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「よいとまけ」が響く大正期の下落合。 [気になる下落合]

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 下落合のモダンな住宅街が語られるとき、その多くは開発したディベロッパーの箱根土地Click!東京土地住宅Click!、あるいは住宅を設計した遠藤新Click!河野伝Click!吉武東里Click!大熊喜邦Click!などの建築家や、住宅メーカーのあめりか屋Click!などにスポットが当てられやすいが、それ以前の土木工事について語られることがほとんどない。
 もちろん、土木工事を行なう当時の作業員(土工や土方と呼ばれた)は、多くの場合、特別の資格や技能を必要としない、体力勝負の力仕事が中心だったので、取りたてて史的に記録する必要性も必然性もなかったのだろう。
 たとえば、下落合306番地の近衛町Click!29号に建っていた帆足邸Click!の地面は、経営破綻がウワサされる東京土地住宅から依頼を受けた、「会社の設立間もない、〇〇組の〇〇親方とその土工チームが造成した敷地だった。崖地を含む三角形の土地の整地は、危険をともなうきわめて困難な作業だった。事故が多発しかねない現場を初めて眼にした〇〇親方は、緊張した面持ちで部下を御留山の谷に集めると、思わずこう訓示した。“オレは盃を交わした常務の三宅さんClick!を信用してる。だから、オレたちは何があろうと、この現場をやりとげようじゃねえか!”」……というような、まるで『プロジェクトX』の黒四ダムナレーションのような記録はまったく残らない。
 帆足邸の建設は、住宅の設計・建築を引き受けた中村鎮Click!による「中村式鉄筋コンクリートブロック」工法から語られるのであり、それ以前の宅地造成・整地工事については一顧だにされない。でも、住宅地の造成・整地作業を行なう基礎工事が、その上に載る住宅の建設にも増して重要なのは多言を要しないだろう。“基礎がため”や“地ならし”が甘ければ、そもそも上部の住宅が脆弱で倒壊しかねないのは、今日の手抜き宅地開発に関する事件・事故を見ても明らかだ。それほど重要な基礎工事である、宅地造成時の基本的な作業であるにもかかわらず、土木工事の記録が残されることはまれだった。
 それは、土木工事=力作業が中心の「下賤」な仕事であり、建築工事=知的で創造性をともなう「高級」な仕事という、職業や仕事に対する労働差別の意識から生じているのだろう。だが、建機も重機もなにもない江戸期から明治期にかけては、もちろん土木にしろ建築にしろ、すべて人力による“職人ワザ”の手作業で行われていたのであり、神田上水Click!を掘削した土工作業員は「下賤」で、目白山Click!(椿山)の下に大洗堰Click!を築造した建設作業員は「高級」などという労働差別は存在しえなかった。
 大正期の宅地造成や整地作業、いわゆる土木工事(当時も現在も開発工事では土工と略されることが多い)は、もっとも重要な地固め(地ならし)工事や土留め工事、埋め立て工事、穿孔工事、杭打ち工事、掘削工事などが実施され、これらの作業はほぼすべてが人力で行われていた。現在なら、これらの工事は建機や重機がほぼ100%こなしている作業だが、当時はすべて“人海戦術”による人手で行われていたのであり、大正中期の下落合では、あちこちで「よいとまけ」のかけ声が響いていただろう。
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整地御留山官舎跡.JPG
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 落合第二府営住宅Click!24号の下落合1524番地に建っていた自宅から、箱根土地の郊外遊園地Click!「不動園」Click!が解体され、目白文化村Click!第一文化村Click!が造成される様子を観察していた、目白中学校Click!に通う生徒の手記が残っている。目白文化村の、土木工事の様子をとらえためずらしい記録だ。1924年(大正13)4月に発行された、目白中学校の校友誌「桂蔭」Click!第10号に掲載の、松原公平Click!『郊外の発展』から引用してみよう。
  
 我が一家が来た当時、硝子窓を通して見えるものは、只青々と繁つた森、見渡す限り広々と開けた緑の畑ばかりで、朝な夕なの景色は、物に譬へやうもなかつた。併しそれも長くは続かなかつた。すぐ附近にある某富豪の大庭園、それは始(ママ)めて見た我々の眼を如何に驚かせ喜ばせたか云ふ迄もない。広い芝生、鯉浮ぶ池、夏尚寒き木立等にあこがれて、夏の夕、薄暗き中を涼し気な浴衣姿もチラホラ見えて、昼間は青々とした芝生に戯れ遊ぶ小児の群れ、池畔に鯉と遊ぶ幼児も、実に楽し気に見えて、古へのエデンの園もかくやと迄思はれたが、間もなく汚い掘立小屋が建ち、頑強相な朝鮮人土工達の数百人も入り込んで来て、地球も真二つと打込む鍬の先に、それらの楽しみは皆終のを告げた(ママ:。) 広い芝生は何時の間にか醜い赤土の原と化した。そして無情な土工達の手は容赦なく園外の畠まで延(ママ)びた。漸く育つた許りの麦の芽が涙も情もない土方の手に掛つて無惨に掘り起され、トロツコに放り上げられた。トロツコの音が、麦の芽の漸く伸び始めた頃から、桐の葉色濃かな頃まで毎日毎日続いた。さうしてその音の止んだ時、そこには何万坪かの見渡す限りの赤土原が開かれた。竹垣は結ひ廻された。間もなくそこには黄色の壁、赤い瓦の洋風建築が大工の鑿の音につれてドンドン出来て来た。
  
 おそらく、1921年(大正10)のうちから北側の府営住宅のほうまで、風にのって地固めや杭打ちをする「よいとまけ」の声が響いてきたのではないだろうか。
 その後、「何万坪かの見渡す限りの赤土原」の上に、日本の街角とは思えないようなモダンな目白文化村が出現したとき、東京市民たちはその情景にこぞって目を見張ったわけなのだが、強固な地ならしを前提とした大谷石の縁石や擁壁づくり、大きな西洋館を支える杭打ち、緻密な共同溝の掘削など、その基盤づくりをした土木作業のあらかたは、「めずらしくもない当然のこと」として忘れ去られ、顧みられなくなっていった。
 人力による「よいとまけ」の土木作業は、戦後の1945年(昭和20)以降にも全国各地で行われている。すべてが戦争のために供出させられ、街中に建機や重機類がまったく見あたらなくなり、また空襲のためにそれらが破壊されてしまったため、戦後の宅地造成作業はよほど大規模な開発でない限り、「よいとまけ」に頼らざるをえなくなっていた。空襲の焼跡に、再び住宅を建設する場合や、戦後の住宅不足から田畑をつぶして家々を建てる場合も、建機や重機などないに等しいので、ほとんどが人手による造成作業だった。
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整地金山平三アトリエ跡.JPG
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 敗戦の直後、家屋を再建する槌音を、吉村昭Click!は「よいとまけの唄」とともに克明に記録している。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された吉村昭『東京の下町』から、日暮里の商店街で行われた地ならし作業の様子を少し長いが引用してみよう。
  
 丸太を三つまたにして、その上部に滑車をつけ綱を通す。綱の先端には、胴突と称する重い鉄の地ならし具がとりつけられている。/指揮者ともいうべき鳶職の男が一人いて、丸太のまわりに十人近い手拭を頭にかぶった女たちがそれぞれ綱をにぎっている。女たちが一斉に綱をたぐると胴突が丸太の頂きにあがってゆき、同時に手をはなすと、胴突が落下し、土台石を打ちこむ。その動きは、男の掛声によってリズミカルに反復される。/「かあちゃんのためなら、よーいとまーけ」/男の声に女たちは、/「父ちゃんのためなら、よーいとまーけ」/と唱和し、綱をたぐって胴突を落す。/男はおおむね美声で、/「巻け巻け巻いてぇ、よーいとまーけ」/「やんやぁこりゃやぁの、よーいとまーけ」/「も一つおまけに、よーいとまーけ」/と、掛声にも変化をつけ、高音、低音もとりまぜる。/「あらあら来ました、別嬪さんが、きれいに着かざり、どーこへ行く」/などと言って、通行する娘などを冷やかす。/むろん卑猥なことも口にし、よいとまけの女たちは笑い、立ちどまってながめている者たちも笑う。いつも使っている文句もあるが、即興の文句もあって、女たちが涙をにじませて笑うこともある。重労働にちがいないが、その辛さを男の掛声がやわらげる。/一個所の基礎打ちこみが終ると、丸太を移し、その場で再び「巻け巻いてぇ」がはじまるのである。大きな家や銭湯などの新築の折には、丸太が二、三個所にもうけられ、互いに声をはりあげ、「よいとまけ」がにぎやかにおこなわれる。
  
 宅地開発で基礎づくりが目立たないのは、土木仕事の文字どおり「地味」さと、誰にでも視覚的に確認できる建築仕事の「派手」さとのちがいもあるのだろう。
 今日のICTにおける開発環境でいえば、たとえばプラットフォームやシステムインフラなど基礎的なR&Dの「上流開発」はまったく目立たないし、あらゆる仕組みづくりの重要な基盤であり土台であるにもかかわらず知る人は少ないが、その上に構築される「下流開発」の具体的なシステムや身近なアプリケーションは、誰でも目にすることができる……というのにも似ているだろうか。「縁の下の力持ち」的な仕事は、よほど公的で特別かつ高名な開発でもない限り、いつの時代にも目立たないし記録されないし、顕彰されもしない。
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 ネットで「よいとまけ」を検索すると、北海道苫小牧を中心とした銘菓「よいとまけ」が大量にひっかかる。ロールケーキの「よいとまけ」を製造しているのは、三星(みつぼし)という製菓会社だが、もともとは小樽で創業したパン屋「小林三星堂」が起源で、創業者の小林慶義は小林多喜二Click!の伯父だ。小林多喜二が小樽時代に寄宿していた三星堂の、戦後に大ヒットした主力商品が「よいとまけ」Click!だったというのも、なんとなく面白い。

◆写真上佐伯祐三Click!アトリエの北側で、整地を終えた旧・酒井億尋邸Click!跡。
◆写真中上は、明治期に来日した外国人によって撮影された「よいとまけ」作業の様子。土木作業員が、ほとんど女性だったのがめずらしかったのだろう。は、御留山Click!の財務省官舎跡が公園化に向け造成された様子。樹下にまとめて片づけられているのは、相馬邸Click!七星礎石Click!は、林泉園Click!谷戸からつづく谷間の造成地。
◆写真中下は、戦前に撮影された「よいとまけ」。組まれた丸太の上は男性だが、綱をたぐるのは全員女性。中上は、整地を終えた金山平三アトリエClick!跡。中下は、近衛町の北側に隣接した造成地。は、整地を終えた九条武子邸Click!跡。
◆写真下は、1923年(大正12)ごろ小林盈一邸Click!のバルコニーから眺めた開発中の近衛町。窓を開ければ、近衛町のあちこちから「よいとまけ」の声が聞こえてきただろう。中上は、第二文化村の北側に隣接する基礎工事を終え建設を待つ造成地。中下は、諏訪谷Click!の南側に新たな擁壁とともに拓かれた造成地。は、整地を終えたアビラ村の一画。
おまけ
 北海道の苫小牧市に「よいとまけ」(三星)という銘菓があるみたいだと知人に話したら、さっそく送ってくれた。ごちそうさまでした。ブルーベリーに似た、酸味の強いハスカップのジャムを添えたロールケーキだが、酸っぱさを抑えるためにか大量に水飴やハチミツ、砂糖が使われていて、食後は眠気をもよおすほどの怖ろしく甘いケーキだった。^^;
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頭にきている目白中学校の同窓会委員会。 [気になる下落合]

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 1929年(昭和4)11月10日、目白中学校Click!の第19回同窓会総会が午前9時から「豊島園」で開かれた。当時の豊島園は、先ごろ閉園した乗り物や遊具だらけの遊園地「としまえん」とは大きく異なり、西洋館の宴会場やレストラン、プール、花壇、野外音楽堂、スポーツ施設なども備えた自然公園のような趣きだった。
 当時の東京郊外に造られた遊園地Click!は、下落合の「落合遊園地」Click!「不動園」、新宿の「新宿園」Click!などがそうであったように、今日の概念とはまったくちがっている。子どもの遊具はあまりなく、現代にたとえるなら庭園が整備されイベント会場も備えた緑地公園といったイメージだろうか。ときに、池にはさまざまな水禽Click!が放たれ、それらをのんびり眺めつつ散策しながら、1日じゅうすごせるような施設だった。
 11月10日の日曜日、東京は朝から強い寒風が吹いていた。東京中央気象台によれば、同日は「雨」で48.7mmの降雨が記録されている。同年3月24日に開かれた前回の第18回同窓会総会には、各年の卒業生が80名ほども参集し、練馬に移転した同校の会場がいっぱいになるほどの大盛況だった。その光景を見た準備委員の中には、感激して泣きだす卒業生もいたらしく、「自分等の奉仕的努力も茲に始めて、報いられたかの感に打たれたのである。又委員中には感極つて随喜の涙に噎んだ者も、一二あつた」と記録されている。
 したがって第19回総会の今回も、開始早々に40~50名ほどの同窓生が大挙して集まるのではないかと想定していた同窓会委員は、せっかく豊島園に用意した宴会場で大きな肩透かしをくらうことになった。開始時刻の午前9時をすぎても、卒業生たちがほとんどやってこなかったのだ。午前中にはすでに「しまった!」と、イベントの企画失敗を自覚していた様子で、すでにグチが出はじめている。
 特に委員たちをやきもきさせたのは、同時刻に豊島園の隣接する会場で、東京市街にある某女学校の同窓会が開かれていて、そちらは開始と同時に300名を超える卒業生たちがドッと集まり、大きく盛りあがっていたからだ。それに比べ、目白中学校の宴会場は委員の卒業生を除けば閑散としていた。ややキレ気味なレポートを、1930年(昭和5)に目白中学校同窓会から発行された、「同窓会会誌」第16号収録の「同窓会記」から引用してみよう。
  
 早朝より霜気を含める寒風が、強烈に吹き荒んだので、出足が頗る悪く、而も開会時間が朝九時であつた為め、全く予想を裏切られてしまつた。之は全く寒風と開会時間の尚早なりし事が、さしも戦場に臨んでは、鬼神も泣かしむるといふ大和男子の意気を、凹ましてしまつたに相違ない。尚当日は市内某女学校の同窓会も、同じく豊島園に開催せられた。仄聞する所によれば、娘士軍の参会驚く勿れ、無慮三百余名と言ふではないか。会費は本会よりも、ずつと気張つて何でも三円五十銭だとか云ふ話であつた。此処に於て、我が委員は、輓近の女子は素敵だ、何がつて!! それは聞く程野暮な話だ。……勿論それは女子の男子をも凌ぐ外部への進出と気前の良い事だ。一円や一円五十銭の会費が高いの、五十銭も六十銭もする会誌を只の五銭にしろとか、七銭にしろとか、そんな野暮な事は言はんよ。まァそれもよいさ、片方で値切つて、片方で無意味に多額の黄白(金貨・銀貨)を投げ棄てる気前者もある世の中だから……。(カッコ内引用者註)
  
 同窓会委員が怒るのも、無理はなかった。この日、参集した卒業生は彼ら同窓会の準備委員の全員をカウントしても、わずか25名にすぎなかったのだ。
 同窓会の会場は、プールの近くに建っていた西洋館で、同じ建物内では「輓近の女子は素敵」な女学校の同窓会が開かれていて、その会費の高さに驚いているから、ヒマな委員たちは彼女たちの会をのぞいて実際に取材しているのだろう。それに比べ、半額以下の目白中学校の同窓会費だが、それでも高いとブツクサ文句をいってきた卒業生たちがいたようだ。
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 雨の合い間に、豊島園のプール近くの庭園にはキクやオミナエシなど秋の花々が咲き乱れ、その中をおそらく300人余の女学校卒業生たちが散策する光景を目の当たりにしたのだろう、「天国もかくあるやと疑はるゝ場面」が展開し、まるで浦島太郎のように「遥々龍宮まで亀さんに案内されて、乙姫に拝謁して、陶酔、浮世の煩を忘れし」と、出席しなかった卒業生たちに向け「くればいいのに!」と、皮肉たっぷりに書いている。
 さらに、目白中学校の同窓会委員を口惜しく落胆させたのは、この日に合わせてコンサートを行なう楽団まで雇用していたことだ。演奏を聴く同窓会の会員がほとんどいなかったため、まるで女学校の同窓会にやってきた「乙姫」たちを喜ばせるために、あるいは豊島園へ来園する一般の家族連れなどの耳を楽しませるために開かれた、ボランティアコンサートのようになってしまった。
 つづけて同誌から、皮肉たっぷりなレポートを再び引用してみよう。
  
 又当日は特に我々の為に、音楽会を開き、他校の卒業生も一般入場者も共々にその歓びを分つたので、わが同窓会員は期せずして、所ならずも豊島園の為に慈善行為をする事になつたのは、これ一に委員等の特殊な斡旋努力の結果と考へる。一同日の短きを託ちつゝ五時頃散会した。当日の参会者は二十五名(給仕君を含めて)。学校よりの出席者は柏原会長、大塚先生、一柳先生、岡本先生、河奈委員長等であつた。伝へ聞けば散会後、某々有志者は某所に於て、更に第二次会を開き、母校や本会の今後の発展策に就て、大いに研究討論されたと云ふ事である。
  
 翌1930年(昭和5)3月23日(日)の卒業式当日、第20回目白中学校同窓会総会が同校内で開かれた。この年の卒業生は134名で、事前にアンケートを実施したところ、50名以上もの新規同窓会員が総会に参加するはずだった。ところが、フタを開けてみたらたった15名しか集まらず、しかも同窓会委員さえ委員長と、新卒業生からの新委員のふたりしかこなかった。同窓会の常任委員さえ、さっさとどこかへバックレてしまったのだ。
豊島園噴水広場(昭和初期).jpg
豊島園池と清流(昭和初期).jpg
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 参加者50名超のために、資料や同窓会誌などを用意していた委員長は、さすがに激怒して「同窓会に大損害を与へたといふ事は事実だ」と書いている。茶や菓子類も用意していたらしく、「損害を見積つても約五六十円の巨額」とこぼしている。また、教師や在校生たちによる余興も、総会に出席した卒業生より出演者のほうがはるかに多くなってしまった。
 著者は最後に、第20回総会の「収穫」として8つの項目を挙げている。
 (一) 百参拾四名の新会員
 (二) 旧師難波田先生の御出席
 (三) 大亦、桜井両先生及び在学生四十五名の出演
 (四) 勝野弁護士の臨機の措置
 (五) 五、六十円の損害
 (六) 後輩への悪例
 (七) 出席委員及び出席会員の大失望
 (八) 出演諸君の失望落胆
 ちなみに「(四)勝野弁護士の臨機の措置」とは、同窓会委員を引き受けていた勝野という卒業生が、急な仕事で出席できなくなったことを事前に同窓会委員会にとどけ出た……という、しごくあたりまえな行為のことだ。
 目白中学校同窓会の衰退は、同校が1926年(大正15)10月に落合町下落合437番地Click!から、上練馬村高松2305番地Click!へと移転した直後からはじまっていたのではないだろうか。なぜなら、目白中学校への入学者は、独特な校風や大学並みのレベルの高い教師陣にも惹かれただろうが、山手線・目白駅Click!から徒歩3分(300m余)というアクセスのよさにも、大いに魅力を感じていたにちがいない。実際に生徒たちは、目白駅周辺の地元やその周辺域からの通学者がもっとも多かった。
 ところが、キャンパス(敷地)の地主だった近衛家Click!のよんどころない都合とはいえ、目白駅近くからいきなり7kmも離れた練馬に移転したのでは、生徒たちが素直に納得したとは思えない。教師の中にさえ、移転を機に目白中学校を辞めた人物も少なくなかった。通学するのさえたいへんなのに、卒業後の同窓会ともなれば、練馬までの出席を億劫がるのはいたしかたないだろう。いくら総会を、母校ではなく近くの豊島園で開催するにしても、当時の感覚でいえばあまりにも「遠すぎた」のだ。
 もし、同窓会総会を母校の旧キャンパスがあった目白駅周辺で開いていれば、午前9時からとはいえ、もう少し卒業生が懐かしがって集まったのかもしれない。なぜなら、それまでの卒業生のほとんどは下落合の校舎で学んだ生徒たちであり、練馬の校舎で学んだ生徒は1930年(昭和5)の卒業生を含め、いまだほんのわずかな数にすぎなかったからだ。
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 偶然手に入った目白中学校の「同窓会会誌」第16号だが、1930年(昭和5)までの卒業生全員の名簿(住所含む)や、同校の卒業生あるいは教師のエッセイ・手記が数多く収録されている。目白中学校長で同窓会会長だった柏原文太郎Click!の随筆をはじめ、目白時代の回顧を含めた多種多様な文章が紹介されているので、機会があれば再び記事にしてご紹介したい。

◆写真上:1929年(昭和4)に開かれた、目白中学校運動会の百足(ムカデ)競争。
◆写真中上は、1926年(大正15)10月に校舎ごと下落合から上練馬へ移転した目白中学校。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された杉並へ移転前後の目白中学校。は、1936年(昭和11)撮影の杉並へ移転後に無人となった校舎。
◆写真中下:いずれも昭和初期に撮影された豊島園の噴水のある広場()、清流とボートがこげる庭園池()、そして古城を模したレストラン()。
◆写真下は、昭和初期に撮影された豊島園のプール。は、上練馬の目白中学校跡地に建つ練馬中学校。は、1930年(昭和5)に行われた春の中学野球(現・高校野球)リーグ戦の成績。目白中学校は慶応や早稲田、麻布などの強豪校を抑えて優勝している。

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村尾嘉陵の落合散歩。(4)浅間塚=落合富士 [気になる下落合]

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 村尾嘉陵Click!は、1831年(天保2)8月19日(太陽暦で9月下旬ごろ)に上落合村大塚にあった落合富士Click!=浅間塚古墳のあたりを散策している。落合富士=浅間塚は、改正道路Click!(山手通り=環六)の工事の際に玄室や羨道の石材が出土し(おそらく房総半島の房州石Click!製)、小規模な古墳だったことが判明している。「大塚」という小名(字名)は、この小さな古墳があったからではなく、より大規模な古墳の存在からつけられた可能性があることについては、すでに記事Click!にしている。
 浅間塚へ向かう途中、先にご紹介した藤稲荷Click!七曲坂Click!の麓に通う道、薬王院へと抜ける雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)を西へ向かって歩いているのは、村尾嘉陵が藤稲荷へもう一度参詣したくなったからのようだ。そのときの道筋の様子を、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「高田村天満宮詣の記 附、上高田村仙元塚(浅間塚)」から引用してみよう。
 ちなみに高田天満宮とは、現在では早稲田大学キャンパスに隣接していた富塚古墳Click!から、幕府の高田馬場(たかたのばば)Click!の北側、甘泉園の西側へと遷座した水稲荷社Click!の境内にある北野天神社のことで、もともとは高田八幡社(穴八幡)Click!に隣接していた社だった。また、村尾嘉陵は本文中で目的地の上落合村を訪れている事実を記しているにもかかわらず、タイトルには「上高田村」と誤記している。
  
 (前略)高田天満宮に詣でてから、未の刻を過ぎる頃に、寺の門を出て、(高田)馬場のそばから砂利場を横切って藤稲荷に詣でる。その後、山裾にある田圃の緑を西に行き、氷川の木立を左に見て、下落合の薬王院の前を過ぎる。さらに、同村の民戸のある所を行き過ぎて、伊草(井草)の用水路に架かっている橋を渡り、畦道を歩く。上落合村の石地蔵のある所から少し爪先上がりの小径を登って、曲がりくねった一筋の本道に出る。この道の北側にある浅間塚に詣でる。(カッコ内引用者註)
  
 百八塚Click!のひとつとみられる浅間塚(落合富士)だが、村尾嘉陵は藤稲荷に寄りたいがため、幕府練兵場の高田馬場Click!から下落合村を経由して上落合村まで、北側を大きく迂回するルートをたどっていたことがわかる。浅間塚のみをめざすなら、高田馬場からそのまま街道(現・早稲田通り)を西へ向かい、源兵衛村から戸塚村をへて、神田上水の小滝橋Click!をわたれば上落合村なのでよほどの近道となる。文中で「一筋の本道」と書かれているのが、現在の早稲田通りのことだ。
 「同村の民戸のある所」は、七曲坂Click!の下から西坂Click!の下あたりまでつづく下落合村の中心だった「本村」Click!のことだ。また、下落合村側から見れば「井草流」、上落合村側からは「北川」Click!と呼ばれた妙正寺川をわたる橋は、泰雲寺の了然尼Click!が建立したといわれる比丘尼橋(西ノ橋)Click!だ。
 もうひとつ、上落合村の入り口あたりでも、田圃に引かれた灌漑用水に架かる小さな「もどり橋」Click!をわたったはずで、その橋の近くには文中にもあるとおり石地蔵が奉られていた。この上落合の地蔵尊は、もどり橋跡の近くに現存している。「爪先上がりの小径」と書かれている道は、上落合村でも古い坂である鶏鳴坂Click!のことだろう。
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 さて、上落合村に拡がる田圃の様子は、先ごろ三宅克己Click!が描いた『落合村』Click!の風景と、大差ない光景だったと思われる。その田圃の畦道から、少しずつ斜面を道なりに上っていくと、「一筋の本道」すなわち現在の早稲田通りにあたる街道へと抜けられる。その「本道」の北側、のちの住所でいうと上落合607番地(現・上落合2丁目29番地あたり)に、浅間塚古墳(落合富士)と浅間社の小さな社殿が建立されていた。もっとも、同地番のほとんどは現在、山手通りの下になってしまっている。
 つづけて、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』から引用してみよう。
  
 この塚は樹木の茂っている中に、やや土を高く盛り上げ、石像の浅間大菩薩を建ててあるものである。台石は、高さ六、七尺で、塚の四面には杉の木が立ち茂っている。/その塚の北側の裾には稲荷の社があり、山の前にも小祠がある。この祠は浅間の祠であろう。鳥居は倒れており、片付ける者もいないとみえ、草むらに転がったままである。その近くに石塔婆が一基あり、「天和四年(1684年)五月、八右衛門何々」などと、四人の名前が彫り付けてある。これは最初に建立した時の供養塔であろう。浅間塚全体の高さは、平地から二丈(約6m強)ほどもあるであろうか。(カッコ内引用者註)
  
 この時期、富士講の「月三講社」Click!は、浅間塚古墳の山頂に富士山の溶岩を積み上げ落合富士(寛政年間に築造)にしていたはずだが、村尾嘉陵は富士塚Click!について言及はしていない。いくつか記録されている石塔や祠の中には、おそらく室町期に百八塚の昌蓮Click!が設置したものも含まれているのだろう。
 村尾嘉陵が訪れた下落合の藤稲荷と同様に、浅間稲荷社の鳥居も倒れていて手入れがなされていない様子がうかがえる。1911年(明治44)に撮影された浅間社と浅間塚古墳(落合富士)の写真が現存しているが、石造りの鳥居や手水舎が写っているので、明治以降に修繕されたか、あるいは新たな鳥居が建立されたものだろう。
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 また、村尾嘉陵は上落合村の「本道」、すなわち現在の早稲田通り沿いの様子も記録している。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 この本道に面して、所々に家があるけれども、いずれも農家と商家とを兼ねている。家には蔵があり、貧しそうな家はない。通りから引っ込んでいる民家にも貧しそうに見える家はない。大根の漬物を作って、都心に運ぶのであろう。たくさんの樽を積み重ねている家がある。この通りは、高田馬場から西に向かっている下戸塚村の橋通りで、中野通り、青梅街道の裏道である。もっと先で中野の大通りと一つになっている、と地元の人が言っていた。この辺りから下戸塚村の橋までは十二、三丁ほど、高田馬場までは一里という。
  
 江戸期から、落合大根Click!による沢庵漬けの製造が盛んだった様子がうかがえる。明治期から大正初期のころまで、落合大根の沢庵漬けは“ブランド”商品化し、最盛期には陸軍への大量納品や米国のハワイにまで輸出されていた。
 「下戸塚村の橋通り」という、現在では耳慣れない言葉が出てくるけれど、これは下戸塚村ではなく上戸塚村に架かる神田上水の小滝橋Click!のことだ。浅間塚から小滝橋まで、およそ「九、十丁ほど」(約900m~1km)だろうか。また、上落合村の浅間塚から幕府の高田馬場までは、およそ3kmほどで「一里(約4km)」はない。
 村尾嘉陵が浅間塚を訪ねるきっかけになったのは、「かつて四谷町のはずれにできた富士見の茶屋から西北の方に見える杉のこずえ」が気になったからだという。ここでいう「四谷町」は、現在の新宿区にある四谷のことではなく、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』Click!で有名になった「お岩さん」の住む高田村の四谷町(四家町)のことだ。そして、「富士見の茶屋」とは、現在は学習院のキャンパス内に跡がある、地元の歌人・清風が建てた「富士見茶家(珍珍亭)」Click!のことで、嘉陵は店にいた女へ遠くに見える小高い杉木立ちはなにかと訊ねている。
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大塚浅間塚古墳跡.JPG
 富士見茶家にいたのは、「媼」と書いているので歳をとった女性なのだろう、「あれは浅間塚の杉ですよ」と答えている。彼女が30年後の“お藤ちゃん”Click!だったかどうかは定かではないがw、落合富士を眺めながら新井薬師にも詣でてみたくなる村尾嘉陵だった。
                                   <了>

◆写真上:いまは月見岡八幡社の境内に移設された、浅間塚(落合富士)の山頂部。
◆写真中上は、幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースに想定した下落合村の散策コース。は、同様に上落合村の散策コース。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より) は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる浅間塚。
◆写真中下は、村尾嘉陵が書く“もどり橋”跡の近くに現存する地蔵尊。左の立像は新しく、嘉陵が目にした当時からのものは中の碑と右側の石像だろう。は、戦後に80mほど遷座している月見岡八幡社の拝殿。は、同社境内にある落合富士の山頂部。
◆写真下は、1911年(明治44)に撮影された浅間塚古墳(落合富士)。は、戦前に撮影された同塚。は、左手のビルから山手通りにかけて拡がる浅間塚古墳跡。

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村尾嘉陵の落合散歩。(3)薬王院 [気になる下落合]

七曲坂1.JPG
 村尾嘉陵Click!が下落合の藤稲荷Click!を訪れたとき、土人(江戸期は地元民の意)の面白い声をひろっている。御留山の中腹にあたる藤稲荷社より、南側に拡がる戸塚(現・高田馬場)から、戸山、角筈(現・新宿)方面の眺望をしばらく楽しんでいたときだ。
 村尾嘉陵は、事前に地誌本ででも調べておいたのか、目白崖線のこの先に七曲坂Click!があるのを知っていたようだ。そこで、なぜ「七曲(ななまがり)」という名称がついたのかを、そこにいた地元の住民に訊ねている。現在の下落合では、鎌倉期からつづく切通し状の坂道がもともとは7つの“曲がり”、つまりカーブをもっていたからというのが一般的だ。だが、江戸期に嘉陵が採取した話は、少し趣きが異なっていたのがわかる。
 1824年(文政7)9月12日(太陽暦で10月中旬ごろ)に、下落合へやってきたときに村人から聞いた証言だ。2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「藤稲荷に詣でし道くさ」から引用してみよう。
  
 (藤稲荷の)なかほどの平らになっている所から見渡すと、南側の田圃の向こうに木立が続いている。そのしまいに外山(ママ:和田戸山)にある尾張徳川家の下屋敷のこずえが見える。「七曲がりというのはどの辺りか」と尋ねると、「この山を登って行くにも、この先にも、どの道を行くにしても何度も曲がらずに行ける道はない。それでみんなが七曲がりと名付けたのだ」と言う。(カッコ内引用者註)
  
 おわかりのように、江戸期の下落合の住民は、「坂に7つのカーブがあるから七曲坂だ」とは規定していない。七曲坂の丘を上るにしても、坂道に出るにしても(このあたり言いまわしが微妙だが)、いくつもカーブがあるから「七曲」と付けられたと答えている。ただし、「どの道をいくにしても」の起点が明確にされてはいない。
 当時、幕府が制作した大江戸郊外の地図である『御府内場末往還其外沿革圖書』を参照すると、七曲坂Click!は現在とほぼ同一のかたちをしており(もちろんいまの道幅は拡幅されているが)、坂上までのカーブは3ヶ所しか数えられない。ところが、村人が証言するように、七曲坂へといたる道路を考慮に入れると、確かに七曲坂の下へたどり着くまで、7つのカーブを数えられる街道筋が3本ある。この場合の起点とは、隣り村との境界から下落合村へと入る3つの古道だ。
 七曲坂は下落合村(現・中落合/中井地域含む)の東部、「本村」Click!の東端にあるので、接する村は下高田村(のち高田村)と戸塚村ということになる。目白崖線の麓を通る雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)は、東側の下高田村へと抜けているが、その村境から七曲坂の下まで、7つのカーブを数えることができる。また、戸塚村から田島橋Click!をわたって下落合村に入り、七曲坂の下にいたる道もまた7つのカーブが数えられる。これらの道筋は、明治以降の拡幅や舗装とともにいまは直線化が進み、かなりカーブが修正されてはいるが、それでも曲がりくねった道のまま現在にいたっている。
 もうひとつ、北側の街道筋である清戸道Click!(せいどどう/1919年の『高田村誌』より)から南へ入り、鎌倉期の板碑が建つ七曲坂の下にいたる道筋もまた、7つのカーブを数えることができる。ただし、この道筋は七曲坂の坂上までは5つのカーブで、他の道筋と同様に鎌倉期の板碑が建立されていた、「本村」の入り口とみられる坂下まで数えないと、7つの“曲がり”にはならない。
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七曲坂(田島橋).jpg
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 以上のように、下落合村から見ておもに大江戸の中核である千代田城Click!の方角からやってくる場合、七曲坂(の坂下にある板碑位置)までには、その道筋に7つの“曲がり”があると解釈することができそうだ。当時の地名や川(堀)名などが、千代田城(御城)を中心として付けられたことを考慮Click!すれば、村人が「どの道を行くにしても」のやってくる方角は千代田城、つまり大江戸市街のある東南側の村境と解釈しても不自然ではないだろう。
 さて、藤稲荷の境内がある御留山を下りた村尾嘉陵は、雑司ヶ谷道を再び西へとたどっていった。訳註を省略し、同書から再び引用してみよう。
  
 神殿の前を下って西に行くと、道の傍らに寺がある。石を敷き並べ、見た目にはきれいである。薬王院という。門を入って右に鐘楼、石の宝塔があり、「宝暦九年当寺十三世隆音建」と刻まれてある。その年号から開基がそう古くないことが分かる。向かいに客殿、左に庫裏がある。みな茅葺きである。庭には大きな柿の古木がある。後ろの山には松や杉が生い茂り、眺めは素晴らしい。建物の垣根に沿って狐や兎が通る小径を登っていく。まさにここも七曲りなのであろうか。
  
 当時の薬王院(東長谷寺)Click!は、本堂や庫裏(方丈)、鐘楼などの配置が今日とはまったく異なっている。このとき村尾嘉陵は、戦災で焼失した茅葺きの太子堂Click!を見ているはずだ。せっかく裏山へ上ったのだから、藤稲荷社と同様に少しは眺望の様子を記録してくれたらと思うのだが、あまり興味を惹くものが目に入らなかったのだろう。わたしとしては、このときすぐ右手に見えていただろう摺鉢山Click!の様子が気にかかる。
 村尾嘉陵の想像どおり、下落合の薬王院は彼が訪れる150年ほど前、実寿上人が延宝年間に再興した寺だが、もともとの開基は彼の想像を超えて鎌倉時代までさかのぼる。しかも、1730年代の後半(元文年間)に火災で大半が焼失しており、村尾嘉陵は旧来の堂宇が再建されない状態の境内を観察していることになる。現在、山門を入って右手の庫裏は1878年(明治11)の建築で、正面の鉄筋コンクリート製の本堂は戦後のものだ。「狐や兎が通る小径」は獣道のことだろうが、現在はタヌキClick!が周囲を徘徊している。
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 つづいて、薬王院の裏山の様子を引用してみよう。
  
 木の根や葛などが絡まりあっている道を幾度も曲がって登り詰めると、上は広い畑になっている。畑の向かいは四家町から上板橋に行く道である。さらにそのはずれが、鼠山の辺りであろう。他からでも眺められる景色ばかりで、四方の見晴らしがきくわけでもない。木の下には小笹が生えていて足元がおぼつかないので、先に進むのはやめて、またもとの道を下ってくると、思いもかけず足元から雉子が飛び立っていったのが面白い。牛込辺りまで帰る頃には、月がくっきりと照っている。
  
 目白崖線の丘上に出た村尾嘉陵は、ほうぼうを歩きまわってさすがに土地勘がついたのか、畑の向こうに清戸道Click!鼠山Click!を的確に認めている。でも、眺望がきかないのが不満だったらしく、せっかく傾斜が急な丘上まで上ってきたにもかかわらず、再び薬王院のある山麓へと下りてしまっている。
 足もとに小笹が密集して歩きづらいと書いているが、これはわたしも学生時代にオバケ坂Click!で経験している。当時の急なオバケ坂は、両側から小笹の枝葉が足もとを覆っていて、舗装されていない道幅は50cmも見えるかどうかの細い山道だった。わたしの場合は、あえて好んでオバケ坂をよく利用しアパートへ帰っていたわけだが、夜遅く通るときなどは真っ暗で、スリルがあって楽しかった。
 村尾嘉陵も書きとめているが、当時の下落合にはキジが多く棲息していたらしい。中野筋にあたる御留山Click!で、頻繁に鷹狩りを繰り返した8代将軍の徳川吉宗Click!だが、獲物の中にはほぼ毎回キジが含まれている。
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 村尾嘉陵は、下落合村ばかり訪れている印象だが、当時は下落合村より石高が豊かだったとみられる上落合村へも足を運んでいる。次回は7年後、藤稲荷や氷川明神社Click!、薬王院と順ぐりに再訪し、落合富士のある浅間社まで足をのばした記録をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:鎌倉時代の開拓らしく、騎馬が通れる傾斜を確保した切通し状の七曲坂。
◆写真中上:鎌倉時代に魔除けの板碑が設置された、「本村」東端の七曲坂下へと向かうカーブの多い江戸期の道筋。幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースにした街道筋の7つのカーブ。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より)
◆写真中下:七曲坂の四季折々。
◆写真下:旧・本堂(方丈/上2葉)が落ち着いた味わいの、四季折々の薬王院境内。

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村尾嘉陵の落合散歩。(2)藤稲荷 [気になる下落合]

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 郊外ハイキングが大好きだった村尾嘉陵Click!は、西北方面を散策するときはよく清戸道(せいどどうClick!/『高田村誌』より=おおよそ現・目白通り)を通行することがときどきあった。石神井の三宝池Click!界隈へ遊びにいく道すがらも、清戸道から練馬街道へと抜けている。1822年(文政5)9月11日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだ。
 どんよりと曇った早朝に自宅を出た村尾嘉陵は、おそらく前回の記事と同様に江戸川橋Click!から目白坂Click!を一気に登って丘上に出ると、清戸道を西へ歩いていったのだろう。しばらく歩くうちに、雲が切れて空が晴れてきたようだ。季節的にみれば、すっかり秋めいた絶好の観光日和だっただろう。同日の様子を、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「石神井の道くさ」から引用してみよう。
  
 椎名町の慶徳屋の少し先に分かれ道があり、北に行くと上板橋に出る。ここから西は、道の両側に楢の木が植えられており、行っても行っても同じ景色の馬道が続く。椎名町から半里ほどは、道の左右はみな畑である。人家が二、三戸あるだけで、すれ違う者はみな馬を索き、糞桶を運んでいる者だけである。少し坂を下ると田圃が少しある。少し行くと登り坂になる。道の両側はみな畑で眺望もない。やや行ってまた小坂を下る。また田圃である。
  
 清戸道(ほぼ目白通り)を西へ進み、椎名町が途切れそうな西寄りのあたりから練馬街道へ入り、北西へと進む様子を書きとめたものだ。「椎名町」についての注釈が、ここでも「豊島区南長崎」となっているが、江戸期にはそれに加え、清戸道沿いの豊島区目白5丁目(旧・長崎村)、新宿区下落合4丁目、中落合2~3丁目(以上すべて旧・下落合村)が加わることは、前回の記事でも書いたとおりだ。
 村尾嘉陵が、練馬方面へ向かうために歩いている練馬街道だが、現在の目白通りから二又交番を右へと入る、長崎バス通りClick!(旧・目白バス通りClick!)がほぼそれに相当する。ただし、地元の古老によれば、練馬街道は現在の長崎バス通りよりもやや東側に分岐点があったというお話をうかがっている。『御府内場末往還其外沿革圖書』を確認すると、いまの長崎バス通りとまったく同様に、清戸道から北西へ斜めにつづく練馬街道が描かれているが、江戸期にはやや東寄りに二差路の分岐があったのかもしれない。
 中には、首をかしげてしまう記述もある。神田上水の湧水源である、井之頭の弁天社へ参詣しようと、1816年(文化13)9月15日(太陽暦で10月中・下旬ごろ)に、当時は日本橋浜町にあった官舎(賜家)を出て内藤新宿から高井戸、牟礼(三鷹)方面へと歩き、マムシに注意しながら井之頭池へと到着している。
 同文の最後に、玉川上水と神田上水を比較して次のように書いている。
  
 水源を求めていけば、水の流れを追うだけではあるが、中野、淀橋の辺りで玉川上水の支流と合流し、また高田、下落合村に至って石神井川と合流し、おもかげ橋辺りで流れは一つの川となって勢いを増す。四ツ(午後十時)の鐘が打つ頃、家に帰り着いた。
  
 ここで「高田」とあるのは、訳者の註釈「新宿区高田馬場辺り」ではなく、中野区エリアの上高田村のことだと思われる。妙正寺川(北川Click!)は、上高田村を流れて下落合村で合流しているが、石神井川は落合地域はおろか、神田上水(1966年より神田川)のどことも合流していない。
 下戸塚村の神田上水に架かる「おもかげ橋」あたりでも、2本の河川は合流しておらず、面影橋ではなく上落合に建立された泰雲寺Click!(廃寺)の了然尼Click!が架橋した、下落合の「比丘尼橋(西ノ橋)」Click!のことだろう。江戸期には、比丘尼橋(西ノ橋)の南東200mほどのところに、妙正寺川と神田上水が落ち合う文字どおり落合地域の合流点があった。のちに、妙正寺川の源流をたどって妙正寺へ参詣している嘉陵は、同寺の際にある妙正寺池が同河川の湧水源であることを改めて認知していると思われる。
清戸道(目白通り).JPG
広重「名所雪月花 井の頭の池弁財天の杜雪の景」.jpg
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 それにしても、村尾嘉陵はよく歩く。たとえば、日本橋浜町から常盤橋を渡って内濠沿いに清水門から入り、勤務先である北ノ丸の徳川清水家屋敷までは5km(往復約10km)ほどなので、わたしでも余裕で歩けるが、武蔵野の井之頭池まで往復するのはかなり疲労困憊するだろう。下落合から井之頭池までさえ、直線距離で12km近くある。往復すれば24kmだが、道路をたどって歩けば軽く30kmは超えるので、近ごろ運動不足のわたしもちょっと自信がない。
 さて、村尾嘉陵が下落合にやってきたのは、1824年(文政7)9月12日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだった。夫が遊び歩いてばかりいるので、奥さんがブツクサ文句をいう声を背に、聞こえなかったふりをしてそそくさと家を飛びだしている。同書の、「藤稲荷に詣でし道くさ」から引用してみよう。
  
 落合村の七曲がりに、虫の音を聞きに行くのなら、年寄りの世話をしながら一緒になどと、もとの同僚畑秀充が言っていたのは、もう十と五年も昔のことになってしまった。年を取るのは本当に早いもので、まさに一時の暇も、無駄にはできない。若い頃は日を惜しんで勤めに励み、老いてからは今の楽しみで心を養っているのは、すべて人生の最期を全うするためにである。したがって、引っ越しした所の障子や襖さえ張っていないが、「じきに冬が来るのに」と家内が心細げに言うのも聞かないふりをして、今日はことさら日射しもうららかで、とても家でおとなしくしていられるような陽気ではない。これも心を豊かにするためだとかこつけて、出かけることにした。
  
 なにやらすっごく耳が痛い、「かこつけ」が他人事とは思えない文章なのだけれど、村尾嘉陵はなんとか家を抜けだして下落合をめざしている。
御府内沿革圖書(藤稲荷).jpg
藤稲荷1955_1.jpg
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 このときのルートは、早稲田の水稲荷Click!(高田富士=富塚古墳Click!)から早稲田田圃を眺めながら、高田馬場(たかたのばば)Click!の南東端へと抜け、おそらく鎌倉街道を北上し面影橋(姿見橋)Click!を渡って、高田氷川社の先から雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)へと抜けて西進しているのだろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 藤稲荷の社にかつて詣でた時のことを思い起こしてみると、遥か四十年も以前のことであった。宮居も木立も昔の面影が残ってはいるものの、なにもかもの寂れた感じがする。もとは石の鳥居などなかったように思うが、今は山の入口と中ほどに二つもある。しかも中ほどにある鳥居は笠石が左に架かっている所から折れて、傍らに置かれている。これはその昔に祀った神の御心にかなわなかったので折れたのだろう、と畏れかしこまる。/ここの主(宮司のこと)はどこに行ったのだろう。女と少女とが隅の方で臼を挽いているのは、明日の月見の準備であろうか。一間の座敷に掛け物をして、机の上に三巻か四巻の文を置いてある。心得があるようだ。近くに住む者はいるのだろうか。雨が降ったり、風が強い夜などはさぞかし不安であろう。(カッコ内引用者註)
  
 このときも、藤稲荷Click!はひどく荒れていたようだ。前年の1823年(文政6)に他界した大田南畝(蜀山人)Click!の時代には、月見や虫聞きの名所として知られ風流人で賑わっていたようだが、おそらくブームが去ったのだろう。「七曲り」(坂とは限らない)へ虫聞きに訪れたのも、15年も前のことだと回想していることからも、それはうかがわれる。このあと、幕末には藤稲荷の滝見物や神田上水の落合蛍狩りClick!が流行し、涼を求める江戸市民たちで再びにぎわいを取りもどしている。だが、明治以降になると再び藤稲荷は荒廃しはじめ、敗戦後の1950年代まで廃社のようなありさまだった。
 村尾嘉陵は、藤稲荷が奉られた周囲の丘が、将軍家の鷹狩場である御留山Click!で立入禁止なのを、おそらく知っていただろう。だから、御留山の近くに家などないことを知悉していたので、宮司の見えない荒れた境内の宮居にいる、親子とおぼしきふたりの女性を心配しているのだとみられる。十五夜が間近なこの日、御留山を抜けてくる風は、藤稲荷の境内に立つ嘉陵には清々しかったにちがいない。
 つづいて、村尾嘉陵は薬王院へも立ち寄っているが、それはまた、次の物語……。
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藤稲荷境内.JPG
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 このあと、7年後の1831年(天保2)8月19日(太陽暦で9月下旬ごろ)にも、村尾嘉陵は上落合村大塚にある浅間社(落合富士Click!)を見物するついでに、再び藤稲荷へと立ち寄り参詣しているのだが、機会があればまた別途ご紹介したいと考えている。
                                <つづく>

◆写真上:清戸道(およそ現・目白通り)と、練馬街道が分岐する二差路の現状。長崎の古老によれば、練馬街道の入口はもう少し東寄りだったとうかがっている。
◆写真中上は、現在の目白通り。は、江戸末期に描かれた安藤広重『名所雪月花』のうち井之頭「池弁財天杜雪の景」。は、妙正寺池の現状。
◆写真中下は、幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースに想定した村尾嘉陵の藤稲荷までをたどる散歩コース。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より) は、1955年(昭和30)に撮影された荒れ放題の藤稲荷社。
◆写真下は、晩秋に丘下から眺めた御留山の斜面にある藤稲荷社の杜。は、同社の境内で二の鳥居と拝殿の現状。は、大田南畝(蜀山人)の彫名がみえる眷属の台座。

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村尾嘉陵の落合散歩。(1)椎名町 [気になる下落合]

鼠山1.JPG
 遅くなってしまったが、2020年夏休みの「自由研究」は、大江戸時代(江戸後期)の落合地域がテーマだ。なぜ彼を取りあげないのかな?……と思われていた方もおられるかもしれないが、郊外散策の達人・村尾嘉陵の「落合散歩」について、まとめて記事にしてみたい。
  
 徳川清水家の家臣だった村尾正靖(村尾嘉陵)という人物は、文化~天保年間(1807~1834年)にかけ、大江戸(おえど)の郊外を散策する様子を克明に日記へつけつづけている。たまに勤めの休暇がとれると、当時の言葉でいえば物見遊山、現代風にいえば大江戸の場末(江戸期は郊外の意)へハイキングを繰り返していたわけだが、その日記は今日から見れば江戸期の郊外を知るための、非常に貴重な記録となっている。
 日記なので、当初からタイトルは存在しなかったが、国会図書館では『四方の道草』という題名で、内閣文庫では『嘉陵記行』という題名で写本が保存されてきた。(『嘉陵行』ではなく『嘉陵行』のタイトルに留意) また、後世の通称としては、一般的に『江戸近郊道しるべ』という表題で呼ばれている。この村尾正靖が郊外散歩をした中に、落合地域やその近隣を訪れた記録が何度か登場している。
 『江戸近郊道しるべ』と題する現代の書籍は、当時の文章のまま註釈つきのものが、平凡社の東洋文庫版から出版されている。だが、当時の文章そのままではわかりにくいので、現代語訳で出版されている講談社版の村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』(阿部孝嗣・訳)を使って、少しずつ落合地域とその近隣の様子をご紹介してみたい。記録されているのは、1800年代の初めごろに見られていたこの地域の風景だ。
 村尾正靖という人は、いわゆる徳川御三卿のひとつ清水徳川家(十万石)の家臣で、広敷用人をつとめていた人物だ。広敷用人とは、主人のプライベートな屋敷(奥座敷)である大奥と、表座敷(役務や客間などのある座敷)の間を取り次ぐ執事や秘書のような役職で、何人かの部下(広敷番頭)を束ねて雑事をこなす仕事をしていた。
 彼は休暇がもらえると、家庭を放りだしてせっせと大江戸の周囲をひとりで、ときには仲間たちと散策するのが趣味だった。多くが日帰りの散策だったが、現代の多摩地域や神奈川県、埼玉県など遠方へ出かけるときは、宿泊してくることもあった。そして、帰宅すると散策の途中で観た風景や、「土人」(地元民の意)から聞いためずらしい話などを日記に書きとめている。休みのたびに外出するので、家内の用事はすべて妻が仕切っていたようで、ときどき文句をいわれていた気配が文中から漂っている。
 もともと発表することを前提とした本づくりとは異なり、そこには遠慮会釈のない率直な感想や意見がそのまま書きこまれており、広重Click!北斎Click!の郊外散策本、あるいは「名所」といわれる場所ばかりを選んで記録し描いた斎藤家三代・著+長谷川雪旦・画『江戸名所図会』Click!ともまた、ちがった趣きの表現となっている。
 さて、最初の回は、練馬の貫井村から谷原村(ともに現・練馬区)をめざす道すがら、下落合村の北側を通る清戸道Click!(せいどどうClick!/『高田村誌』の呼称より)=おおよそ現・目白通りを西進する様子を記録したものだ。1815年(文化12)9月8日(太陽暦では現在の10月中旬ごろ)に、千代田城北ノ丸の清水門内にあった清水屋敷(現・武道館から南側一帯の北ノ丸公園内)を午前中に出発すると、5人連れの散策仲間は江戸川橋Click!から目白坂Click!を上り清戸道へ入ったとみられる。
 以下、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「谷原村長命寺道くさ」から引用してみよう。ただし、本文中に挿入された阿部孝嗣によるカッコ内の注釈は、とりあえず省略して記述してみたい。落合地域など地元における事績や伝承、解釈、あるいは他の記録資料との齟齬が多々見うけられるので、あとから気づいた点があれば、つれづれ追加で書いてみたいと思う。
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 四家町を過ぎて東北の方をかえりみれば、森の中に大行院の屋根が見える。今日の眺望はここに極まれり、である。西北を望めば安藤対馬侯の屋敷があり、その左側が鼠山である。小径を登っていけば南面が打ち開かれていて、落合の方のこずえが見える。南西の端の方に木立が見えるが、そこが落合薬王院の森だと、近くにいた翁が言う。
  
 ここに登場している「四家町」は、雑司ヶ谷村四家町(四ッ谷町)Click!のことで四世南北の『東海道四谷怪談』Click!の舞台になった町だ。現代語の訳者は、四家町を現在の行政区画で「豊島区雑司が谷二丁目から目白一、二丁目」としているが、小石川村側にも道つづきの四家町があるので、現在の文京区目白台1~2丁目も含まれる。
 「大行院の屋根」は、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の本堂の屋根だが、その「西北」を望むと「安藤対馬侯」の屋敷があると書いている。もちろん、この安藤屋敷は延宝年間には受領名が異なっており、下落合の神田上水に架かる田島橋(但馬橋)Click!の由来となった「安藤但馬守」Click!の屋敷のことで、江戸末期になると短期間だが感応寺Click!の境内となる三角形の敷地のことだ。現代の住所表記でいうと、豊島区目白3~4丁目と西池袋2丁目にかかる、清戸道に立つ村尾嘉陵の視点からいうと、記述のとおり「西北」に見えていた広大なエリアで、訳者が註釈で指摘する「文京区大塚二丁目、現お茶の水女子大学」(村尾嘉陵の視点でいうと東北)とは、まったくの方角ちがいで誤りだ。
 この時期の「鼠山」の概念は、いまだ清戸道に立つ村尾嘉陵から見て安藤屋敷の「左側」、つまり西北側に限定されていたのがわかる。すなわち長崎村の南東端と、池袋村の南西端にあたるわけだが、将軍の鷹狩場としての鼠山Click!の範囲がもう少し池袋村側へ拡がるのは、幕末近くになってからのようだ。
 また、訳者の阿部孝嗣は註釈で、鼠山の位置を「下落合四丁目辺りの台地」としているが、これも明らかに誤りだ。鼠山は、将軍家鷹狩場の「戸田筋」Click!に属する池袋村と長崎村のエリアであり、下落合村の鷹狩場だった御留山Click!(御留場)は筋ちがいの「中野筋」の狩り場だった。鼠山と下落合の御留山とでは、鷹場役所や村々の鷹場組合もそれぞれ別であり、訳者は幕府で規定された鷹狩場エリアの「筋」を混同している。
嘉陵紀行表紙(内閣文庫).jpg 嘉陵紀行新宿方面(内閣文庫).jpg
目白通り(清戸道).JPG
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 つづけて、村山嘉陵の記述を同書より引用してみよう。
  
 椎名町の入口に一軒の豪家がある。慶徳屋という。古くからこの地に住んでいる者で、穀物を商っている。この他にも椎名町の商家には貧しそうな家が見当たらない。鼠山の西南、縄手路の左に小径があり、七曲がりに通じているという。しばらく行くと小名五郎窪である。さらに行くと左に道がある。恵古田村に通じるという。
  
 ここでいう椎名町Click!とは、現在の西武池袋線の椎名町駅Click!のことではなく、そこから南へ500mほど下った清戸道(だいたい現・目白通り)沿いに拓けていた町のことだ。江戸と郊外とを往来する人々の中継所、あるいは物流拠点となっていた町のひとつで、現在の目白通りと山手通り(環六)の交差点あたりから東西に長くつづいていた。物資が中継され、江戸へまたはその逆を往還する拠点だったため、町全体が裕福だったのだろう。
 したがって、椎名町は長崎村と下落合村にまたがった繁華街のことであり、戦前までは下落合側の聖母坂Click!にも関東バスの停留所「椎名町」Click!(終点)が、また長崎側と下落合側の双方に東環乗合自動車Click!のバス停「椎名町」が存在していた。訳者の「椎名町」註釈では、「豊島区南長崎」と限定されているが、それに加えて豊島区目白5丁目、新宿区下落合4丁目、中落合2~3丁目が加わる。
 また、「恵古田村」=江古田村Click!も、今日の江古田(えこだ)駅周辺のことではなく、いまの行政区画では中野区エリアの江古田(えごた)のことだ。清戸道から分岐した練馬街道に入ると、五郎窪Click!(五郎久保)の小名が収録されている。当時から稲荷が有名であり、椎名町の住人から立ち寄ってみるように奨められたのかもしれない。
地形図椎名町1910.jpg
江戸近郊道しるべ(平凡社).jpg 江戸近郊道しるべ(講談社).jpg
 さて、村尾嘉陵の「日記」が面白いのは、先に記したようにプライベートな記述のため、公表を前提とする表現の自主規制がなされていないことと、訪れた地域の土人(地元の人々)と積極的に交流して取材し、情報を仕入れていることだ。また、目的地へ着くまでの道すがらの風景や、おそらく好奇心が旺盛だったのだろう、細かな事象にまで目をとめて記録している点も興味深い。次回もまた、下落合村や上落合村の界隈を紹介してみたい。
                                <つづく>

◆写真上:将軍家鷹狩場の「戸田筋」にあった、鼠山界隈にある雑木林の現状。
◆写真中上:『御府内場末往還其外沿革図書』より、1670年代の延宝年間にみる安藤但馬守屋敷(のち安藤対馬守屋敷/)と、1834年(天保5)現在の感応寺境内()、そして感応寺の破却後1842年(天保13)の武家屋敷街()。
◆写真中下は、内閣文庫で保存されている村尾嘉陵『嘉陵記行』の一部。ほとんどの書籍や資料では『嘉陵行』とされているが、原典写本の『嘉陵行』が正しい。は、清戸道とほぼ重なる現在の目白通り。は、旧・鼠山の坂道のひとつ。
◆写真下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる椎名町。は、平凡社版の『江戸近郊道しるべ』()と、講談社文庫版の同書()。

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外交官宅で行儀見習いをした女性の話。 [気になる下落合]

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 この春から、自由学園Click!に通っていた大正期ではもっとも“進んだ”女子たちClick!のことを書いてきたが、では、当時の一般的な家庭における女子は尋常小学校を卒業すると、どのようにすごしていたのだろうか。下落合に生まれて、目白の外交官の家へ行儀見習いに入り、ほどなく商家に嫁いでいる女性の話をご紹介してみよう。
 1911年(明治44)に下落合で生まれた福室マサ子という方は、まだ住宅地化の波が市街地から押し寄せてはこず、離れた農家がポツンポツンと点在している田園風景の中で育っている。川沿いは、春になるとレンゲが一面に咲き、夏になると江戸期と変わらずホタルClick!が舞うような環境だった。護岸工事などされていない、旧・神田上水や妙正寺川Click!の水中には、メダカや沢ガニがたくさんいたころだ。
 1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から出版された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、福室マサ子「落合の農家から商家に嫁いで」から引用してみよう。
  
 山手通りと新目白通りの交差するところを下ると小さな川があって、丸木橋を渡って落合尋常高等小学校に通いました。小学校六年の二学期の始業式が終わって帰ってきたら、関東大震災になったんですよ。地鳴りが続いてとてもこわかったので、外で野宿をしたんですの。家は何ともなかったんですけどね。
  
 語られている時代は大正時代なので、もちろん山手通りClick!新目白通りClick!も存在しない。書かれている小川は、福室家と同様の旧家・宇田川邸Click!の東側に通う市郎兵衛坂Click!から、崖地を下って小さな丸木橋わたる、前谷戸(大正中期から不動谷Click!)の谷底を流れていた湧水流のことだ。
 この小流れは、目白文化村Click!の第一文化村に建立されている弁天社の裏谷に湧水源Click!があり、そこには桃畑に囲まれて弁天池が形成されていた。小川は東南東へ流れ下ると、1923年(大正12)の初夏までに埋め立てられて暗渠化された、第一文化村の追加分譲地Click!の下を流れ、箱根土地本社Click!の庭園「不動園」Click!で湧水池を形成したあと、落合尋常高等小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)の西側に開発された第四文化村の谷底を流れ下り、やがては妙正寺川へと合流している。
 当時の小学生は、学校から帰るとたいがい家事(農家なら子守りや農作業で、商家なら商品の配達や開梱・陳列作業など)を手伝っていた。小学生でも家業の重要な戦力であり、特に家が裕福でもないかぎり、なんらかの役割りを分担させられるのがあたりまえだった。当時の下落合は、華族やおカネ持ちの大屋敷や別荘は建っていたものの、いまだ月給とりのサラリーマン家庭はあまり見かけない時代だ。
 高等小学校を卒業すると、彼女はさっそく習いごとに通わされている。もちろん、今日のような茶道や華道、ピアノなどの趣味的な教室ではなく、すぐに生活に役立つ実践的な習いごとだった。同書より、再び引用してみよう。
  
 高等科が終わってから、お弁当を持って裁縫所に通いました。先生は聖母病院の近くの人でみんなで出かけました。あの時分はみんな着物でしたから、縫えないと不自由なんですよ。出来ているものが売っているわけじゃないですから、お嫁に行ってもその日から困っちゃうでしょ。/お店はこの辺には何もなくて、買い物は椎名町まで行きました。油は小野田油屋が売りにきたり、買いに行ったりしました。椿油や胡麻油を計り売りで買いました。/福室の家では、そのころは人を使って百姓をしていました。私もなすやきゅうりをもいだり、草取りしたりして手伝いました。植木をたくさん作っていてそこの草取りが多かったんですね。
  
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 先の山手通りと同じく、国際聖母病院Click!が竣工するのは1931年(昭和6)なので、証言者は場所がわかりやすいよう、現在の目標物を織りまぜながら話している。当時のいい方をするなら、落合尋常高等小学校の青柳先生Click!の家にちなんで名づけられた、青柳ヶ原Click!の近くに裁縫所があったのだろう。
 これまで、上落合の旧家だった福室家については、福室軒牧場Click!の記事に関連して紹介しているが、下落合西部の旧家だった福室家については、おそらく拙ブログでは初出だろう。落合尋常小学校への通学路の様子や、目白通りの椎名町Click!がおもな買い物先であること、小野田製油所Click!で油を購入している経緯などから、下落合にも複数ある福室家の中で、彼女は四ノ坂上の北西角、すなわち下落合2196番地に広い敷地や畑地を所有していた福室家のことではないだろうか。
 大正も中期をすぎると、周囲は宅地造成が急ピッチで進められ、特に関東大震災Click!後は東京市街地から郊外へドッと人口が流入していた時代だった。彼女の家の眼の前には、1920年(大正9)に吉武東里Click!大熊喜邦Click!の設計による大きな島津邸Click!が建てられており、追いかけて福室家の北東側には箱根土地による目白文化村が、つづいて下落合西部では東京土地住宅Click!のによるアビラ村(芸術村)Click!建設計画Click!が発表されていた。おそらく、福室家では郊外住宅の庭園には必須となる植木の需要急増を見こして、当時は自家の畑地で植木園を経営していたものだろう。
 彼女はしばらく家の農業を手伝ったあと、目白にあった外交官の家へ行儀見習いに出され、家事手伝いとして働いている。この外交官の家は、「前のチリ公使で、そのときは国際連盟の委員」と書かれているので、当時の外務省に勤務していた矢野真邸のことではないかと思われる。この記事をお読みの方で、どなたか当時の目白にあったとみられる矢野真邸をご存じの方がおられれば、ご教示いただきたい。
 同家は謹厳なクリスチャンの家庭環境だったらしく、食事はひとつのテーブルで彼女も家族といっしょにとっている。住みこみで食事つきの行儀見習いにもかかわらず、毎月15円の給金をくれていた。当時なら米を50kgも買える金額で、今日の価値にすると30,000円ぐらいだろうか。彼女は丸4年間そこで働き、1932年(昭和7)に23歳で結婚している。
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 結婚した相手とは“いとこ”同士で、煮豆や佃煮、干物、漬物などを売る商店を経営していた。嫁ぎ先もやはり地元で、店舗は自性院Click!も近い西落合にあった。おそらく、目白通りか新青梅街道沿いの商店だったのだろう。このあと、店を手伝いながら子育てをする主婦の生活が長くつづき、1985年(昭和60)に夫と死別している。新宿区の地域女性史編纂委員会のメンバーが取材に訪れたとき、彼女は86歳だった。
 証言の中に、落合地域のめずらしい雑煮の話が出てくる。いままで落合の地元の雑煮について取材したことがないので、同書より引用してみよう。
  
 お正月三が日は男がお雑煮を作るんですよ。朝、若水を汲んで神棚にあげて、お雑煮は里芋と小松菜を入れて鰹節のだしで作るんです。そのころお雑煮はごちそうでしたものね。今でも同じようにしていますよ。一、二月は寒餅をたくさんつきました。夕方から夜通しかかってみんなで寄り合ってつくるんです。きびを入れるとしっかりして長持ちするんですって。夏になるまで水餅にしておいて畑仕事のお茶うけに食べるんです。/春になると、徳川さまのお屋敷の牡丹がとてもみごとでみんなで見に行きました。池のそばの藤棚には藤が咲いて温室にはバナナがなっていました。バナナってこんなふうになるんだなあって感心して見たものです。そのころはバナナは珍しかったですから。方々からみなさん牡丹を見にみえて、絵描きさんが写生をしていました。
  
 「男が雑煮を作る」という習慣は同じだし、鰹節の出汁をとるのも同様だが、わたしの家の雑煮Click!にサトイモは入れない。また、わたしは小松菜があまり好きではないので、塩茹でしたホウレンソウをミツバとともに最後に添えることが多い。省略した証言なので不明だが、落合地域の名産だったダイコンやニンジン、長ネギや、ニワトリを暮れにしめた鶏肉(あるいは鴨肉Click!)なども入っているのかもしれない。
 文中に出てくる「徳川さま」Click!は、もちろん西坂の徳川義恕邸Click!のことで、「牡丹」は東京郊外の名所だったボタン園「静観園」Click!のことだ。徳川邸の温室でなっていたらしいバナナClick!は、大正末から昭和初期にかけてはまだまだめずらしく、庶民にはなかなか手がとどかない高価なフルーツだった。
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 もうひとつ、彼女は興味深い証言を残している。関東大震災のとき、上落合にある落合火葬場の煙突が折れたというものだ。火葬場の出来事なので、地元では後世に伝承されにくかったものだろうか、わたしには初耳なので詳しい資料がないかどうか、ちょっと調べてみたくなった。事実だとすると、大震災時に憲兵隊隊長室で虐殺Click!された大杉栄Click!伊藤野枝Click!、橘宗一の3人の遺体は、折れた煙突の焼却炉で焼かれたことになる。

◆写真上:下落合2196番地の、四ノ坂上にあった福室邸跡の現状。(画面左手)
◆写真中上は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる福室邸。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同邸。は、1907年(明治40)撮影の落合尋常高等小学校卒業写真。証言者も、明治期の古い校舎で学んでいた。
◆写真中下:上は、福室邸から落合尋常高等小学校までの通学路。中は、坂下の湧水流(暗渠化)に丸太橋がかかっていた跡の現状。下は、1929年(昭和4)5月24日に撮影された新校舎竣工直後の落合第一尋常小学校。撮影者は松下春雄Click!で、不動園のモッコウバラ垣ごしに西側の校舎と講堂(画面左手)をとらえている。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)撮影の徳川義恕邸「静観園」。中は、1916年(大正5)ごろに撮影の西落合の貫井家で行われたカルタ取り。(『おちあいよろず写真館』より) 下は、戦災前の1938年(昭和13)に撮影された自性院本堂。(同上)
おまけ
今年も、下落合で大きなカブトムシを見かけた。子どもたちに見つからないように……。
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目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(下) [気になる下落合]

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 高田倉庫とみられる大きな建物は、1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、目白駅(地上駅)の駅前右手、塩ノ屋旅館の敷地を含む山手線沿いの道路に面し広く建てられており、島田勝太郎の所有地に加え、線路側の鉄道院(1920年より鉄道省)の敷地も借用して建設されているとみられる。
 『高田村誌』には2棟(100坪)と書かれているが、1/10,000地形図に採取された建物の形状は「コ」の字型をしており、中央の繋がった部分が高田倉庫の事務オフィスで、その両側(東西)に2棟の倉庫が建っているように見える。
 しかし、倉庫の荷は山手線の側から、すなわち目白貨物駅Click!に到着した荷物は目白駅(地上駅)北側の踏み切りをわたり、東側から運搬されて倉入れされ、逆のケースでも東側へ倉出しされて物流ルートに乗せるか、あるいは付近の拠点に向けて配送されるのであって、高田倉庫の裏側、つまり西側に階段を設置する意味がわからない。西側の丘上は、大正半ばにはすでに宅地化が進んでおり、やはり大谷石階段Click!は高田倉庫の建設以前から、既存のものとしてそこに設置されていた……と解釈するほうが合理的だろうか。
 ただひとつ、階段設置の可能性をひねりだすとすれば、高田倉庫には小型クレーンのような物流重機が庫内の設備として設置されており、それを稼働させる高圧電流が必要だったと考えることはできる。それには鉄道(山手線)側、あるいはさらに東側にある東京電燈の高圧線(早稲田変電所Click!)から支線を引きこまなければならず、大谷石階段の上には小型の受変電設備(電源小屋)が設置されていた……という推測も成り立つだろうか。1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、階段の崖上と思われる位置に小屋のような、小さな建築物を確認することができる。大谷石階段は、同受変電設備をメンテナンスするための保守要員が上る階段ということになる。だが、これはあくまで推測にすぎず、なんら裏づけとなる資料も証言も存在していない。
 高田倉庫は大正末になると、元の位置から南へ移転して倉庫の数も増え、庫内面積も飛躍的に増大している。目白駅が橋上駅化Click!された1922年(大正11)以降に移転しているとみられ、元の倉庫があった位置には、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」によると外山運送店と鉄道荷物司護所が、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」によれば内田通運や高田石材店、社宅、個人邸などが建ち並び、鉄道省の用地には鉄道荷物司護所あらため鉄道小荷物預り所が開設されている。
 ただし、1916年(大正5)に高田倉庫が設置されたあとも、目白駅(地上駅)前のすぐ目の前に位置する大谷石階段は、そのまま丘上に出られる近道として使われていたのかもしれない。なぜなら、階段の左手には鉄の手すりを取りつけたとみられる跡が残り、また階段右手の擁壁を大谷石からコンクリートに改築する際(現在のコンクリート擁壁より、一時代前のコンクリート擁壁)、階段の右端の擁壁側をコンクリートで継ぎ足しているからだ。その時点で、大谷石の階段が使用されておらず用済みであったなら、そんなていねいで細かな施工は必要なかっただろう。むしろ、階段ごと撤去されてもおかしくはなかった。
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 もうひとつの、「③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため」という仮定はどうだろうか? 先ののテーマとも重なってくるが、宅地開発には近くの高圧線から電力線(変圧して電燈線)Click!用の支線を引いて、目白文化村Click!のような共同溝でもない限り電柱を建てなければならない。下落合(中落合・中井含む)の東部は、目白崖線の通う南側には東京電燈谷村線Click!から引かれた「氷川線」Click!が、同じく北側には椎名町方面の高圧線から引かれた「近衛線」が通っている。(その境界となる七曲坂Click!には、氷川線から引かれたとみられる七曲支線が通う) ところが、金久保沢から丘上にかけては氷川線でも近衛線でもなく、「白鳥支線」が引かれているのだ。
 「白鳥線」とは、その名のとおり早稲田変電所から白鳥池があった江戸川橋や大曲の白鳥橋界隈へとのびる電力線であり、その支線とみられるラインが山手線を越えて、西側の目白駅周辺までとどいていたことになる。ただし、早稲田変電所のある山手線の内側(東側)から、山手線の外側(西側)である目白駅(地上駅)前に電力線を引くには、貨物駅も設置された幅が広い山手線を横断しなければならない。
 ある程度の高度をもった電柱が、たとえば山手線東側の椿坂Click!沿いに連なっていたとすれば、その高度を維持しながら目白貨物駅を経由して山手線西側に引き入れる際には、やはりある程度高度のある場所が必要となりそうだ。地上駅には跨線橋も架かっていたので、駅舎やホームなどの建造物をまたぐには(跨線橋を利用した可能性もある)、西側の高い位置に受変電の設備小屋を設置するのが、都合がいいし効率的かつ合理的だろうか。
 すなわち、丘上の住宅地に供給する電燈線用の受変電設備が、大谷石階段の上に設けられていなかったか?……という想定だ。この階段の上に、小さな建築物が確認できる大正中期と、丘上の住宅が増えていく時期がほぼシンクロしている点にも着目したい。ただし、そのような小屋に収まるほどのコンパクトな高圧線の受変電設備が、はたして大正の初期から中期にかけて存在したのかどうかという疑問は残るが、当時の工場などに引かれる高圧線の設備を考えると、あながち空想の物語ではないような気がするのだ。
 さて、この階段の役割として、先に①~⑤の理由を挙げてみたけれど、いちばんリアルなのは明治末から大正初期あたりに行われた丘上の宅地開発だろうか。そして、目白駅(地上駅)前に高田倉庫が開業してからも、目白駅(地上駅)前から丘上へと抜けられるショートカットとして同階段は利用されていたが、1922年(大正11)以降に目白駅が橋上駅化され、ここが駅前ではなくなり高田倉庫も南へ移転している時点ではどうだったのだろう。
目白駅前1926.jpg
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 大正末から昭和初期にかけ、いくつかの企業や個人邸が建ち並んでいた時期にも、この大谷石階段はそのエリアに建っていた土屋邸や小笠原邸、岡村邸、梶原邸、そして高田石材店などの人々には利用されていたかもしれないが、すでに丘上にのぼるには豊坂の利用が一般化していたにちがいない。なぜなら、目白駅(橋上駅)の改札は、狭めの駅前広場とともに目白橋の西詰めにあり、下落合方面へ抜けるには住宅や社宅の中にある同階段を利用するよりも、豊坂を上がったほうが効率的だからだ。そしてなによりも、このエリアにあった個人邸や企業は、目白駅や目白通りへ向かう必然性はあっても、逆に西側の丘上にのぼらなければならない用事が頻繁にあったとは思えない。
 さらに、戦前に塩ノ屋旅館が開業した時点で、大谷石階段のある敷地は塩谷家の所有地となり、東側半分にあたる線路沿いの道路に面した鉄道省用地は、鉄道小荷物預り所から国鉄の職員公舎となった。この時点で、大谷石階段は私有地に閉じこめられた存在となり、塩谷家の人々(あるいは宿泊客)以外に誰も利用することができなくなったのだろう。塩ノ屋旅館は空襲でも延焼していないので、同旅館の解体で大谷石階段の全体像が姿を現したのは、おそらく80~90年ぶりぐらいではないだろうか。
 戦後の一時期、大正末には加藤邸だった階段上の敷地(旧・目白町3丁目1138番地)に、塩ノ屋と同じ業種の旅館「花村」が開業している。現在の花ノ山ビルの位置で、栄光ゼミナールが入居している建物だ。この旅館花村と塩ノ屋旅館が、同一の経営者であれば大谷石階段を再利用したのかもしれないが、旅館花村は神林家の敷地内に建てられているように見えるので、両旅館の経営者は別なのだろう。旅館花村の跡地には花ノ山ビルが、神林邸の敷地には低層マンションの「グッドストック目白」が建設されている。
 さて、塩ノ屋旅館が解体された現在、丘上に通う大谷石階段の全体像がよく見えるわけだが、観察しているうちに単純な疑問が湧いてくる。階段の左横に付属していたとみられる、鉄製の手すりは取り外されて久しいとみられるのに、階段自体が撤去されていないことだ。この階段を撤去してしまうとマズイことになる、たとえば土木の構造力学上から擁壁の強度が脆弱になり、丘上にある花ノ山ビルの敷地が崩落する危険性があるのだろうか。
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目白駅1974.jpg
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 もし、大谷石階段が豊坂の側面に連なる大谷石製の擁壁(現在は坂下に一部が残るのみで、大部分はコンクリート擁壁に再構築されている)と不可分一体のもとに設計・施工され、その強度を補強し耐久性を高める目的で設置されたのだとすれば、やはり明治末から大正初期に行われた目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発の際に、すなわち豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の遷座(1907年)とシンクロして豊坂を拓いた大谷石擁壁の構築と同時に、大谷石階段も設置された可能性が高いということになるだろう。いまから、110年ほど前の出来事だった。
                                   <了>

◆写真上:側面から眺めた大谷石階段で、いまだ頑丈な石組みはゆがんでいない。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)前の様子。は、大谷石階段のクローズアップ。階段の左手には、鉄柵を設置したと思われる支柱や金具、右手には外灯跡らしい突起物が残っている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる橋上駅の下になってしまった同所。は、当初は右手の大谷石擁壁を支える一部だったとみられる大谷石階段。は、豊坂から丘上にかけて引かれた「目白支線」の電柱。
◆写真下は、1967年(昭和42)の「住宅明細図」にみる塩ノ屋と旅館花村の位置関係。は、1974年(昭和49)の空中写真にみる同所。は、Google Mapの空中写真より。

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目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(上) [気になる下落合]

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 目白駅の脇にある階段を下りた金久保沢Click!に、戦前からつづく「塩ノ屋」旅館という古いビジネス宿があった。豊坂のバッケ(崖地)Click!の陰になっていたせいか、二度にわたる山手空襲による延焼からもまぬがれ、南へ崖沿いに100mほどの細長い区画に建っていた家屋群は、戦後までそのまま焼けずに残っていた。
 その塩ノ屋旅館が、今年になって建て替え(あるいは閉業?)のために解体された。建物がなくなったせいで、その裏側のバッケ(崖地)にあった使われなくなって久しい、かなり古い時代に造られたとみられる大谷石の階段が姿を現した。豊坂を歩いていて、空き地になった塩ノ屋跡をふり返って気がついたのだ。当初は、崖上に上がる近道ために、戦前から設置されていたものだろうと気軽に考えていたのだが、その造りの古さが気になり、改めていろいろな角度から観察してみた。
 豊坂稲荷(八兵衛稲荷)Click!のある豊坂は、目白駅が橋上駅化Click!される1922年(大正11)以前は、地上駅のちょうど駅前にあたる丘上に通っていた坂道だ。現在は、豊坂の下部に大谷石の擁壁が多少残っているだけで、大谷石階段のある場所も含め、大部分は戦後のコンクリート擁壁に造りかえられている。つまり、当初は諏訪谷Click!の突き当りに築かれた擁壁のように、あるいは目白文化村Click!第四文化村Click!にみられる擁壁と同様に、崖地全体が最高所で10m前後の大谷石による擁壁で覆われていたとみられる。くだんの大谷石階段は、その構築時と同期で設置された可能性が高い。
 さて、地上駅の駅前にあたる金久保沢の崖地が、自然崖の状態から豊坂を含む急斜面の崩落を防止するために、大谷石による擁壁が構築されたのはいつごろだろうか。1/10,000地形図を参照すると、1909年(明治42)の地図では自然の崖地表現のままだが、たとえば1916年(大正5)の大正初期には擁壁が築かれたのか、すでに規則性のある人工崖の表現に変更されている。つまり、豊坂下に残る大谷石の擁壁や、塩ノ屋旅館跡から出現した大谷石階段は、同旅館が開業するはるか以前の明治末ないしは大正初期、目白駅(地上駅)前に構築されたものだと推定することができる。
 では、なぜこんな場所に階段が設置されたのだろうか? 明治末から大正初期の状況を踏まえながら、その理由について考察してみたい。目白駅前にあたるこの場所に、大谷石階段のニーズが生じたのには、たとえば次のような理由が考えられるだろうか。
 ①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地への近道のため。
 ②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため。
 ③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため。
 ④この階段上にあった小祠、私設稲荷、墓地などへ参詣するための参道階段として。
 ⑤単純に豊坂の中途にある、学習院から移転後の豊坂稲荷への参道階段として。
 この中で、はかなり考えにくい。江戸期から明治期にかけての金久保沢界隈は、下落合村と高田村の入会地であり、周辺農家の墓地が設置される可能性は低いし、そのような記録は見たことがない。また、大谷石階段の上にあたる地点、すなわち高田村金久保沢1129番地(現・目白3丁目1番地)は、明治期から個人の所有地(地主:島田家)であり、古くからの小祠や勧請された稲荷があったという記録も見えない。さらに、坂の途中にある豊坂稲荷と大谷石階段とは直線距離で30mほど大きくずれており、参道が目的の階段であればもう少し坂下に設置するだろう。大谷石階段は明らかに坂の上へとのぼり、丘上の下落合方面へと抜ける目的で造られたとみられる。
 では、「①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地へ近道のため」の可能性はどうだろうか? 中村彝Click!が1916年(大正5)、下落合464番地へアトリエを建設する以前から、豊坂を上がった丘上に熊岡美彦Click!のアトリエが建っていたことを、彝アトリエの竣工直後に訪問した鈴木良三Click!が証言している。つまり、大正の最初期から豊坂の丘上で、すでに宅地開発が行われていた可能性が高いのだ。山手線・目白駅(地上駅)前にあたるこの丘上は、当時としては格好の郊外住宅地だったろう。
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目白駅1947.jpg
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 当時、地上駅の改札を出た人が丘上へとのぼるためには、改札の右手(北側)にある豊坂の下までわざわざ大きくまわりこんで、遠まわりをしなければならなかった。地上駅の改札から、豊坂経由でグルリと迂回して丘上に出るまではおよそ130mだが、大谷石階段をあがれば同じ坂上の地点まで半分以下の50m余でたどり着くことができる。大正初期に行われた宅地造成と、ショートカットの大谷石階段とは深い関連がありそうだ。
 高田村の金久保沢一帯の土地は、大正初期の時点で東京土地住宅Click!箱根土地Click!など大手ディベロッパーが入りこむ余地がなく、鉄道院が買収した一部用地を除けば、ほとんどが高田村の有力者たちの所有地だった。少し名前を挙げてみると、こちらの記事でも登場している新倉徳三郎Click!をはじめ、島田勝太郎、島田定吉、島田鎌吉、清水精三郎、島田熊、田嶋三郎、新倉彦太郎などの名前が見える。この中で、豊坂下の塩ノ屋旅館のあった敷地(山手線寄りは鉄道院敷地)を所有していたのは島田勝太郎であり、豊坂の両側は島田定吉、大谷石階段の上は島田鎌吉の所有地となっている。これら高田村の有力者たちの人名は、豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣でも確認することができ、学習院の敷地から遷座してきた同稲荷自体の境内も、島田家が敷地を提供したと思われる。
 高田村の大地主だった島田勝太郎について、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社)から引用してみよう。なお、島田勝太郎の自宅は明治期から高田村大原1665番地(現・目白2丁目)の、いまでいえば川村学園の裏あたりにあった。
  
 豊島区会議員 土地賃貸価格調査委員  島田勝太郎 目白町2丁目1665番地
 氏は明治十九年土地の名門島田家の嗣子として現住所に生れ、若冠十九歳にして家督を継いだ、大正十年には推されて高田町会議員となり爾来再選せられて昭和七年十月市郡併合まで引続きその職に在つた、昭和七年十月の第一次豊島区会議員選挙にも推されて立候補当選し後ち区学務委員に挙げられた。/昭和十一年十一月の区会議員改選に際しても再び推されて当選し現に保健衛生委員、根津山聖蹟保存委員等を兼ね豊島区内に於て隠然たる声望を有して居る、亦昭和十二年八月には土地賃貸価格調査委員に推されて当選した。
  
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 この島田家が、八兵衛稲荷社の遷座あるいは目白駅(地上駅)前の宅地開発に関連して、豊坂沿いの大谷石による擁壁を構築し、同時に丘上へと抜けられる近道の大谷石階段を設置したと考えるのは、非常にリアルな推測だろう。だが、この大谷石階段は1916年(大正5)になると、駅前の大規模な施設の裏側に隠れてしまうことになる。山手線の目白貨物駅Click!にとどく荷を集積する、物流拠点としての高田倉庫が建設されるからだ。
 そこで、「②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため」について考えてみよう。大谷石階段が、目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発ニーズから設置されたものでなく、1916年(大正5)の高田倉庫(収容面積100坪)の建設とシンクロして設置されたと仮定すると、その目的はなんだろうか?
 高田倉庫には1921年(大正10)ごろになると、通信の重要性が増したのか自動電話が設置されている。物流拠点としての高田倉庫の建設について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』より、当該箇所を引用してみよう。
  
 高田倉庫株式会社
 大正五年十二月二日の開庫に係り、其急転直下の発展は寔に目ざましいものである 即ち之が土地の発展進歩を伴ふて、趨勢の止むべからざるものがあつて茲に設立せ(ママ:ら)れたると、且は之を利用して利徳の多大なるものがあるため、加ふるに高田倉庫を経営発展せしむるのに、適当なる適任人物を得たることによる。/而して此高田倉庫の設立せられた由来を訊ぬるに、土地そのものゝ進歩につれて本村有志、就中高田銀行の株主と其提携を同じうして、二者の関係は頗る密接離るべからざる関係である。(中略) 倉庫としては目白駅前に二棟(百坪)、池袋駅に数棟(百数十坪)とを有し、何れも大倉庫であることは世人の夙に知悉してゐる所である、開庫以来今日に到る、倉庫は常に充満の体である、現在も在荷なほ十数万円の価格に昇り、輻輳として取引怱忙を極めてゐる、寄託物の種類は種々の商品であるが、穀類即ち米雑穀等を其大部分としてゐる。(カッコ内引用者註)
  
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 高田倉庫の役員には、吉倉清太郎や篠房輔、足達安右衛門、一杉平五郎、天田隣八、大塚藤平、新倉徳三郎などの名前があるが、敷地の半分以上を所有する島田勝太郎の名前がない。文中にもあるが、地主系の人脈ではなく高田農商銀行Click!(当時「高田銀行」と表記されることが多い)の頭取や大株主など、高田村の金融系の有力者が名を連ねている。
                                <つづく>

◆写真上:塩ノ屋旅館の解体で出現した、大正初期の構築とみられる大谷石階段。
◆写真中上は、解体される前の塩ノ屋旅館の門前と豊坂。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる二度の山手空襲から焼け残った豊坂沿いの一画。は、上空から見た解体前の塩ノ屋旅館および塩谷邸と大谷石階段。(Google Earthより)
◆写真中下は、1906年(明治39)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)の駅前。学習院の構内から八兵衛稲荷(豊坂稲荷)が遷座する前年の地図で、豊坂も存在せず地形は自然の崖線表現で描かれている。は、崖地周辺の土地を所有していた島田勝太郎()と、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社/)。は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる豊坂とその周辺。駅前には高田倉庫が建設され、擁壁が築かれたとみられる豊坂沿いの上には遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)の鳥居が採取されている。
◆写真下は、ところどころに修復跡が見える豊坂から眺めた大谷石階段。は、1919年(大正8)に制作された高田倉庫の媒体広告。は、別角度から見た大谷石階段。
おまけ
 豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣に残る、島田勝太郎の名前。
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大火災のときは手ぶらで逃げろ。 [気になるエトセトラ]

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 大火災が発生しているとき、その周囲にいる人々の毛髪や衣服、荷物などが極度に乾燥し、火の粉がひとつぶ飛んできても発火して、たちどころに全身が火だるまClick!になってしまう現象は、関東大震災Click!でも東京大空襲Click!でも目撃された事実だ。「大火事の周辺には近づくな」という教訓は、火事が多かった江戸期からの伝承なのだろう。
 わが家では、この教訓とともに大火災のときには、「大きな川筋には近づくな」というのもある。大火災によって急激に膨張した空気により、ときに風速50mを超える火事嵐が発生し、大火災の炎が水平になって迫るほどの強風が生じるか、あるいは遮蔽物のない川筋では風速100m超とみられる火事竜巻が発生しやすいためだ。その現場では、大火流Click!が吹きつけることで空気中の酸素が急激に奪われ、焼死の前に窒息死Click!してしまう事例も少なくなかった。戦時中では、日本橋浜町の明治座Click!の大惨事が有名だが、山手では喜久井町(早大喜久井町キャンパス)の大型防空壕Click!や、江戸川公園の目白崖線に掘られた大型防空壕Click!での、数百人におよぶ惨事が語り継がれている。
 日暮里Click!に住んでいた吉村昭Click!の家では、大火災が発生しているときは「荷物を持たずに手ぶらで逃げろ」が、関東大震災からの家訓として伝わっていたようだ。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された、吉村昭『東京の下町』から引用してみよう。
  
 十一年前に、私は「関東大震災」という記録小説を書き、当時の資料に眼を通したが、荷物が恐しい、と言った父の言葉が正しいことをあらためて感じた。本所被服廠跡では、実に三万八千余という人が焼死したが、その原因は持ちこまれた荷であった。二万坪の避難場所であった空地に、四万名と推定される人たちが荷とともに入りこんだ。空地が火におおわれる少し前の写真をみると、乱雑な家具置場さながらで、家財の中に人間がいて、瞬間的にそれらが火となり、多くの人が焼け死んだのである。/また、背に包みを背負った人も、包みが燃えて死んでいる。浅草寺とその境内が、周囲が残らず焼きはらわれたのに焼失をまぬがれたのは、そこに入ろうと押しかけた人々の手にしたり背にしたりしていた物を、警察官や寺の者がことごとく捨てさせたからである。/現在、地震対策の一つとして非常用持出し袋などが売られているが、害あって益なしと言っていい。
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 吉村昭は、非常用の持ち出し袋の危険性を指摘しているが、火災が起きていない場合は非常袋は生命をつなぐグッズとしては有効だろう。
 だが、ひとたび大火災が起きた場合には、背中や肩にかけた布製またはビニール製の非常袋(テントなど含む)が命とりになるのを記憶しておきたい。火炎による極度の乾燥のため、火の粉ひとつで一瞬のうちに燃え上がり、全身火傷で焼死する危険性が高いからだ。火炎が近づいたり、大火災の近くを通過する際は、荷物を棄てるのが生き延びる術だと、過去の多くの事例が教えてくれている。
 もうひとつ、関東大震災の当時は家庭でめずらしくなかった、機密性の高い土蔵でよく起きた現象だが、今日でも機密性の高いコンクリート建築などでは想定できるリスクだろう。それは、大火災にみまわれた地域で、燃えずに焼け残った土蔵で見られた現象だ。外見からは、焼け残っているように見えても、中には火種がくすぶっている場合が多く、かすかに煙が立ちのぼっていたりする場合には、よけいに近づかないほうが安全なのだ。
 機密性が高いため、土蔵内部の酸素が周囲の大火災によって欠乏し、燃焼が抑制されているだけで、空気が入れば極度に乾燥している内部は一瞬で燃え上がる。そのような土蔵の扉戸を不用意に開けたりすると、いわゆるフラッシュオーバー現象が発生して瞬時に炎に包まれることになる。これは、親父も日本橋地域の空襲時での出来事として話していた憶えがある。今日では、機密性が高く強化ガラスが使われたコンクリート建築のマンションや住宅が、当時の土蔵に相当するリスクを抱えているといえるだろうか。
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 日暮里地域の吉村家は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で全焼しているが、空襲のあと自宅の焼け跡に立った吉村一家の会話を、2001年(平成13)に筑摩書房から出版された吉村昭『東京の戦争』から引用してみよう。
  
 茶碗や皿は原型を保っていたが、高熱にさらされていたのでもろく、手にしただけで割れるものが多かった。薬缶、鍋などはつぶれたりゆがんだりしていた。/焼跡の中で突き立っているのは、土蔵と金庫だけであった。/それに眼をむけた父は、/「あれは駄目だ。中に火が入っている」/と、言った。/煙の量は少しずつ増し、やがて一瞬、土蔵は炎につつまれた。私は、父の予測通りだと思い、それが関東大震災に遭遇した父の体験から得たものだということを知っていた。
  
 炎上する過程で窓ガラスが割れていれば、特に危険性はないように思えるが、今日の耐火や耐震の強化ガラスで割れていないコンクリート建築の場合は、上記の土蔵と同じようなフラッシュオーバー現象が起きる危険性が高い。内部あるいは周囲に火種が残っているにもかかわらず、大火災の直後などに「焼け残った~!」と安心してドアを開けたりすると、一瞬の爆発的な発火で吹き飛ばされるか炎に包まれるリスクだ。
 余談だが、第1次山手空襲の直後、日暮里とその周辺の街々で大火災が発生しているにもかかわらず、山手線は通常どおり運行を開始していたようだ。吉村一家は、谷中墓地に避難していて難をのがれたが、翌4月14日の早朝に大火災が発生している中、定時どおり始発電車が運行する山手線を眺めて、奇異な感覚にとらわれている。
 4月13日の夜間に来襲したB29の大編隊は、翌14日の未明にかけておもに乃手Click!に展開する鉄道沿いや幹線道路沿いの駅、住宅街、工業地域、繁華街などをねらって爆撃している。山手線の環状北側にあたる各駅周辺は、このときの空襲による集中的な爆撃で被害を受け、駅周辺では大火災が発生していたはずだが、それでも始発から山手線を運行しようとしていた鉄道職員たちがいたようだ。同書より、再び引用してみよう。
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 避難していた谷中墓地から日暮里駅の上にかかっていた跨線橋を、町の方へ渡りはじめた時、下方に物音がして、私は足をとめ見下ろした。/人気の全くない駅のホームに、思いがけなく山手線の電車が入っていて、ゆるやかに動きはじめていた。物音は、発車する電車の車輪の音であった。/町には一面に轟々と音を立てて火炎が空高く噴き上げているのに、電車がホームに入りひっそりと発車してゆくのが奇異に思えた。電車は車庫に入っていたが、鉄道関係者は沿線の町々が空襲にさらされているのを承知の上でおそらく定時に運転開始を指示し、運転手もそれにしたがって電車を車庫から出して走らせているのだろう。
  
 関東大震災のときとは異なり、烈震で線路土手の一部が崩壊したり、レールが震災でゆがんでいる心配はなかったのかもしれないが、軌道上に250キロ爆弾でも落とされて、線路そのものや駅のプラットホーム自体が吹き飛ばされていたらどうするつもりだったのだろうか? 通信も途絶していたはずで、当然、職員たちもその危険性を十分に認識していたはずだが、米軍に対する敵愾心から線路わきで危険な大火災が起きているにもかかわらず、意地でも山手線を動かしていたのかもしれない。
 吉村昭の文章に、焼け残った「金庫」が登場しているが、彼の父親は「少くとも一週間は扉をあけてはいけない」といっている。これも関東大震災の教訓のひとつで、土蔵とまったく同じ現象が起きるからだ。金庫の内部は、大火災で熱せられて高温かつ超乾燥状態のままであり、扉を開けて外気を入れたとたん一瞬で発火してしまうからだ。
 関東大震災のときは、大火災から焼け残った銀行や企業、商家の大型金庫が、盗難の心配から冷めるのを待たずに開けられ、たちどころに内部から発火して焼失し死傷者も出ている。吉村昭の父親は、それを印象深い大火災時の2次災害として記憶していたわけだ。吉村家の金庫は、その後1週間ではなく、空襲から10日もすぎてから開けられたが、発火することなく中身のものはすべて無事だったようだ。
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 山手空襲に先だつ、3月10日未明の東京大空襲Click!でわが家は全焼しているが、日暮里の空襲よりも大火災の勢いが圧倒的に強かったのだろう、土蔵の内部も金庫の中身もすべて丸焼けだった。そのとき発生した大火流は、金属Click!をも容易に溶かすほどの高熱だった。

◆写真上:吉村一家が避難した、いまやネコだらけの高台にある谷中墓地の夕暮れ。
◆写真中上は、住宅街における夜間の焼夷弾攻撃。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる日暮里駅とその周辺。谷中の寺町側は焼け残っているが、吉村家があった日暮里の街は焼け野原だった。は、谷中墓地内にあった天王寺の五重塔礎石。吉村家が空襲から避難した当時は、いまだ五重塔が暗闇にそびえていただろう。
◆写真中下は、B29から撮影された夜間の街に投下される焼夷弾と燃え上がる市街。は、大火災が迫る住宅街。は、日暮里駅周辺の空襲被害地図。
◆写真下は、戦争末期にB29から撮影された喜久井町の大型防空壕があった夏目坂界隈の様子。は、1945年(昭和20)3月10日に高高度から撮影された東京市街地の惨状。

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