SSブログ

健康マニアだった村山籌子。 [気になる下落合]

大仏裏ハイキングコース.jpg
 現在でも、健康になるためには手間やコストを惜しまない人はいるが、もちろんいつの時代にもそういう人たちはたくさんいた。拙サイトでは、おもに明治末からの健康体操Click!健康療法Click!サプリメントClick!栄養補給飲料Click!、そして怪しげな機器Click!まで、いろいろな健康ブームをご紹介してきている。上落合(1丁目)186番地に住んだ村山籌子Click!もまた、健康増進のためならなんでも試してみる健康マニアだった。
 岡内籌子(のち結婚して村山籌子)は、四国の高松で生まれ育っているが、小学生のときから女学校時代を通じて水泳の選手であり、同地域では「海水の岡内のいとさん」といえば、高松市内ではたいがいの人たちは知っているほどのスポーツウーマンだった。そのせいか、健康な身体はなんらかの努力をしなければ維持できないという、一種の信仰心に近いような観念に迫られていたようだ。
 それを端から眺めていた村山知義Click!には、それらの「健康法」が逆に健康を損ねる行為のように映っていたのだろう。1947年(昭和22)に桜井書店から出版された村山知義『随筆集/亡き妻に』所収の、「我が妻の記」から引用してみよう。
  
 彼女は万事について、一つところにとどまつてゐることのできぬ性格であり、そのため、健康といふやうな、眼に見えぬ、動かぬものに対しても働きかけずにはゐられず、それが働きかけ過ぎるのである。また新しいものが好きで、いろいろのことを率先してやつて見て研究することが好きなのである。その為に、毎日毎日同じやうな健康状態では、健康そのものが陳腐で莫迦らしく見え、何とかそれを増進したい、改良したい、と思ひ出し、いろいろのことを試み出すのである。また思ひ立つとすぐに実行しなくてはゐられない性質で、突如として、突拍子もなく、自分の身体を試験台にして、その健康増進の法を始めるのである。/かくの如き、停滞できぬ性質、研究心、直ちに実践する積極性、挺身する身構え、といふやうな性格は、これは一般的に云つて、極めてよい性格であつて、これがなければ、人生と社会の改良はあり得ない。しかしわが妻の場合はこの性格がかくの如き悲劇の原因と相成つたのである。
  
 村山籌子は、米国の健康雑誌「Physical Culture」の愛読者であり、そこに掲載された医学者の論文や記事を参照しながら、合理的かつ論理的で「最も科学的な」健康法を試みており、俗説や迷信はいっさい信用しなかった。
 たとえば、真冬に氷の張った浴槽に、2分間つかるのが身体によいという説が掲載されると(北欧の健康法だろうか)、目覚まし時計を2分間にセットし、表面の氷をたたき割って浴槽に飛びこんだ。すると、2分後にくちびるを紫色にして出てきたが、その晩から発熱して数日起きられなくなった。しかも、寒中に冷水をかぶって風邪をひき、肺炎になりかかった経験があるにもかかわらず、性懲りもなく同じようなことをして寝ついている。
 反対に、汗を流すのが健康増進には合理的だとなると、今度は高温で熱い湯気がモウモウとこもる風呂場から出てこなくなり、家族が卒倒している彼女を見つけて大騒ぎになった。水をぶっかけて介抱され、ようやく正気にもどっている。
 木製の枕が健康にいいと知ると、さっそく実行して翌朝、首がまわらなくなって変な傾げ顔で現れたり、首を伸ばすのがいいとなると、自分の両手で首を吊った。首をよくねじるのがよいというので、しじゅう首をねじっていたら、脛骨ねん挫で首がまったく動かなくなってしまった。いずれのケースも、家族を巻きこんで大騒ぎになっている。
PhysicalCulture 192207.jpg PhysicalCulture193004.jpg
PhysicalCulture193510.jpg PhysicalCulture193808.jpg
村山籌子1929頃.jpg
 窓を閉めきらず、開け放しにしたほうが健康によいと納得すると、わざわざ自分の寝室の窓に金網を張って寝るようになった。真冬に窓が開けっぱなしなので、さっそく風邪をひいて寝こんでいる。また、梅雨どきになっても窓を閉めずに寝るので、部屋に湿気がこもり肩にリウマチがでて医者の世話になっている。
 これは当時、日本じゅうで流行した健康法のようだが、水をたくさん飲むことが健康には欠かせないという説に共鳴し、「一日一升」が推奨摂取量だったにもかかわらず、彼女は寒中に1日2升の水をガタガタ震えながら飲みつづけ、ついには食道痙攣を起こして食事ができなくなってしまった。おそらく、この症状のときも医者にかかっているのだろう。
 人類は、その進化の過程で柔らかい布団やベッドのようなもので寝るようになったのは、ごく近年になってからの新しい習慣であって、本来は堅い床面で寝ているほうが自然であり、姿勢が悪くなったり背骨が曲がったりして不健康になる大きな要因のひとつになっている。だから、堅い床の上に寝るほうが健康増進にはよいという説に同意して、さっそく板の間にそのまま寝るようになったら、冷えてひと晩のうちに20回もトイレに通うようになり、しまいには腎臓が腫れてぶっ倒れた。
 また、これは現在でもいわれているけれど、1日に少しの時間でも逆立ちをすると、下半身で滞りがちだった血流が解消され、全身の血行がよくなるという説にも彼女は同意した。人間の祖先は、もともと四つ足で歩いていた時代から、常に直立して二足歩行する動物へと進化する過程で、かなり不自然な姿勢を強いられており、さまざまな身体の故障はこの不自然さが原因なのだから、その障害を除去するのに最適なのが逆立ちだというわけだ。彼女はさっそく実行し、鼻血が止まらなくなりつづけられなくなった。
 同書の「我が妻の記」より、再び引用してみよう。
  
 北枕で寝ると磁力の関係上、健康が増進するといふのでずゐぶん長い間続けたが、これは別に害もなかつた代りこれといふ益もなかつた。かういふやうに害もなく益もないと云ふのは成功の部で、殆んどすべての場合、彼女は一つのことを、突然に、しかも執拗にやつて、やり過ぎてしまふのである。一つのことで失敗しても、また新しいことを思ひつくと、今それをしなければ手遅れになる、といふ焦燥心に駆られて断行するに至るのである。/最初の大打撃はそれら幾つかが重なつて実行されたとき起つた。
  
木枕.jpg
村山知義アトリエ19450406.jpg
村山アトリエ界隈.JPG
 健康法を執拗に繰り返すうちに、どんどん不健康になっていく見本のようなエピソードだが、本人にしてみればごく真剣で、健康になるためによけい一所懸命に取り組むのだから始末が悪い。ついに、彼女は入院騒ぎを起こしている。
 窓を開け放し、堅い板の間で寝ているとき、村山籌子は身体にいいという「笹の葉蒲団」を買ってきた。クマザサを細かく切り干して乾燥させたものを、蒲団の中に詰めたもののようだが、日本では古来よりクマザサは解熱や解毒、炎症止め、咳止めなどの生薬として用いられているので、腎臓炎や風邪の予防(窓を閉めベッドで温かくして寝れば、別に予防の必要はないと思うのだが)のために購入したのではないだろうか。でも、生薬としてのクマザサは干した葉茶やエキスとして服用するのが常であり、パンダではあるまいし「笹の葉蒲団」にそのような効用があるとは思えない。
 結果、蒲団に詰められた干しクマザサの塵埃を毎晩吸いつづけ、それが肺に突き刺さって炎症を起こし、肺病を発症してしまった……と彼女自身は分析している。しかも、肺の調子が悪いところへ、米誌「Physical Culture」に掲載されていた元・世界ヘビー級チャンピオンのジャック・デンプシーが推奨する健康体操を、1日1回でいいところを1日5~6回も繰り返してぶっ倒れている。そのとき、洗面器いっぱいの喀血をともなっていたので即入院となった。だが、食事療法にも凝っていたため、入院先の病院で出される食事は菜っ葉とご飯を除いて受けつけず、入院しているにもかかわらず症状が徐々に悪化している。この間、彼女と病院側との間でかなり激しい紛争があったようだ。
 ようやく病院食を摂るようになって回復し、なんとか退院すると病院で出された薬はまったく飲まず、高松で薬局の娘として育ったせいか薬品には非常に詳しく、近所の薬屋へ出かけて自分でいいと思う薬を買ってきては飲み、新薬が開発されたと聞くと副作用も気にせず、すぐに試してみたりしている。そして、再び入院しては退院しを繰り返し、三度めにはとうとう病院から「奥さんには手こずるから来んで下さい」と入院を拒否され、気胸療法による自宅治療になってしまった。
 村山籌子のこの性癖は、空襲で自邸が焼けた戦争をはさみ、鎌倉の長谷へ疎開してからもまったく変わらなかったようだ。医者のいうことを聞かないだけでなく、逆に医者へ治療法や投薬などについて説教をすることもめずらしくなかった。米国の最新情報で「理論武装」していた彼女は、おそらく日本の開業医が知っている以上の知識を仕入れていたとみられ、医師が逆に最新のビタミン療法などについて相談するようなこともあったらしい。
クマザサ.jpg
村山夫妻1927頃.jpg
長谷大谷戸.jpg
 健康を維持するためには、手間ヒマやコストを惜しまずなんでも試みた村山籌子だが、夫が出張中だった1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!上落合が焦土Click!と化した際、炎と煙のなかを一晩じゅう逃げ惑ったあと肋膜炎の発症がきっかけで体調を崩した。そして、作家としてはこれからという円熟期に入る直前、疎開先の鎌倉町長谷大谷戸253番地(現・鎌倉市長谷5丁目)で1946年(昭和21)8月、弱冠44歳で急逝している。

◆写真上:村山籌子も散策したとみられる、疎開先だった長谷大谷戸の尾根上を通る大仏裏ハイキングコース。佐助稲荷の近くを通り、高徳院の裏へと抜けられる。
◆写真中上は、村山籌子が毎月欠かさず愛読していた米国の代表的な健康雑誌「Physical Culture」で1922年(大正11)の7月号()と1930年(昭和5)の4月号()。は、同じく「Physical Culture」の1935年(昭和10)の10月号()と1938年(昭和13)の8月号()。は、1929年(昭和4)ごろ自邸前で撮影された村山籌子。
◆写真中下は、首がまわらなくなった木製枕。は、1945年(昭和20)4月6日に撮影された空襲50日前の村山アトリエ。は、同所界隈の現状。
◆写真下は、下落合にも多く自生するクマザサ。は、自邸のリフォーム中に下落合735番地のアトリエClick!で撮影された村山夫妻。は、鎌倉市の長谷大谷戸にある長谷隧道。隧道を抜けると、鎌倉幕府の北条氏が館をかまえた北条氏常盤亭跡がある。

読んだ!(20)  コメント(23) 
共通テーマ:地域