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1963年(昭和38)ごろの「地番変更案」地図。 [気になる下落合]

丁目境界案図面.jpg
 元・東京都職員のお宅から、面白い青焼き資料が見つかった。1965年(昭和40)に地名および地番変更が行われる直前に作成された、下落合中・西部、上落合、そして西落合の地番変更計画案図面だ。これらの地域は、同年に地名(町名)・丁目・地番変更が行われているが、下落合の東部(現・下落合1~4丁目)はいまだ手つかずで、1971年(昭和46)に丁目と地番の変更のみが行われている。
 なぜ、この計画図面が当時の新宿区の元・職員宅ではなく、東京都の元・職員宅にあったのかは不明だ。地名(町名)や地番の変更は、地元自治体が実施する事業であり、東京都は直接関係していない。だが、上下水道や河川管理の関係から、新宿区は計画案について東京都と情報共有し連携していた可能性はある。計画案がある程度まとまったところで、区が東京都に提供した資料の一部が、今日まで職員の自宅に眠っていたのかもしれない。あるいは、当初は新宿区の職員だったが、東京都へと転勤したものだろうか。いずれにせよ、当時はおそらく極秘の資料として扱われていたとみられる。
 計画案のベースに使われている青焼きの地図を観察すると、おそらく1960~1963年(昭和35~38)ごろに作成された1/5,000市街地図であり、1964年(昭和39)に行われた東京オリンピックを前提に、東京の地名は「わかりにくいし恥ずかしい」などという、営々とした歴史がこもる自国の地名文化へ自虐的に泥を塗る行政Click!のもと、東京じゅうが町名改変Click!の愚策にさらされようとしていた、一連の動向時期と一致する。
 ただし、この青焼き図面を参照すると、下落合中・西部と上落合、西落合の丁目割りはだいたい現状と同じだが、各町名はそのままで変更されていない。つまり、下落合には「中落合」や「中井」Click!という新町名はいまだふられておらず、2000番台におよぶ下落合の地番および新たな丁目区画だけを整理し、新しい丁目・地番表示案として企画している途中段階の図面だったことがわかる。下落合の地名のままなら、のちに策定される下落合東部の4つの丁目を合わせれば、従来の下落合1~5丁目から倍増する下落合10丁目までが計画されていたことになる。
 また、手書きの赤鉛筆で記載された新地番と境界ラインだが、現在の地番とを比較してみると、ある地域では一致していたり、番号が微妙に数番ずつズレていたり、あるいはまったく一致していなかったりするのは、あくまでも地番変更の企画案だからであり、当時は計画中だった道路建設や再開発のプランにより、当該地域がどのように変わるか不明だったことにもよるのだろう。そのような地域には、赤鉛筆による新たな地番案が書き加えられておらず「空白」のままで、今後の検討課題として残されていた様子がうかがわれる。
 そして、実際に道路建設や再開発の計画が見えた時点で、改めてそれらを意識した地番がふり直されているのだろう。先述した、現状の地番との微妙なズレや不一致は、そのような検討課題がある程度クリアされた時点(このあたりが都と区の連携課題だったろうか)で、改めて地番がふり直された結果だとみられる。
 加えて、青鉛筆でふられた通し番号と描かれた丁目の境界ラインも、現状とはかなり異なっているエリアがある。たとえば、1960年代前半には十三間通り(新目白通り)Click!は計画中のエリアが多く、工事が実際に進捗するのは1965年(昭和40)からだが、そのエリアでの丁目境界が曖昧な状態のままだ。現在の「中落合」と名づけられた2丁目(北側)と1丁目(南側)の境界は、十三間通り(新目白通り)を境にしている。だが、この計画案の図面では、落合第一小学校Click!から西坂Click!へと抜ける道路が、2丁目と1丁目を分ける境界として設定されている。そして、道路計画が予定されているエリアには新たな地番がふられず、「空白」地域のままとなっている。
丁目境界案下落合.jpg
 また、丁目を区切るように青鉛筆で書きこまれた整理ナンバーは、落合地域では78番にはじまり90番で終わっている。この番号は、同時期に町名・丁目・地番変更が行われていた、新宿駅周辺の角筈(現・西新宿)や柏木(現・北新宿)など、新宿区の南側からつづく通し番号だと思われ、90番の西落合2丁目で終わっている。詳細は、以下の通りだ。
丁目図版.jpg
 この表をご覧になって、カンのいい方はもうお気づきだろう。行政側は、「上落合」と「西落合」の両地域については、町名をあえて変更する意思がなかったように見える点だ。それは、丁目の整理ナンバーが上落合は80~82番、西落合が87~90番とほぼ降順に並んでおり、ふたつの地域が“ひとくくり”であることを示唆している(ただし、西落合は旧・1丁目と2丁目の境界策定には腐心したらしい跡が見える)。
 ところが、旧・下落合2丁目(聖母坂Click!の西側に食いこんだ旧・下落合2丁目の西端域=現・中落合2丁目)から、稲葉の水車Click!があった落合公園のある旧・下落合5丁目までは、整理ナンバーが今日の町名にかかわりなく、あちこちに飛んでバラバラなのだ。つまり、この地域を「下落合」以外の町名にするかどうかは未定で、また丁目エリアの“くくり”自体が見えない状態だった様子がうかがえる。
 このように見てくると、この地番変更計画案図面は竹田助雄Click!「落合新聞」Click!が初めて1面トップで「住居表示の諸問題」を取りあげた、1964年(昭和39)9月10日よりも以前に策定されたものだと想定することができる。この記事の時点では、すでに落合第一出張所と落合第二出張所(ともに現在の地域センター)で住民説明会が開かれており、新宿区側にはある程度の試案ないしは素案ができあがっていただろう。同図面は、それらの試案ないしは素案を策定した資料の一部ではないかとみられる。
 新宿区では、あらかじめ線引きした丁目境界を住民に提示したようだが、もっとも難航したのが下落合4丁目と西落合1~2丁目(ともに旧・丁目)との境界だった。その困難さを1面トップで報じた、1965年(昭和40)3月8日発行の「落合新聞」から引用しよう。
丁目境界案下落合西落合.jpg
落合新聞19650308.jpg
  
 住居表示作業の現状/難航する町界 西落合と下四丁目
 昨年八月、西落合地区から着手された新宿区住居表示作業は、下落合四丁目との町界で難航を続け、二月二十日現在、上手に示したB案が一応区審議会に上案される運びとなった。/これまでの経過を図にもとづいて辿っておこう。A・Bは問題になった希望案。Cは四・五丁目町会(代表北原正幸氏)が提出した修正案である。外に現状維持を主張する人々も多い。/旭通り商店街をサワ薬局で左折するA案とは、区住居表示係の説明によると当局が作業の基準を説明する際に引いた凡よその線。けれども、具体化された場合はここに組織された旭通り商店街が二分されるので、同方面から猛反対を受け、目下この線は鳴りをしずめて(ママ)いる。/境界改正で町名変化を嫌う人びとも少なくなかった。
  
 B案は、目白学園一帯をすべて西落合側に編入してしまうというプランだが、すったもんだのあげく、結局は「現町境」を優先して、一部の境界を道路の形状に沿わせることで決着している。手もとの地番変更計画案図面でも、当初から現町境を優先した線引きがなされており、目白学園は下落合のままになっている。
 記事にもあるとおり、「境界改正で町名変更を嫌う人びと」が実は下落合を中心に大勢いたことは、1965年(昭和40)6月9日発行の「落合新聞」で明らかになる。竹田助雄が行なった、落合地域の大規模なアンケート調査では、実に91.2%の住民が町名変更に反対と回答Click!している。多くの住民たちは、それほど「下落合」の町名には愛着と、後世へ継承すべき重要な史的意義を感じていたのだ。
 さて、都職員宅から見つかった地番変更計画案図面には、不可解な記載も見える。西落合1丁目と2丁目に限り、なぜか5軒の個人邸が採取され、住所とともにその位置が引きだし線とともに規定されている。5邸を挙げると、西落合1丁目293番地の安井邸、同1丁目165番地の白川邸、同1丁目328番地の高城邸、同2丁目351番地の樋口邸、そして同2丁目395番地の〇野邸(おそらく久野邸か吉野邸のどちらか)だ。同図の下落合にも上落合にも、このような個人邸の記載は存在しない。
 これらの邸は、新たに設定されている丁目境界の近いところに位置しているので、当初は境界の指標になる邸を記載したものかと考えたが、白川邸は現・西落合3丁目の内部にあるので、おそらくそうではない。しかも、白川邸と高城邸、〇野邸(久野邸or吉野邸)の3邸は、一度誤って採取した位置を修正してまで規定が繰り返されているので、なにか記載する特別な意味があったのではないかと思われるのだ。これらの邸のご子孫で、なにか事情をご存じの方がおられれば、ご教示いただければと思う。
丁目境界変更案上落合.jpg
丁目境界案西落合.jpg
 入手した地番変更計画案図面は、下落合中・西部と上落合、そして西落合の新たな丁目および地番策定の経過資料だが、1970年(昭和45)が近づくと山手線寄りの下落合東部でも、まったく同様の図面が作成されているだろう。なぜ、下落合の東部が他の地域に比べ、新たな丁目境界と地番の設定に5年ものタイムラグが生じているのかといえば、わたしは十三間通り(新目白通り)工事の進捗が、かなり影響しているのではないかと考えている。

◆写真上:1962年(昭和37)施行の法律第百十九号「住居表示に関する法律」にもとづき、1963年(昭和38)ごろ新宿区で作成されたとみられる地番変更計画案図面。
◆写真中上:79・78・84番=中落合1~3丁目の丁目境界と新地番の計画案。
◆写真中下は、最後まで町界の設定でもめた下落合4丁目と西落合2丁目のあたり。は、1965年(昭和40)3月8日に発行された「落合新聞」の1面トップ。
◆写真下は、80・81番=上落合1~2丁目の丁目境界と新地番の計画案。は、西落合の新たな丁目・新地番計画案で、なぜか個人住宅が5邸採取されている。

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上落合のアトリエからさまよう吉岡憲。 [気になる下落合]

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 1949年(昭和24)4月から、吉岡憲Click!は武蔵野美大や女子美大につづき、日本大学芸術学部の講師を引き受けている。独立美術協会Click!との関係からか、当時は井荻Click!から下落合3丁目1146番地(現・中落合2丁目)の実家Click!にもどっていた、日大芸術学部教授の外山卯三郎Click!からの講師依頼を受けたものだろう。同時期には、下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にアトリエをかまえていた川口軌外Click!とも交流している。
 上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目)の吉岡アトリエClick!から、外山卯三郎邸Click!までは直線距離で約400mほど、一ノ坂沿いの川口軌外アトリエClick!までは約450mしか離れていない。ちなみに、死去する直前の最晩年に交流した下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の松本竣介Click!アトリエClick!にも、直線距離で約540mと近かった。その中でも、外山卯三郎とは日大芸術学部の教員同士ということで交流が深かったらしく、吉岡憲は彼の二女の外山やよひをモデルに雑誌小説の挿画を描いている。
 さて、1949年(昭和24)という年は、吉岡憲が故郷の世田谷区粕谷から上落合へ転居してきた翌年であり、また第16回独立展に『母子像』や『食卓』などが入選して、独立美術協会の会員になった年でもある。展覧会にも積極的に出品しており、美術専門誌からは原稿の執筆や座談会出席への依頼がつづくなど、戦後の仕事は順調なすべりだしを見せていた。また、野口彌太郎Click!や山本正らとともに共同展を開催し、九州の長崎や札幌へ出かけるなどポジティブな活動が目立っている。
 1951年(昭和26)には、戦後初の個展を銀座の資生堂Click!画廊で、翌1952年(昭和27)には日本橋三越Click!で「個展のつどい」を開くなど、この時期の吉岡憲を画業という側面からのみとらえれば、どう見ても順風満帆な仕事ぶりを見せており、わずか5年後に自死するような不吉な影はどこにも見あたらない。むしろ、周囲の画家たちから羨望の眼差しを向けられるような活躍ぶりだった。
 吉岡憲が、1956年(昭和31)1月15日午前1時ごろ東中野駅のすぐ西側、中野区高根町の踏み切りに飛びこんで死亡したあと、新聞記事には「制作のいきづまり」や「表現上の悩み」という、芸術家が自裁した場合によく使われる“ありがち”な理由が報道されている。たとえば、1956年(昭和31)1月17日に発行された毎日新聞の記事を引用してみよう。
  
 画家 吉岡憲氏が自殺/仕事に行詰り? 中央線に飛込む
 独立美術協会の中堅画家吉岡憲氏(四〇)=新宿区上落合一の三二八=は去る十四日夜から行方がわからなくなり、妻きくさんが十六日午後捜査願を戸塚署に出したが、同日夕刻、去る十五日深夜、中野区高根町で中央線三鷹行終電車に飛込み自殺した身もと不明の男が同氏であることがわかった。自殺の原因はさきに雪の八ヶ岳に姿を消した評論家服部達氏と同様仕事の行詰りとみられる。妻きくさんの話によると吉岡氏は数ヶ月前から「ああ、だめだッ」などと悲観的な言葉をもらしはじめ、顔色もしだいに悪くなっていった。きくさんが気にして問いかけても何一つ語らなかったが、仕事に行詰っていたように思われると語っている。/吉岡氏の自殺現場にも自宅にも遺書はなく、家を出てから数時間の行動ははっきりしないが、憲氏はあてどもなく歩きつづけたあと自殺を図ったものとみられる。(後略)
  
 だが、このすぐあと、美術関係者の間では妙な「暗黙の了解」がなされていたような気配がみえる。吉岡憲の死は、飛びこみ自殺ではなく踏み切り事故だったとする(そうしておきたい)「解釈」だ。警察の現場検証や国鉄側の証言などによって、明らかに自殺だと断定されたにもかかわらず、また新聞でも自死だと報道されているにもかかわらず、吉岡憲の遺作展で展示された年譜の最後に「自殺」と書かれていた箇所へ、クレームをつけた美術関係者が何人かいる。これは、いったいどういうことだろうか?
 遺書がなかったために起きた混乱のようにも見えるが、生前の吉岡憲と近しかった人たちが、「踏み切り事故」としたがっている点が気になるのだ。うがった見方をすれば、吉岡憲の自殺は芸術上の悩みなどではなく、きわめてプライベートな要因からだったと認識している友人たちがいて、それを知る人たちがあえて(気をきかせて)申し合わせたように「踏み切り事故」にしたがっている……というようなニュアンスをおぼえる。
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 そのモヤモヤした疑念が、なんとなく氷解したように感じられたのは、吉岡憲の実弟である吉岡美朗が作成した年譜を参照してからだ。もちろん、吉岡美朗は兄の最期について1956年(昭和31)の項目に、「1月15日 午前一時頃、中央線東中野の高根町の踏切で三鷹行き最終電車に飛び込み自殺する」とハッキリ書いている。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』に収録の、吉岡美朗・編「吉岡憲年譜」から引用してみよう。
  
 (1953年11月の項) この頃すでに憲は、病んでいる菊夫人の妄想に疲労困憊していた。/菊夫人の妄想の内容は「実母政江と政江には義父にあたる祖父祐蔵との間で姦淫によって出生した不義の赤子が憲である」というものであった。/菊夫人はこの妄想の話を、何も知らない画家、知人、憲芸術のファンの人たちに吹聴していた。それは取り返しのつかないことであった。言うまでもなく、その妄想を多くの人は事実の出来事として信じていた。/(1954年3月の項) 菊夫人の病状は一進一退する。制作のかたわら看護と生活の雑事に追われる。/憲は制作のために、高校在学中の実妹曙美に菊夫人の健康が回復するまで日常生活の雑事の手助けをしてもらうことにする。/(1955年5月の項) 編者(吉岡美朗)は日大芸術学部美術科へ入学したことから、講師を務めていた憲と菊夫人の間が、精神的にも肉体的にも解決の見出せない状態になっていることを知った。憲は母政江にそのこと(菊夫人の妄想)を打ち明けて、母から厳しく叱責された。(カッコ内引用者註)
  
 つまり、吉岡憲と親しかった美術関係者は、彼の死を聞いたとき菊夫人の「妄想癖」やその言動が原因で、彼が精神的に追いつめられて自死を選んだと、とっさに解釈したのではないか。だから、その原因を家庭内ではなく、他に向けさせるため差し障りのない「制作のいきづまり」や「表現上の悩み」と答えたり、そもそも自殺ではなく「踏み切り事故」だったと強引に説明しようとしたのではないだろうか。
 吉岡憲はこの時期、さかんに耳鳴りと不眠症をうったえて精神安定剤(睡眠薬)を常用していた。「画家は貧乏なのがあたりまえ」という一般論はよく聞かれるが、戦後にたどれる吉岡憲の活躍を見るかぎり、絵が売れずに生活費にもこと欠いて飢えるというような状況ではなく、仕事をして稼ぐそばから菊夫人の治療費や入院費、治療薬代に消えていったというのが実情の生活だったのではないだろうか。
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 また、一方で独立美術協会の派閥争いか、あるいは表現上の対立なのかは不明だが、吉岡憲は同協会でなんらかのトラブルに巻きこまれており、1955年(昭和30)10月末に銀座の日動画廊で開かれた個展のすぐあと、12月中旬になると某画家より独立美術協会の会員を辞めるよう強く迫られていたようだ。そして、このトラブルが引き金になったものか、ひと月もたたないうちに吉岡憲は中央線に飛びこんでいる。
 最晩年の吉岡憲について、もっとも的確に表現したと思われるものに松島正幸の追悼文がある。1956年(昭和31)10月に開かれた「独立美術協会25周年作画集」図録の、松島正幸『謹んで盟友の霊を悼む-吉岡憲君の思い出』から引用してみよう。
  
 (吉岡憲は)苦しみや悲しみや、生活に就いても、人に語ることをしなかったが、我々の生活は、皆、楽じゃなかった。/死の直前の頃は、神経的にかなりひどい衰弱状態だったと思う。彼の口から、二三週間も、一種の夢遊状態のような、自覚しない行動の時間があること、その不安な状態に就いて語られたことがあった。/こうした不安から、自分でも病院に入りたいような口振りで、東大病院の手続きもとったりしたが、やっぱり決断のつかぬままに、あんなことになったことは、今でも悔やまれる。(カッコ内引用者註)
  
 『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』を監修した窪島誠一郎は、吉岡憲が追いつめられていった要因として、「結婚後の一時期精神錯乱におちいった菊夫人への献身的な看護」と、「精神安定剤の多量服用による発作」などを挙げている。
 菊夫人は夫が自裁した直後、家庭内の事情をなにも知らない新聞記者たちに、おそらく「仕事の行きづまりか芸術上の悩みとかありませんでしたか?」と訊かれ、そういえば「ああ、だめだッ」と悲観的な言葉をもらし、顔色もしだいに悪くなっていったと答えている。だが、なにかモノを創る人間が思いどおりに表現できないとき、「ああ、だめだッ」というのは日常茶飯のことだし、顔色がしだいに悪くなっていったのは、不眠症による精神安定剤(睡眠薬)の常用が原因だったのだろうと思いあたる。
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 窪島誠一郎の「吉岡憲の死はやはり自殺だったのでしょうか」という問いに、菊夫人は「……」と黙して語らないが、1970年代にはすっかり恢復していたと思われる菊夫人こそ、夫の死を「踏み切り事故」だったと、ひたすら思いこみたかったのではなかろうか。

◆写真上:第16回独立美術協会展で同協会の会員に推挙されるきっかけとなる、1948年(昭和23)に制作された吉岡憲『母子』。
◆写真中上は、吉岡憲が挿画を描いた雑誌小説で林房雄Click!の『南京の女』と上田暁の『扁平魚』。は、井荻時代に自邸の前で撮影された外山卯三郎一家。吉岡憲の挿画モデルをつとめた、二女の外山やよひが前列に写る。
◆写真中下は、1956年(昭和31)1月17日発行の毎日新聞に掲載された吉岡憲の訃報記事。は、1957年(昭和32)撮影の空中写真にとらえられた東中野駅のすぐ西側に設置されていた高根町踏み切り。中央線の下り電車が偶然、高根町踏み切りにさしかかっているのが見える。は、1942年(昭和17)ごろに撮影された下高井戸時代の吉岡憲。
◆写真下は、制作年不詳の吉岡憲『長谷風景』。は、1953年(昭和28)に制作された吉岡憲『母子』。は、1955年(昭和30)制作の吉岡憲『海女』。

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健康マニアだった村山籌子。 [気になる下落合]

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 現在でも、健康になるためには手間やコストを惜しまない人はいるが、もちろんいつの時代にもそういう人たちはたくさんいた。拙サイトでは、おもに明治末からの健康体操Click!健康療法Click!サプリメントClick!栄養補給飲料Click!、そして怪しげな機器Click!まで、いろいろな健康ブームをご紹介してきている。上落合(1丁目)186番地に住んだ村山籌子Click!もまた、健康増進のためならなんでも試してみる健康マニアだった。
 岡内籌子(のち結婚して村山籌子)は、四国の高松で生まれ育っているが、小学生のときから女学校時代を通じて水泳の選手であり、同地域では「海水の岡内のいとさん」といえば、高松市内ではたいがいの人たちは知っているほどのスポーツウーマンだった。そのせいか、健康な身体はなんらかの努力をしなければ維持できないという、一種の信仰心に近いような観念に迫られていたようだ。
 それを端から眺めていた村山知義Click!には、それらの「健康法」が逆に健康を損ねる行為のように映っていたのだろう。1947年(昭和22)に桜井書店から出版された村山知義『随筆集/亡き妻に』所収の、「我が妻の記」から引用してみよう。
  
 彼女は万事について、一つところにとどまつてゐることのできぬ性格であり、そのため、健康といふやうな、眼に見えぬ、動かぬものに対しても働きかけずにはゐられず、それが働きかけ過ぎるのである。また新しいものが好きで、いろいろのことを率先してやつて見て研究することが好きなのである。その為に、毎日毎日同じやうな健康状態では、健康そのものが陳腐で莫迦らしく見え、何とかそれを増進したい、改良したい、と思ひ出し、いろいろのことを試み出すのである。また思ひ立つとすぐに実行しなくてはゐられない性質で、突如として、突拍子もなく、自分の身体を試験台にして、その健康増進の法を始めるのである。/かくの如き、停滞できぬ性質、研究心、直ちに実践する積極性、挺身する身構え、といふやうな性格は、これは一般的に云つて、極めてよい性格であつて、これがなければ、人生と社会の改良はあり得ない。しかしわが妻の場合はこの性格がかくの如き悲劇の原因と相成つたのである。
  
 村山籌子は、米国の健康雑誌「Physical Culture」の愛読者であり、そこに掲載された医学者の論文や記事を参照しながら、合理的かつ論理的で「最も科学的な」健康法を試みており、俗説や迷信はいっさい信用しなかった。
 たとえば、真冬に氷の張った浴槽に、2分間つかるのが身体によいという説が掲載されると(北欧の健康法だろうか)、目覚まし時計を2分間にセットし、表面の氷をたたき割って浴槽に飛びこんだ。すると、2分後にくちびるを紫色にして出てきたが、その晩から発熱して数日起きられなくなった。しかも、寒中に冷水をかぶって風邪をひき、肺炎になりかかった経験があるにもかかわらず、性懲りもなく同じようなことをして寝ついている。
 反対に、汗を流すのが健康増進には合理的だとなると、今度は高温で熱い湯気がモウモウとこもる風呂場から出てこなくなり、家族が卒倒している彼女を見つけて大騒ぎになった。水をぶっかけて介抱され、ようやく正気にもどっている。
 木製の枕が健康にいいと知ると、さっそく実行して翌朝、首がまわらなくなって変な傾げ顔で現れたり、首を伸ばすのがいいとなると、自分の両手で首を吊った。首をよくねじるのがよいというので、しじゅう首をねじっていたら、脛骨ねん挫で首がまったく動かなくなってしまった。いずれのケースも、家族を巻きこんで大騒ぎになっている。
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 窓を閉めきらず、開け放しにしたほうが健康によいと納得すると、わざわざ自分の寝室の窓に金網を張って寝るようになった。真冬に窓が開けっぱなしなので、さっそく風邪をひいて寝こんでいる。また、梅雨どきになっても窓を閉めずに寝るので、部屋に湿気がこもり肩にリウマチがでて医者の世話になっている。
 これは当時、日本じゅうで流行した健康法のようだが、水をたくさん飲むことが健康には欠かせないという説に共鳴し、「一日一升」が推奨摂取量だったにもかかわらず、彼女は寒中に1日2升の水をガタガタ震えながら飲みつづけ、ついには食道痙攣を起こして食事ができなくなってしまった。おそらく、この症状のときも医者にかかっているのだろう。
 人類は、その進化の過程で柔らかい布団やベッドのようなもので寝るようになったのは、ごく近年になってからの新しい習慣であって、本来は堅い床面で寝ているほうが自然であり、姿勢が悪くなったり背骨が曲がったりして不健康になる大きな要因のひとつになっている。だから、堅い床の上に寝るほうが健康増進にはよいという説に同意して、さっそく板の間にそのまま寝るようになったら、冷えてひと晩のうちに20回もトイレに通うようになり、しまいには腎臓が腫れてぶっ倒れた。
 また、これは現在でもいわれているけれど、1日に少しの時間でも逆立ちをすると、下半身で滞りがちだった血流が解消され、全身の血行がよくなるという説にも彼女は同意した。人間の祖先は、もともと四つ足で歩いていた時代から、常に直立して二足歩行する動物へと進化する過程で、かなり不自然な姿勢を強いられており、さまざまな身体の故障はこの不自然さが原因なのだから、その障害を除去するのに最適なのが逆立ちだというわけだ。彼女はさっそく実行し、鼻血が止まらなくなりつづけられなくなった。
 同書の「我が妻の記」より、再び引用してみよう。
  
 北枕で寝ると磁力の関係上、健康が増進するといふのでずゐぶん長い間続けたが、これは別に害もなかつた代りこれといふ益もなかつた。かういふやうに害もなく益もないと云ふのは成功の部で、殆んどすべての場合、彼女は一つのことを、突然に、しかも執拗にやつて、やり過ぎてしまふのである。一つのことで失敗しても、また新しいことを思ひつくと、今それをしなければ手遅れになる、といふ焦燥心に駆られて断行するに至るのである。/最初の大打撃はそれら幾つかが重なつて実行されたとき起つた。
  
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 健康法を執拗に繰り返すうちに、どんどん不健康になっていく見本のようなエピソードだが、本人にしてみればごく真剣で、健康になるためによけい一所懸命に取り組むのだから始末が悪い。ついに、彼女は入院騒ぎを起こしている。
 窓を開け放し、堅い板の間で寝ているとき、村山籌子は身体にいいという「笹の葉蒲団」を買ってきた。クマザサを細かく切り干して乾燥させたものを、蒲団の中に詰めたもののようだが、日本では古来よりクマザサは解熱や解毒、炎症止め、咳止めなどの生薬として用いられているので、腎臓炎や風邪の予防(窓を閉めベッドで温かくして寝れば、別に予防の必要はないと思うのだが)のために購入したのではないだろうか。でも、生薬としてのクマザサは干した葉茶やエキスとして服用するのが常であり、パンダではあるまいし「笹の葉蒲団」にそのような効用があるとは思えない。
 結果、蒲団に詰められた干しクマザサの塵埃を毎晩吸いつづけ、それが肺に突き刺さって炎症を起こし、肺病を発症してしまった……と彼女自身は分析している。しかも、肺の調子が悪いところへ、米誌「Physical Culture」に掲載されていた元・世界ヘビー級チャンピオンのジャック・デンプシーが推奨する健康体操を、1日1回でいいところを1日5~6回も繰り返してぶっ倒れている。そのとき、洗面器いっぱいの喀血をともなっていたので即入院となった。だが、食事療法にも凝っていたため、入院先の病院で出される食事は菜っ葉とご飯を除いて受けつけず、入院しているにもかかわらず症状が徐々に悪化している。この間、彼女と病院側との間でかなり激しい紛争があったようだ。
 ようやく病院食を摂るようになって回復し、なんとか退院すると病院で出された薬はまったく飲まず、高松で薬局の娘として育ったせいか薬品には非常に詳しく、近所の薬屋へ出かけて自分でいいと思う薬を買ってきては飲み、新薬が開発されたと聞くと副作用も気にせず、すぐに試してみたりしている。そして、再び入院しては退院しを繰り返し、三度めにはとうとう病院から「奥さんには手こずるから来んで下さい」と入院を拒否され、気胸療法による自宅治療になってしまった。
 村山籌子のこの性癖は、空襲で自邸が焼けた戦争をはさみ、鎌倉の長谷へ疎開してからもまったく変わらなかったようだ。医者のいうことを聞かないだけでなく、逆に医者へ治療法や投薬などについて説教をすることもめずらしくなかった。米国の最新情報で「理論武装」していた彼女は、おそらく日本の開業医が知っている以上の知識を仕入れていたとみられ、医師が逆に最新のビタミン療法などについて相談するようなこともあったらしい。
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 健康を維持するためには、手間ヒマやコストを惜しまずなんでも試みた村山籌子だが、夫が出張中だった1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!上落合が焦土Click!と化した際、炎と煙のなかを一晩じゅう逃げ惑ったあと肋膜炎の発症がきっかけで体調を崩した。そして、作家としてはこれからという円熟期に入る直前、疎開先の鎌倉町長谷大谷戸253番地(現・鎌倉市長谷5丁目)で1946年(昭和21)8月、弱冠44歳で急逝している。

◆写真上:村山籌子も散策したとみられる、疎開先だった長谷大谷戸の尾根上を通る大仏裏ハイキングコース。佐助稲荷の近くを通り、高徳院の裏へと抜けられる。
◆写真中上は、村山籌子が毎月欠かさず愛読していた米国の代表的な健康雑誌「Physical Culture」で1922年(大正11)の7月号()と1930年(昭和5)の4月号()。は、同じく「Physical Culture」の1935年(昭和10)の10月号()と1938年(昭和13)の8月号()。は、1929年(昭和4)ごろ自邸前で撮影された村山籌子。
◆写真中下は、首がまわらなくなった木製枕。は、1945年(昭和20)4月6日に撮影された空襲50日前の村山アトリエ。は、同所界隈の現状。
◆写真下は、下落合にも多く自生するクマザサ。は、自邸のリフォーム中に下落合735番地のアトリエClick!で撮影された村山夫妻。は、鎌倉市の長谷大谷戸にある長谷隧道。隧道を抜けると、鎌倉幕府の北条氏が館をかまえた北条氏常盤亭跡がある。

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今年こそは正式に日本橋雑煮。 [気になる下落合]

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 いまから10年ほど前、娘に「日本橋雑煮」Click!の作り方を伝えるために、調理法を書いた記事を拙ブログにアップしたことがある。ただし、江戸期からの伝統である本来の鴨肉ではなく、あっさりとした鶏肉を代用したレシピだった。わたしの母親もそうだったが、鴨肉は鶏肉に比べて脂肪分が多いため、雑煮が少し脂っぽくなってしまうので家族が嫌うのと(ただ、鴨肉の脂肪は鶏肉の脂よりしつこつなくあっさりしている)、煮すぎると肉が固くなってしまうため、いまでは扱いやすい鶏肉を代用することが多い。そして、なによりも冬場のいい鴨肉は高価で手に入りにくい事情もある。
 1926年(昭和元)の押しつまった暮れに、下落合661番地の佐伯祐三Click!邸へ正月の雑煮用にと、(城)下町Click!から丸ごと1羽の野生鴨Click!が歳暮としてとどけられている。送り主は、もともと尾張町(銀座)で開店していた佐伯米子Click!の実家(池田家Click!)、ないしはその姻戚筋ではないかと思われるが、記録資料の表現が曖昧で送り主を厳密には規定できない。もし池田家の姻戚関係だったとすれば、日本橋と同様に尾張町(銀座)でも雑煮のメインとなる具材は鴨肉だったことになる。
 「東京雑煮」などというワードを、最近よくネットや雑誌などでときどき見かけるけれど、そんな雑煮はこの世に存在しない。大江戸(江戸後期に拡大し、東海道の品川と甲州街道の内藤新宿を呑みこんだ朱引き墨引きの内側)の(城)下町といってもかなりエリアが広く、各地域や街ごとに雑煮の具材や作り方は異なっていたはずで、深川の雑煮と四谷の雑煮、下谷の雑煮と麻布の雑煮、品川の雑煮と落合の雑煮とが同じだったとは到底思えない。それぞれ、地域の特色や生産品などに見あった、その地元ならではの雑煮が作られていたはずで、日本橋と尾張町(銀座)のメイン具材が鴨肉だったとみられるのは、おそらく江戸期に拡がった両地域における食習慣のひとつなのだろう。
 たとえば、現在の新宿区の片隅にあたる落合村(町)ひとつとってみてもけっこう広い。大江戸期にあった3つの村が併さったもので、約81万3,492坪(約2.7km2)ほどの広さがあるが、それでも新宿区全体からみればわずか14.7%ほどの面積にすぎない。でも、そこで食べられていた旧・下落合村の雑煮と、旧・上落合村や旧・葛ヶ谷村(のち西落合)の雑煮とが、まったく同一だったかどうか正確にはわからない。
 戦前、落合村(町)の地元で作られていた、雑煮の記録が残されている。1989年(平成元)にコミュニティおちあいあれこれが発行した、『おちあい見聞録』より引用してみよう。
  
 お雑煮、神様にお供えする三が日の神事はすべて家長がします。八つ頭(里芋)は茹でておいて一日分だけ細く切り、お餅とうす塩の味をつけて、お神酒と一緒に神仏・稲荷・荒神・石仏などにお供えします。/家族のお雑煮は神仏用の中に鶏肉と野菜を入れ、お節料理と併せて「おめでとうございます。」と、新年の挨拶をしてからいただきました。
  
 正月料理を男が作るのは日本橋地域と同様だが(文中の家長=男だとすればだがw)、雑煮に八つ頭あるいは里芋は入れない。(ちなみに女子たちは、炬燵でぬくぬくとミカンや菓子などを食って、おしゃべりしながら除夜の鐘でも聞いてるのだろう。平和な東京の風景だけれど、少しは手伝ってくれ。/爆!) ただ、鴨肉の代用かどうかは不明だが、とりあえず鶏肉を用いるのは同様のようだ。出汁の詳細がわからないが、「うす塩の味」だったとすれば、日本橋地域のしたじ(醤油)をベースにした雑煮とは明らかに異なっている。この雑煮の作り方は、同資料の性格から落合地域西部の、地付きの家庭ではないかと思われる。
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 さて、新型コロナ禍がつづく今年こそは、験なおしに正式な実家の雑煮を作ろうと張り切っていたのに、正月三が日に作って食べた雑煮は鶏肉入りだった。暮れに注文していた鴨肉の到着が、物流の混雑で遅れに遅れて6日になってしまったのだ。しかたがないので、9日からの3連休で再び雑煮を作ることになった。以下、鴨肉を用いた日本橋雑煮のレシピを、改めて記録しておきたい。
 まず、鴨肉の香ばしさを引きだすため、あるいは余分な脂肪分を抜くために、鴨肉をフライパンで焙(あぶ)って下ごしらえをしておく。鶏肉とは異なり、かなりの脂肪が冬場の鴨肉からは滲み出るだろう。(①-1~4) 次に、具材となるダイコンやニンジン、シイタケなどを細く刻み、まとめてボールに入れておく。(②-1~4) その間に、鍋には酒と水と昆布、そして鰹節をたっぷり入れた出汁を作っておく。
 沸騰した鍋の出汁に塩を少々加え、ボールの野菜やシイタケを入れて、浮かんできた灰汁(あく)をていねいに取り除く。() 灰汁を取り終えたら、本醸造の濃口醤油(なければ出汁醤油でも)を適量と味醂(みりん)を少々、隠し味に三温糖を少し加え、煮汁が黄金(こがね)色になるよう味をととのえる。() 次に、先ほどフライパンで焙っておいた鴨肉を、薄めに切っておく。自然の中で育った地鶏もそうだが、肉を厚めに切って煮ると固くなり、歯が悪い人や子どもにはつらいので薄めに切るのがコツ。() ついでに、鍋へ最後に加える長ネギも切っておく。()
 鍋のダイコンやニンジンが、やわらかくなったころを見はからって鴨肉を投入。野菜のときと同様に、浮かんできた脂肪や灰汁をていねいに取り除く。特に浮いた脂肪を小まめに取ると、脂っぽさが減ってよりあっさりサッパリした雑煮ができる。()
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 鴨肉を入れた直後から、雑煮のトッピング用に小松菜かほうれん草を茹でておく。(⑧-1) 江戸期には、まちがいなく葛西ものの小松菜が使われたのだろうが、わたしは少し甘みのあるほうれん草のほうが好きなので(うちの母親もそうだった)、茹であがったあとのほうれん草は適当な長さに切っておく。また、椀に入れる香りづけのユズ皮や、トッピング用の三つ葉も同時に用意しておく。(⑧-2) 鴨肉は煮すぎると固くなるので、このあたりの手順はとても手早くこなさなければならない。
 最後に、先ほど切っておいた長ネギを加え、同じように灰汁や脂肪を取りながら、塩・醤油・味醂・三温糖などで味を最終的に調整し、長ネギが煮すぎてシナシナにならないうちに火を止める。(⑨-1~2) この時点から、30分~1時間ほど作り置きすると出汁の風味がこなれ、具材に味が馴染んでより美味しく食べられるようになる。
 餅は家に白餅と玄米餅、それに草餅があったので、それぞれ好きずきに焼いて雑煮椀に入れ、雑煮を盛る前にユズの皮も入れておく。(⑩-1~2) 作り置きした鍋を温め直し、熱々の雑煮を椀に盛ったあと、ほうれん草(正式には小松菜)と三つ葉をトッピングしたら、ハイッできあがり。() 作る量にもよるけれど、写真の鍋ぐらいのサイズだったら、おそらく雑煮自体は30~40分ほどでできるだろう。
 鶏肉とはちがい、鴨肉はかなり出汁の表面に脂が浮くのだが、香りがいいのであまり気にならないだろう。でも、雑煮を食べるのが大人数の場合は、鴨肉だとあらかじめフライパンでよく焙ったり、スライスのしかたに気をつかったり、浮いた油を小まめに取り除いたりと、けっこう手間ひまがかかるので、鶏肉のほうがあまり面倒がなく作りやすいかもしれない。今年の正月は、9人分の雑煮を作るハメになったのだが、正直、鴨肉の到着が物流の渋滞で遅れてくれて「正解」だったような気がする。
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 1927年(昭和2)の正月、歳暮の鴨肉を使って佐伯米子Click!ないしは池田家の親戚女子が作り(佐伯祐三自身が台所で雑煮を作ったとは思えない)、佐伯祐三アトリエClick!で食べられていた「尾張町(銀座)雑煮」も、おそらく同じ具材やレシピだったのではないだろうか。

◆写真上:鶏肉の代用ではなく、久しぶりに鴨肉を使った日本橋雑煮を料理。
◆写真中上:1926年(昭和元)暮れに歳暮でとどいた、雑煮用の鴨を描いた佐伯祐三『鴨』。狩猟で仕留められた野生鴨で、雑煮の肉には散弾が混じり「あのな~、なんぼなんでもな~、これ以上の歯欠けClick!は、ほんま、かんにんしてや~」だったかもしれない。
◆写真下:尾張町(銀座)の池田家と、ほぼ同じだったと思われる日本橋雑煮の作り方。同じく銀座の岸田劉生Click!の実家でも、同様の雑煮が食べられていた可能性が高い。

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気のり薄な渡辺ふみ『会津八一像』。 [気になる下落合]

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 1914年(大正3)に制作された、渡辺ふみClick!(亀高文子Click!)の『会津八一像』が現存している。渡辺ふみが会津八一Click!ともっとも近しかったのは、彼女が女子美術学校Click!西洋画科に在学中の1906年(明治39)ごろであるとする資料が多い。同年7月に会津が早大を卒業すると、彼女に求婚したが受け入れられず、失意のうちに故郷の新潟県に帰り、中頸城郡板倉村にある有恒学舎の英語教師になったとする記述も多いが、その8年後の1914年(大正3)でさえ、肖像画が描かれるほどの交流があった様子がうかがえる。
 この間、渡辺ふみは1907年(明治40)に女子美術学校を卒業すると、満谷国四郎Click!のもとへ入門し、満谷や中村不折Click!ら文展画家が主宰していた太平洋画会研究所Click!へと通っている。そこで知り合った宮崎與平(渡辺與平Click!)と1909年(明治42)に結婚するが、1912年(明治45)6月にいまだ22歳だった夫を結核と肺炎で亡くしている。
 渡辺ふみは、1909年(明治42)の第3回文展での入選以来、連続して作品が入選しているが、夫の死後は滅入る気分の転換をはかるためだろう、ふたりの遺児を育てつつ房総半島への写生旅行に出かけるようになった。
 一方、会津八一は故郷の新潟県で教員生活を送り、日々俳句にのめりこむなど文学生活をしていたが、失恋の痛手からか酒量が増えつづけたのか、身体を壊すことが多くなっていた。1909年(明治42)には俳句仲間と玻璃吟社を創立し、「高田新聞」の俳句選者となっている。友人あての手紙には、「小生は深く彼の女を愛し、彼の女も亦た深く小生を慕ひ候ことは、明言するを許されたく候」、「小生は渡辺女史に於て、サツフオーにも劣らざる情熱を感じて千万無量の感に耐へず候」(植田重雄『会津八一の生涯』より)などと書き送っているので、ぜんぜん諦めきれていない。
  我妹子を しぬぶゆふべは 入日さし 紅葉は燃えぬ わが窓のもと
 ちなみに、サッフォーとは古代ギリシャの恋愛詩を得意とする女性詩人のことだ。そして、翌1910年(明治43)9月に教員を辞して再び東京にやってくると、坪内逍遥Click!の推薦で早稲田中学校Click!の英語教師に就いている。
 だが、1911年(明治44)に再び体調を崩し、8月になると房総へ静養に出かけている。さらに、翌1912年(明治45)の7月には腎臓炎が悪化して入院し、同年8月には奈良・京都をまわる旅行に出かけると、ほどなく11月には再び静養するために暖かい房総へと向かっている。おそらく、夫を亡くしたばかりの渡辺ふみと再び接点ができたのは、この静養先の房総旅行ではないかと思われる。
 当時の新聞や雑誌、特に会津八一が目を通したであろう美術誌などでは、有名画家の消息(転居や写生旅行への出先など)が掲載されることがままあるので、すでに名を知られていた文展画家・渡辺ふみの写生旅行を知った八一が、彼女を追いかけて旅先の房総へ「静養」に出かけているのかもしれない。以後、会津八一は渡辺ふみの“追っかけ”(ストーカー?)のように、彼女の出かける先に出没するようになる。
 そもそも、会津八一と渡辺ふみが知りあったのは、1900年(明治33)に新潟から東京へやってきて間もなく、従妹の会津周子も八一を頼って上京し、女子美術学校へ通いはじめてからだ。八一のまわりには、周子を含め女子美に通う女学生たちが集まるようになり、のちに秋艸堂人として下落合で孤高の人生を生きる環境からは想像もできない、女子たちに囲まれた彼の生涯でもっとも華やかな時期だったろう。その女子美学生たちに混じって、ひときわ目立つ渡辺ふみがいた。
 渡辺ふみは、南画家・渡辺豊洲のひとり娘として横浜に生まれ、彼女が女子美術学校へ入学すると通学の便宜を考え、一家をあげて横浜から東京へ転居してきている。明治末の横浜は、東京よりもはるかにハイカラであり、あらゆる生活や風俗が東京よりも進んでいた。そのせいか、渡辺ふみの何気ないしやべり言葉から一挙手一投足にいたるまで、会津八一にはことさら洗練されて見えたのではないかと思われる。後年、曾宮一念Click!に女性の好みを訊かれた八一は、とにかく「美しくなくては……」と答えているのは、渡辺ふみを念頭に置いていたにちがいない。ちなみに、渡辺ふみは父親のつながりからか、鏑木清方Click!のモデルもつとめている。
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 1914年(大正3)になると、会津八一は早稲田大学の英文科講師になり、小石川区(現・文京区の一部)高田豊川町58番地(現・目白台)に転居し、初めて斎号を秋艸堂と名のるようになる。この地番は、小布施邸Click!(目白崖線に通う小布施坂の西側一帯)の南麓にあたり、勤務先の早稲田大学へは旧・神田上水をはさみ直線距離で200mほどだ。この家で、八一は「学規四則」を決めて貼りだした。
 秋艸堂学規
  一、深くこの生を愛すべし
  一、省みて己を知るべし
  一、学芸を以て性を養ふべし
  一、日に新面目あるべし
 「秋艸堂は我が別号なり、学規は吾率先して躬行し、範を諸生に示さんことを期す、主張この内にあり、同情この内にあり、反抗また此内にあり」と、新潟新聞に連載していた『落日庵消息』に書いている。転居とともに、新たな出発の決意を示しているような「秋艸堂学規」だが、内面では寡婦となった渡辺ふみへの諦めきれない切実な想いが、フツフツとたぎっていたのではないかと思われる。
 なぜなら、この年(1914年)に渡辺ふみによる『会津八一像』(冒頭写真)が制作されているからだ。当然、彼女の身近にいなければ肖像画など制作できないし、また強い想いを寄せる八一が強引に彼女へ注文したにせよ、画家のもとへ出かけてモデルをつとめなければ作品を仕上げることはできない。
 『会津八一像』の画面を眺めると、彼女の作品にしてはかなり薄塗りのようで、こってりとして丸みを帯びたいつものマチエール(ふくよかな肉厚感とでも)がまるで感じられない。毛髪や着物の描き方もどこかおざなりで大ざっぱ、よほど気が乗らない仕事だったか、制作時間が足りずに大急ぎで仕上げたか(または急いで仕上げたかったのか)、彼女のていねいなはずのタブローにしてはかなり雑な印象を受ける。
 それに、会津八一が見せている表情が、ふだんの彼の表情とはまったく異なり、タガがゆるんで弛緩しきっているように見える。傲岸不遜の会津八一も、渡辺ふみの前ではこのような哀しげな表情を見せることがあったのだろうか。いくら求婚しても、相手が「はい!」といってはくれない悲哀感のようなものさえ漂っているようだ。
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 1918年(大正7)に、会津八一が37歳で早稲田中学校の教頭になる以前、1914年(大正3)から同年にかけての5年間、彼は頻繁に房総へ「静養」のために出かけている。確かに、再び体調をくずして腎臓を悪くしたりしてはいるが、ほぼ毎年のように繰り返される房総旅行は、どうもそれだけではないような気がするのだ。それは「静養」する以上に、房総のどこかの宿で写生旅行をする渡辺ふみに逢えるかもしれないという、ひそかな楽しみがあったからではないだろうか。
 会津八一が、早稲田中学の教頭に就任した年の4月、渡辺ふみは東洋汽船の定期航路を運航していた貨客船の船長・亀高五市と再婚して亀高文子となり、また同年には女性だけの美術団体・朱葉会を与謝野晶子Click!らとともに創立している。そして、1923年(大正12)には関東大震災Click!が転機となり、夫の転勤も重なり神戸への移住を決意して、東京を永久に去っている。
 1922年(大正10)7月、会津八一は早稲田中学の教育方針をめぐる混乱に嫌気がさし、教頭を辞して同校の一教師にもどると、市島春城Click!の別荘「閑松庵」だった下落合1296番地の和館Click!へ転居してくる。目白崖線の霞坂がほど近い、いわゆる下落合の霞坂秋艸堂Click!だ。渡辺ふみにもようやく諦めがつき、教頭の職も投げうったせいか、「せいせいした」という感慨が漂う歌が『南京新唱』の「村荘雑事」に収録されている。
  かすみたつ をちかたのべの わかくさの しらねしぬぎて しみづわくらし
  しげりたつ かしのこのまの あおぞらを ながるるくもの やむときもなし
 霞坂のバッケ(崖地)Click!に露出した武蔵野礫層の基底から、とうとうと流れでる湧水が目に見えるようだ。カシの樹の間からは、青空にゆっくりと流れる雲が見え、これらの風情が恋愛と仕事に打ちのめされ、疲れはてた八一の心を慰めたのだろう。
 1935年(昭和10)に、下落合(3丁目)1321番地の第一文化村Click!(目白文化村・第9号)に転居し、いわゆる文化村秋艸堂Click!(別斎号を翠蓮亭/滋樹園とも)で暮らすようになってからも、八一を慕うおおぜいの美術家や学生たちが下落合へ通ってきている。
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 もし、渡辺ふみが「はい!」といって会津八一と結婚し、ともに下落合に住んでいたら、彼女はどのような作品を残していたかと思うと少し残念な気もするが、どうしても気が合わない、感性的にも不一致な男女間の機微は、埋めようがないほど深かったのだろう。

◆写真上:1914年(大正3)に制作された、気のり薄な(?)渡辺ふみ『会津八一像』。
◆写真中上は、女子美術学校の正面玄関。は、1908年(明治41)の会津八一()と、1918年(大正7)の渡辺ふみ()。は、会津八一が在学中の早稲田大学教師陣。女学校の記念写真とは異なりブスッとした大隈重信Click!を中心に、高田早苗Click!安部磯雄Click!、市島春城、坪内逍遥Click!島村抱月Click!夏目漱石Click!らの顔が見えるが、八一へ大きな影響を与える小泉八雲Click!(ラフカディオ・ハーン)はいまだ就任していない。
◆写真中下は、1922年(大正11)撮影の落合(霞坂)秋艸堂。は、斑鳩を訪れた八一が法隆寺Click!とともによく訪れた法起寺。最近、観光用のキャッチフレーズから「コスモスの法起寺、カキの法輪寺」などといわれてるらしいが、橙色に実ったカキのイメージは昔から法起寺のほうだ。は、大正末ごろ制作された銭痩鉄『落合山荘(秋艸堂)』。
◆写真下は、1924年(大正13)に神戸の赤艸社女子洋画研究所のアトリエで制作する亀高文子(渡辺ふみ)。おそらく、このアルカイックスマイルClick!会津八一Click!はメロメロになってしまったのだろう。 は、第一文化村の元・安食邸に転居したあと1935年(昭和10)に撮影された文化村秋艸堂の室内。は、2葉とも文化村秋艸堂の会津八一。よく訪れた曾宮一念が記録している、キュウカンチョウClick!とみられる鳥が籠の中に写っている。

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弁慶は薙刀(なぎなた)など持たない。 [気になる神田川]

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 この正月に、面白い絵葉書を2葉いただいた。ひとつは、1926年(大正15)に来日したフランス人の詩人であり、のちに浮世絵の風景画(安藤広重Click!など)に魅せられて画家あるいは版画家になるノエル・ヌエットが描いたスケッチ『江戸川、下戸塚』だ。もうひとつが、やはり浮世絵がらみで月岡芳年が明治期に描いた、『月百姿(つきひゃくし)』シリーズの100枚の中に含まれる1作『月下の斥候/斎藤利三』だ。
 まず、1936年(昭和11)5月(Mai ’36)に描かれたノエル・ヌエットのスケッチ、『江戸川、下戸塚』から観てみよう。彼は、パリに滞在していた与謝野鉄幹・与謝野晶子Click!夫妻に勧められて1926年(大正15)に来日したあと、静岡高等学校と陸軍士官学校でフランス語を教えたが、契約を終えると1929年(昭和4)に一度帰国している。そして、1930年(昭和5)に東京外国語学校(現・東京外国語大学)の招きで再来日すると、1961年(昭和36)に帰国するまで戦争をはさみ、実に足かけ35年間も日本で暮らしている。スケッチ『江戸川、下戸塚』は、二度目に来日してから6年ほどたった年に描かれた作品だ。
 旧・戸塚町の地元にお住まいの方なら、すでにお気づきだと思うのだが、下戸塚(現在の西早稲田から高田馬場2丁目あたりにかけて)に「江戸川」は流れていない。ノエル・ヌエットが描いた当時、江戸川Click!と呼ばれていたのは神田上水Click!の取水口があった大洗堰Click!から下流であり、現在の大滝橋Click!あたりから江戸川橋Click!隆慶橋Click!を経由して舩河原橋から外濠までつづく、1966年(昭和41)から神田川の呼称で統一されるようになった川筋のことだ。したがって、タイトルをつけるとすれば「旧・神田上水」がふさわしく、どうやら少し上流にきてスケッチしているにもかかわらず、ヌエットは江戸川橋つづきの「江戸川」だと勘ちがいしていたものだろう。
 画面には、独特なS字型カーブを描く旧・神田上水の川筋がとらえられており、左側の岸辺には染物工場の干し場Click!が描かれている。そこには、水洗いClick!を終えた藍染めだろうか、5月のそよ風にたなびいている光景が写されている。干し場の下には、染め物工場らしい建物や住宅が密に建ち並んでいる。川筋の右手には、板塀とともに住宅が1軒描かれているが、その背後は樹木が繁る森だろうか、住宅の連なる屋根が見えない。
 陽光は、建物の濃い影などから左手、またはやや左手前から射しており、画面の左側が南の方角だと思われる。すると、干し場にたなびいている染め物生地は、5月という季節がらを考えれば南風の可能性が高い。また、画家の視点は川の真上から、つまり旧・神田上水に架かる橋の上から西の上流(下落合方面)に向かい、スケッチブックを拡げてペンを走らせていることになる。このように観察してくると、旧・神田上水でこのようなS字カーブを描く川筋で、橋の上から上流の蛇行する川筋を眺められる位置、また「下戸塚」という地名をタイトルに挿入できるポイントは、たった1箇所しか存在していない。
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 ノエル・ヌエットは、駒塚橋の上からS字型にカーブする旧・神田上水の上流(下戸塚方面)を眺めつつ、5月の気持ちがいいそよ風にふかれながらスケッチしている。彼の右手、つまり駒塚橋の北詰めには水神社Click!(すいじんしゃ)と、目白崖線に通う胸衝坂(胸突坂)をはさんで東側に関口芭蕉庵Click!が、左手の南詰めからは東京市電が走る十三間通りClick!(現・新目白通り)と早稲田大学の旧・大隈重信邸Click!のある濃い森が垣間見えていただろう。川の左手(南側)に描かれた干し場は、当時の地番でいうと淀橋区戸塚町2丁目237番地(現・新宿区西早稲田1丁目)あたりにあった染め物工場で、川の右手は小石川区高田老松町(現・文京区目白台1丁目)となる。そして、右手に見える住宅の背後は、細川邸Click!の広大な庭園敷地(現・肥後細川庭園)の森林なのは、いまも当時も変わらない。
 彼が『江戸川、下戸塚』を描いたのと同時期、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を観察すると、この情景にピタリとはまる風景がとらえられている。当時、駒塚橋の南詰めには早稲田田圃の名残りだろうか、空き地が多かったことが見てとれる。あるいは、川沿いに工場を誘致のため新たに整地した土地なのだろうか。空中写真には、画面に描かれた干し場と思われる正方形の構築物が白くとらえられているが、この染め物工場の社名は不明だ。だが、この工場はほどなく解体されることになる。1944年(昭和19)に実施された、建物疎開の36号江戸川線Click!にひっかかり、わずか8年後には解体されている。
 ノエル・ヌエットは、東京じゅうの風景をスケッチしているが、それらの作品をもとに浮世絵風の多色刷り版画にも挑戦している。彼は、洋画を石井柏亭Click!について学んでいるが、版画は安藤広重の『名所江戸百景』Click!に触発されていたらしい。川瀬巴水Click!などの新版画を刷っていた土井貞一のもとで、1936年(昭和11)3月から『東京風景』24景を1年間かけて版行している。つまり、『江戸川、下戸塚』が描かれた当時は、土井版画工房から念願の『東京風景』シリーズを出している最中であり、東京を縦横に訪ね歩くスケッチにもより力が入っていた時期だったろう。
 彼は、東京外国語学校のほか文化学院や早稲田大、アテネ・フランセ、東京帝大などでもフランス語を教えているが、戦時中は連合軍側の「敵国人」Click!なので軽井沢へ強制収容されている。戦後は、教師生活をつづけつつ牛込(現・新宿区の一部)に住み銀座で個展も開いているが、1961年(昭和36)にフランスへ帰るか日本にとどまるか最後まで迷ったあげく帰国の船に乗った。おそらく帰国時には、もう一度訪日する気でいたのかもしれない。
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 さて、もう1枚の絵葉書は、1885年(明治18)に浮世絵師・月岡芳年Click!が描いた『月百姿』シリーズの1作で、山崎の合戦を目前にした『月下の斥候/斎藤利三』だ。斎藤利三は、明智光秀の先鋒として活躍した勇猛な武将だが、毛利戦から「大返し」をしてきた羽柴秀吉軍の様子を探りに、円明寺川をわたって斥候に出た姿を描いている。もちろん、高名な武将が危険な斥候に出て敵陣に身をさらすなど考えにくく、江戸期の「三国無双瓢軍扇(さんごくぶそう・ひさごのぐんばい)」など芝居や講談からの影響だろう。
 斎藤利三が手にしている武器は、平安期からつづく騎馬戦を目的とした長巻(ながまき)と呼ばれる刀剣の一種だ。長巻は、鑓(やり)のような長い柄に、反りの深い太刀と同様の長さ(刀剣の「長さ」は刃長=刃渡りのこと)の大段びらをしつらえたもので、平安期末から鎌倉期にかけて発達した武器だ。長さは、騎馬で振りまわしても相手と太刀打ちができるよう3尺(約91cm)前後のものが多く、鎌倉期には長さ5尺(約152cm)もの長巻を装備し、伝説では騎馬もろとも敵の武将を斬り倒す猛者もいたとされている。
 長巻は、扱いに習熟しないとむずかしい重量のある柄物だが、その威力は非常に大きく、相手をひるませるのに十分な体配(太刀姿)をしている。比叡山延暦寺の僧兵たちが、長巻で武装していたのは有名だが、朝廷や公家の館へなんらかの請願(実際は強訴とでもいうべきで脅迫・恐喝に近い)に訪れる際、ムキ出しの長巻を持った僧兵たちを引き連れていったのは、絵巻物などにも描かれて残されている。中世の寺院が武装し威力を誇示するのに、僧兵に持たせるすさまじい長巻は不可欠な武器となっていった。
 そこで、すでにタイトルからお気づきの方もいるのではないだろうか。室町期に書かれた『義経記』に登場する、大力の武蔵坊弁慶が装備していた武器は長大な長巻(ながまき)であって、徒歩(かち)戦が発達しおもに室町期以降に普及した、婦女子にも扱える短くて比較的軽量な「薙刀(なぎなた)」などではないだろう。
 「♪京の五条の橋の上~ 大のおとこの弁慶は~ 長い薙刀ふりあげて~」と、「大のおとこ」で「僧兵」の弁慶が、なんで短くて軽量な女子にも扱える薙刀なんぞを振りまわしているんだ?……ということになる。おそらく、江戸期の長巻と薙刀がゴッチャになった芝居や講談、あるいは明治以降の太刀と打ち刀の区別さえつかない時代劇からの影響だろうか、『義経記』などの伝承とは異なり「むさし」や「ひたち」など坂東武者の匂いがプンプンするふたり、武蔵坊弁慶や常陸坊海尊がたずさえていたのは長巻であって薙刀ではない。
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 まるで千代田城Click!大奥の警護女中のような、薙刀をたずさえた武蔵坊弁慶の姿は、鎌倉時代の武士が「大小二本差し」(打ち刀の大刀と脇指を腰に差す室町以降の、おもに江戸期に見られる武家の姿)をするのにも似て、滑稽きわまりない錯誤だろう。もっとも、弁慶が牛若丸の白拍子のような美貌に惚れてしまい、翻弄されるのを上気して喜ぶ「[黒ハート]どんだけ~!」のヲジサンだったとすれば、薙刀でもおかしくない……のかもしれないけれど。(爆!)

◆写真上:1936年(昭和11)5月に制作された、ノエル・ヌエットの『江戸川、下戸塚』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる駒塚橋と旧・神田上水の界隈。は、駒塚橋の描画ポイントから神田川の上流域(下戸塚方面)を眺めた現状。は、駒塚橋の北詰めにある水神社(左)と胸衝坂(胸突坂)をはさんだ関口芭蕉庵(右)。
◆写真中下は、1885年(明治18)制作の月岡芳年『月下の斥候/斎藤利三』。は、長巻と薙刀のちがいを図化したもの。実際には、長巻は薙刀に比べてもっと長大だ。
◆写真下は、2葉とも鎌倉期の1296年(永仁4)ごろの情景を描いた『天狗草紙絵巻』。同作では公家の館へ、興福寺の僧侶が長巻で武装した僧兵を引き連れ強訴(脅迫)にきている。は、3尺(約91cm)を超えるものもめずらしくなかった長大な長巻。江戸期に大刀として使用するため、刃長を大きく磨り上げられ(短縮され)茎を切断されている。は、江戸期になると婦女子による武術の主流となる薙刀で30~50cm間のサイズがほとんど。
おまけ
 江戸期に茎(なかご)を切られて加工され、大刀として使われていた「長巻直し」。約70cmの長さ(刃長)があるが、もとの長さは80cmをゆうに超えていただろう。長巻直し.jpg

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雑司ヶ谷金山にいた石堂派のゆくへは? [気になる神田川]

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 現在の千代田城Click!の一部城郭に包括されたエリアに、太田道灌が江戸城Click!を構築したのが1457年(康正3)であり、江戸東京は570年近い日本で最古クラスの城下町ということになる。もっとも、江戸城と千代田城とでは規模がまったく異なるため、城下に形成された(城)下町Click!も室町期と江戸期とではケタちがいの規模だ。
 道灌の江戸城が、鎌倉幕府の御家人・江戸氏の本拠地だったとみられるエト゜(岬)の付け根に築かれた室町時代の中期、または全国的に戦乱が激しくなった室町後期から末期、あるいは千代田城が築かれて徳川幕府がスタートした江戸時代の最初期に、おそらく近江の石堂村から雑司ヶ谷村の金山にやってきて住みついた刀剣集団、石堂一派Click!がいたことはすでに記事にしている。
 石堂派が近江から各地に展開するのは、おもに室町末期から江戸初期にかけてなので(刀剣美術史に、いわゆる「戦国時代」や「安土桃山時代」は存在しない)、おそらくその流れの一環として江戸へやってきているとみられる。当時の石堂鍛冶はほぼ4流に分派しており、江戸石堂派をはじめ大坂石堂派、紀州石堂派、筑前石堂派などを形成し、新刀から新々刀(江戸末期)の時代を通じて鍛刀している。
 雑司ヶ谷村の金山に工房をかまえた石堂派は、江戸石堂派の一派とみるのが自然だが、より古い時代(室町期)から住みついていたとすれば、これまでの刀剣史には記録されていない、もっとも早い時期に近江から分岐した石堂一派とみることもできる。1800年代の初めに、昌平坂学問所地理局によって編纂された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)には、石堂派が工房をかまえたのは「土人」(地元民の意)によれば「往古」と書かれている。同書より、引用してみよう。
  
 金山稲荷社
 土人鐵液(カナグソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社辺より鉄屑(鐵液のこと)を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕 元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上段に骸及び國光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならす、(カッコ内引用者註)
  
 この「往古」とされる時代が、記述から200年ほど前の室町末か江戸初期のことであれば、近江の石堂派が分岐して全国に展開した時期と重なり、史的にみても不自然ではないが、「往古」が室町中期のことであれば、石堂派はもっと早くから分岐をしていたことになる。ただし、いつの時代の小鍛冶(刀鍛冶)も当然マーケティングは重視しており、需要がない地域へ工房をかまえることはありえない。
 室町前期から中期にかけ、京の室町とともに関東の足利氏が本拠地にしていた鎌倉では刀剣の需要は高かったし、室町後期には(後)北条氏の本拠地だった小田原へ、多くの刀鍛冶が参集している。室町中期、太田道灌の居城があった時代を考えても、石堂派が工房をかまえた雑司ヶ谷村の地理的な位置が、やや中途半端に感じるのはわたしだけではないだろう。太田氏の需要を意識していたのなら、より地金(目白=鋼)も手に入りやすい江戸城近くの城下町に工房をかまえるのが自然だ。あるいは、豊島氏の需要を意識していたものか。
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 石堂派が分岐した流れ、あるいは刀剣需要の趨勢を考えてくると、『新編武蔵風土記稿』に収録された地元民の「往古」は、おそらく江戸に徳川氏が移封されることが決まり、近い将来に幕府が開かれることがすでに予想されていた室町末期、あるいは開幕後の江戸初期であると想定したほうが、石堂派の伝承や経緯を踏まえるのなら自然だろう。そして、歴史に興味のある方ならお気づきだと思うが、『新編武蔵風土記稿』の記述には、複数の時代の事跡が混同して証言されている可能性が高いのがおわかりだろう。
 まず、室町末期から江戸初期にかけて古刀時代から新刀時代へと推移する時期、刀剣の原材料である目白(鋼)Click!を製錬する大鍛冶(タタラ製鉄)の仕事と、多種多様な目白(鋼)をもとにさまざまな折り返し鍛錬法で刀剣を鍛える、小鍛冶(刀鍛冶)の仕事とは完全に分業化されており、刀鍛冶の工房跡から鐵液(かなぐそ:金糞=スラグないし鉧の残滓)が出土することは基本的にありえない。江戸後期に、砂鉄を用いたタタラの復興による目白(鋼)精製を唱え、事実、上州館林藩秋元家の江戸藩邸内(浜町中屋敷)にコスト高なタタラ用精錬炉を構築している、新々刀の水心子正秀Click!のような存在はむしろ例外だ。
 雑司ヶ谷村の石堂派が住みついた地名が金山であり、その前に口を開けていた谷間が神田久保Click!であり、谷間を流れていた川が江戸期には金川(弦巻川)Click!と呼ばれていたことにも留意したい。時代は不明だが、明らかにタタラを生業とする産鉄集団が通過した痕跡であり、鐵液(かなぐそ)は彼らが残した廃棄物だろう。金山稲荷の周辺に限らず、タタラの鐵液は下落合の目白崖線沿い(戦時中の山手通り工事現場)からも多く出土している。この集団が、いつごろ通過したものかはさだかではないが、タタラの鋳成神(いなりしん)あるいは荒神(こうじん)を奉った社が建立されており、田畑が拡がるころには改めて農耕神としての金山稲荷社へと再生されているのだろう。
 そして、金山から出現した洞穴についても、古墳末期の横穴古墳の一部なのか鎌倉期の“やぐら”なのか、考古学的な記録がないので不明だ。ただし、鎌倉期の“やぐら”形式の墳墓は土葬ではなく火葬が前提だったとみられ、遺体をそのまま横たえるというような埋葬事例は、鎌倉各地の“やぐら”群には見られない。むしろ、下落合の横穴古墳群Click!と同様に羨道や玄室を備え、遺骸を敷き石の上に横たえた古墳末期(または奈良最初期)の横穴古墳とみるのが地勢的にも自然だが、それでは「國光」の短刀の説明がつかない。
 この短刀が鎌倉期から室町期の作品であれば、出現した古墳の人骨に祟らないで成仏を願う魔除けの守り刀として、屋敷地の所有者あるいは当時の村の分限者が遺体の上に置いたものだろうか。ちょうど、戸山ヶ原Click!穴八幡社Click!に出現した古墳の羨道や玄室とみられる洞穴に、後世になって観音や阿弥陀仏などを奉っているのと近似した感覚だ。
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 もうひとつ、石堂孫左衛門という刀工の名があるが、江戸石堂派の初代・石堂是一(武蔵大掾是一)の名前とは一致しない。初代・是一の本名は「川上左近」と記録されているので、雑司ヶ谷村の孫左衛門ではない。同じく江戸石堂派の支流である、石堂是次や石堂是長、石堂常光の系譜、または遅れてやってきた近江石堂の佐々木一峰系とも異なるようだ。これらの石堂派は、初代・石堂是一よりも少し時代が下って記録される刀工名であり、室町末から江戸初期を連想させる孫左衛門とは別の系統だろう。
 また、大坂石堂の(多々良)長幸一派とも、紀州石堂の為康系とも、さらに筑前石堂の守次系とも異なるとみられる。おそらく、室町末期から江戸初期にかけて、近江の石堂村をいち早くあとにして江戸に入った刀鍛冶の一派が、とりあえず目白(鋼)のいわれが深い雑司ヶ谷の金山に工房をかまえ、江戸の街が繁華になるにつれ、より需要が高い市街地へ工房を移転させているか、あるいは石堂派の本流である石堂是一の一派に吸収され、石堂工房の一員として鍛刀をつづけたのではないかと思われる。
 さて、山麓に大洗堰Click!が設置され「関口」という江戸地名が定着する以前、すなわち神田上水Click!が掘削され上水と江戸川とが分岐する以前の平川Click!時代、目白山(のち椿山Click!)と呼ばれた丘陵に通う目白坂の中腹に、足利から勧請された不動尊が「目白不動」Click!と名づけられた室町末期から江戸最初期のころ、川砂鉄などからタタラで洗練する目白(鋼)は、刀鍛冶に限らず、農業用具や大工道具など鉄製の道具類を鍛える「野鍛冶」たちにとっては、いまだ非常に身近な存在だったろう。
 タタラによる目白(鋼)には、もちろん硬軟多彩な特徴があり、またタタラの首尾によって高品質な鋼から質の悪い鋼まで、不均一の多種多様な“地金”が精製される。その中で、もっとも品質がいい目白(鋼)は、その硬軟によって刃金(鐵=はてつ)・芯金・皮金・棟金と使い分けられ、おもに刀剣や鉄砲、甲冑などの武器製造に用いられた。また、それよりも劣る品質の鋼は、鉄製の生活用品や農機具・大工道具などの製造へとまわされている。だが、江戸期になると高品質な目白(鋼)をあえて用いて、耐久性が高く品質のよい日用鉄器を生産し、諸藩の財政再建のため地域の名産品や土産品にする動きも出てきている。
 余談だけれど、刀剣用の目白(鋼)のことを「玉鋼(たまはがね)」とも表現するが、これは明治以降に海軍が貫通力の高い徹甲弾を開発する際、刀剣に使われた頑丈で耐久性の高い鋼を採用していたことからくる新造語で、弾頭に用いる鋼だから「玉(弾)鋼」と呼ばれるようになった。したがって、江戸期以前の刀剣について語るとき、たとえば「幕府お抱えの康継一派は、品質のいい玉鋼を使ってるよね」といういい方は、「江戸期の南部鉄器には、品質のいい精巧なケトルがあるよね」というに等しく、時代的にチグハグでおかしな表現になってしまう。やはり、江戸期以前は単に鋼(はがね)、または目白(めじろ)と表現するのが妥当だと思うし、後者のケースは「鉄瓶」と表現するのがふさわしいだろう。w
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 先日、ようやく日本刀剣美術保存協会が主宰する「出雲タタラ」で製錬された、最高品質の目白(鋼)を手に入れることができた。(冒頭写真) 通常は、現代刀の刀鍛冶に支給され、なかなか手に入れることができないのでうれしい。鋼(はがね)というと、暗い灰色あるいは濃灰色の黒っぽい金属塊を想像される方が多いと思うが、刀剣用の目白(鋼)はまったく異なる。まるで白銀(しろかね)のようにキラキラと光沢があり、鉄のイメージからはほど遠く地肌が白け気味で輝いている。なぜ、昔日の大鍛冶・小鍛冶たちがタタラ後の鉧(ケラ)の目に混じる高品質な鋼を「目白」と名づけたのかが、すぐさま納得できる出来ばえだ。

◆写真上:日刀保の出雲タタラで、3昼夜かけて製錬された「1級A」の目白(鋼)。10トンの砂鉄から約2.5トンの鉧(ケラ)を製錬し、その鉧からわずか100kgほどしか採取できない。現代の製鉄技術でも、これほど高純度な目白(鋼)は精錬不能だ。
◆写真中上は、1799年(寛政11)に法橋關月の挿画で刊行された『日本山海名産図絵』。描かれているのはバッケ(崖地)Click!の神奈(カンナ)流しで、川や山の砂鉄を採取する職人たち。は、同じく『日本山海名産図絵』に描かれたタタラ製鉄の様子。大きな溶鉱炉に風を送る足踏み鞴(ふいご)を利き足で踏みつづけ、炉の中の様子を利き目で確認しつづけるため、火男(ひょっとこ)たちは中年をすぎると片目片足が萎え、文字どおりタタラを踏んで歩くようになったと伝えられる。は、雑司ヶ谷の金山に通う坂道。
◆写真中下は、出雲タタラの炭足し。1回3昼夜のタタラで、約12トンもの木炭が消費される。は、炉に砂鉄を投入している様子。は、タタラで精錬された約2.5トンの鉧(ケラ)で、ここからとれる高品質な目白(鋼)は100kgほどにすぎない。
◆写真下は、神奈流しの跡に造成された出雲の棚田。雑司ヶ谷の神田久保にあった棚田もおそらく神奈流しの痕跡で、地名の“たなら相通”に倣い神奈久保が神田久保に、神奈山が金山に、神奈川が金川(弦巻川)に転化したとみられる。は、初代・石堂是一が焼いた備前伝の刃文。匂(におい)出来で匂口がしまる互(ぐ)の目か、のたれ気味の広直(ひろすぐ)に典型的な丁子刃を焼いている。錵(にえ)出来で銀砂をまいたような錵本位の相州正宗を頂点とする、豪壮な相州伝(神奈川)が伝統的に好まれる関東では流行らなかった。事実、江戸中期から石堂派は急速に相州伝へ接近し、「相伝備前」と呼ばれる相州伝刀工へと変貌していく。は、初代・石堂是一の茎(なかご)銘で「武蔵大掾佐近是一」と切っている。

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太平洋画会があった下落合の海洲正太郎邸。 [気になる下落合]

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 下落合に太平洋画会Click!の本部事務所があったと聞いたら、美術に興味がある方なら「ウソでしょ、太平洋画会は谷中だよ」というに決まっている。わたしもビックリしたのだが、太平洋画会が下落合にあったのは史的事実だ。
 1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、谷中真島町にあった太平洋画研究所が全焼すると、本部事務所を下落合の海洲正太郎邸に移している。海洲正太郎は、別名として海州正太郎や海洲将太郎、版画制作のネームとしては「麥」を用いていたが、太平洋画会へとどけ出ていた画家名は「海州正太郎」だった。
 おそらく、当時の太平洋画会を代表する吉田博Click!(下落合667番地)をはじめ、かつては同会の満谷国四郎Click!(下落合741番地)や、ゆかりのある中村彝Click!(下落合464番地)などが住んでいた“美術村”なので、下落合が選ばれているのかもしれない。太平洋画会の本部事務所は、翌1946年(昭和21)に駒込林町へ移転するまでの1年間、下落合にあった。
 海洲正太郎Click!については以前、吉田博Click!のご子孫にあたる吉田隆志様よりご連絡をいただき、貴重な情報をちょうだいしている。吉田様は、海洲正太郎が主宰していた画塾に通われており、海洲邸は現在の目白中学校グラウンドの北西側、下落合1丁目348番地(現・下落合2丁目)にあった。この住所は、明治期の旧地番では下落合330番地界隈に相当するので、大磯で新島八重Click!から別荘地を譲り受けた華族(男爵)、箕作俊夫邸Click!のかつての敷地に含まれていたのではないかと思われる。
 また、海洲正太郎は1946年(昭和21)に目白文化協会Click!に参加しており、版画ネームの「麥」名で『明日の目白』Click!を描いていることも、吉田隆志様よりご教示いただいた。海洲正太郎は、敗戦直後から積極的に制作活動を再開しており、戦時中は本や雑誌の挿画を手がけるぐらいで、あまり仕事をしていなかったようだ。戦争画を軍部に強制されて描くのが、イヤだったのかもしれない。
 1946年(昭和21)3月1日から月末まで、東京都美術館で開催された第1回日展に、海洲正太郎は『冬の或る日』と題する水彩画を出品している。それに目をとめたのが、上落合から鎌倉の長谷大谷戸253番地(現・鎌倉市長谷5丁目)に疎開中だった村山知義Click!だ。もちろん彼の官展を見る目は厳しいが、敗戦後で軍国主義のクビキから解き放たれた美術が、どのように自由な表現を見せるかに興味を惹かれて出かけたのだろう。
 しかし、「これが文化的、芸術的に自由の時代が開けた際の最初の展覧会なのであらうか?」と、第1室(日本画)に足を踏み入れたときから期待はずれだった。そして、展示室をめぐるうちに、次々と失望感を味わうことになった。1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』所収の「日展総評」から引用してみよう。
  
 何といはうとも、ここに並んでゐる作品の殆んどすべては、これを描かずにはゐられぬといふ芸術的燃焼の挙句に生れたものとは到底受け取れない。展覧会があるから描いたといふだけの、惰性や、発表慾や、小さな野心やの表はれとしか受け取れないのである。/例へば、日本画、洋画を通じて、たくさんの風景が描かれてゐるが、その風景がどれもこれも、ただ力無く侘しいのである。「春来る」といふやうな題が附いてゐても、濃い色が用ゐてあつてもそれは生きた生活が面白くなく、呆然と自然の片隅を眺めた、といふ感じの絵ばかりなのである。僅かに、何処かに追及する力を感じさせるものは、油絵で伊藤善の「冬の朝」、川合幾郎の「秋郷」、水彩で海洲正太郎の「冬の或る日」ぐらゐである。
  
 あまり他者の作品を褒めない彼が、「追及する力を感じさせる」と書いているので海洲正太郎の『冬の或る日』の画面を観てみたいのだが、残念ながら見つからない。
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 日本画について、村山はほとんどが着物の「模様画」に陥っていると嘆く。「切実な感動と肉薄慾を持たない人」が、日本画を描けば着物の模様画になるのはきわめて自然だとしている。それらの画面は、原色かそれに近い色彩を用いて強いコントラストで描かれているか、色彩が抑えられている場合でもモチーフにどぎつい対照が用意されており、「色感の悪さ下品さは非常なものであつて、あツ、と驚くほどである」と酷評している。
 会場の日本画は、ほとんどが芸術作品ではなく「工芸品」だとし、工芸品ならまだしも実用性やマテリアルの強みが備わるが、それよりも劣ると批判している。また、日本画は南画系に強い色彩をほどこした作品が多いが、おそらく画家が南画の現代化を試みるつもりで、逆に南画のよさが強烈な色彩のために台なしになっているとしている。
 「歌舞伎の現代化と同様に、既に永い以前に完成し固定した形式の現代化といふことは、多くの場合、不可能事を向ふに廻して絶望的な努力をしてゐる」と、ことに日本画の南画系に属する画家に容赦がない。「日本画の一般的無気力は、大観、桂月、素明、青邨、勝観等、大家の作を見るに及んでその度合の甚しさに一驚せざるを得ない」とし、それは日本画に限らず洋画家たちもまったく同様だと見ている。
 同書収録の「日展総評」から、再び引用してみよう。
  
 このことは油絵についてもいはれる。大家達の絵を見て、つくづく思ふ。これらはアカデミツクでもなく、クラシツクでもない、たうとうそこまで行き得なかつたものだ。今となつては歴史的価値しか持つていないものであり、それを除外しては最早や観賞に耐えないものなのだ。梅原龍三郎の「北京風景」だけがその中では美しく生きてゐるが、しかしそれすらもマンネリズムを感じさせるものは何か? 単にいつもの朱と緑が、いつもの手法で用ゐてあるからではない、もう一歩奥に原因があるのではないか、と思はれる。単に感覚とのみ取り組んでゐるのでは、どんなに執拗に根気強く取り組んでも遂には突き抜けられない壁にぶつかるのだ、といふことが、そこに物語られてゐるやうに思はれる。/安井曾太郎の「安倍先生像」は、対象を追及してゐない、不思議に思はれるほど、いい加減なところで満足してしまつてゐるのだ。この現象もまた、視覚的対象の追及が、人間追及にまで行かなければならぬことを物語つてゐるのではあるまいか。
  
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 わたしは、残念ながら梅原龍三郎Click!の色彩感が肌に合わずキライなので、その画面を美しいと感じることはできないが、文中で取りあげられている安井曾太郎Click!『安倍先生像』Click!は、1944年(昭和19)に下落合1丁目404番地のアトリエClick!2作Click!仕上げられたうちの、どちらの画面のことを指しているのだろうか。あるいは、会場には2作とも展示されていたのかもしれない。
 多くの日本画家や洋画家は、戦争でいつまで生きられるか日々緊張する毎日を送りつづけ、それが終わったと同時に虚脱状態に陥っていたとみられる。文字どおり、なにをしていいのかわからない、むなしい虚無のような精神状態だったのではないだろうか。今日的にいえば、一種のPTSD症状といえるかもしれない。
 梅原龍三郎と安井曾太郎の作品を取りあげているが、これらは敗戦後ではなく戦時中に描かれたものであり、文部省が第1回日展を開催するのを聞き、手もとのストックの中から選んで出品したものにちがいない。また、戦時中に陸海軍の広報部から依頼され、プロパガンダとしての「戦争画」Click!を描いていた画家たちは、いつ戦犯として逮捕されるか戦々兢々としていたはずで、第1回日展どころではなかっただろう。
 村山知義は、戦争や軍国主義に一貫して反対し何度も豊多摩刑務所Click!へ収監され、戦後はそのクビキからようやく解放されてしごく元気溌剌だが、戦争で繊細な神経を打ちのめされ強いストレスを受けていた画家たちも数多くいたにちがいない。あるいは、国家が主宰する美術展など、またしても「戦争画」の裏返しであり、新しい時代に登場する表現意欲が旺盛なアヴァンギャルドたちは、そもそもそんな美術展に出品しないことも考慮しなければならないだろう。それは、村山知義が自身でいちばんよく理解していたにちがいない。
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 村山知義は、洋画部門ではほかに3人の画家を「いくらか目ぼしい」作品として挙げている。富山芳男『仮小屋に臥す病妻』と宮脇進『村に来た子供』、そしてタイトルを失念したらしい久保守Click!だ。そのほかの作品は、「戦争が終つたことに対するよろこび」もなく、また「あの戦争を呪ひ憎むといふ気持」もなく、「ただ気落ちした無気力さ」(「日展其の他」より)だけが漂う、美術的退化や荒廃がいちじるしい展覧会だったと評している。

◆写真上:1952年(昭和27)に制作された、海洲正太郎『新緑上高地』。
◆写真中上は、1947年(昭和22)に目白文化協会のために制作された海洲正太郎『明日の目白』で、右下に版画ネームである「麥」のサインが見える。は、1965年(昭和40)の住宅明細図にみる海洲正太郎アトリエ。ここに1946年(昭和21)から、太平洋画会の本部事務所が置かれていた。は、1974年(昭和49)に制作された海洲正太郎『海』。
◆写真中下は、1940年(昭和15)に制作された梅原龍三郎『紫禁城』。は、1944年(昭和19)の春に制作された安井曾太郎『安倍能成像』。
◆写真下は、1944年(昭和19)の夏に制作された安井曾太郎『安倍能成像』。は、同年の夏に下落合1丁目404番地のアトリエで『安倍能成像』を制作中の安井曾太郎。は、七曲坂Click!筋にある海洲正太郎アトリエ跡の現状(左手前)。
おまけ
 1947年(昭和22)前後の撮影とみられる、喫茶店「桔梗屋」で開催された目白文化協会の「寄席」に集まったメンバーたち。この日は法学者・田中耕太郎の講演会で、記念写真の後列中央には下落合1丁目540番地(現・下落合3丁目)の洋画家・大久保作次郎Click!が写っているので、この中に海洲正太郎も写っている可能性がある。(提供:堀尾慶治様Click!)
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乱丁だらけの中河與一『恐ろしき私』。 [気になる下落合]

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 1927年(昭和2)6月に改造社から出版された短編小説集に、中河與一Click!の『恐ろしき私』がある。わたしの手もとには2冊あるのだが、そのうちの1冊は日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!のメンバーで、「戦旗」Click!の編集をしていた作家・田辺耕一郎にあてた献呈本だ。中河がせっかく贈った自作の本なのだが、製本過程で丁合いがメチャクチャになっており、ページをいきつもどりつしなければ読み通すことができない。
 中河與一の『恐ろしき私』に乱丁があるのは、実は手もとの献呈本に限らないのだ。10年以上も前に、とある方の読書感想サイトで丁合いの不都合を指摘する記事を読んだ憶えがあるから、かなりの確率で乱丁本が出まわっていた可能性が高い。そのうちのほとんどは、改造社へ返品されて取り換えられているのだろうが、田辺耕一郎に贈られた本は著者がサインしているので返品するわけにもいかず、そのまま巷間に残ったのだろう。
 乱丁の例を挙げると、収録1作目の『天の扉』を読み進めると、P44で話が途切れて2作目の『乳』の中盤からクライマックス(P49~)が現れ、2作目の『乳』を読みはじめると、とたんにP48で3作目の『恐ろしき私』の前半(P57~)が現れ、『恐ろしき私』を読み進めると、P56からいきなりP61に飛んでストーリーが見えず、同作はわずか12ページで終わり……といった具合だ。田辺耕一郎も、贈られたはいいけれど「なんだこれは?」と、目を白黒させたのではないか。
 短編集『恐ろしき私』は、彼の作品としては『天の夕顔』ほどには知られていないが、本の装丁が第2次渡仏直前の佐伯祐三Click!だったがために、文学界ではなく美術界ではよく知られた“作品”だ。同書中扉の次ページ裏には、装丁者として佐伯の名前が登場するが、「佐伯佑三」と「祐」の字が誤植になっている。ちなみに、中河は1930年(昭和5)出版の『形式主義芸術論』(新潮社)の表紙にも、佐伯が第1次滞仏の帰途ヴェニスに立ち寄って描いた、『ヴェネツィア風景』Click!(1926年)の水彩画面を採用している。
 『恐ろしき私の』の函表には、一気呵成で描いたとみられる16世紀の帆船があしらわれており、佐伯の字で「恐ろしき私」「中河與一著」と書きこまれている。だが、この帆船の絵は本書タイトルの『恐ろしき私』ではなく、『天の扉』に登場する「N」の幻覚として描かれたイメージだろう。ついでに、『天の扉』のタイトルが目次では『天の門』となっており、どちらかがお粗末な誤植だ。改造社の品質管理や校正チームは、どうやらあまり優秀ではなかったようだ。
 中河與一と佐伯祐三が出あったのは、1926年(大正15)9月5日から10月4日にかけ上野公園東京府美術館で開催された、第13回二科展の展示会場においてだった。この展覧会に出品した『LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)』(1925年)で、佐伯は二科賞を受賞している。当時の様子を、1929年(昭和4)に1930年協会Click!から出版された『画集佐伯祐三』収録の、中河與一『佐伯祐三は生きてゐる』から引用してみよう。
  
 そして彼は私と同じやうに消毒薬を愛した。/彼は本当にハンブルで、そして極めて高い精神力の中に生きてゐた。/私は彼が、彼の美しい奥さんと一緒に私の家庭を訪問してくれた事を思ひだす。/彼は中背であつた、痩せてゐた。色が焼けてゐた。眼がひつこんでゐた。前歯が一本かけてゐた。歯の間から舌がチロチロのぞいて見えた。/私が彼の服装の中に見出した親しみ深いものは、ヨーダレカケのやうな襟のついた黒い詰め襟の仕事服であつた。彼は彼のすばらしい評判にも拘はらず粗末な風を楽しさうにしてゐた。この服には彼のいゝユモラスと大阪的舌だるさと、真剣さとがあつた。
  
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 「消毒薬を愛した」とは、なにかに触るとき、あるいは誰かが触れたあとに消毒しなければ気が済まない、病的な潔癖症=「消毒の幽霊」(『肉身の賦』より)のことをさしている。中河與一は、『天の扉』に登場する「N」のように「神経衰弱」になりやすく、ときに幻覚や幻聴の症状が起きて精神病院へ入院するほどだった。早大文学部を中退したのも、「神経衰弱」が嵩じて入院しなければならなくなったからだ。また、ストレスをためやすい神経質な性格だったのか、1928年(昭和3)には胃潰瘍で危篤状態に陥っている。
 佐伯祐三は、そこまで病的な潔癖症かつ神経質だったとは思えないので、中河が幻想する「佐伯像」を実際以上に、自分側へ引き寄せて書いているのだろう。確かに佐伯は「ハンブル」で「ユモラス」だが、「大阪的舌だるさ」と前歯の欠損Click!が、ここでも相手をなごませ親しみを感じさせるファクターになっているようだ。
 1927年(昭和2)に二度目の渡仏直前、佐伯祐三は東中野767番地の中河與一邸を訪ね色紙に肖像画(素描)を描いている。その訪問の様子を、1977年(昭和52)に読売新聞社から出版された、中河與一『好きな画家との出会』から引用してみよう。
  
 私はなんということなしに「箱か表紙に船の絵を描いてほしい」とたのんだ。彼はそれについて随分考えこんでいたらしく、「毎日毎日気になりながら日を送っている」というような手紙をくれたりした。(中略) 私の本がでたのは昭和二年六月二十日で、彼はそれを大阪の本屋でみつけ、「貴方と私とが並んで立っているように思いました」と書き、(六月)二十五日付には間もなく東京へ帰るから逢いたいと書いてあった。消印は七月二日となっていた。(中略) その日(中河邸の訪問日)、彼は私をスケッチしてくれるといって、色紙の上に筆でいきなり描きだした。私は一方の高くなっている長椅子に腰かけて彼の方へむいた。下絵も何もしないで、それは五分もかからなかったようであった。彼は「昭和二年七月、佐伯祐三」と署名し、右上に本の題名をそのままに「恐ろしき私の顔」と書いてくれた。「中河さん、お互いに芸術家は生活に嘘ができては駄目ですな。生活はいつもデタラメに正直にしておかぬといけません」といった。(カッコ内引用者註)
  
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 『恐ろしき私』の函は帆船だが、本自体の表紙は、5月に長女・女礼(めれい)を失ったばかりの中河によれば、「怪奇なデフォルメした人間の顔」が描かれており、「黄泉の世界を見ている自分のような気がした」と書いている。だが、なにかを右目でのぞき見る表紙の顔の一部は、霧の深い夜に「Y町」のどこかにある魔窟をのぞいてしまった、『恐ろしき私』の「私」ではないかと率直にとらえることができる。
 中河與一は、よほど佐伯の作品が気に入ったらしく、その評価は「彼の絵が殆ど無限の新鮮さと驚異とを、見るたびに吾々に与えへる不思議に驚く」(「南画鑑賞」1937年4月号より)と、およそ最上級の賛辞を送っている。佐伯祐三は1898年(明治31)生まれ、中河與一は1897年(明治30)生まれと、ふたりがほぼ同年齢だったことも気が合い、深い親しみをおぼえる大きな要素だったかもしれない。
 さて、かんじんの『恐ろしき私』に収められた小説群なのだが、全体に通底するひとつの基調やトーンといったものがほとんど感じられず、個々バラバラな作品の印象を受ける短編集だ。よくいえば、さまざまなタイプの表現を試みた実験場的な1冊、あるいは多彩な技法を手馴れた筆致で幅広く網羅し、自身ならではのオリジナル表現を真摯に模索している時代の1冊……ということにでもなるだろうか。
 悪くいえば、エロ・グロ・ナンセンスを下地とした怪奇小説、私小説、推理小説、心理小説、動物小説などなど、大正末から昭和初期にかけて「よく売れている」小説の要素を、カテゴリーにとらわれずあれもこれもと詰めこみ、読者の消化不良は承知のうえで床面にぶちまけたような短編集……のような趣きだ。存在しないのは、中河ら「芸術派」の作家たちと鋭く対立していた、プロレタリア文学表現だけのような印象を受ける。
 たとえば、本書冒頭の『天の扉』では、夜間に街中を散歩して映画館に入る「私とN」は、あたかも浅草の街をさまよい歩く川端康成Click!のような筆運びだが、ふたりが下宿にもどると、とたんに隣室で就寝しているはずの「N」が奇怪な現象にみまわれる。半ば睡眠状態で自殺未遂まで起こす、「N」の叫びやつぶやきを記録して過去の出来事にまつわる暗号的な規則性がないかどうかを解読し、その深層心理を探っていくという、いつの間にか江戸川乱歩Click!の作品のように変貌してしまうのだ。まるで、川端康成の『浅草紅団』を読んでいたら、いつの間にか江戸川乱歩の『心理試験』や『二銭銅貨』にページが飛んでしまうといった、著者・著作をまたいだ「乱丁」本のような印象を受ける。
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 おしなべて当時の「インテリゲンチャ」臭い、昭和初期に発表された小説の典型作品といってしまえばそれまでだが、中河與一らが当時は最先端の心理学や精神分析学などの「科学」にこだわり、作品の中へ織りこみたがるのは、マルクスから多大な影響を受けた「社会・人文科学」諸学の視座にリアルタイムで対抗するため……というよりは、現代から見れば狭隘な視野で政治思想にどこまでも引きずられている、上落合502番地の蔵原惟人Click!が構築した「プロレタリア文学論」に対抗したいがため……だったのだろう。

◆写真上:中河與一『恐ろしき私』の函表に、佐伯祐三が描いた中世の帆船。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に改造社から出版された『恐ろしき私』()と著者の中河與一()。は、同書の函の背・裏()と田辺耕一郎への献呈サイン()。は、乱丁でページの前後がバラバラな『天の扉』 『乳』 『恐ろしき私』の本文。
◆写真中下は、『恐ろしき私』の表紙()と裏表紙()。は、同書の中扉()と奥付()。は、装丁者名の誤植()と、前歯の欠損が笑うと目立つ佐伯祐三()。
◆写真下は、まるで江戸川乱歩の作品を開いたかのような錯覚をおぼえる『天の扉』の謎解きページ。は、1927年(昭和2)7月に佐伯祐三が東中野の中河與一邸を訪れ5分足らずで描いた『恐ろしき私の顔(中河與一像)』。は、作家仲間の集まりで発言する中河與一。中河の右側ふたりめに並んで丹羽文雄が写っているが、丹羽も佐伯作品のファンで『エッフェル塔の見える通り』(1925年)を愛蔵していた。
おまけ
 最近、神田川や妙正寺川から離れた住宅街でも、セグロセキレイやハクセキレイをよく見かける。写真はセグロセキレイだが、両河川沿いにエサとなる虫が増えているのだろう。
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「カウヒイ」は堪えられない大田南畝(蜀山人)。 [気になるエトセトラ]

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 明けまして、おめでとうございます。相変わらずCOVID-19禍は終息せず、先行きの生活が見えない1年のスタートですが本年も旧年同様、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 江戸期にコーヒーを飲み、初めてその風味までを記録したのは大田南畝(蜀山人)Click!だといわれている。彼が落合地域を散歩しながら、観月会Click!を開催した1776年(安永5)から28年後、1804年(文化元)8月9日(以下旧暦)のことだ。
 幕府勘定方の役人だった大田南畝は、田沼時代から松平定信による寛政の改革時代をへて、職務に専念するようになったといわれている。田沼時代以前は、幕府の官僚であるにもかかわらず狂歌師あるいは詩文学者として全国的に有名になり、町方の文人・風流人などとともに各地を遊び歩いていたが、1787年(天明7)に寛政の改革がスタートすると状況は一変する。彼のパトロンだった土山宗次郎が、横領の罪を着せられて斬首されたのも身にこたえたのだろう。
 また、版元だった蔦屋重三郎や山東京伝が処罰され、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜もねられず」を詠んだとされていた大田南畝は、おそらく気が気ではなかったにちがいない。だが、翌年になると半ば開きなおったのか、1788年(天明8)には喜多川歌麿と組んだ狂歌集『画本虫撰』を蔦屋から刊行している。以降、松平定信が老中首座にいる間は狂歌づくりを控え、勘定方の仕事に精勤するようになった。
 大田南畝がコーヒーを味わうのは、勘定方の支配勘定(いまでいうと財務省の課長クラスぐらいだろうか)になり、大坂銅座へ出向したあとのことだ。南畝は、仕事で1年間ほど長崎に出張しているが、1804年(文化元)8月9日(現在の暦だと9月中旬)にはオランダの貿易船に乗せてもらい、船上でお茶をごちそうになっている。それが、見たこともない真っ黒い茶=「カウヒイ」だったのだ。
 同年に書かれ、翌1805年(文化2)9月に出版された大田南畝『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』には、そのときの感想が記されている。1908年(明治41)に吉川弘文館から出版された、大田南畝『蜀山人全集巻三』から引用してみよう。
  
 紅毛船にて「カウヒイ」といふものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず、「ゼネイフル」といふ酒は、松の子を以て製したり、外に葡萄酒を〇〇〇〇〇といふ肉桂酒を〇〇〇〇〇〇〇〇といふ、又船頭の部屋に入りて見しに、床の間とをぼしきところに画あり、浮画なり、その上に鹿の頭の形を木にて造り、角は鹿の角を用ひたるをかけ置けり、当地諏訪の社に、鹿の角を額にしたるを見しが、かゝる夷俗を見ならひしにや。八月九日記
  
 大田南畝の口には、どうやらコーヒーはまったく合わなかったようだ。緑茶や抹茶を飲みなれた舌には、紅茶のほうがまだマシだったのかもしれない。おそらくコーヒーは彼の舌に、ことさら苦い漢方薬でも飲まされているような味覚しか残らなかったのではないだろうか。酒の「ゼネイフル(jenever)」は蒸留酒のジンのことだが、空白になっているオランダ語の酒名は、南畝がよく聞きとれなかった部分なのだろう。
 文中にもあるように、大田南畝は江戸と同様に長崎でも頻繁に市中散策を繰り返していた。長崎にある寺社はもちろん、名所旧跡はほとんど観光し、当地にある文物や物語・伝承にいたるまでを詳細に取材している。そんな中に、面白いエピソードが書きとめられている。『瓊浦又綴』に先だつ、1805年(文化2)5月に出版された『瓊浦雑綴(けいほざってつ)』に収められた逸話だ。
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 長崎市中の立山に出かけ、麓の下野稲荷社を訪れたとき、社の扁額に「正一位下野稲荷大明神東都南畝大田覃書」とあるのを発見している。だが、書いた本人はまったく憶えておらず、「いつのとしにか書たりけん今は忘れにけり」と記している。つまり、狂歌師あるいは詩文学者として広く有名だった大田南畝は、江戸の屋敷で数多くの書を依頼されたが、まさか揮毫の1作が長崎で稲荷社の扁額になっているとは思わなかったのだろう、ビックリした様子が記録されている。
 この伝でいくと、下落合の御留山Click!にある藤稲荷社Click!の神狐像台座に刻まれた彼の揮毫も、角筈熊野十二社Click!の手水に彫られたそれも、とうに忘れられていた可能性がありそうだ。たまたま本人が両社を訪れるかした際、「ここに、なにか彫られておるな。どらどら……あっ、オイラか!」と大ボケしていたのかもしれない。w また、長崎では大田南畝筆とされる詩歌短冊や書物が市中に出まわっていたが、弟にあてた書簡では「偽物多く候 此度鑑定致候」と、長崎人が持ち寄る作品がホンモノかどうか、みずから鑑定会まで開いていた様子がうかがわれておもしろい。
 さて、日本に初めてコーヒーがもたらされたのは17世紀の元禄時代といわれるので、それを淹れて飲んだのは大田南畝が初めてではないだろう。彼は「カウヒイ」を飲んでその風味の記録を残しているが、それ以前にも、長崎の出島に出入りしていた日本人たちは、オランダ人からコーヒーをふるまわれていたにちがいない。なぜなら、当時はオランダの欧文呼称ではなく、コーヒーにはすでに「なんばんちゃ」あるいは「唐茶」という和名がついていたからだ。その味わいの記録が残されていないのは残念だが、大田南畝とたいしてちがわない感想だったのかもしれない。
 初めてコーヒーという語音を記録したのは、1782年(天明2)にオランダの本を翻訳した蘭学者・志筑忠雄の『萬国管窺』といわれている。カタカナで、「阿蘭陀の常に服するコツヒイといふものは形豆の如くなれども実は木の実なり」と書かれているが、文献知識のみで現物は一度も見たことがなかったのではないか。また、オランダの百科事典を蘭学者たちが幕府の指示で訳した『紅毛本草』下巻に所収の、「阿蘭陀海上薬品記」にもコーヒーに関する詳細な記述が見られるが、これも文献知識の域を出ていないのだろう。コーヒーの木の栽培や種子にあたる豆について、あるいは飲み方などの詳しい記述があるが、「薬品記」とあるようにコーヒーを嗜好飲料ではなく薬物だととらえて記述している。
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 大田南畝の「カウヒイ」以前に、確実にコーヒーを味わっているとみられるのは、1790年(寛政2)と1795年(同4)の二度にわたり、都合3年間も長崎に滞在していた広川獬(かい)だと思われる。彼は京の医師だが、1803年(寛政12)にその経験をまとめた『長崎聞見録』を出版している。同書の第5巻に、コーヒー豆やコーヒーポットなどのイラストとともに「かうひい」が紹介されている。
 広川は、おそらく飲んでいるにちがいないが、医師らしく「かうひい」を薬品としてとらえ、効能として「其効稗を運化し。留飲を消し気を降す。よく小便を通じ。胸痺を快くす。是れを以て。平胃散。茯苓飲等に加入して其効あるものなり」と記載している。これは、自身が実際に試飲して効用を身体で確認しているとみられるが、かんじんの風味については記録していない。わたしも、日ごろからコーヒーを常飲しているが、確かに利尿作用があって気分がスッキリし、消化器系の働きを助け調子を整えてくれるようだ。
 コーヒーの和語については、先にあげた「なんばんちゃ」や「唐茶」のほかに、「紅闘比伊」や「波无」、「保宇」、「比由无ナ那阿」などの漢字が、オランダの百科事典を訳した『紅毛本草』では当てはめられている。だが、コーヒーを漢字で「珈琲」と表現するようになったのは、どうやら同書の下巻に収録されている津山藩(現・岡山県)出身の蘭学者、宇田川榕庵による表記が一般化したもののようだ。
 大田南畝(蜀山人)は、「カウヒイ」は口に合わず二度と飲まなかったのかもしれないが、長崎の街はことのほか気に入り、出張中のわずか1年間で5作(計9冊)もの本を著している。1804年(文化元)10月の風邪をひいて病臥中に書いた『百舌の草茎』(全2巻)をはじめ、ほぼ同時期出版の仕事について記した『長崎表御用会計私記』、同年12月の『長崎表御用会計私記』、1805年(文化2)5月の『瓊浦雑綴』(全3巻)、同年9月の「カウヒイ」が登場する『瓊浦又綴』(全2巻)と、ひきもきらずに次々と長崎がテーマの本を執筆していった。
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  四のうみ みなはらからの まじはりも 深紅の浦の 名残つきせじ
 1805年(文化2)10月10日の午前6時ごろ、長崎立山にある官舎(通称「しゃちほこ家舗」)を出て友人たちに見送られ、故郷の江戸をめざして帰路についた際に詠まれた歌だ。

◆写真上:近年はほとんど顔を出さなくなってしまった、某所のJAZZ喫茶にて。
◆写真中上は、大田南畝が出張前の1792年(寛政5)に描かれた円山応挙『長崎港之図』。は、ペーパードリップ式で淹れるコーヒーと炒ったコーヒー豆。
◆写真中下は、1908年(明治41)に吉川弘文館から出版された大田南畝『蜀山人全集巻三』()と、1795年(寛政4)に出版された広川獬『長崎聞見録』()。は、「カウヒイ」を飲んだ感想が記載された『蜀山人全集巻三』のページ。は、イラスト入りで「かうひい」の詳細を紹介した『長崎聞見録』第5巻の当該ページ。
◆写真下は、死後に描かれた大田南畝(蜀山人)の肖像画。は、長崎古版画に描かれた『阿蘭陀船』。は、5月の声を聞くと飲みたくなるアイスコーヒー。

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