SSブログ

失意のなかの鶴田吾郎『長崎村の春』。 [気になるエトセトラ]

鶴田吾郎「長崎村の春」1926.jpg
 1926年(大正15)5月に開催された第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に、鶴田吾郎Click!は『長崎村の春』と題する風景画を出品している。同作は、日本橋にあった巧藝社により記念絵はがきが制作され、会場だった東京府美術館で販売されたものだろう。絵はがき店で見つけた、あまり見かけることのないめずらしい1枚だ。
 画面を見ると、制作年の春先のようにも思えるが、右側に描かれた稲を収穫したと思われる稲木(藁干し)がどこか秋を感じさせる。左手の遠景に見えている黄土色のかたちは、黍(きび)殻を三角錐に束ねたキビガラボッチだろうか。でも、手前の田畑と思われる地面には青々とした草叢ができており、晩秋のようには見えない。畑地の中央に、茶色い窪地のような描きこみがあり、左から右へ線状に描かれているのは用水路だろうか。あるいは、当時の谷端川や千川上水であっても、決しておかしくはない風情だろう。また、遠景に見える木立ちは葉を落とした(あるいは若葉をふいて間もない)ケヤキの、空へ拡がる枝幹のような描き方であり、空に描かれた雲も強い気流に吹かれる筋雲のような趣きを見せているので、どこか冬のような雰囲気も漂っている。
 タイトルが『長崎村の春』なのだから、「春」にまちがいはないのだろうが、どことなく描き方にチグハグさを感じてしまう。右の藁干しから、「秋」の10月といわれればそんな気もするし、遠景のケヤキなど落葉樹と思われる木々や、よく晴れあがった空模様だけを取りだして見れば、「冬」だといわれてもおかしくない風景だ。また、下の草叢だけに視点を合わせれば、そろそろバッタが飛びだす初夏のような風情にさえ感じる。タイトルには「春」としっかり規定されているが、どこか季節感が曖昧で虚ろな感覚を画面から受けてしまうのは、わたしだけだろうか?
 このとき鶴田吾郎Click!は、関東大震災Click!のあと夏目利政Click!が設計し手配してくれた下落合804番地のアトリエClick!を放棄し、短期間の仮住まいをへて、長崎村地蔵堂971番地(現・千早1丁目)のささやかなアトリエClick!へ転居したばかりのころだった。ちなみに、長崎村が町制へ移行して長崎町になるのは、『長崎村の春』が出品された聖徳太子奉讃美術展の1ヶ月後、1926年(大正15)6月のことだ。
 当時、地蔵堂のアトリエを出て、『長崎村の春』のような風景を探すのは非常にたやすかっただろう。作品と同年に作成された「長崎町事情明細図」を見ると、地蔵堂971番地にはすでに「ツル田」のネームが採取されている。そのアトリエから西側に拡がる、字名でいえば西向(現・千早/長崎/要町界隈)、あるいは北側の北荒井や北原(きたっぱら)、境窪、高松(現・要町/千川/高松界隈)には、画面のような風景があちこちに拡がっていたとみられる。したがって、地形的な特徴や目印となる構造物が描かれていない、同作の描画ポイントを絞りこむのはむずかしい。
 『長崎村の春』を描いたとき、鶴田吾郎はいまだ失意と虚脱感を抱えていただろう。1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素顔』によれば、「私の身辺は決して面白いものではなかった」と書いている時期から、まだそれほど時間が経過していない。1924年(大正13)の夏、自信をもって描いた100号(宇都宮まで写生に出かけた作品)が帝展に落選したのを皮切りに、同年の秋には中村彝Click!が名づけ親だった長男の徹一を、疫痢によりたった一晩で亡くしている。つづいて、同年12月には兄事していた中村彝が病没する。彼にしてみれば、下落合804番地のアトリエは忌まわしい想い出がこもる住まいとなった。
鶴田吾郎「長崎村の春」表.jpg
鶴田吾郎「長崎村の春」拡大1.jpg
鶴田吾郎「長崎村の春」拡大2.jpg
 そのあたりの経緯を、1999年(平成11)に木耳社から出版された鈴木良三Click!『芸術無限に生きて』収録の、「目白のバルビゾン」から引用してみよう。
  
 (鶴田吾郎アトリエは)曽宮(一念)さんのところも近かったので往来は繁く曽宮さんのアトリエで、二人でドンタクの会を毎日曜日、アマチュアのために指導を始めた。その間に曽宮さんをモデルにして百号に「初秋」を描き、第三回帝展に入選し、その次の年にも「余の見たる曽宮君」を出品した。/この年夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
  
 この文章の中で、鈴木良三の記憶にいくらかの齟齬がみられる。まず、関東大震災に遭遇したとき、鶴田吾郎は目白通りも近い下落合645番地の借家Click!(佐伯祐三Click!アトリエの北約140mのところ)に住んでいたのであり、震災で傾いた同住宅には住めなくなったので、夏目利政Click!に相談して下落合804番地に「小画室」を建てている。
 また、長男・徹一が疫痢で急死したのは1924年(大正13)の秋であり、その葬儀や法事の後始末が終わらないうちに、今度は中村彝の死去に遭遇している。鈴木良三の「翌年は彝さんの死にあい」は、明らかに記憶ちがいだろう。中村彝に関する残務があり(息子や彝の死を、身辺の忙しさで紛らせようとしていたのかもしれない)、1925年(大正14)までは下落合804番地に住みつづけていたが、たび重なる不幸に嫌気がさして、「祥雲寺前の新築の貸家を見つけて三ヶ月ばかり」(『半世紀の素顔』より)住んだあと、翌1926年(大正15)に長崎村地蔵堂971番地へと引っ越している。
長崎町地蔵堂971.jpg
千川4丁目1950年頃.jpg
春日部たすく「長崎(池袋よりのぞむ)」1929.jpg
 さて、描かれた『長崎村の春』のころの長崎地域は、どのような様子だったのだろうか。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)が走り椎名町駅Click!東長崎駅Click!のある長崎村の南部と、山手線の池袋駅に近いエリアには、すでに住宅街が形成されていたが、広大な長崎村の北部や西部は明治期とさして変わらない風景をそのまま残していた。幕末から明治にかけ、千川上水にはニホンカワウソが棲息しており、地域の昔話にも登場しているが、そのころとさして変わりない風景が展開していただろう。
 明治期から大正期にかけての、長崎地域における土地活用(耕作)について、明治末の1/10,000地形図をもとに解説した文章がある。1996年(平成8)に発行された「長崎村物語」展図録(豊島区立郷土資料館)から引用してみよう。
  
 一見してわかることは、畑が広がり、そのなかに家々が点在しているということです。そして、字並木、字地蔵堂の集落が立地する舌状台地に沿って、西から東へ谷端川が流れ、その周囲に水田ができていることもよくわかります。南には、東西を結ぶ道路が通っています。これは、江戸時代には通っていた道で、江戸と郊外を結ぶ清戸道です。昭和の初め頃までは、長崎の特産だった茄子や大根が、この道を通って神田市場等へ運ばれていました。清戸道の途中に人家が密集するところがありますが、ここが、西武池袋線の駅名の由来ともなった椎名町です。商店が多く、農家の人たちが買物にいく場所でした。椎名町の東には、等高線の幅が狭くなっているところがありますが、これが鼠山で、現在は住宅地となっています。(中略) 椎名町から北上する道も旧道のひとつで、板橋に向かう幹線道路でした。金剛院の西を通りますが、この道筋は、今もあまり変わっていません。道の両脇は、苗木畑として利用されていたようです。
  
 現在、住宅街に埋めつくされている長崎地域からは想像もできないが、その北部(現在の千早/千川/高松界隈)は、戦後まで田畑が拡がる農村の面影を色濃く残していた。田畑には米や麦、黍、野菜類などが栽培されていた。
 特に黍殻は、名産だった茄子の苗床をつくるときには欠かせない風よけに使われたため、田畑のあちこちにキビガラボッチ(別名「ニュウ」)が立てられている。だから、鶴田吾郎の『長崎村の春』(左手の奥)にそれが描かれていても不自然ではない。画面の正面に見える、遠く離れた農家の屋根は茅葺きであり、屋敷林に植えられた常緑樹(おそらく針葉樹)が、空に向けて濃い緑を突きだしている。その背後に描かれた地平線に近い空が、どこか濁ったように灰茶がかっているのは、強い春風にあおられて舞いあがった赤土(関東ローム)が混じる色だからかもしれない。
地形図1909.jpg
本橋司「長崎町の農家」1932頃.jpg
キビガラボッチ.jpg
 新しい生命の息吹を感じる、春の風景をモチーフに選んだにしては、なんとなくチグハグで不安定な感覚をおぼえるのは、鶴田吾郎の心のうちをそのまま画面に写しているからだろうか。立ち直らなければという思いを背に、春の野へ出て写生をはじめてはみたものの、さまざまな思い出が去来してタブローにうまく集中できない、そんな感慨を抱かせる画面だ。

◆写真上:下落合から転居後、1926年(大正15)に制作された鶴田吾郎『長崎村の春』。
◆写真中上は、第1回聖徳太子奉讃美術展覧会で販売された『長崎村の春』の絵はがき(巧藝社製)。は、同画面の中央部と左側の部分拡大。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる地蔵堂971番地の鶴田吾郎アトリエ。は、戦後の1950年(昭和25)ごろ撮影された千川4丁目の風景。は、1929年(昭和4)制作の春日部たすく『長崎(池袋よりのぞむ)』。
◆写真下は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図に書きこまれた長崎村の字名。いまでこそ、「長崎」の地名は半分以下のエリアに限定されているが、「下落合」の地名が3分の1の面積になってしまったのと同様に、本来の長崎地域は広大だった。は、1932年(昭和7)ごろに描かれた本橋司『長崎町の農家』。は、長崎村(町)のあちこちの畑地で見られたキビガラボッチ(ニュウ)。

読んだ!(23)  コメント(24) 
共通テーマ:地域

読んだ! 23

コメント 24

ChinchikoPapa

アジサイは花弁の陰影濃淡がバラバラで、けっこう描くのが難しい花ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tomi_tomiさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:31) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:31) 

ChinchikoPapa

午後になってようやく小降りになりましたけれど、昨夜からの雨量はかなりでしょうね。広葉樹ではなく、スギが植林されている脆弱な斜面が危なそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:33) 

ChinchikoPapa

F.ハバードのリーダーアルバムは、案外手もとにないですね。どこかJAZZ-tpのお手本(教科書)みたいな匂いがするからでしょうか。O.ピーターソン(p)のアルバムもそうですが……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:37) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>じーバトさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:37) 

ChinchikoPapa

大船フラワーセンターは、鎌倉とともに小学校の遠足コースに含まれていたような気もしてきましたが、記憶がさだかではありません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tarouさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:39) 

ChinchikoPapa

若いころは思ってもみませんでしたが、今日のあらゆる技術や表現などの成果物は、少し前の世代の膨大な努力と犠牲の上に成立しているものなんですよね。若い子がお年寄りを軽視しているのを見聞きするにつけ、そんなことを考える歳にこちらもなりました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:43) 

ChinchikoPapa

雨降りの合い間に陽がのぞくと、そろそろセミの声が聞こえてきそうな風情です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:45) 

ChinchikoPapa

「ら」抜き言葉は、ちょっと悩ましいです。100年単位の昔から、「来られやしない」を「来れやしめえ」、「見られやしない」を「見れやしねえ」と慣用的に省略してつかっていますので、江戸東京方言ではあながち誤りとはいえなくなってしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:51) 

ChinchikoPapa

こちらでも流行した時期があったのか、アガパンサスはご近所の庭でときどき見かけます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 16:54) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2021-07-02 19:34) 

ChinchikoPapa

わたしも煎茶は、静岡の茶葉を使った伊藤園のものが口に合うようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>大善士さん
by ChinchikoPapa (2021-07-03 13:37) 

ChinchikoPapa

東海道を歩こうとすると、箱根の旧街道がやはり難所ですね。子どものころ、小田原から箱根関所まで挑戦したことがありますが、けっこう登山には慣れていたはずなのに、甘酒茶屋まででかなりバテました。もっとも、いまみたいに整備された旧街道じゃなかったんですが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>
by ChinchikoPapa (2021-07-03 15:16) 

ChinchikoPapa

外濠が埋められ、内濠も埋める計画がチラチラし出し、気がついたら国民は政府に反対し抵抗するすべを失っていた……は、「香港国家安全維持法」の他所ごとではないですね。すでに破防法に安保法、共謀罪と拡大解釈によって外濠は埋められています。
政府=自民党・公明党と医師会、NHKなどが率先して進めるワクチン接種の同調圧力に、不気味なものを感じるのはわたしだけではないと思います。このところの動きを見てると、自治体から届くワクチン接種通知が“赤紙”に見えました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2021-07-03 19:42) 

ChinchikoPapa

こちらでは、まだセミの声は聞こえませんが、早めに地上へ出てしまった成虫がいるのかもしれないですね。まだ気温が低めなので、鳴かずに黙っているのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2021-07-03 23:52) 

ChinchikoPapa

府中郷土の森公園は、大池に大賀ハス(古代ハス)が咲いていますね。午前中に出かけると、そろそろ開花しているころでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2021-07-04 10:31) 

ChinchikoPapa

コロナ禍で経済が逼塞し、世界各地でこれまでに経験のない貧困状況が生まれていますね。なにかを生産(労働)して対価の貨幣を得るという、産業資本主義経済フェーズ以来の基盤が、目に見えるかたちで揺らいでいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ふるたによしひささん
by ChinchikoPapa (2021-07-04 10:37) 

ChinchikoPapa

「鍛冶島」という地名に惹かれてしまいます。大昔、山砂鉄を溶かしたタタラ製鉄(大鍛冶)でも行われていたのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2021-07-04 10:45) 

ChinchikoPapa

その昔、ミゼットの荷台にサーフボード(ロング)を載せてユーホー道路(134号線)を走っているお兄ちゃんをみかけましたが、いまは短いボードを自転車のサイドに載せて走るお兄ちゃんお姉ちゃんが多いですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>にのまえさん
by ChinchikoPapa (2021-07-04 11:42) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2021-07-04 13:57) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takaさん
by ChinchikoPapa (2021-07-04 13:58) 

アヨアン・イゴカー

>千川上水にはニホンカワウソが棲息
日本カワウソがいたのですね。多くの生物が、いなくなってしまっているのが残念です。
ニュウは北海道では「にお」と呼んでいました。ニュウという言葉を見て、つい懐かしくなりました。キビガラボッチと言う言葉は初めてです。
by アヨアン・イゴカー (2021-07-06 00:46) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、こちらにもコメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
ニホンカワウソは、神田上水に注ぐ妙正寺川にもいたようで、いくつかの地元資料にも見えています。「ニュウ」は、地面からにゅ~っと突き出ているように見えるから、そう呼ばれたものでしょうか。キビガラボッチは、どこかで妖怪譚と結びつきそうな名称ですね。
by ChinchikoPapa (2021-07-06 10:18) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2021-07-19 10:16) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。