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刀は「武士の魂」という精神論の危うさ。 [気になるエトセトラ]

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 江戸後期から幕末にかけ、大刀と脇指Click!をたばさんでいる武士は、その依りどころとしての二本指しそのものを「武士の魂」だとする表現が流行した。たとえば、享和(1800年初頭)のはじめ、桃井庵和笛が編集したとされる川柳集『排風柳多留拾遺』には、「たましひが研屋の見世にならんでゐ」たとあり、明らかに研ぎあがった刀が研磨師の店先に並べられていた様子がわかる。また、幕末になると事実、「御魂研處」(おんたましいとぎどころ)という看板をかかげた研ぎ師の店が多くなった様子が伝えられている。
 ただし、ひと口に「武士」といっても、その主体性は時代によって多種多様で、鎌倉時代や室町期の武士が刀剣類を「魂」だととらえていたとは、どこにも記録がないし到底そうは思えない。また刀剣は、戦をするための武器であり“道具”であり、利器であることにこしたことはなかっただろうが、その用の美をめでる武士たちは確実にいたとしても、「魂」が宿る自分たちの精神的な支柱であり、アイデンティティだというような考え方はなかっただろう。それが表れてくるのは、二本指しの武士という身分が特権化して固定化し、明確に階級観が形成されたあとの時代のことだ。
 もうひとつ、面白い事実がある。明治以降は別にして、江戸時代の早期に書かれた記録の中で刀が「武士の魂」だという表現が出てくるのは、武家が書いた書物ではなく大坂(大阪)の菓子屋のせがれが書いた、つまり町人が浄瑠璃用に書いたシナリオの一節なのだ。しかも、「武」の中心地だった江戸ではなく、幕末まで「商」の町だといわれつづけた大坂が出どころである点にも留意したい。つまり、事件から46年後に、江戸の現場に一度もやってきたことがなく取材したこともない竹田出雲Click!(2代目)によって書かれた、『仮名手本忠臣蔵』Click!のシナリオと同じような現象を、そこに見いだすことができそうだ。
 1717年(享保2)に紀海音によって書かれた『傾城国性爺』には、「両腰は武士たる者の魂ぞ、魂なければ約束を、違へぬといふ相手も無し、男を止れば主従の、ちなみも今は切果し」という語りの一節が出てくる。だが、「両腰」(大刀と脇指の刀剣)が武士の「魂」という表現は、すでに巷間でそのようないわれ方がしていたのを紀海音が採取したのか、それとも紀海音自身が思いついたワードなのかは不明だ。もし前者であれば、かんじんの「武」の中心地である江戸で、少なくとも1717年(享保2)以前からそのような表現の記録がどこかに残っていそうなものだが、残念ながら見あたらない。江戸でも、刀が「武士の魂」だといわれ出すのは、大坂でこの浄瑠璃が書かれてからかなりあとのことで、先にご紹介した『排風柳多留拾遺』はおよそ90年ものちの時代だ。
 大坂で書かれた『仮名手本忠臣蔵』は、そのほとんどがまったくの虚構であり、江戸の現場で記録された、あるいは実際の事件ののち地元で伝承されてきたエピソードとは、まるで異なるのは拙記事でも何度か取りあげているが、江戸も後期になると大坂の「忠臣蔵」があたかも事実であったかのような受け止められ方をされていく。それは、封建社会を支えた儒教思想の拡がり(江戸東京地方の城下町ではほぼ根づかなかったわけだが)とともに、ひとつの“教材”=「武士の鑑」としての役割を付与されていくからだが、『傾城国性爺』の語りだけはそうではない……とは、決していい切れない微妙な側面があるのだ。
 そもそも、なぜ武家が少ない大坂で、この表現が用いられているのか。事件から50年近くたってから、つまり当時を知る人々がほぼ物故し死に絶えてから上演された、竹田出雲『仮名手本忠臣蔵』の舞台がヒットして江戸の芝居小屋でも流行ったように、刀は「武士の魂」という『傾城国性爺』のワードが、流行語として江戸にも定着しだした可能性を完全には否定できない。もちろん、武家たちも芝居や浄瑠璃はこぞって観に出かけていたし、そのセリフの中に「両腰は武士たる者の魂ぞ」というような表現があれば、「なるほど」と腑に落ちるような感触をおぼえたのかもしれない。
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 ただし、「魂」の規定が非常に曖昧なため、大小の刀を腰に指しているのは武士としての特権であり、「農工商」とは明らかに異なるという自身の階級意識や、アイデンティティ確認(形成)のための表現としてとらえた者もいれば、刀は抜かず血を見ずして勝利を収めるのが「武士の魂」の本義だ……などというような、どこか哲学あるいは兵法・軍略めいた考えをもつ者もいただろう。江戸後期には、「武士の魂」という言葉をつかうとき、おのおの武家たちはさまざまな解釈をしていただろうし、“ひとり歩き”した言葉のつかわれ方もまた、多種多様だったのではなかろうか。
 それが、まるで「武士道」の奥義のように語られ、がぜん思想的あるいは哲学的な意味を付加されはじめるのは、1902年(明治35)の死後に刊行された山岡鉄舟『武士道』に象徴される、武士がいなくなったおもに明治以降になってからのことだ。中でも、1900年(明治33)に新渡戸稲造Click!が欧米人向けに英語で書いた『BUSHIDO The Soul of Japan』(日本語訳は『武士道』)は、国内外に大きな影響を与えただろう。新渡戸稲造は、日本人の国民性に見られる多様で複雑な精神的風土や土壌を欧米人にわかりやすく書こうとして、あえて「刀・侍(武士)の魂」論(第13章)を抽出し一般化しているように思えるが、同書に目を通した武士の家系(士族)の中には、後追いの結果論的に「はて、そういうことか」と納得した人たちも少なからずいたのではないだろうか。
 あるいは、同書には(和訳によっても大きく左右されるが)曖昧な表現が多く、「結局、武士道ってなに?」「武士の魂ってなによ?」と、よけいにわけがわからなくなった当時の日本人たちもいたにちがいない。同書は、欧米人に対して「日本人」の思考回路や思想の“とある側面”を、論理的なアタマの外国人でも比較的容易に理解できるよう単純化や類型化を試みて、しかも英文で表現していることから(日本人が読むことを前提としていない点にも留意したい)、日本人が読むと「??」の箇所も少なくない。ちょうど、外国人が書いた「日本人論」のあちこちに、「そういう側面もあるかもね、オレはちがうけど」と感じるのと、同じレベルの感触をおぼえるのだ。
 換言すれば、鎌倉武士の御恩と奉公を基盤とした武者=兵(つわもの)ども(戦闘者)の思想Click!と、江戸期以降に語られるようになった二本指しの「武士道」とではまったく異なる相容れない思想だし、平和な江戸期には使わなくなった刀剣(大小)Click!に、なんらかの意味を持たせ階級的な優越の“道具”(象徴)Click!として維持しようという考えに傾くのは、ごく自然な流れのように見える。そして、階級の「農工商」と「士」との形態的な差別化のみならず、そこに武士としての矜持をもつことができる“理屈”が欲しくなるのも、また自然な流れだったのだろう。そのような思いの中へ、刀が「武士の魂」であるという表現は、各自のバラバラな解釈・規定はともかく、ストンと腑に落ちるワードだったのではないだろうか。
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 明治の後期、つまり誰も刀など指していない(武士が不在の)時代になってから、芝居や講談、小説、時代劇などで刀=「武士の魂」のセリフが、爆発的に増えていくことになる。おそらく、江戸期にも増して「武士の魂」は大流行しているように思える。
 そこかしこで謳われる刀=「武士の魂」は、なんら明確な(思想的あるいは精神的な)規定があるわけでもなく、武家が指す大刀の鞘に町娘のお尻が当たっただけで、どこか菅貫太郎に似た武家が「待てィ小娘! 武士の魂に尻を当てるとは何事ぞ! 無礼千万、そこへ直れ!」、すると杉良太郎に似た町人がどこからともなく「まあまあ、旦那、この娘もわざとじゃねえんで」、「うるさい、すっこんでろ、町人風情が横から口を出すでない!」、「まあ、旦那、そう慳貪にお怒りにならず、ここは天下の両国広小路でやすから」、「黙りおろう、たかが魚屋の分際で!」、「……やいやいやいっ! 下手に出てりゃいい気んなりゃがって。二本指しが怖くて河岸(かし)の棒手振(ぼてふり)やってられるかてんだ。なんでえ、間抜けなのはてめえの面(つら)のほうさ、どっち向いて歩きゃがる、この田舎侍(ざむれえ)が!」「ぶぶ、無礼者!」……とかなんとか、わけのわからない「武士の魂」がもとで、ケンカがおっばじまったりするから時代劇は厄介なのだ。
 2007年(平成19)に文藝春秋から出版された、東京国立博物館の工芸課長だった小笠原信夫の『日本刀―日本の美と技と魂―』から引用してみよう。
  
 (武家が)自分の屋敷を博奕場に貸す者や、放蕩無頼の者などが横行したのも幕末である。それゆえ、声高に刀剣を差すことの出来る特権意識を主張した者もいたであろう。ひとくちに「武士の魂」と言っても、各時代の社会的背景から成り立った、それぞれ異なる性格の意味合いで武士が存在した。ことさらに武士を強調したのは元和偃武(げんなえんぶ)以来のことである。また実際には完全に武士とはいえない足軽、郷士などの人々が武士と刀剣に憧れたと考えられるし、むしろ、明治以降の徴兵制から軍国主義の時代に、農民、庶民といわれた人々が旧時代の武士と同様の軍人となったことを誇るため、ことさら「武士の魂」と強調した言葉ではなかったかとも思える。/ともあれ、日本刀は単なる戦さの道具ではなく、ひとかどの人間であることの象徴として平時にももつ習慣が長く続いた。江戸時代に至って大小を差すことが許されるのは武士に限られたのだが、武士以外でも脇差を差すという歴史をもっている。(カッコ内引用者註)
  
 著者の書くとおり、大小を指した人間が「武士」だと、広く認知されるのは江戸時代以降のことで、それまでは戦があれば農民までもが動員され、刀や鎗をもって戦場におもむかねばならない時代だった。現代でさえ、古い大農家の蔵から刀や鎗、鉄砲(江戸期には許可制)が見つかることはめずらしくないし、江戸期には絵師だったとみられるわたしの母方の祖父の家にさえ、伝来した刀剣や鎗がゴロゴロしていた。
 武士=職業軍人の規定が確立するのは、厳密にいえば江戸期以降のことであり、「武士道」も「武士の魂」も「武士の鑑」もこの数百年のうちに形成された、感情であり志向であり理想であり、ときに価値観や思想であるにすぎない。
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 だから、たとえば新渡戸稲造の著作のような「日本人論」を読むと、えもいわれぬ違和感をおぼえるのは、「日本人」全体にはとても敷衍化・一般化できない、狭隘な一部の階級的意識であり価値観であり思想であり、またある意味では感情だからだろう。そこには、規定や意味がとてつもなく曖昧なまま投げ出されたコトバを不用意に用いるがゆえに生じる、実際の「日本人」の意識との乖離感ないしは遊離感をともなうからにちがいない。

◆写真上:ときどき刀剣室をのぞきに出かける、上野の東京国立博物館本館(右手)。
◆写真中上:江戸期に描かれた「職人絵尽」にみる、研ぎ師=「御魂研處」の作業場。
◆写真中下は、現代の研ぎ師の作業場。中左は、現在ではほとんど上演機会がない『傾城国性爺』のシナリオが収録された博文館版『紀海音浄瑠璃集』(1899年)。中右は、米国で出版された『BUSHIDO The Soul of Japan』(Leeds & Biddle,Philadelphia/1900年)。は、『傾城国性爺』で「両腰は武士たる者の魂ぞ」が登場する一節。
◆写真下は、1943年(昭和18)にカラー写真で撮影された典型的な「傾城」の首(かしら)。大阪・文楽座収蔵の首だが、戦災で焼けてしまったかもしれない。は、同じ「国性爺(国姓爺)」ものでも近松門左衛門の作をテーマにした国周の浮世絵『国姓爺合戦』(1872年)。は、現在の文楽座がある1953年(昭和28)に撮影された道頓堀の芝居小屋。

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