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東京郊外の文化住宅街のトイレ事情。 [気になる下落合]

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 大正後期から昭和初期にかけ、住宅街が急速に形成された東京郊外では下水道の敷設がまったく間にあわず、河川への垂れ流しか「汲取り屋」と呼ばれる業者がトイレの汚物を回収していた。東京の市街地では下水道が敷かれ、水洗便所が早くから普及していたが、郊外地域の住宅地では汲取り便所がほとんどだった。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)では、「少かに補助費を支出して一般下水施設の普及を促してゐるに過ぎない」と、ほとんど下水設備の建設には取り組んでいないことを正直に記述している。また、東隣りの高田町では1931年(昭和6)に失業者対策の一環として、下水道築造のための町債を発行しており、落合町よりは同事業が進捗している。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)によれば、39万2,800円の予算がついたが河川沿いの下水道工事のさなかに東京35区制Click!を迎え、東京市の事業として引き継がれている。
 1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』Click!(高田町役場)には、高田町を4つの区画に分けた「下水道計画延長概数表」が掲載されており、合計で約3万2,063間(約5万8,354m)の下水道が敷設予定だったが、もちろん計画段階の数値であって実際の工事には着手していない。また、落合地域の南隣りにある戸塚町では、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)に「下水側溝を浚渫し、汚泥の搬出を励行するところあり」とあるだけで、計画的な下水道事業は記載されていない。さらに、1930年(昭和5)に出版された『長崎町政概要』Click!(長崎町役場)には、上水道(荒玉水道Click!)の記載はあるが下水道の項目自体が存在しない。
 このように、近辺の郊外住宅地では生活排水を河川へ流す下水溝はあっても、トイレの汚物を流し浄化する仕組みがないため、ほとんどの家々が臭突(臭い抜き)Click!を備えた汲取り式のトイレだった。中には、住宅敷地の広めな庭を活用して自前で浄化槽設備を設置し、最新式の水洗トイレを導入した目白文化村Click!梶野邸Click!のようなケースもあったが、このような住宅は例外だった。
 郊外の家々では、必ず汲取り業者か近郊農家と契約しており、汲取り業者の場合は賃金を払って便槽を掃除してもらい、農家の場合は肥料として汲取るので畑でできた作物などを、契約宅へ配っている。また、汲取り業者の場合も汚物は農家への肥料として販売するので、家庭と農家とで二重の商売が成り立っていた。前述した水洗トイレの梶野家でも、結局、浄化槽にたまった汚物を回収するのは汲取り業者だった。
 この汚物汲取りの詳細なデータが、東隣りの高田町に残っている。1925年(大正14)に自由学園Click!の学生たちが実施した大規模な社会調査『我が住む町』Click!(自由学園)だ。その統計を見ると、調査対象となった高田町の全戸(7,076戸)のうち、汲取り業者に依頼し便槽の清掃をしてもらっている家庭が6,553戸で92.61%、「自家其他にて処理するもの」の家庭が252戸で3.56%、処理が「不明」な家庭は271戸で3.83%となっている。おそらく、この比率は当時の落合町とたいして変わらない状況だったろう。
 調査の中で、「自家其他にて処理するもの」とされる家庭が、知りあいの農家と直接契約して汲取りを委任している家庭か、あるいは自身の畑に肥料としてまいている農家か、さらに借家の場合は家主が代表して汲取りを業者に委任するか、自身の畑で肥料として使用しているケースだ。自由学園の学生や生徒は、その割合まで綿密に調査しており、全252戸のうち「自家」で処理する家庭は107戸で42.46%、家主が処理するのが122戸で48.40%、知りあいの農家などと契約しているのが23戸で9.14%となっている。
 また、「不明」とされている家庭は、そこらに穴を掘って汚物を埋めてしまったり、河川へ適当にまき散らしている家庭なども含まれるのだろう。実際に調査中、汚物を河川へ流している家庭を自由学園の生徒たちが目撃している。また、調査には非協力的で回答を拒否した家や、住民がいつも不在で取材できなかった家庭も「不明」に含まれる。
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 当時の汲取り業者の料金は、行政指導や業者間の取り決めなどない時代なので、依頼する業者によってバラバラだった。ひとり住まいなら安く、5人家族なら高いというような合理的な料金体系ではなかった様子がうかがえる。おそらく、各家庭では業者のいい値で料金を支払っていたのだろう。汚物処理の料金について、『我が住む町』の「人員別汚物汲取料金表について」から引用してみよう。
  
 家族の人数の多い家が料金も多く支払つて居ると考へられるけれど、一概にさうとばかりもいかない。本来ならば、家族人数とか、汚物の量とかの多少によつて料金も支払はるべきものと思はれるが、それに準じてゐないのがかなりある。三、四人家族で五〇銭から七〇銭までの料金を支払つてゐる家が最も多く、四人家族一千二百九十一戸の内七百六十七戸まで前記料金を支払ひ、三人家族の一千二百二十二戸の内六百七十五戸まではやはり前期料金を支払つてゐる。かなり人数の多い家で安い料金を支払つてゐる家もあつたが家族二十人以上の家は下宿屋又は寄宿寮等特殊のものである。
  
 調査では、10人家族で1回につき7円もの高額な汲取り料金を払っている家庭や、3人家族なのに10円/回の法外な料金を支払っている家庭があることも判明している。高田町の調査件数(分母)は、前述のように汲取り業者に依頼している6,553戸であり、汲取り業者への総支払い金額は3,218円49銭/回(ただし上記の特殊な契約の2戸を除く)で、1戸あたりの平均汲取り料金は50銭6厘強となっている。
 以下、自由学園の学生たちがまとめた汲取り料金表を引用しよう。ただし、1戸あたりの平均料金が「-」となっている世帯は寮や下宿、アパートの事例だろう。
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 汲取り業者によって、料金が各戸ごとにバラバラだった様子がわかる。今日では、奇異に感じる「10人家族」や「20人家族」だが、親兄弟や場合によっては親戚がいっしょに住み、当時は子どもが5~6人いてもなんら不思議ではない時代だし、裕福な家庭で女中が2~3人いればすぐに家族数が10人は超えてしまっただろう。
 また、汲取り回数は1ヶ月に2回の家庭がもっとも多く3,391戸にのぼり、月に3回が2,291戸、月に15回と23回という汲取りの多い家が各1戸あったが、これは旅館業の家だった。また、自宅で工場を経営している家は95軒あり、汲取り料金が30~50銭が11工場、60銭から1円未満が10工場、1円~2円未満が26工場、2円から10円が27工場、農家などと契約して無料が16工場、自社で処理しているのが2工場、不明(回答拒否)が3工場だった。
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 また、高田町内にある学校の汲取り料金も調べており、町内11校のうち8校で汲取り料金が発生し、総料金が266円20銭なので1校当たりの平均は33円18銭、農家との契約だったのか無料が1校、不明が1校(おそらく取材拒否の学習院)、セブティングタンク(腐敗槽)を設置して有機肥料を生成しているのが1校(おそらく自由学園)という内訳だった。
 当時、東京郊外のトイレ事情について、安倍能成Click!はこんなことを書いている。1937年(昭和12)4月に書かれた、随筆『下落合より(二)』から引用してみよう。
  
 日本人は昔から「きれい好き」だといはれる。日本人の特性を挙げる人は誰しも「清潔を愛する」といふ一項目を忘れない。併しある漢学者の友人の話によると、十数年前に中華民国の女学生が日本へ修学旅行に来た時の紀行文に、日本人は清潔を愛するといふけれどもそんなことはない、人を訪問して玄関に立つ時に先ず香つて来るのは糞尿の臭気だ、といふやうなことが書いてあつたさうだ。あちらでは糞も尿も溜めないで皆往来かどこかへ捨ててしまふから、臭気が一所に集まるといふ感じがないのであらう。中華人と日本人とどちらが「きれい好き」かはここに暫く措いて、日本人が「はばかり」へ行つた後丹念に手を洗ふ癖に、かうした「はばかり」の臭気に堪へて居るのも、一つの矛盾だとはいへるであらう。だから一口に「清潔を愛する」といつても、その愛しかたに色々あることを悟つても差支ないであらう。
  
 確かに、昔から汲取り便所の臭気を少しでも消すために、煙突ならぬ「臭突」が発明されたり、多種多様な防臭剤や芳香剤が開発されてきた。それらは、家内に糞尿を溜めていたため必要になるわけで、どこかへ流すか捨ててしまえば不要なわけだ。
 ただし、そうすると今度は公衆衛生の課題が起きてくる。江戸時代の初期、江戸の街では水洗便所が普及していた。商家や武家屋敷を問わず、便所の下には水が常に流れる水路を設置し、そこで用を済ませていた。水路は近くのドブや河川に通じており、文字どおり水洗で糞尿の自動処理ができていたわけだ。
 ところが、この方式だと河川や水路を汚染し病気が蔓延する怖れがあるというので、幕府は水洗便所を禁止した。これにより、近郊農家の肥料ニーズと江戸の公衆衛生政策の利害が一致し、江戸の街中は農家と契約した汲取り式の「はばかり」が普及していく。徳川幕府による江戸の街は、一度は水洗トイレが普及したが途中で汲取りトイレに転換し、明治以降に下水道が整備されると再び水洗トイレが普及していくことになる。
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 オシャレな西洋館が建ち並んだ落合地域だが、トイレが水洗式ではなく汲取り式のままの住宅がほとんどだったのだろう。佐伯祐三Click!『便所風景』Click!を描きながら、きっと臭い思いをしていたにちがいない。そこで、トイレの臭気を消すために、さまざまな住宅設計上の工夫や消臭装置、芳香薬剤などが次々に開発されていく。だが、それらは体臭を消すためにふりかけるコロンのようなもので、根本的な解決にはならなかった。東京の郊外住宅へ水洗トイレが普及しはじめ、臭気が段階的に消えていくのは1940年代以降のことだ。

◆写真上:現在では山間部の住宅でも、水洗トイレが当たり前のようになった。
◆写真中上は、昔日の汲取り式トイレによく設置されていた陶器製の装飾便器。は、1926年(大正15)に目白文化村で竣工した梶野龍三邸の水洗式トイレ。
◆写真中下は、現在ではほとんど見かけることがなくなった汲取りトイレには欠かせないバキュームカー。は、高田町の全戸データから汲取り便所の多彩な統計表を作成した1925年(大正14)の『我が住む町』(自由学園)の統計表。は、1926年(大正15)10月13日(水)に制作された佐伯祐三『下落合風景』Click!「風のある日」Click!で、第一文化村南側に位置する宇田川邸敷地内に建つ借家の1軒に設置されたトイレの臭突。
◆写真下は、最近は水洗トイレでも臭い抜きと換気のために設置される臭突。は、佐伯アトリエの便所で左手樹木の背後。は、現在の佐伯祐三アトリエ記念館に再現されたトイレ部。佐伯が生活していたころとは、まったく別の造りになっていると思われる。

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