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雑司ヶ谷金山の呉越同舟。 [気になるエトセトラ]

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 立野信之が兵役Click!からもどり、アナキズムに急接近しはじめていたころ、山田清三郎Click!雑司ヶ谷金山Click!の借家に住んでいる。そこは山田の自宅であると同時に、プロレタリア文学雑誌「文芸戦線」の編集部でもあった。隣家が、ストックホルム五輪のマラソンで有名な金栗四三が住んでおり、その向こう側に菊池寛Click!の自邸があった。
 菊池邸は文芸誌「文藝春秋」の編集部も兼ねており、当時は対立する左翼系の文芸誌と“芸術派”の文芸誌とが、金栗邸をはさんで対峙していたことになる。金山稲荷社Click!から、直線距離で東へわずか100mほどのところ、高田町雑司ヶ谷金山392番地(現・雑司が谷1丁目)あたりの一画だ。菊池邸と山田邸は、同じ文芸誌の編集部があるため郵便局にはまぎらわしかったらしく、よく「文藝春秋」あての手紙や荷物が、「文芸戦線」のある山田邸に配達され、またその逆も多かったらしい。
 当初、雑司ヶ谷墓地にある古い墓地茶屋の安価な2階を借りていた「文芸戦線」編集部だが、山田清三郎の自宅とはいえようやく1戸建ての建物に移ることができた。山田は、「ひとつ『文芸春秋』とツバぜりあいをやろう!」(『プロレタリア文学風土記』より)とそのときの気持ちを書いているが、多少の茶目っ気もあったらしい。山田邸は、板塀に囲まれたごく小さな家で6畳、3畳、2畳のわずか3間しかなかったが、「文藝春秋」編集部のある菊池邸は大豪邸で、周囲からは「金山御殿」と呼ばれていた。そこには、たまに芥川龍之介Click!里見弴Click!川端康成Click!などが出入りしていた。
 その邸宅の玄関に、山田清三郎はわざわざ誤配達された郵便物をとどけにいき、「『文芸戦線』の者ですが、あなたのほうの郵便物が間違って入っていました」と、“敵情視察”がてら社員に念を押してわたしていた。それを受けとっていた社員の中には、当時東京へやってきたばかりで、菊池邸に寄宿していた大田洋子Click!もいただろう。のちに大田洋子は「女人藝術」の常連作家となり、落合地域へとやってきて暮らすことになる。
 そのころの「文芸戦線」には、葉山嘉樹や林房雄Click!黒島伝治Click!平林たい子Click!、小堀甚二、里村欣三らが執筆している。立野信之も、同誌に詩などを投稿していたが、いまいちやりたいことが見つからなかったようだ。雑司ヶ谷金山の「文芸戦線」編集部について、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 山田は、一面また非常に几帳面な男で、玄関わきの三畳をプロ連の事務所兼「文芸戦線」の編集室に使って、細君の積田きよ子を助手にし、六畳のほうは自分たちの居間に使って、両方を混同することなくキチンと生活していた。山田は文芸戦線社からいくぶんの手当をもらっていたようだが、それだけで生活できる筈はなく、当時加藤武雄の編集していた新潮社の「文章倶楽部」に「文豪遺族訪問記」とか、「文豪墓めぐり」とか、「文壇覆面訪問記」といったような雑文の連載物を書いて生活をおぎなっていた。山田はすでに「新興文学」に「幽霊読者」という短編小説を発表して新進作家として名を連ねてはいたが、まだ小説で食えるほどではなかったのである。/わたしは、と言えば、「文芸戦線」に詩をのせてもらったおかげで、執筆メンバアに加えられていたが、その後は何も書いていなかった。自分にはそんな才能はない、と思い、続々と輩出する有能な新人作家をただ羨望の眼をもって傍観していたのだった。
  
 「文芸戦線」の雑司ヶ谷金山編集部(山田の自宅)は、夏目漱石Click!をはじめ作家の墓が多い雑司ヶ谷墓地のすぐ近くなので、「文豪墓めぐり」はすぐに思いつきそうなシリーズ連載企画だ。また、当時の雑司ヶ谷Click!には作家や画家たち芸術家が数多く住んでいたので、その地元ネットワークを活用していろいろな記事が書けたのだろう。ちなみに「プロ連」とは、日本プロレタリア文芸連盟の略称だ。また、「文芸戦線」編集部には執筆している作家たちが頻繁に来訪するので、その紹介やツテを頼る仕事もできたにちがいない。これは、2軒隣りの「文藝春秋」編集部でも同様で、さまざまな作家たちが出入りしていた。小林多喜二通夜1933.jpg
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 そのころ、立野信之は演劇や映画に興味をおぼえていたのか、それらの人脈をたどって自身の居場所を見つけようとしている。それを聞きつけた山田清三郎から、前衛座Click!の旗揚げに参加しないかと誘われた。築地小劇場で上演される予定のルナチャルスキー『解放されたドン・キホーテ』(千田是也/辻恒彦・共訳)の舞台で、演出は後藤新平の孫にあたる佐野碩、舞台装置は村山知義Click!柳瀬正夢Click!だった。
 ほどなく、立野信之は六義園の北側にあるモダンな住宅地・大和郷に住んでいた、佐野碩の自宅へ通いはじめている。この前衛座で、彼は前記の人々のほかに小野宮吉や関鑑子、久坂栄二郎、林房雄Click!佐々木孝丸Click!、花柳はるみらと知りあっている。立野は佐野邸で舞台装置の準備にまわされ、ついでに「旗持ちの廷臣」の役で舞台に出演しているが、村山知義は「反動宰相」役で、山田清三郎と佐々木孝丸は「革命家」役で、林房雄や葉山嘉樹らは「門衛」や「廷臣」役などで同作品に出演しており、文芸部も美術部も俳優部も関係のない垣根を越えた混成舞台だった。
 前衛座の旗揚げ公演は、劇団員の予想を上まわる大成功をおさめた。東京帝大の林房雄つながりで、帝大新人会のメンバーとも「文芸戦線」や前衛座を通じて交流することになり、当時は帝大のマルクス主義芸術研究会に属していた中野重治Click!鹿地亘Click!、川口浩、小川信一、辻恒彦、谷一らが合流して、日本プロレタリア文芸連盟結成への端緒となった。当時の様子を、1961年(昭和36)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から引用してみよう。
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 私の周囲は、数ヵ月前とは較べものにならないほどの、若々しい活気に溢れていた。帝大新人会メンバーのうちの、文学・芸術に関心をもつ学生たちによって作られていた“マルクス主義芸術研究会”(マル芸と略称)の連中が、大挙してプロ連や文芸戦線の組織の中へ入り込んできたことが、これらの組織に活力素を注射することになったのだ。林房雄、中野重治、久坂栄二郎、佐野碩、鹿地亘、小川信一、川口浩、などが主なメンバーで、学生以外からは、築地小劇場の俳優千田是也や小野宮吉なども加わっていた。千田や小野が築地小劇場をやめるようになったのは、このマル芸の面々に尻をひっぱたかれたのが最大の原因だろう。
  
 だが、多くのグループを包括して組織がふくらんだプロ連は、さまざまな「セクト主義」を産むことになり、理論闘争の支柱になっていた福本和夫Click!からの影響で、分裂につぐ分裂を繰り返すことになる。中でも、マル芸の谷一や鹿地亘が「福本イズム」の急先鋒で、無産者団体の離合集散に拍車をかけた。弾圧する警察当局にとっては、まことに都合がいい運動の分裂と弱体化が促進されていった。
 山田清三郎は、身の危険を感じたのか雑司ヶ谷金山から高円寺に転居していたが、分裂騒ぎの中で対立する「セクト」の葉山嘉樹や小堀甚二、里村欣三らから家をとり囲まれ、眠れない一夜をすごしている。彼らは手に手に棍棒をもってウロついていたので、いつ押し入ってきて袋だたきに遭うかわからないような状況だった。「セクト主義」によるテロルは、別に1960年代以降の新左翼による「内ゲバ」だけのことではない。佐々木孝丸は当時の組織内対立のことを、早くから「セクト主義」というワードで表現している。
 山田清三郎や立野信之らが、落合地域にやってくるのはこの直後のことだ。このとき、立野は山田清三郎からなにか小説を書かないかと誘われている。立野の記憶によれば、「葉山はマドロスの体験を書いて作家になったのだし、黒島伝治はシベリヤ出兵の体験を書いて作家になった。平林たい子は放浪の体験を、小堀甚二は鉄道工夫や大工の体験を、里村欣三はルンペンの体験を書いて作家になったんだ……君も軍隊生活の経験があるんだから、それをモトにして何か書けないかね?」と、山田に激励されたようだ。
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 1928(昭和3)3月に起きた三・一五事件Click!の弾圧をきっかけに、蔵原惟人Click!の呼びかけで全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)が結成され、分裂していた運動や組織に再び合同の機運が生じた。そして、機関紙「戦旗」Click!が発行されはじめている。上記に登場した数多くの人々が、上落合あるいは下落合に転居してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:空襲をまぬがれた雑司ヶ谷金山界隈には、古い住宅があちこちに残っている。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月21日深夜の小林多喜二の通夜にて。は、山田清三郎()と葉山嘉樹()。は、山田清三郎邸(「文芸戦線」編集部)があった雑司ヶ谷金山392番地界隈。左手奥の茶色いマンションが菊池寛邸(「文藝春秋」編集部)があったあたりで、そこから手前にかけて金栗四三邸と山田清三郎邸が並んでいた。
◆写真中下は、右翼のボスを演じる佐々木孝丸()と近衛文麿Click!を演じる千田是也()。は、大和郷に住んでいた佐野碩()と前衛座の女優・花柳はるみ()。
◆写真下は、1935年(昭和10)2月21日に神田神保町の中華料理店で開催された「あの人(小林多喜二)を偲ぶ会」に参集した面々。は、雑司ヶ谷金山の山田清三郎邸や菊池寛邸と同じ道筋(弦巻通り)に建っていたサンカ小説の三角寛邸。

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やはりあった目白文化村絵はがきセット。 [気になる下落合]

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 昨年の春、目白文化村Click!の風景を撮影した絵はがきClick!をはじめ、そこに建っていた邸の外観Click!やその内部を箱根土地が撮影した写真が数多く残されていることから、「目白文化村絵はがきセット」が存在したのではないかと記事にしていた。それは、箱根土地が目白文化村を分譲し終えたあと、新設される予定の国立駅Click!(1926年築)前に本社Click!を移転して同地を開発する際、プロモーションの一環として「国立分譲地絵はがきセット」の販促ツールを、盛んに制作していることから想定していたものだ。
 案のじょう、「目白文化村絵はがきセット」は存在していた。古書店で画家たちの絵はがきを探していて、偶然、「下落合」のキーワードで発見することができた。絵はがきが5枚ひと組になったセットのタイトルは、『目白文化村絵葉書(五枚一組)』というもので、写されている各邸の様子や、販促材として絵はがきが東京各地に郵送された時期から推定すると、1923年(大正12)の前半あたりではないかと推定することができる。
 以前にもご紹介していたが、目白文化村の風景を写した人着のカラー絵はがき×2種を、箱根土地は1923年(大正12)4月から5月にかけて見込み顧客あてに集中して郵送しており、絵はがきセットも追加の販促材として、そのころ制作されたものだろう。ちょうど、もっとも分譲面積が広い第二文化村を、箱根土地が販売しているまっ最中のことだ。あるいは、わざわざ現地を見学にやってきた顧客たちへ、ノベルティとして配ったのが同絵はがきセットなのかもしれない。
 ただし、中身の絵はがきに採用されている写真類は、前年すなわち1922年(大正11)に販売された第一文化村の邸が多いため、同年に竣工した際に撮影されたものも含まれているのだろう。5枚の絵はがきには、以下の5邸が紹介されている。(カッコ内引用者付記)
 ・渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観 (第一文化村)
 ・神谷卓男氏邸/門及玄関 (第一文化村)
 ・西成甫氏邸/サンポーチ (第二文化村)
 ・永井博氏邸/応接室 (第一文化村)
 ・永井博氏邸/厨房 (第一文化村)
 このうち第一文化村の前谷戸の淵、下落合1601番地に建っていた永井博邸は、箱根土地の役員である永井外吉の姻戚の家で、おそらく前谷戸を埋め立てた1923年(大正12)6月Click!ののち、大正末には邸をリニューアルして永井外吉Click!一家が住んでいる。姻戚関係だからこそ、応接室や厨房など邸内の写真が撮影できたのだろう。また、昭和に入ると永井邸敷地の南側には新たに山浦邸が建設されている。
 また、箱根土地の絵はがきに神谷卓男邸Click!がしばしば登場するのは、当時、箱根土地の建築部にF.L.ライトClick!の弟子だった河野伝Click!が勤務しており、自社の建築作品として大きくPRしたかったのではないかとみられる。同様に、絵はがきに含まれている中村正俊邸Click!も彼の設計だ。このあと、河野伝は箱根土地本社の国立移転とともに、中央線・国立駅の設計にたずさわっている。
 これら5枚の絵はがきを観察すると、面白いことがわかる。絵はがきは、それぞれモノクロ印刷ではないのだ。写真は確かにモノクロだが、それぞれの写真に薄いカラーをかぶせて変化をつけている。2種類が制作された、「目白文化村絵はがき」の人着カラー印刷とまではいかないが、これら5枚の絵はがきはモノクロ印刷ではなく2色で印刷されている。これは、絵はがきが5枚そろって見比べないと、なかなか気づかない特徴だろう。
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 まず、「神谷卓男氏邸/門及玄関」はがきと「永井博氏邸/応接室」はがきは、薄い黄色の版がかぷせてある。また、「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがきは薄いブルーが、「永井博氏邸/厨房」はがきには薄いオレンジが掃かれている。そして、微妙なのが「西成甫氏邸/サンポーチ」のはがきだ。一見モノクロ印刷に見えるのだが、その色の深みから薄いベージュ色をかぶせているように見える。いずれもモノクロ印刷ではなく、手間とコストをかけた2C印刷だ。
 ひょっとすると、箱根土地には印刷にこだわりのあるマニアックな人着や、微妙な色指定をして製版所にまわすグラフィックデザイナーのような人物がいたか、あるいは印刷所の制作部に同様の人物がいた可能性が高い。その人物は、4C印刷や2C印刷で生じるビジュアル効果を熟知しており、写真の特性にあわせて色指定をしている気配が濃厚だ。それぞれの人着の絵はがきも含め、デザインや版下がかなりていねいに作られている様子を見ても、色彩感覚や印刷効果を知悉した人物の存在が浮かぶ。
 さて、前回の記事で「神谷卓男氏邸/門及玄関」はがきと、永井博邸の内部絵はがきは詳しくご紹介しているので、今回は他の絵はがきについて書いてみたい。まず、「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがきだが、いまだ未建設だった早稲田大学講師の末高信邸の敷地から、中村邸と渡辺邸の方角を向いて撮影したものだ。末高信の妹が設計した末高邸Click!は、1924年(大正13)に竣工するので、この写真は1923年(大正12)以前(おそらく1923年早々)に撮影されていることがわかる。
 中村邸は、第一文化村が販売された1922年(大正11)のうちに、神谷邸とほぼ同時期に竣工(ともに河野伝による設計)しているとみられ、彫刻やオブジェが飾られたモダンな邸内の様子は、以前の記事でご紹介済みだ。また、末高邸の邸内についても、女性の設計らしい細やかな邸内の調度や家具類についてもご紹介している。
 また、大きくて独特な三角屋根の切り妻を見せる渡辺昭邸については、その2軒隣りの南側に建っていた、外観が西洋館で内部がすべて和室だっためずらしい鈴木安三邸Click!について記事にしたとき、渡辺邸の南面する外観写真をご紹介している。昭和に入ると、独特な外観をした渡辺邸はあっさりと解体され、岡崎邸が建設されることになる。
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 「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがきの左すみに、まるで北国の住宅のような、勾配のきつい三角屋根の住宅が見えているが、中村邸の南側に接して建っていた稲垣守克邸だ。第一文化村に口を開ける前谷戸側から撮影した、人着のカラー絵はがきを参照すると、稲垣邸はかなり大きな2階建ての西洋館で、ハーフティンバー様式を採用した外壁に赤い大きな屋根を載せていた。
 渡辺邸もそうだが、当時の邸は今日とは異なり短命で、住民が交代すると家が築5~10年でもあっさり解体される事例が多い。稲垣邸も、昭和になると金子邸に建て替えられている。また、同絵はがきの右すみには、少し遠めに建築中の住宅がとらえられているが、文化村のテニスコートの先にある河野岩吉邸だとみられる。
 次に、「西成甫氏邸/サンポーチ」はがきを見てみよう。東京帝大教授の西成邸は、1923年(大正12)に販売された第二文化村の北側エリアに建てられているので、この絵はがきセットの中ではいちばん新しい撮影ではないかと思われる。邸の色彩はわからないが、おそらく焦げ茶色の下見板張り外壁に屋根下の軒は白い漆喰外壁、窓枠も白で屋根はおそらくオレンジ系かグリーン系の外観だったのではないだろうか。当時の典型的な西洋館で、どこか別荘風な趣きのデザインになっている。
 南面するサンポーチには、太陽光をめいっぱい採り入れられるよう両開きの扉や窓が、1階の天井近くまで穿たれている。大谷石で造られた階段の手前にはテラスか芝庭があり、扉や窓の内側はサンルームになっているのかもしれない。同じような意匠の住宅は、下落合4丁目(現・中井2丁目)のアビラ村Click!に通う三ノ坂の途中、島津家Click!が開発した別荘風住宅Click!「四十九号邸」Click!でも見ることができる。
 同絵はがきの右すみには、2階建てとみられる住宅の屋根がチラリととらえられているが、西成邸の斜向かいに三間道路をはさんで建っていた、早稲田大学教授の寺尾元彦邸だろう。寺尾邸の敷地は、1936年(昭和11)の空中写真ではすでに空き地になっているので、昭和に入るとどこかに転居していると思われる。
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 「目白文化村絵はがきセット」が現実に存在したことで、もうひとつ気になることがある。いまのところ、目白文化村の人着によるカラー絵はがきは2種類が確認できるが、まだほかにも制作されているのではないか?……という疑問だ。国立へ移転したのち、多彩な絵はがき類を大量投入して展開される箱根土地の販促活動を見ていると、まだまだ知られていない目白文化村絵はがきがあるのではないか?……と、つい想像してしまうのだ。

◆写真上:1923年に制作されたとみられる、「目白文化村絵はがきセット」の封筒。
◆写真中上は、以前にもご紹介している第一文化村の「神谷卓男氏邸/門及玄関」はがき。は、同邸の人着カラーの「目白文化村の一部」はがき。
◆写真中下は、「永井博氏邸/厨房」と「永井博氏邸/応接室」の各はがき。は、「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがき。各絵はがきには、それぞれ異なる薄めのカラーがほどこされた2C印刷になっている。
◆写真下は、第二文化村に建っていた「西成甫氏邸/サンポーチ」はがき。は、1925年(大正14)作成の「目白文化村分譲地地割図」にみる各邸の位置と撮影方向。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲11日前の目白文化村。
おまけ
ハトほどの大きさの、まるでオウムのようなインコが、6~7羽の群れでときどきやってくる。ジュジュジュ、キィキィキィ、クェクェクェ、ミャーミャーミャーと鳴き声がやかましく、他の野鳥たちは鳴りをひそめてしまう。おそらく、いろいろな野鳥や動物の鳴き声をマネしていると思うのだが、どうか人間の言葉だけは憶えないでいてほしい。
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落合地域の旧家に嫁いだ女性。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)に、19歳で落合地域の旧家に嫁いできた女性は、いったいどのような生活を送っていたのだろうか。いつもご紹介するのは、大正期から拓けたモダンで新しい落合地域の姿だが、昭和初期でさえ近郊農村の面影を強く残していた同地域には、江戸期から連綿とつづく旧家があちこちに存在していた。そこでは、オシャレでモダンな洋風生活とは、まったく無縁な生活が営まれていた。
 上落合189番地に嫁いだ、宇田川利子という女性の証言を聞いてみよう。彼女が生れたのは、旧・神田上水をはさんだ戸塚町上戸塚(現・高田馬場3丁目)で、嫁ぎ先である上落合側が地形的に少し低いため、婚家から実家が望見できたということなので、ほんの数百メートルしか離れていない旧家に嫁いだということになる。
 1909年(明治42)に生れた彼女の子ども時代は、落合地域やその周辺域で生まれた子たちと同じように、自然の中で思いきり遊びながら育っている。実家は、1916年(大正5)ごろには農家をやめていたというから、嫁ぎ先の宇田川家と同様に当時は上戸塚の地主だったのだろう。少女時代の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が発行した、『新宿に生きた女たちⅢ』所収の宇田川利子「落合の旧家に嫁いで」から引用してみよう。
  
 子どものころ、夏は神田川や妙正寺川で男も女もいっしょくたで川遊びしました。流れがさらさらしていて、とてもきれいだったんです。長女ですから弟たちを連れていって面倒みました。兄弟中で私だけが女だったんですの。(中略) 子どもの大事な仕事は水汲みでした。井戸から水汲んで、お風呂や台所まで手桶で運ぶんですよ。台所には大きなかめが二つあって、煉瓦づくりのへっついが二つ並んで間に穴があいていて、一つにはいつも茶釜にお湯が沸いてました。(中略) 小学校を終えてから、牛込矢来の岩佐女学校まで四キロの道を歩いて通いました。当時、上の学校に行けたのは四〇人中五人ぐらいでしたね。子守に出たり、高等科出て袴はいて電話局に勤めた人もいました。そのあと、お嫁に行くまで戸塚裁縫塾にお裁縫習いに行きましたの。男や女の袴、訪問着、綿入れ丹前、何でも縫いましたね。
  
 戸塚裁縫塾のほか、彼女は東京の娘らしく長唄を習いに、千代久保橋Click!のたもとにあった師匠宅へ通っている。その帰り道、彼女は夫の父親である宇田川忠蔵に見初められ(夫に見初められたわけではない)、結婚話がトントン拍子に進んでいった。もちろん、彼女のまったく知らないところで、親同士が勝手に決めた結婚だった。
 見合いは彼女の実家で行われ、夫となる男性とその義母(後添え)、それに仲人がやってきてほとんど結婚の日どりまでが決められてしまった。彼女は髪を乙女島田に結い、髷(まげ)に花櫛を指して前に花簪(かんざし)、うしろに銀の平打ち(簪)を指して見合いの席に出ている。これらの小間物のうち、おそらく櫛と銀の平打ちは江戸期からの細工もので、母親の持ち物だったのではないだろうか。
 1928年(昭和3)1月に見合いをし、3月にはもう結婚式の段取りになっているが、その間、将来の夫となる男とは一度も逢わせてはもらえなかった。結婚式当日は、朝から近所の髪結いがきて支度をし、お披露目のために俥(じんりき)の幌を外して両親や親戚数人と列をつくって上落合に向かっている。小滝橋Click!までくると、嫁ぎ先に出入りする半纏を着た職人たちが、「宇田川」の名が入った提灯をもって出迎えていた。上落合189番地の宇田川家の門には、家紋入りの高張提灯が設置されていて、両親や親戚一同は表玄関から入れるが、嫁の彼女は内玄関からしか入れてもらえない。ちなみに、上落合189番地の宇田川邸は村山知義・籌子アトリエClick!の東隣り2軒めの家だ。
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 結婚式を挙げる部屋には、御簾が下げられ大神宮と八幡、御嶽Click!の3社が奉られていて、夫になる男性は床の間の前に座っていた。神主からお祓いを受ける神式の結婚式だったが、この神主は宇田川家の北隣り、当時は上落合200番地にあった月見岡八幡社Click!(戦後に約80m北へ遷座/現・八幡公園)からきていたのだろう。翌日は親戚まわりで、挨拶をしに宇田川本家から親戚一同、檀家寺、氏神の社などを俥で次々とまわり、3日目には彼女の実家への里帰りということで、やはりお披露目から俥の幌を外し大勢の親戚一同を引き連れて上戸塚の家へ挨拶に出向く。そして、4日目には落合町役場へ婚姻届けを提出しに出かけて、ようやく結婚の儀式が終わるという段取りだった。つまり、結婚式とその披露をするのに4日間も費やしたことになる。
 夫となった人物は、蔵前の東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業して、近くの戸山ヶ原Click!にある陸軍科学研究所Click!に勤める技師だった。日米戦争の開始と同時に陸軍技術少佐になったが、軍機Click!だらけの危うい仕事Click!をしていたせいか、仕事の内容については結婚後も、そして敗戦ののちも沈黙して妻に語ろうとはしなかったようだ。
 結婚当初、婚家の姑は後妻であり先妻との間でできた子が3人(先妻の長男が結婚相手)、後妻の子が3人の計9人家族の大所帯で、彼ら日常生活の面倒は姑と彼女がすべてみることになった。彼女も3人の子どもを嫁ぎ先で産んでいるので、最終的には12人の家族の面倒をみなければならなかった。宇田川家では舅が圧倒的にワンマンで、彼女が作ったことのない料理にまごついていると、「赤飯も焚けなくてそばも打てなくてよく嫁にきたものだな」と、さんざん小言をいわれた。彼女が産んだ子どもが、ふたりともつづけて女子だったので、さっそく舅に「今度女だったらお嫁さん取り替える」といわれている。
 夫の給料はすべて舅に“提出”し、夫婦は毎月20~25円の“お小遣い”をもらって生活していた。当然、それだけでは生活に足りず、実家から持ってきた着物などをやりくりしながら不足分を捻出している。子どもが小学校に上がるときに、なにひとつ買ってあげられないことに改めて愕然としたようだ。夫と話していると、「ぺちゃぺちゃ話をするな、新婚でもでれでれするな」とすぐに舅から叱責が飛んできた。
 裁縫塾を出ているので、家内の縫い物はすべて彼女の仕事になった。大家族なのでいくら縫っても縫い足りず、その数は1,000枚をゆうに超していた。
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 手だって職業病の手になってしまいましたの。こうやって仕事するから二本ずつくっついちゃって間が離れてくっつかないんですよ。こっちの手なんか腱鞘炎になってしまいましたの。体が丈夫だから続いたんだと思いますよ。/子ども寝かしつけてから、一〇時になっても、背縫の一本でも縫っておかなくてはって、電気の笠をずーっと下におろしてきて縫うんです。それでも近所の奥さんと話ができる訳もなく、よく私、ノイローゼにならずにすんだと今になると思いますよ。夜中にかい巻きの中に首を突っこんで、声を殺してヒイヒイ泣きました。枕が冷たくなっちゃうんです。枕ひっくり返してまた寝るんです。
  
 毎日の買い物はすべて姑がして、彼女はこれを煮るあれを焼くという指示どおりに働くだけで、彼女自身の好みはまったく反映されなかった。女は家の中にいるのがあたりまえで、満足に外出さえさせてもらえなかったようだ。
 やがて姑が死ぬと、舅はふたりめの後添えと結婚し新たに子どもが生れた。そのせいか、舅の関心は後添えとその子どもに向かい、ようやく彼女はひと息つける生活になったようだ。そんな中で、彼女はレコードを聴く楽しみをおぼえた。舅が持っていた蓄音機からは、童謡や軍歌などが流れていたが、それに合わせて歌うのが楽しくなった。
  
 父は孫の男の子がかわいくて、かわいくて、外へ出さなかったんですよ。それでレコード聞かせてたんですね。それが私も楽しみになりましてね。/それやこれやしているうちに、私の哲学ができちゃったんですよ。一日が終わって真っ暗になって、真夜中の突き当たりまで行っても、朝になって薄い紙一枚ずつでも世の中明るくなるのだから、自分もそのつもりにならなきゃねって。「心に太陽、唇に歌を」って思ったの。
  
 豊多摩郡落合町の300年つづいた旧家の家庭環境は、江戸東京の町場における家庭環境から見れば、当時でさえ「信じられない」ような光景だったろう。農家の柱は体力のある男であり、一家のマネジメントを女性が手がける町家の家庭生活とは正反対の規範が、昭和に入ってからもいまだ郊外ではつづいていた。もっとも、農家でも女性が一家のマネジメントを握るケースもよく耳にするので、宇田川利子のケースを東京郊外の農村家庭として、いちがいに一般化することはできないかもしれないが……。
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 上落合186番地の村山アトリエClick!では、電気冷蔵庫に電気洗濯機、電気掃除機など最先端の輸入家電を駆使して合理的な結婚生活Click!を送り、米国雑誌を読みながら健康トレーニングを欠かさない村山籌子Click!が生活する、わずか2軒隣りの宇田川家では、江戸期と大差ない封建的な「農村的生活」を送る宇田川利子が暮らしていた。いかにも元・農家とモダンな近代建築が混在する、東京郊外の新興住宅地だった落合地域ならではの情景だろうか。

◆写真上:旧・月見岡八幡社に隣接していた、上落合189番地の宇田川忠蔵邸跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる宇田川忠蔵邸。は、第1次山手空襲の直前である1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真にみる宇田川邸とその界隈。は、1927年(昭和2)ごろに撮影された妙正寺川。
◆写真中下は、1933年(昭和8)撮影の結婚式のとき俥(じんりき)でわたった木製の小滝橋。は、夫婦が婚姻届けを提出した1932年(昭和7)撮影の落合町役場。は、1928年(昭和3)に撮影された上落合の旧家(福室家)の葬儀風景で、江戸期とさほど変わらない形式で営まれていた。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗4-落合地区篇-』1994年より)
◆写真下は、1932年(昭和7)撮影の宇田川家ではもっとも古い下落合1792番地の宇田川傳五郎邸。は、1992年(平成4)に解体された上落合の茅葺き福室家住宅。(同上)

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陸軍将校室でクロポトキンを読む立野信之。 [気になる下落合]

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 以前、飯田徳太郎の故郷である銚子の犬吠埼に建つ貸し別荘「日昇館」Click!で、飢餓状態に陥って身動きがとれなくなっていた、壺井繁治Click!と福田寿夫について記事にしたことがある。別荘の紹介者である飯田徳太郎が、平林たい子Click!とともに福田が所持していたなけなしのカネを持ち逃げし、ふたりは東京へもどることもできず餓死寸前まで追いつめられた。そこへ、救いの「女神」のように登場したのが、小豆島からやってきたばかりの岩井栄(壺井栄Click!)だったことも書いた。
 ちょうどそのとき、貸し別荘から平林たい子とともにカネを持ち逃げしたあとか、あるいは持ち逃げする以前のことかは不明だが、飯田徳太郎は千葉の佐倉歩兵第57連隊に入営中だった立野信之を兵営に訪ねている。同連隊に所属する、隣りの中隊には蔵原惟人Click!が入営していたので、飯田は蔵原も同時に訪問していたのかもしれない。
 立野信之というと、1933年(昭和8)2月20日の深夜に、築地警察署で虐殺された小林多喜二Click!の通夜に駆けつけ、遺体の枕元で鹿地亘Click!らとともに腕を組んでいる写真が印象的だ。立野信之の右隣りには上野壮夫Click!が、左隣りには山田清三郎Click!が、彼の背後には岩松惇(八島太郎)Click!小坂多喜子Click!、そして窪川稲子(佐多稲子)Click!ら落合地域との関連が深い人々の姿が見える。その立野信之自身も、昭和初期には落合町葛ヶ谷15番地の、片岡鉄兵Click!邸に留守番のため転居してくることになる。
 飯田徳太郎との面会の様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 門衛所の面会室で会ったが、飯田は平林たい子と銚子で何日か暮らしていたといい、同じアナーキストで詩人の壺井繁治夫妻とも一緒だ、と話した。/「金がないもんだからね、毎日イワシばかり食っていたよ。五銭も出すと、イワシがすり鉢に一杯買えるんだよ」/飯田は屈託のない笑顔で、そんなことをしゃべった。ずいぶん無茶な生活で、金にも困っているような話だったが、しかしそれも兵隊のわたしにとっては羨望の的でしかなかった。/飯田はわたしと同年配で、同じ千葉県出身であるが、郷里が銚子に近い香取のほうだから、飯田の発案で、二組の男女は銚子に都落ちしていたのではあるまいか、と想像される。――因に飯田の父親は香取郡の警察署長をしていた筈である。/どうやら飯田は、金策のために上京する途中、ふと気まぐれに立ち寄ったらしく、取りとめのない雑談を交しただけで、じきに立ち去った。
  
 上気の文章を読んで、「おや?」と思われた方もいるだろう。銚子の別荘で、餓死寸前だった壺井繁治たちを訪ね、小豆島を出てから初めて壺井に再会したはずの岩井栄が、立野信之の記憶ではすでに壺井繁治・壺井栄夫妻Click!ということになってしまっている。もちろん史実は、小豆島から出てきたばかりの岩井栄(壺井栄)が、上京後に初めて壺井繁治と出会ったのは銚子のボロ別荘であり、いまだふたりは結婚をしていない。
 銚子の貸し別荘にアナキストたちがこもっていたのは、雑誌『ダムダム』が資金不足から創刊号だけで廃刊になってしまった、1924年(大正13)の11月以降であり、立野信之が同書に書いている佐倉歩兵連隊の門衛所で飯田徳太郎と面会したのは、同年の暮れから翌1925年(大正14)明けの早い時期の出来事だったとみられる。
犬吠埼灯台(戦前).jpg
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 さて、飯田徳太郎は「平林たい子と銚子で何日か暮らしていた」と立野信之に話しているが、当初から貸し別荘にこもっていた仲間は岡田竜夫、矢橋公麿、福田寿夫、壺井繁治、平林たい子、そして飯田徳太郎の6人だったはずだ。そして、飯田と平林が福田のカネを持ってドロンしたあと、最後まで残っていたのは壺井繁治とカネを盗まれて身動きがとれなくなった福田寿夫のふたりであり、そこへ上京後わざわざ銚子まで壺井繁治を訪ねてきた岩井栄(のち壺井栄)に窮地を救われるという経緯だ。つまり、飯田が立野に話したニュアンスから推定すると、平林たい子とふたりでカネを持ち逃げしたあと、すでに同棲をはじめていたころに入営中の立野信之を訪ねている可能性が高そうだ。
 いつか、大正時代の軍隊生活は、昭和の軍国主義が強まる時期のそれとはだいぶ様相が異なり、大正デモクラシーを反映してか、思想的にもかなり鷹揚な環境だった様子を、国立公文書館に保存されている陸軍報告書をベースに記事Click!にしたことがある。立野信之が軍隊生活で経験した内容を見ても、その印象が強くする。
 立野信之は、「社会主義かぶれの反軍思想をいだき、帝国主義戦争反対」(同書)であり、軍隊にイヤイヤ入営したにもかかわらず、予想外の快適な生活を送っている。身体の大きな彼は、行軍訓練などはそれほど辛くはなかったが、やや脚気の症状があり、それを軍医に診てもらうと「しばらく入院しておれ」ということになった。そこで、彼は好きな文学作品をたくさん読むことができたが、退院すると上官だった横尾特務曹長は「お前は教練の役には立たんから、中隊の事務をやらせようと思うが……百分比はできるかね?」と訊いて、立野を内勤にしてくれた。
 おそらく特務曹長は、彼が「社会主義かぶれ」で「反軍思想」の持ち主であり、その思想に関する読書好きで勉強好きなのを、入営前からあらかじめ知っていたのだろう。教練予定表を作成する事務にまわしてくれ、しかも短時間で終わる業務を時間をかけてやれとアドバイスしている。同書より、再び引用してみよう。
  
 特務曹長はわたしに前期の予定表の見本と、その他必要な書類や用紙や文房具などをよこしてから、「書類は班内で作ってよろしい。あまり急ぐ仕事ではないから、一時間でできるものは一日で、一日でできるものは三日か四日かかって、丁寧にやれ。但し、班の兵が教練に出るまでは、忙しそうに仕事をしておれ。兵が出てしまえば、寝転んでいようと、本を読んでいようと、それはお前の勝手だ。要は上手にやることだ」/まるで、わたしの心中を見抜いているようなご託宣である。願ってもないご用命だった。わたしは人の好い特務曹長の指示通り、一時間でできる仕事は一日がかりで、一日でできる仕事は三、四日がかりで書類を作った。
  
 立野信之は業務を短時間で片づけると、手箱の中から持参した無政府主義者・クロポトキンが書いた『倫理学』を取りだし、せっせと読書にはげんでいた。
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 しばらくすると、兵隊たちの所持品検査が実施された。軍隊の「所持品検査」は、私物になにを持ちこんでいるかではなく、官給した物品を遺失せずにちゃんと手もとに揃えているかの検査だ。立野信之は、クロポトキンの書籍をうっかり官給品の手箱の中に入れっぱなしにしておいたので、すぐに見つかってしまった。
 ところが、横尾特務曹長は手箱からその本を見つけるや、検査の責任者である権藤少尉に聞こえるよう「クロパトキン将軍のあらわした本かね?」(同書)と立野に訊いてきた。クロパトキン将軍とは、日露戦争が勃発したときにロシアが構築した旅順要塞の司令官だった人物だ。もちろん特務曹長は立野をかばうため、わざと「クロポトキン」を「クロパトキン」に置きかえ、とっさの機転で検査官の耳に入れたのだろう。だが、陸軍士官学校Click!を卒業したばかりの権藤少尉には通じなかった。以下、つづけて引用してみよう。
  
 (少尉は)つと手をのばして特務曹長から本を取り上げ、チラッと一瞥してから、/「こういうものを持ってちゃいかん!」/本を取り上げたまま、さっさとつぎの兵の所持品の点検に移った。/あとで権藤少尉に呼ばれて行くと、少尉は頤を突き出して、/「こういう本を内務班で読んではいかん……読みたかったら、オレの部屋で読め」(カッコ内引用者註)
  
 こうして、アナキズムの本は少尉の居室でなら自由に読んでいいことになった。
 おそらく、立野信之の上官だった横尾特務曹長や権藤少尉は、のちに陸軍皇道派と呼ばれるようになる、社会主義に共鳴していた若き軍人たちではなかったかと想定することができる。したがって、アナキズムにかぶれている立野のことは入営前から把握しており、近しい思想の持ち主として目をかけたのかもしれない。
 立野信之は、2年間の兵役義務を終え1等卒の階級で除隊することになった。このときも、横尾特務曹長らは彼を「上等兵」として除隊させようと奔走している。上等兵卒だと、軍人恩給の額が1等卒よりもかなりいいため、いくらかでも生活の足しになるからだ。結局、上等兵卒は上部で認められなかったが、彼ら軍人たちが立野信之に見せた好意は、軍国主義が横行する昭和の陸軍ではありえない、大正時代ならではの光景だろう。のちに、立野信之が二二六事件Click!を主題に本を書くが、このときの体験が大きく影響しているとみられる。
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 立野信之が「文芸戦線」に小説を書くようになってから、権藤中尉(少尉から昇進)とは、横光利一に連れられて入った新宿三越裏のカフェ「ミハト」で再会している。180cmの大丈夫で、佐倉では「連隊一の暴れん坊」といわれた権藤中尉は、立野を見つけると「おう!」と声をあげて近づき、「盛んに書いとるじゃないか」と彼の肩を親しげにたたいた。「文芸戦線」に目を通し共感している権藤中尉は、まちがいなく陸軍皇道派の士官であり、のちに起きる二二六事件Click!ではなんらかの役割りを演じていたのではないだろうか。

◆写真上:新宿駅東口の、淀橋区角筈1丁目1番地にあったカフェ「ミハト」跡の現状。
◆写真中上は、戦前の絵葉書にみる銚子の犬吠埼灯台。は、佐倉歩兵第57連隊の兵営に設置された門衛。右手に見える建物が、立野信之と飯田徳太郎が面会した門衛所。は、1933年(昭和8)2月21日に小林多喜二Click!の通夜で撮影された立野信之。その周囲には、落合地域ではお馴染みの人々がとらえられている。
◆写真中下は、1935年(昭和10)2月21日に神田の中華料理店「大雅楼」で開かれた「小林多喜二を偲ぶ会」記念写真の立野信之。は、「文芸戦線」の1927年(昭和2)5月号()と、1929年(昭和4)11月臨時増刊号()。は、1962年(昭和37)出版の『青春物語―その時代と人間像―』(河出書房新社/)と、戦後の撮影とみられる立野信之()。
◆写真下は、1938年(昭和13)ごろに作成された「火保図」にみる新宿駅東口のカフェ「ミハト」。(新宿歴史博物館「新宿盛り場地図」より) は、ほてい屋デパートの屋上から眺めた新宿カフェ街一帯。は、昭和初期に撮影された新宿三越裏の新宿カフェ街。このまま正面の新宿三越のほうへ歩いていくと、右手にカフェ「ミハト」があるはずだ。

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江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(下) [気になる神田川]

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 このところ、ご自宅からリモートワークをされる方が多いせいか、毎日、拙サイトへ5,000~6,000人がアクセスくださっている。リモートワークの「勤怠管理」は、社へのVPN接続時間や支給PCの使用時間で計測している企業が多いと思うけれど、ご自身のPCあるいは支給のPCの別なく、業務サーバへアクセスしたまま別タブあるいは別ブラウザで拙サイトを開いても、アクセスログは管理システムへしっかり吸い上げられていると思うので、社の業務サーバへの接続時はできるだけ仕事に集中されたほうがよろしいかと。(^^;
  
 落合地域の西隣り、野方町(江古田・上高田・新井・沼袋・鷺宮地域)や中野町(中野・本郷・雑色地域/すべて現・中野区)には、古代からつづく古墳のいわれClick!とみられる伝承や、その古墳から出土した玄室・羨道の石材や副葬品とみられる物品の伝説が、現代まで数多く伝えられている。
 これらの記録は、明治以降ばかりでなく、すでに江戸期の地誌本にも随所に見られ、それらの伝承には後世にさまざまな解釈(付会)がほどこされている。たとえば、明治ごろからの伝承として、中野町の男性が語っている古墳に直結する「しいや(屍家)の山」Click!と、そこから出現した「宝珠」Click!についての伝承を引用してみよう。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が実地調査してまとめた、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』に収録されたものだ。
  
 宝珠の玉
 うちにね、宝珠の玉があったんですって。色は白です。それでね、いま、その前の家がマンションになってるけど、以前は山だったんですよ。シイヤの山ってね。シンヤだかわかんないんだけどね。それでね、うちのおやじさんが、どこから入ったのかわからないけど、拾ったんですって、宝珠の玉を。/でねぇ、うちの親父が言うには、白狐が、千年経つとね、額にのっけて歩くんですってね。それでねぇ、その白狐の宝珠の玉を拾ったので、うちも相当困っておったんだけど、それを拾ってから、工面というか、たいへん経営が良くなって。
  
 この男性は1909年(明治42)生まれということなので、父親から聞いたということは明治前中期の出来事だろうか。「シイヤの山」とは、「屍家山」そのものを指す言葉であり、古墳の巨大な墳丘を意味することが多いのは別に中野地域に限らない。全国各地には、古墳を禁忌の山あるいは忌み地(立入禁止エリア)として規定し、その禁を破って山に入ると「呪われる」「祟られる」、あるいはひどいケースだと「親族が死に絶える」などといわれ、古くからタブー視されていた事例も少なくない。これらのエリアは後世になると、墓地や斎場などに使用されている例も少なくない。
 上記のケースは、それとは正反対に「シイヤ山」の「宝珠」(副葬品の宝玉だろうか)を手に入れたことで、家運が上向いて豊かになったというめずらしい事例だ。どこか江戸期に多い、古墳の副葬品を盗掘し、売りさばくことでカネ持ちになったとみられる、「長者」伝説Click!(往々にして不幸になるエピソードが多い)にもつながる共通性が感じられるが、このケースは出現した「宝珠」を家宝にしてたいせつに保存し祀ることで、逆に家が栄え裕福になったとしている。
 いまから1500~1700年ほど前、古墳が築造された当初は、「ムラ」あるいは「クニ」を見守る先祖霊(首長霊)として、墳丘脇の「造り出し」Click!などで祭祀が行われていたのだろうが、政体や社会が変移するにつれ被葬者やその目的が忘れ去られ、ただ「死者が眠る場所」として立ち入るのがはばかられる場所、すなわち「シイヤ山」のように忌み地(禁忌エリア)としての伝承のみが語り継がれていく。
 ただし、そのような伝承が執拗に残りつづけたのは農村地帯に多く、人々が集まり比較的大きな規模の町や都市が形成されたエリアでは、古墳の地形が寺社の境内Click!にされたり、近世になると古墳全体が大名屋敷の敷地Click!になったり、あるいは回遊式庭園の築山Click!にされたりして、禁忌伝承が途絶えてしまったケースも少なくなさそうだ。
 また、農村では地域に根づいた禁忌(忌み地)伝説、あるいは別のかたちでの信仰(天神山Click!八幡山Click!稲荷山Click!摺鉢山Click!浅間山Click!狐塚Click!大塚Click!など)が存在しない限り、墳丘はあらかた崩され開墾されてしまい、地名Click!だけが昔日の地形や古墳の存在を暗示するケースも多い。そのような場所では、開墾の際に出土した副葬品などが寺社に奉納されたり、出現した玄室などの石材が寺社の結構や庭園の庭石に活用されたり、古墳を取り囲む埴輪片などは田畑にそのまま漉きこまれたりしている。落合地域でも、開墾で出土した埴輪片や土器片をあえて取り除こうとはせず、そのまま畑へ漉きこんでしまった証言がいくつか残っている。
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 下戸塚(早稲田界隈)から戸山、落合、大久保、西新宿にかけて今日まで伝承されている「百八塚」Click!だが、室町期に昌蓮Click!が小祠や石碑、石仏などを建立して無数(百八)の塚を慰霊してまわったにもかかわらず、すでに江戸期には村落の生産性を高めるために数多くの塚が崩され、整地されて田畑になっていた事例も多いのではないかとみられる。戸塚の地名は、大規模な塚が10基あったので「十塚」が起源ともいわれるが、それだけ大小の墳丘が数多く存在していたのだろう。
 上記の「シイヤ山」事例は、出土した副葬品を大切に祀ったために家が栄えた事例だが、逆に野方地域には「呪われ」「祟られ」たケースも採集されている。1902年(明治35)生まれの女性が語っている話だが、妹の「狐憑き」が治らず「拝み屋」に頼んで狐を落としてもらったはずが、症状がなかなか改善せず、「なにかの祟りではないか」ということになり、再び「拝み屋」に依頼して見目(けんもく)してもらった事件だ。
 1989年(昭和64)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続・中野の昔話・伝説・世間話』の中から引用してみよう。
  
 それで、今度見たらね、「小屋の東の方に必ず、刀がある」って言うの。「だから、その刀をね、あんなとこへ通しておいてね、今もう、刀が泥みたいになってね、さびて、その刀も、祟ってる」って言うんで。/それで、その、やっぱり屑小屋っていって、昔は、こういう木が、落ちると、その屑、屑を掃いて、それを燃すの。それで屑小屋の中へ、もう、お天気のいいときに入れといて、それ、冬になって、雪が降ったりなんかすると、それを、持って、籠へ持って入れてきちゃ、囲炉裏で燃すの。だから、そういうふうな屑小屋がね、あったの。/そいでそこに、確かに、その東っていうから、そこに、近所にあるって。「よく見つけてごらん」って、三日ぐらい捜したの。「ねえさん、ないよ。いくら捜したって、刀なんかないよ」って。「いいから、もう一日捜せ」って言ったの。そうしたらね、その、やっぱり、麦藁の真ん中にねぇ……。(中略) そうしたらね、あのぅ、刀も、このぐらい、もう持つとこやなんかないの。腐って、こわれちゃって、くずれちゃって、そして、刀、このくらい(四十センチぐらい)のが出てきたわよ。このぐらい(四センチぐらい)の幅の。そんとき、震えちゃったわよ。そんときは。/それで、「今でもあるかい、トモ」、トモちゃんていうの、今いる兄の息子が。「おばさん、今でも、ちゃんと洗ってしまって、神様に置いてあるよ」って言ってましたけどね。
  
 この腐食が進んだ刃長40cmで身幅4cmほどの「刀」は、この家の誰かが発見して持ち帰った古墳の副葬品に多い、腐食した「直刀」ではなかっただろうか。近くの禁忌エリア(忌み地)に踏み入って、副葬品の「刀」を持ち帰ってしまった背信行為の“うしろめたさ”が、あとでこのような説話を生み「呪い話」や「祟り話」、戦にからんだ「因縁話」へ転化しているのではないか……という気配がするのだ。
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 落合地域でも、裏庭の斜面を掘ったら穴が開いて「直刀」Click!ないしは諸刃の「剣」が出てきた……というケースは多い。戦後になってさえ、ガレージを造ったり家を増改築する際に斜面を削ったら、「刀」が出てきたお宅の事例を何軒か知っている。関東ロームは酸性度が強いため、石畳の上へていねいに安置したり石棺へでも納めない限り、被葬者の遺骨はきれいに溶けてなくなってしまうことが多いが、目白(鋼)Click!の折り返し鍛錬で鍛造した強固な古墳刀は、腐食が進みながらも残存している事例が多い。
 本来なら、埋蔵文化財包蔵地で古墳刀などの副葬品が見つかれば、新宿区の教育委員会へ連絡を入れ発掘調査を行うのが筋だが、個人邸の場合は工事がストップしてしまうため、出土した副葬品のみを保管してあとは埋め戻してしまう事例も多い。特にマンション建設などの業者の場合は、古墳や副葬品などが出現すると工期が半年から1年近くも遅れるため、見て見ぬふりをし破壊してしまうケースも多いのだろう。
 わたしもその昔、目白崖線の斜面に住んでおられた地元の方から、そのような経緯で出土した碧玉勾玉Click!や古墳刀を2振りClick!譲り受けて所有している。だが、特に「狐憑き」にも精神に変調をきたしたりもしていないのは、そのうちの1振りを日本刀の研師に出して、1500年以上前の大鍛冶の仕事や、小鍛冶による折り返し鍛錬の技術を観察するため研磨してみたりと、たいせつに保存しているせいだからだろうか。w
 さて、ここにご紹介したのは、ほぼ現代に採取された中野区内に伝わる伝承だが、江戸期に中野地域を散策した村尾正靖(村尾嘉陵)Click!が、中野村や角筈村(現在の西新宿だが室町期には一帯を中野と呼称していたとされる)を歩きながら、開墾で崩される以前の、あるいは宅地化で整地される以前の古墳とみられる墳丘や、副葬品とみられる物品の説話を集めて『嘉陵記行』に記録しているのは先述したとおりだ。
 登場している「しいや(屍家)の山」や「宝珠」などの伝承が、古く江戸期以前から伝承されてきた地元の説話だと考えても、なんら不思議ではない。そこには、より多くの物語が眠っていたのかもしれないが、時代をへるにしたがって忘れ去られたものも多いのだろう。あるいは、江戸期の稲荷信仰の流行から、眷属であるキツネと結びつきやすい説話が残ったとみることもできよう。そして印象深い、人々に記憶されやすい禁忌にまつわる「祟り」や「呪い」といった伝説が、かろうじて今日まで残っていたのかもしれない。
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 中野地域の江古田(えごた)のすぐ北側に隣接する、練馬の江古田(えこだ)駅Click!北口には、古墳がベースと伝えられている江古田富士Click!と江古田浅間社が建立されている。この墳丘つづきとみられる北側の斜面一帯には、1921年(大正10)に「聖恩山霊園」が開設され、現在では死者を送る江古田斎場が併設されている。この古墳の存在にからみ、一帯には江戸期以前からなんらかの禁忌説話が伝承されてきているのかもしれない。
                                <了>

◆写真上:上沼袋に築造された、丸山塚古墳の墳丘に奉られていた小祠(改修後)。
◆写真中上は、古い地形図や空中写真では鍵穴型に見える江古田氷川社。は、1944年(昭和19)に撮影された下沼袋の丸山・三谷地域。は、中野区の寺社をまわると境内でときに房州石がさりげなく置かれていたりするので要注意だ。
◆写真中下は、古墳の副葬品に多い宝玉。は、同じくさまざまな宝石で造られた勾玉。は、1966年(昭和41)に下落合横穴古墳群から出土した腐食が進む直刀と鍔。
◆写真下は、江戸期に塚状の地形から洞穴が出現すると「狐穴」とされ、すぐに稲荷社の奉られるケースが多かった。は、江古田浅間社の拝殿。は、江古田浅間社の裏(北側)にある江古田富士を登った山頂(残存する墳丘頂)付近からの眺め。
おまけ
 久しぶりに近所を散歩したら、開花しはじめたカワヅザクラに地味な鳴き声でたくさんのメジロたちが群れていました。湯島から移植されたシラウメもほころびはじめ、暖かくなったせいか野良ネコたちもあちこちで活発に出歩きはじめています。
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長谷川利行のスケッチブック。 [気になる下落合]

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 『江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。』Click!シリーズ記事の連載途中だが、展覧会の開催期限がある急いで書きたい記事ができたため、そちらを優先して書いてみたい。
  
 下落合630番地Click!里見勝蔵アトリエClick!へ、長谷川利行Click!がときどき訪問して食事や酒をご馳走になっていた話を、以前記事Click!にしたことがある。上戸塚(現・高田馬場4丁目)に住んでいた片想いの相手である藤川栄子アトリエClick!も含め、長谷川利行が歩いたであろう下落合の散歩コースを想定したものだ。
 そこにはもうひとり、利行に誘われて同行していた画家がいたことを、一昨年からうかがっていた。1930年協会展に出品していた画家のひとりであり、のちに独立美術協会の会員になる谷中の洋画家・熊谷登久平だ。ふたりは連れ立って里見アトリエに上がりこみ、ひと晩で日本酒を3升も空けたことがあったという。
 谷中の熊谷登久平アトリエ跡へご案内いただいたのは、日暮里富士見坂を守る会Click!池本達雄様Click!だ。そして、わたしは熊谷邸で信じられないものを目にすることになった。この世には存在しないといわれていた、長谷川利行が愛用していたスケッチブックだ。朝日新聞が、昨年(2020年)1月14日に「『日本のゴッホ』東京素描 放浪画家・長谷川利行のスケッチ発見」と、写真入りで記事にする3ヶ月前のことだった。
 長谷川利行と熊谷登久平は当時、気のおけない親友同士の間がらだったようで、ふたり連れ立っていろいろな洋画家たちを訪問していたらしい。特に長谷川利行Click!は、1930年協会Click!の第2回展(1927年6月17日~30日/上野公園日本美術協会)へ『公園地域』と『陸橋のみち』、『郊外』の3作品が入選して以来、同協会の会員画家あるいは出品画家たちを訪ねることが多かったとみられる。そんな機会に、親友だった熊谷登久平を誘い、里見勝蔵アトリエへ同行したものだろう。
 熊谷登久平も、1930年協会の第3回展(1928年2月11日~26日/上野公園内日本美術協会)に、熊谷徳兵衛の名前で『雪の工場地』『軽業』の2点が入選している。つづいて、同協会の第4回展(1929年1月15日~30日/東京府美術館)では徳兵衛改め熊谷登久平の名で『居留地風景(横浜)』と『冬』の2点が、最後の第5回展(1930年1月17日~31日/東京府美術館)には『千厩風景』と『雪の気仙沼港』の2点がそれぞれ入選している。つまり、ふたりは昭和初期から1930年協会展では常連画家だったわけで、お互い連れ立って出かける機会も多かったのだろう。
 熊谷登久平のご子孫にあたる熊谷明子様Click!から、さっそく熊谷アトリエに遺されたスケッチブックを拝見する。利行のスケッチブックは、おそらくこの世に1冊しか存在しないと思われるので、緊張しながら黄ばんだページを1枚1枚めくっていく。
 長谷川利行が生存中から、彼の熱心な作品コレクターであり、ミツワ石鹸Click!で役員をつとめていた下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)の衣笠静夫Click!コレクションにも、スケッチブックまでは含まれていなかっただろう。スケッチブックは、少し茶色がかったグレーの無地の表紙で、どこへ出かけるにも手軽に持ち歩けるよう、約135mm(タテ)×約200mm(ヨコ)とかなり小さめなサイズだ。見るからに廉価そうな用紙の各ページには、利行らしい筆づかいで手ばやくスケッチした街中の人物たちや風景、憶え書きとして書きとめられたとみられる乱雑な文章が横溢していた。
 わたしは、寸法を測る表紙のみを撮影し、中身のスケッチ類は遠慮して撮影しなかったのだが、熊谷明子様が撮影されたスケッチの写真類を引用してもかまわないとお許しをいただけたので、拙記事にそのほんの一部だがピックアップして掲載してみたい。おそらくカフェか喫茶店で描いたのだろう、すばやく勢いのある鉛筆の走り描きでとらえられた会話する人物たち、銀座の路上だろうかモガと和服姿らしい女性が立ちどまり会話をする様子などなど、風景ではなくほとんどが人物像の描写だ。
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人物スケッチとともに、そこになぐり書きされた文章の筆跡は、彼の出した手紙やハガキ類と比較すると、まちがいなく長谷川利行のものだろう。お互い親しく交流する中で、利行が訪問した際に熊谷登久平のもとへスケッチブックを置き忘れていったか、あるいはなにかの記念にスケッチブックを譲渡したものだろうか。
 熊谷登久平アトリエ跡を訪問してから、2020年に入りCOVID-19禍が急拡大したためにすっかりご無沙汰してしまったのだが、先日、熊谷明子様からわざわざご連絡をいただいた。根津駅の近くにある「池之端画廊」Click!で、谷中や上野界隈の家々に残る画家たちの作品群を集めた、地元ならではの展覧会が開かれるという。そこで展示される画家たちは、同地域ではお馴染みの長谷川利行や熊谷登久平をはじめ、1930年協会の画家たちが描いた作品なども多い。また、東京美術学校(現・東京藝術大学)の門前にある沸雲堂Click!からも、秘蔵の作品が出品されるとうかがった。
 これは見逃がす手はないと、さっそく池之端画廊へ出かけてきた。「―明治・大正・昭和―時代を彩った洋画家たち(Ⅱ)」と題された展覧会に展示されている画家は、先の長谷川利行と熊谷登久平に加え、里見勝蔵Click!鈴木千久馬Click!麻生三郎Click!内田巌Click!、鶴岡政男、朝井閑右衛門、岡田三郎助Click!、寺内萬治郎、三雲祥之助、田中岑、村岡平蔵Click!、絹谷幸二、岡田謙三、浅尾丁策Click!らだ。そして、池之端画廊を経営されているのは、なんと鈴木千久馬のご子孫である鈴木英之様ご夫妻だった。
 展示作品でめずらしかったのは、薄塗りであっさりと水彩風に描かれた長谷川利行の『柿』と、岡田三郎助のめずらしい大きな日本画、麻生三郎が墨1色で描いた『浅尾丁策像』、そして画家たちに描け描けと勧められて制作した浅尾丁策の『トレド風景』だろうか。展示されている作品は、すべて地元の個人蔵のものばかりで、めったに目にする機会のない画面も多い。鈴木様に許可をいただき、展示作品の何点かを撮影させていただいた。
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 ちょっと余談だが、沸雲堂には整理されていない画家たちの作品が、まだ数多く保存されているともうかがった。以前、浅尾丁策が池袋Click!にあった豊島師範学校Click!近くの骨董店で発見して購入した、佐伯祐三の『便所風景』Click!について記事にしているが、1888年(明治21)から東京美術学校の門前で画道具を扱ってきた同店には、いまだ画家たちのめずらしい作品が眠っているのではないかと思うとワクワクする。
 池之端画廊には、周辺の散策マップや地元の資料なども置かれていて、谷中や根津、上野界隈を気軽に散歩する起点にはもってこいだ。
 ◆「―明治・大正・昭和―時代を彩った洋画家たち(Ⅱ)」展
  2021年2月3日(水)~2月21日(日) 池之端画廊(月・火曜は休廊)
 また、2月末から3月にかけては地元にアトリエがあった熊谷登久平展が開かれる。
 ◆「野獣派 昭和モダン 熊谷登久平」展
  2021年2月24日(水)~3月14日(日) 池之端画廊(月・火曜は休廊)
 池之端画廊は東京美術学校(現・東京藝大)が近いため、周囲は日本画家や洋画家、美術関係者たちの旧居跡だらけだ。画廊の周辺は、もともと広大な大河内子爵邸の敷地があり、界隈には藤野一友(洋画家)や加藤栄三(日本画家)、富田温一郎(洋)、大河内信敬(洋/河内桃子Click!の実家)、堀田秀叢(日)、狩野深令(日)、佐藤朝山(彫刻家)、望月春江(日)、鈴木美江(日)、池上秀畝(日)、岩田正己(日)、岡倉天心Click!……etc.と、上野桜木地域とともにアトリエ村ならぬ“アトリエ街”を形成していたような土地がらだ。
 COVID-19禍で家に引きこもりがちになり、体力も免疫力も落ちて健康のバランスを崩す方も多いようなので、たまには混雑や「密」を避けつつ、外をゆっくり散歩するのも健康のためにはいいのではないだろうか。
 熊谷登久平アトリエに遺された長谷川利行のスケッチブックは、地元の台東区が文化事業をすべて外注委託業務にし、文化財を受け入れられる施設もなく、また信じられないことに行政側(教育委員会)には専門の学芸員が存在しない(!?)とのことなので、いまだ寄贈先が決まっていないらしい。おそらくこの世に1冊しか存在しない利行のスケッチブックを、なんとか劣化して朽ち果てないうちに、後世へ保存することができないものだろうか?
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 長谷川利行は、1930年代に新宿の武蔵野館裏にあった天城画廊Click!でまとまった仕事をして、周辺に拡がる街の風景作品をいくつか残しているが、その地域的なつながりから新宿区に寄贈していただくというのはいかがなものだろうか? もっとも、現在はCOVID-19禍の真っただ中で、各地の自治体はそれどころではないとは思うのだが……。

◆写真上:熊谷登久平アトリエに遺された、長谷川利行が愛用したスケッチブック。
◆写真中上は、約135mm(タテ)×約200mm(ヨコ)とポケットに入りそうな長谷川利行のスケッチブック。は、熊谷明子様が撮影されたスケッチの一部。は、昭和初期に描かれた長谷川利行『熊谷登久平像』と同じく『自画像』(1928年)。(スケッチ画像は「熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター」ブログClick!より)
◆写真中下は、池之端画廊の入口と1・2階の展示室。は、薄塗りでめずらしい長谷川利行『柿』。は、里見勝蔵の『女』シリーズと並ぶ長谷川利行『自画像』。
◆写真下は、順番に熊谷登久平『キリストの昇天』、麻生三郎『浅尾丁策像』、岡田三郎助の日本画、里見勝蔵『ルイユの家』。は、池之端画廊の展覧会案内×2葉。

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江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(中) [気になる神田川]

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 東京各地に数多く残る丸山Click!(円山など)の地名について、地元の伝承・伝説や字名の由来、地形などを調べていると、「おや、これは?」と思うような地域にぶつかることが多い。野方町(およそ現・中野区野方地域)の字名に多い丸山Click!と、隣接する三谷(山谷とも)Click!について調べているときも同じような経験をしている。江戸期には、ちょうど下沼袋村(丸山)と同村および新井村(三谷)の境界で、三谷は丸山を囲むように位置する字名だった。以後、ともに野方村の字名となって記録されている。
 明治以降は、野方村丸山1441番地(現・野方2丁目27番地)あたりが正円形の中心で、大きな丸山を囲むように西北から東、南にかけて三方が正円形の谷間に囲まれている。現存している正円の直径は250mを超える巨大なもので、実際に土地が隆起している地点から実測しても、200m以上はありそうな規模だ。落合地域でいうと、1930年代まで上落合に見られたサークル状の盛りあがりClick!よりもサイズがひとまわり大きい。
 丸山の地形は明治初期から変わっておらず、現在よりも高度があったと思われる丸山が崩され、その土砂でおそらく周囲の壕が埋め立てClick!られたとすれば、江戸期以前の土木工事によるとみられる。より詳細な記録をたどると、近くの実相院の過去帳には江戸中期を境にして、丸山や三谷に居住した人物たちが記載されており、すでに周辺の土地がある程度整地され、農民が入植していたとすると、丸山・三谷一帯の土地が整地造成されたのは、江戸前期あるいはそれ以前ということになりそうだ。
 さて、西武新宿線の野方駅南口へ降り、環七を越えて妙正寺川の橋をわたると、さっそくおかしなカーブを描いた道筋に出会うことになる。丸山や三谷の地域よりも、まだかなり手前の位置だ。家にもどってから、古い地形図や空中写真を改めて参照すると、丸山の大きなサークルの北西側にも、もうひとつ中規模の盛りあがったサークル状の地形(前方後円墳タイプ)があることが判明した。中規模といっても、サークルの直径は100mほどにもなり、丸山を“主墳”と考えれば、同族墳あるいは陪墳の一種だろうか。今回の目的が丸山と三谷だったので、先を急ぐことにする。
 そのまま道を南下すると、三谷の西北部、つまり丸山の西北側の麓に到着する。そこからは明らかに上り坂であり、昔日の丸山がこのあたりからはじまっていた様子がうかがえる。麓の三谷には、丸山を囲んで山麓を円形に通る内周道路と、さらに外側を円形に通る外周道路が敷かれている。その内周と外周との間が、丸山を前方後円墳(ないしは帆立貝式古墳)の後円部と仮定すれば、その周囲に掘られた周濠(壕)ということになるだろう。
 丸山という地名の由来であり、後円部(あるいは円墳)として築かれていた墳丘の大量の土砂は、まわりの周濠を埋め立てるのに活用したと想定することができ、南青山古墳(仮)Click!のケースとまったく同じ地形や風情となっている。野方の丸山・三谷地域のケースは、新たな畑地の開墾のために行われたのだろうが、南青山のケースは江戸前期に旗本の屋敷地造成のために工事が行われたと思われる。
 円形に刻まれた道路を歩いてみるが、丸山と名づけられた丘陵の巨大さに改めて驚く。埋め立てられ、谷が浅くなったとみられる三谷に通う道路は、丸山のサークルに沿って延々とつづいている。丸山の東側は、大正期以後の宅地開発で地形や道筋がずいぶん改造されているのが、大正以前の地形図などと比較すると明らかだが、北側と西側の地形や道筋はほぼ江戸期と変わらない形状を保っているのだろう。
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 丸山や三谷の居住者を探究した労作、1998年(平成10)に実相院から出版された矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から引用してみよう。
  
 最初これらの記録を過去帳で見た時は市三郎、庄兵衛と定右衛門は江古田村の丸山の人かと思ったのですが、市三郎という人の墓が代々三谷にお住まいの矢島達夫さんの墓地にありましたし、多分、丸山は三谷の一部を指すのではないかなと思うようになりました。そしてそのことに確信が持てるようになったのは禅定院さんの過去帳に三谷にお住まいの秋元家のご先祖の方々が丸山の住人として表記されていることに出会った時でした。これらの方々は古くは宝永年間(一七〇四~一七一〇)から始まり、明和年間(一七六四~一七七一)まで丸山の住人であると記録されていました。そしてこれ以後はその居住地は三谷として書かれています。
  
 江戸期半ばのこの時代、宝永と改元される原因となった元禄大地震につづき、改元後も日本各地で地震が記録されている。宝永元年には東北大地震が、宝永2年には九州の霧島連山と桜島が噴火、同3年には浅間山が噴火、同4年には富士山が大噴火、同5年には再び浅間山が噴火、同6年早々には阿蘇山が噴火と、天変地異が連続して起きている。これらの事件と下沼袋村への新たな入植・開墾とは、どこかでつながっているのかもしれない。
 さて、丸山へ登ってみると丘上は平坦にならされていて、もはや「山」の頂上らしきものはきれいになくなっている。各地に残る「丸山」と同様、上部は住宅街で埋めつくされているが、江戸期には畑地が一面に拡がっていたのだろう。丸山の南側の麓には「大久保」Click!と名づけられた湧水源(湧水池)があり、三谷の谷間エリアではその清流を活用して田圃が耕されていたとみられる。現在は暗渠化されているが、この小流れは丸山の東側(三谷)を円形に沿って流れ下り、斜面を600mほど北上して妙正寺川に注いでいた。
 先述の『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』から、再び引用してみよう。
  
 この様に三谷の中央部が江戸時代明和年間位までは丸山と呼ばれていたことが分かります。今は家が沢山建ってしまってわかりにくいのですが、以前でしたら沼袋の清谷寺の下の沼袋小学校辺り、或いは三谷橋付近からこれら秋元家のある方向を望めば周囲から少し高くなっており丸山と呼ばれてもおかしくないような地形をしています。(中略) 地図から地形を見てみますとこの「丸山」を囲んで三方、北、東と南に谷があります。三谷という地名は或いはここから名付けられたと考えられなくもないかと思われます。
  
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 現状のような盛りあがりだけで、おそらく眺めがよかった江戸期でさえも、人々は「丸山」とは名づけないだろう。日本各地に残る、丸山地名の由来となったあまたの「丸山古墳」Click!あるいは「丸塚」Click!と同様に、こんもりとした丸みを帯びた墳丘の後円部、またはお椀を伏せたような大きな円墳が存在したから「丸山」なのであり、その形状が摺鉢を伏せたような形状だから「摺鉢山古墳」Click!なのだ。現在の丸山は江戸前期、ないしはそれ以前の土木工事によって改造されたあとの姿なのだと思われる。
 著者が書いている、三方を谷間に囲まれているから「三谷」だというのは、わたしもそのとおりだと思う。つまり、北西あたりから刻まれ、丸山をグルっと南まで取り囲む三谷を周濠と見れば、この巨大な古墳の前方部は南西側にあたりそうだ。なぜ、真西の方角ではないかというと、北西の谷間(周濠)が途切れたあたりに「造り出し」Click!があったような気配を、地形図や空中写真から推測することができるからだ。そして、この造り出しの上に位置しているのが、丸山の旧家である秋元作二郎邸ということになる。
 丸山の麓に通う道路を、正円形の道なりに西側から南へとたどっていくと、ちょうど前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)の西側の“くびれ”部にあたる、数多くの同型古墳では造り出しが設けられている位置に、江戸中期の明和年間から居住が確認できる秋元家の大屋敷がある。戦後すぐのころの空中写真を確認しても、丸山・三谷地域では屈指の大邸宅だった様子がうかがえる。
 その敷地の道路側は、現在は駐車場となりその奥に住宅が建っているのだが、その駐車場をのぞいてわたしの足が止まった。駐車場の左手、南側の一隅に大きな庭園石(フロア用複合コピー機ほどのサイズ)とみられる見馴れた岩石がふたつ、ていねいに保存されている。近づいてみると、表面に大小の白い貝殻の化石が無数に付着しているのがわかった。まちがいなく、南関東では古墳の羨道や玄室に多用されていた「房州石」Click!だろう。房州石は駐車場にとどまらず、隣接する邸宅敷地の庭園や玄関先などにも多く配置されている。
 これらの房州石は、江戸中期に秋元一族が丸山を整地・開墾していた際に、墳丘中央に位置する羨道や玄室から出土したものではないだろうか。そして、その石材の中から運搬可能な大きさの石を選び、屋敷にしつらえた大きな庭園に配置した……、そんな経緯を想像することができる。だが、古墳とみられる丸山の規模や大きさからいえば、現存するこれらの房州石は比較的小さな部類だったのではないだろうか。玄室の壁面や天井などに用いられているものは、数メートル規模の石材もめずらしくないからだ。丸山・三谷地域の旧家跡で、房州石が発見できたことは現地を取材しての大きな成果だった。
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 丸山・三谷の地形や地名は古墳に由来するとしても、巨大な前方後円墳(帆立貝式古墳)だろうか、それとも円墳だろうか? 秋元家跡から、南東側の一帯に通う道路を歩いて地形を観察してみると、ほどなく南東側や南側に下っていることがわかった。前方部の墳丘も崩され、その土砂で周囲の段差が埋め立てられ整地されたと仮定すれば、全長が250~260mほどの帆立貝式古墳(前方部が短縮された前方後円墳の一種)を想定することができそうだ。引用の便宜上、この古墳とみられるフォルムを「丸山三谷古墳(仮)」と呼ぶことにする。
                                <つづく>

◆写真上:北側にある古墳フォルムの丘上から、南に口を開ける三谷へと下りる坂道。
◆写真中上は、1925年(大正14)の10,000地形図にみる丸山・三谷地域。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地域。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された同地域とその拡大。秋元一族が、見晴らしのいい位置を占めている。
◆写真中下は、戦後1948年(昭和23)の空中写真にみる丸山・三谷地域。は、その一帯で撮影した現状写真で空中写真の記載番号・撮影方向と照応している。
◆写真下は、旧・秋元作二郎邸跡に残されていた開墾時に出土したとみられる房州石。は、大正初期を想定した丸山・三谷マップ。(監修・矢島英雄)

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江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(上) [気になる神田川]

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 村尾嘉陵Click!が著した『江戸近郊道しるべ』、国会図書館では『四方の道草』で、内閣文庫では『嘉陵記行』(「行」ではない)というタイトルで残されている日記には、1818年(文政元)8月26日(太陽暦では9月下旬ごろ)に中野の本郷村(現・中野区本町)から角筈村(現・新宿区西新宿)界隈を散策した記録が残っている。
 そこには、幕末にかけての開墾あるいは大正期以降の宅地開発で破壊されたとみられ、現在では存在していない「山」や「塚」の記述が見えたり、そのまわりを取り巻く周濠(空堀)が明確に記録されていたりするので貴重だ。この古墳の周濠(空堀)については、後世(おもに明治以降)の城郭をイメージした付会的な解釈がほどこされており、築造当初から空堀だったとするのが今日の科学的な有力説のひとつとなっている。
 たとえば、本郷村の成願寺(現・中野区本町2丁目)の界隈を記録した文章を、1999年(平成11)に講談社から出版された村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』Click!(現代語訳・阿部孝嗣)所収の、「成子成願寺・熊野十二社紀行」から引用してみよう。ちなみに、江戸期には現在のような区分による行政区画などまったく存在しないので、著者の村尾嘉陵は本郷村も中野村(ともに中野区)も、はたまた角筈村(現在は新宿区)も全体が「中野地域」だととらえて記述しているフシが見られる。
  
 文政元年(一八一八)陰暦八月二十六日、中川正辰同遊。成願寺(中野区本町二丁目)は禅刹である。門の扁額に多宝山とあり、寺の前を井の頭上水が流れている。小橋を渡って門から本堂まで三十五、六間(約六十五メートル)。入って左に茅葺き屋根の百観音堂が、右には鐘楼があり、方丈と庫裏が並んでいる。鐘楼の傍らには大きな杉が一株ある。庫裏の庭を通って後山に登る。山の高さは三丈ほどで、山上に金比羅の社がある。/その裏手、北西の方角に小高い塚があって、その周りに空堀の跡がある。墳にはツツジが二、三株生えている。その下に小さな五輪の笠が二つ、なかば土に埋もれて見える。言い伝えでは、この墳は性蓮長者という人の墳であり、この山はその長者が住んでいた跡であるという。
  
 成願寺は、神田上水(室町期以前は平川)の段丘斜面に建立されているので、「後山」とはその10mほどの高さのある段丘のことだ。その斜面を上った北西方向に、「空堀の跡」がある「小高い塚」が記録されている。
 古墳に興味をお持ちの方ならご存じかもしれないが、従来は古墳を取り囲む堀は「周濠」と呼ばれ、まるで近世の城郭(平城)のように水が引かれた濠にされている古墳もあるが、当初の姿は「空堀」、すなわち水を引かずに谷間を刻む「周壕」だったのではないかという、科学的な調査にもとづく研究成果が有力視されている。つまり、平野部に築かれた大型の前方後円墳などに見られる周濠は、その古墳の権威性をより高めるため後世に改造され、当初の姿が破壊された姿だということになる。あるいは、中には長い年月にわたり結果的に雨や湧水によって、水がたたえられているケースもあるのだろう。
 確かに、山の斜面や崖地に沿って築かれることが多い古墳の場合、傾斜があるため「周濠」は困難だったとみられ、換言するなら「周濠」が必要とされるのなら、なぜ平地ではなく斜面や引水が困難な丘上あるいは斜面に築かれることが大多数なのか?……という疑問への解答にもなる。村尾嘉陵が見た塚と空堀も、本来の姿を近世までとどめていた古墳の可能性が高い。もっとも、現在の同地域には古墳も、空堀もなければ金比羅の社も存在せず、一面に住宅街が拡がっているばかりだ。
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 また、この塚が「性蓮長者」の墓だとする伝説を採取しているが、これは「中野長者」伝説Click!が広く普及していった後世(室町期から江戸初期にかけて)の付会だろう。「中野長者」の時代に、死者を葬るために大きな墳墓を築造する習慣があったかどうかも検討されるべきだし(とうに墓地墓石の時代へ移行していただろう)、なによりも「中野長者」伝説と平川(のち神田上水)沿いに展開していた古墳を供養して歩いた「百八塚の昌蓮」伝説Click!とが、どこかで習合している痕跡を感じるからだ。
 中野の成願寺で語られる性蓮(一説には正蓮)と、下戸塚(早稲田)の宝泉寺Click!にゆかりの深い昌蓮とは、同じ「しょうれん」なので記録する漢字をちがえた同一人物なのか、淀橋をわたって成子坂Click!の向こうへ出かけていくとカネ持ちになって帰ってくる「中野長者」=性蓮(正蓮)と、平川沿いに展開する百八塚(古墳)に小祠を建立して供養してまわった昌蓮は、古墳盗掘の罪意識にめざめた性蓮(正蓮)のことなのか、それともたまたま僧名の音がいっしょで別人なのか……。
 そもそも村尾嘉陵も、性蓮(宝仙寺=中野)と昌蓮(宝泉寺=早稲田)とで混同しているようなのだが、なぜ室町前期(性蓮)と室町後期(昌蓮)とみられる、ふたつのエピソードが習合しているのか、史的に不明な点が多すぎるのだ。混同の要因を想像してみると(混同しているとすればだが)、中野の宝仙寺と早稲田の宝泉寺とで、こちらも同じ「ほうせんじ」という音が共通しており、時代の経過とともに混乱が生じて、両者が結びつけられて伝承されるようになったととらえるのが、もっともありえるリアルな想定だろうか。
 このあと、村尾嘉陵は神田上水を東へわたり、熊野十二社がある角筈村(現・新宿区)に入る。牧野大隅守(旗本)の抱屋敷に近い、「兜塚」を見るためだった。小普請請小笠原組2,200石だった牧野の抱屋敷は、都庁の第一本庁舎の西側、現在の新宿中央公園あたりにあった屋敷だ。同書より、再び引用してみよう。
  
 兜塚(不明)に向かう。熊野社の大門を出て、少し南へ向かうと、道の東側の林に家がある。この辺りは牧野大隅守の下屋敷(ママ)といわれているけれども、垣根もなく、小笹が生い茂っている中をかき分けて二、三間ほど行くと、その塚がある。その由来は分からないという。/ここの南は秋元左兵衛佐殿の屋敷である。この塚には樫の木を植えて、その根元と、その前にも一つ石を置いてある。樫の木の大きさは一囲み、一丈四、五尺ほどである。木は伸びており、上の方に枝が張っている。周りは杉林だ。石の大きさは二尺三寸ほどで、縦一尺二、三寸、高さ二尺ほどである。全体としては紫青色であるが所々に白石英のようなものが含まれている。前にある石の方がやや大きい。伊豆の青石かも知れない。大石を切り出したまま加工していない石だ。二つの石ともびっしりと苔に覆われている。
  
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 中野区との区境も近い、新宿中央公園の界隈にあったとみられる兜塚(墳丘の形状が兜を伏せたようなフォルムをしていたことから名づけられものだろうか)も、いまは中央公園や住宅街に整地されとうに現存していない。ちなみに、狛江市では「兜塚」と名づけられた丘を発掘したところ、古墳と判明したので兜塚古墳と命名されている。
 この記述で興味深いのは、ふたつの大きめな石が記録されている点だろう。村尾嘉陵は、海岸沿いに見られる「伊豆の青石」と想定しているが、同じ海沿いの石材で白い貝殻化石を含んだ房州石Click!だった可能性が高そうだ。南武蔵に展開する、古墳の玄室や石材に多く使われた房総半島の先端で産出する房州石Click!を、村尾嘉陵は観察しているのではないだろうか。また、切り出したままでなんら加工されていないのも、古墳の石材を想起させる形状だ。もし後世になって運ばれてきた石材なら、なんらかの目的があったはずで、加工しないままあたりに放置することは考えにくい。
 開墾や宅地化などで、中小の古墳から出土した玄室や羨道の石材(房州石)は、それほど大きな石が使われていないので廃棄されてしまうケースが多いが、たとえば昌蓮ゆかりの宝泉寺に隣接していた富塚古墳(高田富士)Click!などのケースのように、中型以上の古墳を崩した際に出土した石材は、その付近に保存される事例が多々みられる。富塚古墳の場合は、甘泉園Click!の西側に遷座した水稲荷社本殿の裏手に、玄室に使われていた石材の多くが保存Click!されている。また、大きくてかたちの整った石材の場合は、庭園の庭石にされたり、寺社の礎石にされている事例も見られる。
 もうひとつ、この「兜塚」で気づくことは、新宿駅西口に確認できる「津ノ守山」=新宿角筈古墳(仮)Click!や、成子富士(陪墳のひとつ?)が残る成子天神山古墳(仮)Click!、あるいは淀橋浄水場Click!の工事記録にみられる多くの古墳の事績を含めて考えると、西側の神田上水(平川)や淀橋方面へと下る角筈村の斜面あるいは丘上は、古墳が連続的に築かれてきたエリアではなかったかというテーマが、再び大きく浮上することになる。
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 さて、先述の大きな房州石が、後世に江戸期からの旧家(大農家で付近を開墾の際に出土したとみられる)の庭石にされ、現存している地域がある。成願寺の裏山から北西へ2,900mほどのところ、同じ中野区内の古くから丸山・三谷地域Click!と呼ばれている旧・野方町の一帯で、中野区教育委員会が収集した後述する証言では、朽ち果てた「刀」が見つかり、その祟りが語られている地域だ。この大型古墳とみられる痕跡が残るエリアは野方駅の南側、江戸時代の行政区分でいえば下沼袋村(丸山・三谷)と新井村(三谷の一部)の村境に近い一帯だ。次回は、村尾嘉陵が歩いた旧・中野町界隈から離れ、旧・野方町へと足を向けてみよう。
                                 <つづく>

◆写真上:村尾嘉陵が訪れた、「性蓮長者」伝説が残る旧・本郷村の成願寺山門。
◆写真中上は、成願寺の本堂。は、本郷村から旧・角筈村に入ってすぐの角筈十二社。は、『嘉陵記行』に描かれた兜塚の石材挿画。
◆写真中下は、1828年(文政11)の散策をまとめた『嘉陵記行』10巻()と、1815年(文化12)の郊外散歩を収めた『嘉陵記行』11巻()。年代が前後するのは、訪れた方角や地域ごとに編まれているからだと思われる。は、落合地域を訪れたときの村尾嘉陵の散策行程。(『嘉陵記行』10巻および11巻の挿画より)
◆写真下は、下戸塚(現・早稲田界隈)から高田馬場(たかたのばば=幕府練兵場)周辺における村尾嘉陵の散策行程。高田富士の周囲に、現在は存在しない「山」と書かれたいくつかの丘があるのに留意したい。は、「百八塚」の昌蓮伝説Click!が残る早稲田大学に隣接した下戸塚の宝泉寺Click!は、水稲荷社の本殿裏に保存されている富塚古墳(高田冨士)の羨道や玄室に用いられた石材(房州石)で造られた稲荷社洞。

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再び「事故物件」に引っかかる岡倉天心。 [気になるエトセトラ]

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 東京美術学校Click!(当時は小石川植物園内の美術学校創立事務所)の岡倉天心Click!は、よほど引っ越し運がなくツイてなかったものか、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)の「凶宅」Click!を逃げだしてから、わずか2年後の1887年(明治20)に、またしても同じような「凶宅」の借家を引き当ててしまった。しかも、今度の家は筑土町の怪(あやかし)レベルではなく、本格的な「幽霊屋敷」だったのだ。
 このような事例は、明治から大正にかけてはめずらしくなかったらしく、小山内薫Click!も転居をするたびにひどい目に遭っている。岡倉天心や小山内薫に共通しているのは、家を借りる前に隣り近所の住民や商店に、その空き家の経緯や評判などをあらかじめ聞き取りせず、下調べなしに大急ぎで決めて引っ越してしまうことだ。関東大震災Click!の前、東京には江戸期からの住宅がまだたくさん残っており、さまざまな因縁話やエピソードが伝わっていたのだろう。それらを転居したあとになって聞き、不可解な出来事と重ねあわせて「やっぱり!」となるケースがほとんどだ。
 筑土町の「凶宅」から新小川町へと逃げ出した岡倉家は、2年間に九段上から神田猿楽町と転居し、天心の留学をはさみ1887年(明治20)には、江戸期から寺町として知られていた池之端七軒町の屋敷に落ち着いている。ところが、この広い屋敷がとんだ「お化け屋敷」で、幽霊がゾロゾロと集団で出現する筑土町以上の「凶宅」だった。そして、この屋敷は高田町四ッ谷(現・豊島区高田1丁目)の根生院とも関係が深い敷地に建っていた。
 池之端七軒町は、現在でいうと池之端2丁目の一部で、不忍通りから1本西側に入った忍小通りに沿って形成された江戸期からの街並みだ。ちょうど、南側の東京大学医学部と北側の地下鉄・丸ノ内線の根津駅Click!とにはさまれた界隈で、不忍池Click!からもほど近い位置にあたる。のちに、不忍通りを走る東京市電から、ヴァイオリンを抱えた佐伯祐三Click!が無茶な飛びおりをして、側溝工事中の穴に転落Click!したのもこのあたりだ。
 広壮な屋敷は、1887年(明治20)の時点でかなり住み古したボロい様子をしていたというから、おそらく江戸期からつづく元・旗本屋敷かなにかだったのだろう。周囲が寺町で寺院だらけなので、そのまま通りすぎれば寺のひとつと勘ちがいされそうな造りや風情をしていたらしい。広大な屋敷なので、建物や敷地を家主だった橋本という家と二分し、岡倉一家は南側の屋敷を借りて住んでいる。この屋敷で舶来ものの「アソシエーション式の蹴鞠」(アソシエーション・フットボールの球=サッカーボール)を手に入れ、弟子の岡倉秋水や本多天城Click!たちとともにサッカーに興じていた。
 当時の池之端はうらさびしい一帯で、岡倉天心邸を訪ねて酒を飲んだ狩野芳崖Click!が、帰りがけに弥生町の切り通しで追いはぎに遭い、身ぐるみ剥がれて天心宅に逃げ帰ったエピソードが知られている。北側の隣家、すなわちこの屋敷の持ち主である橋本の家では、とうから怪事は起きていたようで、そこに住み両親を早くに亡くした少女は、しばしば軸の架かった床の間から手まねきをする父母の幽霊を目撃していた。そして、北側の屋敷で起きている怪異が南側の岡倉家へ伝播するのに、それほど時間はかからなかった。
 「凶兆」が最初に表れたのは、当時行われていた不忍池をめぐる春季競馬大会が開催される直前、1888年(明治21)の3月初旬のことだった。まず、天心の長女が競馬馬の蹄(ひづめ)にかけられて負傷している。翌4月になると、天心の元子夫人の枕元へ、男女5人の幽霊が頻繁に姿を現すようになった。5人の男女は、なにかを哀願するように正座して頭を下げていたが、その向こう側に立てかけた枕屏風が透けてよく見えたという。天心はまったくの無関心で、そのままイビキをかいて寝ていたらしい。
 夜明けとともに、元子夫人は義父の岡倉勘右衛門の部屋に駈けこむと、夜更けに表れた男女5人の幽霊のことを報告した。すると、勘右衛門はしばらく思案したあと、心当たりでもあるのか急いで女中を隣家にやって、1枚の写真を借りてこさせた。以下、1971年(昭和46)に中央公論社から出版された岡倉一雄『父岡倉天心』から引用してみよう。
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池之端住宅.JPG
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 「お前の夢にあらわれた男女というのは、その人びとではなかったかね。」/元子はさしだされた写真に一瞥を投げると、頭から冷水を浴びせかけられたように、ぞッと悪寒を覚えた。そして、しばらくして胸の動悸が鎮まるのを待って、彼女は、/「たしかにこの五人の人たちでした。しかし、どういう因縁で、この人たちが、縁もゆかりもないわたしの夢なんかにあらわれるのでしょう?」/畳みかけて問いかけた。勘右衛門はしばらく口の中に称名を唱えていたが、やがて長大息を洩らして、/「そうだったか、争えんもんじゃのう。あの一家は死に絶えているのじゃから、大方、願い事でもあって、お前の夢枕にあらわれたのだろう。万一、ふたたびあらわれたなら、落着いて、言うことを聴いてやってくれ、何かの功徳になると思われるから。」/と、ようやく答えを与えたのであった。
  
 元子夫人が、夫ではなく舅の勘右衛門に相談したのは、筑土町の「凶宅」でもそうだったように、天心はまったく頼りにならないのを知っていたからだろう。気丈夫な元子夫人は、再び幽霊が出たら仔細を訊ねてみようと決意している。
 ところが、一連の経緯や事情を夫に話すと、さっそく天心は「そんなおっかないところに、今夜からおいらは寝ることは閉口じゃ」といって、自分だけさっさと寝所を変えてしまった。そして、美術学校創立事務所に出勤すると、誰彼かまわずにこの怪談話を吹聴してまわったらしい。もっとも天心が幽霊を信じて、ほんとうに恐怖を感じたかどうかは不明で、ヨーロッパに留学までしている彼のことだから、非科学的かつ非現実的で時代遅れな旧時代の迷信とでも、アイロニカルにとらえていたかもしれない。
 夫が2階の寝室から逃げだしてしまったので、元子夫人はその夜からひとりで休むことになった。すると、ほどなく再び男女5人の幽霊が出現して、元子夫人の枕元に坐った。そこで、彼女は蒲団の上に座して居ずまいを正すと、なんの怨みがあって家内に現れるのかと鋭く詰問した。そのときの様子を、再び同書より引用してみよう。
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 すると、五人の中の長老とみえる七十四、五の老人が、お辞儀をしていた顔を揚げ、おもむろに口をきったが、その音調はすこぶる幽かで、しかも福井訛りがあったということである。/「別に私どもは、あなたがた御一家に怨みなど毛頭ございません。ただ不運な私ども一家の冥福を祈っていただく念願から、ここを寺にしたいのでございます。委細は谷中の和尚に頼んでありますから、日ならず和尚が参上しましょう。どうか、この願いを聴きとどけられて、お立ち退きくださいませ。永くお立ち退きがないと、御一家に大病人ができますぞ。」/と、警告つきの懇願をやったそうである。/翌朝元子は起きいでて、父の勘右衛門にも夫の天心にも、昨夕のありようを物語ると、勘右衛門は信じたが、天心は冷笑を酬い、例によって交友の間にこの噂を振りまいて歩いた。
  
 別の施設(寺院)にするから早く立ち退けと、脅迫をまじえて転居を迫る幽霊たちは、まるでバブル期の地上げ屋のような連中だけれど、例によって天心は信じたのか信じなかったのか、転居するしないも曖昧なまま、友人たちへ怪談話を披露して歩いた。もともと“引っ越し魔”の天心だが、短期間で何度も借家を変えて転居するのが、この時期は億劫になっていたのかもしれない。また、勤務先の小石川植物園にある美校創立事務所までは1.5kmほどしかなく、自宅が近くて便利だったせいもあるのだろう。
 天心が噂をふりまいたせいで、怪談好きな友人知人がこぞって池之端七軒町の岡倉邸へ、肝試しにやってくるようになった。ひと晩だけでなく何日間も泊まりこむ連中もいて、岡倉邸はたちまち有名な“心霊スポット”になってしまった。だが、夜になるとたいがい酒盛りとなり、幽霊が出そうな時刻にはみな酔いつぶれて正体がない始末だった。
 天心は、屋敷内をにぎやかにすれば幽霊騒ぎなど雲散霧消すると考えたのかもしれないが、とりあえず引っ越しは検討しなかったようだ。すると、今度は長男の乳母が倒れて大病を発症してしまう。おそらく、元子夫人は「御一家に大病人ができますぞ……の警告どおりだわよ!」と天心を説得したのだろう、ほどなく一家は西黒門町の借家へと転居している。引っ越し先は、下谷警察署に隣接した家だったので、天心も池之端七軒町の屋敷が少なからず怖くて、本音では怯えていたのではないだろうか。
 岡倉一家が大急ぎで西黒門町に転居したあと、翌1889年(明治22)には明治維新とともに廃寺になっていた、根生院(江戸期には湯島天神裏に建立されていた)がさっそく再建されている。ちなみに、『父岡倉天心』では「根性院」とされているが根生院が正しい。
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 根生院は、岡倉一家がいた屋敷をそのまま流用して池之端七軒町で再興されたが、1903年(明治36)には目白崖線の山麓にあたる高田村四ッ谷345番地へと移転した。池之端七軒町の幽霊屋敷は、そのまま残されていたが関東大震災による延焼で焼失している。

◆写真上:1903年(明治36)に、池之端七軒町の岡倉邸跡から移転してきた根生院の本堂。戦災で焼けているので、本堂は何度か新しく建て替えられている。
◆写真中上は、1861年(万延2)に制作された尾張屋清七版の切絵図「小石川谷中本郷絵図」にみる池之端七軒町。江戸期なので、湯島天神裏には廃寺になる前の根生院が採取されている。は、戦災をまぬがれた池之端に残る古い住宅や屋敷。
◆写真中下は、1918年(大正7)に撮影された戦災で焼失前の根生院本堂。背後の斜面には、高田町四ッ谷337番地に建つ芳賀剛太郎邸とみられる大きな西洋館がとらえられている。は、元・岡倉邸の池之端七軒町時代に建てられた赤門。池之端七軒町からそのまま移築されたもので、いまだベンガラの色が鮮やかに残っている。
◆写真下は、1960年代に撮影された池之端七軒町も近い不忍通りを走る都電。は、不忍池とその周辺でよく見かける上からユリカモメ、キンクロハジロ、オオハクチョウなど。人間によくなついているのか、近づいてカメラを向けても物怖じせず逃げない。

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