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関東大震災の警察資料に記録された祖父。 [気になるエトセトラ]

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 先年、関東大震災Click!に関する警察関連の資料を当たっていたら、偶然、母方の祖父と曽祖父の名前を発見した。曽祖父のことはほとんど知らないが、おそらく明治期に横浜へ移り輸出用の絵付けでもしていたのだろう、祖父Click!も売れない日本画家と書家を兼ねたような仕事をしており、羽振りのいいときは芸者連を引き連れて花見や川遊びに繰りだしていたような人物なので、とうとう警察の厄介になったのかと思ったら、まったく見当ちがいだった。関東大震災のときに近所の人命救助や消火活動をして、その事情聴取の調書が警察の大震災資料の中に埋もれていたのだ。
 1件は、電車の線路土手が地震の揺れで崩落し、土砂に押し流されて倒壊した家屋から生き埋めの一家を掘り起こしているのと、もう1件は台所から発火した火災を小火のうちに消火しているという2件の事件だ。警察の震災調書より、その一部を引用しよう。
  
 <前略>高架線路土堤崩壊して、同番地居宅中山三之助(三十八歳)、妻トヨ(三十一歳)、長女キミ(五歳)の三名下敷となつた。長女は死んだが、二名は之を救ひ出した。<中略> 同番地濱田タツ方に、台所附近から発火したのを見付け、<祖父と曽祖父が>協力して溝水<宅地側溝の下水>を汲み来り、之を消止めた。(< >内引用者註)
  
 親父の仕事の関係から、一時期住んでいた神奈川県の海辺の家Click!(祖父にとっては末娘の嫁ぎ先)にやってきては、いつも相模湾の地曳きClick!で獲れるサバやアジ類を肴に、朝から葡萄酒(ワイン)Click!を飲んでいた祖父Click!については、これまで何度か記事Click!に書いてきたけれど、まだ若いころの姿を父親(曽祖父)とともに記録した上記の資料を読んで、少なからず見直してしまった。警察調書に登場している、ひとり娘を失った中山夫妻は、その後どのような人生を送ったのだろうか。
 このような昔話を、わたしは祖父の口から一度も聞いたことはないが、日本美術に関してはいろいろ詳しかったようで、仏教美術や浮世絵などが好きな親父とは、ふたりで本や美術図鑑を眺めながら長時間飽きずに話していたのを憶えている。親父は、祖父宅にあった刀剣類にはまったく興味を示さなかったけれど、わたしは床の間へ無造作に置かれた刃引き(刃の表面をつぶして斬れないようにする処理)がほどこされた、白鞘も付属しないむき出しで錆身の大刀は、自由に触らせてもらえたので飽きずに持っては楽しんでいた。もっとも、小学生のわたしにはかなりズッシリと重たかったのだが。
 これら錆身の刀は、祖父の家に伝来した作品とは別に、祖父が近くの骨董店から購入したらしく、自分で研ぐのを楽しみにしていたようだ。ひょっとすると手先が器用で凝り性の祖父は、まるで研ぎ師Click!のように粗砥(あらと)から仕上砥(しあげと)まで、日本刀の研磨用に販売されていた20種類ほどのプロ用砥石さえそろえていたのかもしれない。
 歳を重ねるごとに、祖父には訊ねてみたいことがたくさん出てくるのだけれど、祖父はわたしが中学2年生だった正月2日の朝、「きょうはお獅子がくるから、門と玄関のカギを開けときな」といい残したあと、突然心臓が停止Click!して他界している。
 そんな祖父を思い出すたびに、どことなく姿が重なって見えるのが、麻布区(現・港区の一部)の麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)で指物師をしていた向田邦子Click!の母方の祖父だ。(城)下町Click!育ちだった彼女の母親は、正月になると父親Click!の年始客接待に娘がつき合わされるのがかわいそうで、ときどき彼女を外へ逃がしてくれていたようだが、祖父の家への「お使い」という口実もあったかもしれない。
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 向田邦子の祖父は、若いころには家具調度を製作する上州屋を経営しており、辰野金吾チームとして東京駅Click!の調度製作などにも参画していたが、不用意に知りあいの連帯保証人になったことから多額の負債を抱えて会社は倒産し、晩年は麻布で細々と指物師の仕事を引き受けていた。1979年(昭和54)に講談社から出版された向田邦子『眠る盃』収録の、「檜の軍艦」から引用してみよう。
  
 世渡りは下手だったが腕はよかったと思う。だが、何とも時代が悪かった。職人として盛りの時期が、戦争激化、空襲、そして戦後のバラック建築にぶつかってしまったのである。/気に入った仕事がなければ半年でも遊んでいる、といった名人気質も晩年は折れて、家の前の焼跡に掘立小屋を建て、ぽつぽつと仕事を始めた。私はこの時期三年ほど居候をしたのだが、祖父が黙々と、しかも手抜きをせずにこたつ櫓など作るのを辛い気持で眺めていた。
  
 向田邦子が、祖父の家に居候していたのは戦後すぐの女学生のころで、麻布市兵衛町の家は当時の米国大使館に隣接して建っていた。そこに勤務する大使館員の子どもとみられる、野球帽をかぶった7~8歳の金髪の少年が、しじゅう祖父の工房へ遊びにきては手仕事をジッと見物するようになった。食糧難から、庭に作物を植えていた祖母の畑を踏まないよう注意しながら、繊細な気配りができたらしい少年は毎日通ってきていたようだ。
 おそらく、今日の精巧なプラモデルを組み立てるような、指物師の鮮やかな道具さばきや繊細な手仕事に魅了され、日々、製作過程から目が離せなくなってしまったのだろう。ただ黙って、祖父が動かす手もとをジッと見つめつづけていたらしい。そのうち、少年と祖父は言葉がまったく通じないのに親しくなったものか、祖父は余った端材で複雑な細工の軍艦を制作し、少年へプレゼントしている。
 全長2尺(約61cm)のヒノキ材で作った、釘を1本も使わない組子細工の軍艦(おそらく戦艦)だったが、日本海海戦の当時に活躍した時代遅れの艦影だったらしい。向田邦子は、少年とともに軍艦の仕上げを見ていたが、「少年にやるのは惜しいな」と感じたというから、よほど凝った作りの精巧な軍艦だったのだろう。大使館員の家庭では、少年が持ち帰った軍艦の精密な細工にビックリしたらしく、「そばかす美人」の母親が缶詰類や菓子類など大量の食料を両腕いっぱいに抱えながら、祖父の家へお礼にやってきている。
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 指物師ではないが、わたしの祖父も細かな手仕事をなんでも自在にこなしている。たとえば、近くにあった社(やしろ)の神輿を設計・製作して奉納したり、仏壇や神棚なども製作しては材料費+αで安く知人に譲っていたようだ。書や日本画だけではとても食べられないので、アルバイトがわりにいろいろ引き受けているうちに、もともと手先が器用だった人なので、多彩な手仕事(いま風にいえばDIY)がプロはだしになっていたのだろう。
 子どものころの記憶だが、日本刀の研ぎも繊細な刃取り(化粧研ぎ=研ぎの最終段階で刃文を美しく研ぎだす技術)まで、きちんとできていた印象がある。また、白鞘や刀の拵え(こしらえ)も、刀装具をそろえては自分で組み立てていたのではないだろうか。もっとも、明治生まれの人は多芸で器用な人たちが多く、こんなところも向田邦子の祖父とどこかで重なって見えるゆえんなのかもしれない。
 向田邦子は、同エッセイで「私の身のまわりの基準というか目安は、この祖父にあるのではないかと思うようになった」と書いているが、わたしもときどきそう強く感じることがある。親父は、浮世絵や仏教美術の画面(たとえば法隆寺の焼けた金堂壁画や曼荼羅など)以外はほとんど興味を示さなかったが、わたしは絵画全般が好きだし、刀剣美術の趣味は完全に祖父と一致している。親父は酒を1滴も飲めなかったけれど、わたしが日本酒よりも洋酒が好きだというのは母親ゆずり、つまり祖父ゆずりのような気がしている。
 わたしは、祖父が書をしたためたり日本画を描くところや、器用な手さばきで細工をしている様子を、すなわち仕事をするところを実際に一度も見たことがなく、アルバムに貼られた展覧会の記念写真や、和室で腰をかがめてなにかを描いている写真、神社の祭礼時に奉納した神輿の横で宮司と笑う姿でしか知らない。もちろん、初孫のわたしが来訪する日は、仕事の道具や作品はみんな片づけて、朝から待ちかまえていたせいもあるのだろう。
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 いまのわたしなら、いや、いまのわたしの意識のまま少年のころにもどれたら、向田邦子の祖父の家に遊びにきていた米国の少年のように、ひがな1日、祖父の仕事ぶりを眺めているかもしれない。そして、ひと息入れて葡萄酒を飲む祖父に、関東大震災のときの実体験や、ウィルスが盛衰(1サイクル)する3年間、すなわち大震災の前に経験したスペイン風邪Click!が蔓延する様子や世相について、根ほり葉ほり訊ねていたにちがいない。

◆写真上:1923年(大正12)9月に、牛込区(現・新宿区の一部)改代町で倒壊家屋の間を歩く人物。あと片づけ作業がスタートしているようなので、関東大震災から数日後か。
◆写真中上は、淀橋区(現・新宿区の一部)の角筈に見られた倒壊家屋。レンガ造りの建物は全壊しているが、隣りの下見板張り木造家屋はもちこたえているのがわかる。は、1923年(大正12)9月1日に淀橋区の大久保から眺めた市街地方面の大火災雲。
◆写真中下は、牛込区東五軒町の十三間道路(現・目白通り)にできた地割れで左手は江戸川(現・神田川)。は、鉄筋コンクリート(RC)工法のビルが崩壊した芝区(現・港区の一部)三田にあった日本電気(NEC)の製造工場。構内にいた100名以上の工員が圧死しており、遠景の丘に見えているのは慶應義塾大学と思われる。は、1979年(昭和54)に講談社から出版された向田邦子『眠る盃』(文庫版/)と著者()。
◆写真下は、1931年(昭和6)に赤坂榎坂町(現・赤坂1丁目)に竣工した米国大使館。は、1948年(昭和23)に撮影された赤坂榎坂町から麻布市兵衛町にかけての空中写真。ちょうど祖父宅に居候していた向田邦子も、このどこかにいたはずだ。は、現在のプラモデル「戦艦三笠」だが手のこんだ指物師の木製軍艦もこれに劣らず精巧だったかもしれない。

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刀は「武士の魂」という精神論の危うさ。 [気になるエトセトラ]

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 江戸後期から幕末にかけ、大刀と脇指Click!をたばさんでいる武士は、その依りどころとしての二本指しそのものを「武士の魂」だとする表現が流行した。たとえば、享和(1800年初頭)のはじめ、桃井庵和笛が編集したとされる川柳集『排風柳多留拾遺』には、「たましひが研屋の見世にならんでゐ」たとあり、明らかに研ぎあがった刀が研磨師の店先に並べられていた様子がわかる。また、幕末になると事実、「御魂研處」(おんたましいとぎどころ)という看板をかかげた研ぎ師の店が多くなった様子が伝えられている。
 ただし、ひと口に「武士」といっても、その主体性は時代によって多種多様で、鎌倉時代や室町期の武士が刀剣類を「魂」だととらえていたとは、どこにも記録がないし到底そうは思えない。また刀剣は、戦をするための武器であり“道具”であり、利器であることにこしたことはなかっただろうが、その用の美をめでる武士たちは確実にいたとしても、「魂」が宿る自分たちの精神的な支柱であり、アイデンティティだというような考え方はなかっただろう。それが表れてくるのは、二本指しの武士という身分が特権化して固定化し、明確に階級観が形成されたあとの時代のことだ。
 もうひとつ、面白い事実がある。明治以降は別にして、江戸時代の早期に書かれた記録の中で刀が「武士の魂」だという表現が出てくるのは、武家が書いた書物ではなく大坂(大阪)の菓子屋のせがれが書いた、つまり町人が浄瑠璃用に書いたシナリオの一節なのだ。しかも、「武」の中心地だった江戸ではなく、幕末まで「商」の町だといわれつづけた大坂が出どころである点にも留意したい。つまり、事件から46年後に、江戸の現場に一度もやってきたことがなく取材したこともない竹田出雲Click!(2代目)によって書かれた、『仮名手本忠臣蔵』Click!のシナリオと同じような現象を、そこに見いだすことができそうだ。
 1717年(享保2)に紀海音によって書かれた『傾城国性爺』には、「両腰は武士たる者の魂ぞ、魂なければ約束を、違へぬといふ相手も無し、男を止れば主従の、ちなみも今は切果し」という語りの一節が出てくる。だが、「両腰」(大刀と脇指の刀剣)が武士の「魂」という表現は、すでに巷間でそのようないわれ方がしていたのを紀海音が採取したのか、それとも紀海音自身が思いついたワードなのかは不明だ。もし前者であれば、かんじんの「武」の中心地である江戸で、少なくとも1717年(享保2)以前からそのような表現の記録がどこかに残っていそうなものだが、残念ながら見あたらない。江戸でも、刀が「武士の魂」だといわれ出すのは、大坂でこの浄瑠璃が書かれてからかなりあとのことで、先にご紹介した『排風柳多留拾遺』はおよそ90年ものちの時代だ。
 大坂で書かれた『仮名手本忠臣蔵』は、そのほとんどがまったくの虚構であり、江戸の現場で記録された、あるいは実際の事件ののち地元で伝承されてきたエピソードとは、まるで異なるのは拙記事でも何度か取りあげているが、江戸も後期になると大坂の「忠臣蔵」があたかも事実であったかのような受け止められ方をされていく。それは、封建社会を支えた儒教思想の拡がり(江戸東京地方の城下町ではほぼ根づかなかったわけだが)とともに、ひとつの“教材”=「武士の鑑」としての役割を付与されていくからだが、『傾城国性爺』の語りだけはそうではない……とは、決していい切れない微妙な側面があるのだ。
 そもそも、なぜ武家が少ない大坂で、この表現が用いられているのか。事件から50年近くたってから、つまり当時を知る人々がほぼ物故し死に絶えてから上演された、竹田出雲『仮名手本忠臣蔵』の舞台がヒットして江戸の芝居小屋でも流行ったように、刀は「武士の魂」という『傾城国性爺』のワードが、流行語として江戸にも定着しだした可能性を完全には否定できない。もちろん、武家たちも芝居や浄瑠璃はこぞって観に出かけていたし、そのセリフの中に「両腰は武士たる者の魂ぞ」というような表現があれば、「なるほど」と腑に落ちるような感触をおぼえたのかもしれない。
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 ただし、「魂」の規定が非常に曖昧なため、大小の刀を腰に指しているのは武士としての特権であり、「農工商」とは明らかに異なるという自身の階級意識や、アイデンティティ確認(形成)のための表現としてとらえた者もいれば、刀は抜かず血を見ずして勝利を収めるのが「武士の魂」の本義だ……などというような、どこか哲学あるいは兵法・軍略めいた考えをもつ者もいただろう。江戸後期には、「武士の魂」という言葉をつかうとき、おのおの武家たちはさまざまな解釈をしていただろうし、“ひとり歩き”した言葉のつかわれ方もまた、多種多様だったのではなかろうか。
 それが、まるで「武士道」の奥義のように語られ、がぜん思想的あるいは哲学的な意味を付加されはじめるのは、1902年(明治35)の死後に刊行された山岡鉄舟『武士道』に象徴される、武士がいなくなったおもに明治以降になってからのことだ。中でも、1900年(明治33)に新渡戸稲造Click!が欧米人向けに英語で書いた『BUSHIDO The Soul of Japan』(日本語訳は『武士道』)は、国内外に大きな影響を与えただろう。新渡戸稲造は、日本人の国民性に見られる多様で複雑な精神的風土や土壌を欧米人にわかりやすく書こうとして、あえて「刀・侍(武士)の魂」論(第13章)を抽出し一般化しているように思えるが、同書に目を通した武士の家系(士族)の中には、後追いの結果論的に「はて、そういうことか」と納得した人たちも少なからずいたのではないだろうか。
 あるいは、同書には(和訳によっても大きく左右されるが)曖昧な表現が多く、「結局、武士道ってなに?」「武士の魂ってなによ?」と、よけいにわけがわからなくなった当時の日本人たちもいたにちがいない。同書は、欧米人に対して「日本人」の思考回路や思想の“とある側面”を、論理的なアタマの外国人でも比較的容易に理解できるよう単純化や類型化を試みて、しかも英文で表現していることから(日本人が読むことを前提としていない点にも留意したい)、日本人が読むと「??」の箇所も少なくない。ちょうど、外国人が書いた「日本人論」のあちこちに、「そういう側面もあるかもね、オレはちがうけど」と感じるのと、同じレベルの感触をおぼえるのだ。
 換言すれば、鎌倉武士の御恩と奉公を基盤とした武者=兵(つわもの)ども(戦闘者)の思想Click!と、江戸期以降に語られるようになった二本指しの「武士道」とではまったく異なる相容れない思想だし、平和な江戸期には使わなくなった刀剣(大小)Click!に、なんらかの意味を持たせ階級的な優越の“道具”(象徴)Click!として維持しようという考えに傾くのは、ごく自然な流れのように見える。そして、階級の「農工商」と「士」との形態的な差別化のみならず、そこに武士としての矜持をもつことができる“理屈”が欲しくなるのも、また自然な流れだったのだろう。そのような思いの中へ、刀が「武士の魂」であるという表現は、各自のバラバラな解釈・規定はともかく、ストンと腑に落ちるワードだったのではないだろうか。
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 明治の後期、つまり誰も刀など指していない(武士が不在の)時代になってから、芝居や講談、小説、時代劇などで刀=「武士の魂」のセリフが、爆発的に増えていくことになる。おそらく、江戸期にも増して「武士の魂」は大流行しているように思える。
 そこかしこで謳われる刀=「武士の魂」は、なんら明確な(思想的あるいは精神的な)規定があるわけでもなく、武家が指す大刀の鞘に町娘のお尻が当たっただけで、どこか菅貫太郎に似た武家が「待てィ小娘! 武士の魂に尻を当てるとは何事ぞ! 無礼千万、そこへ直れ!」、すると杉良太郎に似た町人がどこからともなく「まあまあ、旦那、この娘もわざとじゃねえんで」、「うるさい、すっこんでろ、町人風情が横から口を出すでない!」、「まあ、旦那、そう慳貪にお怒りにならず、ここは天下の両国広小路でやすから」、「黙りおろう、たかが魚屋の分際で!」、「……やいやいやいっ! 下手に出てりゃいい気んなりゃがって。二本指しが怖くて河岸(かし)の棒手振(ぼてふり)やってられるかてんだ。なんでえ、間抜けなのはてめえの面(つら)のほうさ、どっち向いて歩きゃがる、この田舎侍(ざむれえ)が!」「ぶぶ、無礼者!」……とかなんとか、わけのわからない「武士の魂」がもとで、ケンカがおっばじまったりするから時代劇は厄介なのだ。
 2007年(平成19)に文藝春秋から出版された、東京国立博物館の工芸課長だった小笠原信夫の『日本刀―日本の美と技と魂―』から引用してみよう。
  
 (武家が)自分の屋敷を博奕場に貸す者や、放蕩無頼の者などが横行したのも幕末である。それゆえ、声高に刀剣を差すことの出来る特権意識を主張した者もいたであろう。ひとくちに「武士の魂」と言っても、各時代の社会的背景から成り立った、それぞれ異なる性格の意味合いで武士が存在した。ことさらに武士を強調したのは元和偃武(げんなえんぶ)以来のことである。また実際には完全に武士とはいえない足軽、郷士などの人々が武士と刀剣に憧れたと考えられるし、むしろ、明治以降の徴兵制から軍国主義の時代に、農民、庶民といわれた人々が旧時代の武士と同様の軍人となったことを誇るため、ことさら「武士の魂」と強調した言葉ではなかったかとも思える。/ともあれ、日本刀は単なる戦さの道具ではなく、ひとかどの人間であることの象徴として平時にももつ習慣が長く続いた。江戸時代に至って大小を差すことが許されるのは武士に限られたのだが、武士以外でも脇差を差すという歴史をもっている。(カッコ内引用者註)
  
 著者の書くとおり、大小を指した人間が「武士」だと、広く認知されるのは江戸時代以降のことで、それまでは戦があれば農民までもが動員され、刀や鎗をもって戦場におもむかねばならない時代だった。現代でさえ、古い大農家の蔵から刀や鎗、鉄砲(江戸期には許可制)が見つかることはめずらしくないし、江戸期には絵師だったとみられるわたしの母方の祖父の家にさえ、伝来した刀剣や鎗がゴロゴロしていた。
 武士=職業軍人の規定が確立するのは、厳密にいえば江戸期以降のことであり、「武士道」も「武士の魂」も「武士の鑑」もこの数百年のうちに形成された、感情であり志向であり理想であり、ときに価値観や思想であるにすぎない。
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 だから、たとえば新渡戸稲造の著作のような「日本人論」を読むと、えもいわれぬ違和感をおぼえるのは、「日本人」全体にはとても敷衍化・一般化できない、狭隘な一部の階級的意識であり価値観であり思想であり、またある意味では感情だからだろう。そこには、規定や意味がとてつもなく曖昧なまま投げ出されたコトバを不用意に用いるがゆえに生じる、実際の「日本人」の意識との乖離感ないしは遊離感をともなうからにちがいない。

◆写真上:ときどき刀剣室をのぞきに出かける、上野の東京国立博物館本館(右手)。
◆写真中上:江戸期に描かれた「職人絵尽」にみる、研ぎ師=「御魂研處」の作業場。
◆写真中下は、現代の研ぎ師の作業場。中左は、現在ではほとんど上演機会がない『傾城国性爺』のシナリオが収録された博文館版『紀海音浄瑠璃集』(1899年)。中右は、米国で出版された『BUSHIDO The Soul of Japan』(Leeds & Biddle,Philadelphia/1900年)。は、『傾城国性爺』で「両腰は武士たる者の魂ぞ」が登場する一節。
◆写真下は、1943年(昭和18)にカラー写真で撮影された典型的な「傾城」の首(かしら)。大阪・文楽座収蔵の首だが、戦災で焼けてしまったかもしれない。は、同じ「国性爺(国姓爺)」ものでも近松門左衛門の作をテーマにした国周の浮世絵『国姓爺合戦』(1872年)。は、現在の文楽座がある1953年(昭和28)に撮影された道頓堀の芝居小屋。

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帝展会場で見合いをする田中比左良。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の北隣り、長崎町荒井1832番地(現・目白5丁目)にあった中央美術社Click!から、1929年(昭和4)に「漫画六歌撰」と題した、おもに漫画や挿画を描いていた画家たちのシリーズ本が出版されている。選ばれている6人は田中比佐良はじめ、下川凹天、和田邦坊、細木原青起、宍戸左行、河盛久夫といった顔ぶれだ。
 そのシリーズ第1巻の配本に、田中比左良『女性美建立』というタイトルがある。構成はユーモア小説にエッセイ、漫画、レポートとさまざまなので、おそらく同社の美術誌「中央美術」Click!や当時の「主婦之友」など雑誌類に掲載された記事を集めて、1冊の単行本に仕上げているのだろう。その第1巻に登場する田中比左良という人は、漫画専門の画家(漫画家)ではなく、ときに挿画や創作版画、軸画やタブローなども仕上げているようなので、画家に片足を突っこんだまま漫画も描いていた多芸な人物なのだろう。
 『女性美建立』に掲載されているユーモア小説や漫画類は、いつかご紹介した佐々木邦Click!『文化村の喜劇』Click!や、やたら「美人」Click!を繰り返し連発する目白三平Click!の作品と同様、現在の感覚からはほとんど笑えないコンテンツばかりなのだが、その中で自身の見合いと結婚についてつづった私小説『新婚画帖』は、当時の男女の出逢いや結婚を記録した典型例として興味深い。
 当時の見合いには、よく芝居や能、新劇などの観劇が利用されるのは、あちこちで読んで知っていたけれど、田中比左良の見合いは秋の帝展からはじまっている。1926年(大正15)の秋ということなので、同年10月16日から11月20日まで上野の東京府美術館で開催された第7回帝展だろう。8ヶ月ほど前にヨーロッパからもどった佐伯祐三Click!が、ちょうど盛んに「下落合風景」シリーズClick!を描いたいたころだ。この帝展がはじまる直前、東京府美術館では第13回の二科展が開催されており、『LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)』を出品した佐伯は、同展で二科賞を受賞Click!している。
 当時、田中比左良のアトリエは滝野川区(現・北区の一部)の滝野川町にあったが、そこへ同郷(山形県)の幼馴染みで文士の友人が、見合い話をもって訪ねてくるところからはじまる。田中比左良のことを「オールドボーイ君」と呼ぶ文士も37歳で独身なら、比左良も同年齢で独身なので、ふたりはいろいろ話が合って親しかったのかもしれない。友人がもってきた見合い写真は、故郷の山形で「庄内小町」と呼ばれる20歳すぎの女性だった。「三十七の今日まで未だ一ぺんも恋らしい恋をしたことがないのを今更淋しく思つてゐ」た比左良は、写真を見たとたんに「直覚ドンと来た」衝動を感じたので見合いを承諾した。
 1926年(大正15)10月17日(日)の午後、上野で落ち合った一行は、まず帝展会場を観てまわった。そのときの様子を、1929年(昭和4)に中央美術社から出版された、田中比左良『女性美建立』所収の『新婚画帖』から引用してみよう。
  
 (前略) あたかも十月十七日といふ大祭日の吉辰、場所は上野の竹の台帝展の会場と丸之内の邦楽座とで、昼夜に掛けて念の入つた見合ひをやつたのである。帝展で落合つた久吉は、先ず娘の付添の雪子夫人にペコンと頭を下げた。そして今度は当の娘にペコンと頭を下げた。『どうぞよろしく』とか何とか言はうと思つたのが、まるで何んにも言へなかつた。予想の通り直ぐボーツとあがつてしまつた久吉は、盛装の彼女がいかにしても眩ゆかつた。胸の底に爽やかな楽の奏でが始まり出した。あたりにうようよしてゐる人間共は、ゐるかゐないか感じない。絵も見えない。娘も見えない。自分だけは確かにゐるやうだが、何が何だかもう解らない。たゞ胸の奏でのリズムに依つて動き、リズムに依つてしやべつてゐるのみだつた。
  
 「久吉」が田中比左良であり、「雪子夫人」は見合い相手「菊子」に付き添ってきた「川越夫妻」の妻=実姉だ。また、「大祭日」というのは、戦前の祝日だった10月17日の「神嘗祭」のことで、ちょうど祝日と日曜日が重なり東京はどこも混雑していた。
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 それにしても、37歳の男が20歳すぎの娘を前に、これほどあがってしまうものだろうか。当時は、ヘタをすれば親子ほども歳がちがうふたりだ。いちおう田中比左良は絵画が専門だが、展示された帝展作品などどうでもよく、ドギマギしながらも「通り一ぺんの説明」はなんとかこなしたようだ。ところが、彼女のほうは絵に興味があるらしく、ときどき立ち止まってはジッと作品に観入ることがあった。
 展示された作品の前で、田中比左良と「菊子」嬢が並んで立つと、彼女のほうが背が高く、「雪子夫人」は妹よりもさらに輪をかけて上背があったようなので、「久吉」は常にふたりの女性を下から見あげるような視線でいたらしく、「自分の背の低いこと」が「しみじみ残念だつた」と書いている。モーニングを着た彼は、このあと不忍池Click!を散歩しながら池中の弁天堂に立ち寄ってお参りをしているが、あとでこの弁財天が「やきもち焼き」で有名だったのを思いだして愕然としている。
 見合いというのは、それほど緊張して舞いあがってしまうものかと(しかも娘のように歳の離れた相手に)、一度も経験したことのないわたしは不思議に思うのだけれど、丸ノ内にあった邦楽座に円タクで着いて芝居を見物するころには、ようやく少しは馴れて落ち着いてきたらしい。邦楽座の客席では、「雪子夫人」が芝居のことをあれこれ「久吉」に訊ねるのに、彼はよどみなく答えられているようだ。田中比左良は、この次々に繰りだされる「雪子夫人」の質問を、どれだけ教養があるのかを試す「メンタルテスト」だったとしているので、歌舞伎にからめて歴史や古典文学、落語などについても訊ねたものだろうか。絵画は専門だが、つくづく演劇好きでよかったとのちに回顧している。
 舞台にかけられていたのは、時代物で頼光物の『土蜘(つちぐも)』と、落語流れの世話物で『芝浜』Click!=『芝浦革財布(しばうらのかわざいふ)』の2本だった。謡曲(能)流れの『土蜘』はともかく、『芝浦革財布』は夫婦の情愛や機微を描いた人情噺の甘い筋立てなので、見合いの舞台にはピッタリな出し物だったろう。芝居の劇場で見合いをするのは、当時としてはめずらしくなかったらしく、盛装したふたりはすぐに見合いの最中だとバレてしまい、周囲には人垣ができて好奇の目で見られてしまった。
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 あれこれ気を配りすぎてクタクタになった田中比左良は、一服しようとスキを見て邦楽座の屋上に出た。つづけて、『新婚画帖』から引用してみよう。
  
 仰ぐともう十月半ではあるが心持ち曇つた空は汗ばんだ潤みを見せ、その空をクッキリと限つて、逆の照明に照し出された邦楽座の文字が明煌々と地上の歓びを気高く謳つてゐるかに眺められた。/凝とそれを仰ぎ見詰めた久吉は、華かな照明全面にキラキラと蠢くまぶしい光粒に、身も心も溶けこみたいやうな甘美な情懐が、胸の底を罩めて来た。そして人生といふものゝ豊かさをしみじみと想つた。/彼女の可憐さも華麗な扮装も、豪勢な菊五郎の芝居も、見下す都の絢爛な夜景も、みなこれすべて、貧しい久吉一個の前に供へられた饗餐の数々であるやうに思ふと、おのづから微笑まずにゐられない。
  
 このあと、田中比左良は「菊子」嬢と「雪子夫人」の姉夫婦を帝国ホテルClick!まで送りとどけ、ブラブラ散歩しながら洋食屋で夜食を食べたあと帰宅している。
 おおよそ、この話はこれでおしまいというわけで、落ちもなにもないノロケの私小説なのだが、唯一その後に起きたエピソードといえば、不忍池の「やきもち焼き」弁天に参詣したせいか、「菊子」嬢がにわかに病気になって、縁談の進捗は6ヶ月ほど中断することになった。このあと、婚約指輪を交換したふたりは、同じ漫画家の先輩である北澤楽天Click!を媒酌人に立て、彼女の実家がある山形県へ挨拶に出かけている。
 田中比左良は画家なので、帝展会場で待ち合わせたあと芝居に出かけているが、当時の東京における見合いは、だいたい同じようなコースだったのではないか。上野の精養軒Click!で待ち合わせたあと、夕方から芝居見物に出かけたり、どこかの庭園や遊園地Click!を散歩したあと、食事やお茶をしに繁華街へ繰りだしたりと、今日のマッチングアプリのように、あらかじめ相手の詳細なプロフィールを把握できない当時としては、相手と接して情報を収集するたっぷりとした時間が必要だったのだろう。
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 田中比左良の『女性美建立』には、東京朝日新聞社の依頼で飛行機に乗り、東京から浜松までの風景をスケッチ飛行するレポートや、「漫談式漫画講座―若い女性の見方かき方―」と題する漫画の入門講座も掲載されている。拙サイトでは、下落合の北隣り長崎町大和田1983番地にあったプロレタリア美術研究所Click!で、同時期に開設されていた漫画講座Click!(講師:岩松淳=八島太郎Click!)はご紹介しているが、誌上とはいえ昭和最初期の「漫画講座」は田中比左良のコンテンツが初めてだ。機会があれば、またご紹介してみたい。

◆写真上:戦前まで丸ノ内にあった劇場で、途中から映画館に改装される邦楽座。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に出版された田中比左良『女性美建立』収録の私小説『新婚画帖』に添えられた挿画。第7回帝展で初めて顔を合わせたふたりが、深々とお辞儀をしている。は、上野公園内の東京府美術館(現・東京都美術館)。は、円タクで上野から丸ノ内まで移動する車中の「菊子」嬢(左)と「雪子夫人」。
◆写真中下は、『女性美建立』の豪華な布張りの表紙()と裏表紙()。は、同書の函表()と函裏()。いずれも、若い女性をモデルにした「漫談式漫画講座」挿入の制作例。は、1929年(昭和4)に撮影された田中比左良と「菊子」夫人。
◆写真下は、邦楽座での見合いが周囲の観客にバレてしまい人垣ができて注目を集める「菊子」嬢。は、見合い一行がまさに邦楽座で観ていた『芝浦革財布』の舞台。昭和初期の撮影で、政五郎役の6代目・尾上菊五郎(右)と女房役の3代目・尾上多賀之丞(左)。は、1927年(昭和2)に描かれた田中比左良の記憶スケッチ『関東大震災』。

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佐伯祐三「森たさんのトナリ」を拝見する。 [気になる下落合]

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 先年、西銀座通りに面したShinwa Auction(株)Click!(銀座7丁目)の学芸員・佐藤様のご好意で、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!の1作、1926年(大正15) 10月10日(日)に描かれたとみられる「森たさんのトナリ」Click!をじっくり拝見することができた。東京気象台の記録によれば小雨がときどき降る曇りがちな日曜日で、少し風があるのか低い灰色の雨雲が足早に移動しているらしい、画面の空模様とよく一致している。
 「森たさんのトナリ」すなわち、東京美術学校Click!で佐伯祐三の恩師だった下落合630番地の森田亀之助邸Click!の隣りに、ほどなく転居してきて住むことになるのは、1930年協会Click!の創立メンバーのひとり里見勝蔵Click!だ。おそらくこの時点で、里見勝蔵が下落合630番地の借家に引っ越してきて、アトリエをかまえることはおよそ決定しており、それを意識した佐伯の風景モチーフ選びと画面づくりなのだろう。
 森田邸に隣接した借家がたまたま空いており、それを帰国してから京都にもどっていた里見勝蔵に紹介したのは森田亀之助か、佐伯祐三か、あるいは里見自身がふたりのどちらかの家を訪ねた際にでも偶然発見し、大家に手付けを払って近いうちの転入を“予約”しているのかは、おそらく誰かの手紙資料を丹念に掘りおこせばおのずと判明するのかもしれないが、現時点では不明のままだ。
 ちなみに、里見勝蔵は大正中期から下落合を訪れており、『下落合風景』Click!(1920年)をタブローに残しているが、1918年(大正7)からその当時は権兵衛山(大倉山)Click!の下落合323番地に住んでいた森田亀之助を訪問し、美術に関することや渡仏についてなど、あれこれ相談していたのではないかと考えている。
 さて、「森たさんのトナリ」はShinwa Auction社ビルの1階、右手奥の展示室に架けられていた。佐伯祐三の作品に多い、まるでルイ王朝時代のキンキラキンに輝く野暮で成金趣味の下品な額縁ではなく、木製の額に入れられているのが好ましい。佐伯の『下落合風景』の画面に、キンキラキンの額縁はまったく似合わない。わたしの好みからいえば、もう少し彫刻が地味なデザインのほうが画面が映えていいと思うのだが、当然、わたしの所有物ではないので大きなお世話の雑音感想にちがいない。
 この作品は、長らく個人蔵だったので展覧会に出品される機会が少なかったが、唯一、1991年(平成3)に朝日晃Click!が所有者を探しあてて、カラー画像の撮影に成功している。同年に講談社から出版された朝日晃監修『佐伯祐三 絵と生涯』(カルチャーブックス)に、そのカラー写真が収録されているが、もちろん所有者についての詳細は書かれておらず、また撮影できた経緯についても触れられていない。おそらく、その所有者が亡くなったかしたため、遺族がオークションに出品したのではないだろうか。
 画面を観察すると、以前にも記事で書いたように、光は画家の背後右寄りから射しているように見えるが、遠景の建物や樹木はどんよりとした曇り空の下に沈んでいるようにも見えるので、雨雲の切れ目あるいは薄くなったあたりから短い時間だけ明るい光が射しこみ、手前の原っぱや2軒の家々を明るくしているように見える。いや、ときどき小雨が降る空模様での写生で、一瞬だけ雲の切れ目から明るい光が射した瞬間を、佐伯は意図的に切り取って描いているのかもしれない。家々の建て方の向きや光の具合から、およそ右手が南で、佐伯は西側から東方面を向いて描いているとみられる。
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 画面に描かれている家屋は、10年後の1936年(昭和11)に撮影された空中写真でもなんとか確認できるが、同空中写真では手前(西側)の空き地に新築の大きな西洋館とみられる住宅(丹下邸)と、その東側に隣接して南北に細長い下宿のような住宅(満河邸)がとらえられている。ただし、佐伯が画面を描いたのと同時期、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を確認すると、丹下邸の位置はいまだ広い原っぱ状態となっており、満河邸の位置には南寄りに「塚原」のネームが採取されているが、家屋表現が描かれておらず、どの住宅のことを指しているのかが不明だ。ひょっとすると、「森たさんのトナリ」画面に描かれた右下に見えている白い垣根のある家が、ほどなく解体されてしまう大正末の時点での塚原邸か、あるいは画面右側の平家が塚原邸だったのかもしれない。
 森田亀之助邸の敷地は、画面の左手に描かれた2階建ての日本住宅の、さらに左側の画面枠外に位置しているわけだが、この2階家は大正末に借家として建てられて間もないため、佐伯が描いた当時は新築で空き家の状態だったのかもしれない。佐伯の描き方から見れば、なんとなく光が当たって明るく見える左側の2階家が、森田邸のすぐ「トナリ」に位置する住宅、すなわち里見勝蔵がほどなく京都から引っ越してきてアトリエに使用する、下落合630番地の住宅ではなかったろうか。
 画面を詳しく観察すると、描きかけで途中でやめたような表現があちこちに見える。まず、2階家の外壁だが、この時代の借家に多い縦に細い桟をわたした幅広の下見板張り(おそらく杉材)の造りだと思われるが、同じ『下落合風景』の「テニス」Click!の2階家(宮本邸)ほどには、はっきりと輪郭線が描きこまれていない。同様に、右側の平家の切り妻漆喰壁に見える屋根際の柱も、途中で筆を止めたような表現だ。第2次渡仏の直前に描き、第2回1930年協会展(1927年6月6月17日~30日)に出品された『下落合風景』Click!の、かなり遠景にとらえられた中島邸Click!の洋館切り妻に見えるハーフティンバーの表現に比べても、かなり手っとり早く“いい加減”な描き方だ。
 もっとも顕著なのは、左下に塗り残しのような下塗りに近い絵の具の薄塗り部分が残されており、そこへこれから描こうとしていたらしい、ブラックで象られた四角形のモノがいくつか確認できる点だろう。この原っぱに置かれていたなにかを描こうとして、途中でやめたような感じの筆使いだ。この四角いかたちのモノは、草原としてグリーンに塗られた下にも確認することができるので、画面を描きはじめた初期の段階で、黒い絵の具を用いてスケッチしたなにかではないかと想定できる。
 ひょっとすると、この原っぱへ近々建設される予定だった丹下邸ないしは満河邸の建築資材が、すでに運びこまれていたのかもしれない。四角くて蒲鉾板のようにも見えるそれは、佐伯の『中井の風景(目白の風景)』Click!や銭湯「草津温泉」の煙突などを描いた『下落合風景』Click!などにも描かれた、当時は築垣や縁石などへ大量に用いられた大谷石の集積Click!なのかもしれない。だが、佐伯祐三は画布にスケッチはしたものの、絵の具を乗せないまま放置しているように見える。
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 画面の上にはガラスが嵌めこまれており、光を反射して少し観づらかったが、画面をさまざまな角度からためつすがめつ眺めてみたけれど、特に画面の下にもうひとつ別の作品Click!が隠れているような気配は感じられなかった。絵の具の厚塗りは、おもに草木を描いたグリーンの部分に集中しているが、ほかの箇所は佐伯の画面づくりにしては薄塗りで、下にもうひとつ別の作品が隠れていたら表面の凹凸で容易にわかっただろう。
 1927年(昭和2)に発行された「アトリエ」4・5月合併号、および同年発行の「中央美術」5月号で、里見勝蔵が下落合630番地へ転居したことが画家たちの近況ニュースとして紹介されているから、里見の転入は同年の寒さがゆるみはじめた2~3月ごろのことと思われる。つまり、佐伯が描いた「森たさんのトナリ」画面は、里見勝蔵が引っ越してくる4~5ヶ月前の風景ということになるだろう。
 佐伯が作品を描くスピードは、本人の証言によれば「20号を40分」Click!なのだから、別に一連の『下落合風景』に限らず、すばやい筆致はフランスなどでの諸作にも同様に感じられる。だが、「森たさんのトナリ」は他の『下落合風景』などにも増して、描きこみが中途半端なところや描き残しが見られることから、さらにスピーディなというか、半ばあわてていたような筆運びを想像してしまう。
 なぜ、それほど大急ぎで描かなければならなかったのかは、当日の空模様と関係がありそうだ。前述のように、東京中央気象台によれば1927年(大正15)10月10日は「小雨」と記録されているが、画面の空を見るといまにも青空が見えそうな明るくて薄い雲と、流れる灰色の低い雨雲とが入り混じって移動していたらしいことがわかる。つまり、光の加減から昼すぎとみられる時間帯に雨が止んで陽が射しはじめたので、さっそく仕事に出てアトリエから東へ80mほどのところにある原っぱ(当時は聖母坂Click!が存在しておらず青柳ヶ原Click!つづきの草原)へ画架をすえた佐伯祐三だが、描いている途中から再び灰色の雨雲が西から急速に接近し、パラパラと小雨が降りはじめてしまったのだ。
 「こら、あかんわ。濡れてまうがな」と、大急ぎで画面を仕上げたが、アトリエにもどってから加筆することなく、そのまま頒布会を通じてか、あるいは懇意にしていた画商へ作品を売ってしまった……そんな経緯を想像することができる。
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 でも、少しぐらいの雨なら平気で制作をつづける佐伯祐三が、なぜ大急ぎで画架をたたんでアトリエにもどっているのだろうか? それは、「制作メモ」Click!によれば佐伯は10月3日~6日まで病気(おそらく風邪)で寝こんでおり、10日は起きられるようになってからまだ4日しかたっていない時期だったせいだろう。「熱出たら、仕事ようでけへんし」と、ことさら大事をとったのかもしれない。そうでなければ、「ねえ、あんた、そこ邪魔! オラオラ、大谷石につぶされも知んねえぞ」と、雨の止んだのを見すまして出てきた石材運びの工事関係者に急かされ、「ほんま、かなわんなぁ~」と焦って描いたものだろうか。

◆写真上:Shinwa Auction社のオークションに出品された佐伯の「森たさんのトナリ」。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合630番地界隈。すでに草原はなく、丹下邸と満河邸が建設されている。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同番地界隈。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された森田邸界隈。ふたつの家屋の屋根が光っているのは、関東大震災Click!の被害から東京府が瓦葺きを一時禁止Click!したためで、スレートかトタンで葺かれた屋根だったのだろう。
◆写真中下:1926年(大正15)10月10日(日)の小雨が降る中で制作されたとみられる、佐伯祐三『下落合風景』の1作「森たさんのトナリ」画面の部分拡大。
◆写真下:同作の部分拡大で、大急ぎで制作された気配が画面のあちこちに漂う。
おまけ
 長雨で思うぞんぶん鳴けなかったせいか、昨夜の午前0時20分に録音した鳴きやまない下落合のミンミンゼミとアブラゼミのセミ時雨で、安眠妨害の大合唱が一晩じゅうつづく。

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東京郊外の文化住宅街のトイレ事情。 [気になる下落合]

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 大正後期から昭和初期にかけ、住宅街が急速に形成された東京郊外では下水道の敷設がまったく間にあわず、河川への垂れ流しか「汲取り屋」と呼ばれる業者がトイレの汚物を回収していた。東京の市街地では下水道が敷かれ、水洗便所が早くから普及していたが、郊外地域の住宅地では汲取り便所がほとんどだった。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)では、「少かに補助費を支出して一般下水施設の普及を促してゐるに過ぎない」と、ほとんど下水設備の建設には取り組んでいないことを正直に記述している。また、東隣りの高田町では1931年(昭和6)に失業者対策の一環として、下水道築造のための町債を発行しており、落合町よりは同事業が進捗している。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)によれば、39万2,800円の予算がついたが河川沿いの下水道工事のさなかに東京35区制Click!を迎え、東京市の事業として引き継がれている。
 1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』Click!(高田町役場)には、高田町を4つの区画に分けた「下水道計画延長概数表」が掲載されており、合計で約3万2,063間(約5万8,354m)の下水道が敷設予定だったが、もちろん計画段階の数値であって実際の工事には着手していない。また、落合地域の南隣りにある戸塚町では、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)に「下水側溝を浚渫し、汚泥の搬出を励行するところあり」とあるだけで、計画的な下水道事業は記載されていない。さらに、1930年(昭和5)に出版された『長崎町政概要』Click!(長崎町役場)には、上水道(荒玉水道Click!)の記載はあるが下水道の項目自体が存在しない。
 このように、近辺の郊外住宅地では生活排水を河川へ流す下水溝はあっても、トイレの汚物を流し浄化する仕組みがないため、ほとんどの家々が臭突(臭い抜き)Click!を備えた汲取り式のトイレだった。中には、住宅敷地の広めな庭を活用して自前で浄化槽設備を設置し、最新式の水洗トイレを導入した目白文化村Click!梶野邸Click!のようなケースもあったが、このような住宅は例外だった。
 郊外の家々では、必ず汲取り業者か近郊農家と契約しており、汲取り業者の場合は賃金を払って便槽を掃除してもらい、農家の場合は肥料として汲取るので畑でできた作物などを、契約宅へ配っている。また、汲取り業者の場合も汚物は農家への肥料として販売するので、家庭と農家とで二重の商売が成り立っていた。前述した水洗トイレの梶野家でも、結局、浄化槽にたまった汚物を回収するのは汲取り業者だった。
 この汚物汲取りの詳細なデータが、東隣りの高田町に残っている。1925年(大正14)に自由学園Click!の学生たちが実施した大規模な社会調査『我が住む町』Click!(自由学園)だ。その統計を見ると、調査対象となった高田町の全戸(7,076戸)のうち、汲取り業者に依頼し便槽の清掃をしてもらっている家庭が6,553戸で92.61%、「自家其他にて処理するもの」の家庭が252戸で3.56%、処理が「不明」な家庭は271戸で3.83%となっている。おそらく、この比率は当時の落合町とたいして変わらない状況だったろう。
 調査の中で、「自家其他にて処理するもの」とされる家庭が、知りあいの農家と直接契約して汲取りを委任している家庭か、あるいは自身の畑に肥料としてまいている農家か、さらに借家の場合は家主が代表して汲取りを業者に委任するか、自身の畑で肥料として使用しているケースだ。自由学園の学生や生徒は、その割合まで綿密に調査しており、全252戸のうち「自家」で処理する家庭は107戸で42.46%、家主が処理するのが122戸で48.40%、知りあいの農家などと契約しているのが23戸で9.14%となっている。
 また、「不明」とされている家庭は、そこらに穴を掘って汚物を埋めてしまったり、河川へ適当にまき散らしている家庭なども含まれるのだろう。実際に調査中、汚物を河川へ流している家庭を自由学園の生徒たちが目撃している。また、調査には非協力的で回答を拒否した家や、住民がいつも不在で取材できなかった家庭も「不明」に含まれる。
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 当時の汲取り業者の料金は、行政指導や業者間の取り決めなどない時代なので、依頼する業者によってバラバラだった。ひとり住まいなら安く、5人家族なら高いというような合理的な料金体系ではなかった様子がうかがえる。おそらく、各家庭では業者のいい値で料金を支払っていたのだろう。汚物処理の料金について、『我が住む町』の「人員別汚物汲取料金表について」から引用してみよう。
  
 家族の人数の多い家が料金も多く支払つて居ると考へられるけれど、一概にさうとばかりもいかない。本来ならば、家族人数とか、汚物の量とかの多少によつて料金も支払はるべきものと思はれるが、それに準じてゐないのがかなりある。三、四人家族で五〇銭から七〇銭までの料金を支払つてゐる家が最も多く、四人家族一千二百九十一戸の内七百六十七戸まで前記料金を支払ひ、三人家族の一千二百二十二戸の内六百七十五戸まではやはり前期料金を支払つてゐる。かなり人数の多い家で安い料金を支払つてゐる家もあつたが家族二十人以上の家は下宿屋又は寄宿寮等特殊のものである。
  
 調査では、10人家族で1回につき7円もの高額な汲取り料金を払っている家庭や、3人家族なのに10円/回の法外な料金を支払っている家庭があることも判明している。高田町の調査件数(分母)は、前述のように汲取り業者に依頼している6,553戸であり、汲取り業者への総支払い金額は3,218円49銭/回(ただし上記の特殊な契約の2戸を除く)で、1戸あたりの平均汲取り料金は50銭6厘強となっている。
 以下、自由学園の学生たちがまとめた汲取り料金表を引用しよう。ただし、1戸あたりの平均料金が「-」となっている世帯は寮や下宿、アパートの事例だろう。
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 汲取り業者によって、料金が各戸ごとにバラバラだった様子がわかる。今日では、奇異に感じる「10人家族」や「20人家族」だが、親兄弟や場合によっては親戚がいっしょに住み、当時は子どもが5~6人いてもなんら不思議ではない時代だし、裕福な家庭で女中が2~3人いればすぐに家族数が10人は超えてしまっただろう。
 また、汲取り回数は1ヶ月に2回の家庭がもっとも多く3,391戸にのぼり、月に3回が2,291戸、月に15回と23回という汲取りの多い家が各1戸あったが、これは旅館業の家だった。また、自宅で工場を経営している家は95軒あり、汲取り料金が30~50銭が11工場、60銭から1円未満が10工場、1円~2円未満が26工場、2円から10円が27工場、農家などと契約して無料が16工場、自社で処理しているのが2工場、不明(回答拒否)が3工場だった。
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 また、高田町内にある学校の汲取り料金も調べており、町内11校のうち8校で汲取り料金が発生し、総料金が266円20銭なので1校当たりの平均は33円18銭、農家との契約だったのか無料が1校、不明が1校(おそらく取材拒否の学習院)、セブティングタンク(腐敗槽)を設置して有機肥料を生成しているのが1校(おそらく自由学園)という内訳だった。
 当時、東京郊外のトイレ事情について、安倍能成Click!はこんなことを書いている。1937年(昭和12)4月に書かれた、随筆『下落合より(二)』から引用してみよう。
  
 日本人は昔から「きれい好き」だといはれる。日本人の特性を挙げる人は誰しも「清潔を愛する」といふ一項目を忘れない。併しある漢学者の友人の話によると、十数年前に中華民国の女学生が日本へ修学旅行に来た時の紀行文に、日本人は清潔を愛するといふけれどもそんなことはない、人を訪問して玄関に立つ時に先ず香つて来るのは糞尿の臭気だ、といふやうなことが書いてあつたさうだ。あちらでは糞も尿も溜めないで皆往来かどこかへ捨ててしまふから、臭気が一所に集まるといふ感じがないのであらう。中華人と日本人とどちらが「きれい好き」かはここに暫く措いて、日本人が「はばかり」へ行つた後丹念に手を洗ふ癖に、かうした「はばかり」の臭気に堪へて居るのも、一つの矛盾だとはいへるであらう。だから一口に「清潔を愛する」といつても、その愛しかたに色々あることを悟つても差支ないであらう。
  
 確かに、昔から汲取り便所の臭気を少しでも消すために、煙突ならぬ「臭突」が発明されたり、多種多様な防臭剤や芳香剤が開発されてきた。それらは、家内に糞尿を溜めていたため必要になるわけで、どこかへ流すか捨ててしまえば不要なわけだ。
 ただし、そうすると今度は公衆衛生の課題が起きてくる。江戸時代の初期、江戸の街では水洗便所が普及していた。商家や武家屋敷を問わず、便所の下には水が常に流れる水路を設置し、そこで用を済ませていた。水路は近くのドブや河川に通じており、文字どおり水洗で糞尿の自動処理ができていたわけだ。
 ところが、この方式だと河川や水路を汚染し病気が蔓延する怖れがあるというので、幕府は水洗便所を禁止した。これにより、近郊農家の肥料ニーズと江戸の公衆衛生政策の利害が一致し、江戸の街中は農家と契約した汲取り式の「はばかり」が普及していく。徳川幕府による江戸の街は、一度は水洗トイレが普及したが途中で汲取りトイレに転換し、明治以降に下水道が整備されると再び水洗トイレが普及していくことになる。
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 オシャレな西洋館が建ち並んだ落合地域だが、トイレが水洗式ではなく汲取り式のままの住宅がほとんどだったのだろう。佐伯祐三Click!『便所風景』Click!を描きながら、きっと臭い思いをしていたにちがいない。そこで、トイレの臭気を消すために、さまざまな住宅設計上の工夫や消臭装置、芳香薬剤などが次々に開発されていく。だが、それらは体臭を消すためにふりかけるコロンのようなもので、根本的な解決にはならなかった。東京の郊外住宅へ水洗トイレが普及しはじめ、臭気が段階的に消えていくのは1940年代以降のことだ。

◆写真上:現在では山間部の住宅でも、水洗トイレが当たり前のようになった。
◆写真中上は、昔日の汲取り式トイレによく設置されていた陶器製の装飾便器。は、1926年(大正15)に目白文化村で竣工した梶野龍三邸の水洗式トイレ。
◆写真中下は、現在ではほとんど見かけることがなくなった汲取りトイレには欠かせないバキュームカー。は、高田町の全戸データから汲取り便所の多彩な統計表を作成した1925年(大正14)の『我が住む町』(自由学園)の統計表。は、1926年(大正15)10月13日(水)に制作された佐伯祐三『下落合風景』Click!「風のある日」Click!で、第一文化村南側に位置する宇田川邸敷地内に建つ借家の1軒に設置されたトイレの臭突。
◆写真下は、最近は水洗トイレでも臭い抜きと換気のために設置される臭突。は、佐伯アトリエの便所で左手樹木の背後。は、現在の佐伯祐三アトリエ記念館に再現されたトイレ部。佐伯が生活していたころとは、まったく別の造りになっていると思われる。

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鼠山で馬上から鉄砲を撃つ徳川吉宗。 [気になる下落合]

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 江戸中期に、将軍家が雑司ヶ谷鼠山Click!で巻狩りをした記録が残されている。元文年間(1736~1741年)と推定され、おそらく将軍の側用人と思われる人物が残した貴重な随筆だが、当時は8代将軍・徳川吉宗の時代だった。ちなみに雑司ヶ谷鼠山という地名は、現在の雑司ヶ谷地域の位置とは異なり、現在の下落合の北側に接する目白3~4丁目一帯のことだ。東京35区Click!に移行する1932年(昭和7)10月まで、同所は雑司ヶ谷旭出と呼ばれたが、35区制施行と同時に目白町(のち1966年1月に目白)と改称されている。
 狩りの一行は、あらかじめ目的地の狩り場を鼠山と決めていたので、千代田城Click!の内濠にある田安門から牛込門(牛込見附)をへて北上し、神田上水から分岐した江戸川Click!にぶつかると川沿いに進み、江戸川橋Click!から目白坂Click!を上りはじめている。このときの狩りは、「戸田筋」Click!にあたる幕府の鷹場役所や付近の農村で結成された鷹場組合が担当していたとみられ、狩り場の鼠山がある長崎村や雑司ヶ谷村、あるいは池袋村では、将軍の“御成り”を待ちうけて準備を整えていただろう。ちなみに、下高田村は「中野筋」の狩り場エリアにあたり、「筋」ちがいで役所も別だった。
 また、隣接する「中野筋」の下落合村では、隣接筋での狩りなので役所も組合もなんら事前準備をしていなかっただろうが、相手が「筋」ちがいのドッキリ狩りをやりかねない形式ばった規則や規範が嫌いな徳川吉宗なので、万が一のときに備えた“見張り”を御留山Click!の北へ配置していたかもしれない。ただし、徳川吉宗の狩りはざっくばらんな“無礼講”のケースが多く、役所や組合もそれほど緊張はしないで済んだものだろうか。
 このころになると、将軍の狩りは地域へ少なからぬ使役を強いる半面、かなり多くの現金を地元に落としてくれるイベントとなっていたため、狩りを迎える地元側もそれほどイヤではなかったフシが見える。一度の狩りで、狩り場の組合(村々)から使役・経費の見積書が提出されると、幕府勘定方の役所から当該の村落へ数十両単位の現金が支給Click!される仕組みになっていた。また万が一、田畑へ獲物や狩り手が入りこんで荒らしてしまった場合には、幕府から相応の損害賠償金も支払われている。いまも昔も、農村において大きな現金収入が見こめる催しや稼ぎは非常に貴重な機会だった。
 狩りの一行は、まっすぐに鼠山へやってきたのではない。まず、目白坂の中腹にある新長谷寺の目白不動尊Click!へ参詣し、目白山Click!(椿山Click!)から江戸市街や千代田城を展望している。「桜も更衣して青葉繁く、老の鶯耳鳴らし」と記しているので、いまの5月下旬ごろのことだろう。晴れて空気が澄んでいれば、麹町や溜池はもちろん、愛宕山から浜御殿、さらに陽光を反射する江戸湾までがきれいに見えていただろう。次に、護国寺の参道(現・音羽通り)を通って護国寺に参詣し、そのあとおそらく神田久保Click!の谷を金川(弦巻川)Click!沿いに抜け、金山Click!の麓から清戸道Click!に出たあと、高田四ッ谷町(四ッ家町)Click!あたりから表参道に入り雑司ヶ谷鬼子母神Click!へ立ち寄っている。
 ここで、一行は境内に軒を並べる茶屋(料理屋)の1軒に入って、鬼子母神名物の蕎麦切を注文している。近々、将軍の狩りが近くであると、おそらく茶屋の人々はウワサには聞いていただろうが、いきなり将軍一行が現れて蕎麦切を注文するとは夢想だにしなかっただろう。従来の形式ばった、儀式のような前例踏襲の狩りを嫌う徳川吉宗は、大人数で大名行列のようにゾロゾロ出かける狩りを否定し、少人数で細かな予定を立てず柔軟かつ気軽に出かけているようだ。外出の名目は狩りだが、多分に民情視察の傾向も強かったと思われる。
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護国寺.JPG
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 注文から間をおかず、いちおう千代田城の主人を意識したのか「山の如く盛り立てゝ」出てきた蕎麦切に加え、一行は酒も少し注文して飲んでいる。このあたり、江戸では庶民から将軍にいたるまで、小腹満たしには蕎麦Click!が好まれていたのがわかる。
 騎馬を中心とした狩りの一行は、夜明けとともに千代田城を出発しているとみられ、この時点で巳ノ刻=四ツ(午前10~11時)ごろだろうか。「腹をふくらし」た一行は、神田上水の流れを見たあと、休息しに長崎村の抱え屋敷へと向かった。元文年間に確認できる抱え屋敷とは、長崎村のどのあたりにあったのかは不明だ。この時点で、かなり傷みが激しい屋敷だったようなので、ほどなく取り壊されたのかもしれない。
 この抱え屋敷での様子を、狩りに参加した側用人とみられる如鷃舎千伯(もちろんペンネームだ)の随筆『江戸櫻』から少し長いが引用してみよう。
  
 長崎村抱屋敷へまかりしに、久しう見ざれば荒たきまゝの垣根いぶせく、あやしきまでゆがみたる所に毛氈敷きていとう草臥たり、枕よと呼ぶに松の木引切りて興かるさま折にふれておかしく、許されぬおもひあらばむくらの宿に寝もしなん、ひしき物には袖をなしつゝも古事迄おもひ出れといかな夢をむすぶべくもなく、下より蚤の持上るもうるさし。火焼家心細く煙立て屋敷守る何某がさまさへ田舎びて心苦敷、此日巳に過レハ命即衰滅する事小水の魚のことし、斯に何の楽かある。老かゝまりたるあはれさいく程なく見ゆ。(中略) さらはとて行道すから麦刈る側から芋植ゆる百姓の心遣ひ世話敷こそ、落合川の流に車しかけて臼を挽てごほごほ鳴るもおかしく、此ほとり面影橋又姿見の橋といふあり、蘆間を鷭のかよふさま、水鶏はたゝき草臥てや昼寝姿、ぎようぎようし鳥かしましく時鳥はいつも聞よし、此の川辺蛍多しと云ふ。
  
 長崎村にあった幕府の抱え屋敷へ立ち寄った一行だが、質素倹約を旨とする徳川吉宗の時代なので、おそらく手入れの勘定方予算がつかず、かなりボロボロに朽ちていたのだろう。いまにも朽ち果てそうな、縁側あたりへ毛氈を敷いて横になり昼寝をしようとしたが、下から蚤の攻撃にあって眠ることができなかった。
 記録の文章が前後しているが、長崎村へ入る前に下高田村と下戸塚村に架かる面影橋Click!神田上水Click!の様子を観察している。江戸川橋から目白坂を上り、そのまま清戸道をまっすぐ西へ向かえばほどなく鼠山だが、一行はジグザグに遠まわりをしながら狩り場へと近づいていることがわかる。この行程から推察できるのは、やはり「狩り」を名目にしてはいるが、吉宗はあちこち町々や農村の様子を見てまわる民情視察がメインだったのではないだろうか。麦秋で麦を刈る農民を観察し、刈ったあとにはすぐに芋を植えている様子を記録するなど、田畑の農作業の段取りを取材しているフシさえうかがえる。
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 また、著者が地元に取材して知ったのか、あるいは通称として浸透していたものか、神田上水のことを「落合川」Click!と呼ぶ記述が興味深い。江戸期からすでにそう呼ばれていたようで、明治以降も落合地域には旧・神田上水のことを落合川と呼んでいた人々がけっこういる。でも、いまのところ妙正寺川を「落合川」と呼んでいたのは、林芙美子Click!ひとりしか知らない。おそらく、地元の人たちの話を斜めに聞いた勘ちがいだろう。
 面影橋の近くにあった水車小屋にも立ち寄り、臼で麦粉を挽く様子を見学しているようだ。この水車は、面影橋から下落合村方面へ直線距離で400mほどのところ、現在の源水橋近くの流れに古くからあった水車小屋と思われる。いまだ江戸中期の著作なので、ホタル狩りの名所は面影橋の周辺と記述されている。
 長崎村の抱え屋敷で一服したあと、午後からようやく鼠山Click!での狩りがはじまった。
  
 鼠山の御狩に加わり御場先に行て何某誰某おもひおもひの出立目さましく待請奉るに通御ありて平勢子の声高く鉄砲の音しきりなれば馬に便り鎗おつ取り伏す猪夢をやぶりて三ツ四ツ荒れ走るを上の御筒にて屠り又洩るゝを追ふ。御麾に随ひ走引する事誠に花々しき御有様いふも更なり、彼れは幾ツ予は何疋と突留めを競ひ射芸の人は弓の弦を鳴らし矢尻を磨く武のたしみ、狐兎など出るを劣らじと追かけ、上には御馬上の御名誉幾つとなき御獲物御機嫌不斜御小休へ被為入御宴の御席へ召して御酒給し仰言有て数献に及び勢を増し又追ツかへつして日もかたぶければ、還御ならせ給ふ、
  
 この巻狩りで「上」=御上(おかみ)=吉宗は、馬上から「筒」=鉄砲でイノシシをしとめていたようだ。儀式めいて形骸化した「将軍家の狩り」ではなく、騎馬で鉄砲や鎗、弓矢を使いながら実戦さながらに獲物を追っていた様子がうかがえる。
 登場している巻狩りの徒歩(かち)の「平勢子」たちが、付近の村落から集められた農民たちで、このときは長崎村や池袋村、雑司ヶ谷村などから参加していただろうか。彼らは留守にする自身の田畑仕事を日雇取(ひようとり)=1日アルバイトの農夫にまかせて狩りに参加しており、その日雇取の賃金も幕府勘定方が負担していた。
 ちょっと余談だが、江戸東京地方で「うちのかみさん」という表現に、最近「神」の字をあてるのを見かけるが、もちろん連れ合いは神ではなく人間なので「上」が正しい。特に(城)下町Click!の妻は、家内では将軍と同様に最高経営意思決定者(CEO)の「御上(おかみ)」Click!であり一家の主柱という意味で、江戸後期から「お上(さん)」あるいは丁寧語で「お上さま」(幕末~明治期)と呼びならわされている。
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 『江戸櫻』の著者である如鷃舎千伯は、徳川吉宗のかなり身近で狩りの様子を記録しているので、吉宗とは非常に近しい関係だったのだろう。「(お)上」の姿をとらえた文面からは、それほど緊張感や畏怖の念は感じられず、「上司の姿」を描く側用人らしい気軽な雰囲気が漂っている。徳川吉宗は、落合地域で20回ほど狩りをしているので、もし下落合村にある御留山での狩りの様子を記録した文献が残っていれば、改めてこちらでご紹介したい。

◆写真上:北側にゆるやかな傾斜面がつづく、鼠山(目白3~4丁目)界隈の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された目白不動堂(新長谷寺)。は、護国寺の本堂。は、吉宗一行が蕎麦切を食べた雑司ヶ谷鬼子母神。
◆写真中下は、1919年(大正8)に撮影された木製の面影橋。は、寛政年間に描かれた金子直德Click!の「雑司ヶ谷目白高田落合鼠山全図」。は、1880年(明治13)作成のフランス式彩色地図をベースに描いた吉宗一行の鼠山狩りコース。
◆写真下は、『武蔵国雑司谷八境絵巻』(早稲田大学収蔵)のうち「鼠山小玉 長崎之内」。鼠山の上部に描かれた、古墳と見られる大きなドーム状のふくらみは幕末までに整地され撤去されている。は、3葉とも現在の鼠山とその周辺。

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三・一五事件に猛反発する石橋湛山。 [気になる下落合]

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 第二文化村Click!の下落合4丁目1712番地に住み、戦後、短期間だが病体を押して首相をつとめている石橋湛山Click!は、1928年(昭和3)3月に共産党系の活動家をはじめ、政府の政策に異議を唱える言論人や芸術家などがいっせいに逮捕された三・一五事件Click!へ、猛烈に反発する社説を東洋経済新報に書いている。
 彼の論旨(思想)は明快であり、資本主義革命で成立した経済基盤の上部構造を構成する政治思想(民主主義・自由主義思想)においては、思想や結社の自由を担保するのは基本中の基本であり、そこで提起される矛盾や課題をできるだけ解消・解決することによって社会は健全かつ着実に進歩・進化していくのであるから、それに反する政策はひいては社会基盤そのものを否定・破壊することにつながり、現代社会に真っ向から挑戦する愚挙だと断じた。石橋湛山は、思想や言論を弾圧することが、社会の進歩や進化を停滞・停止させることであり、「自分で自分の首を絞める」自殺行為であるのを、資本主義革命思想とそれにともなう階級観をベースとして弁証法的にとらえ理解していたのだ。
 もちろん、彼の頭の中には中国の山東出兵に象徴的な、田中義一内閣の言論弾圧と軍国主義への道をひたすら歩む、いずれ「亡国」状況を招きかねない愚挙も強く意識されていただろう。換言すれば、三・一五事件は中国侵略への批判をかわそうとする世論操作や言論統制の一環と、彼の政治的視界にはとらえていたかもしれない。
 なぜなら、三・一五事件は「共産党弾圧事件」として語られることが多いが、同事件の検挙者1,600人のうち共産党員の占める割合は3分の1から4分の1にすぎず、残りの人々はそのシンパないしは田中内閣の山東出兵に反対を唱えていた人物たちだったからだ。
 1928年(昭和3)4月28日に発行された、東洋経済新報の社説から引用してみよう。
  
 古来新思想の勃興を権力をもって圧迫してこれを滅し得た例は絶えてない。/これはいやしくも歴史をひもとく者の等しく認めねばならぬ昭乎たる事実だ。あえてブルノー(・ワルター)や、ガリレオの古に返るに及ばない。手近い所が、明治維新を導いた思想の流れはどうであったか。当時の支配者徳川幕府にとってこれほどの危険思想はなく、どうにかしてこれを亡ぼしたいと随分久しくかつ激烈な圧迫を加えた。中にも安政戊午の大獄のごとき罪に坐する者百名を越え、梅沢源次郎、頼三樹三郎のごとき新進学徒が片端から死に処せられた。が思想はついに権力をもっていかんともすることはできず、明治維新の革命は成し遂げられた。/歴史を静観すると、何が今日において愚なる事かというて、勃興せんとするある思想を権力をもって抑圧し撲滅せんとするほど愚極まった事はない。それは第一に出来ない事である。(カッコ内引用者註)
  
 「ブルノー」は、のちにナチスが政権を握ると米国に亡命せざるをえなくなった、ユダヤ系ドイツ人のウィーンpo指揮者・ブルーノ・ワルターClick!のことだ。
 石橋湛山は、明治維新を「革命」としているが、天皇親政・鎖国回帰を唱える「尊王攘夷」のアナクロニスト(時代錯誤者)たちが起こした動乱(政治体制の進歩をめざした変革ではなく政治的後退をめざした復古思想)であり、倒幕ののちに成立した薩長政府が、結果論的なご都合主義で「攘夷」思想から180度の方向転換して欧米諸国との開国交流を推進し、下からの自由民権運動に突きあげられて議会制を採用することで「資本主義革命」と「近代化」をあと追いで装っている……というような、今日的な史的解釈はいまだなされてはいない。
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 それはともかく、特高警察Click!の三・一五事件に関する報道規制へメディアがやすやすと従い、各紙とも内務省と特高におもねるような記事を掲載する中で、特高の弾圧は「愚極まった」ことと断罪する同紙主幹・石橋湛山の社説はまったく異質な存在として、今日まで語り継がれている。また、日中戦争がはじまると東洋経済新報の論説欄を、反戦をとなえる論客に匿名で提供し、侵略戦争に反対する論旨を繰り返し展開した。これにより、以降、石橋湛山は特高から常に目をつけられ、配給制が導入されると内務省はさっそく東洋経済新報社への用紙やインクの配給妨害を繰り返している。
 この現象は、決して時代遅れな昔話ではない。つい先年、前政権でも免許取り消しを口にしてTV局を脅迫した愚劣な政治家がいたし、NHKでは政府の意向を代弁した経営委員が、放送法で保障された「番組表現の自由」など存在しないかのように、同局のドキュメンタリー番組へあからさまな圧力干渉を行なっている。海外では、香港やミャンマーの徹底した言論弾圧や、多様な思想の圧殺が記憶に新しい。また、政府に情報公開を迫れば、スミ塗りだらけの資料を提示するなども、言論統制に直結する事例だろう。
 政治や社会の矛盾解消あるいは課題解決へのヒントを内包する、現状でのメジャーな思想とは異なる思想や言論を圧殺することは、封建主義にせよ資本主義、社会主義、共産主義にせよ、それがいかなる体制であろうが社会の進歩やアップデイト→リニューアルを阻み、発展を大きく遅らせて停滞させ、ときに国家を自ら滅ぼしかねないことを、石橋湛山は古今東西の豊富な政治経済史に学んで知悉していた。
 もしヨーロッパ諸国が、社会主義や共産主義の思想を徹底して排除・圧殺していたら、当然ながら資本主義の延命をはかる英国のケインズ『一般理論』Click!(近代経済学=修正資本主義)も、国家がつかさどる数々の社会福祉政策Click!や福祉組織の発想も、また今日の国連が唱えるSDGs(持続可能な開発目標)の視座も生まれなかっただろう。
 三・一五事件について、石橋湛山の社説からつづけて引用してみよう。
  
 第二にそれはいたずらに無益の争乱を起こすものである。/再び明治維新前の我が国の状態を顧みるに、もしも当時の幕府および反幕府派の人々が、もう少し聡明であったなら、あんな馬鹿馬鹿しい動乱は起こさずとも、明治維新は出来たであろう。いや、もっと立派な、手際いい維新が成し遂げられたであろう。幕府側もあの争乱のためには、受けでもよい余計な大きい打撃を蒙った。反幕府派も、あの争乱のためには、流さでも好い余計な分量の血を流した。/記者のここに強く主張せんと欲するのは、ただ次の一点だ。世人はどういうわけか、共産主義と聞きさえすれば、その正体の何ものかもしらずして、頭から国家を覆滅する危険思想なりと断定する。そして、いたずらにその研究討議をさえも抑圧するが、これはかえって危険なことだと。
  
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 石橋湛山が「危険なことだと」危惧したとおり、この社説からわずか17年後の1945年(昭和20)、大日本帝国は戦争の果てに破産して滅ぶことになる。
 戦後すぐのころ、東久邇宮内閣の内相だった山崎巌は、米軍(CIC?)のインタビューに「天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」(朝日新聞1945年10月5日)と答えている。今日の中学生レベルの知識があれば誰でも知っている、資本主義革命を担った政治思想(民主主義など)の最優先課題が「王政打倒・封建制打倒」なのさえ知らないお粗末な人物が内相をつとめていたのに呆れるが、この発言が発端で東久邇宮内閣は総辞職に追いこまれている。山崎の「思想」によれば、王政を打倒して、あるいは市民が王政を追いつめ譲歩させて資本主義ベースの議会制民主主義を勝ちとり、共和制へと移行したヨーロッパ諸国はすべて「共産主義」国になるのだろう。
 東洋経済新報社は、今日の日本経済新聞社と同様に「経済」が中心の誌面づくりをしているが、政治に関しては石橋を中心に資本主義を支える基盤思想である、民主主義や自由主義の視座からおよそ後退しなかったことは、現在のメディアが「記者クラブ」制度や「自主規制」などで、自ら表現・報道の自由を狭め、なかば放棄しているような自滅行為を見聞きするにつけて、今日もっと評価されてもいいような気がする。
 もうひとり、三・一五事件の弾圧を痛烈に批判した人物がいる。横浜貿易新報(のちの神奈川新聞)に社会評論を連載していた歌人・与謝野晶子Click!だ。1928年(昭和3)4月29日の同紙に掲載された、与謝野晶子「国難と政争」から、その一部を引用してみよう。
  
 総選挙の結果を見て、俄に此事(三・一五事件)が現内閣に由つて計画されたやうに想はれる。わざわざ罪人を作るために検挙の範囲が拡大されたのでは無いか。(中略) 鈴木(喜三郎)内相は思想取締りの最上の施政として、まあ此上に警察政治を増大し、特高課のスパイを全国に張るため、三百萬の追加予算を要求する相である。思想が警察権で左右されるものなら、学者も芸術家も社会改良家も要らない、まことに結構な国柄と云ふべきである。(カッコ内引用者註)
  
 「総選挙」と書いているのは、同年2月20日に行われた第16回衆議院議員総選挙のことで、別名「第1回普通選挙」とも呼ばれている。この選挙で、労働農民党をはじめ、日本労農党、社会民衆党、日本農民党など「無産政党」から8名もの当選者を出したことが、政府当局に大きな衝撃を与えたことは想像にかたくない。
 彼女がいう「まことに結構な国柄」の大日本帝国は、まったく結構ではない軍国主義を招来し、膨大な犠牲者をともないながら無謀な戦争の果て1945年(昭和20)に自滅した。
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 論理で説き伏せられない思想や世界観、言論で説得できない理論とそれを体現する人物は、徹底した暴力で圧殺し排除する。それが、特高警察を生みだした大日本帝国に通底する文字どおり「亡国」思想であり、現代の中国やミャンマー軍政を貫徹する政治的な意志だ。「反面教師(反面教員)」とは、中国の文化大革命Click!で登場した毛沢東の造語だが、まさに反面教師にしたい出来事が、このところ国内外で立てつづけに起きている。

◆写真上:下落合の第二文化村にある、石橋湛山邸の玄関とファサード。
◆写真中上上左は、東洋経済新報の主幹時代に撮影された石橋湛山。上右は、山東出兵を強行した陸軍出身の田中義一。は、三・一五事件で裁判所へ起訴連行される検挙者たち、は、特高の発表をそのまま掲載した1928年(昭和3)4月11日の東京朝日新聞夕刊。
◆写真中下上左は、三・一五事件の当時は警視庁特高課長だった纐纈彌三の、めずらしく弾圧した側からの軌跡をたどった纐纈厚『戦争と弾圧』(新日本出版社/2020年)。上右は、1928年(昭和3)発行の「戦旗」12月号に掲載された三・一五事件を描く小林多喜二『一九二八年三月十五日(原題:一九二八・三・十五)』。下左は、戦後は首相になった石橋湛山。下右は、横浜貿易新報で三・一五事件を痛烈に批判した与謝野晶子。
◆写真下は、三・一五事件を報じる1928年(昭和3)4月11日の横浜貿易新報。は、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)にある石橋湛山邸。は、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」にみる目白文化村の石橋湛山邸。

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昭和ウィルスに感染しそうなN君その後。 [気になるエトセトラ]

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 会社をクビんなったオレは、リク活して履歴書だしと面接を繰り返してたんだけど、なかなか気に入った会社がなかったんだ。情シスのスタッフとして、学校出てから7年も勤めてきたんだけどさ、そりゃスキルや経験や実績のあるスタッフを募集してる会社はたくさんあるよ。でも、たいがいブラックでさ、24h365dのミッションクリティカルなサポート中心で、有給はおろか休みも満足にとれそうもないっしょ。
 クビんなった会社のいいとこは、あのA.H.ボスClick!が「そういえばN君、しばらく有給とってないわよね。わたしのサポートしてくれて感謝だけど、有給消化しないと働き方改革でうるさい総務からわたしが叱られるの、しばらく休んでね。じゃ、お休みなちゃ~い!」とかなんとかいってくれて、2日でも3日でも休めたことなんだ。前の会社を懐かしがるなんて、オレもマジ最悪なんだけどさ。つうか、考えてみれば2日も3日も休んでるのに、会社がなんにも困らないで大丈夫って、ど~なのよ?
 きょうも面接で、あまり来たことのない葛飾区にいるんだけど、なんかイマイチの会社で、面接の担当者が怒りっぽいカンニング竹山みたいだったし。まだ少しは失業保険で食えるから、そんなに焦ってないんだけどね。どうしてもいい会社が見つからないときは、派遣でつなげばなんとかなるし。ってことで、アパートに帰るには早いから、スマホで友だちとSMSしてたんだけど、みんな仕事中で冷たいリプばっか。
 それにしても、きょう乗った電車の天井には、いまどき扇風機なんかが付いちゃって、「ここは昭和か!」ってひとりで突っこみ入れたりして。なんかいろいろ考えるのも面倒だし、クヨクヨしててもしょうがないから、気分転換にそこらへん歩こうかと思って、二度と来ることがなさそうな駅で適当に降りたんだ。
 なんとかいう駅で、名前もよく知らないんだけどさ、改札出たら雨がザーザー降りはじめちゃって。駅前に、変な銅像がふたつ立ってる駅……。スタバでもないか、商店街へ急いで入ったんだけど、なんか商店街もガチに昭和しててカフェとかぜんぜんないんだよな。そうこうしてるうちに豪雨になっちゃってさ、1着しかないスーツは濡れるしワイシャツまで沁みてくるしで、駅へもどろうと横断歩道で信号待ちしてたわけ。
 そしたら、昔の時代劇みたいな傘さした変なヲジサンが横に立ってさ、「おい、青年、どうした? 入るか?」って訊くんだよ。ヲジサンと相合傘なんてマジやだし、それにヲジサンの格好もちょっと変なんだよね。「大丈夫す」って答えたら、そのヲジサンしつこいんだよ。「どうした、兄ちゃん、浮かない顔してよ」って、大きなお世話だから黙ってたんだけど、「オレにも年恰好がそっくりな甥がいるんだけどよ、先月会社をクビんなってな、いまの兄ちゃんみたいな顔してたんだ」って、なんかオレ、クビ顔してるのかと思って、つい「なんでクビになったんすか?」って訊いたんだ。
 すると、その四角い顔したヲジサンがさ、「なんか、会社でリスとトラが取っ組みあってどうとかいってたけどよ、兄ちゃんもあれかい、会社クビんなった口かい?」。雨でズブ濡れになって気弱んなってたオレは、つい「はぁ」って返事をしちゃったんだ。そしたらさ、「なぁに青年、ドブに落ちても根のあるやつぁ、やがて蜂巣の花と咲くってじゃねえか、なぁ!」っていきなり背中たたくし、昭和の古語ばっかで意味わかんないし。
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 それから、「一杯いくか、兄ちゃん?」っていうから、「いえ、オレ酒飲まないす」って答えたら、近くの幼馴染みがやってる「喫茶店(きっちゃてん)でもいこ。ほら、濡れちまうからよ」って、なんか見るからに時代遅れの喫茶店に連れこまれたんだ。“ローク”とかいう、名前からして昭和してる店。「兄ちゃん、コーシーでいいのか?」って訊くから「はぁ」って答えたら頼んでくれて、「そんで、兄ちゃんは仕事、なにしてたの?」って訊くから、新手のセールスか新興宗教の勧誘を警戒しつつ、「ICT部門なんすけど、AWSとかAzureとオンプレのハイブリッド環境でデータマネジメントのオペレーションしてました」って答えたら、ヲジサン急に変な顔してさ、「兄ちゃん、外人か?」。
 いろいろ説明したんだけど、さっぱり通じなくて、オレが端末のキーボードたたくマネしたら、「あっ、わかった、キーパンか! なんだよ、早くそういってくれりゃわかったのによ、なぁ」って、また肩たたかれたんだ。「あの、キーパンってなんすか?」って訊いたら、「昔よ、オレの妹もキーパンだったのよ」ってよけいにわけわかんないこというから、この話題は放置することにして、黙ってコーシーを飲んでたら、「でもよ、兄ちゃんは、働く気あるんだろ?」って訊くんだ。「それはありますけど」って答えたら、「よし、じゃ、オレが仕事世話してやら」って、話が変なほうにいくから「いえ、けっこうす」っていったら、「けっこう毛だらけ猫灰だらけ、ケツのまわりは糞だらけってな、遠慮するな、失業中の青年よ」って、頭がマジヤバな人に捕まったみたいだし。
 「いえ、ほんと、大丈夫すから」って断ったら、「あれ、兄ちゃん、冴えない顔してるけどよ、けっこう色男じゃねえか。これ、いるんだろ、これ?」って小指を立てるんだよね。「そんなもん、いないっす」って答えたら、「そっか、貧しい労働者諸君は、色恋もできねえ世の中か。だけどよ、働かなくちゃ食ってけねえし恋もできねえやな、早く仕事見(め)っけねえとなぁ」って説教するんだよ。まあ、コーシーをおごってもらってるし、少しは話を聞いてあげないとって、「ヲジサンはなんの仕事っすか?」って訊いたら、「オレか、日本列島あちこち旅して商売してんのよ」、「全国展開のチェーン営業すか?」、「まあ、そんなもんだな」って急に小さな遠い目をして、雨があたる窓から外眺めてんの。
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 「じゃオレ、そろそろ」って立ちあがりかけたら、「よお、いま家の裏の印刷工場で、ちょうど職工募集してんのよ。つぶれりゃよほど日当たりがよくなる小汚ねえ町工場なんだけどよ、兄ちゃん、そこでしばらく働いてみっか?」って訊くんだよ。つうか、冗談っしょ。2ヶ月前までグループ全社でDX推進中、サステナ目標のアジェンダ87%ペーパーレス化とデータのファイルサーバ&NAS集約担当だったオレが、なんで紙の印刷工場なんかで働くんだよってマジギレしそうになったけど、「そこの社長がよ、カネがなくてしょっちゅうピーピーいってるタコみてえな奴なんだけどな、人間は悪くねえんだ。まあ、タコが先におっ死(ち)んじまうだろうから、終身雇用ってわけにはいかねえけどよ。あ、なんならうち団子屋だからよ、そこの店員の口ってのもあるな。この前、おばちゃんが江戸川の土手でヨモギを摘んでたら腰痛めてさ、誰か手伝ってくれるいい人いないかねえって探してたんだ。印刷屋がイヤなら、団子屋の口もあらぁな」。
 もう丸っと収拾つかないから全部放置して立ちあがると、「あ、なんだい兄ちゃん、もうやる気んなったか?」だって。こんなとこA.H.ボスに見られたら、ブラトップ姿で思いっきり両手壁ドンされて、「時代の最先端で仕事するはずのN君、そこで一体なにしてるの? もう、見損なったわ!」なんて叱られかねないし。
 ソーサーに置いてた汚らしい楊枝を、もう一度くわえたヲジサンがレジへすたすたいくから、いちおうおごってもらったんで「あざーす」って礼をいったんだ。そしたらレジの前で財布開けて、「あれ?」とかいってもぞもぞしてるから、「……どうしたんすか?」って訊いたら、「青年、千円もってるか?」っていうんだ。ヲジサンの財布みたら200円しか入ってなくて、結局、失業中のオレがコーシーおごることになったんだよね。こんなドイヒーヲジサンに捕まったのも、いまのオレがボーッとしてスキだらけだからだと思って、店から出たとこで「じゃ」って駅のほうへ歩きかけたんだ。
 「よう、青年、袖ふり合うも他生の縁ってじゃねえか、うちきてゆっくり団子でも食ってきな。ほれ、服も乾かさなきゃよ」って、オレの袖をグイグイ引っぱって商店街の奥へ連れてくんだよ。オレ、もう少しで自転車で通りがかったKaoのマークClick!みたいな顎のお巡りさんに、「た、助けて!」って叫びそうだったけど、「よう、泥棒捕まえてちゃんと仕事しろよ!」って、なんかこのヲジサンの知り合いみたいなんでやめといた。
 「なあ、兄ちゃん、失業したからってヤケんなっちゃいけねえよ。ヤケのやんぱち日焼けのナスビ、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たないとくらぁ、なっ? 貧しい年寄りがふたりでやってる団子屋なんだけどよ、なぜか粋な美形の姐ちゃんがふたりもいるんだ。四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ち小便とくら。まっ、ゆっくり団子でも食って元気だしな」って、このヲジサンこそわけのわかんない外人じゃないかと思ったんだけど、「美形の姉ちゃん」はいちおう意味がわかるし、ちょっとだけそそられる気もするから、それでなんとなく、袖を引っぱられるまま付いてったんだ。だけど、前の会社は六本木駅も近い東京ミッドタウンの隣りにある赤坂9丁目のビルだったんだけどさ、立ち小便してる姉ちゃんはA.H.ボスも含めて絶対にいなかったと思う。
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 商店街の店先から、「ほら、バカが通るよ。ねえ、おまえはああなっちゃいけないよ」とか、「今度は2階に下宿してるキャバレーの歌手に夢中だってさ、懲りないねえ」とか、「バカだねえ、まったく」とか変な声が追いかけてきて、マジ気になったんだけど、濡れて寒気がするから少し暖かいとこで休みたかったんで、とりあえずその団子屋とかいう店に付いてったんだ。店の暖簾くぐる手前で、傘のしずくを払ったヲジサンがふり返って、「それとも、なあ兄ちゃん、オレのバイ手伝うか? 風に吹かれて北から南へしがない旅の空よ」って、また昭和の古語で意味不明なこというんだ。オレもう、この暖簾くぐるとどうなっちゃうんだろ? うっかり入って、タコみたいな社長にからまれたら不気味だし。つか、さっきからゾクゾクすると思ったら、ちょっとガチに昭和熱も出てきたみたいだしさぁ……。

◆写真上:車内の天井に、なつかしい扇風機を見つけた京成電鉄金町線。
◆写真中上は、柴又帝釈天の表参道入口。は、境内全域が前方後円墳だったことが判明した柴又八幡社と「柴又八幡神社古墳」のモニュメント。
◆写真中下は、雨のそぼ降る京成電鉄金町線の線路。は、空襲を受けていない柴又には古い屋敷がそのまま残る。は、雨の柴又帝釈天。
◆写真下は、待乳山古墳Click!と並び東京ではめずらしい平地の柴又八幡神社古墳から出土した帽子をかぶる男の埴輪。羨道や玄室も、東京湾を横断して房総から運ばれた房州石Click!で構築されていた。は、ヨモギの草団子。は、京成電鉄柴又駅のプレート。
おまけ
 1947年(昭和22)の空中写真にみる、柴又八幡社の「柴又八幡神社古墳」。見るからに鍵穴型をした前方後円墳だったのが歴然としており、1947年(昭和22)の時点では北側には周壕跡と思われるスペースまで残されていた。後円部と前方部の墳丘を削り、後円部に拝殿本殿を前方部に参道を配置したのは、他の神社古墳と同様の造りだ。周壕の南側あたりを道路に削られているが、墳丘は90m前後、周壕を含めると130mほどはあっただろうか。
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ゼロトラストを推進するサブスク呪怨サービス。 [気になるエトセトラ]

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 いま、リモートワークが恒常化した企業のICT部門では、社内システムの運用管理や情報セキュリティの課題で日々、悪夢か地獄のような目に遭っているのではないだろうか。従来はデータセンターに預託したサーバ群や、プライベート/パブリックの別なくクラウド上に蓄積されたデータを管理し、社内のデバイス(端末)とVPNの経路さえサイバー攻撃から守れば、社内データはなんとか漏えい防止、あるいは盗難や破壊・改竄されずに済んでいた。
  
 ああ、それなのに、COVID-19禍がずっとつづいて自宅にある私物のPC端末や、いつ紛失したり盗まれるか知れたものではない、わけのわからない脆弱なタブレットやスマホなどを使いやがって、平気でID/Passを打ちこんでは社内システムにアクセスしてくる脳天気な社員や、作成したデータ類を会社のサーバと自宅のThinではなくFatクライアントの双方に平然と置いてデータ漏えいの危機意識も希薄だし、こっちが苦労しているバックアップや差分管理など毛ほども気にすることなく、お試し無料のMicrosoft 365が速くなってOneDriveも使いやすくなったね~などと、もう少しで「まさか、おまえら、データを社内じゃなくてどこに置いてんだよ! オバカー!!」と、つい叫びそうになってしまう。
 おまけに、お気軽な経営陣からは「キミ、もはやBYOD環境でわが社のシステムを守るのは不安だし、もう古いからね。これからの時代は、ゼロトラストでいこうよ、なあキミ」などと、わけのわからないことをいわれ、うちの部署のA.H.ボスなんか「予算も削られ人的リソースも不足してるのに、どうやって構築するの? なにがゼロトラスト時代なのよ!? なに考えてんの、あんたバッカじゃない!?」とキレるのかと思ったら、「そうなんです、これからはゼロトラスト環境ですわ。もう、システムのことをよくご存じの専務ですこと。さすがでちゅ~! ほほほ」と役員に迎合しやがって、「N君、いろいろ調べといてね」と、結局、シワ寄せはオレのところにまわってくるんだよね。
 オレは、「知らね~よ、勝手にいってれば!」と、あともう少しでキレそうになったけど、「そうですねえ、シリコンバレーあたりのサブスクで安くすむ、データマネジメントのクラウドサービスでも探してみましょうかねえ」なんて、ついつい答えてる自分自身がイヤになってしまう。ボスは次期の常務取締役執行役員&CIOの呼び声が高いから、ヘタに逆らわないほうが身のためだし、「この前のN君が作ったプレゼンのppt資料、とってもよかったわ、もう最高。ずっとサポートしてね」なんて、うるんだ目をしながらウットリ顔でいわれたりすると、彼女はオレに気があるんじゃないかななどと思ってしまうんだけど、うっかり不平をいったりするといきなり両手で壁ドンされて、「こざかし~んだよ! いちいち!!」と恫喝されるので怖いったらありゃしない。天国と地獄がクルクル入れ替わるのが、PMキャリアがバリバリなうちのボスの性格なんだ。
 もう、A.H.ボスのうっとり顔が見たいので、シリコンバレーのベンチャーをいろいろ調べてたら、「Ju-on」というクラウド型のデータ管理サービスを見つけた。なになに、「もし、サイバー攻撃でデータが破壊されても即座にリカバリーが可能で、サイバーレジリエンスとゼロトラスト環境の構築に貢献します」か、なるほど安くてよさそうなサービスだけれど、「Ju-on」って「呪怨」のこと? よし、もう少し詳しく調べてみよう。
  
 「Ju-on」は、短期間かつ低価格で導入できるクラウド型のサブスクリプションサービスで、契約してから数日で導入・運用がスタートできます。SaaS型のサービスだから、ハードウェア&ソフトウェアが不要でイニシャルコストがかからず、メンテナンスフリーなのはもちろん、いつでも機能や容量を増減できる高いスケーラビリティを備えています。重複排除と永久差分バックアップで、ネットワーク帯域とストレージ容量を削減して効率化。すべてのデータを二重暗号化で転送・保存し、国内国外を問わず社内システムの安全・安心をグローバルに確立できます。万が一、テレワークの普及などで携帯デバイスを紛失しても、すぐに位置確認や内部データの遠隔消去ができるので、情報漏えいを強力に防止できます。
  
 なんか、この「Ju-on」サービスはいい加減で不勉強な社員の多い、うちのような会社にはピッタリなサービスみたいだけど、そんなうまい話があるのかなあ。
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 クラウド上はもちろん、エンドポイントのPCやタブレット、スマホなど端末の種類やOSを問わずバックアップできちゃって、データを解読困難な二重暗号化で保存できるのか。データのリストアは、管理者とユーザを問わずどちらでも可能で、社員のセルフサービス化を促進してICT部門の管理業務負荷を低減……。なるほど、ますますうちの会社には向いてるし、オレの仕事もずいぶん減って少しはラクができそうだな。なんか不具合がちょっとでも出ると、いつも政治家みたいに情シスへぜ~んぶ責任をなすりつける無責任で不勉強な管理職が多いから、これからは自己責任でなんでも自力でやってもらおうじゃん。自分の部門端末の不始末ぐらい、自分でちゃんと責任とって面倒みろ!
 「ICT部門のスタッフは、本来の創造的な業務やPJに注力・専念できます」……そうそう、そ~なんだよ。24時間365日も機械的な仕事の繰り返しで、こんな定型管理業務はロボットにでもやらせとけばいいんだけどさ、この前、ネゴして申請したはずのRPA予算が丸ごと削られたのには、さすがにボスも大きくて睫毛の長いきれいなお目めをパチクリしながら、「じょうだんじゃないわ、わたしたちは運用管理マシンじゃなくてよ。役員会DXなんかより、業務現場のRPA自動化や効率化のほうが先でしょ! 経営陣は、いったい何時代を生きてるのかしら? ねえN君、そう思わない?」って、憤慨してたっけ。怒るととってもカワイイA.H.ボスだけど、それにつられてオレも「ほんと、そうっすよね~」って答えたら、あのウルウルした目でしばらくオレのことを見つめてたっけ。
 つうか、そんな妄想にひたってる場合じゃなく、「Ju-on」サービスについて、もっと調べなきゃ。なになに、「Ju-on」サービスのコアは「Saeki」で、「Kayako」と「Toshio」のふたつの機能から構成されています……って、これやっぱ「呪怨」じゃん! 佐伯一家の「Kayako」は、階段を血だらけで這ってくる伽椰子で、「Toshio」は真っ白なドウラン塗りまくりの小さな俊雄って子どものことだろ? なんだ、米国でも映画化されたって聞いたけど、このベンチャーの経営者は『呪怨』ヲタクじゃないかなぁ。
 あっ、なんとなく、「Ju-on」の仕組みがわかってきたぞ。データのセキュアな保全機能や、バックアップ/リストア機能を“呪い”というキーワードでくくったわけか。社内データが、ありとあらゆるところに分散して保存・蓄積されている、もう漏洩リスクだらけでわけがわからなくなりつつある社内環境を呪われた佐伯家だとすると、佐伯家を一度でも訪問したり、なんらかのかたちで接触したサーバやユーザ(デバイス)たちは、もう二度と伽椰子さんたちからは逃れられない、永久の呪いがかけられたってことなんだ。
 なるほど、クラウドやオンプレの基幹系サーバ群やDBMS、NAS、VMwareマシン、Hyper-Vのセキュアバックアップは伽椰子さんの担当で、エンドポイントのPCやタブレット、スマホなどのデバイス系PDAは、ボットみたいな俊雄君が出かけていって、リモートワーク社員の足もとで黒ニャンコといっしょに「ニャ~~オ!」とひと声鳴けば、「呪いがかかってるよ、忘れないでね」ってことになるわけだ。つうか、システムの運用管理用語に翻訳すれば、「Ju-onで保護されたから永久に安心だよ、お仕事がんばってね」ってことか。
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 それでも、おかしな「ふるまい」をするユーザには、血だらけの伽椰子さんが階段を下りユーザの頭か両足のどちらかを引っぱって、危ないデータの完全消去で本格的に呪う、いや安全・安心の十分なセキュア環境を確立するという仕組みなんだな。クラウドやオンプレ、デバイスの種類に関係なく、全社規模でハイブリッド運用できるのもいいし。
 なるほどなるほど、よくできたサービスだよね。なになに、差分ファイルのデータ量から異常データを検知し、ランサムウェアなどのマルウェアを発見してアラートを出す……だって。一般的なマルウェアの場合は、「黒い少女」サービスが動作して「中村ゆり風の九字切り」機能で対抗し、いま流行りのランサムウェアの場合は「白い老女」機能が出現して呪いをかけなおす、いやいや、暗号化したデータをリストアして事業や業務の即時継承性を担保しつつ、ついでにランサムウェアでロックされた機器や暗号化されたデータへ、「バスケットボール」をぶつけて無価値化する?……。「中村ゆり風九字切り」機能とか、白い老女の「バスケットボール」機能って、なんなんだよ? ……あっ、それは当社ならではの独自技術だって、要するに企業秘密のアルゴやテクってことね。
 もし、社内(佐伯家)に関わるタブレットやスマホを盗み出して、変態ムロツヨシのようにバッグに入れて逃走しようとしても、伽椰子さんと俊雄君が即座に連携して位置を特定しリモートで呪殺できる、いや、持ちだしたデバイスの所在とデータ内容を特定し、遠隔削除でデータを完全消滅させられる。だから、社内のガバナンス強化と、万が一訴訟沙汰になった際の証跡保全にも貢献する……。ふ~ん、こんな便利なことまでできちゃうんだ。
  
 紛失したり盗難にあったりしたPCやモバイルデバイスから、データのリモートワイプが可能です。常にデバイスの位置を追跡できるほか、もしJu-on通信ができないところ(たとえばWiFi-APのないローカルな神社・仏閣・教会)へ逃げこんだとしても、KayakoやToshioとの間で一定時間の接触がなければ、White Old WomanまたはBlack Girlが「は~い、いまいきますから~」と出張して、持ち出しデータの自動消滅あるいは強制消去が可能です。
  
 これ、うちの会社にピッタリなやつじゃん! 月々の利用料金が、ユーザひとり当たり9,800円で安いし、SSNS(貞子セキュアネットワークサービス)Click!との併用なら、さらに2,000円おトクな7,800円/月だって! それに、社員が1,000人超えならさらに1,000円引きって、なんかシリコンバレーなのにジャパネットタカタみたいだけど、わが社なら6,800円/人で導入できるってことじゃん。さっそく、ボスに報告しなきゃ!
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 あれから2ヶ月、調査報告を聞くボスのウルウルした感謝顔は見られたし、社内には「Ju-on」サービスが隅々まで適用されてるけれど、オレはいま、職探しをしている。「Ju-on」の社内設定がカットオーバーした1ヶ月前、「ねえ、業務に余裕ができたからって、このごろVIVID ARMYばかりやってるN君。キミの仕事は、もうここにはないから、明日から出社しなくていいわ。おつかれさま」と、役員会のパーティにでも出るのか、なぜかドルチェ&ガッバーナの黒いドレスを身にまとった(あまり似合ってなかったんだけどね)ボスの彼女にいわれ、血の気の引いた俊雄君顔で開いた口がふさがらなかった、オレ。
 「余暇を、創造的な本来業務やPJに注力・専念できます」なんて、ウソばっかじゃん! この会社も、ボスも、オレも、なにもかもが呪われてる。あっ、そっか、これがクラウド型呪怨サービスの本質的な目的であり、永久に連鎖・持続する究極的なワナだったのか……と気づいたけど、もうあとの祭りで遅い。いまでも、階段を下りてくる血だらけ伽椰子さんの夢を見るけど、その顔がときどき元ボスのA.H.顔に変わってるのが、もっと怖いんだ。

◆写真上:落合地域の西隣りで、『呪怨2』に登場した中野区江古田のハウススタジオ。
◆写真中上は、クラウド型呪怨データマネジメントサービスのシステム概念図。は、基幹系システムのデータを守る伽椰子さんのサービスキャラクター。は、リモートワークには不可欠なゼロトラスト環境を実現し、エンドポイントのデバイスにおける確実なデータ保護を推進するデスクトップ下でお馴染みな俊雄君のサービスキャラクター。
◆写真中下は、自宅でもどこでも伽椰子さんと俊雄君さえいれば24時間365日、心配事ゼロで安心&やすらかに眠れる環境が確立できる。は、たとえ変態社員が社内の機密データを持ちだしても、リモートワイプで完全消去し「なかったこと」にできる安全・安心イメージ。は、ランサムウェアの被害に遭っても無害化するバスケットボール機能を装備し、どこへでも追跡してくれて頼りになるDRボット「白い老女」のキャラクター。
◆写真下:より詳しく呪怨サービスが知りたい方には、日本と米国でわかりやすいDVD教材が発売されている。は、日本版の『呪怨』と『呪怨2』(2003年)。は米国版で『The Grudge』(2004年)と『呪怨パンデミック』(2006年)。特に『呪怨パンデミック』は今日のCOVID-19禍を予測したような内容で、社内研修用のEラーニングには最適だ。

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前庭を雑木林にする安倍能成。 [気になる下落合]

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 家の周囲に樹木を植えるのは楽しいが、その成長が思いのほか早いので愕然とすることがある。わたしが困ったのはヒノキとウメ、そしてクロモチの3種類だ。いまはカーポートになっているスペースへ、植木屋から買ってきたヒノキと、安価に分けてくれた盆栽のウメを不用意に植えたのがまちがいのはじまりだった。
 追いかけてクロモチの木も植え、なんとなく生垣っぽくして緑を楽しもうと思ったのだが、最初の1~2年はそこそこ成長して枝葉を拡げ、ほどよい木蔭もできて夏などは地面からの照り返しも減って涼し気になるぞ……と思っていた。伸びた枝をほどよく切り、樹影のかたちも整えて自己満足にひたっていたのだ。ところが、わたしの家の敷地は明治期には畑地だったところで、もともと関東ロームの地味がよかったせいもあるのだろう、3年目から木々はとんでもない成長のしかたをしはじめた。
 仕事が忙しいので、しじゅう樹木の手入れなどできないし、朝はせわしなく夜は帰宅するのが午後9~10時があたりまえだったので気づかなかったのだが、休みの日、家の前を見て愕然とした。知らない間に、これらの木々がわたしの背丈よりも高くなっていたのだ。あわてて剪定バサミをもって枝を切ろうとしたが、すでにハサミなどでは刃(歯)が立たずClick!、ノコギリを持ちだすハメになった。だが、いくら枝葉を落として幹の上部を切ってももとの高さにはもどりそうもなく、ゆうに170cmを超えそうな勢いだった。
 これらの切った枝葉は、もちろんそのままでは清掃車が回収してくれず、枝を細かく裁断してビニール袋に詰めるという根気のいる作業が待ちかまえていた。ケヤキの大樹から舞い落ちる、毎年恒例の腰痛をともなう枯れ葉の処理に加え、選定した枝葉の始末はせっかくの休日をつぶすとても厄介な仕事となった。当時は土日・祝日の出勤もあたりまえだったので、貴重な休日はゆっくりと寝ていたかったのだ。
 一度勢いがつくと、樹木の成長はものすごい。遅く起きたとある休日、2階のベランダからなにかが揺れているのに気づき、「なんだろう、野鳥かな?」と凝視したら、ウメやヒノキの先端がすでに2階まで到達しようとしていたのだ。大急ぎでノコギリを手にして、枝葉を落としにいったが、もはやわたしの手には負えかねないほど、木々たちは「これでもか!」と幹や枝を太くして反抗的になっていた。特にクロモチの幹や枝は堅くしまり、樹木の素人には扱えないような幹まわりになっていた。
 以前にも増して、枝葉を細かく裁断し清掃車がもっていってくれるよう、ビニール袋へ詰める作業の負荷が急増し、ほとんど1日仕事になってしまった。特にウメの枝葉の増え方は尋常でなく、ゴミ袋の大半がウメの木の枝葉だった。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と地元では昔からいうが、それを身体で実感する経験だった。ウメはかたちを整えようとすれば、それこそ毎日切ってもいい樹木だ。
 先年に亡くなった隣家のおじいちゃんは、庭に植えられた数種のツツジやカエデなどの木々を、雨天の日以外ほぼ毎日、庭や道路に出てはていねいにハサミで剪定していた。日々多忙だったわたしは、ご隠居風にのんびり日々を送れる隣りのおじいちゃんを非常にうらやましく感じたものだが、そんなに毎日神経質に剪定しなくてもいいのに、切りすぎて樹木がかわいそうじゃん……などとも思っていた。
 ある日、おじいちゃんはカエデの上部の枝を高切りバサミで剪定中、誤ってうちの光ファイバーケーブルを切断した。家にあるLANハブやWiFiルータ、情報デバイスなどが一瞬のうちにすべてブラックアウトしてしまった。こういう事故も起きる可能性があるから、神経質に樹木を毎日チョキチョキすることないじゃん!……と思ったのだが、これは隣りのおじいちゃんが正しく、わたしの認識が大まちがいだったのだ。樹木は、できるだけ毎日手をかけないと野放図に育ち、季節にもよるが数週間ほど放っておけば予想だにしない成長をとげている。そうなってからでは、とてもお年寄りの手には負えないのだ。わたしが伸び切った木の枝を払っていると、おじいちゃんは道路に出てきては呆れたように眺めていた。
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 そんな樹木の強い生命力を知ってか知らずか、第二文化村Click!の下落合(4丁目)1665番地で暮らした安倍能成Click!は、庭を武蔵野Click!の雑木林にしようとしている。1936年(昭和11)8月10日に書かれた随筆、安倍能成『下落合より(一)』から引用してみよう。
  
 (前略)家の者をみんな山へ送り出した後は、自分の家が実に広くのびやかで、その気持だけは暑くるしさの反対である。ここへ移つた時には青桐が二本の外に木といふ木は殆どなく、近所で安物の苗を買つて来たり、人から貰つたりして、木と名のつくものなら何でも植ゑて置いた。その後欅の木を三本植ゑて三欅書屋と名づけて見たり、大きな梅を植ゑたりしたので、狭い構内には均整と調和の美しさもなく雑木が枝を交へて、居間の中にも小暗くその緑がさす程になつたが、お蔭で大抵な暑い日にも涼風が常に座辺を訪れてくれる。午食の後など裸になつて、ポーチで汗をこの風に吹かせつゝ、ラヂオの第二放送のレコードを聞いて居ると、時にはその音楽が非常に食後の気分と合つて愉快なこともある。
  
 安倍能成Click!が裸のままポーチでくつろぐほど、庭には鬱蒼とした屋敷林が形成されていたようだが、手入れはどうしていたのだろうか。おそらく、これだけの樹木を管理するのはたいへんで、1年に一度は植木屋を入れていたのではないかと思われるが、そのことについてはなにも触れていない。もっとも、邪魔な枝だけを払って落ち葉とともに庭の隅にでも積んでおけば、ころあいを見はからって焚き火ができた時代だ。現在は、低温燃焼によるダイオキシンなどの発生が懸念されているので、焚き火は条例で禁止されている。
 特にケヤキは、四方に枝を伸ばすので手入れがたいへんだろう。目白文化村は、電燈線・電力線Click!ともに地下の共同溝Click!へ埋設していたので電柱はなかったが、電話線をわたした白木の電信柱Click!は建っていた。道路側のケヤキの枝が電話線にひっかからないよう、定期的な手入れが必要だったのではないか。また、ケヤキの根は四方へ太く張りだすので、あまりに育ちすぎると根が家を持ちあげかねないともいわれている。
 もちろん、毎年花が咲いては種子を周囲に散らすので、あとからあとからケヤキの幼木が生えてくる。それを見つけしだい抜いておかないと、ケヤキは深く根を張るので排除することがむずかしくなり、ノコギリで伐らなければならない。しかも根が残っていると、あとからあとから際限なく新芽が伸びてくるというイタチごっこになってしまう。会津八一Click!「秋艸堂」Click!のように、自宅を「三欅書屋」と名づけているが、長つづきしなかったところをみると、野放図で“暴れん坊”のケヤキに懲りたのではないだろうか。
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 文中に「家の者をみんな山へ送り出した」とあるが、家族を別荘にでもやってしまったあと、夏の静かな文化村の風情が伝わってくる。戦前、このあたりに住んでいた人たちは、夏になると避暑に出かけてしまうのが恒例で、人がかなり少なくなる時期だった。ドロボーにとっては、そんな家々をねらう稼ぎどきだったわけだが、被害が多発するにつれ留守番を置いておく家も増えていった。安倍家では、安倍能成自身が留守番を買ってでたようで、家事をしている様子も書かれている。
 中でも気に入ったのが風呂の焚きつけで、自由に火を操れて炎を見つめることは「気分の転換」を容易に実現できると書いている。また、火を燃やすのと同じように、いつでも水を湧きださせることができたらもっと愉快だろうと書き、火と水は人間生活の必需品であって、「それを見ることが何か人間の生活感情を充すといふ理由」があるのではないかと、哲学者らしく瞳に炎を映しながら想像の羽を思いっきりふくらませていく。
 やがて、夕飯を食べて風呂にも入り、食後に蚊取り線香を焚いたポーチから団扇片手にゆったりと雑木林の庭を眺めたのだろう。樹木は気温を下げるので夜も涼風が吹いていたのかもしれない。『下落合より(一)』は、こんな文章で締めくくられている。
  
 夜になると此間中の月光で家のぐるりが蒼くなる。その中に居ると庭木の形のぎごちなさなんかも気にならず、実に静かないゝ気持になる。つくづく有難くなつて来る。/近頃色々な大きな道路が出来て、自動車が家の側を通ることの少くなつたのも、有難いことの一つである。
  
 月光に蒼く沈んだ、昔日の静寂な目白文化村をぜひ眺めてみたいものだが、いまでは空中写真を見ながら想像するしかない。このエッセイが書かれた1936年(昭和11)の写真を見ると、確かに安倍邸の庭には樹木が生い繁っている。庭の木々は、1945年(昭和20)4月2日に米軍のF13Click!から撮影された爆撃直前の写真にも見てとれるので、空襲で焼けるまで庭の木々は育てられていたのだろう。戦後の焼け跡となった空中写真を見ると、庭木はすべて燃えてしまったのか1本も残っていないように見える。
 「大きな道路が出来て」と書いているが、当時は山手通りClick!もいまだ工事がはじまっておらず、十三間通り(新目白通り)Click!も計画はあったが存在しないので、1931年(昭和6)に開通した補助45号線(聖母坂Click!)や、このころに拡幅工事が進んだ目白通りClick!あるいは長崎バス通り(目白バス通り)Click!のことをさしているのではないかと思われる。
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 結局、わたしの手入れが間にあわない(というか手に負えない)せいで、植えたウメもヒノキもクロモチも惜しかったが数年で伐ってしまった。残ったのは、以前から生えていた玄関の横にあるキンモクセイの木だが、これも放っておくと3階から屋根上へ突きでるほどに伸びてしまうので監視の目をゆるめることができない。枝を切っても切っても、それ以上の枝を伸ばしてくるので、もはやわたしとキンモクセイの意地の張りあいになっている。

◆写真上:手入れをせず放っておくと、あっという間に武蔵野Click!の雑木林が出現する。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合(4丁目)1665番地の安倍能成邸。は、エッセイが書かれたのと同じ年の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる庭木の繁った安倍邸。は、安倍能成邸跡の現状。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる安倍能成邸。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された庭木の様子がわかる安倍邸。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲(4月13日)直前の安倍邸。
◆写真下は、第二文化村に残る電線・水道管・下水管などを収納した共同溝の痕跡。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空襲後の安倍邸跡。焦土の邸跡には、書庫の防火用に構築されたコンクリート壁が残っているが繁っていた庭木は跡形もない。は、安倍能成が文化村の敷地を購入したときから箱根土地Click!により庭木として植えられていたとみられるアオギリの木(中村彝アトリエClick!/上)と下落合の雑木林(下)。

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