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「よいとまけ」が響く大正期の下落合。 [気になる下落合]

整地佐伯アトリエ隣接地.JPG
 下落合のモダンな住宅街が語られるとき、その多くは開発したディベロッパーの箱根土地Click!東京土地住宅Click!、あるいは住宅を設計した遠藤新Click!河野伝Click!吉武東里Click!大熊喜邦Click!などの建築家や、住宅メーカーのあめりか屋Click!などにスポットが当てられやすいが、それ以前の土木工事について語られることがほとんどない。
 もちろん、土木工事を行なう当時の作業員(土工や土方と呼ばれた)は、多くの場合、特別の資格や技能を必要としない、体力勝負の力仕事が中心だったので、取りたてて史的に記録する必要性も必然性もなかったのだろう。
 たとえば、下落合306番地の近衛町Click!29号に建っていた帆足邸Click!の地面は、経営破綻がウワサされる東京土地住宅から依頼を受けた、「会社の設立間もない、〇〇組の〇〇親方とその土工チームが造成した敷地だった。崖地を含む三角形の土地の整地は、危険をともなうきわめて困難な作業だった。事故が多発しかねない現場を初めて眼にした〇〇親方は、緊張した面持ちで部下を御留山の谷に集めると、思わずこう訓示した。“オレは盃を交わした常務の三宅さんClick!を信用してる。だから、オレたちは何があろうと、この現場をやりとげようじゃねえか!”」……というような、まるで『プロジェクトX』の黒四ダムナレーションのような記録はまったく残らない。
 帆足邸の建設は、住宅の設計・建築を引き受けた中村鎮Click!による「中村式鉄筋コンクリートブロック」工法から語られるのであり、それ以前の宅地造成・整地工事については一顧だにされない。でも、住宅地の造成・整地作業を行なう基礎工事が、その上に載る住宅の建設にも増して重要なのは多言を要しないだろう。“基礎がため”や“地ならし”が甘ければ、そもそも上部の住宅が脆弱で倒壊しかねないのは、今日の手抜き宅地開発に関する事件・事故を見ても明らかだ。それほど重要な基礎工事である、宅地造成時の基本的な作業であるにもかかわらず、土木工事の記録が残されることはまれだった。
 それは、土木工事=力作業が中心の「下賤」な仕事であり、建築工事=知的で創造性をともなう「高級」な仕事という、職業や仕事に対する労働差別の意識から生じているのだろう。だが、建機も重機もなにもない江戸期から明治期にかけては、もちろん土木にしろ建築にしろ、すべて人力による“職人ワザ”の手作業で行われていたのであり、神田上水Click!を掘削した土工作業員は「下賤」で、目白山Click!(椿山)の下に大洗堰Click!を築造した建設作業員は「高級」などという労働差別は存在しえなかった。
 大正期の宅地造成や整地作業、いわゆる土木工事(当時も現在も開発工事では土工と略されることが多い)は、もっとも重要な地固め(地ならし)工事や土留め工事、埋め立て工事、穿孔工事、杭打ち工事、掘削工事などが実施され、これらの作業はほぼすべてが人力で行われていた。現在なら、これらの工事は建機や重機がほぼ100%こなしている作業だが、当時はすべて“人海戦術”による人手で行われていたのであり、大正中期の下落合では、あちこちで「よいとまけ」のかけ声が響いていただろう。
よいとまけ(明治期).jpg
整地御留山官舎跡.JPG
整地林泉園跡.JPG
 落合第二府営住宅Click!24号の下落合1524番地に建っていた自宅から、箱根土地の郊外遊園地Click!「不動園」Click!が解体され、目白文化村Click!第一文化村Click!が造成される様子を観察していた、目白中学校Click!に通う生徒の手記が残っている。目白文化村の、土木工事の様子をとらえためずらしい記録だ。1924年(大正13)4月に発行された、目白中学校の校友誌「桂蔭」Click!第10号に掲載の、松原公平Click!『郊外の発展』から引用してみよう。
  
 我が一家が来た当時、硝子窓を通して見えるものは、只青々と繁つた森、見渡す限り広々と開けた緑の畑ばかりで、朝な夕なの景色は、物に譬へやうもなかつた。併しそれも長くは続かなかつた。すぐ附近にある某富豪の大庭園、それは始(ママ)めて見た我々の眼を如何に驚かせ喜ばせたか云ふ迄もない。広い芝生、鯉浮ぶ池、夏尚寒き木立等にあこがれて、夏の夕、薄暗き中を涼し気な浴衣姿もチラホラ見えて、昼間は青々とした芝生に戯れ遊ぶ小児の群れ、池畔に鯉と遊ぶ幼児も、実に楽し気に見えて、古へのエデンの園もかくやと迄思はれたが、間もなく汚い掘立小屋が建ち、頑強相な朝鮮人土工達の数百人も入り込んで来て、地球も真二つと打込む鍬の先に、それらの楽しみは皆終のを告げた(ママ:。) 広い芝生は何時の間にか醜い赤土の原と化した。そして無情な土工達の手は容赦なく園外の畠まで延(ママ)びた。漸く育つた許りの麦の芽が涙も情もない土方の手に掛つて無惨に掘り起され、トロツコに放り上げられた。トロツコの音が、麦の芽の漸く伸び始めた頃から、桐の葉色濃かな頃まで毎日毎日続いた。さうしてその音の止んだ時、そこには何万坪かの見渡す限りの赤土原が開かれた。竹垣は結ひ廻された。間もなくそこには黄色の壁、赤い瓦の洋風建築が大工の鑿の音につれてドンドン出来て来た。
  
 おそらく、1921年(大正10)のうちから北側の府営住宅のほうまで、風にのって地固めや杭打ちをする「よいとまけ」の声が響いてきたのではないだろうか。
 その後、「何万坪かの見渡す限りの赤土原」の上に、日本の街角とは思えないようなモダンな目白文化村が出現したとき、東京市民たちはその情景にこぞって目を見張ったわけなのだが、強固な地ならしを前提とした大谷石の縁石や擁壁づくり、大きな西洋館を支える杭打ち、緻密な共同溝の掘削など、その基盤づくりをした土木作業のあらかたは、「めずらしくもない当然のこと」として忘れ去られ、顧みられなくなっていった。
 人力による「よいとまけ」の土木作業は、戦後の1945年(昭和20)以降にも全国各地で行われている。すべてが戦争のために供出させられ、街中に建機や重機類がまったく見あたらなくなり、また空襲のためにそれらが破壊されてしまったため、戦後の宅地造成作業はよほど大規模な開発でない限り、「よいとまけ」に頼らざるをえなくなっていた。空襲の焼跡に、再び住宅を建設する場合や、戦後の住宅不足から田畑をつぶして家々を建てる場合も、建機や重機などないに等しいので、ほとんどが人手による造成作業だった。
よいとまけ(戦前).jpg
整地金山平三アトリエ跡.JPG
整地近衛町隣接地.JPG
整地九条武子邸跡.JPG
 敗戦の直後、家屋を再建する槌音を、吉村昭Click!は「よいとまけの唄」とともに克明に記録している。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された吉村昭『東京の下町』から、日暮里の商店街で行われた地ならし作業の様子を少し長いが引用してみよう。
  
 丸太を三つまたにして、その上部に滑車をつけ綱を通す。綱の先端には、胴突と称する重い鉄の地ならし具がとりつけられている。/指揮者ともいうべき鳶職の男が一人いて、丸太のまわりに十人近い手拭を頭にかぶった女たちがそれぞれ綱をにぎっている。女たちが一斉に綱をたぐると胴突が丸太の頂きにあがってゆき、同時に手をはなすと、胴突が落下し、土台石を打ちこむ。その動きは、男の掛声によってリズミカルに反復される。/「かあちゃんのためなら、よーいとまーけ」/男の声に女たちは、/「父ちゃんのためなら、よーいとまーけ」/と唱和し、綱をたぐって胴突を落す。/男はおおむね美声で、/「巻け巻け巻いてぇ、よーいとまーけ」/「やんやぁこりゃやぁの、よーいとまーけ」/「も一つおまけに、よーいとまーけ」/と、掛声にも変化をつけ、高音、低音もとりまぜる。/「あらあら来ました、別嬪さんが、きれいに着かざり、どーこへ行く」/などと言って、通行する娘などを冷やかす。/むろん卑猥なことも口にし、よいとまけの女たちは笑い、立ちどまってながめている者たちも笑う。いつも使っている文句もあるが、即興の文句もあって、女たちが涙をにじませて笑うこともある。重労働にちがいないが、その辛さを男の掛声がやわらげる。/一個所の基礎打ちこみが終ると、丸太を移し、その場で再び「巻け巻いてぇ」がはじまるのである。大きな家や銭湯などの新築の折には、丸太が二、三個所にもうけられ、互いに声をはりあげ、「よいとまけ」がにぎやかにおこなわれる。
  
 宅地開発で基礎づくりが目立たないのは、土木仕事の文字どおり「地味」さと、誰にでも視覚的に確認できる建築仕事の「派手」さとのちがいもあるのだろう。
 今日のICTにおける開発環境でいえば、たとえばプラットフォームやシステムインフラなど基礎的なR&Dの「上流開発」はまったく目立たないし、あらゆる仕組みづくりの重要な基盤であり土台であるにもかかわらず知る人は少ないが、その上に構築される「下流開発」の具体的なシステムや身近なアプリケーションは、誰でも目にすることができる……というのにも似ているだろうか。「縁の下の力持ち」的な仕事は、よほど公的で特別かつ高名な開発でもない限り、いつの時代にも目立たないし記録されないし、顕彰されもしない。
小林盈一邸1923頃.jpg
整地目白文化村隣接地.JPG
整地諏訪谷隣接地.JPG
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 ネットで「よいとまけ」を検索すると、北海道苫小牧を中心とした銘菓「よいとまけ」が大量にひっかかる。ロールケーキの「よいとまけ」を製造しているのは、三星(みつぼし)という製菓会社だが、もともとは小樽で創業したパン屋「小林三星堂」が起源で、創業者の小林慶義は小林多喜二Click!の伯父だ。小林多喜二が小樽時代に寄宿していた三星堂の、戦後に大ヒットした主力商品が「よいとまけ」Click!だったというのも、なんとなく面白い。

◆写真上佐伯祐三Click!アトリエの北側で、整地を終えた旧・酒井億尋邸Click!跡。
◆写真中上は、明治期に来日した外国人によって撮影された「よいとまけ」作業の様子。土木作業員が、ほとんど女性だったのがめずらしかったのだろう。は、御留山Click!の財務省官舎跡が公園化に向け造成された様子。樹下にまとめて片づけられているのは、相馬邸Click!七星礎石Click!は、林泉園Click!谷戸からつづく谷間の造成地。
◆写真中下は、戦前に撮影された「よいとまけ」。組まれた丸太の上は男性だが、綱をたぐるのは全員女性。中上は、整地を終えた金山平三アトリエClick!跡。中下は、近衛町の北側に隣接した造成地。は、整地を終えた九条武子邸Click!跡。
◆写真下は、1923年(大正12)ごろ小林盈一邸Click!のバルコニーから眺めた開発中の近衛町。窓を開ければ、近衛町のあちこちから「よいとまけ」の声が聞こえてきただろう。中上は、第二文化村の北側に隣接する基礎工事を終え建設を待つ造成地。中下は、諏訪谷Click!の南側に新たな擁壁とともに拓かれた造成地。は、整地を終えたアビラ村の一画。
おまけ
 北海道の苫小牧市に「よいとまけ」(三星)という銘菓があるみたいだと知人に話したら、さっそく送ってくれた。ごちそうさまでした。ブルーベリーに似た、酸味の強いハスカップのジャムを添えたロールケーキだが、酸っぱさを抑えるためにか大量に水飴やハチミツ、砂糖が使われていて、食後は眠気をもよおすほどの怖ろしく甘いケーキだった。^^;
苫小牧「よいとまけ」.jpg

読んだ!(17)  コメント(25) 
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コメント 25

ChinchikoPapa

川幅があるので、ゆったりと大きな神輿船ですね。こちらでは掘割りをさかのぼる必要から、コンパクトの神輿船が多いです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tomi_tomiさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 10:09) 

ChinchikoPapa

高校時代からの思い出がある原宿駅舎ですので、だいじに保存してほしいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 10:11) 

ChinchikoPapa

このアルバムも、手にしたことがないですね。1970年代後半の日本では、輸入盤店でも稀少だったのではないでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 10:16) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 10:17) 

ChinchikoPapa

もはや、税金を払いたくないですね。「自助・公助」だから、自民党と公明党で資金を「助」すればいいんじゃないでしょうか。「共助」は金輪際得られないでしょうが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 10:24) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 10:24) 

ChinchikoPapa

わたしはカセットテープよりも、大量のVHSテープが課題でした。本と同様に場所もとるし、かなりの重量がありますから。いまだにBDやDVDへのダビング作業がつづいてまして、実は昨夜も「ワイト島ミュージック・フェス1970」のVHSビデオ2巻を、BDに移し替えていました。でも、つい昔のビデオにそのまま見入ってしまい、夜更かししてしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 13:36) 

ChinchikoPapa

旅館やホテルの経営も、たいへんなのでしょうね。わたしの周囲では喫茶店が4軒、立てつづけに閉店しました。これらは「廃業」扱いで、コロナ禍による倒産件数にはカウントされません。ものすごい勢いで、店舗や企業の「廃業」(実質倒産)がつづいてますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 15:11) 

kazg

私の母達、農村の女性労働力は、現金収入を手に入れる数少ないチャンスとして、土木作業に重視することが一般でした。丸山(三輪)明宏の「よいとまけの歌」は、その意味では、絵空事ではありません。「ヨイトマケの子供さたない子供といじめぬかれてはやされて」という経験はありませんけれども、、、。


by kazg (2020-09-29 18:04) 

ChinchikoPapa

kazgさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
わたしは「よいとまけ」は見たことがありませんが、子どものころバイパス工事などに従事する土木作業員たちが、家族で「飯場」に住みついている様子は憶えています。10家族ぐらいはいたでしょうか。子どもなので見えませんでしたが、おそらく住宅街では差別的な目で「飯場」を眺めていたのではないかと思います。
就学年齢に達した子どもたちもいたはずですが、学校にはいっさい通ってきませんでした。いまから思うと、子どもたちは差別やイジメが嫌で、登校したくなかったのではないかと思い当たります。道路工事が終ると、「飯場」の家族は少しずつ減っていき、最後には誰もいなくなりました。おそらく高度経済成長の裏側で、全国各地の土木建設現場を渡り歩いては、仕事をしていた人たちだったんでしょうね。あの子たちはその後どうしたろうと、ときどき思い出します。
by ChinchikoPapa (2020-09-29 19:32) 

ChinchikoPapa

サトちゃん人形には、苦い思い出があります。子どものころ、薬屋の前に首がブラブラ揺れるサトちゃんがいたので、鼻をつかんで思いっきり揺らしたら壊してしまい、かなり叱られた憶えがあります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 19:36) 

ChinchikoPapa

糖質が多く含まれていそうな、ベトついた酒は苦手かもしれません。翌日、頭がガンガンしそうで、サラッとした大辛口が好きな理由も、そのあたりにあるのかもしれませんね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2020-09-29 22:55) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2020-09-30 09:38) 

ChinchikoPapa

魚に含まれるビタミンDのほかビタミンEも、インフルなどウィルス性の感染症にはよいというのを、何年か前に読んだ記憶があります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ピストンさん
by ChinchikoPapa (2020-09-30 11:06) 

ChinchikoPapa

街中にあるコンクリートのたたきなどをよく観察すると、いろいろな動物の足跡がついたまま固まってしまったものがけっこうありますよね。もちろん、人間の足跡も……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2020-09-30 15:14) 

kiyokiyo

ChinchikoPapaさん
おはようございます!
今日は生憎の雨ですね~
僕も自民と菅さんの仲良し公明でお金を出し合えば良いと思います。
今は、最優先で税金を投入しなければならないことがあるのですから。
美輪明宏さんの「よいとまけ」の歌を聴いたことがあります。
戦後のイメージが強かったのですが、大正の頃から女性の労働力は貴重だったんですね。
「よいとまけ」のロールケーキ美味しそうですね^^
by kiyokiyo (2020-10-01 07:04) 

ChinchikoPapa

kiyokiyoさん、コメントをありがとうございます。
美輪明宏の唄う歌詞は確か「えーんやこーら」ですが、地方地域によってはいろいろな歌詞があるようですね。いつごろから、土工現場で唄われるようになったのかは、調べると奥が深そうです。
「よいとまけ」ケーキは、酸味も強いのですが想像以上に極甘で、苦いコーヒーか渋めの紅茶を用意しないとバランスがとれないですね。
by ChinchikoPapa (2020-10-01 10:13) 

ChinchikoPapa

美術館や博物館の観賞で、目的のモノの前が混雑していると、それだけで疲労感が増します。ほかの展示を観ればいいのですが、あれはおかしな心理ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2020-10-01 10:21) 

ひまぢん

ChinchikoPapa様、よいとまけの記事勉強になります。今まさに目白クラブ南側で、現代のよいとまけが工事を行っております。
さて失礼ながら、「東中野今昔ものがたり(2006年6月発行)」をご存じですか?(ご存じなら申し訳ありません)
東中野5丁目小滝町会会長・岸恒夫氏が、かつての東中野周辺を回想して書かれた小冊子です。東中野「桐ヶ谷踏切」を検索していて見つけたのですが、改修前の神田川と妙正寺川合流点(落合)の写真・記事や、戸山ヶ原の記事他があり本HPと重なる記事や写真が記載されており、素晴らしい冊子です。
その中で落合の改修は昭和9年頃には終わっていたと記されております。やはり空中写真Rシリーズは1934~1935年頃ということが分かります。
by ひまぢん (2020-10-01 18:08) 

ChinchikoPapa

ひまぢんさん、コメントをありがとうございます。
旧・学習院昭和寮(日立目白クラブの南側)は、ほんとうにひどい状況になっていますね。ああやって目白崖線を切り崩し、樹木を根こそぎにしていくのか……という見本のような工事です。
今年の春先、同工事による緑地の減少に反対している近衛町の「目白が丘幼稚園周辺の交通安全・環境を守る会」の筒井様からご連絡をいただき、貴重な資料類をいただきましたので、関連する記事を何本か書いていました。
「東中野今昔物語」は拙ブログをはじめたころ、2004年ごろよりご親切なある方からお送りいただいていたのですが、数年後から途絶えてしまったように記憶しています。当時は(いまもそうですが)、昔の資料へ当たるのに手いっぱいで現代の資料にまで手がまわらず、どこかへ大切にしまってあったかと思います。
WebでPDFが公開されているようですので、今度まとめて拝読してみたいと思います。情報をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2020-10-01 18:56) 

ChinchikoPapa

わたしが子どものころは、「根岸線」とは呼ばずに「京浜東北線」と呼んでいましたね。横浜駅の表示もそれで統一されていて、よく親に連れられ桜木町や関内、石川町に出かけてました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2020-10-01 22:29) 

ひまぢん

ChinchikoPapa様、本日改めて「東中野今昔ものがたり」を読んでいて、P12の神田川・妙正寺川落合写真に沿って記載されている「写真提供/東京都建設局 河川部」が気になり検索してみました。すると東京都建設局・歴史資料館において、「昭和8年3月15日撮影」のオリジナル写真が公開されていることが判明しました。
直接リンク等が禁止されているため、検索手順を以下に記載します。

検索手順
1.“東京都建設局 歴史資料館”で検索しリンク先を開く。
2.“直接リンク・無断転載禁止”他の注意書きを読む。
3.“河川”を開く。
以上です。

ChinchikoPapa様が、今まで示されている下落合駅のホーム及び神田川・妙正寺川の旧河道、また別地点の写真が見ることが出来ます。
by ひまぢん (2020-10-02 16:00) 

ChinchikoPapa

ひまぢんさん、情報とコメントをありがとうございます。
そうなんです。実は以前、下記の「大正期からの神高橋はなぜ斜め?」記事を書いたとき、同建設局のサイトで「新宿区高田馬場2丁目(神高橋)付近」を見つけて使いたかったのですが、公益団体や非営利グループ(組織)への転用は許可されるものの、個人のサイトへは許可が下りないケースを、これまでさんざん経験してきたものですから諦めてしまいました。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2016-02-27

掲載されている写真の中で、「新宿区下落合1丁目(妙正寺川合流点)付近」は、以前から自治体などの資料で見かけますね。

by ChinchikoPapa (2020-10-02 17:59) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2020-10-02 22:09) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2020-10-06 18:00) 

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