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頭にきている目白中学校の同窓会委員会。 [気になる下落合]

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 1929年(昭和4)11月10日、目白中学校Click!の第19回同窓会総会が午前9時から「豊島園」で開かれた。当時の豊島園は、先ごろ閉園した乗り物や遊具だらけの遊園地「としまえん」とは大きく異なり、西洋館の宴会場やレストラン、プール、花壇、野外音楽堂、スポーツ施設なども備えた自然公園のような趣きだった。
 当時の東京郊外に造られた遊園地Click!は、下落合の「落合遊園地」Click!「不動園」、新宿の「新宿園」Click!などがそうであったように、今日の概念とはまったくちがっている。子どもの遊具はあまりなく、現代にたとえるなら庭園が整備されイベント会場も備えた緑地公園といったイメージだろうか。ときに、池にはさまざまな水禽Click!が放たれ、それらをのんびり眺めつつ散策しながら、1日じゅうすごせるような施設だった。
 11月10日の日曜日、東京は朝から強い寒風が吹いていた。東京中央気象台によれば、同日は「雨」で48.7mmの降雨が記録されている。同年3月24日に開かれた前回の第18回同窓会総会には、各年の卒業生が80名ほども参集し、練馬に移転した同校の会場がいっぱいになるほどの大盛況だった。その光景を見た準備委員の中には、感激して泣きだす卒業生もいたらしく、「自分等の奉仕的努力も茲に始めて、報いられたかの感に打たれたのである。又委員中には感極つて随喜の涙に噎んだ者も、一二あつた」と記録されている。
 したがって第19回総会の今回も、開始早々に40~50名ほどの同窓生が大挙して集まるのではないかと想定していた同窓会委員は、せっかく豊島園に用意した宴会場で大きな肩透かしをくらうことになった。開始時刻の午前9時をすぎても、卒業生たちがほとんどやってこなかったのだ。午前中にはすでに「しまった!」と、イベントの企画失敗を自覚していた様子で、すでにグチが出はじめている。
 特に委員たちをやきもきさせたのは、同時刻に豊島園の隣接する会場で、東京市街にある某女学校の同窓会が開かれていて、そちらは開始と同時に300名を超える卒業生たちがドッと集まり、大きく盛りあがっていたからだ。それに比べ、目白中学校の宴会場は委員の卒業生を除けば閑散としていた。ややキレ気味なレポートを、1930年(昭和5)に目白中学校同窓会から発行された、「同窓会会誌」第16号収録の「同窓会記」から引用してみよう。
  
 早朝より霜気を含める寒風が、強烈に吹き荒んだので、出足が頗る悪く、而も開会時間が朝九時であつた為め、全く予想を裏切られてしまつた。之は全く寒風と開会時間の尚早なりし事が、さしも戦場に臨んでは、鬼神も泣かしむるといふ大和男子の意気を、凹ましてしまつたに相違ない。尚当日は市内某女学校の同窓会も、同じく豊島園に開催せられた。仄聞する所によれば、娘士軍の参会驚く勿れ、無慮三百余名と言ふではないか。会費は本会よりも、ずつと気張つて何でも三円五十銭だとか云ふ話であつた。此処に於て、我が委員は、輓近の女子は素敵だ、何がつて!! それは聞く程野暮な話だ。……勿論それは女子の男子をも凌ぐ外部への進出と気前の良い事だ。一円や一円五十銭の会費が高いの、五十銭も六十銭もする会誌を只の五銭にしろとか、七銭にしろとか、そんな野暮な事は言はんよ。まァそれもよいさ、片方で値切つて、片方で無意味に多額の黄白(金貨・銀貨)を投げ棄てる気前者もある世の中だから……。(カッコ内引用者註)
  
 同窓会委員が怒るのも、無理はなかった。この日、参集した卒業生は彼ら同窓会の準備委員の全員をカウントしても、わずか25名にすぎなかったのだ。
 同窓会の会場は、プールの近くに建っていた西洋館で、同じ建物内では「輓近の女子は素敵」な女学校の同窓会が開かれていて、その会費の高さに驚いているから、ヒマな委員たちは彼女たちの会をのぞいて実際に取材しているのだろう。それに比べ、半額以下の目白中学校の同窓会費だが、それでも高いとブツクサ文句をいってきた卒業生たちがいたようだ。
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 雨の合い間に、豊島園のプール近くの庭園にはキクやオミナエシなど秋の花々が咲き乱れ、その中をおそらく300人余の女学校卒業生たちが散策する光景を目の当たりにしたのだろう、「天国もかくあるやと疑はるゝ場面」が展開し、まるで浦島太郎のように「遥々龍宮まで亀さんに案内されて、乙姫に拝謁して、陶酔、浮世の煩を忘れし」と、出席しなかった卒業生たちに向け「くればいいのに!」と、皮肉たっぷりに書いている。
 さらに、目白中学校の同窓会委員を口惜しく落胆させたのは、この日に合わせてコンサートを行なう楽団まで雇用していたことだ。演奏を聴く同窓会の会員がほとんどいなかったため、まるで女学校の同窓会にやってきた「乙姫」たちを喜ばせるために、あるいは豊島園へ来園する一般の家族連れなどの耳を楽しませるために開かれた、ボランティアコンサートのようになってしまった。
 つづけて同誌から、皮肉たっぷりなレポートを再び引用してみよう。
  
 又当日は特に我々の為に、音楽会を開き、他校の卒業生も一般入場者も共々にその歓びを分つたので、わが同窓会員は期せずして、所ならずも豊島園の為に慈善行為をする事になつたのは、これ一に委員等の特殊な斡旋努力の結果と考へる。一同日の短きを託ちつゝ五時頃散会した。当日の参会者は二十五名(給仕君を含めて)。学校よりの出席者は柏原会長、大塚先生、一柳先生、岡本先生、河奈委員長等であつた。伝へ聞けば散会後、某々有志者は某所に於て、更に第二次会を開き、母校や本会の今後の発展策に就て、大いに研究討論されたと云ふ事である。
  
 翌1930年(昭和5)3月23日(日)の卒業式当日、第20回目白中学校同窓会総会が同校内で開かれた。この年の卒業生は134名で、事前にアンケートを実施したところ、50名以上もの新規同窓会員が総会に参加するはずだった。ところが、フタを開けてみたらたった15名しか集まらず、しかも同窓会委員さえ委員長と、新卒業生からの新委員のふたりしかこなかった。同窓会の常任委員さえ、さっさとどこかへバックレてしまったのだ。
豊島園噴水広場(昭和初期).jpg
豊島園池と清流(昭和初期).jpg
豊島園古城レストラン(昭和初期).jpg
 参加者50名超のために、資料や同窓会誌などを用意していた委員長は、さすがに激怒して「同窓会に大損害を与へたといふ事は事実だ」と書いている。茶や菓子類も用意していたらしく、「損害を見積つても約五六十円の巨額」とこぼしている。また、教師や在校生たちによる余興も、総会に出席した卒業生より出演者のほうがはるかに多くなってしまった。
 著者は最後に、第20回総会の「収穫」として8つの項目を挙げている。
 (一) 百参拾四名の新会員
 (二) 旧師難波田先生の御出席
 (三) 大亦、桜井両先生及び在学生四十五名の出演
 (四) 勝野弁護士の臨機の措置
 (五) 五、六十円の損害
 (六) 後輩への悪例
 (七) 出席委員及び出席会員の大失望
 (八) 出演諸君の失望落胆
 ちなみに「(四)勝野弁護士の臨機の措置」とは、同窓会委員を引き受けていた勝野という卒業生が、急な仕事で出席できなくなったことを事前に同窓会委員会にとどけ出た……という、しごくあたりまえな行為のことだ。
 目白中学校同窓会の衰退は、同校が1926年(大正15)10月に落合町下落合437番地Click!から、上練馬村高松2305番地Click!へと移転した直後からはじまっていたのではないだろうか。なぜなら、目白中学校への入学者は、独特な校風や大学並みのレベルの高い教師陣にも惹かれただろうが、山手線・目白駅Click!から徒歩3分(300m余)というアクセスのよさにも、大いに魅力を感じていたにちがいない。実際に生徒たちは、目白駅周辺の地元やその周辺域からの通学者がもっとも多かった。
 ところが、キャンパス(敷地)の地主だった近衛家Click!のよんどころない都合とはいえ、目白駅近くからいきなり7kmも離れた練馬に移転したのでは、生徒たちが素直に納得したとは思えない。教師の中にさえ、移転を機に目白中学校を辞めた人物も少なくなかった。通学するのさえたいへんなのに、卒業後の同窓会ともなれば、練馬までの出席を億劫がるのはいたしかたないだろう。いくら総会を、母校ではなく近くの豊島園で開催するにしても、当時の感覚でいえばあまりにも「遠すぎた」のだ。
 もし、同窓会総会を母校の旧キャンパスがあった目白駅周辺で開いていれば、午前9時からとはいえ、もう少し卒業生が懐かしがって集まったのかもしれない。なぜなら、それまでの卒業生のほとんどは下落合の校舎で学んだ生徒たちであり、練馬の校舎で学んだ生徒は1930年(昭和5)の卒業生を含め、いまだほんのわずかな数にすぎなかったからだ。
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 偶然手に入った目白中学校の「同窓会会誌」第16号だが、1930年(昭和5)までの卒業生全員の名簿(住所含む)や、同校の卒業生あるいは教師のエッセイ・手記が数多く収録されている。目白中学校長で同窓会会長だった柏原文太郎Click!の随筆をはじめ、目白時代の回顧を含めた多種多様な文章が紹介されているので、機会があれば再び記事にしてご紹介したい。

◆写真上:1929年(昭和4)に開かれた、目白中学校運動会の百足(ムカデ)競争。
◆写真中上は、1926年(大正15)10月に校舎ごと下落合から上練馬へ移転した目白中学校。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された杉並へ移転前後の目白中学校。は、1936年(昭和11)撮影の杉並へ移転後に無人となった校舎。
◆写真中下:いずれも昭和初期に撮影された豊島園の噴水のある広場()、清流とボートがこげる庭園池()、そして古城を模したレストラン()。
◆写真下は、昭和初期に撮影された豊島園のプール。は、上練馬の目白中学校跡地に建つ練馬中学校。は、1930年(昭和5)に行われた春の中学野球(現・高校野球)リーグ戦の成績。目白中学校は慶応や早稲田、麻布などの強豪校を抑えて優勝している。

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