SSブログ

開発中の「渋澤農園分譲地」を歩く佐伯祐三。 [気になる下落合]

佐伯祐三「下落合風景」.jpg
 佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作、目白通り(当時は葛ヶ谷街道と呼ばれることが多かった)を描いた1926年(大正15)ごろのカラー画面をようやく観ることができた。以前にも一度、朝日新聞社版の『佐伯祐三全画集』(1979年)に収録されたモノクロ画像Click!でご紹介していたが、カラー画像によって新たに判明した風景の様子を踏まえ、改めて描画ポイントを検証してみたい。
 本作品のカラー画像は、某オークションに出品されたカタログに掲載されていたものだが、モノクロ画像ではうかがい知れなかった詳細な情報を得ることができる。また、本作品に描かれた画面の風景は、該当しそうなタイトルが「制作メモ」Click!には見あたらず、変色(紅葉)あるいは落葉しはじめた並木の様子を考慮すれば、1926年(大正15)10月以降に制作された可能性の高いことがわかる。
 そして、モノクロ画面では幅広い道路(目白通り=葛ヶ谷街道)右手の緩斜面が、雑草や低木が繁る草原か空き地のように見えていたが、カラー画像を確認すると下が草とりのゆきとどいた地面で、樹木が一定の間隔をあけて植えられており、しかも枝葉には剪定の手入れがなされているように見える。すなわち、右手の一帯は開発されたばかりの造成地や新興住宅地に多い、新築住宅の庭木を生産・供給する植木農園Click!だったのではないだろうか。そうなると、話がちょっとちがってくる。なお、右手の緩斜面は葛ヶ谷へと落ち込む斜面を修正し、目白通りを水平に保つために盛られた人工的な斜面(法面)だろう。
 以前のモノクロ画面で試みた描画ポイントの特定では、目白通り沿いに空き地や草原が多く残る落合第三府営住宅Click!の一画を、通りから眺めた風景だと想定していたのだが、その位置には植木農園のような施設は存在していない。カラー画像を改めて細かく観察すると以前の描画位置の特定から、さらに目白通りを200mほど西へ進んだポイントから東を向いて描いた画面ではないかと思われる。なぜなら、目白通りの右手(南側)には大正前期から植木農園とみられる「渋澤農園」が開業しており、佐伯がこの作品を描いた当時は東側から徐々に農園をつぶし、「渋澤農園分譲地」として販売中だったからだ。
 この作品が描かれる3年前、1923年(大正12)の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園は目白通り沿いの南側に拡がる大きな農園だったことがわかる。地番でいうと、下落合1551~1559番地から葛ヶ谷(現・西落合)にまたがる広い一帯だ。農園の東寄りには、農園主の渋澤邸と思われる大きな建物が採取されている。ところが、翌年に発行された「出前地図」Click!(下落合及長崎一部案内図/西部版Click!)では、一部の敷地が販売されはじめていたものか、地域一帯が「渋澤農園分譲地」という名称で記録され、農園の東寄りにあった渋澤邸とみられる大きな建物は解体されたのか見あたらない。
 同図によれば、渋澤農園の東端がすでに宅地造成を終えており、目白通り沿いの東端には2軒の建物が採取されている。また、渋澤農園の南側や西側に接して、住宅が建てられはじめている様子が見てとれる。ただし、「出前地図」の表記は要注意で、その地域にある程度の土地勘がある人々(住民たち)を対象に制作された地図であるせいか、道路や土地の形状は大きく変形されていい加減であり、また家々や施設の表記には場合によって100m以上の誤差が生じている点にも留意する必要があるだろう。「出前地図」は街並みや地形、土地の形状や距離などの正確さよりも、地元の住民が目的の住宅ないしは商店を探しだす利便性を優先した地図だからだ。
 事実、1925年(大正14)の「出前地図」と、同年の1/10,000地形図(修正図)とを比較すると、渋澤邸はいまだ解体されずに残っており、また渋澤農園の東西や南側も「出前地図」に描かれたようには、それほど住宅は建てこんでいないのがわかる。「出前地図」(下落合及長崎一部案内図/西部版)に採取された渋澤農園分譲地は、同地図の右上隅に描かれており、少し離れた南側や西側に建ちはじめた住宅を、大胆に距離をちぢめて採取している可能性を否定できない。また、北側(「出前地図」では下)の長崎村側(1927年より長崎町)には商店街があるように描かれているが、1929年(昭和4)現在の1/10,000地形図でさえ、住宅らしい家がポツンと1軒採取されているだけだ。おそらく、東側(同地図では左側)に並んでいた長崎村側の商店をひろっているうちに、スペースが足りずに少しずつ西側(同地図では右側)へとずれ、押してきてしまったのではないか。
渋沢農園分譲地1923.jpg
渋沢農園分譲地1925.jpg
渋沢農園分譲地1929.jpg
 昭和初期の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園分譲地にはようやく家々が建ちはじめ、周囲にも住宅が増えているが、1929年(昭和4)現在でもまだまだ空き地が目立つような風景だった。このあたり一帯が家々で埋まるのは、1935年(昭和10)をすぎてからだが、1940年(昭和15)から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、再び空き地が増えていく。それは、放射7号線(現・十三間通りClick!=新目白通り)計画が具体化し、葛ヶ谷(西落合)と長崎町の境界線に沿うように、道路工事が進捗してきたからだ。
 さて、画面に描かれたモチーフを具体的に観ていこう。1926年(大正15)現在、道幅が三間を大きく超える街道なみの道路は、以前にも書いたように下落合には目白通りしか存在していない。通り沿いには、トチノキ(マロニエ近種)のような街路樹が植えられ、モノクロ画像ではわからなかった紅葉や、落葉が進んでいるのがわかる。道路の右手(南側)は、ゆるやかな斜面を形成していて、そこには住宅の庭木用と思われる低木が一定の間隔ごとに植えられており、見るからに当時の落合地域には多かった植木農園だ。目白通りから、同農園の関係者ではない人々が勝手に入りこまないよう、道路沿いに柵が設置されているのも、ここが単なる空き地ではなく植木農園だった名残りを示している。
 渋澤農園では、新築住宅には不可欠な庭木用の樹木ばかりでなく、庭園に造られる花壇のために草花の種や苗を生産・供給する種苗(しゅびょう)農園も事業化していたのかもしれない。なぜなら、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図を参照すると、渋澤邸とその周辺には樹木の記号が描かれているが、葛ヶ谷にまたがる西側一帯はやはり周囲を柵に囲まれた草地表現になっている。そこには、さまざまな草花の種や苗が植えられ、育てられていたと考えても不自然ではないからだ。
 樹木の向こうに見えている赤い屋根の西洋館は、すでに農園主の渋澤邸ではない。分譲された敷地へ、新たに建設されたばかりの邸宅だ。すでに、1925年(大正14)の「出前地図」に渋澤邸が採取されていないのに加え、佐伯が描いた邸のかたちが、1/10,000地形図に採取された大きなL字型の渋澤邸と形状が一致しないからだ。佐伯が描いた邸は、凸字のような形状をしており、また樹木農園や種苗農園の関連建物とは思えない、屋根上に尖がりフィニアルを載せたように見えるモダンなデザインをしている。また、同邸の向こう側にも、赤い屋根の住宅が1軒見えている。
 さらに、パースのきいた目白通りの奥(東側)を見ると、樹木にさえぎられて見通しは悪いが、道路沿いに平家の建物が並んでいそうな気配がある。このあたりが、「出前地図」に採取された「溝口印刷所」や「加藤邸」だろうか。また、目白通りの左手には下水用の側溝Click!が設置されており、庭木を剪定した長崎村側の住宅が建っていそうだ。1929年(昭和4)の1/10,000地形図では、この位置には住宅が1軒しか採取されていないが、下水をわたる小さな石橋が見えるので、その邸の門へと通じる架け橋なのかもしれない。
赤屋根西洋館.jpg
空中写真1936.jpg
空中写真19450402.jpg
 描かれているのは、先述のように下落合1551~1559番地(のち下落合4丁目1551~1559番地)の一帯で、目白通りの左手は長崎村4142番地(のち椎名町6丁目4142番地)だ。そして、佐伯がイーゼルをすえているのは葛ヶ谷57番地(のち西落合1丁目105番地)と長崎村4142番地の境界あたり、目白通りの北側ということになる。現在の場所でいえば、佐伯祐三は目白通りと十三間通り(新目白通り)、そして新青梅街道がまじわる交差点の真ん中、やや北寄りの位置でほぼ真東を向いて制作していることになる。
 さて、画面に描かれた赤い屋根のモダンな西洋館は、写真などで特定が可能だろうか。下落合1559番地の一画に建てられたとみられる同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」によれば、同地番の「奥田」邸(1926年現在は助産婦の奥田ノブが住んでいた)に相当する。1936年(昭和11)の空中写真では粒子が粗くてよくわからないが、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲Click!(4月13日)の直前、より鮮明な米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真には、渋澤農園跡の分譲地に奥田邸とみられる住宅がとらえられている。凸字のようなかたちと、佐伯が描いた邸のかたちとがよく一致している。だが、同年4月13日夜半あるいは5月25日夜半の空襲のどちらかは不明だが、幹線道路沿いにバラまかれた焼夷弾によって同邸は焼失しているようだ。戦後1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、まったくちがう形状の住宅が新たに建設されている。
 佐伯祐三が、『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)を描いたころ、渋澤農園分譲地は東側から徐々に宅地造成が進んでいる真っ最中だったろう。奥田邸の西側(画面の手前)には、いまだ植木農園の風情が残り、東側に拡がる縁石が設置されたばかりの造成地には新しい道路が拓かれ、建てられたばかりの電柱群Click!が南へ向かってのびている。
 そして、1930年協会Click!画家たちClick!に興味のある方は、もうお気づきだろうか? 奥田邸のさらに奥(南東側)に見えている、赤い屋根を載せた家屋の右手(南側)あたり、地番でいうと下落合1560番地には1926年(大正15)の秋現在、前田寛治Click!がアトリエをかまえていたはずだ。佐伯祐三は、下落合の西北端にあたる前田寛治のアトリエClick!に立ち寄ったあと、あちこちが造成中で工事中の渋澤農園分譲地を眺めながら、画道具を抱えて歩いてきた。いまだ空き地の多い赤土がむき出しの造成地には、ポツンポツンと住宅が建設されはじめている。佐伯は目白通りを北へわたると、建てられたばかりの赤い屋根を載せた奥田邸をモチーフに入れて、さっそくパースをきかした画面の構図を決めにかかる。下落合661番地の佐伯アトリエClick!から、直線距離で900mほど西へ離れた下落合の風景だ。
奥田邸1938.jpg
奥田邸跡現状.jpg
目白通り描画ポイント.jpg
 ひとつ気になるのは、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、前年作成の「出前地図」(1925年)の表現とはかなり異なり、渋澤農園分譲地の目白通り(葛ヶ谷街道)に面したちょうど真ん中あたり、奥田邸のすぐ北側に「溝口印刷所」が描かれている点だ。また、「出前地図」には採取されている「加藤」邸が、「下落合事情明細図」では造成を終えた宅地(空き地)表現になっている。「下落合事情明細図」もフリーハンドの地図なので、実際の位置関係や距離感が曖昧で錯誤が多いのは「出前地図」と同様なのだが……。

◆写真上:1926年(大正15)秋に描かれた佐伯祐三『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)で、前田寛治のアトリエから直線距離で約100mしか離れていない。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる渋澤農園。は、宅地分譲がはじまった1925年(大正14)作成の「出前地図」。南北が逆の同地図だが、いまだ渋澤農園の周囲は家々が稠密ではないので、かなりデフォルメされているとみられる。は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。
◆写真中下は、下落合1559番地の奥田邸と比定できる西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)と1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる奥田邸とその周辺。は、奥田邸のあったあたりの現状(左手)。は、佐伯祐三の描画ポイントから画角風景の現状。現在は、3本の幹線道路の交差点北寄りの位置にあたり、当時の面影はまったくなく佐伯祐三の描画位置に立てば数秒でクルマにはねられるだろう。さっそく同作のカラー画像と描画ポイントを『下落合風景画集』Click!に反映したが、この6月1日に第8版を出したばかりなのに、すでに第9版ということになるのだろうか?w

読んだ!(22)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

読んだ! 22

コメント 2

ものたがひ

落合道人さま、こんにちは。佐伯が選んだのは、分譲地となって程ない農園の風情だったのですね。アトリエを建設していた1921年から1922年にかけて、第3府営住宅で建設中の家々を研究しに、このあたりには、よく来ていたのではないかと思いますが、帰国して、第3府営住宅の西の一帯に新たな道も出来、開発され始めたのに気づいたのでしょうね。

by ものたがひ (2022-09-01 13:50) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
おそらく、おっしゃるとおりのような経緯ではないかと思います。大工仕事の研究もしていたでしょうし、1926年(大正15)には前田寛治のアトリエがありましたので、ときどき通ってきては開発分譲地の様子を観察していたのではないかと思います。描かれた赤い屋根の西洋館(奥田邸)の向こう側には、大谷石の縁石が設置されて区切られた宅地が、赤土をむき出しにしてあちこちに拡がっていたのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2022-09-01 14:24) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。