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佐伯祐三「森たさんのトナリ」を拝見する。 [気になる下落合]

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 先年、西銀座通りに面したShinwa Auction(株)Click!(銀座7丁目)の学芸員・佐藤様のご好意で、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!の1作、1926年(大正15) 10月10日(日)に描かれたとみられる「森たさんのトナリ」Click!をじっくり拝見することができた。東京気象台の記録によれば小雨がときどき降る曇りがちな日曜日で、少し風があるのか低い灰色の雨雲が足早に移動しているらしい、画面の空模様とよく一致している。
 「森たさんのトナリ」すなわち、東京美術学校Click!で佐伯祐三の恩師だった下落合630番地の森田亀之助邸Click!の隣りに、ほどなく転居してきて住むことになるのは、1930年協会Click!の創立メンバーのひとり里見勝蔵Click!だ。おそらくこの時点で、里見勝蔵が下落合630番地の借家に引っ越してきて、アトリエをかまえることはおよそ決定しており、それを意識した佐伯の風景モチーフ選びと画面づくりなのだろう。
 森田邸に隣接した借家がたまたま空いており、それを帰国してから京都にもどっていた里見勝蔵に紹介したのは森田亀之助か、佐伯祐三か、あるいは里見自身がふたりのどちらかの家を訪ねた際にでも偶然発見し、大家に手付けを払って近いうちの転入を“予約”しているのかは、おそらく誰かの手紙資料を丹念に掘りおこせばおのずと判明するのかもしれないが、現時点では不明のままだ。
 ちなみに、里見勝蔵は大正中期から下落合を訪れており、『下落合風景』Click!(1920年)をタブローに残しているが、1918年(大正7)からその当時は権兵衛山(大倉山)Click!の下落合323番地に住んでいた森田亀之助を訪問し、美術に関することや渡仏についてなど、あれこれ相談していたのではないかと考えている。
 さて、「森たさんのトナリ」はShinwa Auction社ビルの1階、右手奥の展示室に架けられていた。佐伯祐三の作品に多い、まるでルイ王朝時代のキンキラキンに輝く野暮で成金趣味の下品な額縁ではなく、木製の額に入れられているのが好ましい。佐伯の『下落合風景』の画面に、キンキラキンの額縁はまったく似合わない。わたしの好みからいえば、もう少し彫刻が地味なデザインのほうが画面が映えていいと思うのだが、当然、わたしの所有物ではないので大きなお世話の雑音感想にちがいない。
 この作品は、長らく個人蔵だったので展覧会に出品される機会が少なかったが、唯一、1991年(平成3)に朝日晃Click!が所有者を探しあてて、カラー画像の撮影に成功している。同年に講談社から出版された朝日晃監修『佐伯祐三 絵と生涯』(カルチャーブックス)に、そのカラー写真が収録されているが、もちろん所有者についての詳細は書かれておらず、また撮影できた経緯についても触れられていない。おそらく、その所有者が亡くなったかしたため、遺族がオークションに出品したのではないだろうか。
 画面を観察すると、以前にも記事で書いたように、光は画家の背後右寄りから射しているように見えるが、遠景の建物や樹木はどんよりとした曇り空の下に沈んでいるようにも見えるので、雨雲の切れ目あるいは薄くなったあたりから短い時間だけ明るい光が射しこみ、手前の原っぱや2軒の家々を明るくしているように見える。いや、ときどき小雨が降る空模様での写生で、一瞬だけ雲の切れ目から明るい光が射した瞬間を、佐伯は意図的に切り取って描いているのかもしれない。家々の建て方の向きや光の具合から、およそ右手が南で、佐伯は西側から東方面を向いて描いているとみられる。
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 画面に描かれている家屋は、10年後の1936年(昭和11)に撮影された空中写真でもなんとか確認できるが、同空中写真では手前(西側)の空き地に新築の大きな西洋館とみられる住宅(丹下邸)と、その東側に隣接して南北に細長い下宿のような住宅(満河邸)がとらえられている。ただし、佐伯が画面を描いたのと同時期、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を確認すると、丹下邸の位置はいまだ広い原っぱ状態となっており、満河邸の位置には南寄りに「塚原」のネームが採取されているが、家屋表現が描かれておらず、どの住宅のことを指しているのかが不明だ。ひょっとすると、「森たさんのトナリ」画面に描かれた右下に見えている白い垣根のある家が、ほどなく解体されてしまう大正末の時点での塚原邸か、あるいは画面右側の平家が塚原邸だったのかもしれない。
 森田亀之助邸の敷地は、画面の左手に描かれた2階建ての日本住宅の、さらに左側の画面枠外に位置しているわけだが、この2階家は大正末に借家として建てられて間もないため、佐伯が描いた当時は新築で空き家の状態だったのかもしれない。佐伯の描き方から見れば、なんとなく光が当たって明るく見える左側の2階家が、森田邸のすぐ「トナリ」に位置する住宅、すなわち里見勝蔵がほどなく京都から引っ越してきてアトリエに使用する、下落合630番地の住宅ではなかったろうか。
 画面を詳しく観察すると、描きかけで途中でやめたような表現があちこちに見える。まず、2階家の外壁だが、この時代の借家に多い縦に細い桟をわたした幅広の下見板張り(おそらく杉材)の造りだと思われるが、同じ『下落合風景』の「テニス」Click!の2階家(宮本邸)ほどには、はっきりと輪郭線が描きこまれていない。同様に、右側の平家の切り妻漆喰壁に見える屋根際の柱も、途中で筆を止めたような表現だ。第2次渡仏の直前に描き、第2回1930年協会展(1927年6月6月17日~30日)に出品された『下落合風景』Click!の、かなり遠景にとらえられた中島邸Click!の洋館切り妻に見えるハーフティンバーの表現に比べても、かなり手っとり早く“いい加減”な描き方だ。
 もっとも顕著なのは、左下に塗り残しのような下塗りに近い絵の具の薄塗り部分が残されており、そこへこれから描こうとしていたらしい、ブラックで象られた四角形のモノがいくつか確認できる点だろう。この原っぱに置かれていたなにかを描こうとして、途中でやめたような感じの筆使いだ。この四角いかたちのモノは、草原としてグリーンに塗られた下にも確認することができるので、画面を描きはじめた初期の段階で、黒い絵の具を用いてスケッチしたなにかではないかと想定できる。
 ひょっとすると、この原っぱへ近々建設される予定だった丹下邸ないしは満河邸の建築資材が、すでに運びこまれていたのかもしれない。四角くて蒲鉾板のようにも見えるそれは、佐伯の『中井の風景(目白の風景)』Click!や銭湯「草津温泉」の煙突などを描いた『下落合風景』Click!などにも描かれた、当時は築垣や縁石などへ大量に用いられた大谷石の集積Click!なのかもしれない。だが、佐伯祐三は画布にスケッチはしたものの、絵の具を乗せないまま放置しているように見える。
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 画面の上にはガラスが嵌めこまれており、光を反射して少し観づらかったが、画面をさまざまな角度からためつすがめつ眺めてみたけれど、特に画面の下にもうひとつ別の作品Click!が隠れているような気配は感じられなかった。絵の具の厚塗りは、おもに草木を描いたグリーンの部分に集中しているが、ほかの箇所は佐伯の画面づくりにしては薄塗りで、下にもうひとつ別の作品が隠れていたら表面の凹凸で容易にわかっただろう。
 1927年(昭和2)に発行された「アトリエ」4・5月合併号、および同年発行の「中央美術」5月号で、里見勝蔵が下落合630番地へ転居したことが画家たちの近況ニュースとして紹介されているから、里見の転入は同年の寒さがゆるみはじめた2~3月ごろのことと思われる。つまり、佐伯が描いた「森たさんのトナリ」画面は、里見勝蔵が引っ越してくる4~5ヶ月前の風景ということになるだろう。
 佐伯が作品を描くスピードは、本人の証言によれば「20号を40分」Click!なのだから、別に一連の『下落合風景』に限らず、すばやい筆致はフランスなどでの諸作にも同様に感じられる。だが、「森たさんのトナリ」は他の『下落合風景』などにも増して、描きこみが中途半端なところや描き残しが見られることから、さらにスピーディなというか、半ばあわてていたような筆運びを想像してしまう。
 なぜ、それほど大急ぎで描かなければならなかったのかは、当日の空模様と関係がありそうだ。前述のように、東京中央気象台によれば1927年(大正15)10月10日は「小雨」と記録されているが、画面の空を見るといまにも青空が見えそうな明るくて薄い雲と、流れる灰色の低い雨雲とが入り混じって移動していたらしいことがわかる。つまり、光の加減から昼すぎとみられる時間帯に雨が止んで陽が射しはじめたので、さっそく仕事に出てアトリエから東へ80mほどのところにある原っぱ(当時は聖母坂Click!が存在しておらず青柳ヶ原Click!つづきの草原)へ画架をすえた佐伯祐三だが、描いている途中から再び灰色の雨雲が西から急速に接近し、パラパラと小雨が降りはじめてしまったのだ。
 「こら、あかんわ。濡れてまうがな」と、大急ぎで画面を仕上げたが、アトリエにもどってから加筆することなく、そのまま頒布会を通じてか、あるいは懇意にしていた画商へ作品を売ってしまった……そんな経緯を想像することができる。
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 でも、少しぐらいの雨なら平気で制作をつづける佐伯祐三が、なぜ大急ぎで画架をたたんでアトリエにもどっているのだろうか? それは、「制作メモ」Click!によれば佐伯は10月3日~6日まで病気(おそらく風邪)で寝こんでおり、10日は起きられるようになってからまだ4日しかたっていない時期だったせいだろう。「熱出たら、仕事ようでけへんし」と、ことさら大事をとったのかもしれない。そうでなければ、「ねえ、あんた、そこ邪魔! オラオラ、大谷石につぶされも知んねえぞ」と、雨の止んだのを見すまして出てきた石材運びの工事関係者に急かされ、「ほんま、かなわんなぁ~」と焦って描いたものだろうか。

◆写真上:Shinwa Auction社のオークションに出品された佐伯の「森たさんのトナリ」。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合630番地界隈。すでに草原はなく、丹下邸と満河邸が建設されている。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同番地界隈。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された森田邸界隈。ふたつの家屋の屋根が光っているのは、関東大震災Click!の被害から東京府が瓦葺きを一時禁止Click!したためで、スレートかトタンで葺かれた屋根だったのだろう。
◆写真中下:1926年(大正15)10月10日(日)の小雨が降る中で制作されたとみられる、佐伯祐三『下落合風景』の1作「森たさんのトナリ」画面の部分拡大。
◆写真下:同作の部分拡大で、大急ぎで制作された気配が画面のあちこちに漂う。
おまけ
 長雨で思うぞんぶん鳴けなかったせいか、昨夜の午前0時20分に録音した鳴きやまない下落合のミンミンゼミとアブラゼミのセミ時雨で、安眠妨害の大合唱が一晩じゅうつづく。

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