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佐伯祐三『下落合風景画集』の第8版ができた。 [気になる下落合]

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 2007年(平成19)6月に、初めて『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(私家版)の初版Click!をリリースしてから、すでに15年の歳月が流れた。その間、新しい作品画像を入手したり、佐伯の時代に近い写真や資料が手に入ると、そのたびに改訂して第2版Click!第4版Click!第6版Click!……と版を重ねてきた。
 最後に改訂したのは2015年(平成27)1月の第7版で、すでに7年が経過している。そこで、この7年間に集まった佐伯祐三Click!連作「下落合風景」Click!の新たな作品や、従来はモノクロ掲載だった作品画面を撮影できたカラー写真に差しかえたり、新たな資料を加えたりして2022年版(第8版)を制作してみた。今回は、従来の正方形だったページをタテ長の長方形にして、より図録や画集らしいレイアウトしてみた。これも地元をはじめ、みなさまの温かいご支援やご協力のおかげで、そのお心づかいに深く感謝している。
 掲載した「下落合風景」はおよそ53点で、下落合が描かれていない作品が1点(『踏切』Click!)、描画場所がいまだ特定できていない作品が1点(『堂(絵馬堂)』Click!)を加えて55点だ。また、曾宮一念アトリエClick!の東隣りに住んでいた、浅川秀次邸Click!の塀を描いたとみられる『浅川ヘイ』Click!と、『セメントの坪(ヘイ)』Click!の下に描かれていたとみられる佐伯自身の「アトリエ風景」Click!はあえて含めなかったが、東京美術学校の門前に開店していた沸雲堂Click!浅尾丁策Click!が所有していた、佐伯アトリエの『便所風景』Click!(戦後は行方不明)は画面が存在しないものの、佐伯ならではの視線を感じる作品なので、旧・アトリエClick!の便所の扉写真とともに含めることにした。
 こうして、下落合における佐伯の足跡をたどってくると、「制作メモ」Click!に書かれた30数点のタイトルだけが「下落合風景」でないのは明らかだが、その制作期間もまた2年近くにおよんでいることがわかる。1926年(大正15)9月1日に行われた、佐伯アトリエにおける東京朝日新聞記者(「アサヒグラフ」担当)との会見Click!で、カメラマンが撮影した佐伯一家の背後には、すでに曾宮一念アトリエの前に口を開けた諏訪谷Click!の斜面に建つ家Click!とコンクリート塀を描いた、従来から『セメントの坪(ヘイ)』Click!と呼称している画面が確認できるので、少なくとも連作「下落合風景」は1926年(大正15)の8月以前からスタートしていたのが歴然としている。また、そのキャンバスの下に描かれていたとみられる、佐伯祐三アトリエの北に面した採光窓らしい画面を入れれば、さらに以前から下落合の風景に取り組んでいたとも想定できる。
 そして、1927年(昭和2)6月17日に1930年協会Click!の第2回展が開催される直前、1926年(大正15)の秋から『八島さんの前通り』Click!(当時は東京府の補助45号線計画道路に指定)で宅地の整地作業Click!が進んでいた納三治邸Click!が、翌年の竣工直前か竣工後に描かれたとみられる『八島さんの前通り(北から)』Click!の画面から、佐伯は1927年(昭和2)の少なくとも5~6月まで、連作「下落合風景」を描きつづけていたことになる。これまで何度か書いてきたが、同シリーズが『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』に収録した、わずか50点余どころではないことが想定できるのだ。
セメントの坪(ヘイ).jpg
ガード.jpg
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 改めて、佐伯祐三の『下落合風景画集』を編集していて感じたのだが、タイトルを『下落合工事中・造成中・開発中風景画集1926~1927』とでもしたほうが、よほど適切のような気がしてくる。佐伯が「下落合風景」に選び好んで描く場所のほとんどが、当時はまさにそろいもそろって工事中・造成中・開発中の殺伐とした地点ばかりだからだ。したがって、下落合の中・西部にかけての画面が中心で、山手線の目白駅や高田馬場駅に近い住宅街として落ち着きを見せはじめていた、そして大きな屋敷や西洋館が多く建ち並んでいた下落合の東部は、ほとんどタブローにしていない。当時、下落合東部のお屋敷街を好んで描いたとみられる、下落合584番地のアトリエClick!にいた二瓶等Click!の連作「下落合風景」Click!とは、まさに対照的なモチーフ選びだ。
 また、下落合をはじめ周辺地域に建っていたレンガ造りや石造り、コンクリート造りのビルや商店、住宅を佐伯はことごとく避けて描いている。よく「下落合の風景に飽きたらず、パリの硬質な街角の風景を描きたくなり再び渡仏した」と説明されるが、また本人も再渡仏の理由のひとつとして周囲に語っていたようだが、それでは連作「下落合風景」を描いていた上記の姿勢(テーマ)とは大きく矛盾する。
 佐伯は、米子夫人Click!実家Click!がある新橋駅近くの土橋Click!へ出かけると、レンガ造りのガードClick!をモチーフに制作したりしているが、下落合ではそのような風景モチーフをほとんど選ばず、あえて工事中・造成中・開発中の、作業員が見えないだけで常に槌音が響いているようなエリアばかりに足を運んでいるのだ。むしろ、工事音が聞こえるから、それに惹かれるように描く場所を決めていった……とさえ思えてくる。佐伯本人が、周囲に語っていた再渡仏の「理由」とは別に、なんらかの明確な目的意識をもちながら、これら「下落合風景」のモチーフは選ばれているように感じる。
 パリの街角を描く佐伯祐三の視座(テーマ性)とは、明らかに異なる眼差しによる強い画因が存在していたと考えた方が、むしろ自然であり理解しやすいだろう。「滞仏が長期間におよび一度帰国したけれど、しかたがないので心ならずも地元の下落合風景に取り組んで描いていた」のでは説明がつかない、残された作品の画面と佐伯の足どりが透けて見えてくる。そこには、あえて工事中・造成中・開発中の、つまり整然としていない下落合の風景ばかり選んで描く、もうひとつ別の佐伯の視座(テーマ性)を強く感じるのだ。
中井駅前.jpg
看板のある道.jpg
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 掘りおこされた土、耕地整理が済んで草いきれが漂う雑草だらけの造成地、どこかで響く「よいとまけ」Click!の声と振動、次々と運びこまれる築垣や縁石用の大谷石、砂利や資材を運ぶトロッコの軌道、地鎮祭が終わったばかりの御幣がゆれる赤土の地面、荒玉水道Click!の水道管を埋設するため道路端に積まれた土砂の山、下水の側溝を固めるために積まれたセメントの樽、棟上げ式がすんだばかりで骨組みだけの西洋館、ペンキやクレオソートClick!が強く匂う入居者を待つばかりの新築住宅……、そんな情景が繰りひろげられている下落合の中・西部を、佐伯祐三は丹念に歩きながらモチーフをひろって描いている。
 大正末から昭和初期にかけ、東京の郊外ならどこでも観られた風景で、特に下落合の情景がめずらしかったわけではない。めずらしさの観点からいえば、目黒の洗足田園都市Click!とほぼ同時期に開発がスタートした目白文化村Click!近衛町Click!など、従来の日本の住宅街とはかなり異質な街並みの存在だが、佐伯は目白文化村のほぼ外周域を描くだけで、近衛町にいたっては近よりすらしていない。そして、山手線の駅に近づくほどに「下落合風景」の制作画面が急減する傾向は、なにを意味しているのだろう。
 素直に解釈すれば、東京郊外に展開する開発途上の光景を、下落合という自身のアトリエがある地元に代表させて(プレパラート化して)、ことに工事中・造成中・開発中の雑然として落ち着かない、ことさらキタナイ風景をわざわざ選んで足をはこび描いていったということになるが、佐伯はそこになにを感じて、どのような通底するテーマの経糸を設定し、またどのような“美”の解釈を見出していたというのだろうか。
 風でヒラヒラと手拭いが揺れる、アトリエの『便所風景』を描く佐伯祐三のことだから、凡人にはうかがい知れない彼ならではの“画家の眼”が、その感性とともに存在していたのであろうことはまちがいないのだろうが、パリでも下落合でも雑然としたキタナイ風景に惹かれ突き動かされる眼差しや美意識は、いったいなにに由来するものなのだろうか。新しい作品が見つかるたびに、そんな疑問が繰り返し湧きあがってくるのだ。
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 『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』第8版は、PDFファイルにも落としているので、ご希望があれば3.6MBほどの容量なのでメールに添付してお送りすることが可能だ。PDF画集をご希望の方は、メールでご一報いただければさっそくお送りしたいと思う。

◆写真上:拙い『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』第8版の表紙と表4。
◆写真下:それぞれ、44ページある本文ページの部分拡大。

読んだ!(21)  コメント(8) 
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読んだ! 21

コメント 8

水谷嘉弘

ギャラリー内田でご一緒した水谷です。その節は愉しい会話のひと時をありがとうございました。佐伯祐三画集のversionup おめでとうございます。今後、御サイトの読者にさせていただきたくよろしくお願い申しげます。
by 水谷嘉弘 (2022-07-15 10:19) 

ChinchikoPapa

水谷さん、コメントをありがとうございました。
こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました。先ほど、PDF版の『下落合風景画集-下落合を歩く佐伯祐三-』を、みなさまも含めてお送りいたしました。どうぞ、ご笑覧ください。
by ChinchikoPapa (2022-07-15 12:38) 

水谷嘉弘

早速に画集データをお送りいただきありがとうございました。画像がきれいでびっくりしました。佐伯を「パリに居てパリを描いた画家」と評した人がいましたが、これを拝見すると「下落合に居て下落合を描いた画家」とも並び称してよいのでは、と思います。
さて、今秋根津の池之端画廊で私がproduceした「里見勝蔵を巡る三人展」を開催することになりました。昭和戦前戦中期に里見に宛てた三枚の絵葉書を契機とした【昭和のフォーヴィストたち、色の競演】と銘打つ4人の絵や資料の展覧会です。里見だけでなく以前本サイトにも取り上げられた熊谷登久平もその一人です。落合道人様にはご指導たまわりたくご報告方々お願いする次第です。
by 水谷嘉弘 (2022-07-15 13:36) 

ChinchikoPapa

水谷さん、重ねてコメントをありがとうございます。
『里見勝蔵を巡る三人展』、とても面白そうですね。ぜひ、拝見しにうかがいたいと思います。詳細なスケジュールが確定しましたら、ぜひお知らせください。楽しみにしています。
by ChinchikoPapa (2022-07-15 15:53) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。佐伯祐三の画集のバージョンアップ凄いですね。大阪の美術館の収蔵品まで触れられていて、ますます充実しましたね。もし、ご迷惑でなければ以前お知らせさせていただいた私のメルアドに画像をお送りいただければ幸いです。よろしくお願いします。
by pinkich (2022-07-18 12:07) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
すみません、PCを入れ替えたばかりで過去メールの移行をサボっておりまして、参照できないテイタラクとなっております。申しわけありません。
 tomohiro.kita@gmail.com
……まで、「しょうがないな」メールをお送りください。すぐに、『下落合風景画集』をお送りいたします。<(_ _;)>

by ChinchikoPapa (2022-07-18 18:43) 

水谷嘉弘

↑でmentionした「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」の紹介記事を書いたので長文で申し訳ありませんがコピペします。本コラムで三人の一人熊谷登久平を取り上げられていらっしゃいましたが、僕も熊谷明子さんと本展準備で情報交換しています。新たに、荒井龍男が里見勝蔵に宛てた戦後まもなくの葉書を所有していたと連絡をもらいました。落合道人様にも、里見を含めた4人の相関についての情報、知見を教示賜れば幸甚です。よろしくお願い申し上げます。


【「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展をプロデュースして 】
『美術の窓』令和4年9月号「視点」
水谷嘉弘(一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会代表理事・会長) 

今秋、根津の池之端画廊で開催される里見勝蔵(1895~1981)を巡る三人の画家の展覧会は意外な組み合わせと感ずる方が多いと思う。三人とは熊谷登久平、荒井龍男、島村洋二郎である。近代日本洋画史を紐解いても繋がりはよくわからない。

きっかけは島村洋二郎(1916~1953)である。私がエコール・ド・パリの夭折画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた4年前、志半ばで世を去った洋画家島村の顕彰をしている洋二郎の姪、島村直子さんを紹介された。私は鼎と同時期にパリで活動した東京美術学校卒業生を調べていて、里見勝蔵は前田寛治がパリ豚児と呼んだうちの一人だったが、偶々洋二郎が師里見に宛てた近況を報告する絵葉書(昭和18年横須賀発)を入手したのである。洋二郎は旧制浦和高校を中退した後、数年間東京杉並の里見のアトリエに通うが文献や里見の著述等には記されておらず戦中期には疎遠になっていた、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた。しかし葉書の親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があると思い早速直子さんに伝えたところ新事実に吃驚され洋二郎年譜にも追記されることになった。

それと前後して熊谷登久平(1901~1968)を池之端画廊の展覧会で観て、登久平次男の夫人熊谷明子さんと面識を得る。画廊主鈴木英之氏を私が顧問を務めている美術愛好家団体あーと・わの会にお誘いし、その縁で同会の初代理事長野原宏氏が所蔵している絵画を池之端画廊で展示することになった。そこに洋二郎に続いて、知ったばかりの熊谷登久平と、野原氏が多くの作品を所蔵されている荒井龍男(1904~1955)の里見勝蔵宛絵葉書各1通も入手する機会に恵まれたのである。

登久平の葉書は昭和11年10月宇都宮発。熊谷明子さんに訊ねると、保有されている資料類から文面に記されている人名が同年7月に福島二本松で開かれた「独立美術協会派四人展」に出品した画家と割り出してくれた。四人の一人は吉井忠で、賛助出品者に里見、福沢一郎、林武、田中佐一郎、井上長三郎、応援出品者に登久平がいる。発信地も宇都宮であり同展に因む行き来のようだと判明した。荒井の葉書は当時居住していたソウル発で(昭和9年9月)、「パリに行くので便宜をお授け賜えれば・・シャガールを紹介して欲しい・・後進の為に道をお開き願います・・」という依頼の文面が興味深い。荒井は翌10月渡仏している。実際にシャガールに会ったのか不明だが画家山田新一は荒井の滞欧作展(昭和11年)を観てシャガールの影響を指摘している。洋二郎の絵葉書はシャガールで偶然の呼応だった。

今回の四人を繋いだのは、昭和戦前・戦中期に投函された里見勝蔵宛の3枚の絵葉書なのである。これが今回の展覧会をプロデュースするに至った経緯だ。親分肌里見勝蔵の求心力のお蔭とも言える。

里見勝蔵(1895・明治28年~1981)と三人との関係は、熊谷登久平(1901・明治34年~1968)は里見が創立メンバーだった独立美術協会会員として、荒井龍男(1904・明治37年~1955)は在野美術団体の後輩として、島村洋二郎(1916・大正5年~1953)は師弟関係として、である。全て別ラインで各人に面識があったのかは定かではない。登久平と洋二郎は白日会で接点があるが、10年間出品在籍した登久平に比べ洋二郎は入選1回である。しかし、放浪の画家、長谷川利行と親しくその追悼歌集に寄稿した登久平、パリでボードレールの碑を描き友人たちと詩集「牧羊神」を出版した荒井、手作りの「五線譜の詩集」を遺した洋二郎には同種の感性が通底している。彼らの作品は形態家ではなくカラリストのそれだ。それぞれの代表作やその他1次資料を多く所蔵する方々三人のご協力を得、里見作品を加えて「昭和のフォーヴィストたち、色の競演」と銘打つことが出来た。

四人の作品が、里見勝蔵の母校東京美術学校(現東京藝術大学)近くの、美校卒業が2年後輩にあたる鈴木千久馬の孫、英之氏が経営する画廊で一堂に会する。画廊は3年半前、英之氏の母方の祖父、日本画家望月春江のアトリエ跡地に新築した建物だ。そのことにも想いを寄せながら絵を味わっていただければと思っている。
以上  
                     
「展覧会概要」
開催期間:令和4年10月12日(水)~10月30日(日) 
会場:池之端画廊 東京都台東区池之端4−23−17 ジュビレ池之端 
主な展示品:
里見勝蔵宛絵葉書3通、 
里見勝蔵:「ルイユの家」昭和35年作、 
熊谷得登久平:「ねこ じゅうたん かがみ 裸女」昭和34年作、「熊谷登久平画集(絵と文)」昭和16年刊、 
荒井龍男:「ボードレールの碑」昭和9年作、詩集「牧羊神」昭和7年刊、
島村洋二郎:「桃と葡萄」昭和13~14年作(里見「秋三果」のオマージュ作品)、手書きノート「五線譜の詩集」「黒い手帖」

(2022・8・4)

by 水谷嘉弘 (2022-08-20 13:01) 

ChinchikoPapa

水谷さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
池之端画廊での展覧会は、ぜひうかがいたいと思います。
里見勝蔵の軌跡については、彼が下落合630番地には短期間しか住まず、すぐに外山卯三郎といっしょに井荻へアトリエを移してしまいますので、特に深く追跡したことがありません。
外山卯三郎は、空襲で自邸が焼けたために下落合の実家へともどり、外山とは仲たがい中だった里見はそのまま戦後も井荻にとどまりますが、それ以降の活動については詳しくありません。
以前お話ししましたが、小島善太郎アトリエへお邪魔したとき、お嬢様から里見勝蔵の記念品を見せていただき、戦後もずっとふたりの交流がつづいていたのを確認できた……というのが印象に残る程度です。お役に立てなくて、すみません。
by ChinchikoPapa (2022-08-20 14:53) 

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