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明治の女性画家を先駆ける吉田ふじを。 [気になる下落合]

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 これまで明治末から大正期にかけ、女性画家の嚆矢として目白文化村Click!は第一文化村のすぐ北側、下落合1385番地Click!にアトリエをかまえていた二科の甲斐仁代Click!や、下落合の会津八一Click!があきらめきれずに追いかけた文展・帝展の渡辺ふみ(亀高文子)Click!については何度か書き継いできた。そしてもうひとり、下落合には女性画家の先駆けとして忘れてはならない人物が住んでいる。
 1934年(昭和9)より、下落合2丁目667番地の第三文化村にアトリエをかまえていたのは、明治期の7歳のときから絵を習いはじめていた文展や太平洋画会Click!、そして朱葉会の吉田ふじを(藤遠)だ。夫で太平洋画会の創立者のひとりだった夫・吉田博Click!(もともとは義兄)の陰に隠れがちだが、彼女の絵画へのめざめは早く16歳のときから太平洋画会展へ11点もの作品(水彩画)を出品している。
 同じく幼少時より、家庭の美術環境のなかで育ち、満谷国四郎Click!の弟子だった渡辺ふみ(亀高文子)より1歳年下だが、ふたりは太平洋画会あるいは朱葉会つながりで顔なじみだったかもしれない。また、文展への入選は吉田ふじをのほうが早く、1907年(明治40)の20歳のとき第1回文展で『カーナックの遺跡』『蓮池』『奈良の茶店』の3点(水彩画)が展示されている。渡辺ふみが文展に入選するのは、2年後に開催された第3回文展へ出品した『白かすり』が最初だった。
 吉田博・ふじを夫妻のご子孫である吉田隆志様Click!のお招きで、三鷹市美術ギャラリーに「世界をめぐる吉田家4代の画家たち」展Click!の内覧会へうかがってから、ずいぶん時間がたってしまったけれど、女性画家の先駆けである吉田ふじをについて改めて記事にしてみたい。わたしは同展で、彼女の作品を実際に目にしているし、同展より7年前の2002年(平成14)には、府中市美術館と福岡市美術館で「吉田ふじを展」が開催されていた。
 吉田ふじをは1887年(明治20)に福岡市で生まれているが、7歳のときに父親を亡くし、吉田家へ養子に入っていた吉田博を頼って東京の麻布区へ住むようになる。このころから彼女は絵画、特に水彩画に興味をもちはじめ、5年後の12歳になると小山正太郎の不同舎に入門して、本格的に絵を学びはじめている。
 吉田ふじをが特異なのは、16歳のときから1907年(明治40)の20歳になるまで日本を離れ、義兄の博とともに米国をはじめヨーロッパ諸国やアフリカなどをめぐって、絵画の勉強をつづけていることだ。すなわち、当時としては他に例のない、出発点からグローバルな視野を身につけた唯一の女性画家だということだろう。
 米国では、各地の美術館やギャラリー、図書館、大学などで「兄妹ふたり展」が開催され、新聞にも大々的に取りあげられて評判となった。このときの高い人気が米国人たちの記憶に鮮明に残り、敗戦直後には下落合の吉田アトリエClick!へマッカーサー夫人をはじめ、美術に興味のあるGHQの将校や夫人たちが次々と訪れては、絵画や創作版画を習う画塾ないしは美術サロンのような場になっていったのだろう。空襲から焼け残った吉田アトリエは、大きな西洋館であるにもかかわらずGHQの接収をまぬがれている。
 吉田ふじをは、海外にいたときから第4回・第5回太平洋画会展へ作品を出展している。20歳になって帰国した彼女は、1907年(明治40)の第1回文展や東京勧業博覧会などで次々と作品が入選した。同時に、太平洋画会の満谷国四郎夫妻Click!が媒酌人となり、義兄の博と結婚して本郷区の駒込動坂町に新居兼アトリエをかまえている。
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 明治末の水彩画の人気は相当なもので、各地に水彩画塾が開かれ次々と画家を輩出していた。拙サイトでも、その代表的な画家として落合地域を描いた三宅克己Click!をご紹介しているが、吉田ふじをの作品群はその水彩画人気の真っただなかで制作されていた。夏目漱石Click!もまた、吉田ふじをと吉田博の作品には目をとめている。1908年(明治41)に東京朝日新聞へ連載された、『三四郎』Click!(第三書館版)から引用してみよう。
  
 長い間外国を旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。/「ベニスでしょう」/これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。(中略) 黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、/「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。/「兄さんとは……」/「この絵は兄さんのほうでしょう」/「だれの?」/美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。/「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」/三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色をかいたものが幾点となくかかっている。/「違うんですか」/「一人と思っていらしったの」/「ええ」と言って、ぼんやりしている。
  
 三四郎が絵にまったく興味のないことが、美禰子にバレてしまうくだりだ。文中にもあるが、吉田ふじをの初期の絵は義兄でのちに夫となる吉田博の画面と、ちょっと見ただけでは区別がつかないほどよく似ていた。海外ですごす間、すでにプロの画家だった義兄からみっちり指導を受けていたせいで、その表現の模倣からスタートしているせいだろう。吉田ふじをが、吉田博の影響からハッキリと訣別するのは夫の死後、戦後になって油絵を本格的にスタートさせてからのことだ。
 大正期に入ると、水彩画の人気は徐々に下火となり、油彩画への人気が急速に高まる。夫の吉田博は、油絵と創作版画に重点を移していったが、吉田ふじをは描くモチーフを風景から花や植物などを中心とする静物へと変えただけで、水彩をやめようとはしなかった。このころから、多忙をきわめた家庭生活を含め、彼女の停滞期がつづくことになる。1911年(明治44)に長女を疫痢で亡くし、次いで長男の病気療養がつづいたのも、一家の主婦を自覚していたとみられる彼女にとっては、「制作どころではない」状況がつづいたのだろう。
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 それでも1915年(大正4)、吉田ふじをは太平洋画会の正会員となり、1920年(大正9)からは女性洋画研究団体「朱葉会」にも出品しはじめている。1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!による混乱を避け、彼女は夫とともに米国やカナダへとわたり、前回と同様に各地で展覧会を開催している。以後、太平洋画会と朱葉会の両展にはコンスタントに作品を発表しつづけた。
 やがて1934年(昭和9)になると、吉田夫妻は下落合の第三文化村にアトリエを建てて転居してくる。佐伯アトリエClick!の南西50mほどのところ、第2次渡仏直前に制作された佐伯祐三の『下落合風景』Click!にも登場する納邸Click!と、道路をはさんだ南側の広い敷地だった。同年に新宿三越で開催された第16回朱葉会展に、彼女は『ぼたん』と題する水彩画を出品しているが、西坂に建っていた徳川義恕邸Click!のボタン園「静観園」Click!で写生した作品ではなかろうか。吉田博も、1928年(昭和3)に『東京拾二題』のうち「落合徳川ぼたん園」Click!と題する版画を残している。また、当代の徳川様Click!によれば、「祖母の絵画教師が吉田博だったんです」というエピソードもうかがっている。
 その後、戦争による生活の余裕が奪われていく日々がつづき、落ち着いて制作できる環境ではなかったが、吉田ふじをは花や植物をモチーフに寡作ながら作品を発表しつづけている。戦後は、先述のように吉田アトリエがGHQの美術サロンのようになってしまったので、その準備や接待に追われてほとんど制作するまとまった時間がとれなかった。そして、1950年(昭和25)に吉田博が死去すると、彼女は太平洋画会を脱会し、以降はおもに朱葉会のみへ作品を発表するようになる。
 吉田博の死をきっかけに、吉田ふじをの作品は大きく変わりはじめている。いや、変化はもっと以前から試作を繰り返すことではじまっていたのかもしれないが、息子たちと同じく、夫の吉田博に遠慮して見せなかっただけなのかもしれない。それは、水彩から油彩への転向であり、具象からアブストラクトへの転換だった。
 2002年(平成14)に刊行された「吉田ふじを展」図録に収録の、山村仁志『歴史と視線―吉田ふじをの生涯と作品―』から引用してみよう。
  
 穂高は、抽象の油彩作品を父博には決して見せなかったという。/「彼女の次男、穂高は自分の初期の油彩抽象絵画を父親には隠していたが、ふじをにはこうした秘密の実験を内々に見せていたのだった。ふじをはまた、穂高がこうした新しい絵画を1949(昭和24)年の太平洋画会展に出品し、そのひとつが受賞(博自身の手によって)したとき、それをじっと見守っていた。1949年には、遠志(長男)もまた<<渦巻き>>のような抽象の油彩画を描いていたが、それは湾曲し、交差する多くの線がつくる光に溢れた渦巻きを強調した作品だった」(カッコ内引用者註)
  
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 吉田ふじをは戦後、花弁や葉を接写したような画面を構成していくが、その多くの表現には水彩のころから見られたやわらかな光と、静謐な気配が満ちている。それらの作品を、ジョージア・オキーフの模倣だと決めつけるのはたやすいが、膨大な水彩作品を生みだした下地に重ねられる彼女の油彩画は、しつこくなくて見飽きない独自の味わいを備えている。

◆写真上:1934年(昭和9)に竣工した吉田アトリエで、手前に立っているのは吉田博。
◆写真中上は、1902年(明治35)ごろ制作の吉田ふじを『旗日の府中』。は、1904年(明治37)制作の吉田博『グロスター港』()と、同年制作の吉田ふじを『米国グロスター/漁船』()。は、1910年(明治43)制作の吉田ふじを『神の森』。
◆写真中下は、7歳から絵を習う吉田ふじを(上)と、1904年(明治37)ごろに米国で撮影された吉田ふじを(中央)のスナップ(下)。は、1912年(大正元)制作の吉田ふじを『人形遊びをする子供』。は、制作年不詳の吉田ふじを『窓辺の花』。
◆写真下は、1956年(昭和31)制作の吉田ふじを『花(朱)』。は、1970年(昭和45)制作の吉田ふじを『妙B』。は、左下に吉田ふじをが写る南側の庭から撮影された吉田アトリエ(上)と、戦後に油彩でキャンバスに向かう吉田ふじを(下)。
おまけ
2021年10月1日の午後12時30分、台風16号は35km/hで八丈島南方140kmの海上を通過中。久しぶりのビッグウェーブだが、これでは波が割れすぎてうまくボードに乗れないだろう。おっかないせいか、鵠沼海岸(向かいは江ノ島)はサーファーの影が見あたらない。
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下落合に眠るか旧石器時代の土器。 [気になる下落合]

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 いま、日本の旧石器時代がおもしろい。1949年(昭和24)の相沢忠洋Click!による群馬県の岩宿遺跡の発見以来、全国各地で続々と旧石器を産出する遺跡が見つかり、日本の歴史は一気に10万年前後(島根県出雲市の砂原遺跡は、放射性炭素年代測定=FT法により約11万年前の旧石器時代前期)にまでさかのぼることになった。
 落合地域では、岩宿遺跡の発見からわずか5年後の1954年(昭和29)に、目白学園Click!落合遺跡Click!で旧石器が発見され、旧石器時代人が都内の「新宿」にも住んでいたと、当時のマスコミの話題をさらっていた。
 実は、落合遺跡Click!から旧石器が発見されたのはもっと前からで、早稲田大学の直良信夫や滝沢浩による個人的な調査では、岩宿遺跡の発見とほぼ同時期に下落合で旧石器が採取されている。このあたり、戦前から相澤忠洋が自転車で行商をしながら、崖地でコツコツと旧石器を採取していた経緯とよく似ており、1949年(昭和24)の岩宿遺跡の発見は、明治大学が正式に発掘調査をした年紀に由来している。同様に、早大の考古学チームが正式に落合遺跡を発掘調査をしたのが、1954年(昭和29)というわけだ。
 同年の目白学園における落合遺跡の発見について、40年ほど前に編集された資料には以下のように記述されている。1983年(昭和58)に新宿区から刊行された、『新宿区の文化財(9)-民俗・考古』(新宿区教育委員会)から引用してみよう。
  
 現在先土器時代の存在は全国的に認められており、東京都内でも各所でこの時代の石器包含地が発見されている。区内では、落合遺跡から先土器時代の石器が発見された。ここの先土器時代の石器(先土器をプレ・セラミックというので通常略してプレといっている)については、直良信夫博士や滝沢浩氏(略)が早くから採集しておられたが、昭和二十九年七月の調査でも数点が発見された。/遺物のあったのは、黒土(表土)の下の赤土(ローム層)一〇センチほど下の小石(礫)のまじる層(第一層)と、同じく赤土三五~四〇センチの下の層(第二層)でここにも礫が見られた。
  
 この文章は40年足らず前、1980年代の旧石器時代(落合遺跡)に関する記述だが、現在ではすでに通用しなくなってしまった。文中に登場している、旧石器時代を意味する別名「先土器時代」(ときに「無土器時代」)、あるいは「プレ・セラミック」時代という呼称が、21世紀の今日では揺らいで使用できにくくなってしまったからだ。
 旧石器についてのとらえ方も、同様に大きく揺らいでいる。前世紀の「世界史」(実際は「ヨーロッパ史」が中心)では、旧石器時代の次が新石器時代であり、両時代の明確な区分は前者が石を打ちつけて割る打製石器の時代であり、後者が土器の製造とともに石をていねいに研磨して磨製石器を造る時代だと区分し規定していた。このようなヨーロッパ的な史観が、日本の考古学でもそのまま踏襲され、長期間にわたって支配的だった。
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 ところが、日本の旧石器時代の遺跡からは、刃の部分へていねいに研磨をほどこした磨製石斧(せきふ)の旧石器が続々と発見され、従来では常識といわれていた「世界史」レベルの史観を根底から覆してしまった。この磨製石斧は、それぞれサイズが大小さまざまで、発見された地域によっても多種多様な形状が知られているが、一様に刃を磨製して鋭く切れやすい加工がほどこされている点では共通している。
 すでに発掘された旧石器について、改めて旧石器時代の磨製石器(前世紀の「世界史」では、この表現自体がありえない矛盾だと否定されただろう)を意識的に精査したところ、日本で最初に発見されたのは前述の岩宿遺跡だったとみられることが判明している。つづいて、長野県の日向林B遺跡からは磨製の旧石器が一気に大量出土し、いまや日本全国で数百点にのぼる発見事例が蓄積されている。
 「世界史」(というかヨーロッパ史)では、磨製石器が登場するのは(いまのところ)新石器時代からであり、旧石器時代の磨製石器は常識外れの「例外」……ということになっている。なぜなら、「世界史」上で「例外」にしておかなければ、ヨーロッパよりも東アジアのほうが“ものづくり”文化が進んでいたことになってしまうからだ。
 ヨーロッパ中心の、従来型「世界史」の史観ではない視線で、すでに発掘された落合遺跡の旧石器を観察してみると、改めて単に石材を打ち割っただけでなく、鋭利に薄く研磨されたような痕跡を見つけることができる。たとえば上掲の資料に、精細なイラストでスケッチされた第二層出土の旧石器の一部が掲載されているが、第1図A-1および第2図-3、第3図-1の旧石器には、研磨したと思われるような鋭角の刃が付いている気配を感じる。同遺跡からは、数多くの旧石器が見つかっているが、今日的な観察眼で検証すると、はたしてどのような新しい発見がもたらされるのだろうか。
 さらに、前世紀末に旧石器時代の遺跡から世界最古の土器が発掘され、世界中の研究者たちを驚愕させたのは記憶に新しい。しかも、これまた発見されたのは日本であり、東京都内の遺跡が2ヶ所も含まれている。旧石器時代の土器発見という、コペルニクス的な転回事例も「世界史」(ヨーロッパ史)の学界的な視座からみれば、東アジアに位置する日本の「特殊性」に起因した「例外中の例外」にしておきたいテーマなのだろう。
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 2021年に朝日新聞出版から刊行された、森先一貴『日本列島四万年のディープヒストリー―先史考古学からみた現代―』より引用してみよう。
  
 「土器の出現」もしかり。今から20年以上前になるが、青森県大平山元I遺跡でおよそ一万六五〇〇年前~1万五〇〇〇年前にさかのぼる土器が出土したと発表され、世界中の研究者を驚かせた。日本をはじめ東アジアはまだ寒冷期だった更新世に、土器を使う狩猟民がいたことになるからだ。まだ農耕や牧畜が始まる気配すらないころである。放射性炭素年代測定技術の進展によって、その後も同じような成果が陸続ともたらされた。しかもその分布をみると、北は北海道の大正3遺跡、本州中央部では東京都前田耕地遺跡・御殿山遺跡、西は長崎県福井洞窟に拡がり、日本列島の大部分でほとんど同時期に世界最古級の土器がつくられたらしい(略)。現在では、ロシア極東や中国南部にも同程度の古さをもつ土器が現れていたと考えられている。
  
 東京都内では、あきる野市の前田耕地遺跡と、武蔵野市の井の頭公園内にある御殿山遺跡の旧石器時代層から、無紋とみられる同時代の土器が発見されている。それぞれ小さな破片なので、全体像を想定し復元するのは非常に困難なようだが、これらの細かな焼成破片が旧石器時代=先土器時代(無土器時代)と規定された、「世界史」の常識を大きく塗りかえようとしている。これら土器の研究には、日本だけでなくヨーロッパの学者たちが参加しているのも、グローバルな研究成果が期待できるポイントだろう。
 そこで、目白学園の大規模な落合遺跡の発掘成果にもどるのだが、発掘調査が行われたのは1950年代や、1970~90年代にかけて間欠的に行われるなどかなり以前のことであり、これら旧石器時代の土器が見逃されている可能性があることだろう。または、すでに発掘され博物館や倉庫に保存されている「縄文式土器」や「弥生式土器」の欠片の中に、旧石器時代の土器がまぎれこんでやしないだろうか?
 もちろん発掘当時は、現在のような手軽にできる放射性炭素年代測定=FT法など存在しなかったので、落合遺跡の深層から出土した土器類は縄文期に分類されているとみられるが、もう一度改めて最新技術をベースに検証しなおしてみると、興味深い成果が得られるのではないかと期待してしまう。あるいは、これから再び同遺跡を発掘できる機会があれば、もはや旧石器時代は「無土器」「先土器」「プレ・セラミック」という先入観が、少なくとも日本の研究者の間にはなくなりつつあるので、新たな発見が期待できるかもしれない。
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 いまでこそ、土器にそのまま時代名が付与されているのは縄文式土器と弥生式土器だが、近い将来には「旧石器式土器」というような名称が登場するのだろう。そのきっかけとなる大きな発見が、落合遺跡を中心に下落合の丘のどこかに眠っているのかもしれない。

◆写真上:下落合の丘上にある、落合遺跡が眠る目白学園キャンパスの遠景。
◆写真中上は、長野県の日向林B遺跡から大量に発見された旧石器時代の磨製石器類。は、下落合4丁目2217番地(現・中落合4丁目)の目白学園キャンパスで発見された旧石器。この中で、第1図A-1に研磨加工の気配を感じる。
◆写真中下は、同じく目白学園落合遺跡から発掘された旧石器で、第2図-3および第3図-1の鋭角な刃部に磨製の痕跡を感じてしまう。は、旧石器時代層から土器が発見された青森県の大平山I遺跡と、同遺跡から発掘された土器片。
◆写真下は、東京都あきる野市にある旧石器時代の土器片が発掘された前田耕地遺跡のモニュメント。は、同じく都内武蔵野市の井の頭公園内にある御殿山遺跡の記念碑。は、同じく御殿山遺跡から発掘された旧石器時代の無紋とみられる土器片。

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とんだ邪魔もの扱いの学習院と根津山。 [気になるエトセトラ]

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 1929年(昭和4)に三才社から出版された『高田の今昔』Click!には、関東大震災Click!の直前、1923年(大正12)8月に発行された読売新聞の記事がほぼそのまま収録されている。大震災の影響で、東京の市街地から郊外へまさに住民たちが“大移動”してくる直前の様子だが、当時から郊外の田園都市ブームにのって、下落合の目白文化村Click!や目黒の洗足田園都市Click!などをはじめ郊外の文化住宅があちこちに建ち並びはじめていた。
 高田町の面積は、南隣りに接する戸塚町の約1.5倍、西隣りの落合町と比べるとその70%ほどの広さだが、1929年(昭和4)現在で戸数は約8,500戸、人口は約3万5,000人に達していた。郊外住宅の人気が沸騰し、当時の町長だった吉野鎌太郎が1887年(明治20)に、雑司ヶ谷で宅地を購入したときは300坪で16円50銭、すなわち坪単価は5銭5厘だった。これが、1905年(明治38)には坪単価40銭となり、1912年(大正元)には4円を突破、1917年(大正6)には坪単価15円、1920年(大正9)以降は一気に高騰をつづけ1929年(昭和4)現在では、高田町のかなり安い宅地でも坪単価60円を超えていた。
 だが、人気の高い地域やにぎやかな通りに面した商売ができる土地は、坪単価120円以上があたりまえで、それ以下の土地を見つけるのはむずかしいほどだった。1930年(昭和5)の給与を基準に、今日の価格に換算すると1円=5,000円前後だから、宅地の坪単価60円は約30万円、人気の土地や商店街筋の坪単価120円は約60万円ということになる。今日の東京の、このあたりの地価からいえば8分の1から10分の1で安価なように感じるが、当時としてはとんでもない高騰だったのだ。
 また、土地を売らずに貸家を建てて賃貸しする、元農家だった高田町の大地主たちは64名おり、それぞれ3,000坪以上の土地を所有していた。宅地用の土地だけでも、資産は約20万円以上にもなるという。今日の資産価値に換算すれば、単純に約10億円以上ということになるが、現代の地価に照応すれば80~100億円の資産といった感覚だろうか。
 読売新聞の記者は、高田町のおもな地主たちへ直接取材して聞き書きしている。
  
 (前略) 昨日まで田畑に出て働いて居たと云ふ百姓が今日は「お大名以上」の生活をしてゐるのは事実である。町一番の地主長者大野銀八さんなんか三十町歩を領してゐるので毎月一万円以上の地代が坐つて居ても入つて来る、長島勘吉さんなんかは十町歩位より持つてゐないが目抜の場所計りなので一万円はらくに上がる、吉澤吉之助、醍醐福次郎、後藤兼五郎さんなんかは何れも七町歩位持つてゐるから先づ五千円は入り、大したものだ、こんな連中が揃つて二十名、代々町会議員に出て居て浮世を知らぬ呑気な町政をやつて平和に暮して居る、(以下略)
  
 皮肉をたっぷりこめた記事だけれど、なにもしなくても毎月1万円(約5,000万円)あるいは毎月5,000円(約2,500万円)もの現金が入ってくると聞いて、薄給な新聞記者はなんとなく自分の仕事がバカバカしくなったのではないだろうか。
 おそらく、隣接する落合町や戸塚町、長崎町でも似たような状況ではなかったかと思われる。黙っていても、膨大な現金収入が毎月あるので、やることがなくなった地主たちは「町会議員にでもなるか」ということで、町政に参画していった。それが、市街地から転居してきた新たな住民たち(こちらのほうが圧倒的な多数派だったろう)との間で、さまざまな問題や利害関係の軋轢を生じさせることになったのだろう。
 以前にも、こちらでご紹介した戸塚町議会の流血騒ぎClick!や、高田町議会における「斬ってやる!」の町長SP護衛騒ぎClick!も、おそらく根の深いところで旧住民と新住民との対立に根ざしているのではないかと想像することができる。少し前にご紹介した、妙なことに「町誌」Click!を2年つづけて出版したり、町役場Click!をめぐる妙ないいわけがましい文章やリーフレットなどを配布している長崎町のケースもまた、同様だったのではないか。
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 さて、この読売の記事中に、高田町でたいへん邪魔で迷惑あつかいされているのが、東京市雑司ヶ谷墓地と華族たちの学習院、そして根津山などだったことが、当時の“町の声”として拾われている。雑司ヶ谷墓地Click!は、東京市が勝手に公立墓域を設定して買収し、大規模な墓地を建設してしまったという意識が強かったろうし、学習院Click!は宮内省が有無をいわさず土地を買収し、どうしても立ち退かない農家には強制執行を実施して無理やり土地を取りあげたというような記憶が、いまだ色濃く残っていた時代だ。また、根津山Click!にいたっては、開発するでもなく武蔵野の森や草原をそのままにし、町の安全や治安のうえからも放置しているのは「けしからん」という意識が強かったのだろう。
 当時の町民もそうだが、町の有力者たちにいたっては、それらが高田町の開発や発展を阻害する邪魔な存在として映っていたようだ。特に、面積が広い学習院と雑司ヶ谷墓地はヤリ玉に挙げられている。この記事を受け、『高田の今昔』を執筆した江副廣忠は、1929年(昭和4)4月21日現在で「邪魔もの」扱いされていた、これらの敷地面積の実際を調べている。
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 現在では、一部が南池袋公園として残る開発されつくした根津山を除き、他の3ヶ所は目白・雑司ヶ谷地域を代表するメルクマールであり名所・旧蹟となっているが、郊外住宅地として急速な発展をとげようとしていた昭和初期には、周囲から迷惑がられ邪魔ものと見られていたのが面白い。文章の最後で、「発展途上にある高田町、近き将来に大東京に編入せられんとする高田町に、勿体なき土地ならずや」などと書かれていたりする。
 でも、今日的な視点から見れば、根津山が緑地帯として保存されなかったのはしごく残念だし、雑司ヶ谷墓地や学習院のキャンパス、法明寺の境内は緑濃いグリーンベルトを形成して、都心に比べ周辺地域の極端な気温上昇をなんとかセーブしてくれている、地域の貴重な緑の社会リソースとして機能しているように映る。
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 『高田の今昔』の著者・江副廣忠も、町内をあちこち取材してまわって住民たちから聞き書きしているせいか、特に学習院の存在には批判的だ。同書の町政紹介に関連した「教育」の項目では、学習院について以下のような解説を書いている。
  
 皇室より殊遇を受け恩賜金を賜る学習院は、大体に於て華族の子弟を入学せしむる所なるも、募集人員に不足を告ぐる時は、補充として士、民の子弟も募集入学せしむることあり、前掲の如き膨大なる土地と無大なる費用を投じて、所謂特権階級とか称するものゝ子弟を教育しつゝあるが、今日各種学校の設備整へる時に於て、特別に教育する必要なる科目あるものにや、此の学校に縁遠き者には、内部を知るの必要もなからんか。
  
 この文章からわずか16年後、大日本帝国は無謀な戦争を起こしたあげく国家が滅亡するという、日本史上でも未曽有な「亡国」状況を招来したことで、「特権階級」の学習院も必然的に解体され、江副廣忠の不満もスッキリ解消されることになる。
 そして、江副廣忠は「高田町行政」のしめくくりとして次のように書いている。
  
 広豪二十二町余の面積を有する学習院、七町四段の根津山、十町歩の東京市墓地、此の合計三十九町四段、此の坪数約十一万八千六百八十坪、此の坪数の土地が仮りに開放せられて、一戸建平均三十坪とする時は三千九百五十六戸の土地に相当す、特に根津山の如きは現在のまゝ幾十年放任せられ、荊棘徒らに長じ口即(口偏に即)々たる虫声の叢裸に感傷的哀音を発するを聞くのみ、(カッコ内引用者註)
  
 著者は、一戸建てを30坪と仮定して計算しているけれど、当時、この一帯の住宅敷地からいえばあまりに敷地が狭すぎる。著者は、市街地から雑司ヶ谷へ転居してきているようなので、東京市内では一戸建て30坪が特に不自然には感じられなかったのだろう。
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 現在の視点からみれば、雑司ヶ谷墓地や学習院キャンパスが追いだされず、消滅しなくてよかったということになるが、関東大震災後の当時は東京市の住宅不足が深刻な状況であり、東京35区時代Click!へ向かう直前ということで、高田町民たちにはこれらのスペースが「勿体なき土地」と感じられていたのだろう。別にこれらの土地や施設がなくなっても、いまだあちこちに森や林など緑が数多く残っていた時代のことだ。いま、これらの土地を再開発しようなどという声が起きたら、さっそく反対運動の嵐にみまわれるにちがいない。

◆写真上:目白通りの正門から見た、学習院大学キャンパスの森。
◆写真中上は、学習院キャンパスの溜池(のち血洗池)。は、キャンパスの中で目白崖線沿いに通う尾根道。は、明治期に打たれた学習院縄張り(敷地境界)の花崗岩杭石。
◆写真中下は、こちらも緑が濃い雑司ヶ谷墓地。は、鬼子母神の大イチョウ。
◆写真下は、威光山法明寺の山門。は、ケヤキの大木が多い法明寺の墓地。は、根津山の一部跡地にできたケヤキの植樹が多い南池袋公園。

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田中比左良の中央美術「漫画講座」。 [気になるエトセトラ]

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 長崎村字新井1832番地(のち豊島区長崎町1832番地=現・目白5丁目)にあった中央美術社Click!が、1929年(昭和4)に出版した田中比左良Click!『女性美建立』の中に、当時としてはめずらしい誌上「漫画講座」が掲載されている。当時は画家などと同様に、有名な(自分の好きな)漫画家に弟子入りして技術を習得し、師匠に掲載メディアを紹介してもうのが普通だったので、「漫画講座」を受講してプロをめざすコースはまれだった。
 例外は、1929年(昭和4)に同じく長崎町大和田1983番地(現・南長崎2丁目)に移転してきた、造形美術研究所Click!(翌年からプロレタリア美術研究所Click!に改称)に開講されていた、岩松惇(八島太郎)Click!が講師をつとめている「漫画講座」Click!だろう。おそらく、学校の教壇で実技をともないながら教える漫画の教室は、同講座が日本初ではないだろうか。だが、この講座は漫画家のプロをめざすというよりも、美術の心得のある学生が体制批判や反戦の漫画を、いかにうまく効果的に描くかがカリキュラムの中心だったと思われ、プロの専門漫画家が輩出したかどうかは不明だ。
 さて、田中比左良は漫画を描くにあたって、「漫画心の性根」から解説しはじめている。技術よりも心がまえが大切だとしているが、その部分を同書に掲載されている『漫談式漫画講座/若い女性の見方かき方』から引用してみよう。
  
 この講座では、――描かうとする対照(ママ)の全面を徹頭徹尾、漫画的に豊かな愛撫の心で抱擁し、漫画的に豊かな愛玩の心で深く観察味到する――これを性根と致しませう。/講者(比左良)が女性を漫画化する場合は重(ママ)にこの性根で行つて居ります。(中略) 銀座あたりを闊歩するモダンガールのアクどい顔の彩色や身に付かぬ洋装等を、直覚『いやだなあ』と唾棄して顧ない心は甚だ浅く軽はづみな心です。これを愛撫の心でしみじみと眺めてゐると言ひ知れぬ面白味を感じて来る。まして絵心でこれを愛撫すると或種の美感さへ感得することが出来るのです。事実、銀ブラからモガモボをマイナスしたら何んな人でも一寸物足りなさを感じるでありませう。非難されながらもモガモボが人の世を豊かにしてゐることは事実であります。(カッコ内引用者註)
  
 この文章が書かれたのは昭和初期だが、時代がおよそ100年もたつと「美意識」はもちろん、人間の体型までが大きく変わってしまうことに改めて気づかされる。著者は、銀座を歩くモガたち若い女性について「身に付かぬ洋装」と書いているが、いまでは多くの若い女性たちが、「身に付かぬ和装」状態になってしまっている。
 手足が長くのび、身長が170cm近くの子もめずらしくない、いまの若い女性が和装をしても、帯下があまりに長すぎて(足が長すぎて)さまにならない……というか上半身との釣り合いがとれないし、骨が太く大きくなり筋肉も発達した首まわりでは、着物にしろ浴衣にしろ「肩が怒(いか)っちゃってるよ~」状態になってしまい、とても着物ならではの「撫で肩」の優美さなど、どれほど着付けがうまい着物の先生に依頼しても無理だろう。胸が前へ張りだしてウェストが細くくびれ、柳腰ではなくお尻が大きい、つまり寸胴型ではなくグラマラスな現代女性の体型も着物の“大敵”だ。
 それほどモガの時代から1世紀、特に戦後の若い女性の姿かたちは大きくさま変わりしてしまったのだ。しかも、体型はいまだに年々“成長”をつづけている。そのせいか、もはや着物姿が別に似合わなくても、身長が高く怒り肩で足が長い、すなわち洋装がよく似合う女性を「美しい」と感じるようになってしまった。それだけ美意識自体も変化してきていることを、あらかじめ前提にして「受講」しないと、田中比左良の「講義」がおかしなものに聞こえてしまう。
①着物.jpg ②着物.jpg
③着物.jpg ④着物.jpg
 では、いかに漫画を描いていくのか、講義の一部を引用してみよう。
  
 この写真をモデルにします。若い女性の胴体であります。
 生真面目に写生しますと……こうなります。だが之では面白くない、味もそつけもありません。そこで漫画心でこのモデルを愛撫すると……(後略)
 之を漫画的に誇張しますと、つひにこんな漫画が出来上がるのです。これは同じ誇張でも無闇な誇張で無く、モデルが包蔵するだけの美を表現するに必然な範囲一ぱいギリギリ決着の誇張でありまして……(後略)
 こんなになつたらもういけません、よく斯ういふ漫画家を世上に散見しますが、これはこのモデルに遺恨があるか若い女性一般の豊麗な尻が癇癪の蟲に触る輩……(後略)
  
 わたしはむしろが、現代女性の着物姿を揶揄し、風刺しているように見えて漫画的に面白いと感じてしまうが、当時はそうではなかったのだ。著者は、「前()の漫画心を採る方が第一描いてゐて楽しいじやありませんか」と結んでいるが、現代から見るとのほうが漫画心も風刺心も上のように見えてしまい、ニヤニヤ楽しみながら描けそうな気がする。
 田中比左良は女性の脚、特にふくらはぎの膨らみに女性美を感じていたようで、いわゆる太い「大根足」には目がなかったようだ。つづけて、彼の講義を聞いてみよう。
  
 モデルを誇張の無い輪郭だけの写生で行くとこんな格恰とします。
 これを漫画愛の心で描くとこうなります。特に脛の面白さを含味(ママ)して下さい。ユーモア味と美し味とが合唱してゐやしませんか。
 一見キタナそうに描けてゝもそれは面白く美しいのです。こうした漫画化は玄怪美(グロテスク)と言つて技術と鑑識とが進まないとなかなか能はない、初学からこんな渋味に赴くことは物象を純粋に愛撫する心の素養行進上キケンですから……(後略)
 こんな風に誇張したらもうペケです。これは親切な観照の無い無闇な漫画化です。
  
 わたしとしては、⑦⑧あたりが面白いと感じるけれど、「初学」なのでさっそく先生から「ペケ」をもらいそうだ。洋画の世界に当てはめると、が帝展、⑥⑦が二科展、⑦⑧が1930年協会展か独立美術協会展の画家たちに見かけそうなスケッチだろうか。
 それにしても、「大根足」の女性に大根を持たせるのはかわいそうのように思えるが、田中比左良は細っそりした脚を好まず、太くてふくらはぎが大根のような脚が特に好みで、ことさら惹かれて美しいと感じているようなのだから、別に「漫画的」な悪意があるわけではないのだろう。いまの若い女性は細くて長い脚が多くなり、いわゆる「大根足」は練馬大根のように希少になりつつあるので、彼にとっては嘆かわしい世の中にちがいない。
⑤大根.jpg ⑥大根.jpg
⑦大根.jpg ⑧大根.jpg
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 次に、当時のモダンダンサー(昭和初期に大流行した舞台で踊るレビューのダンサー)をモデルに、漫画化するときの手順について聴講してみよう。
  
 (レビューの舞台は)頭脳を空にポカンと見てゐて面白いから結構だ。
 漫画的に穏健な愛撫の心で描くとこんな風な漫画が出来上ります。
 これは線の軽快味を出したもので、ダンス等の軽快な感じのものを描くにはこんなペンの使ひ方も面白いでせう。
 物象の性格だけを直截に描出すべく、こんな漫画化を採るのも面白い。
 玄怪美(グロテスク)で、悪魔的な審美的な審美眼で描きちぎつた愉快な漫画化です。
 これは日本画の毛筆で描いたもの、岡本一平氏や池辺均氏等が始めてから漫画界を風靡している。これも素描の土台が十分でなければならぬ。
  
 講師が最後に触れているように、これらの講義に共通するのは「素描の土台」、つまりデッサンの技術が基本中の基本であり、「素描の素養も幾分有り稍(やや)画技の進んだ人」が漫画化を試みると、より面白い作品が描けるとしている。
 この課題は別に「漫画講座」に限らず、当時の画家なら必ず押さえておかなければならない、3Dを2Dに落とす際に必須な基本技術だったわけで、和洋を問わず画家と漫画家が未分化な時代だったのが透けて見える。しかも、どこまでが「漫画化」としてとらえられ、どこからが過剰なデフォルマシオンで「ペケ」なのか、その境界も主観的にせよ曖昧だったことにも留意したい。
 また、1929年(昭和4)の時点では、目白文化村Click!村山知義Click!マヴォClick!出身だった高見沢仲太郎(ペンネーム田河水泡)Click!は転居してきておらず、イヌの「黒吉」が出征していくなどという奇妙奇天烈な漫画「のらくろ」は、いまだ登場していない。
⑨ダンサー.jpg ⑩ダンサー.jpg
⑪ダンサー.jpg ⑫ダンサー.jpg
⑬ダンサー.jpg ⑭ダンサー.jpg
 周囲を見まわしてみると、下落合ではすぐに佐伯祐三Click!マンガClick!曾宮一念Click!似顔絵マンガClick!が浮かぶが、岸田劉生Click!も盛んに「麗子」Click!「雲虎(うんこ)」Click!「妖怪」Click!漫画を、ときに新聞や雑誌などへ描いていたのに改めて気づくのだ。

◆写真上:カフェの「エプロンねえちゃん」を踊る、ちょっと危ない漫画家・田中比左良。
◆写真中上:若い女性の着物姿を、田中比左良流に漫画化していく過程。
◆写真中下は、同様に大好きらしい「大根足」の女性を漫画化していくプロセス。は、「ちゃん茶目小僧」を踊るやっぱりかなり危ない漫画家・田中比左良。
◆写真下:レビューのダンサーをモデルに、漫画化していくプロセス。「漫画化」とデフォルメの境界が曖昧で、昭和初期の洋画界から見ると「保守的」に見えるだろうか。

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貯金が増えてうれしい「お化け大明神」。 [気になるエトセトラ]

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 前回は、下落合の南西部に電気をとどけていた東京電燈谷村線Click!を伝って聞こえてきた「八丁峠の女」怪談Click!をご紹介したが、今回は同じ山梨県の広里村(現・大月市)に設置された駒橋水力発電所から、駒橋線の終点である牛込の早稲田変電所界隈で、明治末から大正初期にかけて囁かれていた怪談をご紹介したい。ちなみに、この怪異譚が駒橋線沿いを伝って、大月あたりまで伝わっていたかどうかはさだかではない。
 牛込区(現・新宿区の一部)は、江戸期からつづく古い住宅が明治期まで数多く残っていた地域のせいか、以前にも岡倉天心Click!「凶宅」怪談Click!をご紹介しているが、今回の礒萍水Click!(いそひょうすい)が1900年(明治33)ごろから蒐集しはじめた怪談も、そんな怪(あやかし)が頻繁に起きる家だった。だが、住民はその怪異をまったく気にせず、幽霊を怖がるよりも高額な家賃のほうがよほど怖ろしかったらしく、いわくのある家=「事故物件」にもかかわらず平気で暮らしている。
 礒萍水の友人のうち、4人までが怪異のある借家で暮らしていたが、そのうちのふたりが幽霊のいるおかげで家賃が安くて済み、貯金がたまる「お化け大明神」をありがたく崇めて住みつづけている。そのうちのひとりは、早稲田変電所から配線される電気で暮らす牛込の住宅だった。この怪談が採取されたのは、大正初期のころだったと思われる。8間(約14.5m)の間口というから、それなりに大きめな屋敷が舞台だったようだ。市電に乗れば、すぐにも東京市の中心部や鉄道駅に出られるため便利な立地だったのだろう。
 この家の家賃は、月額7円50銭ときわめて安価だった。ちなみに、1918年(大正7)現在における1円の価値は給与額から換算すると、おおよそ現在の6,000円弱だ。つまり、大きめな一戸建ての屋敷が月々約45,000円で借りられたことになる。いくら借家の家賃が安い当時とはいえ、おそらく相場の半額かそれ以下ではなかったろうか。事前に、周旋屋(不動産屋)からの怪異情報はなく、近所の評判やウワサをあらかじめ取材せず、友人は家の大きさと立地、そして家賃の安さで即決したようだ。
 その家には、自殺した老人の幽霊がときどき出没していた。その友人に子どもはなく、妻と老母、および祖母の5人で住んでいたようだ。1919年(大正8)に井上盛進堂から出版された礒萍水『怪談新百物語』に収録の、「引き窓」から引用してみよう。
  
 その家は八間あつて、僅かに一ヶ月七円五十銭、これだから少々出る位は当然だて(ママ)、十年程前に、この家でお爺さんが首を縊つて死んだのださうで、時折、暗がりの廊下、老爺さんが死んだと云ふ處へ、老人の顔が見ゑるばかり、別に活動しないから恐くはない、むしろ自家の祖母の方が恐いのさ、と平気なもの、(カッコ内引用者註)
  
 これでは、せっかく驚かそうと化けて出ているのに、幽霊の「お爺さん」は生き甲斐(?)もなにもあったものではない。むしろ、「お爺さん」にしてみれば幽霊を見てもなんとも思わず、一家で「ここは家賃が安くて、貯金が増えるから助かるね」などといってニコニコしている住民のほうが、よほど不気味で怖かったのではないだろうか。
 もうひとりの友人は、日本橋の銀行に月給40円で勤めているサラリーマン家庭で、妻と父母、それに女中がひとりの計5人で住んでいる家だった。月々の家賃が6円(36,000円)とべろぼうに安く、毎月10円ずつの貯金ができたという。
 この家の怪異は、上記の「お爺さん」や「八丁峠の女」のように、幽霊が直接住民たちの前に姿を現すのではなく、家の中で異変を繰り返すことで自身の存在をアピールするという、どこか岡倉家の「凶宅」に通じるやや遠慮がちで控えめな幽霊を想起させる。最初の異変は、転居してきた次の朝からはじまった。
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 女中が早起きして台所へ出てみると、そこの引き窓が開いたままだった。女中は、自分が窓を閉め忘れたのだろうと思い、その夜はきちんと戸締りを確認して寝たのだが、次の朝起きて見ると再び開けっぱなしになっていた。この引き窓は閉めたあと、鍵の代わりに綱(ロープ)を結んで戸締りする旧式のものだったので、自然に綱がほどけて窓が開くことなどありえなかった。また、窓が開いているときは、その綱をくくりつける横木も付属しており、綱を見るとていねいに横木へ巻きつけられている。
 その様子を、礒萍水の「引き窓」からつづけて引用してみよう。
  
 するとその次ぎの朝は、またもや開いて居たのを、運悪るく御隠居に見つかつて、不用心だよ、とのお小言頂戴、下女はたしかに閉めて置いたのだが、開いて居て見れば仕方がない、不平ながら罪に伏して仕舞つた、当人頗る不思議で堪らない。/その次ぎの朝も、そのまた次ぎの朝も、何時も御隠居に見つかつては、お小言頂戴、下女は自分で自分が解らなくなつた、斯くの如き事が一週間続いた、御隠居は飽く迄も下女の不注意で、閉めないものと信じて動かぬ、で、お前は不可(いけ)ないから、こゝだけは妾(わたし)が閉めやうと云ふ事になつて、閉めて、さて夜が明けた、/またしても開いて居る、遉(さす)がの御隠居もこれには驚いた、たしかに昨夕は閉めて置いたのに、(カッコ内引用者註)
  
 御隠居は、このあたりはいまだ人家もまばらなので泥棒の仕業だと判断し、引き窓の綱を解けないよう固く結んで、その晩は眠らずに家内の物音に耳をそばだてていた。だが、怪しい物音はまったくしなかったので、これなら窓も開いていないだろうと起きだし、台所に出てみて驚愕とした。引き窓は、いつもどおりに開け放たれていたのだ。
 こうして、御隠居は不思議な出来事の連続に、女中とともに首をかしげるばかりになった。いまならカギを変えてみるとか、窓ごと取り替えてみるとか、いろいろな方策が考えられるが、借家なので勝手にいじるわけにもいかず、またカギも今日のように多種多様なバリエーションのある時代ではなかった。
 この怪異は、次々に家族を巻きこんでいく。つづけて引用してみよう。
  
 そんな事があるものかと、老爺公、若大将、前後して試験したが、これも同じ結果に不思議を叫んだ、けれども若い方は未だ信じきらない、一夜その窓の下で見張つて居た。/すると夜の一時とも覚しき頃、屋根の上には些の音なくして、そろそろと窓は明いた(ママ)、/そして解けた綱は、何者かゞ結び付けるかの如く、旧のまゝに(横木へ)結び付けた。(中略) 雨でも、風でも、欠さず開ける、四年の前から今に至るまで。(カッコ内引用者註)
  
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 家族一同は、その怪異を不思議がったが、「この家はおかしいし怖いから引っ越そう」とはならなかった。逆に、月々10円の貯金ができるありがたい「お化け大明神」のいる家として、一家はそこに住みつづけ、ほどなく地主と交渉して家を安価に譲ってもらっている。地主のほうも、もとから怪異のあることを知っていたため安い家賃を設定していたらしく、驚くほどの安値でいわくつきの家を手放したようだ。ただし、その「いわく」がなんだったのかは、地主が口を閉ざしたままでわからなかったようなのだが……。
 最近は、不動産屋からの告知で「事故物件」と知りつつ、家賃の安さにつられてアパートやマンションを借りる人が増えているらしい。確かに、家賃が市価の半額か3分の1だったら、幽霊が出ようが出まいが借りたくなるのだろう。たいがいのことは気のせいで済ませられる人には、逆に「事故物件」はありがたい存在なのかもしれない。
 知り合いのデザイナーの会社に、そんな「事故物件」のひとつに住んでいる独身の男がいた。それほど古くはないアパートらしいが、家賃がかなり安いかわりに、ほとんど毎晩のように“出る”のだという。それでも彼は、そこを引き払おうとは考えないらしい。なぜなら、真夜中にフッと壁から現れてキッチンに立ち、後ろ姿でなにか料理を作るような仕草をする幽霊が、彼好みの若くてロングヘアの美しい女性だからだそうだ。
 その後、彼がどうなったのかは知らないけれど、結婚をしていないとすれば同じアパートに住みつづけているのではないだろうか。人間の女子には目もくれず、幽霊の女に恋をしてもしょうがないのに……と思うのだけれど、そんなきれいな女子が毎晩訪ねてくるのなら、まあしょうがないかとも思えてくる。
 なによりも、幽霊の女子はもの静かだし、文句やグチもいわないし、来月から小遣いを削ったりもしないし、「どっか連れてって」などと面倒なこともいわないし、ときどき目を合わせてニコッとかしてくれるだけで、1日の疲れがゾッとすっかり取れそうな気もする。いまの「お独りさま」男子には、願ってもないピッタリなパートナーなのかもしれない。
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 でも、考えてみれば江戸東京はここ400年間で、明暦の大火(振袖火事)Click!から大震災、戦争による空襲や戦後の飢餓状態による膨大な餓死者まで、それこそ60万人ではきかないほどの莫大な死者(それも自ら望まず不本意な死者)が足もとに眠る世界最大の「事故都市」だ。そんな土地柄の街に住みながら、「いわく付き物件」とか「事故物件」「心霊物件」をことさら気にするのは、むしろ滑稽にさえ思えるのはわたしだけではないだろう。

◆写真上:大正期に移築された、下落合のお屋敷(和館)にみる水場の引き窓。
◆写真中上は、大正期に小石川区(現・文京区の一部)にある関口芭蕉庵Click!前の、やや東寄りの路上から撮影された旧・神田上水沿いに建つレンガ造りの東京電燈早稲田変電所。は、明治末に撮影の高圧線を架線した木製の送電塔。は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる早稲田変電所と上掲写真の撮影ポイント。
◆写真中下は、早稲田変電所跡のあたりから神田川をはさみ細川邸Click!(現・肥後細川庭園)を眺めた現状(上)と付近の風情(下)。は、早稲田変電所の近くにあった明治期撮影の戸塚球場Click!(のち安部球場)。遠景に見えているのが目白崖線のグリーンベルトで、球場で行われているのは当時の早慶戦。は、大正末ごろに撮影された早稲田通り。
◆写真下:礒萍水『怪談新百物語』に挿入された、女の幽霊画()とイラスト()。
おまけ
近くの公園の脇で、若いアオダイショウが死んでいた。外観から交通事故ではなさそうなので、おそらく野生のネコに頭蓋骨を一瞬のうちに噛み砕かれて死んだのではないだろうか。人間の前では大人しくゴロニャーンですましているネコたちだが、非常に獰猛かつ凶暴な肉食獣であることに変わりはなく、特に爬虫類を前にすると攻撃力をマックスにする。わたしも、ときどきうちのオトメヤマネコClick!相手にふざけては出血している。
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高圧送電線に沿って伝わった谷村怪談? [気になる下落合]

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 下落合の西南部や、南側に隣接する地域には、明治末から山梨県南都留郡(みなみつるぐん)谷村(やむら)に桂川電力が設置した鹿留水力発電所から、延々とつづく高圧線の送電塔を伝って電力が供給され、東京電燈Click!(現・東京電力)の目白変電所Click!で変圧されて、各家庭に電気が供給されていた。ほどなく、東京電燈は桂川電力を買収すると、この高圧線は東京電燈谷村線と呼ばれるようになる。
 落合地域に住む画家たち、たとえば鈴木良三Click!林武Click!佐伯祐三Click!らが谷村線の高圧送電塔を画面に入れて描いているが、1922年(大正11)に制作された鈴木良三『落合の小川』Click!では木製の送電塔だったものが、1924年(大正13)に描かれた林武の『下落合風景(仮)』Click!や、1926年(大正15)制作とみられる佐伯祐三の『下落合風景』Click!では、今日と同様に高圧線の送電鉄塔だった様子が見てとれる。おそらく、関東大震災Click!を契機として、送電塔が脆弱な木製から鉄製に変更されているのだろう。
 落合地域では、すでに旧来の目白変電所とともに廃止されてしまった谷村線だが、きょうの記事は高圧送電線が主題ではない。鹿留発電所のある谷村から聞こえてきた、明治期あたりから語り継がれている怪談がテーマだ。この怪談は、明治末に採取されたものだが、そのころには谷村を遠く離れた東京でも語られるようになっていたのだろう。
 明治期の山梨県では、輸出用の絹産業(養蚕)が各地で盛んに行われていた。そのシルクロード(絹街道)を伝い、横浜へ運搬するために集積された八王子あたりから、東京市街地へと伝わったものだろうか。絹の買いつけ商人が、南都留郡の谷村から北都留郡の初狩村へと抜ける途中で遭遇した怪異譚だ。
 谷村と初狩村の間には、羽根子山をはじめけわしい山岳地帯が立ちはだかっている。当時は、この山越えのことを「八丁峠」越えと呼んでいたようだ。直線距離にすると、南の谷村から北の初狩村へはわずか5kmほどしかないのだが、延々と上下し曲がりくねった山道を歩くとなると、つごう4里(約16km)ほどの行程になったようだ。絹商人は、他の商人が入りこまないうちに初狩村での買いつけを急いでいたのか、雨が降りはじめた夕暮れにもかかわらず谷村から「八丁峠」越えを強行している。明治期なので、菅笠をかぶり桐油着に草鞋ばきの旅姿で、提灯ももたずに山道を急いだ。
 すると、山道を1里ほど登ったところで、前を歩くひとりの女に気がついた。初狩村での買いつけについて、あれこれ考えながら登っていた絹商人は、急に前を登っていく女が気になりだした。自分のほうが足が速いので、同じ谷村側から登ってきた女に追いついたのだろうと考えた商人は、どんな女なのか見てやろうと早足になって追い抜こうとした。
 そのときの様子を、1919年(大正8)に井上盛進堂から出版された礒萍水Click!(いそひょうすい)『怪談新百物語』に収録の「峠の女」から引用してみよう。ただし、同書の出版は1919年(大正8)だが、礒萍水の怪談蒐集は1900年(明治33)からスタートしているようなので、彼が「百物語」の1話として取材したのも明治末の可能性が高そうだ。
  
 と見ると、背後の様子では三十二三、脊には未だ生れて十日も経つまい、と思はれる赤児を負ふて居る、脚絆に草鞋、草鞋も片々はない、髪は乱れて、着物は汚れきつて、見る影もない、それ許りではない、此雨の降るのに傘もない、手には重さうに風呂敷包みを持つて居る、旅の女には相違ない。/身なりから考へても、美い女ではあるまい、けれども寂しい時の相手にはなる、話をしかけて見よう、と追つて行く。(中略) 『もし、お女房(かみ)さん、お待ちなさい、この雨の降るのに傘もなしぢやァ、迚も堪つた訳のものぢやァない、ヱ、お女房さん、お前さん、全体那辺(どこ)から来なすつたのだい』(カッコ内引用者註)
  
 雨が降っているので山道は滑りやすく、商人は何度か転びそうになりながら早足で女を追いかけるが、なぜか山歩きに馴れた彼の足でさえなかなか追いつかず、女は足音さえ立てずになんの苦もなく山道をスーッと登っていく。
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 商人は、追いかけてくる男を警戒して女が足早に逃げているのだろうと思い、いろいろやさしい声をかけるのだが、女は振りむきもせずに黙々と登っていく。商人は「怪しい者ではない」と言葉をかけながら、歩き馴れた山で男が女に追いつけないはずはないと、半分意地になって女を追いつづける。するとほどなく、女が商人を振り返った。
 振り返った女の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 見れば色は底の見ゑすく様に白い、道具も揃つて、細面の、都でも人の振りかへる代物、それがこの雨の山路に、而も一人で人ッ子一人居ないと云ふのだから、まづ世間なみの男なら飛んだ野心の出るのも道理、まして利のほかには一点の理想もない、旅商人に於てをや、/ぞくぞくもので大喜び、此分では金の無いのは必定、これを宿に引きづり込んで、親切にしてやつたならば、それ、そこは魚心に水心、ウッ、もう天下は此方のものと、大に怪しからぬ希望に大悦喜!/風呂敷を貸さう處ではない、先方さへ承知なら、同一笠のなかに入れてもやりたい考へ、やがて女は早足を止めて、男と並んで行く。
  
 並んで歩きながら、商人がいくら話しかけても女は答えない。背中に負っている赤ん坊も、泣きもしなければ身動きもしない。
 商人は、ようやく女の不可解さを感じはじめた。あたりは雨の山道で真っ暗闇、商人が着ている着物の柄もわからないほどなのに、その女の目鼻立ちから髪型、着物姿までがなんとなくボーッと闇に浮かぶように見えている。商人は、とっさに狐狸が化けた女なのではないかと考えたが、別に彼らが喜ぶ食べ物を携帯しているわけではないので、化けて自分に近づく意味がわからない。女がひと言もしゃべらないのは、やはり自分を警戒しているのではないかと考えなおし、女と並んで歩きつづけた。
 やがて、八丁峠でもっともけわしい難所といわれる崖地の登山道にさしかかった。ここで女の手を引いてやり、親切をつくせば少しは打ちとけてくれるのではないかと期待して、商人は「さァ遠慮は入らねゑ、私が手を引いて上げよう」と女に手を差しだすと、初めて女はうっすらと笑顔を見せたが、その笑顔がゾッとするほど寂しく鳥肌が立つほどだった。だが、商人の心配をよそに女は危なげなく崖地を越えたが、商人はしゃべりつづけて女に気をつかいすぎたせいか、他愛なくグッタリと疲れてしまった。
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 八丁峠を越すと、雑木林の中を歩く下り坂になるが、片側が小流れのある崖地がつづくので、商人は気をとりなおして「辷(すべ)ると危ないから、手を出しなさい」と、しつこく女に誘いかけた。女が手を出せば、そのまま懐手で初狩村の商人宿まで引っぱっていくつもりだった。ところが、商人と並んで歩いていたはずの女は、急に片側の崖地へスーッと移動し、小流れの上をわたって一度振り返り男へ再びうら寂しいゾッとするような笑顔を向けると、その姿がみるみるうちに薄れていった。
 商人は、あまりの出来事に驚愕して尻もちをつき、全身の震えが止まらなくなった。女が消えたあたりの小流れには、闇にもほの白く見えるなにかがぼんやりと浮かんでおり、よく見ると「水がんちやう」の白布だった。“水がんちょう”とは、東京の多摩地域から山梨、埼玉などに拡がる供養法で江戸東京では「流し灌頂(がんちょう)」とも呼ばれている。(記事末参照) 死んだ産女と赤ん坊を供養する慣習のひとつで、小流れに4本の柱を建て、2尺(約60cm)四方ほどの風呂敷のような白布を四隅で結びつけて、真ん中のくぼみに流水を注いでやると、死んだ母子の追善供養になるという独特な民俗習慣だった。
 商人は、ほうほうの体で初狩村にたどり着くと、村人たちに八丁峠で最近なにか事件があったのではないかと訊けば、ほんの1ヶ月ほど前、旅をしていた眉目美しい女が峠を越えようとして、遊び人の男に追いかけられて殺された事件があったばかりなのが判明した。しかも、女のお腹には赤ん坊がいて臨月に近かったという。商人は、「だから、水がんちょうなのか」と納得しつつも、改めて全身が総毛立つのを抑えられなかった。すでに犯人は、谷村の南西にあたる吉田村でとうに捕縛されていた。
 今日からみれば「ありがち」な怪談話だけれど、当時の人々にとってはよほど怖かったにちがいない。自身が事件や事故に巻きこまれ、因果はめぐる式の筋がとおる江戸怪談とはまったく異なり、八丁峠に現れる女の幽霊と絹商人とはなんら関係性がない。つまり、怨みや祟りで必然的に関係のある人々の前に姿を現したり祟ったりする幽霊ではなく、たまたまそこを通りかかった旅人にすぎない、なんの関係もないゆきずりの人物にさえ化けて出る、ニュータイプの幽霊が出現したからだ。ちなみに、深い山中へ分け入ると女に出会う怪異は、以前にも乃木希典Click!「深山の美人」怪談Click!としてご紹介している。
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 さて、山梨県の南都留郡にある谷村から、北東側に口を開けた谷間を通り直線距離で約7kmほど、桂川に沿った道を歩いていくと、やがて北都留郡の広里村(現・大月市)へと抜ける。広里村にある駒橋水力発電所からは、早稲田変電所Click!まで駒橋線と呼ばれる高圧線がつづいていた。駒橋線は、ほぼ中央本線に沿って送電塔が建設されており、その北側を谷村線の送電塔が目白変電所までつづいていた。駒橋線の終点である早稲田変電所の牛込地域でも、明治末とみられる怪談が採取されているのだが、それはまた、次回の物語……。

◆写真上:南都留郡谷村にある、東京電燈(現・東京電力)の鹿留水力発電所。
◆写真中上は、1922年(大正11)制作の妙正寺川沿いの木製送電塔を描いた鈴木良三『落合の小川』(部分)。は、1924年(大正13)ごろ制作の鉄塔に変わった妙正寺川沿いの高圧送電線を描いた林武『下落合風景(仮)』(部分)。は、1926年(大正15)制作の蘭塔坂Click!から見える高圧線鉄塔を描いた佐伯祐三『下落合風景』(部分)。画面右の茶色い建物は目白変電所Click!で、その右の搭は建設中の早稲田大学の大隈記念講堂Click!
◆写真中下は、中井駅近くの妙正寺川沿いに建てられていた谷村線の高圧線鉄塔。は、下落合駅にあった高圧線鉄塔。は、同じく下落合駅近くに建っていた解体寸前の谷村線鉄塔。これらの谷村線鉄塔は、2012年(平成24)ごろに解体された。
◆写真下は、1919年(大正8)出版の礒萍水『怪談新百物語』(井上盛進堂)の中扉()と目次()。は、鹿留水力発電所の水圧管。は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる落合地域と戸塚地域を横断していた東京電燈の谷村線と駒橋線。
おまけ
 江戸東京では「流れ灌頂(がんちょう)」と呼ぶが、山梨県では怪談の中にも登場しているように「水がんちょう」と呼ばれていたらしい。お産で死んだ女性や、産児も同時に死んだ場合は母子を弔う供養の風習で、下の写真は戦前に埼玉で撮影された「流れ灌頂」。
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ラテン系サウンドが似合う神奈川の海辺。 [気になる音]

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 わたしはもの心つくころ、台風の目で遊んだことがある。調べてみると、1965年(昭和40)8月22日(日)の昼間、伊豆半島からやってきて平塚の馬入川(相模川)河口の須賀海岸あたりから茅ヶ崎の柳島にかけて上陸した台風17号ではないかと思われる。台風の目は正円だというのを、実際に初めて目にした瞬間だった。360度の視界が厚い雲で覆われているが、真上の空は快晴だ。湘南海岸の上陸時は965hp(当時はmb単位だった)なので、かなり勢力が衰えていたのだろう。翌8月23日には、早くも熱帯低気圧に変わっている。
 当時は親父の仕事の関係から、平塚の海岸っぺりClick!に住んでいたころだった。台風の目に入ると、いきなり強い陽射しで青空が拡がり、あたりはピタリと無風状態になった。いままで荒れ狂っていた嵐が、まるでウソのような情景だった。これは遊べると思って外へ飛びだすと、近所の子たちも空を見あげながら出てきていた。もちろん、母親は台風の目の中に入ったのを知っているので、「急に雨と風が強くなるから、すぐに帰ってきなさいよ!」と、わたしの背中に声をかけたのを憶えている。なにをして遊んだのか、いまではまったく記憶にないが、強風で折れて飛んできたマサキかサンゴジュの木の枝で、近所の友だちと水滴のかけっこかなにかしたような気がする。台風でシーンと静まり返っていたセミたちの鳴き声も、あちこちから聞こえはじめていた。
 30分ほど遊んだだろうか、道路の大きな水たまりに映っていた青空が灰色に曇り、いきなり先ほどの豪雨と強風が襲ってきた。みんな叫び声(脳内アドレナリン噴出の歓声)をあげながら、各自の家々へ引っこんだのだと思う。わたしもズブ濡れになって帰宅し、さっそく着替えさせられた。2階の自室から外を眺めると、まるでさっきの晴れ間と無風状態がウソのように、クロマツの林が強風で大揺れし荒れ狂っている。ベランダの窓ごしに相模湾を見やると、沖のほうから波が割れて白い波頭が押し寄せてきていた。
 台風がくる直前、突然あたりがシーンと静まり返るというのはほんとうだ。「嵐の前の静けさ」とはよくいうが、目の前に台風がいるのに物音ひとつ聞こえなくなる時間がある。セミたちも、鳴りをひそめて鳴き声ひとつ立てない。あまりの穏やかな風情に、「ほんとに、台風なんかくるのかな?」と思ってると、いきなり強い風が吹きはじめ横なぐりの雨がやってくる。子どものころ、夏から秋にかけときどき経験した情景だが、台風の目を体験したのは後にも先にもこのとき一度だけだった。
 なぜ、当時の記憶が鮮明なのかといえば、翌日、遅い夏休みをとっていた親父に連れられて一家で鎌倉Click!へ遊びに出かけているからだ。翌日は台風一過の快晴で、空気も澄んで秋の気配がそろそろ漂いはじめていたかと思う。ユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)で鎌倉行きのバスに乗り、ガラ空きの道路をまっすぐ東に向かって走っていると、海岸ではいまだ少し高めな波を相手に波乗りClick!(サーフィン)をする地元のお兄ちゃんたち(お姉ちゃんサーファーはまだ少ない)がたくさんいた。
 上原謙が経営していた「パシフィックホテル茅ヶ崎」(現・パシフィックガーデン茅ヶ崎)をすぎ、辻堂海浜公園(当時は砂丘のままで存在しなかったかもしれない)の界隈、もともとは米軍が射爆場にしていた茅ヶ崎砂丘が拡がっていたあたりから、高波なので遊泳禁止(同様に出漁禁止)の赤い旗が、あちこちの海水浴場に立っていたのを憶えている。茅ヶ崎の汐見台から辻堂海岸にかけて、当時は一度も泳いだことがないのでよく知らなかったが(わたしがよく泳いだのは鎌倉と大磯海岸から西にかけてだった)、3年後、ここで映画の撮影をすることになったので馴染みができた。映画の撮影を見物したのではなく、映画に出演したのだ。
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 そのころ、わたしはボーイスカウトに入っており(親に“入れられた感”が強く、軍隊のような組織で最後まで馴染めなかった……というか、土日の休みがつぶされるのでキライだったが)、地元の団隊に映画会社からの出演依頼がきたらしい。わたしたちの隊は、茅ヶ崎の汐見台あたりに野営(テントを張ってキャンプすること)して、確か「海洋研究所」にされてしまったパシフィックホテルを背景に、出演者たちとやり取りするようなシチュエーションだった。ロケに参加していた出演者は、本郷功次郎に篠田三郎、八重垣路子、渥美マリたちだったが、本郷功次郎は気さくな人なのかなにか話した記憶があるのと、ちょっと色っぽい渥美マリお姉さんが気になったのが、特に印象に残っている。w
 映画のタイトルは、大映の『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』(1968年)という作品だが、わたしは圧倒的に東宝のゴジラファンClick!だったので、あまり感動も感激もしなかったのだろう。どこかからガメラが出てくるわけでもなく、地味で退屈な撮影カットの連続で陽が傾くころには飽きあきしはじめていた。「隊長」の本郷功次郎がなにか話をしたとき、隊員たちが喜ぶシーンがあったのだが、わたしの喜び方がおざなりだったらしく、湯浅憲明監督からNGを出されて撮り直しになったのをよく憶えている。(いまさらながら天国の本郷功次郎さん、NGを出してスミマセン) むしろ、映画というのはこうやって地味に作っていくのかという、制作の裏側を観察できたのが貴重で面白かった。
 さて、話が横道にそれたので1965年(昭和40)にガラ空きだったユーホー道路(湘南道路)を走るバスにもどろう。この日は、鎌倉駅Click!に着くとすぐに金沢街道を走る浄明寺ヶ谷(やつ)行きのバスに乗り換え、杉本観音Click!のバス停で降りて南側の山に入っていったのだと思う。断定できないのは、わたしがまだ小さく記憶が曖昧で不確かなせいだが、台風の翌日なので山道がひどく滑りやすかったのは憶えている。ただし、急峻なコースは木々が鬱蒼と繫っているので、それほどぬかるんではおらず、むしろ台風で折れた小枝が散乱して歩くのを邪魔していた。当時は住宅が谷(やつ)の奥まで入りこまず、金沢街道から滑川Click!の橋をわたると、ほどなくハイキングコースのような山道だったと思う。
 この道をそのまま登っていくと、やがて釈迦堂ヶ谷(しゃかどうがやつ)切通しに差しかかる。切通しといっても、鎌倉にある他の切通しとはまったく異なり、山を二分して掘り下げるClick!のではなく、岩をくりぬいて隧道(トンネル)状にした唯一の切通しだ。当時は、現在のように通行禁止ではなく自由に往来でき、山道を少しずつ下るとやがて1.5kmほどで安養院Click!や八雲社のある材木座海岸の方面へと抜けることができた。釈迦堂ヶ谷切通しの中は乾いていたが、前日が台風だったせいで上部の木々の間からときどき夏の光が反射する水滴が頻繁に落ちていた。それが、切通しの明るい鎌倉ならではの岩肌や、セミ時雨がかまびすしい山中の情景とあいまって美しく、ことさら子ども心に強く焼きついたものだろう。
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 もうひとつ映画の話をしてしまうと、台風に釈迦堂ヶ谷切通しとくれば『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督/1990年)がすぐに思い浮かぶ。従来はVHSしかなかったが、ようやくDVDが発売されたのでつい衝動買いしてしまった。ずいぶん前に、いい映画と好きな映画はちがうという記事Click!を書いたけれど、この作品はストーリーはどうでもいいが、わたしが子どものころの神奈川県の海っぺりの匂いや雰囲気が、とてもよく描かれていて好きだ。海で遊んでいたのは、まさに同映画に登場するお兄ちゃんやお姉ちゃんのような子たちだった。もっとも、ひとつ違和感があるとすれば、登場人物たちの肌が白すぎること。わたし自身を含め、みんなもっと日焼けしていて真っ黒だった。
 あの時代、相模湾の雰囲気を出すのに、加山雄三のハワイアンはまったく似合わず場ちがい筋ちがいなサウンドに響いていた。地元に溶けこんで育っていない彼には、地場の雰囲気や感覚がわからなかったのだろう。それに比べ、『稲村ジェーン』に流れるラテン系の旋律はとてもよく似合う。上原家は、「湘南」を商品化して「洗練」されたイメージにしようとしたようだが、地元の人々にしてみればもっと泥臭い、この地域ならではのこだわりがあって、脳天気なカラッとした陽気さがある半面どこかさびし気な哀愁感が漂う、潮臭い(生臭い)湿り気のある空気感があったように思う。
 それは、TVや映画で流れる神奈川県の夏の海岸がいつもピーカンで、海水浴客やサーファーたちが楽し気に遊んでいるシーンが多かったせいもあるのだろうが、真夏の海辺の天気はクルクルと変わりやすくめまぐるしい。毎日のように、午後か夕方になると入道雲が近づいてきて、たいがい激しい雷と夕立が降っていた。家の2階から、海に落ちるブルーやピンクの雷を飽きずに眺めていると、1時間ほどで雨があがり洗われたようなオレンジの夕陽が射してくる。8月下旬ともなれば、陽射しには秋色が感じられて、どこか祭りのあと、夢のあとのような哀愁感が漂ったものだ。サーファーや海水浴客の数も、風が西に変わりクラゲが多くなってくると目に見えて減っていった。
 そんな情景にフィットする音楽として、わたしは昔からギターで演奏する、どこか悲しくさびし気な『いそしぎ(The Shadow of Your Smile)』Click!(Johnny Mandel/1965年)を常にイメージしてきた。JAZZでもよく演奏されるお馴染みのスタンダード曲だ。この曲が、湘南を直撃した台風の年と同時期に作曲されているのも面白い偶然だ。おそらくラテン系のスパニッシュモード(ときにボサノヴァ)のサウンドが神奈川の海辺の匂いにはピッタリだと、どこかで桑田佳祐の感覚と同期するものがあったのだろう。そういえば茅ヶ崎育ちの、当時は同じく小学生だった彼は、『ガメラ』映画のロケを見物していたかもしれない。
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1965年(昭和40)という年は、西湘バイパスの工事がスタートしたころで、あちこちにあった海辺の空き地には、炭住(たんじゅう=炭鉱夫とその家族が暮らした住宅)によく似た作業員用の宿舎(飯場:はんば)ができはじめていた。住んでいたのは、ほとんどが家族連れの人々だったが、実際に炭鉱が閉山して土木作業員になった人たちもいたのかもしれない。ちょうど東京の河川や運河にあまたいた船上生活者の家庭のように、多くの子どもたちが小学校へ通っている様子がなく、地域で問題化していたのを憶えている。西湘バイパスが完成に近づくと、彼ら家族はどこへともなく姿を消していった。
 ギラギラした太陽と、男女のはかなくて短い夢の季節がすぎると、神奈川の海辺はすぐに静けさを取りもどす。そんなさびしさや季節の移ろいは、小学生のわたしにも意識できたが、浜で遊んでいたお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、もっと切なくさびしかったろう。「暑かったけど、短かったよね、夏……」は、彼らの実感だったのではないだろうか。ハワイは年じゅう泳げるかもしれないが、湘南にはハッキリとした四季がある。そんな中で響くサウンドは、まかりまちがっても楽天的なハワイアンなどではなく、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちの哀惜と追憶が似合うマイナーコードが効果的な、ほの暗いラテン系のサウンドなのだ。

◆写真上:「落石注意」で通れるときに撮影した、2007年(平成19)の釈迦堂ヶ谷切通し。
◆写真中上は、1965年(昭和40)8月に神奈川の海辺に上陸した台風17号の軌跡。は、1965年(昭和40)に撮影した杉本寺の山門へ向かう階段(きざはし)。スキャニングで気づいたが、階段を上る黒い半透明な人影(親子連れ?)が写っている。は、釈迦堂ヶ谷切通しの入口と内部のやぐら。切通しの周囲は、鎌倉時代の遺跡だらけだ。
◆写真中下:釈迦堂ヶ谷切通しの内部と、反対側の出口。
◆写真下上左は、1968年(昭和43)に公開された『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』(大映)のポスター。上右は、1990年(平成2)に公開された『稲村ジェーン』(東宝)DVDのフォトブック。は、茅ヶ崎の撮影ロケでは宇宙怪獣バイラスの姿がわからず期待したけれど、招待券をもらって映画館で観たらスルメイカみたいなやつだった。戦うカメとイカ、いやガメラとバイラス(上)と海洋研究所にされてしまった懐かしいパシフィックホテル茅ヶ崎。(下) は、『稲村ジェーン』で印象的なカットとして挿入された釈迦堂ヶ谷切通しのシーン。
おまけ1
台風8号が去った翌7月28日に、静寂をとりもどす岸田劉生アトリエClick!があった鵠沼海岸の夕暮れ。いい波が立ち、少し前まで大勢のサーファーたちで賑わっていた。手前には、営業時間を短縮した海の家がズラリと並ぶ。ちなみに、海水浴のあと身体の洗浄と休息をとる海の家を考案したのも、日本初の海水浴場を大磯に設置した松本順(松本良順)Click!だ。
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おまけ2
昭和10年代に国道134号線が整備されると、海岸沿いの地元の町々では大磯の照ヶ崎から藤沢の鵠沼海岸までの道筋を「湘南遊歩道路」と名づけた。わたしが子どものころには、それが「ユーホー道路」と縮められて(転訛して)呼ばれたが、1960年代後半になりクルマの往来が激しくなるにつれ、地元では「湘南道路」と呼ばれることが多くなっていく。ちょうど、東海道線を走る蜜柑のオレンジと葉のグリーンをデザインした新しい電車の愛称を、1950年(昭和25)に地元で一般公募し、一度は「湘南伊豆電車」と名づけられたが、いつの間にか短く「湘南電車」と呼ばれるようになった経緯とよく似ている。下の写真は、整備された直後の1935年(昭和10)ごろに、大磯の海岸線を通る「ユーホー道路」を撮影したもの。
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「自由主義者」の佐々木孝丸を逮捕する特高。 [気になる下落合]

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 若いころの佐々木孝丸Click!は雑司ヶ谷に住み、近所の秋田雨雀Click!ワシリー・エロシェンコClick!とともに、よく雑司ヶ谷墓地を散策している。雨雀がめぐる散歩コースはほぼ決まっていて、メインストーリとの近くにある夏目漱石Click!の墓の横を通り、横道の外れにひっそり建っている島村抱月Click!の墓の前でしばらくたたずみ、小泉八雲Click!や綱島梁川の墓の前をめぐって、最後に死刑囚の共同墓地へ抜けるというコースだった。天気がよければ、そこにある芝生で休息していた。
 当時、佐々木孝丸は新劇の世界へ入る以前の話で、島村抱月の墓前でもそれほど深い感慨はおぼえなかったのかもしれない。この時期、彼は秋田雨雀とともに新宿中村屋Click!の2階で行われる朗読会「土の会」に参加しており、雨雀作などの新しい創作戯曲をはじめイプセンやチェーホフ、ゴーゴリなどの戯曲を選んでは朗読していた。秋田雨雀と親交のある仲間のほか、神近市子Click!相馬黒光Click!、当時は自由学園Click!の生徒だった相馬千香Click!なども加わり、相馬愛蔵Click!エロシェンコClick!が聞き役や批評を行なっていた。
 この「土の会」がきっかけとなり、佐々木孝丸は演劇に強く惹かれたものか、1923年(大正12)の春に新宿中村屋が麹町平河町で華族の大屋敷を購入したとき、大きな土蔵を小劇場に改造することが決まると、真っ先に参画して仲間と劇団「先駆座」を起ち上げている。“土蔵劇場”は、すべて決まった観客を前提にした会員制の小劇場で、真っ先に申しこんできたのは島崎藤村Click!、次が有島武郎Click!、その次が水谷竹紫と水谷八重子Click!というように、ほとんどが文学や演劇の関係者で占められていた。
 “土蔵劇場”は、柳瀬正夢Click!の舞台装置も話題になったが、新宿中村屋が60人ほどの観客へ茶菓を提供することでも評判になった。佐々木孝丸は、同劇場でストリンドベリーの『火あそび』で主役を演じ、秋田雨雀の『手投弾』にも出演している。このとき、彼は有島武郎から「君にはコメディアンの素質がある。真剣に芝居をやつてみませんか」(佐々木孝丸『風雪新劇史』より)といわれ、本格的に演劇の世界へのめりこむきっかけとなった。
 このあと、佐々木孝丸は前衛座を興し、前衛芸術家同盟の結成で前衛劇場、東京左翼劇場、新築地劇団へと参加し、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)の初代委員長をつとめている。しかし、たび重なる逮捕・拘留と、ささいな路線や方針のちがいで繰り返される揚げ足とりのようなセクト主義的対立、さらにつまらない理由(酒を飲み歩いて遊んでいたことが問題視された)により演劇団体や組織から干されるにおよび、「感情的社会主義者」(当人規定)だった佐々木孝丸は運動の狭量さにウンザリして、地下に潜行した共産党にふりまわされる劇団活動がつくづくイヤになっていったようだ。
 1931年(昭和6)ごろになると、めぼしい左翼や組合の活動家はことごとく逮捕・拘留され、特高警察Click!は特に違法行為をしていない人々まで、ありもしない罪状をデッチ上げて逮捕するまでになっていた。佐々木が出演していた築地小劇場へも、特高や私服憲兵が姿を見せるようになった。その時の様子を、1959年(昭和34)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇史―わが半生の記―』から引用してみよう。
  
 芝居の稽古場へ特高が踏み込んで来て、「無届集会」を理由に、劇団の主だつたものを引つ張つて行つてブタ箱にぶち込んだり、芝居を見に来た観客を一人々々身体検査して嫌がらせをやつたり、という具合で、入場者の数は減る一方、そこへもつてきて、土方(与志)や佐野(碩)は外国へ行つてしまい、村山(知義)、杉本(良吉)、小埜(裕二)、千田(是也)等の有力メンバーは捕えられて未決へ放り込まれ、かてて加えて、劇団員のお話にならぬ困窮と病人の続出などで、正常な演劇活動は極度に困難の度を加えて行つたのである。「太陽のない街」や「西部戦線(異常なし)」の頃のような意気揚々たる気配はどこにも見られなくなつた。(カッコ内引用者註)
  
 左翼活動家はもちろん、そのシンパまで逮捕・拘留しはじめる端緒の出来事だった。
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 1933年(昭和8)2月、小林多喜二Click!が築地署で虐殺されたとき、たまたま築地小劇場に出演していた佐々木孝丸は、同署から多喜二の遺体を引きとり、数人で杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目) の自宅まで運んでいる。そして、弔問や葬儀へ参列するために小林家を訪れた人々は、すべて特高によって追い払われるか検挙されたが、江口渙Click!と佐々木孝丸だけが「死体の始末」(特高が発言した言葉のママで、まるでヤクザか殺人犯のようだ)を理由に、葬儀への参加を許可されている。「死体の始末」とは、多喜二の遺体を火葬場へと運ぶには男手が必要だったからで、佐々木孝丸は江口はともかく自身は「感情的社会主義者」なのを特高がそれを見透かし、相対的に「危険が少ない人物」(同書)として許可されたのだろうと想像している。
 共産主義者や社会主義者、アナキズムの活動家などが思想犯としてあらかた投獄され、そのシンパたちも根こそぎ逮捕・拘禁されてしまうと、特高は年々「成果」=検挙数が減少しはじめている。そこで、大正デモクラシーを体現していた民本主義(ないしは民主主義)者、あるいはサンディカリスト、自由主義者などに弾圧の範囲を拡げ、「反政府活動」を理由にデッチ上げて逮捕・拘禁しはじめている。つまり、資本主義革命の基盤を支えた政治思想である自由主義や民主主義さえ政府に対する「危険思想」として位置づけ、まるでタコが自分の足を食うように弾圧しはじめたのだ。
 ちょっと余談めくけれど、官僚などの組織にはありがちなことだが、とある部局の目に見える「成果」(特高なら思想犯や反戦を口にする人間の摘発・逮捕)が年々低下すれば、業務の減少から予算を減らされたり組織が縮小され、やがてその存立基盤がゆるぎかねないのはいつの時代でも同様だ。したがって、「成果」を減らさないためには、常に前年度と同等か前年度よりもさらに大きな「成果」を上げなければならないことになる。
 10年ほど前までの笑い話に、東京の地震対策関連部局が発表していた、大震災による犠牲者数の「減少」がある。ずいぶん以前(わたしの学生時代)には十万人単位だった大震災で想定される犠牲者数が、役所によるさまざまな防災計画や対策が年々実施されるうち、被災シミュレーションをもとに発表される犠牲者数が年々「減少」しはじめ、万人単位から千人単位、そして百人単位となり、しまいには関東大震災Click!と同等の大地震が発生しても、東京での犠牲者は十人単位あるいはゼロまでいくのではないかと、巷間では「お役所仕事の典型」と呆れられ笑い話のネタになっていた。それが、東日本大震災を契機に、いつの間にか再び万人単位へともどっているのはなぜだろう?
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 つまり、同部局では耐震設計の徹底をはじめ、道路の安全整備、河川における災害時物流桟橋の確保、各種施設などの脆弱箇所の改善、危険点の解消などを通じて、年々犠牲者が「減少」していく「成果」を常に発表せざるをえなかったのだ。防災・減災部局の対策にもかかわらず、相変わらず十万単位の犠牲者が予想される状態がつづいていれば、「なにをやってる?」と部局の存在意味が問われ責任者のクビも危うかっただろう。部局のスタッフに「悪意」はなく、できるだけ安全性を担保する施策を行なってきたと思われるが、それによって「減少」しつづけた犠牲者数の数値は、明らかに都合のいいことばかりを想定し、すべて予測どおりにコトが運び、突発的な想定外アクシデントなど起こりそうもない、楽観主義が横溢した“図上演習”での犠牲者数だったにちがいない。
 まったく同様のことが、内務省の特高警察でも起きている。しかも、こちらは悪質かつ陰湿な思想弾圧の暴力装置なので始末が悪い。特高警察は、1928年(昭和3)の三・一五事件Click!による思想弾圧の成果で、199万円余(当時の給与換算だと現在の約99億5,000万円)の莫大な予算が第55議会を通過しており、内務省の一部局としては例外的な予算だった。そして、肥大化した組織にはより大きな成果が求められるようになり、翌1929年(昭和4)の四・一六事件を引き起こすことになる。この功により、当時の特高課長だった纐纈彌三(こうけつやぞう)は、天皇から勲五等旭日双光章を授与されている。特高は敗戦の日まで、常に前年比を上まわる成果を上げることが目標となり、ほんの些細な政府批判でも当該者を逮捕し、拷問にかけて「自白」させ起訴を繰り返す悪質な弾圧組織と化していく。
 昭和10年代になると、政府に「異」を唱える人物はことごとく検挙されていくことになった。左翼のシンパから、とっくに足を洗った佐々木孝丸のもとにも、さっそく特高たちが逮捕にやってくる。1940年(昭和15)8月19日、思想性の希薄な娯楽作品を書き、舞台を演出していた彼には「寝耳に水の愕き」だった。この時点から、特高はその人物の思想性ではなく、政府の意向に沿わなさそうな(さらには特高の個人的かつ恣意的な感情で)、すべての言論や表現に対して弾圧の手を伸ばしていく。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「戦時体制」を強化するために、少しでも自由主義的な傾向のものは、根こそぎ刈り取つてしまおうとする政策の一つの現われであることが、私にも分つた。左翼からは反動扱いにされていた帝大教授の河合栄治郎氏のようなリベラリストでさえが、その自由主義の故に逮捕され起訴されている時代だったのだ。
  
 大正期や昭和初期の感覚で、同じようなことを口にすればたちまち逮捕・拘留される、そんな時代が到来していた。しかも、今日の北朝鮮のような隣組制度Click!に象徴されるように、相互監視と当局への密告が奨励されていた。JAZZはおろかクラシック音楽(ドイツ)を聴いていただけでベートーヴェンのレコードまでが押収され、欧米音楽の「愛好家」として特高に引っぱられるケースまで起きている。1941年(昭和16)には、治安維持法の条項が従来の7条から65条まで増加され、政府の方針に少しでも異議を唱えた人物は「死刑」の極刑を含む重罰に課せられることになった。
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 日米が開戦し、自由主義者や民主主義者の主だった人物たちを逮捕・拘禁してまうと、特高はまたしても「成果」を維持・拡大するために、今度は気に入らない新聞や出版社など言論機関、教育機関、学者・研究者などに対してありもしない「事件」をデッチ上げ、「犯罪」や「罪状」を捏造していくようになる。穏健な学者である安倍能成Click!でさえ、特高や憲兵隊に目をつけられる時代が招来していた。もはや権力の暴走を止められる組織はなく、戦時中の混乱期には膨大な犠牲者を生む結果となった。今日では、元・特高の刑事たちを告訴し、戦後も長期間にわたり裁判がつづいた「横浜事件」がもっとも有名だが、同様の事例は全国各地で起きている。国家を滅ぼす「亡国」状況が、目前に迫っている時代だった。

◆写真上:1923年(大正12)4月に新宿中村屋の「土蔵劇場」で上演された、先駆座による「竹内事件」をベースとする秋田雨雀『手投弾』の舞台。
◆写真中上は、雑司ヶ谷墓地にある夏目漱石の墓。は、1935年(昭和10)ごろの新宿中村屋。は、同店で行われていた朗読会の様子。
◆写真中下は、「土蔵劇場」で上演された秋田雨雀『手投弾』の舞台。少女が出演しているが、自由学園の生徒だった相馬黒光の二女・千香だろうか。は、柳瀬正夢のスケッチ『手投弾舞台』。下左は、朗読会では聞き役だったV.エロシェンコ。下右は、1912年(明治45)制作の中村彝Click!『帽子を被る少女(習作)』でモデルは相馬千香。
◆写真下は、戦後に合同の還暦祝いへ出席した新劇仲間で左から久坂栄二郎、佐々木孝丸、土方与志。は、戦後に撮影された『種蒔く人』の創刊メンバーで左から小牧近江、村松正俊、松本弘二、佐々木孝丸。は、今日の香港国家安全維持法における公安警察の思想弾圧のように、「共謀罪」を根拠に特高警察の復活をいいはじめる人物が政府内に現れれば、そのような「亡国」思想Click!の輩こそ憲法違反で摘発してほしい。

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忘れ去られた新宿怪談「雷ヶ窪」。 [気になるエトセトラ]

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 JR新宿駅の西口に、とうに忘れ去られた怪談スポットがある。青梅街道と十二社通りがT字形に交叉する交差点、江戸期の地名でいうなら、柏木村柏木成子町の東端にあたるエリアだ。下落合から3.5kmほど南へ下ったところ、常圓寺と徳川幕府の大筒角場(射撃訓練所)、そして3万石の松平下屋敷に囲まれており、明治期になると周囲を淀橋浄水場Click!の工場正門や専売局煙草工場、女子学院(現・東京女子大)などに囲まれる地点だ。古い事蹟でいえば、高台に築かれた大きな新宿角筈古墳(仮)Click!の真北に位置するエリアだ。
 「雷ヶ窪(らいがくぼ)」と呼ばれる地点で怪異現象が記録されたのは、いまから334年前、1687年(貞享4)8月に中山勘解由直守が牛込の自邸で急死し、同家の墓所である飯能の能仁寺へと向かう葬列で起きた。中山勘解由といえば、『武鑑』に記録された正式の役職名でいうと、江戸初期に若年寄支配の捕役「盗賊火方改」をつとめ、その容赦ない取締りから「鬼勘解由」との異名をとった役人だ。「盗賊火方改」などという発音しにくい肩書きは、江戸ではどんどん改変され通称「火付盗賊改」、またはそれもまだまだるっこしいので単に「加役」と呼ばれるようになる警察組織のことだ。
 少し余談だが、長ったらしい言葉や口にしにくい言葉が、どんどん短縮されたりいいやすい名詞に変えられていくのは、別に「水道(すいどう)」→「すいど」→「いど」Click!、「御城下町」→「下町(したまち)」Click!、「お師匠さん」→「おしょさん」→「おしさん」の江戸期に限らず、明治以降の東京でも頻繁に起きる現象だ。親から上の世代では、「山手線(やまのてせん)をそのまま発音する人はおらず、ほとんどの人たちが「やまてせん」あるいは「のてせん」と発音していた。現代もまったく同様で、「情シス」「オンプレ」「サステナ」……など、おもに業務現場でカタカナ用語の短縮化が著しい。
 さて、中山勘解由が加役に就任した江戸時代の初期、幕府旗本の権威をカサにきた不良若侍たち=旗本奴(はたもとやっこ)の横暴は、江戸の町々で目に余るものがあった。屋敷から街中へ出てきては、商家を脅迫してカネを巻きあげたり、ときに大名に難癖をつけては暴れまわる悪質な行為が目立った。それでも、大名屋敷では旗本奴に対抗できる、腕の立つ家臣を集めることができたが、町人たちはそうはいかなかった。そこで登場したのが、いわずと知れた幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)とその一党だ。
 江戸時代において、武家と町人とが実力行使(暴力)をともないながら、階級的にもっとも鋭く対立したのは、この旗本奴と町奴(まちやっこ)が対峙した江戸初期だろうか。幡随院長兵衛の本名は塚本伊太郎といい、浅草寺も近い東隣りの花川戸で口入屋(就職斡旋業)を営む見世を経営していた。その彼が、剣の腕が立つ若者や腕っぷしの強いはぐれ者たちを組織して、目にあまる旗本奴の横暴に対抗しはじめたのだ。そして、旗本奴の首魁のひとり水野十郎左衛門の屋敷に招かれて騙し打ちに遭い、長兵衛の死体は江戸川(現・神田川)へ投げこまれたのか、隆慶橋Click!の近くで見つかっている。
 ここで、また少し横道にそれるが、江戸時代の町人には苗字(姓)がなかった……というのも、時代劇や講談から生まれたおかしな“神話”や錯覚だろうか? 町人は「姓がない」のではなく、元和偃武より厳しくなった「士農工商」の階級規定から、「士」以外の身分は姓があっても名のれなかったのだ。町名主や庄屋などに「名字帯刀を許される」という表現があるが、名字(苗字)を「許される」のであって、新たに付加するのではない点に留意したい。町人である幡随院長兵衛=口入屋伊太郎も、もちろん「塚本」という姓をもっていた。わが家も江戸全期を通じて町人(商人)だが、江戸初期に北関東で食いっぱぐれて幕府が開かれたばかりの江戸へ出てくるまでは武家なので、もちろん当初からの姓は受け継がれていた。
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 幡随院長兵衛を殺害したにもかかわらず、水野十郎左衛門は直接的な証拠がないため特に罰せられなかったが、幕府は眈々と旗本奴の取締りをねらっていたのだろう、1664年(寛文4)に突然家禄(5千石)を没収され、松平阿波守の屋敷へ“お預け”となった。同屋敷でおとなしく謹慎していれば、遠島で済んでいたかもしれないが、おそらく態度も悪く暴れまわったのだろう、翌日「赦し難き重々の無作法」を理由に、幕府から切腹を命じられた。もちろん「重々の無作法」とは、町人を向こうにまわしてケンカや脅迫を繰り返し、おまけに幡随院長兵衛を殺害したことも含まれていたのだろう。切腹には、常に携帯していた愛刀の貞宗Click!を使いたいと申し出て許されている。
 水野十郎左衛門と徒党を組んでいた旗本奴の首魁、加賀爪甲斐守(1万石)は八丈へ遠島、そのほか主だった“子分”たちの小出左膳、小笠原刑部、安孫子新太郎ら57名は八丈島、三宅島、大島へ流罪となり、江戸の町々を肩で風きって歩いていた旗本奴は壊滅した。ここで勢いを得たのは、幡随院長兵衛は殺されたが、ほとんど無傷で残った町奴たちだった。幕府の取り締まりで、しばらく鳴りをひそめていた彼らだが、徐々にわがもの顔で江戸市中を歩きまわり、武家さえ脅したりケンカを売ったりして暴れまわった。
 旗本奴の粛清から20年後、町奴の動向をにらんで探索を繰り返していた「鬼勘解由」こと加役の中山勘解由は、屋敷にあった仏壇をたたき壊して自ら「鬼になる」と宣言し、1684年(貞享元)を迎えると唐犬権兵衛を皮切りに、放駒四郎兵衛、死人小左衛門、大佛三夫など名うての町奴たち37人を捕縛しては、片端から斬首していった。中山勘解由はこの功績により、すぐに大目付へと抜擢されている。
 さて、それからわずか3年後、町奴の祟りか過労からかで中山勘解由が牛込で急死し、ここでようやく飯能にある菩提寺まで遺体が運ばれるという、冒頭の葬列シーンへもどってくる。葬列が四谷をすぎ、内藤新宿をすぎて追分の二叉路から青梅街道に入ると、快晴だった空が一転にわかにかき曇り急に雷鳴が聞こえだした。そのときの様子を、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から、少し長いが引用してみよう。
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 此日は朝からからりと晴れ渡つた、時雨も心配なささうな日和であつたのに、如何したことか、其處には待構へたかの如く一叢の黒雲も柩を見るなり、御参なれとばかりに舞ひ下る。/忽然として黄昏の暗さに包まれた、と思ふ間もなし、吹き捲る旋風、叩きつける暴雨、紫電瞳に灼鐵を飛ばして、射られた眼は暫し開くべくもない。雷は葬列の真上を、遁さじものと駆け遶る。狂風、暴雨、天と地を引裂く雷光、これを此世の最後かとばかり轟き狂ふ大雷鳴。/柩を護る人々も終に堪りかねて柩を捨てた。袖を冠り、地に伏して、唯々神仏のお助けを希ふより他はない。/何うなり行くのであらう、人々は此儘此處で雷に撃れて殺されるのかと、心から泣いた。いまこそ雷侯激怒の頂上、人々がさう感じた途端に、雷槌は撃下された、鐵壁銅山粉微塵の激轟。/柩の上だ。火柱が立つた。/人々が半死から蘇つた時に、先づ目に映じたのは、柩も、内の仏も、木端微塵に撃砕かれて、寸影を留めぬ、それであった。
  
 どうやら、葬列の一行は夏の積乱雲の真下へ突っこんでしまったようだ。江戸東京では、昔から西と北からやってくる雷雲をそれぞれ大山雷と日光雷Click!と呼んでいたが、中山勘解由の棺桶に落下したのは西からやってきた大山雷だろう。
 科学的に考えれば、なぜ棺桶に雷が落ちたのかは、現在の葬儀でもときどき見かける儀礼や習慣によるものではないだろうか。おそらく棺桶の上には、魔除けのために置かれたむき出しの短刀ないしは脇指が、遺体の「守り刀」として置かれていた可能性が高い。現在の葬儀で使われる刀は、プラスチックで造られたレプリカだが、もちろん当時はホンモノの刀剣が置かれていた。金属に落ちやすい雷は、周囲が田畑で突起物がそれほどない窪んだ地勢の中で、それめがけて落下したのではないか。以来、やや窪地状になったその土地のことを、誰かれともなく地元では「雷ヶ窪」と呼ぶようになった。
 もっとも、これだけなら別に菅公の落雷祟りと同様で、町奴たちの恨みや呪いが雷となって中山勘解由の棺桶を襲った……ぐらいのエピソードで終わったかもしれない。ところが、不思議なのはそれからのことだ。中山勘解由の遺族たちが、飯能へ墓参りに出かけるため、屋敷を出て青梅街道の雷ヶ窪へ差しかかるたびに、まるで待ち伏せでもされているかように必ず激しい雷雨になった。内藤新宿から柏木成子町の一帯では、晴れていたのに一転にわかにかき曇り激しい雷雨に襲われると、「これは、中山家の誰かが墓参りに出かけたな」と、昭和初期までウワサされるようになったという。
 もちろん、現在のJR新宿駅の西口で、超高層ビルが建ち並ぶ谷間を歩いていて、急に空がかき曇り雷雨に襲われたとしても、「これは、中山家の人々が……」などという人はもはや誰もいない。雷も、高層ビルに設置された避雷針に落ちて、ようよう地上まではとどかなくなった。だからよけいに、1960年代末ぐらいから「雷ヶ窪」怪談は完全に忘れ去られ、誰も語り継ぐ人がいなくなってしまったのだ。
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 なかなか地上に落雷しないので、中山勘解由に首を斬られた町奴の怨霊たちが、「どうしたってんだい、ええ?」と、雷ヶ窪にドロドロと様子を見に現れたら、どこからか幡随院長兵衛の亡霊も「若(わけ)えの、待ちなせえ。鈴ヶ森の第一京浜よりもひでえありさまなのさ、てめえらクルマに轢(ひっ)殺されちまうぜ。雷よりもおっかねえやな、気をつけな……って、もうとうに死んでるじゃねえか、なぁ」と、いちおう止めに入るだろうか。

◆写真上:祟りだ呪いの雷だといっても、なんの怖さも説得力もない現在の雷ヶ窪。
◆写真中上は、1862年(文久2)作成の尾張屋清七版の切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」にみる雷ヶ窪。は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる雷ヶ窪。
◆写真中下は、1858年(安政5)に国貞(三代豊国)Click!が描く幡随院長兵衛。は、江戸期を外れ1891年(明治24)に香朝樓が描く「水野十郎左衛門」。
◆写真下は、1953年(昭和28)に撮影された芝居『御存鈴ヶ森(ごぞんじ・すずがもり)』で初代・中村吉右衛門の幡随院長兵衛(右)と9代目・市川海老蔵の白井権八(左)。は、1943年(昭和18)出版の磯萍水『武蔵野風物志』(青磁社)の表紙()と奥付()。戦時出版で紙質やインクが悪くボロボロだが、磯萍水はいまでは忘れられた東京の「怖い話」を蒐集しているので、夏が遠ざからないうちにご紹介したい。は、現在の雷ヶ窪とその周辺。

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暗闇に吸いこまれそうな崖線の急坂。 [気になる下落合]

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 目白崖線には、東端に通う江戸川橋の目白坂Click!から、西端の下落合(現・中井2丁目)に通うバッケ坂Click!までの間に、きわめて傾斜のきつい急坂が何本も通っている。街灯が普及する大正期以前、夜間に急坂を上り下りするのはずいぶん骨が折れただろう。月が出ていない晩など真っ暗闇で、坂下の暗黒へ吸いこまれそうな感覚にとらわれたのではないだろうか。東京の丘陵地域には、「暗闇坂」と名づけられた坂が何本も存在している。
 ましてや、雨でぬかるんでいると足が滑ってうまく上れず、荷運びで重要なルートに位置する急坂には“押し屋”Click!と呼ばれる、大八車Click!リヤカーClick!、馬力の低い昭和初期のトラックなどを後押しする人夫たちが常に待機していた。それでも登坂に無理な場合は、荷物を小分けにして運びあげてから改めて荷台に積み直している。
 わたしが学生だったころ、下落合のあちこちの坂道を日替わりで上ってはアパートへ帰っていたが、もっとも印象に残っているのは、山手線のトンネルガードをくぐってすぐ右手にある、日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)の横から近衛町Click!の丘上へ抜けられるバッケ坂Click!と、現在の野鳥の森公園脇にあるオバケ坂Click!の2本だ。前者は、あまりにも傾斜が急すぎて上ると息が乱れたが、丘上に拡がる大きな西洋館の邸宅群を眺めながら、静寂な街並みをゆっくり歩くのが好きだった。
 後者のオバケ坂Click!は、特に夜間になってから帰宅する際は、ほとんど真っ暗な山道のハイキングコースを歩いてでもいるような錯覚をおぼえるぐらい、下落合では当時から異質な急坂だった。もちろん舗装などされておらず、道の両側からクマザサが繁ってる時期など、道幅は50cmほどしか見えなかった。街灯も現在ほど数が多くなくまばらで、左手にはいまにも朽ち果てそうな廃屋の平家が1軒(旧・鈴木邸で現在の野鳥の森公園の中央部あたりに)ポツンと残っており、「バッケ坂」という一般名称が「オバケ坂」あるいは「幽霊坂」に転化したのを、そのまま証明しているような寂しい急坂だった。
 七曲坂Click!を上ると、わたしはいつも鎌倉の切り通しClick!を思いだしてしまうのだけれど、事実、この坂道は坂下から出土した鎌倉時代の板碑Click!から、同時期の鎌倉と同じような工法で切り拓かれている可能性がきわめて高い。坂下の鎌倉街道の支道(雑司ヶ谷道Click!=新井薬師道)と、丘上に通っていた道とをつなぐ坂だったとみられ、目白崖線沿いでもっとも古い坂道のひとつなのかもしれない。
 現在は舗装され、両側の丘上には住宅やマンションが建っているが、いまでさえ「痴漢注意」の看板があるほどで、大正期以前は夜になると人通りがパッタリ途絶えた暗闇の坂道だったろう。七曲坂は戦後すぐのころでさえ、子どもがひとりで歩けるような坂道ではなかった。当時の様子を、2013年(平成25)に発行された『私たちの下落合(増補版)』収録の、平林邦子という方が書いた「下落合と私」から引用してみよう。
  
 昭和二十五年、我が家はこの七曲り坂の下のほうに土地を求め、バラックを建てて現在に至っている。当時高田馬場駅のホームからわが家の庭の八重桜が見えた。そのころの七曲り坂は両側が高く崖になっており、松、八重桜、シイの木のほか大きな樹木が覆いかぶさるように茂って暗い陰を落とし、子どもなど怖くてとても一人で歩けるような坂ではなかった。夜など手をつなぎ、歌をうたいながら通ったことなども懐かしい。母はヒマラヤ杉の素敵な細道に家を建てたかったそうだが、娘たち三人の通学の便を考え、父の意見で七曲り坂の下のほう、高田権太郎さんのお隣になったのである。坂の両側には深いどぶが流れており、松の枝に紐がかけられ、下に人がうずくまっていたという怖い経験もある。
  
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 1950年(昭和25)の当時は坂を上りはじめると、右側は切り立った崖地で地面がむき出しであり、左手には蔦で覆われた古いコンクリートの築垣が長くつづく上に、戦災をまぬがれた旧・華族の大島久直邸Click!の大きな西洋館が、濃い屋敷林に囲まれて建っていた時代だ。右手は権兵衛山(大倉山)、左手はタヌキの森Click!ピークClick!があった山なので、その山間を切り割って通した切り通し坂は、まさに緑のトンネルだったろう。
 現在でさえ、左側につづく1916年(大正5)ごろに造られた大島邸の古いコンクリートの築垣はほぼそのままだし、右手の崖地はおそらく当時と大差ない風情をしていると思われる。また、わたしの学生時代には、左手の築垣上は東京飯店の社長宅になっていて、モダンな箱型の現代住宅に変わっていた。
 このようなバッケに通う坂道は、別に目白崖線に限らず小日向台Click!神田久保Click!の崖地、本郷台地Click!国分寺崖線Click!などでも同様で、都内のあちこちには「バッケ坂」あるいは「バッケの坂」が転化したとみられる、オバケ坂や幽霊坂を見つけることができる。東京の市街地では、「バッケ(崖地)」の意味がとうに忘れ去られ、言葉の音がひとり歩きをした結果、地域によってさまざまな名称の転化を生じているとみられるが、国分寺崖線沿いの用語である小金井の「ハケ(崖地)」は生き残り、いまでも「ハケの坂」「ハケの道」という用語が現役でつかわれている。
 この現象は、「大森バッケ」Click!が「大森八景」に、「金沢バッケ」が「金沢八景」に転化(転訛)しているところをみると、江戸の後期あたりから「バッケ」本来の意味が忘れられはじめ、東京の市街地では明治以降に他所からの移住者が急増したため、より早く忘れ去られたのではないかと思われる。だが、市街地から離れた郊外では、開発が大正後期までズレこんだため、下落合でも同様だが「バッケ」の用語が連綿と受け継がれており、現在でも「バッケ坂」が現役でつかわれているのだろう。
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 大正期に、下落合の坂道を観察して記録した書物はあまり見あたらないが、落合地域とは柏木村や角筈村、代々木村、渋谷村をはさんだ南の目黒村では、大正期の武蔵野の面影を色濃く残した「バッケ坂」について記録した文章が残っている。もう勘のいい方はお分かりだと思うが、目黒川に架かる太鼓橋へと下る行人坂のことだ。山手線・目黒駅で降車した著者は、行人坂を少し下りはじめたあたり、現在のホリプロのビルがある少し手前あたりから、坂下に拡がる漆黒の闇をのぞきこんでいるのだろう。
 大正の関東大震災Click!の少し前から郊外の目黒村に住み、武蔵野の伝説や怪異譚などを収集した随筆家・礒萍水(いそひょうすい)が、1943年(昭和18)に青磁社から出版した『武蔵野風物志』に収録の「目黒界隈」から引用してみよう。
  
 何かの会で遅くなつて十時過ぎ、省線を下りて朝来の雨の裡(なか)を行人坂の上に立つた。そして其の儘三十幾つかの私が、坂の上で佇蹙(すく)んで了つた。その時の暗さは今でも目に見える、彼の暗さ、あれから後にも、あれ程の暗さに逢つた事がない、停車場の灯と別れたのが明さの最後であつたのだ。降り頻る雨の裡に、闇に脅かされて進退谷(きわま)つて了つたのである。何うにも足の踏み場がない、底の知れない深い深い漆黒の闇、正直の處私は泣いた、涙こそ流さなかつたが泣いたのである。/けれど何時まで斯うしてはゐられない、家がある、家へ帰らなければならない。私は泣きながら勇気を奮ひ起して、井戸へ下るやうな気持で手探りで這ひながら、漸(ようや)つとの事で坂を下りた。
  
 おそらく、昔日の下落合に通う急坂の夜道も、同じような感覚をもよおしただろう。しかも、行人坂よりもはるかに傾斜が急な坂が、下落合にはいくつかある。
 ところが関東大震災後、ほんの数年で目黒は落合地域と同様に激変することになる。
  
 目黒も昔は好い村だつた。一日の勤めを了して帰つて来ると、向うから袢纏股引草鞋ばき、鍬を担いだすつとこ冠りの爺さんがやつて来た。おや地主さまぢやないか、此方から声をかけない先に、お帰りですか、御苦労さまで、此方の云ふべき言葉もなく、此儘を鸚鵡返し、帽子をとつて行過る。/彼の心掛けなら、先づ彼の人の代は大丈夫だらう、それががらり、眼鏡違ひ、此鍬を担いで咥え煙管の爺さんが、やがてのことに絹か物の丹前で朝から赤い顔、勿体なや糟糠四十年の婆さまを二号の若さに見返して、競馬が病付き、株だ、米だ、五年と数へない内に地主が変る。/私も此齢になつて、今更ながら良い学問をした。
  
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 大震災後に起きた東京郊外の狂乱地価Click!と、ディベロッパーによる郊外新興住宅地の開発にますます拍車がかかり、武蔵野の暗闇が急速に消えていく端緒に、礒萍水はちょうど目黒の太鼓橋近くで居あわせたことになる。戦時中の空襲時における灯火管制はともかく、山手線内外の武蔵野が進退きわまるような暗闇に沈むことはほとんどなくなっていった。

◆写真上:権兵衛山(大倉山)に通う、下落合でも指折りの急坂である夜の権兵衛坂。
◆写真中上は、大正末に拓かれた近衛町の丘上に通うバッケ坂。は、下落合村本村Click!の西に通う西坂Click!は、1941年(昭和16)ごろに拓かれた夕闇せまる御留坂。
◆写真中下は、白崖線では最古クラスの鎌倉期開拓とみられる七曲坂の昼と夜。は、七曲坂に鬱蒼とした屋敷林に囲まれ戦後まで建っていた1917年(大正6)建築の大島久直邸。は、七曲坂を歩くといつも思いだす鎌倉の極楽寺坂切通しClick!の坂。
◆写真下は、ゆるい坂道を上ると急峻なバッケ(崖地)が立ちはだかる目白台。は、同じく目白台の幽霊坂。は、目黒駅の西側で目黒川に落ちこむ行人坂(大圓寺前より画面左手)。目黒雅叙園で地元の古老の方にお話をうかがったとき、空襲時の様子や行人坂沿いにある雅叙園の百段階段が焼け残った理由などを詳細をうかがうことができた。その方も太鼓橋の近くにお住まいで、戦前までは礒萍水邸のご近所だったのかもしれない。

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