川に架かる美仲橋の道筋を北上して、西武線の踏み切りをわたり五ノ坂下に出るのがもっとも早いだろう。およそ500mの道のりなので、林邸のレンガ造りの門前に5分もあればたどり着けたはずだ。ちなみに、いまだ改正道路(山手通り)Click!が存在しないので迂回する必要がなく、現在よりも効率よく住宅街の道をぬって歩けたはずだ。
 ある日、林芙美子は大江賢次を誘って、わざわざ埼玉県の浦和にある田圃の中で店開きしていたうなぎ屋に案内している。『故旧回想』より、再び引用してみよう。
  
 かの女はあねご気取りで、酒をじゃんじゃん振舞い、こちらはいい気になって飲食していると、いきなり私のあぐらの上に乗り、キスをして仰向けざまに誘いながら、/「ね、わかるでしょ」/もちろん本意をすぐ覚ったが、善良なご主人の手前もあり、この手で戯れつつ観察して、モデルにされてはたまらんから、冗談ごかしに拒んだ。しきりにかき口説きながら、しつこく手ずから勇壮を励ましたが、どうにもならず……ふと、/「わたしは、そんなにくさいの」/べつに匂いなどにこだわるわけでなく、良人に対して申しわけないし、今後のつきあいを慮って婉曲に避けたが、もし情にほだされて淵にはまってしまったら、どんな返し波に運命が変ったものか。いま思い出しても、背筋がムズがゆく寒くなる。(中略) そのころ、妙正寺川をはさんで右岸の上落合は左翼作家、左岸は芸術派の尾崎一雄、太宰治、檀一雄などが住んでいた。左翼は弾圧をくらい、上落合はちりぢりとなり、多くは豊多摩刑務所に呻吟していた。
  
 大江賢次は、林芙美子のワナを賢明にもうまく避けているが、そのままワナにはまっていたらどんな意趣返しをされたか知れたものではなかっただろう。ただ、彼を口説いているとき、林芙美子は誘惑した著名な作家たちの名前を挙げつらっているが、これも彼女の妄想によるウソだったかもしれず、彼は「ワナの餌だったか知るよしもない」と記している。
 さて、「右岸」の上落合はプロレタリア文学の作家たちが数多く暮していたので書かれているとおりだが、「左岸」=下落合の尾崎一雄Click!は上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくじ横丁”Click!から転居してきたばかりで、下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の“もぐら横丁”Click!に住んでおり、檀一雄Click!は上落合2丁目829番地の“なめくじ横丁”から離れていないので、当時も「右岸」のままだったはずだ。
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 また、太宰治Click!の住居は上落合にはなく、檀一雄の家にしじゅう入りびたっていたのを住んでいたと勘ちがいしたか、あるいは下落合3丁目1924番地(現・中落合1丁目)の寺斉橋Click!北詰めにあった、萩原稲子Click!喫茶店「ワゴン」Click!でたびたび顔をあわせるので、下落合の住民だと思いこんでいたのかもしれない。
 うなぎ屋の一件以来、大江賢次は彼女の性格をすでにいくらか知っていたので、当然意趣返しを警戒していたが、当初からお互いウマが合うように感じていたせいか、林芙美子は以前とまったく変わらず彼に接していた。
 他の作家とは異なり、大江賢次が気どらない性格で、しかも小作人のせがれに生まれて貧乏だったため、高等教育を受けることができなかった境遇も、彼女に親しみを抱かせた点なのかもしれない。大江賢次のことを、どこか「弟」のように気を許していた気配があり、彼もうなぎ屋の一件からほどなくそのことに気づいている。
 そのうち、林芙美子は彼に本音をチラチラ漏らすようになった。いろいろな悪評が文壇に拡がった際も、気心が知れた大江賢次にはすっぱな口調でポロッとこぼしている。
  
 「なんとでも云わせておくがいいさ、ふん、どうせわたしはわたしなんだもの」と、煙草をスッとのんですぐプッと吐き、二、三の女流作家の名をあげて、「あんな乙に澄ました、レディなんかとちがう。わたしは宿なし犬のジプシーそだちなんだからね」
  
 この「二、三の女流作家の名」とは、もちろん同じ下落合に住んでいた吉屋信子Click!(下落合4丁目2108番地)と矢田津世子Click!(下落合4丁目1982番地)、そしてときどき吉屋信子邸Click!を訪れていた宇野千代Click!のことではないかと想像がつく。吉屋信子Click!矢田津世子Click!はお互い親しく往来し、林芙美子は吉屋邸でよく宇野千代Click!と遭遇している。3人とも、当時のマスコミや文芸誌ではよく取りあげられる人気作家であり、林芙美子にとってはまぶしく感じられる存在だったのだろう。
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大江賢次「絶唱」(講談社文庫版)1981.jpg 映画「絶唱」1975東宝.jpg
 林芙美子は、下落合4丁目2096番地に転居してから、吉屋信子の生活を真似てハイヤーを呼ぶときも丘下の道(中ノ道Click!)ではなく、丘の上へ呼んでわざわざ坂道(四ノ坂の階段)を上がっていったし、矢田津世子はことごとく気に入らなかったのか、彼女が結核で倒れるまでイヤガラセを繰り返している。恩人である長谷川時雨Click!に、うしろ足で砂をしっかけるようなマネをしたのも、マスコミにチヤホヤされる当時の同性作家たちに我慢ができなかったからだろう。大江賢次が「意趣返し」と表現する、林芙美子の底が知れない暗闇をたどっていると、とても成長した大人とは思えない精神的な稚拙さが透けて見えてくる。

◆写真上:下落合4丁目2133番地(現・中井2丁目)の五ノ坂下にあった、林芙美子・手塚緑敏夫妻邸の門。母家は、中ノ道から少し奥まった斜面に建っていた。
◆写真中上は、同邸のファサードと玄関に向かうエントランスで立って出迎えているのは林芙美子。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同邸。「火保図」の調査員はここでもいい加減で、「手塚」の表札を「牛塚」と誤採取している。は、上落合2丁目732番地の大江賢次邸から下落合の林芙美子邸へと向かう道筋。
◆写真中下は、林芙美子・手塚緑敏邸の応接間。新聞や出版社の記者・編集者の訪問を見こんで、かなり広くまた何部屋かあったようだ。は、林芙美子の書斎。
◆写真下は、1941年(昭和16)に四ノ坂下にある下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に竣工した林芙美子邸(現・林芙美子記念館Click!)。は、大江賢次が気に入っていたらしい夫・手塚緑敏Click!が使用していた同邸付属のアトリエ採光窓。は、1981年(昭和56)に講談社文庫として出版された大江賢次『絶唱』()と、わたしの世代ではこのバージョンが記憶に残る1975年(昭和50)制作の東宝映画『絶唱』()。

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新型コロナ禍の影響が少ない専門職人の世界。 [気になる下落合]

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 大正期のさまざまな資料を参照していると、1918~1920年(大正7~9)にかけての3年間で、「スペイン風邪」Click!に罹患して死亡した人たちの記述が目立つ。当人も罹患しつつ、なんとか回復して生き残れたが、親や兄弟姉妹が死亡しているケースが多い。また、記録者の本人は発症せず、友人たちを喪った記録にもたびたび出あう。
 当時は、いまだウィルスという存在が知られておらず、単なる「流行性感冒」の治療ぐらいしかなかったわけだが、3年間に三度におよぶ流行のピークがあったようで、いちばん猖獗をきわめたのは世界じゅうで変異ウィルスが暴れまわったとみられる2年目だった。換言すれば、ウィルスに対抗するなんらかの医療技術や手段が存在せず、完全に放置状態(つまり自然の推移にまかせたまま)の状態だと、新たなウィルスの出現から、その存在がどこかへ潜伏して終息するまで、3年間(三度のピーク)が“必要”だったことになる。
 その史的な経験に倣えば、来年もまた三度目の流行がありそうだけれど、今年よりは来年のほうが感染者数のピークがやや低めではないかとの予測もできるだろうか。ただし、新型インフルエンザとされるスペイン風邪のウィルスと、今回のCOVID-19に共通性があり、ウィルスの拡がりからどこかへ消えていく(潜伏する)までのサイクルが近似しているという前提での予測であって、大正期の経験がそのまま通用するかどうかは不明だ。
 来年もまた、1年目と同じような流行がつづくとすれば、かろうじて2年目を乗りきった息ぎれ寸前の事業や店舗が、致命的なダメージを受けることは避けられないだろう。2年目でさえ、周辺を散策すると店舗を閉めてしまった飲食店や、知らないうちに別の店に変わっていた事例が多いのに気づく。あるいは、持ち帰りや出前(蕎麦屋や寿司屋、中華屋、うなぎ屋にテイクアウトやデリバリーという外来語はまったく似合わない)のみになり、客を店内には入れないところも多くなっている。
 わたしの仕事も、例年とあまり変化がなくバタバタと忙しい貧乏ヒマなしは相変わらずなのだけれど、この2年間をふり返ると確実に案件の数が減少している。また、ほとんどの会議がリモートになり、打ち合わせに出る機会が急減した。つまり、外での打ち合わせついでに飲食をする機会が激減したため、街中の様子がリアルタイムに把握できなくなっている。これは、拙ブログの記事を書くときも同様で、現場へ取材に出向いたり、あちこち出歩き資料や情報を収集したりすることができず、すでに手もとにある資料類や、以前に撮影しておいた写真などへ依存せざるをえなくなっている。
 そんな状況下でも、COVID-19禍の影響をあまり受けていない業種業態があることに気づいた。営業形態はB to BあるいはB to Cを問わず、それほど注文も減らずにいつも通りの地味な仕事をコツコツとつづけている、江戸期からあまり変わらない特殊な職人の世界だ。別に店舗をかまえる必要はなく、工房あるいは作業場さえあれば仕事ができる昔ながらの職人たちだ。刀剣の研ぎ師Click!も、そんな特殊な専門職の世界に入るだろう。
 B to Bすなわち刀屋Click!からの研ぎの注文も、またB to Cつまり個人の愛好家からの注文も、それほど仕事量が変わらずに推移していたらしい。特に、家庭ですごすことが多くなった個人からの研ぎの注文は、逆に増加傾向にさえあるようだ。いままで多忙だった人たちは、自邸にある先祖から伝わった刀剣類を顧みることなく、なかなか研ぎ師へ出せなかったものが、新型コロナ禍で家の中の整理や掃除をする機会が増え、刀剣類に水錆が浮いているのに気づき、あわてて研ぎ師Click!のもとへ持ちこむようなケースもあるのだろう。
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 最近は、研ぎに関する細かな注文内容をあらかじめメールでやり取りし、宅配便のコワレモノ品扱いで研ぎへ出す人も増えており、知りあいの研ぎ師によれば「何ヶ月か先まで、予約が埋まっちゃってるんですよ」と、以前よりも需要が増えているようなのだ。また、ネットの普及で非常に便利になったことがある。手もとの刀剣を研ぎに出す際、「あなたの美意識にかなうよう、好きな研ぎにしてくれ」といった研ぎ師まかせのケースはまず皆無で、愛好家は細かな注文や条件を提示して研ぎに出すことが多い。
 換言すれば、研ぎの細かな条件や注文に対して支障が出た場合、従来は時間をかけていちいち注文主に確認をとらなければならなかった。たとえば、いま以上に物打(ものうち)を研ぐと芯鉄(しんがね)が顔を出す可能性があるとか、鋩(きっさき)あたりに鍛え傷が出そうな気配だがこのまま研ぎをつづけてもいいかとか、それが馴染みのある個人からの注文なら電話で相談すれば短時間で済むが、刀屋経由の仕事だと一度委託された研ぎが中途の作品を店にいったんもどして、所有者の判断を改めてあおがなければならない。それが、ネットを介して詳細な画像つきでスピーディなやり取りができるようになったせいで、研ぎ師の業務効率が格段に向上したというわけだ。
 わたしも、「地鉄の性質に見あうよう、思いどおりに研いでみて」と研ぎ師に注文したのは、いつかご紹介済みのこの地域から出土Click!した古墳期の錆びた鉄刀Click!ぐらいのもので、通常の刀剣はやはり細かな条件や留意点を付加しながら研ぎに出すことになる。なぜなら、刀剣は鍛造された時代や地域、目白(鋼)Click!の品質、あるいは刀工の環境などによってその出来は千差万別であり、「ふつう」や「一般的」な研磨では通用しない場合が多いからだ。もっとも、これらの条件はベテラン研ぎ師のほうがよほど詳しく知悉しているので、愛好家と研ぎ師との信頼関係にも大きく左右される。特に初心者の場合は、ベテランの研ぎ師に任せてしまったほうがまちがいがない。
 刀工が置かれた生活環境ひとつとってみても、用いられている目白(鋼)の品質が左右されるし、有名な刀工でも貧乏な時代Click!は良質の目白(鋼)が調達できず、また生活費を稼ぐため短期間で数多く制作した作品も少なくないため、鍛え割れや地肌の荒れが出やすい……などといった具合で、研ぎ師は細心の注意を払いながら仕事を進めることになる。そして、研ぎの進捗過程がネットの普及で精細画像とともに刀剣の所有者へリアルタイムでとどけられ、なにか確認が必要になった場合でもスムーズなやり取りが可能になった。
 先年、ずいぶん以前に知人から譲っていただいた平造り(ひらづくり)の無銘短刀が、古研ぎの状態のまま曇りが気になっていたので、そろそろ研ぎどきかなと馴染みの研ぎ師に相談してお願いした。すると、下地研ぎから仕上げ研ぎまで、最低でも13工程ほどある研磨作業のうち、要所の段階を終えるそばから精細な画像でレポートをいただいた。数日おきにメールで報告を入れてくれ、その出来の状態を確認しつつとても満足のいく仕事をしてくれた。「かなり上質な鋼が練れた、重ねも十分で研ぎやすくいい出来の作品です」ということで、特に問題も起きずにスムーズな作業だったようだ。
 研ぎ師によれば、砥石への当たり具合からおそらく江戸前期に鍛造された作品らしく(このあたり、各時代の作品研磨を数多くこなしている研師の経験と勘は確かだ)、数打ちものではなく非常にていねいに鍛造された注文打ちの作品らしい。1尺ちょっとの寸延び短刀なので、研ぎの料金は6万円余で済んだが、面白いオマケがついた。
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 研ぎ師から、「茎(なかご)に銘をつぶした跡がありますね」との連絡をいただいた。わたしも、作品をお譲りいただいたとき、茎の改変というか“傷”は指摘されていたので知っていたが、おそらくあまり人気のない美濃の関鍛冶あたりの刀工銘をつぶして鑢目も変え、有名刀工の無銘作かなにかに仕立てた、江戸時代の刀屋の仕業だろうと考えてあまり深くは観察しなかった。ところが、「つぶし具合から銘を推測すると、<村正>の銘を消しています」 と聞いてちょっと驚いた。旧・所有者は茎に傷があったため、あえて日刀保Click!には出さず折り紙Click!(鑑定書)は取得していなかった。
 とすると、前後の史的な事情は大きく変わってくる。室町末から江戸後期まで栄えつづけた千子村正一派は、芝居や講談ではその鋭利さとともにつとに有名だが、美術刀剣としての価値はその人気ほどには高くない。銘を消して人気刀工の作品にスリカエようとした江戸期の刀屋の「詐欺」商売とは別に、この短刀は徳川家の家臣か、あるいはその妻女が身につけていたものではないかという疑いが濃くなった。
 歴史好きの方なら、もうおわかりだろうか。家康自身が村正の鎗の穂先や小柄(こづか)で何度かケガをしたという伝説や、徳川家が村正には代々祟られつづけているという、まことしやかなウワサが江戸期にどこかでつくられ、巷間にまで流布するようになっていった。どこまでが事実で、どこからが作り話なのかはさだかでないが、倒幕をめざす幕末の諸藩士たちが、徳川家に祟るといわれる村正を好んで指していたのは有名な事実だ。
 ところが、幕府の旗本や御家人の間でもそんなウワサが浸透していき、幕臣たちは謀反を疑われないよう先祖から伝承された村正の銘を、わざわざつぶしている。この短刀も、そんな危機感を抱いた幕臣(の妻女)が、茎の改変を刀屋に依頼したのではないか……という、もうひとつ別の物語が見えてくる。もっとも、のちに徳川家の武具蔵Click!にも村正が存在していたことが明らかになり、徳川家に祟る「妖刀村正」の伝説は、芝居や講談好きな誰かが流布した創作がひとり歩きして、徐々に拡がったのではないかと疑われるようになった。家康は、息子のひとりに村正の大刀を形見として授けてるし、もちろん徳川美術館Click!にも同家に収蔵されていた村正は展示されている。
 江戸期の村正一派も、そんなウワサを気にしたせいかあえて銘を切らなかったり、村正ではなく「藤正」などと刻んだりしている。藤の花は「むらさき」なので、言わず語らずわかるでしょ?……というシャレのめしだ。研ぎ師に指摘され、そういう目で改めて短刀を見直すと、地鉄がよく練れた板目で、錵(にえ)本位の刃文は尖がり刃に箱刃らしきものが混じり、ところどころ駈け出しそうな刃文が見られるなど、確かに村正ないしは千子一派らしい出来だ。茎が極端なタナゴ腹をしていないのは、上記のウワサが浸透してきた時期、すなわち江戸時代も中期にかかる後代村正(三代以降)の作品なのかもしれない。
 「あなたからいただいたこの懐刀、よく見れば村正の銘が入っててよ」
 「そりゃいかんな。すぐに刀屋で銘をつぶしてもらおう」
 「あらぬ疑いをかけられては、代々直参の家柄の恥ですからね。お願いしますよ」
 「一両もあれば、足りるだろう」
 「……では、さっそく京橋の研處までお出かけなされませ」
 「いや、四分もあれば足りるかもしれんな」
 「……早くおいきなされませ。あすこは現銀掛値なしで安うございますから」
 「それが、今月は手許不如意でな。少しばかり、その、なんだ……」
 「月々のものは、きちんとお渡ししております。では、いってらっしゃいませ」
 「……そうか、村正は懐中にもずいぶんと祟るの」
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 おそらく刀剣が生まれた時代からつづく、日本でもっとも古い職業のひとつである研ぎ師が、最先端のICTを活用して作業のリードタイム短縮や効率化、ひいては注文増につながっているというのはとても面白い。刀の研ぎ師に限らず、新型コロナ禍の中にあってもICTをフル活用して仕事に励んでいる職人の世界は、わたしが知らないだけで意外と多いのかもしれない。そういえば、東日本大震災Click!を忘れないよう波模様でつくられた、福島の伝統玩具「赤べこ」ならぬ復興をめざす希望の玩具「青べこ(青海波べこ)」が、注文が多すぎて手づくりのために製造が4ヶ月待ちというのも、現代ならではのエピソードなのだろう。

◆写真上:手先の器用さや繊細さはもちろん、広範な日本史や刀剣史、各時代の作品に関する深い知識と観察力、そして美意識(審美眼)が問われる専門職人としての研ぎ師。
◆写真中上は、「地鉄の感触に見あうように研いで」と研ぎ師に委託した古墳刀の研磨。は、伝統的な研ぎ師の工房で棚には工程にあわせ何十種類もの砥石が並ぶ。
◆写真中下は、研ぎを依頼した無銘短刀の研磨進捗を報告する画像。は、研ぎ師の現代的な工房で、奥のクッションの手前に見えている道具は各種砥石を足で押さえる伝統的な踏まえ木。新型コロナ禍の影響をあまり受けず、注文が多い専門職人の世界だ。
◆写真下は、研ぎが刃取りや磨き(最終段階)に入った進捗の報告画像。は、注文が多く制作が間にあわない東日本大震災を記念した福島の復興「青海波べこ」。
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中井駅を避ける地下生活の小林多喜二。 [気になる下落合]

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 ようやく上落合732番地に見つけた安い借家だったが、大江賢次Click!は相変わらず貧しかったので、ときどき葛ヶ谷115番地(のち西落合1丁目115番地)に新居を建てた片岡鉄兵・光枝夫妻Click!のもとへ、食事をご馳走になりに出かけていた。それでも、さすがに独立してからは気がとがめたのか、中井駅前の食堂で昼と夜は済ませることが多かった。
 だが、どうしても懐がさびしくなると、片岡邸へ出かけていっては朝食のお相伴にあずかっていたようだ。上落合732番地から、葛ヶ谷115番地の片岡邸へ向かうには、上落合郵便局から北上して中ノ道(下ノ道=新井薬師道)Click!を横切ると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!を上って新青梅街道へと出るのが最短距離になる。
 いまだ葛ヶ谷駐在所に付属した「わけあり住宅」に住んでいたころ、ある日、いつものように朝のパンとコーヒーにありつこうと、新青梅街道をわたり60mほど離れた斜向かいの片岡邸へ出かけている。片岡邸へ着き、上がって食堂に入ると、大江賢次はいきなり拳銃を突きつけられた。拳銃をかまえていたのは、地下にもぐった共産党の田中清玄Click!で、片岡鉄兵Click!があわてて田中を止めている。
 そのときの極度に緊張した様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から限定500部で刊行された大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 ある朝日課のコーヒーとパンをたべに行き、食堂のテーブルを囲む数人の未知の人と、なによりドギモを抜かれたのは、コーヒーとパンの代りにピストルが一丁、黒光りして迎えたことである。/「大江君はレポーターで、信用していい青年だ」と、片岡さんは手短かに紹介した。/「よろしく頼むぜ」/角刈りに鼠色の色眼鏡をかけた、商人ふうに変装した男が握手した。あとでわかったが、壊滅にひんした党の再建委員長の田中清玄だった。みんなのうち、蔵原惟人Click!は前からの顔見知りで、彼の訳したファゼーエフの「壊滅」は、私の「シベリヤ」への導火線になったが、その席に小林多喜二がいたかどうか記憶にない。ピストルにどきりとした私は、平素は三枚も平げるパンを一枚だけで、早々にひきあげた。おそらく党再建の協議に、片岡邸を利用したものであろう。
  
 このあと、あまりにも知られた作家の片岡鉄兵邸だったせいか、特高Click!の目を逃れるために、葛ヶ谷駐在所の裏にある葛ヶ谷43番地(のち西落合1丁目37番地)の大江賢次宅でも、ときどき会議が開かれるようになった。集会を開いていたのは、東京帝大の学生たちを中心にプロフィンテルン(の日本支部=日本労働組合全国協議会=全協)に参加するメンバーたちで、高見順Click!や秋田実、荒木巍らが参加していた。
 面白いのは、プロフィンテルンの秘密集会が葛ヶ谷駐在所のすぐ裏で開かれていたことだ。もともと、駐在所の巡査が家族とともに暮らす、あるいは交代で休憩や仮眠をとるために建てられた駐在所付属の住宅だったはずだが、同駐在所に勤務していた巡査がこの家で自殺して以来、まったく使われなくなって空き家となっていた。そこへ、家賃の安さに目をつけた大江賢次が借りていたわけだが、警察関係者はこの家を気味悪がって忌避し、祟りを怖れて誰も近づかなかったらしい。駐在所の隣りで左翼の秘密集会が開かれていたおかしなケースは、おそらく落合地域だけではないだろうか。
 集会に関係のない大江賢次は、自宅にもかかわらず家を追いだされ、西へ700mほど歩いたところにある哲学堂公園Click!へ散歩に出かけている。井上円了Click!が死去して間もなく、遺族が東京府へ敷地を丸ごと寄贈し公園として整備されていた。大江賢次は哲学堂のバッケに連なる森林がお気に入りで、「妙正寺川への斜面はうっそうと木が繁り、じつに田舎者の私は理想の憩い場所だった」と書いている。
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 葛ヶ谷43番地の駐在所住宅の出来事か、あるいは上落合732番地の借家のほうか、大江賢次の文章は時系列が頻繁に前後してハッキリせず、どちらかは不明なのだが、話の中に最寄り駅として中井駅が登場しているので、おそらく上落合時代のエピソードだと思われる。葛ヶ谷43番地の家なら、最寄り駅は武蔵野鉄道Click!東長崎駅Click!になるはずだ。葛ヶ谷43番地から東長崎駅まで、最短の道のりで歩くと900mちょっと、同地番から中井駅へ出るには1kmはゆうに超える。
 ある夜更け、大江賢次の家の戸をコツコツたたく音がした。戸を開けると、片岡鉄兵が立っており、うしろに見知らぬ青白い顔をした優男がいた。片岡が、「きみと改造の創作で一しょの小林君、今夜泊めてくれ給え。うちは満員なんでねえ」といった。男は、「小林です。よろしく」と挨拶をした。同書から、再び引用してみよう。
  
 あっけに取られた私は、ただ玄関番の惰性からいんぎんにお辞儀をしたが、なに(ママ)と挨拶したか覚えがないほど、すっかり上がってしまっていた。思いがけぬ珍客である。発禁つづきの「戦旗」が、きびしい警戒網をくぐって数万部をさばいたのは、彼の「一九二八年三月十五日」と、「蟹工船」の傑作は私たちの心をゆすぶり(ママ)、一躍声価を高めていたから。ところがいざ作者に会えば、空想していた小林多喜二とおよそ人柄がちがい、こりゃ嘘じゃなかろうかとさえ疑った。こんな優形の男ではなく、読者として渇仰する本人は別人であった。/「ああ、くたびれた……すぐ眠らせてくれませんか」/私は独身時代の片山さんの、鉄製のシングルベッドを拝領していたので、さっそくそれを提供すると自分はベッド脇に、毛布にくるまって蓑虫になったから、季節があたたかであった。
  
 大江賢次もまた、小林多喜二Click!の描いた作品のイメージと実際の作者の容姿がまったく一致せず、出会ったとたん呆気にとられている。
 小林多喜二は、大江宅に入るとすぐに家じゅうを点検して、特高に踏みこまれた際の脱出口を確認している。最寄りの駅や、周辺に住んでいる作家たちの様子も大江から聞きだしているので、まさかのときに逃げこめる場所も探していたものだろうか。
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 だが、小林多喜二Click!は上落合には以前から馴染みあったはずで、上落合186番地の村山知義アトリエClick!や、上落合460番地のナップ(全日本無産者芸術団体協議会)Click!あるいはナルプ(日本プロレタリア作家同盟)などへは、ときどき顔を見せていたはずだ。ただし、これらがすべて上落合の東部(現・上落合1丁目)にあった拠点なのに対し、大江賢次の家は上落合の中部(現・上落合2丁目)なので、多喜二には土地勘がなかったのかもしれない。
 小林多喜二が大江の家を点検する様子を、つづけて引用してみよう。
  
 彼は灯を消す前に裏口をたんねんに調べ、万一逃走の場合を吟味したらしかった。裏口の木戸は隣の大工さんと共有で、中井駅にいちばん近いむねを説明すると、右側のケヤキ林をすかして見て、/「常識はあぶない……少々まわり道でも、野方か新井薬師駅(ママ:新井薬師前駅)の方がいいな」と、つぶやいてほほえみ、さらに省電の中野と、高円寺駅までの距離をたずねた。「なんしろ、田舎もんでねえ」/灯を消すと、/「この辺に、どんな作家が住んでいるかね」/「丘の上には吉屋信子、下には林芙美子がいます」/「ふうん、女傑ばかりだなあ。…(後略)」(カッコ内引用者註)
  
 小林多喜二は、裏口の木戸から逃れて近くの中井駅へ向かっても、逃走したときに備え特高が網を張って待ちかまえていると判断したのだろう。余談だが、小林多喜二もまた新井薬師前駅のことを「新井薬師駅」Click!と呼んでいるのが面白い。現在でもそうだが、当時から「前」を省いてそう呼ぶのが一般的だったらしい様子がうかがえる。
 ちなみに、小林多喜二が地下へ潜行するようになったころ、吉屋信子Click!は変わらず下落合2108番地(現・中井2丁目)の丘上に門間千代Click!と暮らしていたが、林芙美子Click!は『放浪記』がヒットしたおかげで妙正寺川沿いの上落合850番地の旧・尾崎翠邸Click!から、夫で画家の手塚緑敏Click!とともに下落合2133番地(同前)の五ノ坂下にあった、大きな西洋館Click!(自称「お化け屋敷」Click!)へと転居していた。
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 そのあと、ふたりは作品や文学の話などせずに、「筆おろし」の体験談や女の話をしながら眠っている。翌朝、大江賢次が目をさますと、すでに小林多喜二の姿はどこにもなかった。1933年(昭和8)2月、多喜二が築地署で虐殺Click!されたとき、大江賢次は特高に検挙され川崎署に拘留中だったため、杉並の自宅で行われた通夜や葬儀には出席できなかった。

◆写真上:上落合732番地(現・上落合2丁目)の、大江賢次邸跡(右手)の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる駐在所と付属住宅の跡。西落合1丁目37番地に地番は変わっているが、やはり「わけあり」のため駐在所も付属の住宅も解体されているようで空き地になっている。ひょっとすると、街道の拡幅工事のために東側の36番地へ移設されているのかもしれない。は、1974年(昭和49)に出版された大江賢次『故旧回想』(牧野出版)の表紙()と301部目の奥付()。
◆写真中下:上は、小林多喜二()と『一九二八年三月十五日』が連載されていた1928年(昭和3)発行の「戦旗」12月号()。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合732番地の借家群。は、同邸から東へ20m余のところにある上落合郵便局。
◆写真下上左は、晩年の大江賢次。上右は、片岡鉄兵(右)と原泉(左)。中左は、村山知義(左)と壺井繁治(右)に宮本百合子(下)。中右は、壺井栄(左)と村山籌子(右)に奥は左から江口渙、中野重治、渡辺順三。は、昭和初期の面影が残る上落合の路地。大江宅をあとにした小林多喜二は、このような路地を縫ってはいずれかの駅へと向かったのだろう。

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