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前庭を雑木林にする安倍能成。 [気になる下落合]

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 家の周囲に樹木を植えるのは楽しいが、その成長が思いのほか早いので愕然とすることがある。わたしが困ったのはヒノキとウメ、そしてクロモチの3種類だ。いまはカーポートになっているスペースへ、植木屋から買ってきたヒノキと、安価に分けてくれた盆栽のウメを不用意に植えたのがまちがいのはじまりだった。
 追いかけてクロモチの木も植え、なんとなく生垣っぽくして緑を楽しもうと思ったのだが、最初の1~2年はそこそこ成長して枝葉を拡げ、ほどよい木蔭もできて夏などは地面からの照り返しも減って涼し気になるぞ……と思っていた。伸びた枝をほどよく切り、樹影のかたちも整えて自己満足にひたっていたのだ。ところが、わたしの家の敷地は明治期には畑地だったところで、もともと関東ロームの地味がよかったせいもあるのだろう、3年目から木々はとんでもない成長のしかたをしはじめた。
 仕事が忙しいので、しじゅう樹木の手入れなどできないし、朝はせわしなく夜は帰宅するのが午後9~10時があたりまえだったので気づかなかったのだが、休みの日、家の前を見て愕然とした。知らない間に、これらの木々がわたしの背丈よりも高くなっていたのだ。あわてて剪定バサミをもって枝を切ろうとしたが、すでにハサミなどでは刃(歯)が立たずClick!、ノコギリを持ちだすハメになった。だが、いくら枝葉を落として幹の上部を切ってももとの高さにはもどりそうもなく、ゆうに170cmを超えそうな勢いだった。
 これらの切った枝葉は、もちろんそのままでは清掃車が回収してくれず、枝を細かく裁断してビニール袋に詰めるという根気のいる作業が待ちかまえていた。ケヤキの大樹から舞い落ちる、毎年恒例の腰痛をともなう枯れ葉の処理に加え、選定した枝葉の始末はせっかくの休日をつぶすとても厄介な仕事となった。当時は土日・祝日の出勤もあたりまえだったので、貴重な休日はゆっくりと寝ていたかったのだ。
 一度勢いがつくと、樹木の成長はものすごい。遅く起きたとある休日、2階のベランダからなにかが揺れているのに気づき、「なんだろう、野鳥かな?」と凝視したら、ウメやヒノキの先端がすでに2階まで到達しようとしていたのだ。大急ぎでノコギリを手にして、枝葉を落としにいったが、もはやわたしの手には負えかねないほど、木々たちは「これでもか!」と幹や枝を太くして反抗的になっていた。特にクロモチの幹や枝は堅くしまり、樹木の素人には扱えないような幹まわりになっていた。
 以前にも増して、枝葉を細かく裁断し清掃車がもっていってくれるよう、ビニール袋へ詰める作業の負荷が急増し、ほとんど1日仕事になってしまった。特にウメの枝葉の増え方は尋常でなく、ゴミ袋の大半がウメの木の枝葉だった。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と地元では昔からいうが、それを身体で実感する経験だった。ウメはかたちを整えようとすれば、それこそ毎日切ってもいい樹木だ。
 先年に亡くなった隣家のおじいちゃんは、庭に植えられた数種のツツジやカエデなどの木々を、雨天の日以外ほぼ毎日、庭や道路に出てはていねいにハサミで剪定していた。日々多忙だったわたしは、ご隠居風にのんびり日々を送れる隣りのおじいちゃんを非常にうらやましく感じたものだが、そんなに毎日神経質に剪定しなくてもいいのに、切りすぎて樹木がかわいそうじゃん……などとも思っていた。
 ある日、おじいちゃんはカエデの上部の枝を高切りバサミで剪定中、誤ってうちの光ファイバーケーブルを切断した。家にあるLANハブやWiFiルータ、情報デバイスなどが一瞬のうちにすべてブラックアウトしてしまった。こういう事故も起きる可能性があるから、神経質に樹木を毎日チョキチョキすることないじゃん!……と思ったのだが、これは隣りのおじいちゃんが正しく、わたしの認識が大まちがいだったのだ。樹木は、できるだけ毎日手をかけないと野放図に育ち、季節にもよるが数週間ほど放っておけば予想だにしない成長をとげている。そうなってからでは、とてもお年寄りの手には負えないのだ。わたしが伸び切った木の枝を払っていると、おじいちゃんは道路に出てきては呆れたように眺めていた。
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 そんな樹木の強い生命力を知ってか知らずか、第二文化村Click!の下落合(4丁目)1665番地で暮らした安倍能成Click!は、庭を武蔵野Click!の雑木林にしようとしている。1936年(昭和11)8月10日に書かれた随筆、安倍能成『下落合より(一)』から引用してみよう。
  
 (前略)家の者をみんな山へ送り出した後は、自分の家が実に広くのびやかで、その気持だけは暑くるしさの反対である。ここへ移つた時には青桐が二本の外に木といふ木は殆どなく、近所で安物の苗を買つて来たり、人から貰つたりして、木と名のつくものなら何でも植ゑて置いた。その後欅の木を三本植ゑて三欅書屋と名づけて見たり、大きな梅を植ゑたりしたので、狭い構内には均整と調和の美しさもなく雑木が枝を交へて、居間の中にも小暗くその緑がさす程になつたが、お蔭で大抵な暑い日にも涼風が常に座辺を訪れてくれる。午食の後など裸になつて、ポーチで汗をこの風に吹かせつゝ、ラヂオの第二放送のレコードを聞いて居ると、時にはその音楽が非常に食後の気分と合つて愉快なこともある。
  
 安倍能成Click!が裸のままポーチでくつろぐほど、庭には鬱蒼とした屋敷林が形成されていたようだが、手入れはどうしていたのだろうか。おそらく、これだけの樹木を管理するのはたいへんで、1年に一度は植木屋を入れていたのではないかと思われるが、そのことについてはなにも触れていない。もっとも、邪魔な枝だけを払って落ち葉とともに庭の隅にでも積んでおけば、ころあいを見はからって焚き火ができた時代だ。現在は、低温燃焼によるダイオキシンなどの発生が懸念されているので、焚き火は条例で禁止されている。
 特にケヤキは、四方に枝を伸ばすので手入れがたいへんだろう。目白文化村は、電燈線・電力線Click!ともに地下の共同溝Click!へ埋設していたので電柱はなかったが、電話線をわたした白木の電信柱Click!は建っていた。道路側のケヤキの枝が電話線にひっかからないよう、定期的な手入れが必要だったのではないか。また、ケヤキの根は四方へ太く張りだすので、あまりに育ちすぎると根が家を持ちあげかねないともいわれている。
 もちろん、毎年花が咲いては種子を周囲に散らすので、あとからあとからケヤキの幼木が生えてくる。それを見つけしだい抜いておかないと、ケヤキは深く根を張るので排除することがむずかしくなり、ノコギリで伐らなければならない。しかも根が残っていると、あとからあとから際限なく新芽が伸びてくるというイタチごっこになってしまう。会津八一Click!「秋艸堂」Click!のように、自宅を「三欅書屋」と名づけているが、長つづきしなかったところをみると、野放図で“暴れん坊”のケヤキに懲りたのではないだろうか。
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 文中に「家の者をみんな山へ送り出した」とあるが、家族を別荘にでもやってしまったあと、夏の静かな文化村の風情が伝わってくる。戦前、このあたりに住んでいた人たちは、夏になると避暑に出かけてしまうのが恒例で、人がかなり少なくなる時期だった。ドロボーにとっては、そんな家々をねらう稼ぎどきだったわけだが、被害が多発するにつれ留守番を置いておく家も増えていった。安倍家では、安倍能成自身が留守番を買ってでたようで、家事をしている様子も書かれている。
 中でも気に入ったのが風呂の焚きつけで、自由に火を操れて炎を見つめることは「気分の転換」を容易に実現できると書いている。また、火を燃やすのと同じように、いつでも水を湧きださせることができたらもっと愉快だろうと書き、火と水は人間生活の必需品であって、「それを見ることが何か人間の生活感情を充すといふ理由」があるのではないかと、哲学者らしく瞳に炎を映しながら想像の羽を思いっきりふくらませていく。
 やがて、夕飯を食べて風呂にも入り、食後に蚊取り線香を焚いたポーチから団扇片手にゆったりと雑木林の庭を眺めたのだろう。樹木は気温を下げるので夜も涼風が吹いていたのかもしれない。『下落合より(一)』は、こんな文章で締めくくられている。
  
 夜になると此間中の月光で家のぐるりが蒼くなる。その中に居ると庭木の形のぎごちなさなんかも気にならず、実に静かないゝ気持になる。つくづく有難くなつて来る。/近頃色々な大きな道路が出来て、自動車が家の側を通ることの少くなつたのも、有難いことの一つである。
  
 月光に蒼く沈んだ、昔日の静寂な目白文化村をぜひ眺めてみたいものだが、いまでは空中写真を見ながら想像するしかない。このエッセイが書かれた1936年(昭和11)の写真を見ると、確かに安倍邸の庭には樹木が生い繁っている。庭の木々は、1945年(昭和20)4月2日に米軍のF13Click!から撮影された爆撃直前の写真にも見てとれるので、空襲で焼けるまで庭の木々は育てられていたのだろう。戦後の焼け跡となった空中写真を見ると、庭木はすべて燃えてしまったのか1本も残っていないように見える。
 「大きな道路が出来て」と書いているが、当時は山手通りClick!もいまだ工事がはじまっておらず、十三間通り(新目白通り)Click!も計画はあったが存在しないので、1931年(昭和6)に開通した補助45号線(聖母坂Click!)や、このころに拡幅工事が進んだ目白通りClick!あるいは長崎バス通り(目白バス通り)Click!のことをさしているのではないかと思われる。
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 結局、わたしの手入れが間にあわない(というか手に負えない)せいで、植えたウメもヒノキもクロモチも惜しかったが数年で伐ってしまった。残ったのは、以前から生えていた玄関の横にあるキンモクセイの木だが、これも放っておくと3階から屋根上へ突きでるほどに伸びてしまうので監視の目をゆるめることができない。枝を切っても切っても、それ以上の枝を伸ばしてくるので、もはやわたしとキンモクセイの意地の張りあいになっている。

◆写真上:手入れをせず放っておくと、あっという間に武蔵野Click!の雑木林が出現する。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合(4丁目)1665番地の安倍能成邸。は、エッセイが書かれたのと同じ年の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる庭木の繁った安倍邸。は、安倍能成邸跡の現状。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる安倍能成邸。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された庭木の様子がわかる安倍邸。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲(4月13日)直前の安倍邸。
◆写真下は、第二文化村に残る電線・水道管・下水管などを収納した共同溝の痕跡。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空襲後の安倍邸跡。焦土の邸跡には、書庫の防火用に構築されたコンクリート壁が残っているが繁っていた庭木は跡形もない。は、安倍能成が文化村の敷地を購入したときから箱根土地Click!により庭木として植えられていたとみられるアオギリの木(中村彝アトリエClick!/上)と下落合の雑木林(下)。

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