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三・一五事件に猛反発する石橋湛山。 [気になる下落合]

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 第二文化村Click!の下落合4丁目1712番地に住み、戦後、短期間だが病体を押して首相をつとめている石橋湛山Click!は、1928年(昭和3)3月に共産党系の活動家をはじめ、政府の政策に異議を唱える言論人や芸術家などがいっせいに逮捕された三・一五事件Click!へ、猛烈に反発する社説を東洋経済新報に書いている。
 彼の論旨(思想)は明快であり、資本主義革命で成立した経済基盤の上部構造を構成する政治思想(民主主義・自由主義思想)においては、思想や結社の自由を担保するのは基本中の基本であり、そこで提起される矛盾や課題をできるだけ解消・解決することによって社会は健全かつ着実に進歩・進化していくのであるから、それに反する政策はひいては社会基盤そのものを否定・破壊することにつながり、現代社会に真っ向から挑戦する愚挙だと断じた。石橋湛山は、思想や言論を弾圧することが、社会の進歩や進化を停滞・停止させることであり、「自分で自分の首を絞める」自殺行為であるのを、資本主義革命思想とそれにともなう階級観をベースとして弁証法的にとらえ理解していたのだ。
 もちろん、彼の頭の中には中国の山東出兵に象徴的な、田中義一内閣の言論弾圧と軍国主義への道をひたすら歩む、いずれ「亡国」状況を招きかねない愚挙も強く意識されていただろう。換言すれば、三・一五事件は中国侵略への批判をかわそうとする世論操作や言論統制の一環と、彼の政治的視界にはとらえていたかもしれない。
 なぜなら、三・一五事件は「共産党弾圧事件」として語られることが多いが、同事件の検挙者1,600人のうち共産党員の占める割合は3分の1から4分の1にすぎず、残りの人々はそのシンパないしは田中内閣の山東出兵に反対を唱えていた人物たちだったからだ。
 1928年(昭和3)4月28日に発行された、東洋経済新報の社説から引用してみよう。
  
 古来新思想の勃興を権力をもって圧迫してこれを滅し得た例は絶えてない。/これはいやしくも歴史をひもとく者の等しく認めねばならぬ昭乎たる事実だ。あえてブルノー(・ワルター)や、ガリレオの古に返るに及ばない。手近い所が、明治維新を導いた思想の流れはどうであったか。当時の支配者徳川幕府にとってこれほどの危険思想はなく、どうにかしてこれを亡ぼしたいと随分久しくかつ激烈な圧迫を加えた。中にも安政戊午の大獄のごとき罪に坐する者百名を越え、梅沢源次郎、頼三樹三郎のごとき新進学徒が片端から死に処せられた。が思想はついに権力をもっていかんともすることはできず、明治維新の革命は成し遂げられた。/歴史を静観すると、何が今日において愚なる事かというて、勃興せんとするある思想を権力をもって抑圧し撲滅せんとするほど愚極まった事はない。それは第一に出来ない事である。(カッコ内引用者註)
  
 「ブルノー」は、のちにナチスが政権を握ると米国に亡命せざるをえなくなった、ユダヤ系ドイツ人のウィーンpo指揮者・ブルーノ・ワルターClick!のことだ。
 石橋湛山は、明治維新を「革命」としているが、天皇親政・鎖国回帰を唱える「尊王攘夷」のアナクロニスト(時代錯誤者)たちが起こした動乱(政治体制の進歩をめざした変革ではなく政治的後退をめざした復古思想)であり、倒幕ののちに成立した薩長政府が、結果論的なご都合主義で「攘夷」思想から180度の方向転換して欧米諸国との開国交流を推進し、下からの自由民権運動に突きあげられて議会制を採用することで「資本主義革命」と「近代化」をあと追いで装っている……というような、今日的な史的解釈はいまだなされてはいない。
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 それはともかく、特高警察Click!の三・一五事件に関する報道規制へメディアがやすやすと従い、各紙とも内務省と特高におもねるような記事を掲載する中で、特高の弾圧は「愚極まった」ことと断罪する同紙主幹・石橋湛山の社説はまったく異質な存在として、今日まで語り継がれている。また、日中戦争がはじまると東洋経済新報の論説欄を、反戦をとなえる論客に匿名で提供し、侵略戦争に反対する論旨を繰り返し展開した。これにより、以降、石橋湛山は特高から常に目をつけられ、配給制が導入されると内務省はさっそく東洋経済新報社への用紙やインクの配給妨害を繰り返している。
 この現象は、決して時代遅れな昔話ではない。つい先年、前政権でも免許取り消しを口にしてTV局を脅迫した愚劣な政治家がいたし、NHKでは政府の意向を代弁した経営委員が、放送法で保障された「番組表現の自由」など存在しないかのように、同局のドキュメンタリー番組へあからさまな圧力干渉を行なっている。海外では、香港やミャンマーの徹底した言論弾圧や、多様な思想の圧殺が記憶に新しい。また、政府に情報公開を迫れば、スミ塗りだらけの資料を提示するなども、言論統制に直結する事例だろう。
 政治や社会の矛盾解消あるいは課題解決へのヒントを内包する、現状でのメジャーな思想とは異なる思想や言論を圧殺することは、封建主義にせよ資本主義、社会主義、共産主義にせよ、それがいかなる体制であろうが社会の進歩やアップデイト→リニューアルを阻み、発展を大きく遅らせて停滞させ、ときに国家を自ら滅ぼしかねないことを、石橋湛山は古今東西の豊富な政治経済史に学んで知悉していた。
 もしヨーロッパ諸国が、社会主義や共産主義の思想を徹底して排除・圧殺していたら、当然ながら資本主義の延命をはかる英国のケインズ『一般理論』Click!(近代経済学=修正資本主義)も、国家がつかさどる数々の社会福祉政策Click!や福祉組織の発想も、また今日の国連が唱えるSDGs(持続可能な開発目標)の視座も生まれなかっただろう。
 三・一五事件について、石橋湛山の社説からつづけて引用してみよう。
  
 第二にそれはいたずらに無益の争乱を起こすものである。/再び明治維新前の我が国の状態を顧みるに、もしも当時の幕府および反幕府派の人々が、もう少し聡明であったなら、あんな馬鹿馬鹿しい動乱は起こさずとも、明治維新は出来たであろう。いや、もっと立派な、手際いい維新が成し遂げられたであろう。幕府側もあの争乱のためには、受けでもよい余計な大きい打撃を蒙った。反幕府派も、あの争乱のためには、流さでも好い余計な分量の血を流した。/記者のここに強く主張せんと欲するのは、ただ次の一点だ。世人はどういうわけか、共産主義と聞きさえすれば、その正体の何ものかもしらずして、頭から国家を覆滅する危険思想なりと断定する。そして、いたずらにその研究討議をさえも抑圧するが、これはかえって危険なことだと。
  
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 石橋湛山が「危険なことだと」危惧したとおり、この社説からわずか17年後の1945年(昭和20)、大日本帝国は戦争の果てに破産して滅ぶことになる。
 戦後すぐのころ、東久邇宮内閣の内相だった山崎巌は、米軍(CIC?)のインタビューに「天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」(朝日新聞1945年10月5日)と答えている。今日の中学生レベルの知識があれば誰でも知っている、資本主義革命を担った政治思想(民主主義など)の最優先課題が「王政打倒・封建制打倒」なのさえ知らないお粗末な人物が内相をつとめていたのに呆れるが、この発言が発端で東久邇宮内閣は総辞職に追いこまれている。山崎の「思想」によれば、王政を打倒して、あるいは市民が王政を追いつめ譲歩させて資本主義ベースの議会制民主主義を勝ちとり、共和制へと移行したヨーロッパ諸国はすべて「共産主義」国になるのだろう。
 東洋経済新報社は、今日の日本経済新聞社と同様に「経済」が中心の誌面づくりをしているが、政治に関しては石橋を中心に資本主義を支える基盤思想である、民主主義や自由主義の視座からおよそ後退しなかったことは、現在のメディアが「記者クラブ」制度や「自主規制」などで、自ら表現・報道の自由を狭め、なかば放棄しているような自滅行為を見聞きするにつけて、今日もっと評価されてもいいような気がする。
 もうひとり、三・一五事件の弾圧を痛烈に批判した人物がいる。横浜貿易新報(のちの神奈川新聞)に社会評論を連載していた歌人・与謝野晶子Click!だ。1928年(昭和3)4月29日の同紙に掲載された、与謝野晶子「国難と政争」から、その一部を引用してみよう。
  
 総選挙の結果を見て、俄に此事(三・一五事件)が現内閣に由つて計画されたやうに想はれる。わざわざ罪人を作るために検挙の範囲が拡大されたのでは無いか。(中略) 鈴木(喜三郎)内相は思想取締りの最上の施政として、まあ此上に警察政治を増大し、特高課のスパイを全国に張るため、三百萬の追加予算を要求する相である。思想が警察権で左右されるものなら、学者も芸術家も社会改良家も要らない、まことに結構な国柄と云ふべきである。(カッコ内引用者註)
  
 「総選挙」と書いているのは、同年2月20日に行われた第16回衆議院議員総選挙のことで、別名「第1回普通選挙」とも呼ばれている。この選挙で、労働農民党をはじめ、日本労農党、社会民衆党、日本農民党など「無産政党」から8名もの当選者を出したことが、政府当局に大きな衝撃を与えたことは想像にかたくない。
 彼女がいう「まことに結構な国柄」の大日本帝国は、まったく結構ではない軍国主義を招来し、膨大な犠牲者をともないながら無謀な戦争の果て1945年(昭和20)に自滅した。
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 論理で説き伏せられない思想や世界観、言論で説得できない理論とそれを体現する人物は、徹底した暴力で圧殺し排除する。それが、特高警察を生みだした大日本帝国に通底する文字どおり「亡国」思想であり、現代の中国やミャンマー軍政を貫徹する政治的な意志だ。「反面教師(反面教員)」とは、中国の文化大革命Click!で登場した毛沢東の造語だが、まさに反面教師にしたい出来事が、このところ国内外で立てつづけに起きている。

◆写真上:下落合の第二文化村にある、石橋湛山邸の玄関とファサード。
◆写真中上上左は、東洋経済新報の主幹時代に撮影された石橋湛山。上右は、山東出兵を強行した陸軍出身の田中義一。は、三・一五事件で裁判所へ起訴連行される検挙者たち、は、特高の発表をそのまま掲載した1928年(昭和3)4月11日の東京朝日新聞夕刊。
◆写真中下上左は、三・一五事件の当時は警視庁特高課長だった纐纈彌三の、めずらしく弾圧した側からの軌跡をたどった纐纈厚『戦争と弾圧』(新日本出版社/2020年)。上右は、1928年(昭和3)発行の「戦旗」12月号に掲載された三・一五事件を描く小林多喜二『一九二八年三月十五日(原題:一九二八・三・十五)』。下左は、戦後は首相になった石橋湛山。下右は、横浜貿易新報で三・一五事件を痛烈に批判した与謝野晶子。
◆写真下は、三・一五事件を報じる1928年(昭和3)4月11日の横浜貿易新報。は、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)にある石橋湛山邸。は、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」にみる目白文化村の石橋湛山邸。

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