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立野信之と小林多喜二。 [気になる下落合]

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 上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!で、掲載する小説部門の担当をまかされていた立野信之Click!は、ある日、蔵原惟人Click!から『一九二八・三・一五』と題する小説をわたされた。北海道の小樽に住む、「文章世界」や「文章倶楽部」など文芸誌の投稿仲間として以前からすでに名前を知っていた、小林多喜二Click!からの原稿だった。立野は、タイトルを『一九二八年三月一五日』とわかりやすく変えて、1928年(昭和3)の「戦旗」11月号と12月号に連載している。
 翌1929年(昭和4)の春、蔵原惟人が立野のもとにやってきて、再び小林多喜二の原稿をわたした。原稿の文字を1字も修正していない、推敲を何度も重ねたとみられる作品のタイトルは『蟹工船』というものだった。そのときの衝撃を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 そして作品を原稿で読了したわたしは、背中を強い力でどやしつけられたような愕きを覚えた。前作にあったような足取りの危なっかしさは、もはやどこにもない。しっかりとした足取りである。重量感もあり、芸術的形象の盛り上げのすばらしさは、私の息の根を止めるほどだった。ことに、短篇を三つ四つ書いただけでスラスラと所謂文壇に出てしまった私は、その頃ようやく自己の作品に文学的苦渋を感じはじめていた頃だっただけに、小林多喜二のひたむきな努力の結晶には一そう背中をどやしつけられた感がした。
  
 小林多喜二が東京にやってきたのは、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の第2回大会が本郷の仏教青年会館で開かれたときで、1930年(昭和5)2月のことだった。この大会で、多喜二は中央委員に就任している。立野信之は、そのころ上落合から杉並町(区)の成宗(1丁目)54番地(現・成田東5丁目)に転居していたが、わざわざ彼に会いに多喜二は成宗の立野邸を訪れている。立野邸の隣家には、橋本英吉Click!が同地番で背中合わせに住み、近くにはやはり上落合から引っ越してきた鹿地亘Click!一家も暮らしていた。
 そのときの立野の印象は、作品から受ける人物像とはかけ離れたもので、そのチグハグさに驚いている。立野は「小林多喜二と名乗る男は」と書いているので、目の前に立っている男が作家本人だとは信じられなかったらしい。
 もともと高級銀行員だったので、明晰で背が高く色白の紳士然とした風貌を予想していたのだが、そこには痩せて背が低く、「出眼に近い眼がぬれて睫毛がかたまって(中略)、やや厚めの唇を田舎者然とだらしなくあけて、がさつな嗄れ声で話す」貧相な男が立っていた。しかも身なりも古ぼけた服装で、股にツギのあたったズボンをはいていた。
 近くの蕎麦屋へ案内すると、多喜二はしじゅう股倉へ両手を入れて身体を前後にフラフラ揺らしながらしゃべった。東京に住みつき、本格的な創作活動をするよう勧めると、「いやア、オレみたいな田舎者は、東京へ出てきたら駄目になる。東京はおっかなくて……」と、歯の欠けた口を大きく開けて笑った。数日後、立野邸を訪れた徳永直も、作品からの印象とはほど遠い実際の小林多喜二の風貌が一致せず、「君は本物の小林君か?」と確認している。多喜二はしきりに蔵原惟人Click!に会いたがったが、そのころ彼はすでに地下へ潜行して所在が「不明」になっていた。
 小林多喜二が東京にやってきたのには、もうひとつ目的があった。過去に1ヶ月ほど小樽で同棲していた田口タキを同行しており、彼女を美容学校へ入学させようと説得していた。彼女の将来を考え、手に職をつけさせようとしたのだろうが、田口タキはそれを拒否している。その手配がうまくいかなかったせいもあるのだろう、このときふたりの間には決定的な齟齬が生じたようだ。多喜二が彼女を見かぎる、大きなきっかけになったかもしれない。
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 「オレは東京にいたら、ダメなんだ……早く北海道へ帰って、小説が書きたい」と立野にこぼした多喜二だが、そのままズルズルと東京滞在を伸ばしていた。4月になると、発禁を連発され資金が乏しくなった「戦旗」編集部では、「戦旗」防衛巡回講演会が関西で開かれることになり、ナルプの書記長だった立野信之が人選をまかされている。彼は作家の家を駈けまわり、江口渙や片岡鉄兵Click!中野重治Click!、貴司山治、大宅壮一Click!、そして小林多喜二を講演メンバーに決めた。
 関西での講演会は京都から大阪、松阪とまわり再び大阪へともどったところで、講師たちがいっせいに検挙されている。片岡鉄兵と小林多喜二を除き4人はすぐに釈放されたが、初めて拷問を受けた多喜二が少し遅れて釈放され、このいっせい検挙のメインターゲットが片岡鉄兵であることが判明した。下落合や葛ヶ谷の片岡邸に、田中清玄ら地下共産党の幹部が出入りしているのを、すでに特高Click!はつかんでいた。片岡鉄兵は起訴され、大阪刑務所へ未決で収監されている。
 5月の初め、小林多喜二は大阪からもどると、そのまま杉並町成宗15番地の立野信之邸に同居をはじめた。ちょうど立野の連れ合いが、夫婦喧嘩が原因で千葉の実家へもどっているときだったので、多喜二を泊めても困らなかった。ふたりは、文藝春秋社に勤める永井龍男の兄・永井二郎が経営する、阿佐ヶ谷駅の近くに開店していた中華料理屋「ピノチオ」Click!という店に、よく生ビールを飲みに連れだって出かけた。そこでは、横光利一や小林秀雄Click!井伏鱒二Click!などと顔を合わせている。
 1930年(昭和5)の5月になると、潜行する蔵原惟人の連絡係をしていた美術家の永田一脩が検挙され、つづいて彼の周囲にいた人々が芋づる式で特高に逮捕されはじめた。立野信之が親しかった、新築地劇場の演出家で劇作家の高田保Click!が検挙されるにおよび、次は自分だと覚悟を決めている。このころになると特高は罪状などどうでもよく、プロレタリア芸術に関わりのある人物や、そのシンパを根こそぎ検挙しはじめている。
 立野信之は、あくまでも文筆活動による表現がメインであって職業革命家になるつもりはなく、どこかへ潜行する勇気も自信も資金もなかった。日々、「ぼんやりと捕まるのを待っていたようなもの」だったが、家に置いていた罪状をデッチ上げられそうな文書類はすべて焼却している。ある夜、ふたりは阿佐ヶ谷駅近くの「ピノチオ」で生ビールを飲んだあと、イタズラ好きな小林多喜二は真夜中の鹿地亘邸へ寄って、寝静まって真っ暗な玄関の格子戸をドンドンとたたいて急いで逃げた。いまでいう「ピンポンダッシュ」だが、多喜二の他愛ない子どものようなイタズラ好きには、立野もただ呆れるばかりだった。
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 鹿地亘邸から逃げた、次の日の明け方近くのことだった。立野信之は、ただならぬ気配を感じて目をさました。同書から、再び引用してみよう。
  
 幾らか眠って、フト眼をさましたわたしの耳に、路地を入ってくる乱れた靴音が聞えた。/「――来たな?!」と思い、どうしたものか、と寝床に仰臥したまま思案した。が、いい考えは何も浮かばない。/ドン、ドン……玄関のガラス戸が鳴った。/「おはよう、立野君……おはよう……!」/聞きおぼえのある声である。/どうしたものか――わたしの思案はまだきまらない。玄関とは反対側のガラス窓を見やると、そこには人の気配はなかった。戸外は夜が明けそめたばかりである。窓のガラスをそっとはずして、そこから飛び出す自分の姿を思い描いていると、またドン、ドン……/「おはよう、立野君……おはよう……!」/「おーい」/玄関に近い八畳の間に寝ていた小林がしわがれ声で返事をし、起きあがった。/ああ、いかん、と思ったが、もう遅い。小林が起って行って、玄関のガラス戸をあけた。/「やあ、君は小林君だね、……小林多喜二君だろう」/招かざる早朝の訪問客は、凱歌に似た声をあげた。/「……いいところにいたな。君も一緒に行ってもらおう」/ドヤドヤとわたしの寝部屋に刑事どもが入ってきた。特高第一課長の中川警部が先頭に立っていた。
  
 立野信之は「特高第一課長」と書いているが、このときの課長は毛利基で、中川成夫はその配下の警部だったはずだ。3年後、毛利と中川は小林多喜二の虐殺に直接手をくだす張本人たちだった。早暁に立野家を襲った特高リーダーの中川成夫は、信じられないことに戦後、東京都北区の教育委員長に就任し叙勲まで受けている。
 国家を滅した亡国思想とともに、言論弾圧の先頭に立って弾圧していた人間が、戦後もノウノウと教育長にいすわり勲章をもらえる現象ひとつとってみても、日本の敗戦処理における思想的な総括のいい加減さと、戦後政治の本質を象徴しているといえるだろう。
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 このとき検挙されたのは共産党員ではなく、シンパと呼ばれた芸術家たちで、立野信之をはじめ片岡鉄兵Click!、中野重治、村山知義Click!、小林多喜二、小川信一、三木清、壺井繁治、山田清三郎Click!らだった。立野と小林は、留置所に2ヶ月間も拘留されて拷問を受け、7月下旬に起訴されて豊多摩刑務所Click!へ送られている。彼らを救援するために、村山籌子Click!原泉Click!壺井栄Click!らが活躍するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合689番地にあった、ナップの機関誌「戦旗」が発行されていた出版部跡。
◆写真中上は、1935年(昭和10)10月に「文学案内」主催で行われた座談会の出席者たち。右から左へ徳永直、大宅壮一、藤森成吉、舟橋聖一Click!、島木健作、貴司山治、杉山平助。は、戦前の名残りをとどめる上落合の一画。
◆写真中下は、立野信之と小林多喜二が住んだ杉並町成宗15番地(右手)界隈の現状。は、1936年(昭和11)1月に行われた「文学案内」座談会の出席者たち。前列右から左へ村山知義、舟橋聖一、森山啓、平林たい子、島木健作、後列右から貴司山治、中野重治、石川達三、青野季吉、北川冬彦、藤森成吉、渡辺順三、遠地輝武の順。は、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)跡の現状。
◆写真下は、上落合481番地にあった中野重治・原泉(子)邸跡あたり。は、立野とともに検挙された小林多喜二()と、のちに多喜二を虐殺する特高課長の毛利基()。は、記事中の高田保が住んだ大磯Click!の相模湾を見おろす山上にある高田保公園。

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