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金山平三アトリエの社交ダンス教室。 [気になる下落合]

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 1933年(昭和8)からしばらくの間、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の金山平三アトリエClick!では定期的にダンス教室が開かれていた。それは、金山平三Click!が生徒にダンスや踊りを教えるのではなく、金山やらく夫人Click!を含め周辺の仲間たちが社交ダンスを習うために開いた教室だった。
 社交ダンスを教えていたのは、ほどなく大田洋子Click!の夫になる、改造社をクビになったばかりの黒瀬忠夫だった。東京帝大に通学していたころからマルキシズムに惹かれ、改造社に勤務してからは社内で「戦旗派」を形成していた。高校の後輩である宮本顕治Click!が東京へやってくると、松本鶴三らと研究会グループを組織したため、特高Click!に検挙されて数ヶ月も拘留されている。それが原因で、黒瀬は改造社をクビになった。
 解雇されてすぐのころ、同様に改造社を辞めさせられた仲間とともに、出版社「時代社」を起業するがうまくいかず、当人の表現によれば「ルンペン的な生活」を送り、ダンスの教師になって食いつないでいた。そんなとき、下落合の金山平三から声がかかった。金山夫妻を含め、画家の友人たちに社交ダンスを教えてほしいとの依頼だった。
 ちなみに、大田洋子と出あったのは、改造社をクビになる前後のころだった。黒瀬忠夫が、江戸川Click!(大滝橋あたりから舩河原橋までの名称で1966年から神田川)の大曲(おおまがり)近くにあった同潤会江戸川アパートメントに、大田洋子が「高田馬場駅近くの下宿」(黒瀬証言)に住んでいたころだ。黒瀬は山手線の「高田馬場駅近く」と記憶しているが、この下宿は高田馬場駅から早稲田通りを歩いて2kmほど、たっぷり20分ぐらいはかかる喜久井町21番地の稲井方のことだろう。現在は、地下鉄東西線・早稲田駅のすぐ近くだが、当時の最寄り駅は確かに高田馬場駅だった。
 やや余談になるが、新小川町6番地の同潤会江戸川アパートメントClick!に住んでいた『チボー家の人々』の邦訳などで知られる早大のフランス文学者・山内義雄のもとへ、金山平三が「障子を張り替えた」と聞いて、さっそく張りなおした障子に、指先にツバをつけて破りに出かけている。社交ダンスの先生・黒瀬忠夫といい、江戸川アパートメントに住む友人知人に金山平三は縁があったものだろうか。
 金山アトリエでの様子を、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』より、元夫の黒瀬忠夫の証言から引用してみよう。
  
 大田の親戚であった住友関係の幹部稲井氏の家でご婦人方を相手(大田もその中の一人)に(社交ダンスの教授を)したこともありましたが、主として下落合の金山先生のアトリエで教えました。金山平三先生はマスコミで有名ではなく御存知ないかもしれませんが、当時洋画壇では、藤島武二、岡田三郎助、和田三造氏等と共に日本の洋画壇の五指に屈せられる人でした。お弟子は、金山先生御夫妻、甥ごさん夫婦、耳野卯三郎氏夫妻、その他洋画壇関係の人々。中に菅野清といふ画家の未亡人も一人居ました。時々、伊原宇三郎、大久保作次郎夫妻、南薫三(ママ:南薫造)氏もみえられて、お相手をしたことがあります。(「大田もその中の一人」以外のカッコ内引用者註)
  
 このサイトではお馴染みの金山平三Click!の周囲にいた人々、耳野卯三郎Click!南薫造Click!大久保作次郎Click!らが夫人同伴で、黒瀬忠夫に社交ダンスを習っていたのが分かる。このぶんだと、おそらく「人君もおいで」と刑部人夫妻Click!や、島津一郎Click!など島津家Click!の人々も、誘われるままにダンス教室に通っていたのかもしれない。
 耳野卯三郎は下落合の西隣り、上高田422番地のアトリエClick!から、南薫造は落合地域の南側、大久保百人町のアトリエClick!から、大久保作次郎Click!は下落合540番地のアトリエClick!から通ってきたのだろう。ひょっとすると、娘のような宇女夫人Click!と結婚した下落合753番地の満谷国四郎Click!も、このような集まりが好きだったようなので、若い夫人を見せびらかしに通ってきていたのかもしれない。
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 金山平三は、「改造」編集部の黒瀬がマルキシズムの研究会グループに属していて、特高に検挙されたことももちろん知っており、アトリエでの社交ダンス教室は困窮する彼の生活を支援するために開いた、救援活動のサークルだったようだ。金山は、彼にマルキシズムの政治的な視点とは異なる、純粋な芸術面からの視点やモノの考え方を教えたようで、後年、それらの言葉が黒瀬の生活を大きく支えることになった。
 つづけて、同書より黒瀬忠夫の証言を引用してみよう。
  
 金山先生は私に芸術面、精神生活面で最も大きな影響を与えられた尊敬する方で、先生宅ではブタ箱から出てきた後も、私への失業救済的な御意図は分りきっていたのですが、私は週に二~三度お伺いすることによって、心の垢を流す洗心的な有難さの故に、おじゃまさせて頂いていた次第でした。在神戸の金山未亡人とし今も時々音信しあっています。令夫人は、林鶴一門下の、日本第一番目の理学士(奈良女高師→東北大学)で、御結婚後は、夫君に仕え、夫よりも偉くなることを避けて博士号を敢えて取らなかった、僕に云はせると賢夫人で、御主人に仕え、御主人をたてることに終始した立派な方です。
  
 このあと、大田洋子と結婚してさんざんひどい目に遭う黒瀬忠夫は、この証言が大田洋子についての書簡による江刺昭子のインタビューだったがゆえに、らく夫人を「夫より偉くなることを避け」て「夫君に仕え」「御主人をたて」た「賢夫人」と、自身の理想的な女性像として偶像崇拝的な描き方をしているように見える。
 だが、頭のいい牧田らくClick!にしてみれば、東北帝大で高等数学の博士号を取得し教師などになるよりも、金山平三といっしょにいたほうが人生よほど面白そうだし、楽しそうだと感じて結婚したような感が強い。らく夫人の実像以上の理想化は、別れたあと大田洋子にあることないことを作品の中で書き散らされ、生涯にわたり苦汁を飲まされつづけていた黒瀬忠夫の、積もりに積もった怒りの裏返しのような気がするのだ。
同潤会江戸川アパートメント1934.jpg爺/落合アトリエ内部.jpg金山平三「平壌での戦い」1933.jpg
 大田洋子は、自身が体験した身のまわりのエピソードを書く“私小説”で食べていたので、夫(あるいは元夫)の気に入らない言動や行為は侮蔑し、口をきわめてののしるような書き方をしている。黒瀬忠夫が、金山アトリエで社交ダンス教室を開いていたとき、改造社の時代から大田洋子とはつき合っていたが、このあと1936年(昭和11)に同棲しはじめて結婚し、江戸川アパートで暮らしはじめている。
 さて、この時期に金山平三はアトリエで、なぜ浮かれたような社交ダンス教室などを開いたのだろう。それは、明治神宮の聖徳記念絵画館(神宮外苑の絵画館)の壁面に納める、下準備から途中の大病による中断を含め、都合10年間もかかった大画面『平壌の戦』に、ようやく完成のめどが立ったからではないだろうか。同作品は、1933年(昭和8)の暮れに納品され、長年にわたる宿題が解消し肩の荷が下りたせいで、急に気分が高揚して“踊り”Click!たくなったような気がするのだ。
 特に生命さえ危うかった、虫垂炎をひどくこじらせた大病は手術後も経過が思わしくなく、絵画館の壁画を制作しつづけることができないのではないかとさえ思われた。また、手術費や入院費の捻出ができず、初めて作品を自ら売ろうとストックタブローのリストづくりなどもしている。当時の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から刊行された飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 その間、平三は一旦死を覚悟したこともあった。これまでの作品中、代表作自信作のリストを作って、所在、所有者などを明らかにしたり、手持ち作品の一覧を作ったりしている。また、入院費の捻出についても苦慮し、最悪の場合には新居を手放そうとらくと話し合ってさえいた。幸いそうした事態を免れ得たのは、この年の第九回帝展に審査員として出品した『菊』が好評を受け、すぐに買受け希望者が出たからであった。
  
 このような経験をへてきたあと、ようやく作品を絵画館へ納品できる前後の時期なので、金山平三が浮かれて社交ダンスを踊るのも無理からぬことのように思える。また、大病から恢復した金山平三は、ほどなく健康を完全に取りもどし体調ももとにもどっていた。
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 黒瀬忠夫が金山平三アトリエで社交ダンスを教えはじめたころ、大田洋子はそれまで住んでいた上落合545番地の梅田材木店2階の下宿を引き払い、喜久井町21番地の稲井方へ転居している。喜久井町の下宿から、黒瀬が住む同潤会江戸川アパートメントまでは直線距離でわずか1,500mほどしか離れていない。林芙美子Click!とともに、なにかと周囲の評判がよろしくない大田洋子だが、上落合で暮らした彼女については、それはまた、別の物語……。

◆写真上:アトリエ南側の庭で、チロリアンダンスを踊る金山平三とらく夫人。
◆写真中上は、下落合4丁目2080番地の金山平三アトリエと北面の採光窓(解体)。は、アトリエではどのような社交ダンスが踊られていたものだろう?
◆写真中下は、1934年(昭和9)建設の黒瀬忠夫が住んだ同潤会江戸川アパートメント(解体)。金山平三が、張り替えたばかりの障子を破りにきたアパートとしても「有名」だ。は、昭和初期に撮影された金山平三とアトリエ内部。は、1933年(昭和8)12月に撮影された絵画館へ『平壌の戦い』を搬出直前の金山平三。
◆写真下は、入院費のためにアトリエを手放さなくて済んだ1928年(昭和3)制作の金山平三『菊』。は、らく夫人と踊る金山平三だが社交ダンスではないだろう。w

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蔵原惟人が気になる村山籌子。 [気になる下落合]

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 このところシリーズのように、上落合502番地のち落合町葛ヶ谷15番地(片岡鉄兵邸Click!の留守番)で暮らしていた立野信之Click!とその周辺の人間模様Click!をかいま見て記事Click!にしてきたが、つづけて彼の周辺にいた人々の姿を追いかけてみよう。まず、杉並町成宗15番地にいたころ、永井龍男の兄・永井二郎が経営する阿佐ヶ谷駅の近くに開店していた、中華料理屋「ピノチオ」における情景だ。
 「ピノチオ」は、永井龍男が勤務していた文藝春秋社の関係から、近くに住む作家たちのいきつけの店となっていた。立野信之も店内で横光利一や小林秀雄Click!井伏鱒二Click!らを見かけている。そんなある日、立野は柳瀬正夢Click!を連れて「ピノチオ」へ立ち寄ったところ、井伏鱒二がひとりで生ビールを飲んでいた。立野信之が柳瀬正夢を紹介すると、いきなり柳瀬は井伏鱒二に噛みついている。これには井伏鱒二も驚いたろうが、紹介した立野信之も啞然としている。
 そのときの様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 わたしが井伏を柳瀬に紹介すると、柳瀬はいきなり井伏に向かって、/「君の作品は面白くないぞ」/と、頭からあびせた。/どうしてそんなことをいい出したのか、と面喰らいながらきいていると、小林多喜二や立野の作品は社会的な視野に立って書いているから面白いが、君のは主観的だから面白くない、もっと社会的な視点に立って書くように努力し給え、というようなことをいって、大上段に極めつけたのである。/井伏は迷惑そうに眼をパチクリさせて黙っていたが、わたしは顔から火の出る思いであった。ふだんは、その童顔のように温和な柳瀬としては珍しいことだった。
  
 立野信之が、「顔から火の出る思い」と書くのももっともなことで、文学に対する思想も土俵も表現も異なる相手に、階級観を前提とした「社会的な視点」で書くよう迫っても、たとえば岸田劉生Click!にフォーブやシュルレアリズム、アブストラクトの表現でなぜ描かないのかと責めるようなもので、ほとんど意味がない行為だろう。
 その点、立野信之は芸術の奥深さをわきまえていたらしく、「戦旗」の小説部門の責任者であり小林多喜二Click!と暮らしていたにもかかわらず、作品に社会性があるか否かで著者をバッサリと斬りすてたりはしていない。プロレタリア作家である立野信之のそのような懐の深さが、特高Click!に逮捕され収監されたあとあとまで、横光利一など“芸術派”の作家たちとの交流がつづいていた要因のひとつなのだろう。
 立野信之と小林多喜二が住む杉並町成宗15番地の借家には、上落合の時代から親しかった村山籌子Click!がしじゅう遊びにきていた。村山籌子は、小林多喜二の印象について「子供の時分、学校で仲間にいじめられて、しょっ中泣いてばかりいたような人ね」(同書)と、さっそく多喜二を“イジメられっ子”にしている。また、小林多喜二のほうでは、村山籌子Click!が夫の村山知義Click!のことを面倒でぞんざいに扱うのを面白がって見ていた。
 村山籌子が夫に無頓着だったのは、彼女が蔵原惟人Click!を好きだったからだと立野信之は書いている。同書より、彼女についての部分を引用してみよう。
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 彼女との付合いは、わたしたちが蔵原惟人と上落合に住んでいた頃からであったが、特にわたしの家にシゲシゲと来るようになったのは、わたしが小林と一緒に検挙されたことを知って、すぐさまわたしの留守宅に駆けつけてくれた時からである。(中略) 彼女の夫の村山知義も入獄していたので、差入れや面会などにしじゅう連れ立って刑務所通いをしてくれた。それにその事件では仲間の夫どもがあらかた検挙されて、夫のいない細君が何人もいたので、お互の共通の不自由や苦痛を分けあって、救援活動も活発であった。(中略) 彼女は感受性のせん細な人で、その頃は村山知義との愛情のズレに悩んでいたのである。村山とは性格的にも合わなかった。それで彼女は、村山でみたされない愛情を、蔵原惟人にむけていたのである。蔵原は籌子に対しては、ひそかに、しかしはっきりとした愛情を持っていたようだ。もしも、蔵原の検挙と長い獄中生活とがなかったならば、二人の愛情の結びつきはあるいは実現したかも知れない。
  
 このあと、村山籌子は地下にもぐった蔵原惟人のレポ(連絡係)をつとめているので、かなり好きだったのだろう。もっとも、村山籌子がレポを引き受けたのは、いち早く潜行した蔵原だけではないが……。立野信之は、敗戦直後に死去した村山籌子の葬儀Click!にも出席し、そこで関鑑子によって歌われた彼女の詩を憶えている。
 ある日、立野信之のもとへ村山籌子がブラリと遊びにきて、蔵原惟人がひそかにモスクワからもどっており、立野に会いたがっていると伝えた。立野のほうでも蔵原に相談ごとがあり、自分は治安維持法下での拷問をともなう非合法活動には耐えられそうもないこと、合法的な地盤に立った文学活動は今後どのような方向性をとるか?……などなど、獄中で考えていたことについて意見を聞きたかった。
 また、立野信之は同居している小林多喜二を連れていきたかった。多喜二は、東京へやってきて以来、蔵原惟人に会いたがっていたからだ。村山籌子の連絡で会えることが決まると、「ようやく、おれ、念願がかなったよ」と多喜二は喜んだ。3人は約束の時間に落ちあうと、ある家に向かって出かけた。村山籌子は、途中で寿司の折詰めやソーセージ、フルーツなど蔵原への差し入れを買いそろえている。
 秘密の会合場所は、静かな路地奥の2階家の階上で、小林多喜二が見つけてきた家だった。立野信之が目立たない家に感心し、「いい家があったもんだね」というと、「おれだって、これで、まんざら田舎者じゃないんだて……」と多喜二が答え、村山籌子がふいに笑いだした。そして、蔵原惟人についてこんなことをいっている。
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 (多喜二の言葉を聞いて) 笑い上戸の村山籌子が、プーッと噴き出した。そして彼女は笑い出したことに自分で顔を赧らめながら、眼をパチパチさせて、急いでいった。/「あのひと、ヒゲを生やしてんのよ、太いヒゲを」/彼女は一そう顔を赧らめて、/「それから、カモフラージュに眼鏡も掛けてんのよ。あんたたち、笑わないでね、あんたたちが笑うと、わたしも笑い出して、始末に困るから」(中略) すると真新しい蛇の目の傘をさして、和服に足駄穿きの男がやってくるのが眼に入った。男は路地の曲がり角までくると、少し足をゆるめて、傘を持ちあげ、あたりを見廻した。頭髪をキチンと分けて、眼鏡をかけ、鼻下に黒いヒゲをたくわえている。/わたしはすぐに蔵原だと悟った。(カッコ内引用者註)
  
 村山籌子の表情やしぐさがイキイキとして、目に浮かぶような描写だ。すぐに噴き出す笑い上戸の彼女のおかげで、暗く押しつぶされそうな時代に、明るく元気な笑い声で勇気づけられた人物は少なくないのだろう。また、上落合のアトリエにあった村山知義の衣類や靴の多くが、彼が出獄して帰宅してみるとほとんど消えており「しようがねえな、しようがねえな」状況になったのは、オカズコねえちゃんClick!が蔵原惟人のもとに変装用として、みんなせっせと運んでしまったからではないだろうか。
 蔵原はソ連へ密航したときの様子や、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)で日本代表の紡績女工が2時間も演説を行ったこと、モスクワで中條百合子Click!湯浅芳子Click!が歩いているのを見かけたこと、プロフィンテルンでの通訳の仕事が終わると休暇をもらいクリミアで遊んできたこと……などを話した。そして、立野の疑問には「合法性は、あくまで守っていくべきだよ。そしてそういう団体が、幾つもあることが必要だ」と答えている。多喜二も蔵原にいろいろ質問していたが、帰りぎわに「おれ、今日の蔵原の話で、大分わかったよ」と嬉しそうにいった。
 1931年(昭和6)7月、上落合460番地の日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)本部で開かれた第4回臨時大会で、小林多喜二は書記長に選ばれている。そのときの多喜二の言葉として、「とうとうおれを書記長にして……どうする気だって?」とつぶやいたのを立野は記憶している。このあと、同年10月に小林多喜二は共産党へひそかに入党し、ナルプでの彼は党のフラクションとして活動するようになる。
 翌1932年(昭和7)の早春、ナルプの書記長になった小林多喜二から、立野信之は一度呼びだしを受けている。出かけていくと、「君、党に入る気はないかね?」とさっそく問われた。だが、立野には地下にもぐって活動する心がまえも勇気もなかった。立野はそのときの気持ちを、「鐘は鳴っている! だがわたしはあえて動こうとはしなかった」と語っている。このあと、立野信之は自らを「敗北主義者」「脱落者」と規定し、腑ぬけな人間だと責めつづけることになる。
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 多喜二の家からの帰り道、向こうから立野の妻と村山籌子が急ぎ足でやってくるのに気づいた。濃緑色のベレー帽をかぶった洋装の村山籌子は、彼を認めると息をはずませながら近づいた。耳もとで「蔵原さんが捕まったらしいのよ」、そう囁くと彼女は唇を噛んだ。

◆写真上:ナップと同じ場所、上落合460番地の日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)跡。
◆写真中上は、上記エピソードと同年1936年(昭和11)4月に銀座の文学案内社で撮影された柳瀬正夢(手前)。は、荻窪駅近く井荻村下井草1810番地(現・杉並区清水1丁目)に住んだ井伏鱒二。は、周辺の作家たちが通った中華料理屋「ピノチオ」の道筋。現在は阿佐谷北口アーケード街になっており、「ピノチオ」跡は画面の右手前。
◆写真中下は、地下に潜行したあと検挙された蔵原惟人()と、彼にあこがれた村山籌子()。は、村山籌子が住んだ上落合186番地の村山アトリエ跡(右手)。
◆写真下は、戦後に撮影された立野信之。は、1950年(昭和25)出版の近衛文麿Click!を主人公にした立野信之『太陽はまた昇る・公爵近衛文麿』(講談社/)と、自身の軍隊経験がベースにあるとみられる1952年(昭和27)出版の立野信之『叛乱』(六興出版社/)。
追記
 このような政府当局による思想弾圧の情景は、現代中国の民主派やミャンマーの反軍勢力の若者の間では現在進行形なのを考えると、決して昔話では済まされない重さを感じる。

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日本の艦船基盤技術と目白水槽。(下) [気になるエトセトラ]

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 目白水槽は、逓信省の船舶試験所Click!として敗戦を迎えたあと、ほどなく1946年(昭和21)には試験所創立30周年の記念式典を開催している。逓信省から運輸省の管轄に移され、1950年(昭和25)3月には船舶試験所の名称は廃止され、運輸技術研究所に統合されることになった。そして、1967年(昭和42)に財団法人日本造船技術センターとなり、2003年(平成15)4月に目白水槽が廃止・解体されるまで業務をつづけている。
 1927年(昭和2)から、廃止される2003年(平成15)までの間に、目白水槽の第1試験水槽および第2試験水槽では4,500隻(船型模型番号に準拠の数値)もの船型試験が行われている。また、より高速な第2試験水槽の設置で行われた航空機の試験を加えれば、さらに数多くの船型(機体)テストが繰り返し実施されたのだろう。
 (財)日本造船技術センターになった1967年(昭和42)には、設備や建屋の老朽化が目立ちはじめ近代的な改装工事が必要になっている。1963年(昭和48)に行われた設備の近代化と建屋の改装たが、その後、徐々に船型試験業務の案件は下降線をたどることになる。2004年(平成16)に出版された『日本造船技術センター目白史(36年の歩み)』(日本造船技術センター・編/非売品)から、当時の様子を引用してみよう。
  
 当センターの施設を大別すると、第1及び第2船型試験水槽、プロペラキャビテーション水槽、減圧回流水槽、工場の各施設、及び建屋があり、さらにこれらのハードウェア群を円滑に運用するための計算機システムが整備されている。この中で船型試験水槽には、建設以来76年余(第1水槽)の歴史があるので、水槽の運用の仕方は時代の要求に従ってさまざまに変化してきた。/特に当センターの36年間は、それ以前の時代と対比すると、造船業界及び造船技術にかつてない大きな変化があった時代と考えられる。/当センターが設立された当初(昭和42年)は、造船業が活況であったため国内に船型試験水槽の不足が目立ち、水槽の現場を与る者としてはこの問題の解消が急務であった。しかし、その後の第1次石油危機(昭和48)を契機に造船市況は不況期に移り、さらに大手造船所による新設試験水槽の建設が相次いだため、結果的に試験業務量が不足して、目白水槽の運営にも大きな影響が現れた。
  
 著者は、造船所における自前水槽の増加や、オイルショックによる造船不況を目白水槽の衰退の原因として挙げているけれど、もっとも大きな要因は日本の造船業がよりコストパフォーマンスの高い韓国や中国に追い抜かれたのと、文中にも書かれている「計算機システム」、すなわち実試験を必要としないコンピュータシステムによるシミュレーション技術が、飛躍的に発達した要因が大きいだろう。
 現在、高層ビルを建設する際に行う耐震・耐暴風テストや、ビル風の対策テストなどのシミュレーションは、ほとんどがHPCクラスタシステムかスパコン(日本独自のVectorエンジンが得意)などを用いて行われている。同様に、船舶の水流試験や航空機の風洞試験なども、実際にモックアップを製作して実験するのではなく、より正確で精密な計測や影響評価ができる、大規模なシミュレーションシステムを使って行うのが一般化している。
 つまり、実際に設計されたのと同一の船舶の模型を製作し、長大な水槽を使って人工的に起こした波の上を航行させて、水流や波形の影響を評価するというアナログ試験は時代遅れになりつつあり、試験業務のリードタイムやコスト、検証効率などに優れたVRをも含む高度なシミュレーションシステムに取って代わられつつあった……というのが実情だろう。
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 文中に、なぜか店頭からトイレットペーパーとティッシュペーパーが消えた(COVID-19禍と同様にデマだった)、第1次石油ショックについて書かれているけれど、戦後に建造された日本の石油タンカーをはじめ貨物船や客船など商船のほとんどが、船首の喫水下にバルバス・バウ(Bulbous Bow)を採用している。おそらく、戦前に船型試験所だった時代の目白水槽でも、バルバス・バウの研究が行われていたと思われる。
 バルバス・バウは、1911年(明治44)に米国で考案された古くからある造船設計技術で、航行する艦船自体が生みだす造波抵抗を軽減するために、球状のかたちをした突起物を船首の喫水下へ装備したものだ。重量のあるタンカーが、積み荷の原油をオイルタンクに陸揚げし、軽くなった喫水の浅い船体で航行するのをご覧になったことがある方は、船首の喫水線下部に丸く突きでたコブのようなふくらみをよくご存じだろう。軍艦だと、その球体の中に対潜ソナーが装備されていたりするが、船首にあの丸みのある突起をつけるだけで、船速の向上や燃料の節約など、船舶の航行を目に見えて効率化することができる技術だ。排水量が大きな艦船ほど、その効果が大きいといわれている。
 戦前、日本の貨客船にバルバス・バウを採用したものはなさそうだが、戦後に建造された商船のほとんどには、この技術が「標準仕様」のように採用されている。また、戦前の日本海軍が建造した大型艦船には、バルバス・バウを採用したものが登場している。代表的なものには、戦艦「大和」Click!「武蔵」をはじめ、空母「翔鶴」「瑞鶴」「大鳳」「信濃」Click!などがある。これらの運用を通じて、船足の高速化や燃費の効率化から目白水槽でもバルバス・バウの船型装備について、水槽試験を含め早くから注目していたと思われるのだ。
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 目白水槽が廃止になる少し前、同センターの変電室で大きな事故が発生している。この事故で、目白地域にあるオフィスビルや住宅、商店などを含む一帯が停電し、同センターでは地域の緊急防災拠点だった目白消防署へ謝罪に出かけているようだ。『日本造船技術センター目白史(36年の歩み)』に収録された、第5代理事長の岡町一雄「(財)日本造船技術センターの思い出」から引用してみよう。
  
 (前略) 今でもはっきりと脳裏に刻まれているのは、変電室の事故のことです。造技セの仕事は言わば現場作業が主であり、事故、とくに人身事故のないよう絶えず最優先で努力していたのですが、私の在任中に一度、地下に設置されている変電室で作業中の職員二人が感電し、突然遮断器が下りる停電事故がありました。一人は軽傷でしたが、もう一人は電気が人体を通り抜ける重傷で、救急車を呼んで信濃町にある東京女子医大の病院に入院させました。/幸い後遺症もなく、元通り元気になったのは不幸中の幸いでした。しかし、停電のため近隣の事務所のコンピューターを狂わせたとかで、目白の消防署に謝りにいった苦い思い出があります。
  
 1990年前後に、学習院とその周辺のオフィスビルへお勤めだった方、あるいは自宅で仕事をしていた方の中で、いきなり停電またはUPS稼働初期の瞬電が起こり、PCに入力中のデータが全部パーになって(当時のPCには、瞬電と同時に入力中のデータを退避させる機能が未装備だった)、「バッカヤロー!」と叫んだ方はおられるだろうか? それは電力会社が悪いのではなく、目白水槽の変電室が原因だったのだ。w
 試験業務が減少し事業経営が苦しくなりはじめたころ、巨大な目白水槽の上にオフィスやマンションが入る高層ビルを建設し、その家賃収入で収益を上げる計画が浮上している。それまでにも、同センターでは事務所ビルの3階および2階・中2階を別の組織や団体に賃貸しており、その収入でずいぶん経営が助けられていたようだ。窮状をメインバンクに相談したところ、バブル景気の真っ最中だったので銀行も複合ビル建設には乗り気だったらしいが、学習院大学のキャンパスは学園地区に指定されており、高層建築は困難だといわれたようだ。その後、バブルがはじけるとともにビルの建設はうやむやになった。
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 オフィスと住居が混在する目白水槽複合ビルは、その完成予想図までが制作されているので、当時はかなりリアルな建設計画として進捗していたのだろう。同書では「高層ビル」という表現がつかわれているけれど、今日的な視点から見るなら「中層複合ビル」といったところだろうか。目白水槽が廃止されたのち、同敷地に建設されたマンション「目白ガーデンヒルズ」のほうが、よほど「高層」で大きく見えてしまうのだ。
                                  <了>

◆写真上:2003年(平成15)ごろ撮影の、第2試験水槽(手前)と第1試験水槽(奥)。
◆写真中上は、戦後の1956年(昭和31)に撮影された運輸省の運輸技術研究所。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白水槽。2本の水槽全体を覆う、ひとつの長大な屋根にリニューアルされている。は、2003年(平成15)ごろに撮影された(財)日本造船技術センターの正門付近で、背後の森は学習院大学のキャンパス。
◆写真中下は、廃止前に撮影された日本造船技術センターの模型製作工場。は、船型模型を使って試験水槽で行われる波浪試験。は、戦前にバルバス・バウを採用した代表的な艦型の戦艦「武蔵」。雷撃訓練中の航空機からの撮影で、前檣楼のニコン製測距儀のトップが白く塗られていることから1942年(昭和17)の撮影だろうか。同艦は旗艦設備を備えていたため、同型艦の「大和」よりも排水規模が大きかったが、艦船では例外的に舷側窓がふさがれ全廃されているところが「大和」との大きな相違点だとみられる。
◆写真下は、1992年(平成4)の空中写真にみる日本造船技術センター全景。は、目白水槽を包括した複合ビル完成予想図。は、高層マンションになった目白水槽跡の現状。

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日本の船舶基盤技術と目白水槽。(上) [気になるエトセトラ]

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 下落合から山手線のガードClick!をくぐり抜け、学習院の下に通う雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)を歩いていくと、2003年(平成15)ごろまで学習院馬場Click!のある手前左手に3階建てのビルとともに、全長200mほどの細長い倉庫のような建物があった。1927年(昭和2)11月に竣工(建物や付属工場の完工は1929年)した、戦前からつづく旧・逓信省船型試験所(のち船舶試験所)の「目白水槽」だ。
 船型試験所の水槽とは、艦船が水の抵抗を抑えてできるだけ効率的に航行するために、あるいは高速な船速を確保し維持するために、船型やプロペラ(スクリュー)の形状などを研究開発する、R&Dセンターのような役割を担っていた。1931年(昭和6)現在で、日本には大型の船型試験水槽が3ヶ所しか存在せず、ひとつが1907年(明治40)竣工ともっとも古い、長崎の三菱造船所の試験水槽(全長約122m)、ふたつめが上記の学習院の下に位置する高田町(現・目白1丁目)の逓信省試験水槽(当初は全長約140m)で、3つめが1931年(昭和6)に目黒へ建設された海軍技術研究所の試験水槽(全長約246m)だ。この中で、目黒にあった海軍の試験水槽は、世界でも最大クラスの水槽だった。
 基本的には、目白の逓信省船型試験所は民間船舶の研究に、目黒の海軍技術研究所は軍艦建造の研究に利用されたが、1930年(昭和5)のロンドン海軍軍縮会議以降は、将来の戦時においては民間船を空母などの軍艦に改装することを前提に船型や船速、船内構造などに対して、さまざまな注文が海軍から民間の汽船会社や造船会社に出され、目白の逓信省船型試験所も多種多様な実験を通じて、その影響を大きく受けていただろう。拙サイトでも、上落合の吉武東里Click!が内装を手がける予定だった、日本郵船の豪華客船「橿原丸」Click!が空母「隼鷹」に改装された経緯を記事にしている。
 さて、昭和初期に建設された試験水槽について、1978年(昭和53)発行の「日本造船学会誌」に連載された、竹沢誠二『本邦試験水槽発達小史』から引用してみよう。
  
 昭和初期の本邦試験水槽界の状況について、永年東大船舶工学科の抵抗推進講座を担当されていた山本武蔵教授著の“船舶”(昭和5年発行)に次の記述がある。「最近完成した東京府下目白の逓信省船型試験所の水槽は大形の部に属し、幅33呎(フィート:約10m)、水深19呎(約6.2m)、長さは459呎(約140m)で、後日更に千呎(約300m)余まで延長し得る敷地を備えて居るという事である。海軍の艦型試験所はもと築地に在ったのであるが、関東大震災の厄に逢い、目下東京府下目黒に新たに建造中の由で、完成の上は恐らく世界で最新式かつ最大の完備したものになることであろう。」/このように昭和の初期に語呂合せのようであるが“目白”に逓信省の大水槽(現在の造船技術センター目白水槽)、次いで“目黒”に海軍の大水槽(現在の防衛庁目黒水槽)が完成し、本邦の試験水槽界は一躍一流へ伸し上がったのである。(呎単位のカッコ内引用者註)
  
 当時、世界各国は造船技術の研究開発にしのぎを削っており、巨大な試験水槽は米国やイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、オーストリア、オランダ、ノルウェーなどで競うように建造されていた。これらの国々は、19世紀からつづく海洋国であり、また強力な海軍力を保有していた国々であったことにも留意したい。
 逓信省船型試験所目白水槽の建造が企画されたのは、1920年(大正9)とかなり早い。翌1921年(大正10)に逓信省から予算が計上され、帝国議会の承認をえて4年間にわたる建設工事計画がスタートした。建設予定地が学習院の敷地内だったため、同年には学習院の目白崖線斜面を東西に長く2,846坪ほど買収している。
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目白水槽浅喫水線試験装置仮底取付工事1938.jpg
 水槽設備や機器を、ドイツとオーストリアに発注して建設準備が進められたが、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!で建設工事がとん挫し、計画の遂行が不可能になった。建設予算がすべて震災の復興費にまわされたため、目白水槽の完成は3年遅れて1927年(昭和2)の晩秋までずれこんでいる。
 逓信省の目白水槽は、巨大な試験施設にもかかわらず当初は技師が2名に技手が1名、技工が2名、その他の守衛や小使いが4名の、計11名しか勤務していなかった。だが、太平洋戦争がはじまった翌日の1941年(昭和16)12月9日には、逓信大臣直轄の渉外部局の試験所となり、実質は海軍の管轄下に入って所員も179名に急増している。同時に、水槽の長さが60mほど延長され、全長200mの巨大な試験水槽を備えるにいたった。
 設備は100%外国製で(当時の日本には試験水槽を建設する技術もノウハウもなかった)、曳引車がマシーネン・ウント・ワーゴンバウ・ファブリック社製、レールがカーネギー社製、電源装置がシーメンス・シュケルト社製、抵抗動力計・自航試験用推進器動力計・推進器単独試験用動力計がオットー・エリー・ガンゼル社製、模型船削成機がフルカン社製と、導入された全設備・全機器の構成は欧米製で、目白水槽の設計・指導はF.ゲーバースという、オーストリアからの雇われ技師が担当していた。
 このような状況で、ワシントン軍縮会議や二度のロンドン軍縮会議をへて無条約時代に入ると、よく「欧米列強」の海軍力を相手に建艦競争などできたものだと呆れてしまうほど、日本には艦船の基礎研究に関する設備や技術の蓄積基盤がまったくなかったのだ。明治末から、「欧米に追いつけ追いこせ」が官民を問わずスローガンのように叫ばれていたが、欧米の成果物(製品)を模倣する手法には長けていたものの、基礎研究や基礎技術の分野における脆弱性は、1945年(昭和20)の敗戦まで基本的には変わらなかった。
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 1927年(昭和2)に建造され、1941年(昭和16)に200mの大型に改装された水槽は、のちに目白水槽の「第1試験水槽」と呼ばれることになる。それは、しばらくすると「第2試験水槽」と呼ばれる高速水槽が建設されているからだが、その経緯を同誌の『本邦試験水槽発達小史』から、再び引用してみよう。
  
 昭和7年より政府による助成船はすべて水槽試験を実施する事を強制されたため、目白の試験業務は急増した。さらに昭和12年度から優秀船建造助成制度が発足し、水槽試験業務は繁忙を極めた。このような情勢にともない、設立以来の懸案であった拡充計画を優秀船建造助成施設の一部として実現できる事になった。その結果、在来水槽の60m延長(前述)、第二試験水槽(新高速水槽)、空洞水槽の建設が行われた。
  
 「優秀船建造助成制度」とは、もちろん国が大型で高速な商船の建造を支援する仕組みのことで、背後にはもちろん海軍の意向や思惑が強く反映されていたのはいうまでもない。第二次ロンドン軍縮会議が決裂し、日本が同会議から脱退して無条約時代を迎えると、国から同建造助成制度の適用を受けて建造された民間船のうち、公試運転の成績が優秀な船舶は軍用船として改装されることになる。
 たとえば、1940年(昭和15)の東京オリンピック(中止)をめざして建造が計画されたといわれる、日本郵船の大型高速豪華客船「橿原丸」と「出雲丸」は空母「隼鷹」と「飛鷹」に改装され、同じく日本郵船の貨客船「春日丸」「八幡丸」「新田丸」が空母「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」に、大阪商船の貨客船「あるぜんちな丸」が空母「海鷹」に、石原汽船の油槽船「しまね丸」が護衛空母に改装されている。これらの船舶は、建造時に優秀船建造助成制度を利用していたため、日米戦がリアルに感じられるようになった時期、あるいは太平洋戦争中に海軍から徴用され軍用艦に改装された。
 文中にある目白水槽の第2試験水槽は、航空機用の試験にも利用できる高速水槽的な性格を備えた設備で、全長は第1試験水槽を上まわる207mの長大なものだった。船舶試験場なのに航空機の試験も実施するのは、飛行艇や水上機の開発のためだ。また、水面上の空間を活用した風洞実験なども行われたようだ。第2試験水槽は、設計を当時の船舶試験所内の技師が担当し、設備や機器類もすべて国内で生産されたものを使用しているので、ようやく純国産の試験水槽が誕生したことになる。
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目白水槽第1・第2水槽2003.jpg
 逓信省船型試験所(船舶試験所)の目白水槽は、目白駅Click!や高田町の工業地域が近かったにも関わらず、二度の山手空襲Click!でも被爆せずに1945年(昭和20)の敗戦を迎え、戦後まで残った唯一稼働が可能な試験水槽となった。戦前から戦後にかけての空中写真を観察しても、目白崖線にへばりつくように建てられた施設は、無傷で戦災を奇跡的にまぬがれているのがわかる。そして、戦後に急成長をとげる日本の造船業界の大きな原動力となった。
                                <つづく>

◆写真上:1921年(大正10)撮影の船型試験所水槽工事の様子。右手が学習院バッケ(崖地)Click!で、背景に開発直前の下落合は近衛町Click!の森がとらえられている。このあと起きた関東大震災の影響で、建設工事は数年間にわたって中断される。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に竣工した逓信省船型試験所あらため逓信省船舶試験所の建物。中ほどに見える、細長い目白水槽の右手(北側)が学習院敷地の崖で、左手遠方には山手線をはさんで近衛町の丘が見え、丘上には大きな西洋館がひとつ見てとれる。位置的に観察すると、下落合414番地の丘上から斜面にかけて建つ島津良蔵邸Click!だろうか。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる船舶試験所と目白水槽の全景。は、1938年(昭和13)撮影の浅喫水船舶試験を行う仮底設置工事で背景はやはり下落合の近衛町。
◆写真中下は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる無傷で戦後を迎えた目白水槽。は、戦前と変わらない風情だった運輸省の運輸技術研究所(旧・逓信省船舶研究所)の正門。は、敗戦後ほどなく撮影された目白水槽の第1試験水槽。
◆写真下は、1960年(昭和35)に改装された第1試験水槽。は、1966年(昭和41)の空中写真にみる(財)日本造船技術センターになったころの目白水槽全景。は、2003年(平成15)の廃止直前に撮影された目白水槽の第1試験水槽(左)と第2試験水槽(右)。

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下落合と葛ヶ谷の片岡邸は人間交差点。 [気になる下落合]

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 上落合502番地の国際文化研究所Click!には、1階に立野信之Click!が住んでいたが、すぐ近くには小川信一(大河内信威)や山岸しづえらが住み、上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)近くには、村山知義Click!山田清三郎Click!、藤枝丈夫、佐々木孝丸Click!林房雄Click!、江口渙、鹿地亘Click!、黒島伝治、貴司山治、武田麟太郎Click!らが暮らしていた。大正末から、1933年(昭和8)ごろにかけての情景だ。
 唯一、下落合1712番地の目白文化村Click!は第二文化村に建っていた、姻戚筋にあたる日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!に家族ごと寄宿する片岡鉄兵Click!だけが、上落合のプロレタリア作家たちの借家とは異なり大邸宅に住んでいる。この邸の様子については、立野信之や小坂多喜子Click!の訪問記をご紹介しているが、150坪ほどの敷地に建設された2階建て大きな西洋館だった。
 したがって、片岡鉄兵がナップに出かけるには振り子坂Click!「矢田坂」Click!、あるいは一ノ坂Click!のいずれかの坂道を下りて中ノ道Click!(現・中井通り)を横断し、敷設されたばかりの西武電鉄Click!の線路を横切り、妙正寺川に架かる大正橋をわたって上落合の東部へと向かったのだろう。上落合に住んだ作家たちは、開通したばかりの西武線・中井駅を利用せず、相変わらず中央線の東中野駅まで歩いている。西武線のダイヤがまばらで、中央線を利用したほうが早く新宿駅へ出られたからかもしれない。
 そんな環境の中、立野信之が片岡鉄兵と連れ立って歩いていると、背後から林芙美子Click!が小走りに追いかけてきた。そのときの様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 林芙美子も上落合付近に住んでいたいたと見えて、ある日、片岡鉄兵とわたしが歩いていたら、うしろからチビた下駄を引きずって追いかけてきて、/「わたしを『ナップ』へ入れてくださらない?」/と売り込んだ。/林芙美子は詩集を一冊出したきりで、まだ無名の域から大して出ない時分であり、それに彼女の身辺にまつわるウワサも芳ばしくなかったので、/「まあ、そのうちに……」/とか何とかいって、その場を逃れた。/それっきりで、林芙美子が「ナップ」に入っていなかったところを見ると、片岡鉄兵もわたしも彼女を積極的に推薦しなかったものと見える。
  
 このとき、林芙美子Click!は夫の手塚緑敏Click!とともに、もとは尾崎翠Click!が住んでいた上落合850番地の借家Click!で暮らしていた。立野信之が「売り込んだ」と書いているように、彼女はナップの作家になれば活字化が保証され、すぐに作家の仲間入りができるかもしれない……と考えたのだろう。当時の文学界では、いわゆる“芸術派”の作品よりもプロレタリア文学作品のほうが注目を集めており、また本の売れいきもよく、自分の小説を発表する近道だと考えたのかもしれない。
 1階に立野信之一家が住む国際文化研究所には、さまざまな人物が往来していたが、もうひとつ東中野駅前にあったバー「ユーカリ」Click!も、上落合に住む芸術家たちのたまり場になっていた。そこには、ママの娘で“ヨッチャン”と呼ばれた17~18歳ぐらいの女の子がいて、横光利一にいわせれば「東京で一番可愛らしい娘さんだ」った。バー「ユーカリ」には、村山知義Click!林房雄Click!吉行エイスケClick!らが足しげく通っていたが、立野の回想には「ユーカリ」よりも北側の上落合寄りに開店していた、吉行あぐりClick!が経営するバー「あざみ」Click!については触れられていない。
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 立野信之は、しばしば片岡鉄兵邸のもとを訪ねているが、そこでさまざまな人物たちと遭遇している。のちに「武装共産党」を組織する、田中清玄もそのひとりだった。当時、共産党は三・一五事件Click!四・一六事件Click!で壊滅状態にあり、ソ連から帰国した佐野博らとともに田中は党の再建にあたっていた。
 このときの片岡邸は、第二文化村の片岡元彌邸だろうか、それとも第二文化村の北側に接した落合町葛ヶ谷15番地の新邸だろうか。立野信之が記憶する当時の片岡邸は、「女中部屋をのぞいて階上階下で三間しかな」かったということだが、この記述を見るかぎりは葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)の新邸に思える。だが、第二文化村の広い敷地に建っていた片岡邸が、そもそも棟が分離した二世帯住宅だった可能性もありそうだ。
 戦前の空中写真で確認すると、屋敷のかたちが「』」型をしており、棟によっては屋根の形状が異なっていたことがわかる。北側の棟は、瓦の載る三角屋根にオシャレな屋根裏部屋の窓と切り妻をいくつか備えた西洋館だが、南側の棟はコンクリートの現代型住宅のようにも見える。いずれにせよ、当時はもっとも売れていたプロレタリア作家である片岡鉄兵の家には、多くの人間が出入りしていた。
  
 ある日、わたしが何かの用事で下落合の片岡鉄兵宅を訪れると、玄関わきの書斎兼用の応接間に、見馴れない男客がいた。色白な、体格のいい男で、黒ぶちのロイド眼鏡をかけ、いかにも精悍そのものの、苦味走った好男子である。年は、わたしと同年配ぐらいであろうか。片岡家の応接間でもちょいちょい見かける雑誌記者とも、新聞記者とも違う。(中略) だが、それにしても再建共産党の責任者である田中が、白昼公然と、もっとも人の出入りの多い、華やかな左翼作家である片岡鉄兵の応接間で片岡と談笑しているとは?! わたしは田中の大胆な行動に舌を捲くと同時に、その粗笨な身の晒し方に賛成のできない危惧をおぼえた。もっとも田中は、あえてそうせざるを得なかったほど、金と居所に窮していたのかも知れない。
  
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 立野信之は「下落合の片岡鉄兵宅」と書いているが、下落合と葛ヶ谷との境界にある葛ヶ谷15番地の邸を、慣例的にそう呼んでいたのかもしれない。上落合側から見れば、目白崖線の丘はすべて「下落合」と呼んでいただろう。
 片岡邸にいた田中清玄は、その夜のうちに片岡から依頼された下北沢の横光利一邸にかくまわれている。そこで10日前後をすごしたあと、今度は片岡の紹介で本郷の菊富士ホテルClick!に住んでいた広津和郎Click!のもとに潜伏している。文学論をめぐり、ふだんは“芸術派”の作家とプロレタリア作家は激しい対立を繰り返していたが、このような場面では表現者同士だからか密に連携している。三・一五事件の際、村山知義が熱海にあった川端康成Click!の別荘にかくまわれていたのは有名な話だ。
 立野信之は、片岡鉄兵邸の留守番もしている。片岡一家が郷里の岡山に帰省しているときで、上落合502番地の国際文化研究所から東中野駅近くの下宿屋へ転居していたときだ。片岡鉄兵は、立野に留守番を依頼すると「オールド・パア」を1瓶置いていった。そこへ、中野重治Click!がひょっこり訪ねてきた。おそらく、カネを借りに片岡邸を訪ねたのだろう。そのときの様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 中野は青い顔をしていた。/「金……ないかね」/「少しならある……どうしたんだ?」/たずねると、中野は髪の毛に手をつっこんで/「実は、おれ、四十円ばかり原稿料が入ったのを、みんな飲んじゃったんだ……おれ、酒をやめようと思う」/当時はまだ独身だった中野には、少しまとまった金が入ると、金がなくなるまで、二日でも三日でも一人で雲がくれする習癖があった。どこへ雲がくれするのか、誰にもわからない。(中略) その中野がある時、わたしに酒をあまり飲むな、という忠告の手紙をくれたことがある。戦旗社の宮本喜久雄といまは中野の細君になっている女優の原泉子とわたしの三人が、高田馬場付近を夜おそくまで飲み歩いたことが、中野の耳に入ったためであった。(中略) わたしには、中野が酒をやめる、といっても、それは信用できなかった。一晩に四十円も使ってしまったあとでは、後悔の臍を噛んでそう思ったかも知れないが、それは実行不可能である。/わたしは中野の言葉を聞き流して、オールド・パアの瓶を持ち出した。/「どうだね」/グラスに注いでやると、/「おお、いいものがあるね」/中野は前言をケロリと忘れて、すぐグラスを口へ運んだ。中野は急に上機嫌になり、例のねばりつくような話し方でペラペラ喋りながら、勝手にグラスにウイスキーを注いで飲んだ。
  
 中野重治の大酒飲みは有名だが、上落合での破天荒なエピソードをあまり聞かないところをみると、連れ合いの原泉Click!がうまくセーブしていたものだろうか。
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 ある夏の晩、上落合の会合から片岡邸にもどった立野信之は、文学少女の女中たちから「今夜は、おやすみになる部屋がありませんよ」といわれた。彼がいつも寝ていた2階の部屋には、地下で潜行をつづける女連れの田中清玄が泊っていた。相手が地下に潜った共産党の幹部なので、「オレが使ってる部屋だからどいてくれ」とはいえなかったろう。立野は女中たちに頼みこみ、なんとか3畳ほどの女中部屋の片隅で仮眠して夜を明かしている。

◆写真上:落合町葛ヶ谷15番地にあった、片岡鉄兵邸跡の現状(道路左手)。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる第二文化村の片岡元彌邸と葛ヶ谷の片岡鉄兵邸の位置関係。は、1936年(昭和11)に撮影された片岡元彌邸。
◆写真中下は、片岡鉄兵()と林芙美子()。は、空襲から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる片岡元彌邸。は、片岡元彌邸跡の現状(道路右手)。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲直前に撮影された葛ヶ谷15番地界隈。このあと、空襲で一帯は焼け野原となった。は、田中清玄()と中野重治()。は、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された第二文化村界隈。
おまけ
 近くの畑では菜の花が満開です。早咲きの牡丹も、きょうは開花していました。
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富士の裾野から東京回顧をする曾宮一念。 [気になる下落合]

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 戦争中、下落合623番地のアトリエClick!から静岡県の吉原町に疎開し、そのあと同県富士宮に転居した曾宮一念Click!は、緑内障の進行とともに徐々に絵画の制作から離れていく。1959年(昭和34)に右目を失明し、1965年(昭和40)には視力障害を理由に国画会を退会、1971年(昭和46)には両目を失明し画家を廃業している。
 そのぶん、戦前から継続している文筆活動は旺盛につづけており、次々とエッセイ集や詩集を刊行している。こちらでも引用する機会が多い、『東京回顧』(創文社)は国画会を退会したあと1967年(昭和42)に刊行され、『白樺の杖』(木耳社)は完全失明後の1972年(昭和47)に、『武蔵野挽歌』(文京書房)は1985年(昭和60)に出版されている。失明してからの曾宮一念は、故郷・東京での暮らしを回顧することが多かったようで、これらのエッセイ集には必ず下落合時代や学生時代の情景が描かれている。
 『白樺の杖』(1972年)には、とかく晩年の病気や諦念のため気弱になり、謙虚で無欲なキリストのようになってしまった中村彝Click!を「神聖化」するのではなく、彼が本来もつ鼻っ柱の強さや傍若無人さ、わがままでひとりよがりで独善的な性格を美化せずに、そのまま隠さずリアルに描いている。陸軍の幼年学校時代、中村彝は行軍の演習中に社(やしろ)の鳥居に向け立ち小便したのを、ある日、下落合のアトリエで突然フッと思い出して、宿痾の結核はそのバチが当たったのだと気に病んでいる。さっそく立ち小便をした道了権現社へ、岡崎キイClick!を派遣して謝罪させている。
 この道了権現社だが、名古屋の陸軍地方幼年学校の周辺に道了権現社は見あたらないので、中村彝が東京へもどった市谷本村町の陸軍中央幼年学校時代のエピソードだろうか。岡崎キイを、わざわざ名古屋まで謝罪にいかせたとは思えないので、その後すぐに退校した市谷の幼年学校での出来事のように思われる。すると、行軍演習で出向いた先は、本郷から駒込あたりにかけての東京近郊なのだろう。岡崎キイが謝罪にいかされたのは、本郷区駒込追分町63番地にあった道了権現社だと思われる。
 『白樺の杖』には、詩も何篇か収められているが、その中には下落合で近所Click!だった佐伯祐三Click!も登場している。同書の詩「断章Ⅲ」から、最後の一節を引用してみよう。
  初夏の晴れた日 麦畑でゴッホが描いていると
  近付いた死神が筆をとって
  青空に幾つも大きな鳥をとばした
    *
  佐伯の煉瓦工場が出来かけた時
  死神は煉瓦の隙間に血をにじませ
  人焼く烟の渦を描かせた
 曾宮一念は、日本橋浜町Click!の生まれなので大川端での思い出や、下落合1296番地の秋艸堂人・会津八一Click!が英語教師で教頭をつとめていた早稲田中学校Click!時代のエピソードも、エッセイにはしばしば登場している。この師弟関係は後年になると逆転し、曾宮一念が会津八一の絵画教師をつとめている。そんな時代の一節を、同書から引用してみよう。
  
 中学生から画の学生になった明治末、大正初年まだ稲穂の畦を歩いて画を描いた早稲田田圃で「また家が出来る。工場に成った」と自分の持物が削られるような惜しさを覚えた。その頃は落合川も澄んで釣りも出来、泳ぐことも出来た。水源の井の頭と三宝寺の池は鬱蒼とした大杉の間に湧泉をたたえていた。昭和の戦後、この川端の路を歩く間、臭気でたまらなかった。武蔵野の畑に点在した肥溜は無くなり、人家の手洗いも水洗になったが、もと澄んで川底の緑の藻が美しかった落合川は肥溜より遥かにひどい悪臭を、空け放しのままにされている。(中略) 私が中学生の時、早稲田は地名通り秋に稲穂がそよいだ。野川の底に水草が透いて見えた。大正になって田圃が日を追って無くなるのを悲しんだ。戦後ここの川沿いは悪臭で歩けない。
  
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 この文章の中に出てくる「落合川」や「野川」は、旧・神田上水(1966年より神田川)のことで、林芙美子Click!が随筆に書いている「落合川」Click!=妙正寺川のことではない。この落合地域を流れる旧・神田上水のことを「落合川」と呼ぶケースは曾宮一念に限らず、もともと下落合に実家があった小島善太郎Click!をはじめ、他の落合在住者の証言(資料)でもしばしば目にするが、妙正寺川のことを「落合川」と呼んでいるのは、林芙美子Click!以外は知らない。彼女は地元の人たちが話すのを聞いて、なにか早合点し川筋の勘ちがいをしているような気がしている。曾宮一念がこのエッセイを書いた1970年(昭和45)前後、日本は全国的に高度経済成長が産みだしたひずみ=「公害」の被害で埋まり、日々各地で公害訴訟がニュースになるような時代だった。
 1994年(平成6)12月、最後まで執筆活動をつづけた曾宮一念は101歳で死去したが、あと15年ほど長生きしたなら、現在の神田川Click!を「見て」どのように感じただろうか。川底には鮮やかなグリーンの水草が揺れ、アユやタナゴ、ヨシノボリ、ウナギ、フナなどの魚が棲息Click!し、トンボのヤゴなどの水生昆虫を捕まえに子どもたちが川へ入り、毎年夏になると遊泳教室が開かれる神田川は、もはや田園に囲まれた明治期の風情はどこにもないけれど、曾宮一念は「ほうほう」とそれなりに喜びそうな気がするのだが……。彼の故郷の日本橋区を流れる日本橋川Click!大川Click!では、秋になるとサケの遡上が確認されている。
  
 私の在学した早稲田中学の構内に小川が流れていて、一年生の教室はこの川を隔てて青物市場があって、ちょうど今頃(十二月中)は大根をこの川で毎日洗っていた。私は窓から大根洗いに見とれては、先生に注意された。朝一時間目の体操には駆け足で一廻りさせられた。五分も駆けると枯田に出て面影橋という木橋の所で十分程休ませた。川べりの枯萱の間には野菊(ヨメナ)がまだ咲きのこっていることもあった。この辺人通りが少なく、橋の上は霜で白かった。岸の内側に結晶していた霜柱を見ていると、川に一塊り落ちた。それが暫く溶けずに流れていった。/これは六十年前の十二月か一月の朝のことで、私は大ヘン美しい物を見たように感じ、今も忘れない。その川べりは現在臭くて歩けない位に流れが汚れ、あらゆるゴミ、廃物、犬猫の死体で埋まっている。
  ▲
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 早稲田中学校Click!の校庭を流れていた小川は、尾張徳川家下屋敷(戸山山荘)Click!があった戸山ヶ原Click!から旧・神田上水へ注いでいたカニ川(金川)Click!のことだ。
 そして、早稲田中学の敷地はかつて松本順Click!の邸跡であり、カニ川(金川)は同邸の庭園を流れ、のちの大隈重信邸Click!の庭園へと流れくだっていた。明治初期には、松本順邸のすぐ北側にあった蘭疇医院(のち資生堂)Click!の存在とともに、日本における本格的な西洋医学のメッカだったエリアでもある。その蘭疇医院の跡地は早大キャンパスの一部になっているが、史的な経緯を踏まえると同大に医学部がないのが不思議なくらいだ。
 昭和初期まで、東京の市街地にはあちこちに広場や日除け地があえて設けられ、残された掘割りには水が流れ、緑地が意識的に保存されていた。だが、関東大震災Click!の教訓で造られたそれら安全を担保するための防災施設や社会インフラは、戦後、まったく顧みられずに壊されつづけている。曾宮一念が書くように、「何時起るかも知れない地震を時々マスコミは警告しても、空地、原ッパ、広場がゴキブリの交尾態のような醜い建造物で埋ま」(同書「国破れて山河無し」より)ってしまった。あとは野となれ山となれClick!で、「バチがあたる」Click!のはこれからなのだろう。
 下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!は、野分や木枯しが吹きつけるかなり寒い家だったようだ。自ら「ボロ家に住んでいた」と書くアトリエは、1月下旬の野分か木枯しで雨どいを吹き飛ばされている。夜、布団にもぐって温まろうとしても、風が室内まで吹いていたらしい。寒い晩の翌朝は、よく晴れるかわりに「流しの水が凍り、戸外の霜解けは荷馬車の轍のまま凍っていた」というが、いまの下落合では室内で氷が張ることはない。それだけ、都市部での温暖化が進んでいるのだろう。
 1970年前後の時代、東京のサクラが品種を問わず次々に枯死していったのを、わたしも憶えている。東海道線に乗っていると、川崎をすぎ多摩川の六郷鉄橋をわたるころから太陽光がおかしな具合になり、まだ午前中にもかかわらず日光がスモッグにさえぎられ、都心は午後3時ぐらいの陽射しに感じられた。「花の都も先進国もあったものでは無い。亡国日本である」と書いている曾宮一念だが、ここ30~40年ぐらいで以前ほどではないにせよ、東京各地のサクラはいくらかもとどおりに回復している。彼がそれを「見た」ら、神田川の情景とともに少しはマシになったと喜ぶだろうか。
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 曾宮一念は戦前、下落合で「どんたくの会」Click!という絵画教室を二度ほど開いている。一度めは、当時親しかった鶴田吾郎Click!といっしょに教えていたが、二度めは仲たがいをしてひとりで教授していた。その授業の様子はどうだったのか、次回は山岳雑誌「アルプ」に連載された“絵画の描き方”の文章から、当時の曾宮先生の教え方を想定してみたい。おそらく、先生から生徒へと逆転した会津八一Click!も、同様の教えられ方をしているのだろう。

◆写真上:花が咲く季節になると、江戸川橋から面影橋のさらに上流まで延々と2kmほどつづく、神田川両岸の遊歩道沿いで開催される「さくらまつり」。江戸期から明治期にかけては、江戸川橋の下流から千代田城外濠の出口に架かる舩河原橋までの旧・江戸川(現・神田川)が花見の名所だったが、戦後には上流へと移動している。
◆写真中上は、山手線の鉄橋下に近い神田川の急流で、大人でも油断すると足をとられそうになる。は、神田川で水棲昆虫をつかまえる夏休みの子どもたち。は、水温が低い妙正寺川(暗渠)と神田川が落ち合う高戸橋あたり。アユなど清流の魚が遡上しており、川底には緑も鮮やかな水草が揺れている。
◆写真中下は、1991年(平成3)10月に撮影された執筆中のもうすぐ99歳になる曾宮一念。失明したため、原稿のマス目状に切り抜いたガイドボードを探りながら書きつづけている。は、1911年(明治44)の東京美術学校時代に制作した曾宮一念『工部学校』。は、早稲田大学図書館に収蔵された曾宮一念『風景』(制作年不詳)。
◆写真下は、1919年(大正8)撮影の曾宮一念が見ていた木製の面影橋(上)と同橋の現状(下)。サクラ並木がつづく橋のたもとに、地元川柳会の句だろう「大ゲサにおどろくタレント ばかばかり」。は、早稲田中学校の正門とカニ川が流れていたグラウンド。もともとは日本初の西洋医学病院「蘭疇医院」の院長である、松本順の邸敷地だった。

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立野信之が見たあの時代の作家たち。 [気になる下落合]

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 立野信之Click!は、1928年(昭和3)に結婚し、高田老松町Click!の家に間借りして暮らしはじめている。のちに死別することになる春江夫人は、火野葦平Click!の遠い親戚であり、夫人は火野のことを「玉井の勝ちゃん」と呼んでいた。
 小石川区にある高田老松町の家のことを、立野は「雑司ヶ谷と目白の間」と本に書いているが、彼のいう「目白」は古い時代からの呼称で、室町末期から江戸初期のころ目白坂Click!の中腹に足利から不動尊Click!(目白不動)が勧請された目白山Click!(のちの江戸期に付けられた地名は関口Click!椿山Click!)のことであり、山手線の目白駅Click!とその周辺のことではない。おそらく、近所の住民たちが普段からつかっている表現をそのまま踏襲したのだろうが、この時代は雑司ヶ谷の西にある目白駅界隈(特に駅の東側)は、目白ではなく「高田(町)」と呼ばれることが一般的だった。
 立野信之は、少しずつ原稿が売れるようになってはいたが、「中央公論」や「文藝春秋」に原稿が掲載されたからといって、すぐに暮しが楽になるわけではなかった。結婚早々から、夫婦は質屋通いを繰り返している。そんなとき、片岡鉄兵Click!が彼の原稿を「改造」に持ちこんだが、結局原稿は返送されてきた。生活の苦しさから、「改造」編集部に原稿料の前借りを依頼したのが、編集者には驕慢ととらえられてまずかったのだが、横光利一に会うと「立野君はすぐ原稿料をさいそくするからいけませんよ」と忠告されている。横光利一はすでに売れっ子作家だったが、原稿料を催促しなかったせいか手許不如意がつづき、菊池寛Click!や直木三十五に借金を繰り返していたらしい。
 立野の原稿を「改造」に紹介してくれたのが機縁で、彼はプロレタリア作家になりたての片岡鉄兵と急速に親密になり、同時に上落合にいた蔵原惟人Click!とも親しくなった。このとき、立野は下落合1712番地(現・中落合4丁目)の目白文化村Click!は第二文化村で暮らしていた片岡鉄兵邸を訪問している。この邸は、片岡鉄兵の姻戚筋にあたる日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!であり、彼は葛ヶ谷15番地(のち西落合1丁目15番地)に自邸が完成するまでの間、家族で仮住まいをしていたようだ。片岡邸の邸内の様子は以前、小坂多喜子Click!の訪問記としてもご紹介Click!している。
 ちょっと余談だが、片岡鉄兵Click!が葛ヶ谷15番地に自邸を新築していた敷地は、その2年ほど前に佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として描いた画面に偶然とらえられている。角地に「富永醫院」Click!の立て看板があったところで、第二文化村のすぐ北側に位置する画面の右手が、ちょうど葛ヶ谷15番地にあたる。現在の旭通りに面した交番のまん前、巽横町と呼ばれる西側の角地一帯だ。また、「下落合風景」の1作『道』Click!では、ちょうど坂下にイーゼルを立てた画家の背後左手が葛ヶ谷15番地だ。
 第二文化村の片岡(元彌)邸を訪ねたときの様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 その頃、片岡鉄兵は結婚したてのホヤホヤで、下落合に借家していたが、近くに新居を建築中であった。/ある日、わたしが訪ねると、今しがた起きたばかりだといい、長身の細君が運んできたオートミールをすくって食べていた。プロ作家とオートミール――いかにも片岡鉄兵らしい配色だ、とわたしはひそかに思ったことだった。/その頃、蔵原らの肝煎りで国際文化研究所が創立され、その事務所を同じ上落合に持つことになった。そこで、その管理をかねて、わたしたち夫婦に階下の一間に住まないか、という話が突然蔵原からわたしに持ち込まれた。部屋代は、もちろん無料である。/わたしたちは部屋代の支払いに窮していたので、渡りに舟と、さっそくそこへ引っ越した。/二階が六畳と八畳の二間つづきで、これは国際文化研究所の専用、階下は三畳、四畳半、六畳の三部屋に台所がついていて、わたしたちの部屋は奥の六畳であったが、事実上は階下全部を使用していた。
  
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 書かれている国際文化研究所は上落合502番地、すなわち少しあとには蔵原惟人とその両親など家族が住む家であり、ちょうど吉武東里邸Click!神近市子邸Click!大賀一郎邸Click!古川ロッパ邸Click!などのすぐ南側にあたる位置だ。研究所のメンバーには、蔵原惟人をはじめ秋田雨雀Click!林房雄Click!、永田一脩、小川信一(大河内信威)、佐々木孝丸Click!、片岡鉄兵らで、落合地域に住んでいる人たちも少なくなかった。国際文化研究所では、1928年(昭和3)11月から機関紙「国際文化」を発行している。
 小川信一はペンネームで本名は大河内信威といい、先にお邪魔をした池之端画廊Click!がある一帯の大邸宅に住んでいた大河内正敏家(子爵)の息子だ。彼は、国際文化研究所のすぐ近くにある上落合502番地の同じ地番に建っていた小さな平家を借りて、帝劇Click!出身の女優・山岸しづえと暮らしていた。彼女が前進座の河原崎長十郎と結婚し、河原崎しづ江Click!になるのは7年後のことだ。
 さて、立野信之は山田清三郎に勧められて、ぽつりぽつり小説を書きはじめていた。その1篇『標的になった彼奴』が、前衛芸術家同盟が発行していた雑誌「前衛」の終刊号に掲載されている。「前衛」が終刊したのは、ソ連帰りの蔵原惟人が弾圧が強まる状況下で文化団体の大同団結を呼びかけ、全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成して機関紙「戦旗」Click!を発行する計画が、すでにできあがっていたからだ。
 『標的になった彼奴』は、立野自身が軍隊生活で経験したことを書いたものだが、プロレタリア文学界だけでなく“芸術派”の作家にも評判がよく、横光利一も「文藝春秋」で好意的な批評をしている。つづいて、立野はナップの「戦旗」創刊号に『赤い空』を掲載したことで、正式にナップのメンバーとなった。彼はそこで、数多くの作家たちと出会うことになる。ちなみに、全日本無産者芸術連盟(ナップ)も上落合460番地で結成されており、位置的には村山知義・籌子アトリエClick!のすぐ北側だった。
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永田一脩「プラウダを持つ蔵原惟人」1928.jpg 立野信之「青春物語」1962.jpg
 その村山邸(敷地内の家)の2階では、発表された作品の合評会が開かれていた。『赤い空』が掲載され、「戦旗」創刊号が発刊された直後というから、三・一五事件Click!から間もない1928年5月ごろのことだろう。この時期、村山邸の敷地は全面リニューアルのまっ最中だったと思われ、従来の「三角アトリエ」Click!を解体して新たなアトリエを建設し、同時に村山家の敷地内には借家やアパートが数棟、建設途上だったのではないだろうか。そのため、村山夫妻は前年から下落合735番地Click!の仮住まいにアトリエを移しており、上落合186番地に住んでいなかった可能性が高い。
 そのような環境で、合評会が開かれたのは解体予定の古家か、あるいは借家用に建てた新築の2階だったのではないだろうか。立野信之は合評会に出席し、会合が終わると新宿へ散歩に出かけている。そのときの様子を、『青春物語』から再び引用してみよう。
  
 わたしが上落合の村山知義の家の二階で行われた合評会に出席した帰りに新宿へ出ると、中村屋の前の雑踏の中を、蔵原惟人が大島のついの着物を着て、お天気なのに高下駄をはいて、雑誌を読みながら歩いてくるのに出会った。/蔵原はわたしを見て、立ちどまった。「新潮」か何かの合評会に行くところだ、と蔵原は問わず語りにいった。歩きながら雑誌を読んでいたのは、そのためだったらしい。/「あなたの小説は面白かった……つづいて書きなさいよ」/別れぎわに、蔵原からいきなりそう言われて、わたしは面食らった。わたしにとって、蔵原惟人は、畏敬する指導理論家である。わたしよりも二つ年長であるが、十も十五も違っているように思われた。
  
 この蔵原に励まされた言葉がきっかけとなり、立野信之は小説家になる決心がついたとみられる。創刊号につづき、さっそく「戦旗」第2号に『軍隊病』を発表して、周囲から圧倒的な好評を得た。ようやく人生の方向性が定まったのは、25歳のときだった。その後、立野信之は「戦旗」の小説部門の編集委員になり、激流の時代を泳いでいくことになる。
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 ある日、「戦旗」の編集部に蔵原惟人がやってきて、風呂包みの中から分厚い原稿を取りだした。立野がのぞくと、題名に『一九二八・三・一五』と書かれており、そこには「文章倶楽部」や「文章世界」への投稿仲間として、あるいは「新興文学」の寄稿者として以前から記憶していた、小林多喜二Click!の名前が記されていた。立野信之は、さっそく原稿を校正し、タイトルを『一九二八年三月一五日』と修正して「戦旗」に掲載している。このあと、立野は小林多喜二といっしょに暮らすことになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合460番地にあった、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の本部跡(左手)。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合502番地界隈。国際文化研究所があり、立野信之や小川信一(大河内信威)、山岸しづえ(河原崎しづ江)、蔵原惟人らが暮らしていた。は、国際文化研究所跡(左手)の現状。
◆写真中下は、1928年(昭和3)5月に上落合で発刊された「戦旗」創刊号()と、同年11月に発刊された「国際文化」創刊号()。下左は、ソ連から帰国後の1928年(昭和3)に制作された永田一脩『<プラウダ>を持つ蔵原惟人』。下右は、1962年(昭和37)に出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』(河出書房新社)。
◆写真下は、ナップ再編により1929年(昭和4)2月10日に浅草信愛会館で開かれた日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の設立大会。壇上は議長・藤森成吉と書記・猪野省三で、左手には臨検する警官が3名写っている。翌年のナルプ第2回大会では、議長に江口渙と中央委員には小林多喜二が選出されている。ナルプ本部は、ナップと同様に上落合460番地に置かれていた。は、上落合429番地の日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)跡の現状。

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遅れてやってきた「第3次山手空襲」。 [気になる下落合]

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 東京の山手地域に、1945年(昭和20)4月13日夜半と5月25日夜半の二度Click!にわたって行われた山手大空襲Click!が終わると、市街地のほぼ50.8%が焼け野原となり、この時点で米軍は東京市街地を名古屋とともに大規模な焼夷弾攻撃リストから外している。でも、あまり知られていないが同年5月29日にも、小規模ながら東京の山手地域に空襲が行なわれている。この「第3次山手空襲」ともいうべき爆撃について、一連の山手大空襲の流れを追いながら具体的に見ていきたい。
 落合地域のみに限ってみれば、4月13日および5月25日の夜間空襲であらかた“終了”しており、上落合はほぼ壊滅状態Click!で下落合は大半が焦土Click!と化していた。西落合は、耕地整理後の空き地や田畑が多かったせいか、それほど大きな被害は受けていない。その後、硫黄島から飛来したP51と思われる戦闘爆撃機が、下落合の聖母病院Click!近衛町Click!藤田本邸跡Click!ないしは深田邸の付近Click!へ散発的に250キロ爆弾を投下したり、野方配水塔Click!へ機銃掃射をあびせたりしているが、B29による絨毯爆撃は以降行われなかった。
 さて、1945年(昭和20)3月10日に東京大空襲Click!の大惨事が起きてから、ほぼ1か月たった4月13日の夜半に第1次山手空襲が行なわれている。午後11時すぎから爆撃が開始され、赤羽の兵器廠を中心とした工場街をはじめ、鉄道や駅舎とその周辺、幹線道路沿いの家屋密集地などを攻撃目標に豊島区、淀橋区、四谷区、牛込区、小石川区、麹町区、王子区、荒川区などが爆撃を受けた。淀橋区に牛込区、四谷区と現在の新宿区に相当する地域は、各地で大きな被害を受けている。
 4月13日夜半に飛来したB29は330機(大本営発表160機)で、翌4月14日の午前2時ごろまでの約3時間にわたり、東京各地でM69集束焼夷弾と250キロ爆弾による爆撃をつづけている。つづけて、4月15日夜半にも340機(大本営発表200機)のB29が、延焼をまぬがれた工場街や鉄道沿いを中心に反復爆撃を行ない、また新たに大森区と蒲田区を加えて爆撃している。この第1次山手空襲で投下された焼夷弾や爆弾は、東京大空襲にほぼ匹敵するほどの量だったが、約22万戸の家屋が焼失しているにもかかわらず、犠牲者は約3,300人と東京大空襲に比べ2桁も低い死者数で済んでいる。
 山手空襲の被害者が少ないのは、もちろん(城)下町Click!よりも緑地や空き地が多く、家々の間隔が広かったせいもあるが、住民たちが東京大空襲の惨状を目の当りにし教訓化していたのも、被害を少なくする要因だったと早乙女勝元Click!は分析している。つまり、空襲警報が出たらバケツリレーや防火ハタキClick!などによるムダな消火活動などせず、安全と思われる場所へできるだけ早く逃げることを最優先させた結果だったとみられる。
 政府がいくら、「敵の空襲恐るるに足らず」とか「来らば来れ敵機いざ!」などと叫んでみても、そんなタワゴトを地元防護団Click!をはじめ住民たちはとうに信じなくなっていた。この4月の山手空襲のあと、警視庁の報告書では東京大空襲の影響を認めている。
  
 三月一〇日ノ大空襲ノ結果一般市民ヲシテ焼夷弾ノ密集投下ニヨル初期防火ハ不可能ナリノ観念ヲ助長セシメオリタルノミナラズ、火災ニ対スル甚大ナル恐怖心ヲ醸成シオリタルタメ、大部分ガ逃避態勢ニアリ、全ク防火準備ヲ怠リオリタルモノト認ム
  
 東京大空襲の惨状を見て、防火ハタキやバケツリレーでM69焼夷弾の火災が消せるとは、誰も思わなくなってしまったのだ。そして、その判断はきわめて正しいことが、山手空襲における逃げ遅れを防止し、犠牲者数の減少に直結していると思われる。
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 この4月13日夜半の空襲について、吉村昭Click!の『夜間空襲』から引用してみよう。
  
 四月十三日夜、私の町の上空にB29が低空で飛び交った。その機体は巨大な淡水魚のようにみえ、その腹部から焼夷弾がばらまかれた。裏手の家の中でも炎が起り、私はバケツを手に消火に赴こうとした。その時、父が、/お前一人で消そうとでもいうのか、早く逃げろ」/と言って、先に立って路上に出て行った。/私は、父の言に従って非常持出し用のリュックサックをかつぎ、ふとんを頭上にかぶって谷中の墓地に急いだ。途中で、次兄が駈けてくるのに出会った。/「家が焼けた」/と、次兄がいった。家とは、次兄たちの住む古い家のことだった。/谷中の墓地には、避難した人々があふれていた。空が赤く、墓地は墓碑の文字もはっきりみえるほど明るかった。墓地が、これほど人々によって賑ったことはなかったろう。
  
 つづいて同年5月になると、マリアナ諸島の米軍基地には約1,000機におよぶB29が配備され、東京と名古屋を集中的に爆撃している。まず5月24日には、東京西部に約525機(大本営発表250機)のB29が襲来し、大森区や品川区、目黒区、渋谷区、世田谷区、杉並区を絨毯爆撃している。約2時間余にわたる空襲で、死者762人と負傷者4,130人を出したが、これはまだ第2次山手空襲の前哨戦にすぎなかった。
 翌5月25日夜半には、470機(大本営発表250機)のB29が山手の焼け残り地区へ、徹底した絨毯爆撃を繰り返した。このとき投下された焼夷弾や爆弾は、3月10日の東京大空襲の2倍近い量にあたる。この空襲は第2次山手空襲Click!にカテゴライズされてはいるが、実際には(城)下町各区の焼け残り地域への空襲も含まれていた。攻撃範囲は淀橋区をはじめ牛込区、四谷区、麹町区、本郷区、芝区、日本橋区、京橋区、赤坂区、神田区、麻布区、渋谷区、目黒区、小石川区、豊島区、中野区、品川区、下谷区、浅草区、荏原区、城東区、向島区、深川区、江戸川区、板橋区、足立区、杉並区、世田谷区、荒川区、深川区、大森区、滝野川区、王子区の33区におよび、空襲を受けなかったのは本所区(区全域がすでに焦土だった)と蒲田区の2区のみだった。
 5月25日夜半の空襲で、死者2,258人と負傷者8,465人を出しているが、警視庁はもはや空襲には対処するすべがないと認める発表を行なっている。
  
 民防空ハ最近ニオケル徹底カツ大規模ナル空襲ニ、其ノ戦闘意識ヲ殆ド喪失シオリ、タメニ初期防火全クオコナワレズ、火災ハ全被弾地域ニ及ブ
  
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 1945年(昭和20)の3月から5月にかけて、繰り返し行われた大規模な空襲で東京市街地はほぼ壊滅し、米軍の内部資料によれば焼夷弾や爆弾、ガソリンなどB29の絨毯攻撃による爆撃リストから、東京と名古屋の2都市は外されたはずだった。
 ところが、同年5月29日に横浜の市街地を空襲(横浜大空襲)したB29とP51の一部が、横浜から東京へと攻撃目標を変えている。おそらく、横浜市街地に投下した焼夷弾の効果(空襲による炎上被害)が予想以上だったため、余った焼夷弾や爆弾の投下先を東京へ変えたか、あるいは大火災による煙が原因で地上の爆撃目標が視認できなくなったのではないだろうか。この現象は、3月10日の東京大空襲時にもみられ、予想以上の効果を上げて余剰となった焼夷弾や爆弾を、当初は爆撃を予定していなかった地域にまで拡大投下している。
 5月29日の横浜大空襲では、517機のB29と101機のP51が来襲しているが、そのうちの何機が横浜地域ではなく東京空襲に参加したのかは不明だ。このとき空襲を受けたのは、いまだ焼け残りの住宅街があった大森区、蒲田区、品川区、目黒区、芝区、少し離れた牛込区と四谷区で、死者41名の被害が出ている。そして、この「第3次山手空襲」を最後に、B29による東京市街地への大規模な焼夷弾攻撃は終わった。
 そして、6月10日に39機のB29による空襲が板橋区の工場と立川の航空本部に、翌6月11日には約60機のP51による立川と八王子の空襲(銃爆撃)が行なわれている。また、同時期には伊豆大島をはじめとする伊豆七島へP51が来襲し、銃爆撃が繰り返し行われた。7月に入ると、約1,000機のP51が関東各地を空襲し、特に立川と八王子が反復して銃爆撃を受けている。そして、8月2日夜半に310機のB29が関東各地を爆撃して、そのうちの70機が八王子の住宅街に絨毯爆撃(八王子大空襲)を繰り返し、八王子は一夜の空襲で壊滅している。
 その後、P51や艦載機のグラマンが関東各地を散発的に銃爆撃するが、敗戦間際の8月10日に100機のB29と50機のP51が王子区と板橋区を空襲し、8月13日には艦載機60機が大森区、蒲田区、品川区を銃爆撃している。この二度にわたる東京への空襲は、広島と長崎への原爆が投下されたあとであり、日本にポツダム宣言の無条件降伏受諾を督促する、いわば政府の眼前での“ダメ押し”空襲のような気配が濃厚だ。
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 東京への最後の空襲は8月15日深夜1時すぎ、西多摩郡古里村(現・奥多摩町)へ数機のB29が来襲し、村内の住宅を爆撃して22名が犠牲になっている。埼玉の熊谷を空襲したあと、その余剰弾をたまたま帰投ルート上にあった同村へバラまいたといわれている。

◆写真上:3月10日の東京大空襲後に撮影された日本橋の千代田小学校Click!(千代田国民学校=現・日本橋中学校)で、復興校舎は焼け残ったが内部は丸焼けだった。生徒らしい子どもが写っているが、東京駅方面の避難先からもどった親父もこの光景を見ているだろう。わたしの実家は撮影者の背後、元祖すずらん通りに面した一画にあった。
◆写真中上は、5月25日の夜半に根津山Click!の上空あたりで被弾し、学習院に南接する国産電機工場Click!へ墜落するB29で、小石川の住民による個人撮影。は、5月25日夜半にB29から撮影された爆撃を受ける千駄ヶ谷および神宮前地域で、眼下に見えているのは明治神宮。米国防総省の情報公開資料では、明治神宮を「Tokyo palace(皇居)」と誤認している。は、B29の編隊を護衛する戦闘爆撃機P51。硫黄島が陥落すると建設された米軍基地からP51が空襲に加わり、東京各地で銃爆撃を繰り返すようになる。
◆写真中下は、1946年(昭和21)2月に撮影されたほとんど焼け野原の東京市街地。は、同写真から落合地域を拡大したもの。は、桜田門の上空あたりから北を向いて撮影された空中写真。左手下に、旧・警視庁の庁舎が見える。
◆写真下は、1944年(昭和19)ごろに政府が空襲を想定して進めていた主要都市の「中央官庁防空研究会研究資料」。マル秘の印が押され、東京をはじめ全国主要都市の空襲が想定されて、その被害や復旧の見込みが研究されている。ただし、9~10日間かけて行われた政府の防空研究は、空襲の想定が小規模かつ限定的で根拠のない楽観論と希望的な観測に満ちており、実際の大規模な空襲に対してはほとんど無意味だった。は、代々木駅から四ッ谷地域と市ヶ谷地域から飯田橋駅にかけて想定された空襲エリア。

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空き地があれば畑にする1944年。 [気になる下落合]

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 太平洋戦争がはじまった翌年、1942年(昭和17)7月から東條内閣Click!のもとで施行されたのが、ほぼすべての主要食糧を国家が管理し配給制にする「食糧管理法」だった。だが、敗戦が近づくにつれ食糧生産高の低下や輸入食糧の急減、物流ネットワークの破綻などにより、配給制そのものが破産し成り立たなくなっていく。
 国民は、ほんのわずかな食糧しか配給してもらえないので、今日的ないい方をすれば「自助」、すなわち各家庭で自給自足を考えなければならなかった。それでも、まだ地方から都市部へ出てきた人々はマシだった。食糧が乏しく飢餓状態がひどくなれば、都市部と比較して食糧事情がマシだった故郷から送ってもらったり、「田舎」が農家であれば生産品を家に直送してもらえたりした。だが、都市部が故郷の市民たちは、配給制の崩壊により直接生命の危機にさらされることになった。
 さらに、敗戦まぎわになると、地方から都市部への個人的な食糧の郵送や運搬さえ禁じられてしまい、都市部に住む人々は自分たちでなんとか食糧を調達しなければならなくなった。裕福なおカネ持ちの家庭であれば、必要な食糧は配給に頼らず、今日の北朝鮮のようにヤミ(闇市場)で手に入ったが、そうでない家庭ではいっそのこと故郷に帰るか、食糧不足がそれほど深刻でない地方へ疎開するか、あるいは自分で畑を耕したり野草を摘んで食べる「自助」で飢えをしのぐしかなかった。
 あまりにもひもじくて空腹なので、どうせ死ぬなら腹いっぱい食ってから死のうと、空襲の直前に天ぷらを揚げて満腹になるまで食べさせられた、向田邦子Click!の記録が残っている。(『父の詫び状』Click!所収「ごはん」) 狭い庭をようやく耕してこしらえていた、サツマイモが天ぷらの具のすべてだった。子どもを飢えたままで死なすのが、親としてはあまりにも不憫でかわいそうに思えたのだろう。
 落合地域では、住宅の庭先はもちろん、空き地が多い西部では少しでも飢えをしのごうと、地面を耕して野菜などが栽培されていた。空き地は、たいがい自分の土地ではなく所有者がいるので、いちおう地主に断ってから開墾するのだが、耕し終わって肥料を入れ収穫ができるようになってから、「うちの土地だから」と耕作禁止をいいわたし、自分の畑地にしてしまう性悪な地主もいたようだ。
 西落合1丁目31番地(1965年より西落合1丁目9番地)で暮らしていた料治熊太・花子夫妻Click!は、近くにあった磁石工場(試験所)の所有地を借りて耕し、野菜類を育てている。その様子を、1944年(昭和19)に宝雲舎から出版された料治花子Click!『女子挺身記』Click!所収の、短編「隣組の畑」から引用してみよう。
  
 私共の裏庭つゞきには、生垣一つを境に約千五六百坪ほどの原つぱがあつた。その原つぱは一本の道をさしはさんで更に向ふの、それ以上に広い原つぱにつゞいてゐた。こゝ十五六年、私共が落合に住みついてから、住宅の建築は年と共に増加して来たのにもかゝはらず、このやうに広い原つぱがあるのは、その真ん中に磁石工場があり、その試験場があつて、感度の関係で周囲に建築が許されないからであつた。子供達にとつてはどこよりも安全な遊び場所で、四季折々、凧をあげたりとんぼをつかまへたり、眺めてゐるだけでも楽しげな風景であつた。私自身も春になると、垣根をくぐつては原つぱへ出て、よめな、つくし、たんぽゝなどを摘んだり、或る時は茣蓙や小さなちやぶ台を持ち出して野天で昼食をしたりしたことさへあつた。
  
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 家の裏にある空き地を耕そうと、最初に料治熊太へ声をかけたのは、近所に住む同じ隣組の小説家で戯曲家の大島萬世だった。磁石工場の所有地なので、いちおう管理室にかけあうと、「公認はできないが勝手に耕すのなら黙認」と許可を得た。
 こうして、料治家では少しでも食糧不足を補おうと、馴れない畑仕事に精をだして40坪ばかりの菜園をようやくこしらえた。同様に、隣接するほぼ同じ広さの空き地を耕して、大島萬世も野菜畑をつくっている。その様子を見ていた隣組の近隣家庭では、さっそくあちこちに縄張りを設けて、料治家裏の空き地はほぼ全スペースが野菜畑になってしまった。育てていた野菜は、ダイコンやジャガイモ、トウモロコシ、サツマイモ、ナガネギ、ラッキョウ、コマツナ、ゴボウなどだった。
 ある日、磁石工場から通告の高札が、元・原っぱだった空き地に立てられた。高札には、「警察の指令に依り、工員の食糧増産の為、以後畑の使用を絶対に禁止す」と書かれていた。雑草だらけの原っぱを、よぶんな根を取り除き肥料を入れ、ようやく満足に収穫できるようになった矢先のことだった。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 蒔いた種が芽を出すころ、二人の先鞭者(料治家と大島家)に刺戟されて、あちこちに縄張りの土地が出来た。この原つぱを取り囲む隣組の人達が、それぞれ増産の鍬をふるひ出したのである。それから二年たつた頃は、もう原つぱの真ん中に一本の細路を残すだけで、全部立派な野菜畑になつてしまつた。四十何軒の人たちが、大小、正方形、長方形、いろいろの畑に、みんな互ひに苗や種を分け合つたり、作物を交換し合つたり、どんなに明け暮れのひと時を、そこに楽しく過して来たことであつたらう。おかげで子供達は遊び場所を失つてしまつたけれど、その代わり、たうもろこしをもいだり、お藷を掘つたりする楽しみを得ることが出来たのであつた。/それが突然、今年の春さき、みんなが堆肥を入れ、灰を撒き、そろそろじやがいもの種を植ゑたり大根の種を蒔いたりしはじめる頃、使用禁止の声が私達を脅かしたのであつた。(カッコ内引用者註)
  
 この文章から、原っぱの開墾と畑地化は食利用配給制がはじまって間もない、1942年(昭和17)から行われていたのがわかる。1944年(昭和19)の「春さき」に突然、工場からの耕作禁止がいい渡されたことになる。
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 この一連のエピソードでは、大島萬世のほかに同じ隣組の「白石」「尾崎」「臼倉」「丹羽」などのネームが登場するが、この中で臼倉家が隣組の組長だった。これだけ近隣の名前がわかれば、よりリアルに記事が書けると思ったので、さっそく1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照したのだが、採取されていたのは「丹羽」と「斉藤」の両家だけだった。西落合は新築の家が多かったせいか、ネームが採取されていない住宅が多い。「火保図」では、料治家の隣りがタバコ屋だったことがわかる。
 この中で、尾崎という老人がクセ者だったようだ。空き地の畑ではおもに麦を育てていたらしいが、麦秋の収穫を目前に畑をつぶさなければならなくなった。そこで、畑を耕す隣組の「代表者」と称して、磁石工場へかけ合いに出かけている。近所の人たちには、「わしは明日工場へかけ合つて埒があかなきや、区役所なり警察なりへ談判に行くつもりですよ。だからまあ当分は大丈夫ですよ」と話していた。ところが、突然上記の高札が畑のある空き地に立てられたのだ。
 ほどなく、尾崎老人は畑の耕作者宅をまわって、工場との交渉の経過を報告せずに、「裏の畑のものを明日中に引つこ抜いてくれ」、「あさっては工員達がひつくり返して」しまうから、「滅茶滅茶にしても意義は申し立てられません」といって歩いた。驚いた住民たちは、急いで食べられそうな野菜をすべて収穫し、畑を空き地にもどしている。ところが、老人の麦畑だけは手つかずだった。
 直後に、料治熊太Click!が情報を仕入れてきた。「尾崎さんはあの麦を工場へいゝ値で売つたんだつてさ。(中略) 尾崎さんは自分さへよければそれでいゝんだからね」。工場の幹部と、「俺は畑の代表者だ」と吹聴していた斎藤老人との間で「ボス交」が行われ、畑の処分やスケジュールを工場の都合がいいように勝手に決めて、そのかわりに自分の麦畑を買いとってもらっていたのだ。こういうこすっからい人間はどこにでもいるもので、農村ならさっそく「村八分」にされそうな所業だが、西落合は新興住宅地だったので、以降は近隣の「鼻つまみ」か「うしろ指」ぐらいで済んだのかもしれない。
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 料治熊太は、なんとか食べられるものは収穫し、生育中の野菜類はせっせと庭へ移植している。料治花子は工場から帰宅すると、昨日とは打って変わって畑が消滅し、空き地にもどってしまった家の“裏”を見わたして感慨にふけった。その一画に、「尾崎さんの麦畑のみが、くっきりと青く、煙る雨の中に鮮やか」な情景を見せていた。戦中戦後の飢餓状況で、「食いもんの恨み」は早々に忘れられることはなさそうだ。

◆写真上:近くの畑地で、なぜかポツンと収穫し残している落合大根。
◆写真中上は、磁石工場(試験所)が建設される前の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる西落合1丁目の空き地。は、1944年(昭和19)10月18日撮影の空中写真で磁石工場の周辺には畑地らしい開墾跡が見られる。すでにこのときは、工員たちが耕していたのだろう。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる料治邸とその周辺。料治邸の並びには「タバコヤ」、空き地の南側には「丹羽」「斉藤」の名前が採取されている。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月6日撮影の空中写真にみる同所。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の同所。料治邸は3月以降の空襲で焼けているので、西落合1丁目31番地の角地ではないか。は、畑にした空き地跡(右手)と磁石工場跡(左手)の現状。畑跡は天理教本理世大教会に、磁石工場跡は落合第二中学校になっている。
◆写真下は、1944年(昭和19)撮影の牛込区(現・新宿区の一部)津久戸町の街中につくられた畑。は、1946年(昭和21)に撮影された日本橋区の昭和通りで戦後初の麦刈りをする女性たち。食糧不足は戦後も深刻で、都市部では大量の餓死者をだした。は、江戸橋倉庫ビル(2012年解体)前の昭和通り。日本橋の目貫き通りClick!のひとつに、戦時中から食糧増産の麦畑ができるようでは、戦争はとうに敗けなのだ。

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宇野重吉が代読する村山籌子追悼文。 [気になる下落合]

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 1946年(昭和21)8月4日午後7時46分、疎開先Click!の鎌倉町長谷大谷戸253番地(現・鎌倉市長谷5丁目)で死去した村山籌子Click!は、なんでも自由に表現し執筆できる時代を目前にして、さぞや口惜しく無念だったろう。健康マニアだった彼女は、まさかその健康法がきっかけで身体をこわし、作家としては脂がのった円熟期を迎える44歳で死去するとは思ってもみなかったにちがいない。
 村山知義Click!は、鎌倉での通夜と葬儀で打ちのめされたが、保存してあるスクラップブックの中から村山籌子が少年少女向けの本で創作した童話や童謡を夢中で探しだしては、台紙に貼りつけ祭壇に展示している。それらの作品のほとんどが、独身だった岡内籌子時代を含めて、村山知義が挿画Click!を担当したものだった。
 村山籌子は、自身の作品を保存するのにはまったく不熱心で、挿画を担当した村山知義がほとんど保存することになったが、岡内籌子の独身時代から将来は結婚することになる男の「童画をまあまあ一番ましなものと認め」ていたので、彼女の作品は散逸せずに夫の手もとに残ったわけだ。1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』収録の「亡き妻の記」から引用してみよう。
  
 彼女は自分の作品に何の執着も持たず、野心も名誉心もなく、ただ流れ出るままに書いた。だから私が保存して置かなかつたら、みんな失われてしまつたかも知れない。私の何度もの入獄の間に、彼女はずゐぶんたくさん無くしてしまつた。童話年鑑のやうなものから何度もその年度の作品を要求して来たことがあるが、私が送らなければそれなりになつてしまつた。彼女はそんなことに気を取られるより、仲の良い友達との例の「藪から棒」的な会話を楽しみたかつた。貧しい材料で、しかも最短時間で、何か珍しい料理を作りたかつた。新しい電気器具を買つて、その効用をよろこびたかつた。夫や子供のスウエーターや手袋を編みたかつた。
  
 村山籌子の遺体を焼き場に運んだのは8月6日で、鎌倉の小坪の山の上にある火葬場だった。村山知義は、「母の遺骸を焼いた落合の火葬場とくらべると、籌子が可哀さうになるやうなみじめなところであつた」と書いている。
 確かに小坪の山下を横須賀線が走り、山つづきに名越切通しClick!曼荼羅堂やぐらClick!があるような、現在でも人と出会うことがまれだが、おそらく当時は人っ子ひとり見かけないさびしい風情だったろう。遺体が焼けて骨になるまで、2時間かかるといわれた村山知義と村山亜土Click!は、火葬場から1,300mほど南にある曇天で陰気な小坪の海岸まで歩いている。わたしが子どものころ、鎌倉霊園の造成工事で出た土砂によって埋め立てられ、現在は逗子マリーナが建設されて消滅してしまった海岸線だ。
 遺体が痛みやすい季節で、通夜と告別式を大急ぎで行う必要があったため、鎌倉の葬儀に参列した人たちは限られていた。そこで、夫妻の親しい友人たちが集まり、改めて東京で「お別れ会」が開催されることになった。場所は丸の内の保険協会講堂が予定され、友人たちが「村山籌子さんにお別れする会」という名称まで決めてくれた。半ば放心状態の村山知義が骨壺を抱き、息子が遺影を抱いて横須賀線で東京へと向かった。
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 「お別れする会」の委員長は俳優の井上正夫が引き受け、児童文学者協会と新協劇団が会を主催することになっていた。祭壇の周囲には、村山知義が鎌倉でこしらえた、村山籌子の作品を貼って並べた台紙が展示されていた。司会は原泉Click!がつとめ、村山籌子の童話作品を3篇選んで、それぞれ俳優の三島雅夫と薄田つま子、河原崎しづ江(小川信一=大河内信威と上落合502番地で暮らしていた時代は山岸しづえ)が朗読している。
 つづけて、村山籌子が残した遺言詩に作曲家の関忠亮が曲をつけ、姉で声楽家の関鑑子が会場で歌った。この詩は、彼女が息を引きとる6時間前に遺したもので、「もつと物価がさがつたら、どんな小さい石でもいいから、高松の父母の墓の隣に立てて」くれといい、その石に彫りつけてくれと遺言したものだった。
  われはここにうまれ ここにあそび ここにおよぎ
  ここにねむるなり 波しづかなる瀬戸内海のほとりに
 会場にはシューベルトの子守歌や、弦楽四重奏団による葬送曲が流れ、落合地域ではおなじみの友人たちが次々と思い出話を披露した。登壇したのは、鹿地亘Click!をはじめ富本一枝Click!藤川栄子Click!壺井栄Click!らだった。
 このあと、村山知義が参会者に挨拶をしなければならなかったが、ただ泣いてばかりいて席を立つことさえできなかった。そこで代読を引き受けたのは、当時は新協劇団の俳優・宇野重吉Click!だった。この直後、宇野重吉は森雅之Click!滝沢修Click!とともに、いまにつづく劇団民藝Click!を結成することになる。
 村山知義が用意していた妻を追悼する一文は、彼女の思い出をベースとした通常のありがちな惜別の辞などではなく、痛切な「自己批判」を繰り返す慟哭に満ちた内容だった。村山籌子の死から2日後、精神的に打ちのめされた村山知義が、ありのまま率直につづったとみられる文章であり、彼の人間性やふたりの関係性をうかがううえでは非常に重要な文章だと思うので、それぞれ少し長いがその要所を引用してみよう。
  
 彼女は芸術的感受性に富み、それはやがて、彼女の性格の根から自然に流れ出て、詩、童謡、童話の創造といふ形に発展しました。彼女の芸術はどこまでも、直観的なものであり、性格、生活とわかちがたくつながつたものであります。それゆゑ、彼女が私に会はず、彼女の性格、生活が本然の姿のまま充ち溢れつづけたならば、彼女の芸術もまた、もつとよろこばしく、流れ出たことでありませう。しかし彼女は私に会ひました。そして何物をも、また何人をも真に没我的に愛することのできぬ私の呪はれた性格のために、彼女のたぐひまれな美しい魂は二十三年の結婚生活を通じて、無惨に破壊されつづけました。私は結婚後一二年間の、愛情の質と度合の相違がことごとに暴露されて行き、彼女の夢がくづれ落ちて行つた過程を思ひ返して見ると、身を切られるやうな気が致します。しかし彼女はけなげにも立ち上り、私の性格と生活の立て直しに立ち向ひました。絶えない葛藤が繰り返されました。そして私がやつと普通人の程度にまで漕ぎつけることのできたのは、すべて彼女の苦しい努力の結果であります。
  
 村山籌子は、四国の裕福な家に生まれ、美しい自然に囲まれた静かな町ですごし、東京に出ると自由学園Click!高等科に進学している。性格も純真で快活、いたずら好きだった少女の生涯を台なしにしてしまったと、村山知義は自身を責めつづける。
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 確かに、ふたりの世界観は一致しており、お互い「生活の共同の根本的目的」のためには協力できたのだが、ますます時代は暗黒へと向かい、村山籌子の上にはたび重なる夫の検挙・入獄とともに、精神的にも物質的にも苦難がおおいかぶさった。夫が豊多摩刑務所に収監中であれば、すべての物事は自分ひとりで対処しなければならず、戦時中は何度か喀血してひとりで入院している。
 ちょっとここで余談だが、最近あちこちで「世界観」という言葉を耳にするけれど、ことごとく用法がまちがっているのでひっかかる。世界観とは、哲学あるいは思想の認識論にもとづき、ある程度普遍化(一般化)された理性的な認識(認知)で描かれる世界を表現する言葉であって、私的または感性的に創りあげた風景や光景=主観そのものを「世界観」とはいわない。あまりにもひどい錯誤かつ用語の矮小化なので、とても気になっている。
  
 彼女は本質的なものとさうでないもの、純粋なものとさうでないものを見わける特別鋭い直観を持つてゐて、非本質的、不純なものに対する嫌悪をかくすことがまたどうしてもできませんでした。それゆゑ彼女は私の生活に対しても、仕事に対しても、決して私の要求するやうな価値を置くことができず、それをまたやわらげて云ふやうなトリツクを――絶えずいぢらしい努力はしてをりましたが――使ふことができず、自分も苦しんでをりましたが、私が彼女のこの力のお蔭を蒙つたことは莫大であります。/彼女は私にとつて妻であり、母であり、また教師でありました。だから私は単に妻である女性に対してよりも、常に争はなければならなかつたやうです。私にすがりつき、私にむごく扱はれてゐた彼女は、二十三年の結婚生活の間に、私との地位を顛倒し、私を許す、私を同情の目をもつて見守り、正しい線から外れさせぬやうに気づかふ立場となりました。しかし彼女はまだ若く、愛に飢えて居りました。このやうな立場にならねばならぬことは、彼女にとつてどんなに辛く淋しいことであつたことだらうと思ひます。死ぬ二タ月ほど前から、彼女は私を病床のそばから離したがらず、常に私の姿を追ひ求めてをりました。彼女の衰弱といふ事実によつて、初めて私が、彼女の永年の希望であつた正常の夫の位置に立ち得た、とは何たることでありませうか?
  
 村山知義は、鎌倉の長谷大谷戸の家で仕事をするとき、いつも妻が病臥する枕元に机をすえて原稿を書いている。それが晩年の村山籌子には、夫がどこにも連れ去られず、いつでも自分のそばにいることを確認でき、心底から安心できる光景だったのだろう。
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 村山知義は、ただ泣いてばかりで「お別れの会」後も、席を立つことができなかった。彼の心中では、「私に信頼し、愛し、まとひつき、隙間のないよろこびを育て上げようとしては失望を味はされ続け、魂をくだかれてしまつた彼女の身」を想い、後悔と懺悔で打ちのめされつづけていると、心情を1946年(昭和21)9月18日の日録で吐露している。

◆写真上:名越坂踏み切りから眺めた、名越切り通しが通う小坪火葬場の山(正面右手)。
◆写真中上は、自邸が建て替え中の1927年(昭和2)4月に下落合735番地のアトリエClick!で撮影された村山籌子。は、人とめったに出会わない名越の山中。
◆写真中下は、横須賀線が通過する名越の山。は、鎌倉幕府が人馬の通行用に拓いた名越切り通し。は、鎌倉武士の「墓マンション」のような曼荼羅堂やぐら。
◆写真下は、村山知義の追悼文を代読した宇野重吉()と、「お別れの会」で司会をつとめた原泉()。は、村山籌子の童話を朗読した三島雅夫()と河原崎しず江()。は、1954年(昭和29)に撮影された村山知義と上落合時代の旧友たち。手前が村山知義で隣りが中野重治Click!、立っているのが佐多稲子Click!

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