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落合地域の旧家に嫁いだ女性。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)に、19歳で落合地域の旧家に嫁いできた女性は、いったいどのような生活を送っていたのだろうか。いつもご紹介するのは、大正期から拓けたモダンで新しい落合地域の姿だが、昭和初期でさえ近郊農村の面影を強く残していた同地域には、江戸期から連綿とつづく旧家があちこちに存在していた。そこでは、オシャレでモダンな洋風生活とは、まったく無縁な生活が営まれていた。
 上落合189番地に嫁いだ、宇田川利子という女性の証言を聞いてみよう。彼女が生れたのは、旧・神田上水をはさんだ戸塚町上戸塚(現・高田馬場3丁目)で、嫁ぎ先である上落合側が地形的に少し低いため、婚家から実家が望見できたということなので、ほんの数百メートルしか離れていない旧家に嫁いだということになる。
 1909年(明治42)に生れた彼女の子ども時代は、落合地域やその周辺域で生まれた子たちと同じように、自然の中で思いきり遊びながら育っている。実家は、1916年(大正5)ごろには農家をやめていたというから、嫁ぎ先の宇田川家と同様に当時は上戸塚の地主だったのだろう。少女時代の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が発行した、『新宿に生きた女たちⅢ』所収の宇田川利子「落合の旧家に嫁いで」から引用してみよう。
  
 子どものころ、夏は神田川や妙正寺川で男も女もいっしょくたで川遊びしました。流れがさらさらしていて、とてもきれいだったんです。長女ですから弟たちを連れていって面倒みました。兄弟中で私だけが女だったんですの。(中略) 子どもの大事な仕事は水汲みでした。井戸から水汲んで、お風呂や台所まで手桶で運ぶんですよ。台所には大きなかめが二つあって、煉瓦づくりのへっついが二つ並んで間に穴があいていて、一つにはいつも茶釜にお湯が沸いてました。(中略) 小学校を終えてから、牛込矢来の岩佐女学校まで四キロの道を歩いて通いました。当時、上の学校に行けたのは四〇人中五人ぐらいでしたね。子守に出たり、高等科出て袴はいて電話局に勤めた人もいました。そのあと、お嫁に行くまで戸塚裁縫塾にお裁縫習いに行きましたの。男や女の袴、訪問着、綿入れ丹前、何でも縫いましたね。
  
 戸塚裁縫塾のほか、彼女は東京の娘らしく長唄を習いに、千代久保橋Click!のたもとにあった師匠宅へ通っている。その帰り道、彼女は夫の父親である宇田川忠蔵に見初められ(夫に見初められたわけではない)、結婚話がトントン拍子に進んでいった。もちろん、彼女のまったく知らないところで、親同士が勝手に決めた結婚だった。
 見合いは彼女の実家で行われ、夫となる男性とその義母(後添え)、それに仲人がやってきてほとんど結婚の日どりまでが決められてしまった。彼女は髪を乙女島田に結い、髷(まげ)に花櫛を指して前に花簪(かんざし)、うしろに銀の平打ち(簪)を指して見合いの席に出ている。これらの小間物のうち、おそらく櫛と銀の平打ちは江戸期からの細工もので、母親の持ち物だったのではないだろうか。
 1928年(昭和3)1月に見合いをし、3月にはもう結婚式の段取りになっているが、その間、将来の夫となる男とは一度も逢わせてはもらえなかった。結婚式当日は、朝から近所の髪結いがきて支度をし、お披露目のために俥(じんりき)の幌を外して両親や親戚数人と列をつくって上落合に向かっている。小滝橋Click!までくると、嫁ぎ先に出入りする半纏を着た職人たちが、「宇田川」の名が入った提灯をもって出迎えていた。上落合189番地の宇田川家の門には、家紋入りの高張提灯が設置されていて、両親や親戚一同は表玄関から入れるが、嫁の彼女は内玄関からしか入れてもらえない。ちなみに、上落合189番地の宇田川邸は村山知義・籌子アトリエClick!の東隣り2軒めの家だ。
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 結婚式を挙げる部屋には、御簾が下げられ大神宮と八幡、御嶽Click!の3社が奉られていて、夫になる男性は床の間の前に座っていた。神主からお祓いを受ける神式の結婚式だったが、この神主は宇田川家の北隣り、当時は上落合200番地にあった月見岡八幡社Click!(戦後に約80m北へ遷座/現・八幡公園)からきていたのだろう。翌日は親戚まわりで、挨拶をしに宇田川本家から親戚一同、檀家寺、氏神の社などを俥で次々とまわり、3日目には彼女の実家への里帰りということで、やはりお披露目から俥の幌を外し大勢の親戚一同を引き連れて上戸塚の家へ挨拶に出向く。そして、4日目には落合町役場へ婚姻届けを提出しに出かけて、ようやく結婚の儀式が終わるという段取りだった。つまり、結婚式とその披露をするのに4日間も費やしたことになる。
 夫となった人物は、蔵前の東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業して、近くの戸山ヶ原Click!にある陸軍科学研究所Click!に勤める技師だった。日米戦争の開始と同時に陸軍技術少佐になったが、軍機Click!だらけの危うい仕事Click!をしていたせいか、仕事の内容については結婚後も、そして敗戦ののちも沈黙して妻に語ろうとはしなかったようだ。
 結婚当初、婚家の姑は後妻であり先妻との間でできた子が3人(先妻の長男が結婚相手)、後妻の子が3人の計9人家族の大所帯で、彼ら日常生活の面倒は姑と彼女がすべてみることになった。彼女も3人の子どもを嫁ぎ先で産んでいるので、最終的には12人の家族の面倒をみなければならなかった。宇田川家では舅が圧倒的にワンマンで、彼女が作ったことのない料理にまごついていると、「赤飯も焚けなくてそばも打てなくてよく嫁にきたものだな」と、さんざん小言をいわれた。彼女が産んだ子どもが、ふたりともつづけて女子だったので、さっそく舅に「今度女だったらお嫁さん取り替える」といわれている。
 夫の給料はすべて舅に“提出”し、夫婦は毎月20~25円の“お小遣い”をもらって生活していた。当然、それだけでは生活に足りず、実家から持ってきた着物などをやりくりしながら不足分を捻出している。子どもが小学校に上がるときに、なにひとつ買ってあげられないことに改めて愕然としたようだ。夫と話していると、「ぺちゃぺちゃ話をするな、新婚でもでれでれするな」とすぐに舅から叱責が飛んできた。
 裁縫塾を出ているので、家内の縫い物はすべて彼女の仕事になった。大家族なのでいくら縫っても縫い足りず、その数は1,000枚をゆうに超していた。
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 手だって職業病の手になってしまいましたの。こうやって仕事するから二本ずつくっついちゃって間が離れてくっつかないんですよ。こっちの手なんか腱鞘炎になってしまいましたの。体が丈夫だから続いたんだと思いますよ。/子ども寝かしつけてから、一〇時になっても、背縫の一本でも縫っておかなくてはって、電気の笠をずーっと下におろしてきて縫うんです。それでも近所の奥さんと話ができる訳もなく、よく私、ノイローゼにならずにすんだと今になると思いますよ。夜中にかい巻きの中に首を突っこんで、声を殺してヒイヒイ泣きました。枕が冷たくなっちゃうんです。枕ひっくり返してまた寝るんです。
  
 毎日の買い物はすべて姑がして、彼女はこれを煮るあれを焼くという指示どおりに働くだけで、彼女自身の好みはまったく反映されなかった。女は家の中にいるのがあたりまえで、満足に外出さえさせてもらえなかったようだ。
 やがて姑が死ぬと、舅はふたりめの後添えと結婚し新たに子どもが生れた。そのせいか、舅の関心は後添えとその子どもに向かい、ようやく彼女はひと息つける生活になったようだ。そんな中で、彼女はレコードを聴く楽しみをおぼえた。舅が持っていた蓄音機からは、童謡や軍歌などが流れていたが、それに合わせて歌うのが楽しくなった。
  
 父は孫の男の子がかわいくて、かわいくて、外へ出さなかったんですよ。それでレコード聞かせてたんですね。それが私も楽しみになりましてね。/それやこれやしているうちに、私の哲学ができちゃったんですよ。一日が終わって真っ暗になって、真夜中の突き当たりまで行っても、朝になって薄い紙一枚ずつでも世の中明るくなるのだから、自分もそのつもりにならなきゃねって。「心に太陽、唇に歌を」って思ったの。
  
 豊多摩郡落合町の300年つづいた旧家の家庭環境は、江戸東京の町場における家庭環境から見れば、当時でさえ「信じられない」ような光景だったろう。農家の柱は体力のある男であり、一家のマネジメントを女性が手がける町家の家庭生活とは正反対の規範が、昭和に入ってからもいまだ郊外ではつづいていた。もっとも、農家でも女性が一家のマネジメントを握るケースもよく耳にするので、宇田川利子のケースを東京郊外の農村家庭として、いちがいに一般化することはできないかもしれないが……。
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 上落合186番地の村山アトリエClick!では、電気冷蔵庫に電気洗濯機、電気掃除機など最先端の輸入家電を駆使して合理的な結婚生活Click!を送り、米国雑誌を読みながら健康トレーニングを欠かさない村山籌子Click!が生活する、わずか2軒隣りの宇田川家では、江戸期と大差ない封建的な「農村的生活」を送る宇田川利子が暮らしていた。いかにも元・農家とモダンな近代建築が混在する、東京郊外の新興住宅地だった落合地域ならではの情景だろうか。

◆写真上:旧・月見岡八幡社に隣接していた、上落合189番地の宇田川忠蔵邸跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる宇田川忠蔵邸。は、第1次山手空襲の直前である1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真にみる宇田川邸とその界隈。は、1927年(昭和2)ごろに撮影された妙正寺川。
◆写真中下は、1933年(昭和8)撮影の結婚式のとき俥(じんりき)でわたった木製の小滝橋。は、夫婦が婚姻届けを提出した1932年(昭和7)撮影の落合町役場。は、1928年(昭和3)に撮影された上落合の旧家(福室家)の葬儀風景で、江戸期とさほど変わらない形式で営まれていた。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗4-落合地区篇-』1994年より)
◆写真下は、1932年(昭和7)撮影の宇田川家ではもっとも古い下落合1792番地の宇田川傳五郎邸。は、1992年(平成4)に解体された上落合の茅葺き福室家住宅。(同上)

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