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陸軍将校室でクロポトキンを読む立野信之。 [気になる下落合]

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 以前、飯田徳太郎の故郷である銚子の犬吠埼に建つ貸し別荘「日昇館」Click!で、飢餓状態に陥って身動きがとれなくなっていた、壺井繁治Click!と福田寿夫について記事にしたことがある。別荘の紹介者である飯田徳太郎が、平林たい子Click!とともに福田が所持していたなけなしのカネを持ち逃げし、ふたりは東京へもどることもできず餓死寸前まで追いつめられた。そこへ、救いの「女神」のように登場したのが、小豆島からやってきたばかりの岩井栄(壺井栄Click!)だったことも書いた。
 ちょうどそのとき、貸し別荘から平林たい子とともにカネを持ち逃げしたあとか、あるいは持ち逃げする以前のことかは不明だが、飯田徳太郎は千葉の佐倉歩兵第57連隊に入営中だった立野信之を兵営に訪ねている。同連隊に所属する、隣りの中隊には蔵原惟人Click!が入営していたので、飯田は蔵原も同時に訪問していたのかもしれない。
 立野信之というと、1933年(昭和8)2月20日の深夜に、築地警察署で虐殺された小林多喜二Click!の通夜に駆けつけ、遺体の枕元で鹿地亘Click!らとともに腕を組んでいる写真が印象的だ。立野信之の右隣りには上野壮夫Click!が、左隣りには山田清三郎Click!が、彼の背後には岩松惇(八島太郎)Click!小坂多喜子Click!、そして窪川稲子(佐多稲子)Click!ら落合地域との関連が深い人々の姿が見える。その立野信之自身も、昭和初期には落合町葛ヶ谷15番地の、片岡鉄兵Click!邸に留守番のため転居してくることになる。
 飯田徳太郎との面会の様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 門衛所の面会室で会ったが、飯田は平林たい子と銚子で何日か暮らしていたといい、同じアナーキストで詩人の壺井繁治夫妻とも一緒だ、と話した。/「金がないもんだからね、毎日イワシばかり食っていたよ。五銭も出すと、イワシがすり鉢に一杯買えるんだよ」/飯田は屈託のない笑顔で、そんなことをしゃべった。ずいぶん無茶な生活で、金にも困っているような話だったが、しかしそれも兵隊のわたしにとっては羨望の的でしかなかった。/飯田はわたしと同年配で、同じ千葉県出身であるが、郷里が銚子に近い香取のほうだから、飯田の発案で、二組の男女は銚子に都落ちしていたのではあるまいか、と想像される。――因に飯田の父親は香取郡の警察署長をしていた筈である。/どうやら飯田は、金策のために上京する途中、ふと気まぐれに立ち寄ったらしく、取りとめのない雑談を交しただけで、じきに立ち去った。
  
 上気の文章を読んで、「おや?」と思われた方もいるだろう。銚子の別荘で、餓死寸前だった壺井繁治たちを訪ね、小豆島を出てから初めて壺井に再会したはずの岩井栄が、立野信之の記憶ではすでに壺井繁治・壺井栄夫妻Click!ということになってしまっている。もちろん史実は、小豆島から出てきたばかりの岩井栄(壺井栄)が、上京後に初めて壺井繁治と出会ったのは銚子のボロ別荘であり、いまだふたりは結婚をしていない。
 銚子の貸し別荘にアナキストたちがこもっていたのは、雑誌『ダムダム』が資金不足から創刊号だけで廃刊になってしまった、1924年(大正13)の11月以降であり、立野信之が同書に書いている佐倉歩兵連隊の門衛所で飯田徳太郎と面会したのは、同年の暮れから翌1925年(大正14)明けの早い時期の出来事だったとみられる。
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 さて、飯田徳太郎は「平林たい子と銚子で何日か暮らしていた」と立野信之に話しているが、当初から貸し別荘にこもっていた仲間は岡田竜夫、矢橋公麿、福田寿夫、壺井繁治、平林たい子、そして飯田徳太郎の6人だったはずだ。そして、飯田と平林が福田のカネを持ってドロンしたあと、最後まで残っていたのは壺井繁治とカネを盗まれて身動きがとれなくなった福田寿夫のふたりであり、そこへ上京後わざわざ銚子まで壺井繁治を訪ねてきた岩井栄(のち壺井栄)に窮地を救われるという経緯だ。つまり、飯田が立野に話したニュアンスから推定すると、平林たい子とふたりでカネを持ち逃げしたあと、すでに同棲をはじめていたころに入営中の立野信之を訪ねている可能性が高そうだ。
 いつか、大正時代の軍隊生活は、昭和の軍国主義が強まる時期のそれとはだいぶ様相が異なり、大正デモクラシーを反映してか、思想的にもかなり鷹揚な環境だった様子を、国立公文書館に保存されている陸軍報告書をベースに記事Click!にしたことがある。立野信之が軍隊生活で経験した内容を見ても、その印象が強くする。
 立野信之は、「社会主義かぶれの反軍思想をいだき、帝国主義戦争反対」(同書)であり、軍隊にイヤイヤ入営したにもかかわらず、予想外の快適な生活を送っている。身体の大きな彼は、行軍訓練などはそれほど辛くはなかったが、やや脚気の症状があり、それを軍医に診てもらうと「しばらく入院しておれ」ということになった。そこで、彼は好きな文学作品をたくさん読むことができたが、退院すると上官だった横尾特務曹長は「お前は教練の役には立たんから、中隊の事務をやらせようと思うが……百分比はできるかね?」と訊いて、立野を内勤にしてくれた。
 おそらく特務曹長は、彼が「社会主義かぶれ」で「反軍思想」の持ち主であり、その思想に関する読書好きで勉強好きなのを、入営前からあらかじめ知っていたのだろう。教練予定表を作成する事務にまわしてくれ、しかも短時間で終わる業務を時間をかけてやれとアドバイスしている。同書より、再び引用してみよう。
  
 特務曹長はわたしに前期の予定表の見本と、その他必要な書類や用紙や文房具などをよこしてから、「書類は班内で作ってよろしい。あまり急ぐ仕事ではないから、一時間でできるものは一日で、一日でできるものは三日か四日かかって、丁寧にやれ。但し、班の兵が教練に出るまでは、忙しそうに仕事をしておれ。兵が出てしまえば、寝転んでいようと、本を読んでいようと、それはお前の勝手だ。要は上手にやることだ」/まるで、わたしの心中を見抜いているようなご託宣である。願ってもないご用命だった。わたしは人の好い特務曹長の指示通り、一時間でできる仕事は一日がかりで、一日でできる仕事は三、四日がかりで書類を作った。
  
 立野信之は業務を短時間で片づけると、手箱の中から持参した無政府主義者・クロポトキンが書いた『倫理学』を取りだし、せっせと読書にはげんでいた。
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 しばらくすると、兵隊たちの所持品検査が実施された。軍隊の「所持品検査」は、私物になにを持ちこんでいるかではなく、官給した物品を遺失せずにちゃんと手もとに揃えているかの検査だ。立野信之は、クロポトキンの書籍をうっかり官給品の手箱の中に入れっぱなしにしておいたので、すぐに見つかってしまった。
 ところが、横尾特務曹長は手箱からその本を見つけるや、検査の責任者である権藤少尉に聞こえるよう「クロパトキン将軍のあらわした本かね?」(同書)と立野に訊いてきた。クロパトキン将軍とは、日露戦争が勃発したときにロシアが構築した旅順要塞の司令官だった人物だ。もちろん特務曹長は立野をかばうため、わざと「クロポトキン」を「クロパトキン」に置きかえ、とっさの機転で検査官の耳に入れたのだろう。だが、陸軍士官学校Click!を卒業したばかりの権藤少尉には通じなかった。以下、つづけて引用してみよう。
  
 (少尉は)つと手をのばして特務曹長から本を取り上げ、チラッと一瞥してから、/「こういうものを持ってちゃいかん!」/本を取り上げたまま、さっさとつぎの兵の所持品の点検に移った。/あとで権藤少尉に呼ばれて行くと、少尉は頤を突き出して、/「こういう本を内務班で読んではいかん……読みたかったら、オレの部屋で読め」(カッコ内引用者註)
  
 こうして、アナキズムの本は少尉の居室でなら自由に読んでいいことになった。
 おそらく、立野信之の上官だった横尾特務曹長や権藤少尉は、のちに陸軍皇道派と呼ばれるようになる、社会主義に共鳴していた若き軍人たちではなかったかと想定することができる。したがって、アナキズムにかぶれている立野のことは入営前から把握しており、近しい思想の持ち主として目をかけたのかもしれない。
 立野信之は、2年間の兵役義務を終え1等卒の階級で除隊することになった。このときも、横尾特務曹長らは彼を「上等兵」として除隊させようと奔走している。上等兵卒だと、軍人恩給の額が1等卒よりもかなりいいため、いくらかでも生活の足しになるからだ。結局、上等兵卒は上部で認められなかったが、彼ら軍人たちが立野信之に見せた好意は、軍国主義が横行する昭和の陸軍ではありえない、大正時代ならではの光景だろう。のちに、立野信之が二二六事件Click!を主題に本を書くが、このときの体験が大きく影響しているとみられる。
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 立野信之が「文芸戦線」に小説を書くようになってから、権藤中尉(少尉から昇進)とは、横光利一に連れられて入った新宿三越裏のカフェ「ミハト」で再会している。180cmの大丈夫で、佐倉では「連隊一の暴れん坊」といわれた権藤中尉は、立野を見つけると「おう!」と声をあげて近づき、「盛んに書いとるじゃないか」と彼の肩を親しげにたたいた。「文芸戦線」に目を通し共感している権藤中尉は、まちがいなく陸軍皇道派の士官であり、のちに起きる二二六事件Click!ではなんらかの役割りを演じていたのではないだろうか。

◆写真上:新宿駅東口の、淀橋区角筈1丁目1番地にあったカフェ「ミハト」跡の現状。
◆写真中上は、戦前の絵葉書にみる銚子の犬吠埼灯台。は、佐倉歩兵第57連隊の兵営に設置された門衛。右手に見える建物が、立野信之と飯田徳太郎が面会した門衛所。は、1933年(昭和8)2月21日に小林多喜二Click!の通夜で撮影された立野信之。その周囲には、落合地域ではお馴染みの人々がとらえられている。
◆写真中下は、1935年(昭和10)2月21日に神田の中華料理店「大雅楼」で開かれた「小林多喜二を偲ぶ会」記念写真の立野信之。は、「文芸戦線」の1927年(昭和2)5月号()と、1929年(昭和4)11月臨時増刊号()。は、1962年(昭和37)出版の『青春物語―その時代と人間像―』(河出書房新社/)と、戦後の撮影とみられる立野信之()。
◆写真下は、1938年(昭和13)ごろに作成された「火保図」にみる新宿駅東口のカフェ「ミハト」。(新宿歴史博物館「新宿盛り場地図」より) は、ほてい屋デパートの屋上から眺めた新宿カフェ街一帯。は、昭和初期に撮影された新宿三越裏の新宿カフェ街。このまま正面の新宿三越のほうへ歩いていくと、右手にカフェ「ミハト」があるはずだ。

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