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高圧送電線に沿って伝わった谷村怪談? [気になる下落合]

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 下落合の西南部や、南側に隣接する地域には、明治末から山梨県南都留郡(みなみつるぐん)谷村(やむら)に桂川電力が設置した鹿留水力発電所から、延々とつづく高圧線の送電塔を伝って電力が供給され、東京電燈Click!(現・東京電力)の目白変電所Click!で変圧されて、各家庭に電気が供給されていた。ほどなく、東京電燈は桂川電力を買収すると、この高圧線は東京電燈谷村線と呼ばれるようになる。
 落合地域に住む画家たち、たとえば鈴木良三Click!林武Click!佐伯祐三Click!らが谷村線の高圧送電塔を画面に入れて描いているが、1922年(大正11)に制作された鈴木良三『落合の小川』Click!では木製の送電塔だったものが、1924年(大正13)に描かれた林武の『下落合風景(仮)』Click!や、1926年(大正15)制作とみられる佐伯祐三の『下落合風景』Click!では、今日と同様に高圧線の送電鉄塔だった様子が見てとれる。おそらく、関東大震災Click!を契機として、送電塔が脆弱な木製から鉄製に変更されているのだろう。
 落合地域では、すでに旧来の目白変電所とともに廃止されてしまった谷村線だが、きょうの記事は高圧送電線が主題ではない。鹿留発電所のある谷村から聞こえてきた、明治期あたりから語り継がれている怪談がテーマだ。この怪談は、明治末に採取されたものだが、そのころには谷村を遠く離れた東京でも語られるようになっていたのだろう。
 明治期の山梨県では、輸出用の絹産業(養蚕)が各地で盛んに行われていた。そのシルクロード(絹街道)を伝い、横浜へ運搬するために集積された八王子あたりから、東京市街地へと伝わったものだろうか。絹の買いつけ商人が、南都留郡の谷村から北都留郡の初狩村へと抜ける途中で遭遇した怪異譚だ。
 谷村と初狩村の間には、羽根子山をはじめけわしい山岳地帯が立ちはだかっている。当時は、この山越えのことを「八丁峠」越えと呼んでいたようだ。直線距離にすると、南の谷村から北の初狩村へはわずか5kmほどしかないのだが、延々と上下し曲がりくねった山道を歩くとなると、つごう4里(約16km)ほどの行程になったようだ。絹商人は、他の商人が入りこまないうちに初狩村での買いつけを急いでいたのか、雨が降りはじめた夕暮れにもかかわらず谷村から「八丁峠」越えを強行している。明治期なので、菅笠をかぶり桐油着に草鞋ばきの旅姿で、提灯ももたずに山道を急いだ。
 すると、山道を1里ほど登ったところで、前を歩くひとりの女に気がついた。初狩村での買いつけについて、あれこれ考えながら登っていた絹商人は、急に前を登っていく女が気になりだした。自分のほうが足が速いので、同じ谷村側から登ってきた女に追いついたのだろうと考えた商人は、どんな女なのか見てやろうと早足になって追い抜こうとした。
 そのときの様子を、1919年(大正8)に井上盛進堂から出版された礒萍水Click!(いそひょうすい)『怪談新百物語』に収録の「峠の女」から引用してみよう。ただし、同書の出版は1919年(大正8)だが、礒萍水の怪談蒐集は1900年(明治33)からスタートしているようなので、彼が「百物語」の1話として取材したのも明治末の可能性が高そうだ。
  
 と見ると、背後の様子では三十二三、脊には未だ生れて十日も経つまい、と思はれる赤児を負ふて居る、脚絆に草鞋、草鞋も片々はない、髪は乱れて、着物は汚れきつて、見る影もない、それ許りではない、此雨の降るのに傘もない、手には重さうに風呂敷包みを持つて居る、旅の女には相違ない。/身なりから考へても、美い女ではあるまい、けれども寂しい時の相手にはなる、話をしかけて見よう、と追つて行く。(中略) 『もし、お女房(かみ)さん、お待ちなさい、この雨の降るのに傘もなしぢやァ、迚も堪つた訳のものぢやァない、ヱ、お女房さん、お前さん、全体那辺(どこ)から来なすつたのだい』(カッコ内引用者註)
  
 雨が降っているので山道は滑りやすく、商人は何度か転びそうになりながら早足で女を追いかけるが、なぜか山歩きに馴れた彼の足でさえなかなか追いつかず、女は足音さえ立てずになんの苦もなく山道をスーッと登っていく。
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 商人は、追いかけてくる男を警戒して女が足早に逃げているのだろうと思い、いろいろやさしい声をかけるのだが、女は振りむきもせずに黙々と登っていく。商人は「怪しい者ではない」と言葉をかけながら、歩き馴れた山で男が女に追いつけないはずはないと、半分意地になって女を追いつづける。するとほどなく、女が商人を振り返った。
 振り返った女の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 見れば色は底の見ゑすく様に白い、道具も揃つて、細面の、都でも人の振りかへる代物、それがこの雨の山路に、而も一人で人ッ子一人居ないと云ふのだから、まづ世間なみの男なら飛んだ野心の出るのも道理、まして利のほかには一点の理想もない、旅商人に於てをや、/ぞくぞくもので大喜び、此分では金の無いのは必定、これを宿に引きづり込んで、親切にしてやつたならば、それ、そこは魚心に水心、ウッ、もう天下は此方のものと、大に怪しからぬ希望に大悦喜!/風呂敷を貸さう處ではない、先方さへ承知なら、同一笠のなかに入れてもやりたい考へ、やがて女は早足を止めて、男と並んで行く。
  
 並んで歩きながら、商人がいくら話しかけても女は答えない。背中に負っている赤ん坊も、泣きもしなければ身動きもしない。
 商人は、ようやく女の不可解さを感じはじめた。あたりは雨の山道で真っ暗闇、商人が着ている着物の柄もわからないほどなのに、その女の目鼻立ちから髪型、着物姿までがなんとなくボーッと闇に浮かぶように見えている。商人は、とっさに狐狸が化けた女なのではないかと考えたが、別に彼らが喜ぶ食べ物を携帯しているわけではないので、化けて自分に近づく意味がわからない。女がひと言もしゃべらないのは、やはり自分を警戒しているのではないかと考えなおし、女と並んで歩きつづけた。
 やがて、八丁峠でもっともけわしい難所といわれる崖地の登山道にさしかかった。ここで女の手を引いてやり、親切をつくせば少しは打ちとけてくれるのではないかと期待して、商人は「さァ遠慮は入らねゑ、私が手を引いて上げよう」と女に手を差しだすと、初めて女はうっすらと笑顔を見せたが、その笑顔がゾッとするほど寂しく鳥肌が立つほどだった。だが、商人の心配をよそに女は危なげなく崖地を越えたが、商人はしゃべりつづけて女に気をつかいすぎたせいか、他愛なくグッタリと疲れてしまった。
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 八丁峠を越すと、雑木林の中を歩く下り坂になるが、片側が小流れのある崖地がつづくので、商人は気をとりなおして「辷(すべ)ると危ないから、手を出しなさい」と、しつこく女に誘いかけた。女が手を出せば、そのまま懐手で初狩村の商人宿まで引っぱっていくつもりだった。ところが、商人と並んで歩いていたはずの女は、急に片側の崖地へスーッと移動し、小流れの上をわたって一度振り返り男へ再びうら寂しいゾッとするような笑顔を向けると、その姿がみるみるうちに薄れていった。
 商人は、あまりの出来事に驚愕して尻もちをつき、全身の震えが止まらなくなった。女が消えたあたりの小流れには、闇にもほの白く見えるなにかがぼんやりと浮かんでおり、よく見ると「水がんちやう」の白布だった。“水がんちょう”とは、東京の多摩地域から山梨、埼玉などに拡がる供養法で江戸東京では「流し灌頂(がんちょう)」とも呼ばれている。(記事末参照) 死んだ産女と赤ん坊を供養する慣習のひとつで、小流れに4本の柱を建て、2尺(約60cm)四方ほどの風呂敷のような白布を四隅で結びつけて、真ん中のくぼみに流水を注いでやると、死んだ母子の追善供養になるという独特な民俗習慣だった。
 商人は、ほうほうの体で初狩村にたどり着くと、村人たちに八丁峠で最近なにか事件があったのではないかと訊けば、ほんの1ヶ月ほど前、旅をしていた眉目美しい女が峠を越えようとして、遊び人の男に追いかけられて殺された事件があったばかりなのが判明した。しかも、女のお腹には赤ん坊がいて臨月に近かったという。商人は、「だから、水がんちょうなのか」と納得しつつも、改めて全身が総毛立つのを抑えられなかった。すでに犯人は、谷村の南西にあたる吉田村でとうに捕縛されていた。
 今日からみれば「ありがち」な怪談話だけれど、当時の人々にとってはよほど怖かったにちがいない。自身が事件や事故に巻きこまれ、因果はめぐる式の筋がとおる江戸怪談とはまったく異なり、八丁峠に現れる女の幽霊と絹商人とはなんら関係性がない。つまり、怨みや祟りで必然的に関係のある人々の前に姿を現したり祟ったりする幽霊ではなく、たまたまそこを通りかかった旅人にすぎない、なんの関係もないゆきずりの人物にさえ化けて出る、ニュータイプの幽霊が出現したからだ。ちなみに、深い山中へ分け入ると女に出会う怪異は、以前にも乃木希典Click!「深山の美人」怪談Click!としてご紹介している。
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 さて、山梨県の南都留郡にある谷村から、北東側に口を開けた谷間を通り直線距離で約7kmほど、桂川に沿った道を歩いていくと、やがて北都留郡の広里村(現・大月市)へと抜ける。広里村にある駒橋水力発電所からは、早稲田変電所Click!まで駒橋線と呼ばれる高圧線がつづいていた。駒橋線は、ほぼ中央本線に沿って送電塔が建設されており、その北側を谷村線の送電塔が目白変電所までつづいていた。駒橋線の終点である早稲田変電所の牛込地域でも、明治末とみられる怪談が採取されているのだが、それはまた、次回の物語……。

◆写真上:南都留郡谷村にある、東京電燈(現・東京電力)の鹿留水力発電所。
◆写真中上は、1922年(大正11)制作の妙正寺川沿いの木製送電塔を描いた鈴木良三『落合の小川』(部分)。は、1924年(大正13)ごろ制作の鉄塔に変わった妙正寺川沿いの高圧送電線を描いた林武『下落合風景(仮)』(部分)。は、1926年(大正15)制作の蘭塔坂Click!から見える高圧線鉄塔を描いた佐伯祐三『下落合風景』(部分)。画面右の茶色い建物は目白変電所Click!で、その右の搭は建設中の早稲田大学の大隈記念講堂Click!
◆写真中下は、中井駅近くの妙正寺川沿いに建てられていた谷村線の高圧線鉄塔。は、下落合駅にあった高圧線鉄塔。は、同じく下落合駅近くに建っていた解体寸前の谷村線鉄塔。これらの谷村線鉄塔は、2012年(平成24)ごろに解体された。
◆写真下は、1919年(大正8)出版の礒萍水『怪談新百物語』(井上盛進堂)の中扉()と目次()。は、鹿留水力発電所の水圧管。は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる落合地域と戸塚地域を横断していた東京電燈の谷村線と駒橋線。
おまけ
 江戸東京では「流れ灌頂(がんちょう)」と呼ぶが、山梨県では怪談の中にも登場しているように「水がんちょう」と呼ばれていたらしい。お産で死んだ女性や、産児も同時に死んだ場合は母子を弔う供養の風習で、下の写真は戦前に埼玉で撮影された「流れ灌頂」。
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