SSブログ

帝展会場で見合いをする田中比左良。 [気になるエトセトラ]

丸ノ内邦楽座.jpg
 下落合の北隣り、長崎町荒井1832番地(現・目白5丁目)にあった中央美術社Click!から、1929年(昭和4)に「漫画六歌撰」と題した、おもに漫画や挿画を描いていた画家たちのシリーズ本が出版されている。選ばれている6人は田中比佐良はじめ、下川凹天、和田邦坊、細木原青起、宍戸左行、河盛久夫といった顔ぶれだ。
 そのシリーズ第1巻の配本に、田中比左良『女性美建立』というタイトルがある。構成はユーモア小説にエッセイ、漫画、レポートとさまざまなので、おそらく同社の美術誌「中央美術」Click!や当時の「主婦之友」など雑誌類に掲載された記事を集めて、1冊の単行本に仕上げているのだろう。その第1巻に登場する田中比左良という人は、漫画専門の画家(漫画家)ではなく、ときに挿画や創作版画、軸画やタブローなども仕上げているようなので、画家に片足を突っこんだまま漫画も描いていた多芸な人物なのだろう。
 『女性美建立』に掲載されているユーモア小説や漫画類は、いつかご紹介した佐々木邦Click!『文化村の喜劇』Click!や、やたら「美人」Click!を繰り返し連発する目白三平Click!の作品と同様、現在の感覚からはほとんど笑えないコンテンツばかりなのだが、その中で自身の見合いと結婚についてつづった私小説『新婚画帖』は、当時の男女の出逢いや結婚を記録した典型例として興味深い。
 当時の見合いには、よく芝居や能、新劇などの観劇が利用されるのは、あちこちで読んで知っていたけれど、田中比左良の見合いは秋の帝展からはじまっている。1926年(大正15)の秋ということなので、同年10月16日から11月20日まで上野の東京府美術館で開催された第7回帝展だろう。8ヶ月ほど前にヨーロッパからもどった佐伯祐三Click!が、ちょうど盛んに「下落合風景」シリーズClick!を描いたいたころだ。この帝展がはじまる直前、東京府美術館では第13回の二科展が開催されており、『LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)』を出品した佐伯は、同展で二科賞を受賞Click!している。
 当時、田中比左良のアトリエは滝野川区(現・北区の一部)の滝野川町にあったが、そこへ同郷(山形県)の幼馴染みで文士の友人が、見合い話をもって訪ねてくるところからはじまる。田中比左良のことを「オールドボーイ君」と呼ぶ文士も37歳で独身なら、比左良も同年齢で独身なので、ふたりはいろいろ話が合って親しかったのかもしれない。友人がもってきた見合い写真は、故郷の山形で「庄内小町」と呼ばれる20歳すぎの女性だった。「三十七の今日まで未だ一ぺんも恋らしい恋をしたことがないのを今更淋しく思つてゐ」た比左良は、写真を見たとたんに「直覚ドンと来た」衝動を感じたので見合いを承諾した。
 1926年(大正15)10月17日(日)の午後、上野で落ち合った一行は、まず帝展会場を観てまわった。そのときの様子を、1929年(昭和4)に中央美術社から出版された、田中比左良『女性美建立』所収の『新婚画帖』から引用してみよう。
  
 (前略) あたかも十月十七日といふ大祭日の吉辰、場所は上野の竹の台帝展の会場と丸之内の邦楽座とで、昼夜に掛けて念の入つた見合ひをやつたのである。帝展で落合つた久吉は、先ず娘の付添の雪子夫人にペコンと頭を下げた。そして今度は当の娘にペコンと頭を下げた。『どうぞよろしく』とか何とか言はうと思つたのが、まるで何んにも言へなかつた。予想の通り直ぐボーツとあがつてしまつた久吉は、盛装の彼女がいかにしても眩ゆかつた。胸の底に爽やかな楽の奏でが始まり出した。あたりにうようよしてゐる人間共は、ゐるかゐないか感じない。絵も見えない。娘も見えない。自分だけは確かにゐるやうだが、何が何だかもう解らない。たゞ胸の奏でのリズムに依つて動き、リズムに依つてしやべつてゐるのみだつた。
  
 「久吉」が田中比左良であり、「雪子夫人」は見合い相手「菊子」に付き添ってきた「川越夫妻」の妻=実姉だ。また、「大祭日」というのは、戦前の祝日だった10月17日の「神嘗祭」のことで、ちょうど祝日と日曜日が重なり東京はどこも混雑していた。
見合い漫画.jpg
東京府美術館.jpg
タクシーで芝居見物.jpg
 それにしても、37歳の男が20歳すぎの娘を前に、これほどあがってしまうものだろうか。当時は、ヘタをすれば親子ほども歳がちがうふたりだ。いちおう田中比左良は絵画が専門だが、展示された帝展作品などどうでもよく、ドギマギしながらも「通り一ぺんの説明」はなんとかこなしたようだ。ところが、彼女のほうは絵に興味があるらしく、ときどき立ち止まってはジッと作品に観入ることがあった。
 展示された作品の前で、田中比左良と「菊子」嬢が並んで立つと、彼女のほうが背が高く、「雪子夫人」は妹よりもさらに輪をかけて上背があったようなので、「久吉」は常にふたりの女性を下から見あげるような視線でいたらしく、「自分の背の低いこと」が「しみじみ残念だつた」と書いている。モーニングを着た彼は、このあと不忍池Click!を散歩しながら池中の弁天堂に立ち寄ってお参りをしているが、あとでこの弁財天が「やきもち焼き」で有名だったのを思いだして愕然としている。
 見合いというのは、それほど緊張して舞いあがってしまうものかと(しかも娘のように歳の離れた相手に)、一度も経験したことのないわたしは不思議に思うのだけれど、丸ノ内にあった邦楽座に円タクで着いて芝居を見物するころには、ようやく少しは馴れて落ち着いてきたらしい。邦楽座の客席では、「雪子夫人」が芝居のことをあれこれ「久吉」に訊ねるのに、彼はよどみなく答えられているようだ。田中比左良は、この次々に繰りだされる「雪子夫人」の質問を、どれだけ教養があるのかを試す「メンタルテスト」だったとしているので、歌舞伎にからめて歴史や古典文学、落語などについても訊ねたものだろうか。絵画は専門だが、つくづく演劇好きでよかったとのちに回顧している。
 舞台にかけられていたのは、時代物で頼光物の『土蜘(つちぐも)』と、落語流れの世話物で『芝浜』Click!=『芝浦革財布(しばうらのかわざいふ)』の2本だった。謡曲(能)流れの『土蜘』はともかく、『芝浦革財布』は夫婦の情愛や機微を描いた人情噺の甘い筋立てなので、見合いの舞台にはピッタリな出し物だったろう。芝居の劇場で見合いをするのは、当時としてはめずらしくなかったらしく、盛装したふたりはすぐに見合いの最中だとバレてしまい、周囲には人垣ができて好奇の目で見られてしまった。
表紙.jpg 裏表紙.jpg
函表.jpg 函裏.jpg
田中比左良夫妻1929.jpg
 あれこれ気を配りすぎてクタクタになった田中比左良は、一服しようとスキを見て邦楽座の屋上に出た。つづけて、『新婚画帖』から引用してみよう。
  
 仰ぐともう十月半ではあるが心持ち曇つた空は汗ばんだ潤みを見せ、その空をクッキリと限つて、逆の照明に照し出された邦楽座の文字が明煌々と地上の歓びを気高く謳つてゐるかに眺められた。/凝とそれを仰ぎ見詰めた久吉は、華かな照明全面にキラキラと蠢くまぶしい光粒に、身も心も溶けこみたいやうな甘美な情懐が、胸の底を罩めて来た。そして人生といふものゝ豊かさをしみじみと想つた。/彼女の可憐さも華麗な扮装も、豪勢な菊五郎の芝居も、見下す都の絢爛な夜景も、みなこれすべて、貧しい久吉一個の前に供へられた饗餐の数々であるやうに思ふと、おのづから微笑まずにゐられない。
  
 このあと、田中比左良は「菊子」嬢と「雪子夫人」の姉夫婦を帝国ホテルClick!まで送りとどけ、ブラブラ散歩しながら洋食屋で夜食を食べたあと帰宅している。
 おおよそ、この話はこれでおしまいというわけで、落ちもなにもないノロケの私小説なのだが、唯一その後に起きたエピソードといえば、不忍池の「やきもち焼き」弁天に参詣したせいか、「菊子」嬢がにわかに病気になって、縁談の進捗は6ヶ月ほど中断することになった。このあと、婚約指輪を交換したふたりは、同じ漫画家の先輩である北澤楽天Click!を媒酌人に立て、彼女の実家がある山形県へ挨拶に出かけている。
 田中比左良は画家なので、帝展会場で待ち合わせたあと芝居に出かけているが、当時の東京における見合いは、だいたい同じようなコースだったのではないか。上野の精養軒Click!で待ち合わせたあと、夕方から芝居見物に出かけたり、どこかの庭園や遊園地Click!を散歩したあと、食事やお茶をしに繁華街へ繰りだしたりと、今日のマッチングアプリのように、あらかじめ相手の詳細なプロフィールを把握できない当時としては、相手と接して情報を収集するたっぷりとした時間が必要だったのだろう。
邦楽座にて.jpg
芝浜6代目菊五郎3代目多賀之丞.jpg
田中比左良「関東大震災」1927.jpg
 田中比左良の『女性美建立』には、東京朝日新聞社の依頼で飛行機に乗り、東京から浜松までの風景をスケッチ飛行するレポートや、「漫談式漫画講座―若い女性の見方かき方―」と題する漫画の入門講座も掲載されている。拙サイトでは、下落合の北隣り長崎町大和田1983番地にあったプロレタリア美術研究所Click!で、同時期に開設されていた漫画講座Click!(講師:岩松淳=八島太郎Click!)はご紹介しているが、誌上とはいえ昭和最初期の「漫画講座」は田中比左良のコンテンツが初めてだ。機会があれば、またご紹介してみたい。

◆写真上:戦前まで丸ノ内にあった劇場で、途中から映画館に改装される邦楽座。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に出版された田中比左良『女性美建立』収録の私小説『新婚画帖』に添えられた挿画。第7回帝展で初めて顔を合わせたふたりが、深々とお辞儀をしている。は、上野公園内の東京府美術館(現・東京都美術館)。は、円タクで上野から丸ノ内まで移動する車中の「菊子」嬢(左)と「雪子夫人」。
◆写真中下は、『女性美建立』の豪華な布張りの表紙()と裏表紙()。は、同書の函表()と函裏()。いずれも、若い女性をモデルにした「漫談式漫画講座」挿入の制作例。は、1929年(昭和4)に撮影された田中比左良と「菊子」夫人。
◆写真下は、邦楽座での見合いが周囲の観客にバレてしまい人垣ができて注目を集める「菊子」嬢。は、見合い一行がまさに邦楽座で観ていた『芝浦革財布』の舞台。昭和初期の撮影で、政五郎役の6代目・尾上菊五郎(右)と女房役の3代目・尾上多賀之丞(左)。は、1927年(昭和2)に描かれた田中比左良の記憶スケッチ『関東大震災』。

読んだ!(22)  コメント(22) 
共通テーマ:地域