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年を越せない貧乏な刀鍛冶たち。 [気になるエトセトラ]

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 今年も、拙サイトをわざわざ訪問いただきありがとうございました。くれぐれも健康に留意され、よいお年をお迎えください。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

  
 下落合の藤稲荷社Click!には、いつのころからかは不明だが「正宗」Click!の太刀が奉納されていたという江戸期のエピソードが残っている。もちろん、鎌倉期に生きた日本刀の最高峰といわれる相州伝(神奈川の鎌倉で生まれた鍛刀技術の技法)の五郎入道正宗Click!とは思えず、別銘の「正宗」(室町期?)か偽名の可能性が高いが、江戸期には目白不動Click!がその名にちなんでおもに目白(鋼)を使う金工師の崇敬を集めていたように、藤稲荷社はある時期に小鍛冶(刀鍛冶)との縁でもあったのだろうか。
 また、隣りの雑司ヶ谷村の金山には、江戸石堂の流れをくむ石堂一派Click!が住みついて鍛刀していた。江戸期に入ると、後期に鍛えられる一部の新々刀Click!を除き、砂鉄からのタタラ製鉄(大鍛冶)Click!目白(鋼)Click!を精錬する技術は膨大なコストがかかるため廃れるので、雑司ヶ谷の石堂派は金山稲荷周辺の砂鉄が目的ではなかっただろう。今日でも、日本美術刀剣保存協会が主宰する出雲タタラの目白(鋼)は生産量も少なく貴重であり、その配給を受けられる刀鍛冶も限られている。
 目白を精錬するタタラの火男(ひょっとこ)Click!たちも、仕事量に比べて収入が少なく貧乏だったが、刀鍛冶はさらに輪をかけて貧乏だった。毎年11月に行われるフイゴ(鞴)祭りClick!で、近所の子供たちがはやし立てるかけ声が、「♪鍛冶屋の貧乏、鍛冶屋の貧乏、貧乏鍛冶屋!」(江戸期)というのにも、その生活の苦しさがうかがわれる。実際、鍛刀だけでは年が越せず、生活が成り立たない刀鍛冶が大量に生まれ、確実に需要を見こめる鉄製の生活用品や、農機具を製造する「野鍛冶」へと転向する刀鍛冶が多かった。
 江戸期に入ると、戦がほとんど途絶えて刀の需要が激減し、武士が腰に指す刀剣または拵(こしらえ=刀装具)は装飾品あるいは美術品としての価値が急速に高まるようになる。刀鍛冶もマーケティングを全面的に見直すようになり、武家相手の鍛刀から、豊臣政権のように刀剣の所有が禁止されておらず、刀剣趣味や鑑定会趣味をもつおカネ持ちの町人へとターゲットを全面的にシフトしていく。書き入れ(注文帳)が焼けずに保存されていた京都の刀屋では、江戸後期になると顧客の7割が町人だった様子が記録されている。
 2尺(約60.6cm)以上の大刀について、町人は帯刀を禁止されていたが所有するのは“勝手”であり、また2尺以下の脇指ないしは短刀は自由に帯刀することができた。「江戸期に刀を指しているのは武家」……という大きな誤解・錯覚は、おそらく時代劇の影響が多大にあるのだろう。物見遊山や旅行の際、町人たちは護身用に必ず帯刀(2尺以下の脇指)して出かけている。町人文化に根づいた身近な刀剣からは、さまざまな刀剣用語Click!が日常の生活用語として浸透するようになった。
 さて、江戸期には特別に高名な刀工はともかく、ふつうの刀鍛冶は生活苦にあえいでいた。消費ニーズがなければ売り上げはほとんどゼロに近く、相槌(あいづち=目白の折り返し鍛錬の際に向こう槌を打つ助手)さえ雇えずに、たったひとりで鍛刀する鍛冶もいた。その生活を少しでも安定させるために、どこかの藩の専属あるいは契約の刀工=藩工になって、定期的に刀を収めて収入を得る刀鍛冶が多かった。以前にご紹介した荘司箕兵衛(大慶直胤)Click!や娘婿の荘司次郎太郎直勝は、秋元家の上州館林藩と契約して1年のうちで鍛刀した作品の幾振りかを秋元家に納品している。
 刀鍛冶は、基本的にひとりの作業では困難なため、相槌を雇ったり弟子をとったりして作業をすることになる。また、膨大な炭(おもに高温が持続する松炭が好まれた)や薪を消費するため、火床(ほと)の燃料費もバカにならない。それに加えて、硬軟とり混ぜた高価で良質な目白(鋼)や、寺社の解体修理などででる、大昔の砂鉄を製錬した良質な古釘などを購入しなければ作品は造れないので、地金屋からの原材料費の調達にも終始腐心していた。
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 江戸前期の高名な刀工に長曾祢興里入道虎徹Click!がいるが、寺社の解体修理などで不要になった良質な古鉄(こてつ)を用いて作刀することから、刀銘に「虎徹」と切るようになる。これらの経費を捻出するため、自身が理想とする作刀とは異なる、意にそぐわない注文打ちにも対応しなければならなかった。江戸期に生きた、そんな生活苦にあえぐ貧乏な刀鍛冶のエピソードが、現代まで数多く伝えられている。
 相州(鎌倉)住の廣光は、江戸期を代表する相州伝直系の刀工のひとりだが、弟子たちへなかなか給料が払えずに苦労している。そこで、弟子たちが稽古のために鍛えた“練習刀”をもってこさせ、その茎(なかご)に「廣光」の銘を切って刀屋へ卸し、なんとか年を越せるカネを捻出している。したがって、廣光なのに明らかに出来の悪い作品は、実は彼の作刀ではない可能性が高いのだが、これは商売のうえでも詐欺にはあたらない。刀屋も見る目があるので、明らかに刀匠自身の作ではないと知りつつもあえて引き取っているとみられる。人気のある刀工は、たとえ当人の作でなくとも「廣光工房」の作品として十分に販売価値があり、リーズナブルな価格に設定することで商売が成り立ったからだ。
 作刀の名人であり藩工もつとめていたが、あまりにも貧乏なので藩に願いでて当時の「非人小屋」(無料宿泊救済施療所のようなシェルター施設)に収容してもらい、そこで作刀をつづけた加賀藩の6代目・清光のようなケースもある。目白(鋼)や薪炭などを藩から支給してもらい、なんとか飢えずに作刀をつづけられたが、自身でも「非人清光」あるいは「乞食清光」を名のるようになる。加賀百万石の藩工であるにもかかわらず、満足に生活できないことへの痛烈な皮肉や批判が、その行動や刀銘にはこめられているような「非人清光」だが、その作品の出来は非常に優れており、沖田総司の愛刀としてもよく知られている。
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 幕末に生きた新々刀の巨匠、新宿区が地元で「四谷正宗」の異名をとるいまや人気No.1の山浦(源)清麿は藩工にならず、源清麿ファンの刀屋や町人、武家たちから出資してもらった「武器講」を生活の糧にして作刀していた。だが、講の資金をすべて生活費や酒代でつかいはたし、大江戸(おえど)から夜逃げをして“蒸発”している。
 にもかかわらず、もともと憎めない性格や容姿をしていたらしく、しばらくすると江戸へともどり、再び武器講へ出資してもらって作刀をつづけている。いま風にいえばイケメンだったらしく、生活に困窮すると近所にある商家のお内儀(かみ)さんたちのもとへ顔をだし、「ちょいと一万石貸してくださいな」「百文さね。頼むよ」と訪ね歩いたという。1854年(安政元)に自刃するまで、困窮生活はつづいていただろう。
 源清磨の弟子であり名工の栗原信秀も、しじゅう生活苦にあえいでいたひとりだ。信秀はカネがなく薪が買えなくなると、邸内の食膳など木製の調度品をたたき壊しては、竈や火床の火点けに利用していた。また、越後の弥彦社から鋼製の神鏡制作を依頼され、前渡し金として制作費の半金をもらったが、制作をはじめる前にすべて生活費につかいはたしてしまった。いざ仕事という段になって、どうしても目白(鋼)を購入するカネを工面することができず、地金屋に泣きついて材料を前借りしている。
 江戸期の刀鍛冶は、弟子入りを希望する若者が工房に現れると、まっ先に「刀鍛冶は貧乏だ。カネが欲しけりゃ商人になれ」と諭して追い返していた。事実、刀鍛冶で一生を貧乏のまま終えるのであれば、商人になって日々地道に稼いだほうが、よほど楽でマシな暮らしができたのだろう。新刀時代がスタートする室町期以前(刀剣美術史の時代区分に安土桃山時代は存在しない)の古刀時代のように、刀が鍛造するそばから売れていた時代はとうの昔話となり、また実際の戦闘では大砲(おおづつ)や鉄砲など火器の重要性が増すにつれ、武器としての刀剣の比重は時代をへるごとに低下していった。
 同時に、武家や町人を問わず、刀剣や刀装具の作品を美術的に鑑賞する“趣味”が拡がり、名刀やそれにまつわる物語を書いた本が出版されたり、美術的に優れた当時の刀工や人気刀工の作品を紹介する本などが売れるようになった。また、刀剣コレクションも武家・町人を問わず当たり前のようになり、刀剣の折り紙つき(鑑定書)を発行する専門職までが流行るようになる。江戸の街中や武家屋敷では、茎(なかご)の銘を隠して刀工を当てるブラインドテスト=鑑定会が、武家や町人が入り混じって開催されるようになった。
 つまり、よほどの名工か有名刀工、人気刀工、給与を保証してくれる藩工でなければ生き残れない、非常にシビアなマーケットが形成されていたのが江戸期であり、一般的な刀工は貧乏にあえぐか、鍛錬技術を活かせる別の職業への転職を考えざるをえなかった。
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 江戸の後期、砂鉄のタタラによる目白(鋼)復興を唱えた新々刀の刀匠・水心子正秀は、「刀剣は変に臨んで身命決断の重器なり」と書いているが、幕末に起きた「変」で威力を発揮したのは、もはや刀剣ではなく最新式の圧倒的な銃火器の導入による戦闘だった。

◆写真上:皮金・芯金・刃金・棟金など、多種多様な目白(鋼)を組み合わせて鍛錬する。
◆写真中上は、日本美術刀剣保存協会(日刀保)が主宰する出雲タタラ(島根県)の目白(鋼)で鍛えられた現代刀の茎。は、のたれ気味の刃文に銀砂を散らしたような荒錵(あらにえ)や砂流し、ときに金筋銀筋が見られる美しい相州伝の鍛錬技法。は、1688年(貞享5)に描かれた『正月揃』に収録された刀鍛冶の正月仕事始め。
◆写真中下は、文化年間に鍬形蕙斎(北尾政美)によって描かれた浮世絵『職人尽絵詞』の刀鍛冶。は、江戸後期に描かれた『名誉職人画之内』の「岡崎五郎【政】宗」。鎌倉の五郎入道正宗がどのように鍛刀していたかはまったく不明で、後世にすべて想像によって描かれたもの。は、鎌倉の本覚寺にある「五郎入道正宗墓」だが、小田原(後北条)帰りの相州伝・綱廣一派が後世になって建立した供養塔だろう。
◆写真下は、新々刀を代表する水心子正秀の茎銘。は、浅草本然寺にある荘司美濃介(大慶)直胤(箕兵衛)と娘婿の荘司直勝(次郎太郎)の墓で、江戸後期を代表する大江戸の刀匠。は、「刀女子」の圧倒的な人気をさらう幕末の源清麿が鍛造した相州伝作品の茎銘。新宿が地元の「四谷正宗」=源清麿の企画展を、作品を中心に新宿歴史博物館あたりで開催すれば、おそらく関東一円の「刀女子」たちが参集するだろう。いまでこそ「刀女子」と呼ばれているが、20年ほど前から都内で開かれた刀剣展に出かけると、やたら若い女性の姿が目立っていた。刀剣は総合芸術といわれ、美しい刀身ばかりでなく拵え(こしらえ=刀装具)の精緻な金工・木工・漆芸・織物・組紐などの伝統工芸や細工にも惹かれるのだろう。

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おちおち牢屋にも入れない村山知義。 [気になる下落合]

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 上落合(1丁目)186番地のアトリエに住んだ村山知義Click!は、子どものころからなんらかのコレクションをするのが好きだった。それは大人になっても変わらず、さまざまな資料やグッズを集めてはていねいに整理し保存していた。その蒐集癖が、連れ合いの村山籌子Click!にはまったく理解できなかったようだ。
 このテーマは、別に村山夫妻に限らず、多くの夫婦や男女間でも見られる傾向ではないだろうか。夫がせっせと集めている趣味の記念品やグッズを、妻にしてみれば住環境を狭くする邪魔なモノにすぎず、ガラクタでゴミにしか見えないというのは、あちこちで耳にする話だ。せっかく蒐集したコレクションを、妻が夫に確認せず燃えるゴミに出してしまったり、たいせつに保管してきた貴重な作品を、そうとは知らず消費してしまったりと、それが原因で夫婦や恋人の仲が悪くなったケースも多々あるのかもしれない。
 わたしも昔、フロア型スピーカーやLPレコードのラックが邪魔だといわれ、あまり聴かなくなったレコードコレクションを倉庫に避難させたことがある。さすがに、スピーカーを避難させると音楽が聴けないのでそのままにしていたら、エンクロージャーをサイドテーブルか収納スペース、飾り棚がわりに使われ、その上に置かれるモノが徐々に増えていき、JAZZを大きめな音量で聴くとそれらがカタカタ鳴って、音楽を聴いてるのか雑音を聞いてるのかわからなくなり閉口した。ついでに、わが家のネコ(先代)がサランネットを爪とぎにして以来、大きなフロアスピーカーはお払い箱になった。
 ジェンダー(性差)については、いろいろな考え方や視点、思想があるのだろうが、わたしの周囲を見わたす限り、男性は多種多様なコレクションを通じて自身を含めた「かつての物語」にこだわり、女性は過去などサッサと忘れて「現在から未来の物語」を志向する傾向が強いように感じる。そういう意味からすると、男性は空想癖や想像(妄想)癖をともなう夢想家(ロマンティスト)が多く、女性はいまいる生活基盤に立脚した合理的なリアリストが多い……といえなくもないけれど、晶文社あたりからジェンダー関連の書籍を出される方から、「偏見です」といわれそうなので、これぐらいに。
 神田区末広町34番地(現・千代田区外神田)で生まれた村山知義は、少年時代からなにかと蒐集するのが好きだったようだ。少年向け雑誌や、童話集を全巻そろえるのが端緒だった。ニコライ堂Click!下の開成中学に通うようになると、電柱に貼られた森下仁丹Click!のサイネージに書かれている、古今東西の偉人が残した格言を集めるのに熱中している。洋の東西を問わず、集めた格言は日記に赤インクで記録し、蒐集は3年もつづいた。
 カラフルなデザインのマッチ箱や切手はもちろん、当時の少年がコレクションしていそうなものはたいがい集めていた。特に切手の蒐集は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、上落合の自邸が焼失するまでつづけられていたようで、書架にあった切手のスクラップブックが灰になったことを惜しんでいる。
 大人になってからも収集癖はつづき、自身のことについて書かれている新聞や雑誌の切り抜きはもちろん、批評や写真、演劇や映画のプログラムなど、スクラップブック45冊にのぼる膨大な量の「自分情報」が集められていた。また、自身が描いた絵画やポスター、童話の挿画、原稿にいたっては、ほぼ100%ていねいに保存されている。
 ところが、几帳面につけていた日記でもスクラップブックでも、なんでも記録し保存する性癖が災いして、踏みこまれた特高Click!に格好の証拠品として押収されてしまったケースもあった。戦後の1947年(昭和22)に、桜井書店から出版された村山知義『随筆集/亡き妻に』収録の、「蒐集」から引用してみよう。
  
 蒐集に類した性癖は、読んだ本の名前の記録で、これは、こんなに読んだぞといふ自慢心に鼓吹されたのがやがて習慣になつたらしく、高等学校二年の頃からずつと続いてゐるが、昭和十五年の検挙のときに証拠品として押収された。それと同じノートに、やつた仕事の記録もみんなつけてあるのだが、これらの記録は昭和十八年の判決後、やつと返して貰つた。
  
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 最初の検挙では、村山知義のノートや資料が押収されると、村山籌子が代行して夫が進めている仕事の記録やスクラップを担当したが、二度目の検挙からは面倒くさくなり、村山知義が獄中Click!から何度叱咤してもやらなくなってしまった。
 村山籌子こと「オカズコねえちゃん」Click!は、仕事の記録はもちろん、自身が書いた原稿でさえ用が済んだら見向きもせず、ほとんど保存しないような性格だった。むしろ、夫の蒐集癖をあきれたように眺め、「軽蔑の言葉を投げつけるやうになつた」(同書)と書いているから、「こんなもの、とっといてど~するのよ。邪魔だから棄てたいんだけどな」……というようなことをいわれたのだろう。よくいえば前向きで過去にこだわらない、悪くいえば飽きやすくどこか“めんどくさがり屋”な性格だったようだ。同書の「我が妻の記」で、村山知義は彼女についてこう評している。
  
 例へば最も便利で合理的な生活を創り上げるための努力も止んだことがない。坐つてゐて飯が炊け、料理が出来、食事ができる、といふ工夫も大変だつたし、暖房問題の解決のためには、石炭ストーヴ、薪ストーヴ、煉炭ストーヴ、電気ストーヴ、瓦斯ストーヴと取り替え引き換え買ひ込み、或る時はアメリカ製のガソリン・ストーヴのために部屋が火に包まれてあわや大事に至らうとしたこともある。埃を立てず掃除が出来るといふ真空掃除機に初り(ママ)、電気按摩器、電気冷蔵庫、電気洗濯器と狭い家に置きどころもなく、尤もこれらは空襲によつて既に一切なく、われわれは原始状態に復帰してしまつた。(中略) 買ひ物は突発的なので、トラツクやサイドカーが家の前にとまると、私の原稿料は忽ち消し飛んでしまひ、私はまたもや何か新製品が到着したことを知るのである。
  
 村山籌子の家電マニアぶりは、以前にもこちらで「えっ、また買ったの? しようがねえな、しようがねえな」(村山知義)の記事Click!にしたけれど、彼女自身の原稿料はもちろん夫の原稿料も、昭和初期には高価だった海外製の輸入家電の購入で、あらかた消えてしまったのではないだろうか。彼女は銀座に出かけると、およそ女性が惹かれそうな店には立ち寄らず、輸入家電を販売する「マツダ・ランプ」の陳列所へと直行していた。村山知義は「しようがねえな、しようがねえな」を繰り返しながら、それでも「彼女の合理的科学的精神は厳として輝いてをり、私はまたそれを尊敬」(同書)していた。
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 さて、村山知義が蒐集した膨大なコレクションの数々は、米軍による空襲がリアルに想定されるようになった1945年(昭和20)早々、上落合からどこかへ疎開させる計画が立てられた。そこで牛車を上落合で雇い、スクラップブック45冊を知人が住んでいる小田急沿線の鶴川村まで疎開させたところ、運賃に300円と酒1升を請求されたのでやむなく中止している。そこで、甲府の医学校で学生をしている長男(村山亜土Click!)の下宿先へ、未発表原稿や雑誌・新聞に発表した作品群(いまだ単行本化されていないもの)、日記、読書帳、仕事帳、油絵、デッサンなどを村山自身がこまめに運んだ。
 上落合が壊滅Click!した第2次山手空襲のとき、村山知義は仕事で朝鮮を旅行中だった。同書の「蒐集」から、再び引用してみよう。
  
 ところが留守の間に、五月二十五日の空襲で東中野の家は焼け、書籍三千冊を始め、先の牛車一台分を除いた一切のものが失はれたが、その中には前述の古切手帳もあり、旅行のたびに集めた土俗的玩具の数々もあり、また十年この方の演劇、映画の入場券で貼りつめた応接間の壁もあつた。ついで七月七日にはたつた一ぺんの空襲で甲府が全焼し、私の息子は何一つ持たず、命からがら逃げ出して、乞食のやうな姿で鶴川村に帰つて来た。かうして私の半生の蒐集は、偶然鶴川に持つて行つてゐたスクラツプ・ブツク四十五冊を除いて一切なくなつてしまつた。
  
 村山知義が、上落合の自宅を「東中野」と書くのは、1921年(大正10)に家を建てたときの最寄り駅が、中央線の東中野駅(少し前まで柏木駅Click!)だったからだ。西武線が敷設されてからは中井駅Click!、または1930年(昭和5)7月からは下落合駅Click!の双方が最寄り駅となる。自宅が空襲で焼失したとき、彼は京城にいて妻からの手紙をもらうと、あまりの口惜しさにひと晩じゅう眠れなかったと書いている。
 村山知義が仕事や旅行、そして特高に検挙されたあとの監獄を問わず家を“留守”をしていると、なにごとか「事件」が起きるのは、別に上落合の空襲時に限らなかったようだ。彼が大正期にドイツで描き、たいせつに持ち帰った油彩のタブロー×3作品を、いつの間にか村山籌子が石炭を入れる袋にしてボロボロに腐らせてしまったし、村山知義が出獄して家に帰ると、洋服ダンスにたくさんあったお気に入りの洋服や帽子が消えていたことがあった。
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 地下に潜行している同志の変装用に、また生活に困っている人たちを支援するために、夫の帽子やオーバー、靴など身のまわりのものいっさいを勝手に“カンパ”してしまい、ようやく刑期を終えて刑務所から帰宅しても、着替えるものがなにもなかったのだ。村山知義は、しばらく家を空けることになると「また、何か失はれはしまいかと、おちおち牢屋にもはいつてゐられない」(同書)とこぼしているので、よほど気が気ではなかったのだろう。

◆写真上:1925年(大正14)ごろ撮影された、毛糸帽子をかぶる村山知義。
◆写真中上は、建て替え前の「三角アトリエ」時代とみられる村山知義アトリエの内部。は、1930年(昭和5)に上落合の自宅付近で撮影された村山一家。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる村山アトリエ。敷地内に数棟みられるのは、新たに庭へ建てた貸家やアパート。は、村山アトリエ跡(右手前)の現状。は、1947年(昭和22)の村山アトリエ跡で、すでにバラックが建設されている。
◆写真下上左は、1926年(大正15)の「アトリエ」4月号に掲載された村山一家。自邸の建て替えスタート後、下落合735番地のアトリエで撮影されたのかもしれない。上右は、1947年(昭和22)出版の『随筆集/亡き妻に』(桜井書店)。は、1927年(昭和2)3月に下落合735番地のアトリエで「アサヒグラフ」のカメラマンClick!が撮影した村山籌子。

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目白中学校の「目白学園」構想とパンデミック。 [気になる下落合]

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 下落合437番地にあった目白中学校Click!の卒業生名簿を見ていると、落合町や戸塚町、牛込区、淀橋町、高田町、西巣鴨町、長崎町、野方町、中野町など現在の新宿区や豊島区、中野区の在住者が多かったことがわかる。また、その教育方針に共鳴した親たちが、子どもを下宿させてまで同校に通わせているケースも数多くあり、北海道から沖縄県までの全国はもちろん、台湾や朝鮮からも生徒たちClick!が集まっていた。
 目白中学校からの進学先は、東京にある高等学校(大学予科)や大学、専門学校などをほぼ網羅しており、就職先は企業から官公庁、医師、軍人、教師と多種多様だ。1914年(大正3)の第1回卒業生から、1930年(昭和5)の第17回卒業生までの卒業者総数は1,486名で、このうち行方不明者が223名(所在を同窓会に知らせていないOBだが、死者も含まれているかもしれない)、死者が72名となっている。
 卒業生のうち、行方不明者223名と死者72名を引いた1,191名の中で、1930年(昭和5)現在で落合町に居住している卒業生は全部で61名にのぼり卒業生全体の5.1%、同様に高田町(現・目白/雑司ヶ谷地域)に居住している卒業生は65名で全体の5.5%、戸塚町(現・高田馬場地域)に居住している卒業生は全部で42名で全体の3.5%、同じく長崎町に居住している卒業生は34名で全体の2.9%という構成になっている。
 目白中学校があった落合町と、その周辺域の町だけで202名の出身者(1930年現在での在住者)を数えることができ、卒業生全体に占める割合は17.0%と、同中学校の入学者が全国規模だったことを考えれば圧倒的に高いことがわかる。さらに、就職による赴任や結婚などによる独立で、これらの町々から離れている卒業生がいると思われ、実数はもっと多かったのではないかとも想定できる。
 ほかにも、中野町や野方町、西巣鴨町(現・池袋地域)、淀橋町などに住む卒業生が多く、近隣の地域から目白中学校へ通ってきていた生徒が圧倒的に多かった様子がうかがえる。つまり、これらの町々に住む子どもたちが、歩いて、自転車で、または山手線に乗って気軽に通える下落合にあった目白中学校に惹かれたのであり、同中学校にしてみればこれらの町々に住む家庭の子どもたちが、学校経営の安定を約束していた重要な基盤だった。
 ところが、上練馬村高松2305番地に移転することによって、その経営基盤が丸ごと失われてしまったのだ。練馬への移転に、異議をとなえた卒業生も多かったらしく、将来を不安視する声がずいぶん同窓会委員会にも寄せられている。1930年(昭和5)に発行された『同窓会会誌』Click!第16号から、そのいくつかを引用してみよう。
  
 六回生  深津二郎
 母校に対して、とかくの風説あるを悲しむ。諸先生の御健康を祈る。
 七回生  宇田川義一
 久闊誠に申訳ありません。率直に申立れば、最近の母校は幾分影薄くなつたのではないかと、密かに心配致しております。『皇国の興廃此一戦にあり』の句を忍んで、在学の健兄と卒業生、教職員一団となつて、何らかの方法で再起しようではありませんか。
 八回生  高橋良夫
 母校の消息を聞く事は言外の喜びです。而し近来度々互に淡い希望と心細さとを感ずるものです。誰も望む母校の向上は果して…将来に於る母校の輝を尚如何に……。
 十四回生 乙部 実
 今度目白学園と云ふ名の下に拡張計画が行はれてゐるとの事、母校の益々盛になるよう祈つて居ます。委員諸兄の御骨折を感謝いたします。
  
 練馬への転後、昭和期に入るとともに教育界における目白中学校の存在感が、徐々に希薄になっていくのを卒業生たちも薄々気づいていたのだろう。同校の『同窓会会誌』には、このような声が毎回寄せられていたと思われる。
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 この寄稿文の中で、「目白学園」という聞きなれない言葉が出てきている。目白学園Click!といえば、現在では下落合の西端(現・中井2丁目)、目白崖線ではもっとも高い標高37.5mの丘上にある、目白学園・目白大学(大正期は城北学園Click!、戦前は目白商業学校Click!)が思い浮かぶ。だが、目白中学校では昭和初期に学校名を「目白学園」と改称し、なんらかの学校再編(再建)プランを立てていた様子がうかがえる。
 以前、下落合にあった目白中学校のキャンパス内へ、新たに「目白工学校」Click!を設立して生徒を募集していた新聞広告をご紹介しているが、この学校拡張計画に絡んだ学校名の“改称”だろうか。それとも、「目白工学校」は実際に生徒が集まり開校した形跡がないので、それとは別のまったく新しいプランだろうか。だが、練馬キャンパスの周辺は、一面の田園地帯で人家も少なく、小学校や幼稚園を併設してもそれほどニーズがあったとは思えない。あるいは、中学校からそのままエスカレーター式に上がれる、高等科(目白高等学校)を新設する計画でもあったのだろうか。
 練馬へ移転する前後の目白中学校では、先の「目白工学校」計画や上記の「目白学園」計画のように、生徒数の減少をあらかじめ予想し、経営上なんらかの対策や施策を考えていたフシが多々見られる。そのうち「目白工学校」は具体化したが、媒体広告を何度か打って生徒まで募集したにもかかわらず結局は失敗に終わり、「目白学園」構想はどこまで具体的なビジョンが存在したのかも不明な計画だ。
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 さて、卒業生の行方不明者はさておき、死亡者の傾向にはかなり特徴があるので少し取りあげてみたい。第1回生から数え、17年間にわたる卒業生の死亡率をみると全体で4.8%となり、当時の医療環境からいえばそれほど高い数値とはいえないけれど、1930年(昭和5)の時点で1917年(大正6)あたりから1919年(大正8)にかけ東京で、つまり下落合の校舎で学んでいた生徒たちの死亡率が、飛びぬけて驚くほど高い。
 たとえば、1917年(大正6)の第4回卒業生は44名だが、うち5名がすでに死亡しており死亡率は11.4%、1918年(大正7)の第5回卒業生は65名で、うち13名がすでに死去して死亡率は20.0%、1919年(大正8)の第6回卒業生は62名で、死者は5名にのぼり死亡率が8.1%と平均値よりかなり高い。これは、おそらく同時期に流行した「スペイン風邪」のパンデミックによる、なんらかの影響がありそうだ。
 この時期の生徒たちは、流行が猖獗をきわめた東京で通学をつづけることにより、健康へ大きなダメージを受けやしなかっただろうか。特に1918年(大正7)の死亡率20.0%は、10人の卒業生がいたら2名が死亡していることになる。「スペイン風邪」のウィルスが体内に潜伏あるいは後遺症を残し、のちに重篤な病気の引きがねになっている可能性もありそうだ。ウィルスに感染したあと、リアルタイムでは症状が出なかったり軽症だったとしても、のちにどのような重病を招来するかは、現在のCOVID-19も当時の「スペイン風邪」ウィルスも不明だ。しかも、死亡しているのがほぼ20~30代であることにも留意したい。
 また、1924年(大正13)の第11回卒業生も、78名の卒業生に対して7人が死亡し、死亡率9.0%とかなり高い数値になっている。こちらは、前年に起きた関東大震災Click!による影響から、PTSDが卒業生たちの健康に大きな影響をおよぼした可能性がありそうだ。ちなみに、下落合の目白中学校自体は、関東大震災の被害Click!をそれほど受けていない。
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 目白中学校の同窓会には、「特別会員」という別枠があって新・旧の教職員が参加できる組織になっている。その名簿を見ると、柏原文太郎Click!をはじめ、清水七太郎Click!篠崎雄斎Click!の名前を見つけることができるが、難波田憲欽Click!金田一京助Click!は見あたらない。やはり、市街地からは遠すぎて、会員になるのがおっくうだったものだろうか。

◆写真上:練馬移転後の1929年(昭和4)に、校舎前で撮影された目白中学校の応援団。
◆写真中上は、月桂樹の校章が刺繍された校旗。は、校庭での軍事教練の様子。
◆写真中下は、1930年(昭和5)3月の第17回卒業生たちの記念集合写真。は、1929年(昭和4)に開催された目白中学校運動会の開会式。
◆写真下:同運動会で行われた、パン食い競争()と角力大会()の様子。

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思想が交差しない近衛篤麿と宮崎滔天。 [気になる下落合]

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 下落合417番地に住んだ近衛篤麿と、そのすぐ北隣りにあたる高田町雑司ヶ谷上屋敷3621番地に住んだ宮崎滔天は、欧米列強に侵略されつづける清朝の「中国革命」を支援し「アジア主義」を標榜したが、両者の思想はまったく異なっている。前者は東亜同文会Click!を結成(合同)して組織的にも具体性があり、その主張は欧米政治家の間でも(危機感とともに)よく知られていたが、後者は日本国内や中国の革命派の一部にはよく知られていたものの、欧米諸国ではほとんど認知されていなかった。
 近衛篤麿の思想は、ひとことでいえば“日本主導”で中国革命を支援し、中国に革命政府が成立したのちは“日本主導”でアジア諸国の独立を助け、ゆくゆくはアジア諸国が連携して“日本主導”で欧米の植民地勢力を追い出そうという、日本を中心としたアジア型の「モンロー主義」をめざすものだった。あくまでも日本を中核にすえた「同人種同盟論」は、のちの「大東亜共栄圏」を生みだす思想的な出発点のひとつを形成している。
 1898年(明治31)に刊行された雑誌「太陽」1月号に掲載された、近衛の「同人種同盟 附支那問題の研究の必要」が欧米に衝撃を与えたのは、著者が華族の中心的な一族の人物のみならず、当時は貴族院議長の職にあったせいもあるが、それ以前に1893年(明治26)にニューヨークとロンドンで出版された、チャールズ・ピアソンによる『国民の生活と性質』が欧米でベストセラーになっていたからだろう。ピアソンの同書は、現在は欧米の植民地として虐げられている有色人種(特にアジア人)が、将来的には結束して逆に欧米を脅かす存在に成長するという、「黄禍論」のさきがけのような内容だった。
 近衛篤麿が、「同人種同盟 附支那問題の研究の必要」を発表したのと同年、東亜会と同文会を合同させ東亜同文会Click!を結成し、「支那を保全す、支那および朝鮮の改善を助成す、支那および朝鮮の時事を討究し実効を期す、国論を喚起す」という綱領を発表した。ここにもあるとおり、中国革命を支援するにしても対等の立場ではなく、あくまでも中国を「保全す」るのは日本であり、「保全」されるのは中国だという優越的な関係性がすでに見えている。「同文」は同文化の略だが、上海に東亜同文書院Click!が、東京の下落合437番地の近衛邸敷地内には東京同文書院Click!が設立され(のち目白中学校Click!併設)、中国をはじめベトナムやインドなど、アジアからの留学生を募集しはじめたことで、欧米諸国はさらに神経をとがらせたことだろう。
 当時、中国の人口は4億人であり、インドもほぼ同数の4億人、それに最新の軍備を整えつつあり日清戦争に勝利した日本を加え、清の外交官だった曾紀沢の論文(英文)のように、アジア諸国が自主独立をめざす「東洋連合」が実現すれば、欧米の植民地勢力はひとたまりもなく、また本国の欧米、特に地つづきのヨーロッパはその勢力に呑みこまれてしまうという危機感が、中世のモンゴル帝国の侵略記憶とあいまってリアルに受けとめられはじめていた。もっとも、徹底的に差別し虐げた人々に対して、その「負い目」や「罪悪感」から現実以上の危機意識や被害妄想をつのらせるのは、別に当時の欧米人に限らない。
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 近衛篤麿も大きな影響を受けたとみられる、当時は英文で発表された曾紀沢の論文を、2020年に筑摩書房から出版された嵯峨隆『アジア主義全史』から孫引きしてみよう。
  
 今日東洋諸国に就て、余輩が最も憂ふる所は、各々些細の猜忌のために分裂して相好からず、東洋国同士の間柄よりも寧ろ其の西洋国に対する間柄の方をして、較や相近からしむるが如き迹あるは何ぞや。東洋国同士は宜しく一致連合して、其西洋国との交通関係をば戦敗より余儀なく生ぜるものにあらずして、彼我対等の条約より自から好て造りたる者となし度ものにあらずや。
  
 曾紀沢の「東洋連合論」を、近衛篤麿はそのまま日中提携をはじめとする「同人種同盟論」に置きかえたわけだが、文中にある「宜しく一致連合」はあくまでも日本がヘゲモニーをにぎって他国を従え、日本の「保全」あっての「同盟」であって、個々の国々が独立して主体的な政体を形成するとは想定されていなかった。それは近衛篤麿が死去した直後、1905年(明治38)に日露戦争で日本が勝利したことにより、東亜同文会をはじめとするアジア主義者の間では、ますます強まり傾斜していく志向だったと思われる。
 現在でも、日本が中国と政治・経済的に親密になると、欧米諸国はあからさまな不快感を隠さない。当時は、日中印あるいは日中露の同盟が欧米から怖れられたが、ロシアや東ヨーロッパなどスラブ系も欧米から見れば「異人種」ととらえられていたことに留意したい。いまでこそ、中国は独裁政権下で日本からは「遠い国」と見られがちだが、同国が民主化されたその先には、地理的に近く歴史的にも交流が深い日本が親近国として位置づけられるのはまちがいないだろう。そのとき、欧米諸国の不安や恐怖は、おそらく激しく再燃するにちがいない。欧米諸国にとっては、日中あるいは日露の仲が悪いことがベストな環境であり、関係が緊密になることは当時にも増して「悪夢」なのだろう。
 近衛篤麿が訪中しただけで、欧米のマスコミが危惧した様子を、2020年に講談社から出版された廣部泉『黄禍論―百年の系譜―』から引用してみよう。
  
 同人種同盟論の提唱者である近衛篤麿が北京を訪問すると、欧米各紙は、日中同盟締結は近いのではないかと危惧した。ロンドンの『タイムズ』は、近衛は中国で日中同盟を求めると予測したし、『シカゴ・トリビューン』は、近衛は日中同盟を締結するために訪中したと論じている。『ロサンゼルス・タイムズ』も、「東洋の二つの帝国が引き寄せあっている」と題する記事を掲載し、日中同盟は近いとの考えを示している。近衛の訪中という情報だけで、根拠のない日中同盟が強く疑われたことから、日中合同という形の黄禍論的考えがこの時期に広まっていったことがわかる。
  
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 近衛篤麿とは正反対に、アジアの革命・独立や連合は、日本ではなく中国革命が中心となって推進されるべきだと主張したのが、近衛より8歳年下の宮崎滔天(虎蔵)だ。それは当時、日本とは桁ちがいの歴史と文化の蓄積や、人口4億人を抱えていた中国のマンパワーとも、深く連関づけていた視界であり思想にちがいない。
 もともと自由民権運動に参加していた宮崎は、国と国の関係は対等であるべきであり、先々の国利国権ばかりをめざす同盟論者は、結局は欧米の侵略者たちと変わらないエセ・アジア主義者と見なしていた。このような思想的立場をとる人物はきわめて少なく、日清戦争そして日露戦争ののち日本が有頂天になっている社会状況の中では、「民権派アジア主義者」としてきわめて異彩をはなっている。今日の中国や台湾で、宮崎滔天が大きく顕彰されているのを見ても、近衛との思想的な対立軸は明らかだろう。
 宮崎の政治的な立脚点は、帝政(帝国)ではなく資本主義革命(市民革命)をへたうえでの共和制(共和国)を理想としていた。つまり、帝政に立脚する近衛篤麿とは対極に位置する革命思想であり、そういう意味では資本主義革命の先達であるフランスをはじめ、ヨーロッパ諸国の共和制を理想政体としたように見える。彼は中国にわたり、実際さまざまな革命運動にかかわることになり、近衛よりもはるかに主体的かつ実践的だった。
 だが、当時の帝政清国にそのような変革を求めるのは困難であり、宮崎は革命家の孫文Click!を支援しつつ、古代中国に存在したといわれる理想的な国家体制に惹かれていく。宮崎滔天『三十三年之夢』(岩波書店)より、孫文の言葉を引用してみよう。
  
 抑も共和なるものは、我国(中国)治世の神髄にして先哲の偉業なり、則ち我国民の古を思ふ所以のものは、偏へに三代の治を慕ふに因る。而して三代の治なるものは、実に能く共和の神髄を捉へ得たるものなり、謂ふことなかれ我国民に理想の資なしと、謂ふことなかれ我国民に進取の気なしと、則ち古を慕ふ所以、正に是れ大なる理想を有する証的にあらずや。(カッコ内引用者註)
  
 宮崎滔天がイメージしていた共和制は、すでに古代中国に存在していた「三代の治」に近似したものであり、最終的に達成されるべき民主革命後の中国は、その理想に近い政体(近似的共和制)になるべきだと考えるようになる。
 だが、さまざまな経験や挫折をへるにつれ、彼が理想とする「三代の治」はアナキズム的な色彩を強め、また日本が革命の支援者ではなく、あからさまに中国革命の妨害者として立ち現れるにいたり、徐々に悲観的な見方を強めていく。最終的には、理想社会とは「過激主義でもなく、共産主義でもなく、又無政府主義でも国家社会主義でもない一種の社会主義であって、(中略)至極穏和な社会観」(宮崎滔天「出鱈目日記」1920年/『アジア主義全史』より)へと収斂していく。
 宮崎滔天の思想は、革命後の中国(中華民国)を除き欧米はもちろん、国内でも大きな注目を集めなかったが、彼の思想に強く反応した人物がいた。早くから中国問題に注目し、アジア革命を基盤にゆくゆくは世界革命を視野に入れていた思想家・北一輝Click!だ。彼は、日清戦争で同胞である中国にダメージを与えた「罪滅ぼし」として中国革命を支援し、アジアから欧米列強を駆逐しなければならないと説く。
 1906年(明治39)に自費出版された北一輝『国体論及び純正社会主義』は、内務省からわずか5日で発禁処分を受けている。その2ヶ月後、北一輝は宮崎滔天の革命評論社へ参画するようになるのだが、それはまた、別の物語……。
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 下落合の近衛篤麿邸から、上屋敷(あがりやしき)の宮崎滔天邸まで、直線距離でわずか650mほどしか離れていない。当初は東亜会に所属していた宮崎滔天と、同文会を設立した近衛篤麿とは、両組織が1898年(明治31)に合同したあともお互い会員でいたが、ふたりの思想は大きくかけ離れていった。両者の息子である宮崎龍介Click!近衛文麿Click!もまた、思想的な一致点はほとんどなかったと思われるのだが、少なくとも1937年(昭和12)の夏に起きた「特使事件」Click!まで、ふたりにはなんらかの交流がつづいていたのかもしれない。

◆写真上:下落合417番地の近衛篤麿邸跡で、正面のケヤキは玄関の車廻し跡。
◆写真中上は、近衛篤麿()と論文「東洋連合論」を発表した曾紀沢()。は、目白通り沿いの東京同文書院跡。は、1914年(大正3)の東京同文書院記念写真。
◆写真中下は、中国の革命家・孫文()と宮崎滔天()。は、雑司ヶ谷上屋敷3621番地の宮崎滔天邸跡。は、2020年の同時期に出版された嵯峨隆『アジア主義全史』(筑摩書房/)と、廣部泉『黄禍論―百年の系譜―』(講談社/)。
◆写真下上左は、1913年(大正2)に撮影された孫文(中央左)と宮崎滔天(中央右)。上右は、宮崎滔天の思想へ鋭敏に反応した北一輝。は、1917年(大正6)の1/10,000地形図にみる600m余しか離れていない宮崎滔天邸と近衛篤麿邸(すでに死去)の位置関係。

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高田町を訪ね歩いた感想文1925。(下) [気になるエトセトラ]

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 『我が住む町』Click!の巻末に収録された膨大な感想文Click!は、当然のことながら学年が上がるにつれて長文が多くなる。特にプロジェクトを企画した高等科の学生たち(19歳前後)の文章は、感想文というよりも調査後の総括文のような内容が多い。また、最高学年にあたる高等科2年生の文章は4名ぶんしか掲載されておらず、他の学生たちは「貧乏線」Click!「衛生環境」Click!の統計調査の処理や、集計後の論文(本文)執筆に忙しく、巻末の文章にまでは手がまわらなかったのだろう。
 前回と同様に、とてもすべての文章を紹介することはできないので、今回も代表的な感想文の一部を引用してみよう。まずは、本科4年生から。
  
 相当立派な構へのお家でもすぐ主人自ら出ていらしつて心よく(ママ)応対して下さつた所も多くありました。なんでも女中を通じての家はほんとに厄介でした。一事毎に中へ聞きに入るのでこちらも面倒だし、あたらにもお気の毒に思ひました。ちやんと分つてゐるのに、留守だと言はせる家もありました。こういふ家よりも労働してゐる方たちの方は、矢張り初めはこちらの心が通じないので変な顔をしてゐますけれど、分つてくると一生懸命に聞かないことまでも話して呉れます。只もう少し常識と礼儀とかあつて欲しいと思ひました。(本四 菅谷美恵子)
 「頼まれもしないのに御苦労様」と冷めたい目で言つた方がありました。さう云ふ時怒つてはならないと云ふのは、私等の約束でしたので、落ち付(ママ)いて思ひました。私は忍びました。冷めたい打算的な気持で出来る仕事ではない。人から強制されて出来る仕事ではない。唯自分自身したいと云ふ心だけで出来る仕事だと。(本四 宇佐川せつ子)
  
 「もう少し常識と礼儀とかあつて欲しい」人たちとは、おそらく当時の職工の家庭で、彼女たちの調査に主人がいろいろ親切に応対してはくれるものの、いつか女性専用車両の記事に登場した鬼瓦権蔵さんClick!のように、「よっ、ねえちゃん、ハイカラなべべだねい」とか「チョーサ終わったらよ、上がって一杯いこ、よっ、ねえちゃん!」とか、そのたぐいの“気さく”な家ではないかと思われるのだが。w
 中には、海外の衛生環境を知る主人が出てきて、彼女たちにその様子をわかりやすく具体的に解説しながら、衛生設備の改良をぜひ町役場に強くアピールしてほしいと依頼する家庭もあった。おそらく学者か、海外を視察したことのある企業家だったようで、ひょっとすると“電気の家”の山本忠興邸Click!の北隣りにあたる、高田町千登世1番地に住んでいたあめりか屋Click!の技師長・山本拙郎邸Click!だったかもしれない。
 次に、予科の女学生たちの感想を聞いてみよう。予科は、自由学園の本科出身ではなく、通常の女学校(4年間)を卒業してから、高等科(2年間)に進むための教養課程のようなコースで、尋常高等小学校+女学校で、すでに17歳前後の女子たちが多かった。彼女たちが高等科を卒業するころは、20歳を迎える女学生もいただろう。
  
 唯一軒どうしても答へて下さいませんでしたので、悪いとは知りながらも、謙遜な態度をすることが出来なかつたことを、今考て、ほんとうに残念に思つて居ります。少しでも忍耐することが未だ出来ない自分を今更の様に恥しく思ひます。/その外には真剣に親切な謙遜の態度で朝から晩まで働き通し得たのは本当に不思議な位でした。一軒毎に自分の態度言葉が洗練されてゆくのが目に見えて嬉しく心強く感じました。(予科 杉本泰子)
 調査の日は寒い路の悪い日でした。あの日をふり返つてみると、第一にきたない路をこねて歩いた事が思ひ出されます。それ程私達は路の悪いのになやまされました。然しあの二日は私達にとつてはよい勉強の日でした。大きい実社会の仕事にはじめてふれた時、学校で習つて居る事がどんなに役立つかと云ふ事を深く思はされました。(予科 村瀬春子)
  
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 道路の悪さや調査日の悪天候は、これまでも『我が住む町』のレポート記述の随所に出てきているが、1925年(大正14)2月26日(木)と27日(金)は、東京中央気象台の記録によれば「曇り」と「雪」なので、当時は地面がむき出しの路面はグチャグチャだったろう。気象台のある市街地では「曇り」と「雪」だが、高田町は両日とも雨もよいの日だったらしい。特に、高田町の南側には目白崖線があり、その急坂を上り下りするのはたいへんだったにちがいない。転んで泥だらけになった女学生も、何人かいたかもしれない。
 当時の東京は、市街地(東京15区Click!)はともかく、郡部では舗装されている道路がきわめて少なかった。いまだ砂利や砂を撒いて、滑り止めやぬかるみ除けにしたり、幹線道路には石炭がらを撒いて固め、水を吸収するイギリスの方式をまねた「炭糟道」Click!と呼ばれる簡易舗装は行われていたが、住宅街の中に敷かれた三間道路や二間道路は土面がむき出しのままだった。
 ひと雨降れば、平地の道路なら靴を取られるClick!ほどのぬかるみになり、大雨の坂道なら水が滝のように流れ落ちた。道路わきにある側溝(ドブ)が雨であふれると、汚水が道路まで拡がるのも、高田町を縦横に調査する女学生たちを悩ませたにちがいない。当時は、玄関先に靴洗い場Click!を設置している邸も少なくなかった。
 つづけて、高等科1年生による取材の様子を聞いてみよう。
  
 或る炭屋のおかみさんは、眼のとげとげした本当に恐ろしい顔をした人で、始めは一と言二た言こちらが言つても何とも云はずに頭の上から足の先までじろじろ眺めてゐた時には、私の弱い心は何だかいやないやな気になりましたが、又勇気をだして、色々丁寧に幾度も幾度もたずねたずねたので、だんだん心がとけたらしく、しまひにはよけいな事まで丁寧に話して呉れる様になり、すつかり始めとは様子が変つてしまひました。(高一 相良淑子)
 大抵のお家は、ちやんと気持のいゝ返事をして下さいましたが、唯一軒だけ、可なり立派そうなお家で、気を悪くさせられました。その時もう少しで私は自由学園の学生らしい態度を失ひかけました。色んな事にすぐ破裂しそうになる私には、小さい事ですけれど我慢すると云ふ事のいゝ勉強だつたと思ひます。(高一 林始子)
 直接社会の仕事にあたつて見ると、段々自分が忍耐強くなれて行くと云ふことを感じて本当に嬉しく思ひます。前には意地の悪い人にあつたり、また人に侮辱されたりすると、怒つてしまふ自分であつたのに、忍耐して、お互ひに解り合ふまでつとめて行きたいと思ふやうになりました。(高一 安東千鶴子)
  
 おそらく、わたしは女学生たちよりも、はるかに短気で忍耐力がないだろう。
 わたしは、彼女たちのようにキリスト教的な思想や倫理観は持ちあわせていないので、もし「気を悪くさせられ」ることがあったりすれば、彼女たちも文中で書いている「左の頬を打たれると右の頬を差しだす」どころか、相手の左右の頬を打ち返す以上のダメージを与える報復権を留保し、機会があれば即座に実行するか、機会を自ら進んでつくろうとするだろう。わたしには、当時の高田町の社会調査にはおそらく参加できそうにない。w
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 林さんが、別のところでホンネを書いているように、社会調査に参加することについて「何だか嫌だつたのです。一昨年の蒲団デーで蒲団を集めた時の事を思ふと」と、関東大震災Click!時に展開した被災者支援のボランティア活動Click!でも、高田町内でイヤな思いを味わっていたようなのだ。
 同様に、「自分の我儘を全く捨てなければ出来ないこのお仕事は、二日間の教場の授業よりも、私のやうなものゝ生命の本当に成長して行く上に大事なお仕事であつたと思ひます」(高一 横田のり子)と書くように、自我を滅却し広いキャパシティのある鷹揚な心を鍛える、ほとんど“悟り”に近い精神力を獲得するための、修練あるいは修業のような2日間だったのかもしれない。
 最後に、卒業を目前にした高等科2年生の感想を引用してみよう。
  
 調査のことをきめる前に、一万にも近い高田町全体を、一軒一軒戸別訪問して面倒なことを聞いたりすることが出来るだらうか、モツトたやすい仕事を擇んだ方がよくはないか、そんな心配はしながらも、かう云ふ必要な調査が、町役場にも警察署にも、まだないと云ふことを聞いて、力一つぱいやつて見る気になつた。調査に出かける一週間位前からは、毎日全体講堂に集つて、説明したり質問したりして、色々に研究し相談をした。少ない人数で考へてゐるよりも、大勢になればなる程又沢山のよい考へが出るものだと云ふことを学んだ。(高二 山脇登志子)
 一度も怒鳴られず、却つてどこへ行つても御礼を云はれ、ほんとうに、恐縮してしまひました。怒鳴られた方々もあつた様でしたけれど、聞く方の人の態度も十分でなかつたのではないでせうか。(高二 奥村數子)
  
 山脇さんは商店レポートで乾物屋Click!を、奥村さんは菓子屋Click!を担当している。奥村さんの「一度も怒鳴られず」は、女学生の多くがイヤな思いを感想文に書いていることを考慮すれば、非常に幸運でまれなケースだろう。自由学園の町勢調査だと聞くと、なぜか顔色を変えて怒りだす住民がけっこういたらしい。社会調査について、なにか大きな勘ちがいをしている家庭か、もともと女子の自立や「職業婦人」をめざす同学園の教育方針を、快く思ってはいない住民たちだったのかもしれない。
 「だけどあの(床屋の)主人のことを思ふと馬鹿らしいと思ひながら腹が立つた」(高二 渡邊みき)と、自身の素直な想いをそのまま綴る彼女たちの文章に惹かれるのは、自分の考えや感じたことを率直に、宗教の教義による妙なオブラートに包んで自己規制せず、また、なにものからも検閲を受けずに表現できることこそ、「自由」なのだと感じるからだろう。
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 もちろん、「ウェ~イ、好き勝手書きゃがって、てめ~出てこい! コノヤロー!」と、どこか泉谷しげる似の床屋が、酒臭い息で学園に怒鳴りこんできたら、「コノヤローとはなんです、腹が立つのはこちらですの! だいたい、わたくしは野郎じゃないわ。おとついいらっしゃい、このナマズヒゲの大べらぼう*の床屋いらずのハゲ頭!」とケンカを買う責任は、羽仁夫妻はさておき、「自由」な表現をした渡邊さんにはついてまわるのだが。w
 *おおべらぼう:東京地方の方言で、この場合はばか野郎を上まわる救いようのない「大ばか野郎」の意。
                                  <了>

◆写真上:敗戦直後の1947年(昭和22)に、米軍のF13Click!から爆撃効果測定用に撮影された自由学園。旧・高田町の上屋敷界隈は、戦災の延焼からまぬがれている。
◆写真中・下:同様に、F13によって撮影された旧・高田町界隈。

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高田町を訪ね歩いた感想文1925。(上) [気になるエトセトラ]

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 自由学園Click!が、1925年(大正14)に刊行した『我が住む町』Click!(非売品)の巻末には、訪問調査に参加した102名による女学生たちClick!の感想文が掲載されている。本科1~4年生、予科、高等科1~2年と、学年をまたいだ取材後の代表的なレポート類だ。ただし、この中には自由学園に残って情報管理や進捗管理など、後方支援を行っていた女学生たちClick!は含まれていない。
 ここで語られる街の様子は、おそらく高田町(おおよそ現・目白1~3丁目/雑司が谷/高田/西池袋2丁目/南池袋2~4丁目界隈)にとどまらず、南西隣りの落合町(現・下落合/中落合/中井/上落合/西落合のエリア)や、南隣りの戸塚町(およそ現・高田馬場/西早稲田界隈)でも、ほぼ同じような状況ではなかったかと思われる。女学生たちの感想文は、自主規制をしたり羽仁夫妻Click!による校閲の手が加えられておらず、ほぼそのままストレートに掲載されているとみられ、学園の名称のとおり思ったことや感じたことを、「自由」かつありのまま書いているのだろう。
 だから、高田町のいくつかの字名や地区を特定して、「大変きたない」とか「貧乏な人達が沢山ゐる」、「だらしない」とか、今日ならかなり差し障りがあるので校閲の手が入りそうなところも、そのまま活字になっている。特に、調査しに出かけてひどい目に遭っているところや、怒鳴られたり追い払われたりしている住宅や商店、地区などは、彼女たちの容赦ない辛辣な批判にさらされている。
 さすがに、現在では掲載するのががばかられるので、特定できる地域や家屋、商店などを除いて、彼女たちの感想の一部をご紹介してみたい。
  
 おこられたり色々つらい思ひをしてやつた調査がよく出来たので大変うれしうございました。私達ににとつて大きな進歩の二日だつたと思ひます。私達がしたいと思つたことは勇気を出してすれば出来ないことはないとつくづく思ひました。(本一 岡田定慧)
 たまにどなつたり、恐がつて教へて呉れなかつたりするやうな方たちは、神経質だからだと思ひました。私達はさういう人たちをゆつくりさせて上げるつとめがあると思ひます。よい態度と、やさしい心は、是非必要だと思ひます。(本一 豊田百合子)
  
 「本一」とは、本科1年生のことで14歳前後の女子たちだ。本科低学年の子たちが、いちばん怒られ怒鳴られ、追い払われた確率が高そうで、町勢調査でやってきたのが子どもだったので驚き腹を立てたのか、あるいは調査の趣旨をまったく理解できずに煩わしく感じたものだろう。本科低学年の生徒が追い払われた住宅や商店には、改めて高等科の女学生たちが赴いているが、それでも追い返された家や商店があった。
 自由学園による町勢調査の予告は、高田町町役場をはじめ高田警察署による事前告知(回覧板)、あるいは自由学園の女学生たちが全戸に配布した趣意書により、情報は高田町内へいきわたっていたはずだったのだが、それらをまったく読まなかった住民が多数いたのだ。彼女たちが訪ね、初めて調査を知った家庭や商店がずいぶんあったようだ。
 また、この社会調査はもともと高田町の失業対策や福祉対策、衛生施策、保健施策など各種政策の向上のために彼女たちが発案・企画し、そのデータを町政で活用してもらうために実施したものだが、当時は「家の内情を知られると自分が不利になる」と感じた住民も多かった。今日のプライバシー情報の保護とは、別の意味でまったくちがう感覚だろう。
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 つづけて、本科2年生の所感を聞いてみよう。
  
 (前略)或る中の下位の家に行くと、白粉をつけて目のつり上つた女の人が出て来て、もう趣意書も先に上げてあるのに、「何故するのですか、そんな事は交番に行つて聞けばよい、必要なだけは交番にとゞけてある」と云つて教へて呉れないので、私は驚いたが、一生懸命になつて、よく分る様に説明もし、教へて貰はうと思つて頼んだが、「貴方達には研究材料になつてよいかもしれないが、私には何の利益もない」と言つて居る。(中略) その家では前のフトンデーの時も誰かゞ怒られたさうだが、私があそこに行つたのはよい鍛錬だつたと思つた。(中略) 私達のところは下流が六分に中流が四分位だつたが、下流の人はわけがよくわからないかもしれないが、兎も角一体に親切だつた。中流になると、理解して呉れる人は大変親切だつたが、あまりよくわかつて呉れない人は高慢で清潔屋かなにかと心得られたりした。廿七日には二班の手伝ひをしたが、お蕎麦屋さんで怒鳴られた。(本二 山室光子)
 私のしらべた中には、かう言ふ(ママ)家があつたと思ひます。/一、一々奥に入つて行つて聞いてくる家。/二、すぐその場でをしへてくれる家。/三、不注意で自分の家の事をよく知らなくて、一々受取を出して来て見る家、大きな声でお隣に聞く家。/四、不親切でなかなかおしへてくれない家。/(一)は時間がかゝるし、なんだかその家の人が高ぶつてゐるやうでいやでした。/(二)は聞くのも楽だし、時間がかゝらなくていゝと思ひました。/(三)のやうな人はすべての事に不親切ぢやないのかしらと思ひました。(中略)/(四)のやうな家が私のしらべた所には一二軒しかなかつたのはうれしうございました。この二軒も思ひ違ひか何からしく、あとではちやんとおしへてくれました。(本二 堀内みさ子)
  
 「清潔屋」Click!とは、以前も書いたようにゴミ屋のことだが、衛生環境を調べるので不要品の回収とまちがえた家庭がずいぶんあったようだ。また、「フトンデー」とは関東大震災Click!時に被災者へ自由学園で縫製しなおした布団を配るボランティア活動のことで、おそらくくだんの家へ不要になった古い布団が余っていないかどうか、女学生が訊きにいって怒られたものだろう。
 自由学園の知らない女子が訪ねてきて、いきなりわけも聞かずに怒鳴るほうも怒鳴るほうだが、その家屋や生活を品定めして「中の下」とか「下」とか評価している彼女たちも、おそらく感想文を提出後か、『我が住む町』の刊行後に羽仁夫妻から、その差別的で高慢な眼差しを注意されているのではないかと思われる。巻末の感想文では、おしなべて貧しい家の人たちは親切に教えてくれるケースが多く、おカネ持ちの家ほど取材がむずかしかった様子がうかがわれる。
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 ただし、目白貨物駅の周辺に展開するおカネ持ちの運送店(馬方)Click!の場合は例外で、快く調査に応じてくれたようだ。馬小屋がついた、「汚らし」くて不衛生な家に住み、荷運びの人夫たちが暮らす長屋も女学生たちが入るのをためらうほどだったが、彼らがとんでもない高額所得者であり、運送店の店主宅は小さくてみすぼらしいにもかかわらず、高田町ではトップクラスの裕福さだったのに驚愕している。したがって、「貧乏線」調査Click!ではのちの統計処理の作業で、町内の住宅の広さや部屋数の多さと、家族の所得から割り出す百分率に大きな誤差が生じると考えた彼女たちは、運送店(馬方)をあえて“例外”として集計から除外している。
 また、「高ぶつてゐるやうな」家は「中流」から「上流」に多かったようで、「一々奥に入つて行つて聞いてくる」のは女中か書生、執事が応対しているからで、そのような家では住民はまったく姿を見せなかった。
 つづいて、本科3年生(16歳前後)の感想を引用してみよう。
  
 私は四五軒はきつとどなられるものと思ひ覚悟して行きましたところが、邪険な返事をしたのは、唯一軒だけでしたので、こんなに皆が親切に私達の質問に乗つて下さるのかとほんとに嬉しく思ひました。(中略) 其のどなられた家はお湯屋で、大きな家でしたけれど、その内儀さんはほんとに人の悪さうな人でした。そして、私が聞く度に随分ブツキラボウな答をして、はらはらしてしまひました。それから一軒お気の毒な家がありました。それは、若いはきはきした奥さんで、御主人が頭が悪くてフラフラして居るので、ほんとうに困つてゐらつしやるやうでした。(本三 山岡秀子)
 一日目に私の行つたところはいやな家ばかりなので「もし日本中の人々があんなであつたらどうしやう」と思つたのです。いくら一生懸命になつて聞いても返事もしない家や何も解らない中から怒り出す人や、あんな訳の解らない人がゐても、それこそ何のやくにもたゝないと思ひます。あんな人達の子供も好い子なんてゐないとつくづく思ひました。(本三 石塚富美子)
  
 石塚さんは、完全にキレて頭にきているようだが、同じような感想を書いている女子は彼女ひとりではない。彼女もまた、あとで羽仁夫妻から諭されているような気がするのだが。また、山岡さんの文章に出てくる「御主人が頭が悪くてフラフラ」しているのは、どのような状況なのだろう。今日的にいえば、仕事のストレスか過労がたまって鬱になり、出社拒否で働けなくなってしまったものだろうか。
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 彼女たちの感想を細かく読んでいると、時代の技術や思想、生活様式が進歩しただけで、今日とさほど変わらない人々の生活や社会観、価値観などが透けて見える。次回は、高学年の女学生たち(およそ17~20歳)が書いた感想文をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1936年(昭和11)に撮影された自由学園校舎と講堂、運動場など。
◆写真中・下:陸軍航空隊によって、同年に撮影された旧・高田町界隈。

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料治花子がつづる女子挺身隊の記録。 [気になる下落合]

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 西落合1丁目31番地(1965年より西落合1丁目9番地)に住んだ料治花子Click!は、敗戦間近の1944年(昭和19)1月29日より、町会・隣組Click!に課せられた女子挺身隊員Click!として、西落合1丁目にあった螺旋管製作所へ出勤している。落合地域の町会・隣組における、勤労動員の詳細な記録はめずらしいので、記事に取りあげてみたい。
 その前に、西落合という町名には史的にややこしい課題があるので、いまさらだがちょっと触れておきたい。落合町葛ヶ谷という地名が、1932年(昭和7)より大東京Click!時代を迎え、淀橋区が成立すると同時に西落合へ変更されたのは、別にややこしくない。問題は、「丁目」のふり方なのだ。1965年(昭和40)まで、西落合は北側と南東側の一部が1丁目、南側の2丁目、それに妙正寺川に架かる四村橋Click!の西側だった3丁目とに分かれ、もとからやや入り組んだ丁目のふり方をされていた。同じ1丁目でも、南東に突き出た31番地の料治邸と螺旋管工場とは直線距離で800mほども離れている。そして、同年に改めて丁目変更が行われ、新たに1丁目から4丁目までの区画割りがなされている。
 このときの丁目のふり方が、1965年(昭和40)以前と以降とでは、方角が南北でほぼ逆にふられてしまったような感覚をおぼえるのだ。以前は、北から南へ1丁目(南東側の一部除く)と2丁目、妙正寺川をはさみ西へ突きでた一部が3丁目に区分されていたが、以降は南から北へ(正確には南東から北にかけて)1丁目から4丁目がふられている。つまり、以前は1丁目だったほとんどのエリアが3・4丁目に、南東へ突き出た1丁目は2丁目側へ少し拡大し、以前は2丁目の西側と3丁目だったエリアが2丁目になってしまった。戦前の事績を取りあげた拙記事をお読みの方の中には、きっと西落合の“丁目モヤモヤ”を抱かれている方が少なくないと思うのだが、1965年を境に丁目表記がまったくさま変わりしていると考えていただければ、まちがいないかもしれない。
 上記の例でいえば、料治花子が敗戦まぎわに女子挺身隊員として勤務していた工場は、「西落合1丁目」すなわち今日の西落合3・4丁目のことであり、彼女の長女である料治真弓Click!の証言によれば、1965年(昭和40)以降の表記でいうと西落合3丁目ということになる。おおざっぱにいえば、長崎側へ三角状に突きでた西落合の、落合分水が近い東寄りに工場は建っていた。……とこう書いても、モヤモヤされたままの方は多いかもしれない。わたしでさえ、資料で「西落合1~3丁目」の記述を見かけると、1965年の前と後では地域が大きく異なるため、どの時代の住所表記なのか、あるいは現代の住所表記で過去の出来事を語っているのか?……で、いまだに迷い考えこんでしまう。
 さて、航空機部品の製造をしていた西落合1丁目(料治真弓によれば現・西落合3丁目)の螺旋管製作工場について、1944年(昭和19)に出版された料治花子『女子挺身記』(宝雲舎)収録の、同年1月29日(土)に書かれた日記から引用してみよう。
  
 「従業員の外出入ヲ禁ズ」といふ貼札の掛つた門扉を二ケ所くぐつて作業場の二階へ案内された。大きな火鉢が二つ、炭がかんかん熾つてゐる。集るもの二十数名、大抵三十才、四十才前後の主婦達 娘さんらしい人も二、三名ゐる。白髪まじりの老事務員らしい人と、茶色のジヤムバアを着た工場監督風の人と二人が上つて来て、点呼を行つた。一場の挨拶があり、国民儀礼、黙祷、『では元気で作業に取りかゝつて頂きます』と、我々挺身隊に対する態度は極めて慇懃である。私達一丁目一班八名の班長に私が指名された。二丁目、三丁目、合せて二十数名、それぞれの仕事の部署に就くやう命令され、コの字形の建物のあちこちに挺身隊員はばらばらになつた。
  
 文中に「コの字形の建物」とあるので、1944年(昭和19)と空襲前の1945年(昭和20)の空中写真を参照したが、工場らしい建物は特定できなかった。もっとも、航空機部品を生産している軍需工場なので、戦争末期になると上空からは一般の住宅に見えるよう、屋根など外見がカムフラージュされていた可能性を否定できない。
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 この工場で、料治花子は隔週ごとに作業をつづけるのだが、さまざまな工程で徐々に習熟していき、工員が不在でもなんとか作業ができるようになっていく。また、工場の人手不足は深刻で、男子へは次々と「赤紙」Click!(召集令状)がとどき、工員たちは櫛の歯が抜けるように戦場へと狩りだされていった、したがって、「銃後」の生産は少しずつ女子たちで担わざるをえなくなっていく。
 西落合地域からの出征兵士は、一部の地域ではすぐ近くにある武蔵野鉄道の東長崎駅Click!椎名町駅Click!ではなく、西武線の中井駅Click!まで見送られていたようだ。おそらく町会内で壮行会時の取り決めがあったのだろう、「田中さんとその隣の宅間さんと二軒並んで同じ日の御出征だつた。早朝五時半、霜を踏んで、私達隣組のものは中井駅まで見送つた」と、彼女は1月22日(土)の日記に書きとめている。
 工場での勤務を終えると、料治花子は夕食のあと「川ばたのお風呂」へいくことが多くなった。もちろん自宅に風呂はあったが、薪や石炭などの燃料はとうに配給制へ移行しており、まず一般家庭では手に入らなかったからだ。この「川ばたのお風呂」とは、料治邸から西へ直線距離で170mほどのところにある、西落合2丁目498番地(現・西落合1丁目)の落合分水Click!沿いで営業していた銭湯(名称不明)だろう。
 工場での大休止(昼食時間)の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 お弁当をたべながらゆつくりみんなの顔を見廻した。まづ私達の班の人を年の順にみると、一番が炭屋のおばさん、もんぺをはいてゐるけれど、上は着物に半纏、それを襷十字に綾取つてゐる。おばさんは五十がらみの人、それからお貞さん、次は丹羽さんの奥さん、冬でも簡素な洋服で過してゐる人だけあつて、キリリとした服装で、丸顔の、年より若く見える人である。佐々木さんと鹽崎さんはいづれも学齢前のお子さんがおありだのによくお出になつたと思つて感心する。眼鏡を掛けた頬のふくよかな感じの準さんの奥さんは、二人のお子さんをのこされて、御主人に逝かれてもう十年になるといふ。羽田さんの日出子さんはお嫁入り前の賢く美しいお嬢さん、お母様の借着だといふ紫紺のぢみな筒袖もんぺが、かへつて若さを引き立てて、ヒヤシンスの花を見るやうである。他の二丁目、三丁目の人達には、私は顔馴染みがない。
  
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 女子挺身隊として、無理やり西落合町内から集められた女性たちの顔ぶれを見ても、これまで専門技術の属人的なスキルをもつ熟練工が手がけていた、航空機に装備する精密部品の製造・加工作業を、ご近所の奥様や「ヒヤシンス」のようなお嬢様たち素人が肩代わりして生産しているようでは、もうとっくのとうに戦争の「敗け」は自明のことなのだ。料治家では、子どもたちに聞こえないよう「日本は敗けるね」と話していた様子が、のちの料治真弓のインタビュー証言に記録されている。
 料治花子が工場へ通うようになっても、料治邸にはさまざまな訪問客が絶えなかったようだ。近くに住んでいた画家で版画家の守洞春(住所不明)は、夜になると青森のホッケの干物や粕漬けなどを土産に、よく料治熊太Click!を訪ねていた。同じく版画家の棟方志功や、門脇俊一などがときどき顔を見せている。
 また、町会・隣組の挺身隊には参加しない大邸宅で暮らす住民についても、料治花子は記録している。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 朝、中岡さんがさういつてゐたが、なるほどあの一画は、大臣や、銀行頭取や、重役や、いはゆるお邸ばかりなので、来てゐる隊員が全部女中さんである。女中さんでも結構だけれど、奥さんやお嬢さんが出馬なさればなほさら結構だのに、と思つた。なかには、その女中さんをさへ、うちの女中は女学校を出てゐるお嬢さんですからねえ、そんなところへは――といつて、挺身を拒んだ家もあるといふ。
  
 「大臣や、銀行頭取や、重役」たち上に立つものが、国力の基盤となる生産工場での労働を「そんなところ」とあからさまに蔑視しているようでは、「日本も戦争に敗けるわよね」と料治花子は思ったのかもしれない。
 お屋敷から派遣された女中たちには、工場の仕事に溶けこみ本人の希望から「永続勤務」になった女性たちもいたようだ。お屋敷の仕事よりも、よほどやりがいを感じたのかもしれない。その中に、目の大きな「美人ねえ、原節子みたい」な女性もいたらしい。
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 料治花子は工場からの帰り道、当時は落合第三尋常小学校(戦時中は国民学校)に勤務していた鹽野まさ子Click!(塩野まさ子Click!)とすれちがっている。長女の料治真弓が、小学3年生になるまでクラスの担任教師だった。料治花子が寒い北風を避けるため、風呂敷ですっぽり頬かぶりをしていたせいか、「風呂敷の中からほゝゑみかけたが、気がつかない」でいってしまう。敗戦まで残すところ1年半、1944年(昭和19)2月25日(金)の出来事だった。

◆写真上:空襲被害をあまり受けていないため、西落合には戦前からの邸宅が多い。
◆写真中上は、1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる西落合1丁目。は、1965年(昭和40)発行の「住所表示新旧対照案内図」にみる西落合3・4丁目になってしまった旧・1丁目の大半。は、耕地整理で整然とした直線道路が多い西落合の街角。
◆写真中下は、工場労働に動員された女子挺身隊。(NHKニュース映像より) は、中井駅手前の蘭塔坂(二ノ坂)下で出征兵士を見送る様子。右手に見えている住宅が内山邸、背後の目白崖線斜面に建つ中央右よりの邸が芳崖四天王Click!岡不崩アトリエClick!、その左が波部邸、左端が立山邸と思われる。(「おちあいよろず写真館」より)
◆写真下は、戦前からの邸宅が残る瀟洒な西落合の街角。は、西落合1丁目303番地に住んだ松下春雄アトリエClick!前の道路で右手は旧・松平邸(のち本田宗一郎邸)。

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上落合が壊滅した空襲被害。 [気になる下落合]

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 上落合地域の街並みは、1945年(昭和20)の4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!でほとんど壊滅した。4月13日の第1次山手空襲Click!では、おもに旧・神田上水(1966年より神田川)や妙正寺川沿いの工業地帯Click!がねらわれ、5月25日の第2次山手空襲Click!では上落合の街全体に焼夷弾が落とされている。
 今回は、ほぼ全滅に近かった上落合で、戦災からかろうじて焼け残ったごく一部の街角について見てみたい。上落合でも、戦前の古い建物が比較的後世まで残っていたエリアだ。さっそく、1947年(昭和22)に米軍機から撮影された空中写真を見てみよう。
 まず、上落合の東部は、旧・神田上水沿いの工場群が徹底して爆撃されているが、小滝橋の北側にある都バス小滝橋営業所(戦前は関東乗合自動車Click!営業所のち東京市電気局自動車課小滝橋営業所)の周辺が、飛びとびに焼け残っているようだ。都バスの小滝橋営業所は、1945年(昭和20)の当時はすでに鉄筋コンクリート建築であり、内部は燃えたかもしれないが建物自体は残っている。
 同営業所の広い敷地やコンクリートの建物が、周辺の住宅街への延焼を防ぐ“防火堤”になったものか、営業所の北側と西側に焼けずに残った家々が点在していたようだ。だが、1950年代も半ばになると、東京都による落合下水処理場Click!の建設がスタートし、営業所敷地の北側に残っていた戦前からの家屋は残らず解体され、現在は落合中央公園の野球場とテニスコートになっている。
 次いで、当時の地番でいうと上落合2丁目667番地界隈、以前の記事でも登場している戦前は落合第二尋常小学校と落合第三尋常小学校で教師をしていた、鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!があった一画と、そのすぐ南側にあたる上落合2丁目545~547番地あたりの住宅街が、ほんのわずかながら焼け残っている。
 ここで延焼が食い止められたのは、家々の周囲をめぐる濃い緑=屋敷林の存在だろう。現在からは想像もつかないが、戦前の小坂多喜子Click!の証言にもあるように、上落合郵便局裏にあたるこの一画には、遠くから目印になるようなケヤキの大樹Click!が繁っており、もともとは武蔵野の雑木林で数多くの樹木が繁っていたのだろう。
 上落合2丁目667番地の鹽野邸が登場したので、彼女が別のメディアに語った空襲の証言を少し長いが引用してみよう。「女性」の証言とあるだけで、特に名前は記されていないが明らかに証言者は鹽野まさ子(塩野まさ子)だと思われる。1989年(平成元)に「コミュニティおちあいあれこれ」から発行された、『おちあい見聞録』(非売品)から。
  
 当時、上落合に住んでいたその女性は、額の髪の毛をあげながらこう語った。ここに、焼夷弾が当たったんですよ。たしか戦争の終わった年の3月でしたか夕方でした。いつもの通り空襲警報が出たので、さて、今日はどの方面かしらとのんびり構えていたら、なにやら辺りが騒々しくなってきました。慌てて外に出てみたら、もう火が近所まで来ているんです。どこへ逃げようかと、家族3人が玄関の柿の木の下に集まったときでした。ホラ、覚えていますか。あのいやな音、シュルッ、シュルッと空から聞こえてくるじゃありませんか。思わず上を向いたとたんに、柿の木の枝に当たったものが跳ね返って、この額に当たったんです。焼夷弾そのものだったら駄目でしたでしょうね。後で聞くと、大きなのが落ちてきて、それが地面近くになると、幾つにも裂けて飛び散るんだそうです。そのかけらの一つが当たったんですね。痛いのも、血が出たかどうかもわかりゃしません。夢中で郵便局の前を通って、中井駅の方向に走りました。家族3人が手をしっかりと握り合って、そうだ、第二(今の第五小学校)へ行こう。そばまで行ってみると、校庭は真っ赤な火の海です。(中略) 空襲も終わったようです。急に家に帰りたくなりました。なにもかも全部焼けてしまった。放心というのは、あの時のことでしょう。ところがどうしたことでしょう。私の家のまわり2・3軒だけが、焼けずに残っているではありませんか。「よかったですね」ですか。どうしてどうして、そのときの私の気持ちは判らないでしょうね。本当に肩身の狭い思いをしました。(中略) そのときの空襲でしたか、それとも別のときでしたか、二の坂の下に時限爆弾が落ちましてね。それがしばらくして爆発したんです。角にあった交番などはあとかたもありません。大きなすり鉢のような穴があいていました。
  
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 「戦争の終わった年の3月」という証言は、1945年(昭和20)3月10日Click!に市街地の東京大空襲Click!があった時期であり、いまだ落合地域は大規模な爆撃を受けていない。落合地域の罹災は同年4月13日夜半からだが、他の住民たちの証言にもあるように、上落合の街が焼き払われたのは5月25日夜半の第2次山手空襲のほうだ。したがって、「3月」ではなく「4月」ないしは「5月」が正しいのではないだろうか。
 さて、焼夷弾に混じって投下された、落合地域における「時限爆弾」の証言はめずらしい。書かれている「交番」だが、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の下にはなかったので、三ノ坂下の南側角地にあった中井駅前駐在所のことだろう。B29から、本土空襲で時限爆弾が投下されはじめたのは1945年(昭和20)4月以降のことなので、厳密にいえば二度にわたる山手空襲のどちらで投下された記憶なのかは不明だ。彼女が中井駅方面へ避難したのと同日だとすれば、5月25日夜半の空襲のほうだとみられる。「大きなすり鉢のような穴」が開いたということなので、爆発の威力は250キロ爆弾Click!ほどもあったのだろうか。
 また、鹽野邸と同様に樹木に囲まれていたのと、“空き地”に面していて延焼をまぬがれた一画が、鹽野邸から南西へ130mほどのところ、あるいは西へ170mほどのところにある。工事中だった広い改正道路Click!(環六=山手通り)をはさみ、樹木に囲まれた住宅が東側に7~8軒、西側に6軒ほど焼け残っているのが見てとれる。地番でいうと、前者が上落合2丁目585番地界隈、後者が同2丁目596番地あたりの一画だ。
 罹災をまぬがれた家々のある一画は、工事中だった広い改正道路の“空き地”が、日除け地の役割りをはたした可能性が高い。また、改正道路西側に建っていた住宅6軒は、周囲を生け垣に囲まれていたのに加え、東側が改正道路の工事中による“空き地”、北側が最勝寺Click!の墓地という好条件が重なり、延焼が遮られたものと思われる。
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 焼け残った街角のもう1ヶ所は、尾崎翠Click!が通った銭湯「三の輪湯」Click!がある十字路のあたりだ。妙正寺川に架かる新杢橋の南側、当時の地番でいうと上落合2丁目864~868番地界隈だ。上落合の北西端にあたる緑の比較的少ない商店街の一画が、なぜ空襲による延焼をまぬがれているのかは、1945年(昭和20)4月7日の空襲直前に偵察機F13Click!によって撮影された空中写真を見れば判然とする。
 まず、三の輪湯が建っている十字路の北側は、防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!で、妙正寺川沿いの住宅が解体されて空き地が多かったこと。また、この十字路の西側は、すでに耕地整理が終わった上高田や牧成社牧場などの広大な草原や赤土がむき出しの空き地が拡がっており、ほとんど住宅が存在しなかったことが幸いしたのだろう。
 次に、すべての商店とその周辺域が焦土と化した、上落合銀座商店街Click!の通り沿いを少し南に折れたところに、ポツンと焼け残った1軒家がある。当時の地番でいうと、道路の向かいに火の見櫓が見える上落合2丁目652番地の邸だ。家の周囲が樹木で囲まれているけれど、この位置で猛火の勢いからまぬがれたのはほとんど奇跡に近いだろう。幸運な住宅があったのは、現在のフジタ上落合コーポが建っている西寄りのあたりの敷地だ。
 最後に、上落合で焼け残っているエリアは、広い敷地の中に建っていた落合火葬場Click!とその周辺域だ。上落合の南西端に建つ同火葬場は、敷地北側の角地を除きほとんど被害を受けていないように見えるし、その北東側および南側の住宅数軒も延焼をまぬがれている。当時の地番でいうと、焼け残りの住宅は上落合2丁目891番地(北東側)の3~4軒と、同2丁目660番地(南側)の2軒だ。
 これは、落合火葬場の広大な中庭が日除け地と同様の効果をあげて、四方から迫る火のまわりを遮断したからだと思われる。同火葬場の西側と南側は、野方町の上高田に隣接しているが、そこでも罹災していない家々を見ることができる。なお、2軒の住宅が延焼をまぬがれた南側の敷地には、現在は落合斎場の関連施設が建っている。
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 以上が、二度にわたる山手空襲にもかかわらず、上落合でもかろうじて焼け残った住宅や施設のすべてだ。下落合や西落合に比べ、いかに空襲による延焼被害がすさまじかったのかがうかがえる。上記の証言で、鹽野(塩野)先生もいっているように、焼け残った家の住民は焼け出された住民に対して、ほんとうに肩身の狭い思いをしたのだろう。ヘタをすると、無差別絨毯爆撃を受けているので理不尽だとはわかっていても、「焼け残ったのは米国のスパイの家だからだ」などと(理屈ではなく感情で)いわれかねない、そんなすさんだ人心Click!狂気Click!に満ちた戦争末期の世相だった。

◆写真上:鹽野(塩野)まさ子が、中井駅方面をめざして避難するときに通過した上落合郵便局。中井駅は、手前の道を背後へまっすぐいったところにある。
◆写真中上・中下・下が、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる上落合で戦災をまぬがれた住宅や施設。が、焼け残った住宅や施設があったあたりの現状。

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無謀な戦争は惨敗必至と上代タノ。 [気になる下落合]

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 1941年(昭和16)12月8日、日本が米英に宣戦布告をすると、留学しながら欧米の教育機関や社会状況などを仔細に視察して帰国している上代タノClick!は、その歴然とした国力のちがいを知悉していたためだろう、「今度の戦争は無謀な戦いだ」とさっそく周囲に語っている。また、「米軍の機動力に対し、日本の無計画な軍事行動が破綻をきたすのは必至である」と、開戦早々に惨敗を正確に予見した。
 彼女のように、実際に自分の目で各国を観察した事実にもとづき、論理的かつ実証主義的な学問的視点や解釈をせずとも、川田順造Click!の母親のように「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」「本当にアメリカやイギリスに勝てるわけがない」と、日ごろから欧米製品を使い映画やアニメなど欧米文化に親しんで、大きな国力の差を生活観から感性的に認識していたとみられる、敗戦必至を予見していた女性たちが(城)下町Click!にはかなりいる。
 上代タノは、下落合で執筆Click!して研究社から出版された英米文学評伝叢書第41巻『リー・ハント』(1936年)の「はしがき」に、こんなことを書いている。
  
 それはある時代に限られたことではないが、うそがほんとうのやうな擬態をしてのさばる時に、一旦口を開くと際限なく面倒が起るので、多くの人は沈黙主義を採る。リー・ハントは十九世紀初頭の可なり物騒な英国社会にあって自ら飛んで火中に投じた人である。凡そ物事には正義と愛とに基礎づけられた一筋の道理がなければならぬものと固く信じ、その貫徹のためには文学といはず、政治といはず、宗教、道徳の方面からも言ひたいことを恐れず、躊はず述べたてたものだ。
  
 日本では、政府や軍部が繰り返す軍国主義のプロパガンダClick!で、「うそがほんとうのやうな擬態をしてのさばる」時代を迎え、国家(大日本帝国)を破産させ滅ぼすことになる、無謀でむこうみずな戦争へと突き進んでいった。上代タノは、横行する「亡国」思想を冷徹に見すえ、戦前から戦中にかけ、繰り返し反戦の意志を表明して憲兵隊から目をつけられ、その言動を敗戦の日まで常に監視されつづけた。
 ラジオから軍艦マーチとともに、真珠湾攻撃の「米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」の臨時ニュースが流れる朝、日本女子大では全学生および教職員が講堂に集められた。2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』所収の、『日本女子大学英文学科七十年史』(1976年)から上代タノの文章を孫引きしてみよう。
  
 昭和十六年十二月八日、米英に宣戦布告の日、井上(秀)校長は全校生徒、教職員を講堂に集めて、いよいよ戦争が開始されたことを告げられた。私は何としても戦争に反対であったので、アメリカ人の先生を引っ張って講堂の外に出た。アメリカ人の先生は貴方(上代タノ)がいるから私は我慢すると泣きながら言った。(カッコ内引用者註)
  
 当時の校長だった井上秀は、婦人平和協会で上代タノとともにWILPF(婦人国際自由平和連盟)の活動していた中心人物のはずだった。すでに婦人平和協会は、言論・集会・結社の自由を奪われて解散させられ、同時にWILPFから脱退されられて日本支部は消滅した。だが、会員たちは各地で密かに会合をもち、地下で活動を継続している。
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 この時期、平和主義を掲げる学校への弾圧は、河井道が世田谷区千歳に開校した恵泉女学園の「慰問袋事件」が象徴的だろうか。戦地へ送った慰問袋に、同学園の女生徒が「お互いに殺しあうことを早くやめてください」と書いて特高Click!に踏みこまれている。河井学園長は、その生徒の言葉を否定しなかったため逮捕されて留置場へぶちこまれた。
 日本女子大には憲兵隊に加え、同大を中退した東條かつ子(東條英機Click!の妻)が頻繁に訪れている。卒業もしていない中退者が、「母校」を頻繁に訪問するなどかつて聞いたこともないが、もちろん英語教育や英米文学の講義をまったくやめようとしない、同大英文学部(1942年以降は外国語学科に格下げ)への夫のカサを着た恫喝と圧力のためだ。さらにいえば、同学部の責任者である上代タノへの嫌がらせにほかならない。
 戦争がはじまる前から、英語は政府や軍部から「敵性語」などと呼ばれていたが、開戦と同時に「敵国語」となり徹底して弾圧された。軍国主義を拒否する上代は、東條かつ子の来校についてこんなことを書いている。(同書より)
  
 その頃、東条首相夫人かつ子さん(日本女子大学校中退)は度々学校へ来られた。しかし、私としては会いたくない人だったので、何時もうしろから抜け出して会わぬようにしていた。学校では、学校を疎開することを考えるようになったが、私は一人でも生徒が東京に居る限り疎開はしない、と頑張った。(カッコ内取材者石川ムメ註)
  
 同大英文学部(外国語学科)では、1943年(昭和18)ごろまで「リベラルな雰囲気の中で勉強することが出来た」(同書)ようだが、敗戦色が強まるにつれ同大の全学生が勤労動員に狩りだされている。上代タノは、杉並区にある浴風園の敷地に造られた軍需工場へ、英文学部(外国語学科)の学生たちを引率して通うようになった。
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 この軍需工場で、配属された陸軍の監督将校たちと上代タノは、真正面から対峙することになった。上代は軍部の命令どおり、女学生たちを軍需工場へ引率してきて勤務に就かせたが、工場の昼休みや休み時間、勤労後の退勤までの時間などを活用し、工場内で英語教育と英米文学の講義をはじめたのだ。
 陸軍の配属将校たちは、その光景がにわかに信じられなかったにちがいない。即座に中止を命令したが、上代教授は講義をやめようとはしなかった。すると、上代タノが学校から工場へ女学生たちを引率するのを禁止したが、彼女はそれを無視して引率しつづけ英語教育を継続した。逆に、陸軍の配属将校が彼女の論理に説得されてしまい、しぶしぶ認めるようになっていった。配属された将校の中には、学徒動員で1年前まで学生だった人物もいたのではないかと思われる。
 上代いわく、「日本は今戦いに勝つため一生懸命であるが、戦争が終われば必ず相手国との交渉があり、将来は仲良くしてゆかねばならない。そういう時に敵を知らないで何が出来るか、戦争が終っても、米英がこの地上から滅亡してしまわない限り、英語が無用になる日が来ようとは思われない」。中には、彼女の講義を聴いて「先生、やっぱり(英語教育を)やったほうがいい」と密かに告げる将校までが現れるようになった。
 こうして、上代タノは敗戦の日まで、勤労動員先の工場で英語の講義をつづけている。当時の様子を、同書に収録された学生の証言から引用してみよう。
  
 「こんな時だからこそ、英語を学ぶのです。相手を知る事です。」 上代先生の表情は厳しかった。昭和一九年、太平洋戦争の最中、敵性語を志す者に、「非国民!」の怒号がとび、罪悪感に苛まれていた時の事である。また委縮している私達に、この様に言われたこともある。/「他人の意見に左右されてはいけない。自分でものを考え、発表する習慣をつける事。戦争は何時までも続くものでない。」 全体主義が個人を埋没させる時代だった。
  
 おそらく、上代タノは「戦争は何時までも続くものでない」のあとに、「敗戦後の世界に備えて勉強しなさい」とつけ加えたかったにちがいない。
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 各地でひそかに地下活動をつづけていた婦人平和協会は、敗戦後の1947年(昭和22)にいち早く「日本婦人平和協会」として復活している。会長には上代タノが就任し、WILPF日本支部も同時に活動を再開した。そして、上代会長のもとで反核・反戦平和運動をベースに、朝鮮救援委員会をはじめ沖縄救援委員会、国際関係委員会、人権擁護委員会、ユニセフ委員会などが次々と設置された。1956年(昭和31)に日本女子大学長に就任したあと、上代タノはWILPF日本支部の名誉会長になり、95歳で没するまで国際平和運動をつづけている。

◆写真上:下落合から東へ1,600mほどのところ、同じ目白崖線沿いの肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)から望む日本女子大学の百年館校舎。
◆写真中上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる日本女子大学校。は、明治末に英語を教えるエレナ・フィリップス。上代タノが雑司ヶ谷「暁星寮」にいたときの舎監であり、同時に日本女子大の英文学部教授だった。は、1917年(大正6)に竣工した同大の桜楓家政研究館だが、6年後の関東大震災Click!で大破した。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に行われたGHQによる同大キャンパスの視察で前列の左からふたりめが上代タノ。は、1961年(昭和36)の日本女子大学創立60周年記念式典で講演する上代タノ学長。は、同大の成瀬記念講堂の内部。
◆写真下は、1961年(昭和36)撮影の長崎平和記念公園における上代タノ。は、1964年(昭和39)に新図書館落成式での上代学長。は、同大キャンパスの現状。

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最高傑作とまでいわれたフランス式彩色地図。 [気になる下落合]

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 1880年(明治13)の明治初期に、落合地域の地形などを採取・記録して作成された通称「フランス式彩色地図」Click!、正式名称を「第一軍管地方二万分一迅速測図」について書いたことがある。江戸期からあまり変わらない、この地域に関する明治初期の地勢が視覚的に把握できて、非常に貴重な一級資料だ。
 この地形図をもとに、当時は落合地域に設置された異常に多い測量のための二等および三等の三角点Click!について、落合中学校のグラウンドに移動して現存する二等三角点とともにご紹介している。また、同地図の欄外へ参謀本部陸軍部測量局に所属していた画家が描いた、地域の風景画Click!についてもかつて記事にしていた。現在の落合公園あたりにあった稲葉の水車Click!が、1880年(明治13)に同地図が作成される直前、火災で焼失していることが新たに判明したのも、このフランス式彩色地図のおかげだ。
 下落合の西部で、大田南畝Click!『高田雲雀』Click!や昌平坂学問所地理局が編纂した『新編武蔵風土記稿』Click!にみられる、江戸期から大正期にかけてフラフラとあちこちへ移動をつづけた「中井」という小字についての検証にも、同地図は大きなヒントを与えてくれている。さらに、明治初期の東京西郊には建物が少なく、かなり厳密に採取されたとみられる建築物の様子も、かつて松本順Click!蘭疇医院Click!などにからめて引用してきた。
 当時の落合地域全体と、その周辺域が採取・記録されている地形図は、「東京府武蔵国南豊島郡大久保村北豊島郡長嵜(崎)村及東多摩郡中埜(野)村近辺村落図」という非常に長ったらしいタイトルが正式名称だ。実際に測量を行っているのは、参謀本部陸軍部測量局(実施当時の部局表記)に雇用されていた測量士・粟屋篤蔵と、副測量士の永田直芳のふたりであり、地図の枠外にネームが記載されている。
 「フランス式彩色地図」(第一軍管地方二万分一迅速測図)は、1880年(明治13)に事業がスタートし1886年(明治19)に終了した、日本で初めての広域測量による地形図だ。対象は、関東地方のほぼ全域をカバーしており、中でも落合地域を含む東京西郊は、プロジェクトの初年にチーム編成がなされており、翌1881年(明治14)になると東京市街地が測量されている。つまり、同地図は東京市から郊外へ測量範囲を拡げていったのではなく、逆に外周域の東京郊外から市街地へと測量が行われていることになる。
 当時の参謀本部が、なぜフランス式の鮮やかな彩色地形図を作成したのかといえば、明治初期の陸軍は徳川幕府が採用していたフランス軍制をそのまま踏襲していたからにほかならない。また、参謀本部にはフランス陸軍に学んだ人材が多く、地図の制作や表現においてもフランス本国と同様に、鮮やかな彩色地図が目標とされていた。
 同方式により、日本全国の地図を作成するよう「全国測量速成意見」を提出したのは、前年に参謀本部の第6課から測量課に名称変更されたばかりの、測量課長だった小菅友淵だった。意見書の内容は、日本全国にわたり縮尺1/20,000の地形図を、10年かけて予算1,000万円で制作しようという、当時としては途方もない計画だった。だが、参謀本部では西南戦争(1877年)などの経験から、戦闘時における地形図の必要性を痛感していたので、小菅の意見書をほどなく採用している。
 プロジェクトは、関東地方(第一軍管地方)からスタートし、徐々に全国へと拡大する予定だった。1880年(明治13)に、まず落合地域を含む東京府の西郊(南・北豊島郡)から測量がはじまり、次いで南足立郡、南葛飾郡、埼玉県の川口、千葉県の市川や船橋などの測量が進み、東京府とその周辺域は1882年(明治15)までに測量を完了している。東京市の中心部(東京15区Click!)は、おそらく1981年(明治14)のうちに測量が実施されているのだろう。こうして、日本の近・現代に制作された地図の中で、もっとも美しく「最高傑作」と呼ばれるフランス式彩色地図が完成した。
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 同地図の制作当時、工兵少佐だった小菅友淵は、フランスから陸軍砲工学校に招聘された教師ジョルダンのもと、講義の教科書に使われていた「フランス式地図図式」を、同僚の原胤親とともに翻訳している。だが、地図作成を含む軍制全般がフランス式からドイツ式へ移行するにつれ、作成される「迅速測図原図」もドイツ式の1色刷りで味気ないものとなり、明治初期に測図されたフランス式の鮮やかなカラー地図は、すべて用済みの“お蔵入り”となってしまった。明治期に作成された「迅速測図」とタイトルされた地図で、のちのモノクロのものはすべてドイツ式で制作しなおされたものだ。
 さて、これまでのフランス式1/20,000地形図を取りあげた記事では、おもに下落合を中心にご紹介してきているが、もう少し観察の範囲を拡げてみよう。上落合と上戸塚(現・高田馬場3丁目)の境界あたりを見てみると、神田上水の西岸に黄檗宗の禅寺「泰雲寺」Click!が採取されている。泰雲寺は、1694年(元禄7)に伽藍の一部である如意輪観音堂が建設されたのがはじまりだが、美しい顔を焼いて仏門に入ったエピソードとともに、了然がいた尼寺として江戸じゅうに知られるようになった。
 了然尼は、妙正寺川に比丘尼橋(現・西ノ橋Click!あたり)を架けたり、地元の子どもたちを集めて寺子屋のようなことをはじめたりと、江戸期の資料や地誌本では有名な女性だ。1911年(明治44)に泰雲寺は廃寺になるが、その30年以上も前に近代地図に採取され、上落合に描きこまれた貴重な卍マークだ。位置は、当時の月見岡八幡社(現・八幡公園)の北北東140mほどのところ、現在の上落合1丁目8番地のやや東あたりだろうか。
 その下(南側)に目を向けると、神田上水の東岸、神田上水に架かる小滝橋Click!の手前に「感応寺」が採取されている。ここにある寺院は昔から真言宗系の観音寺Click!のはずだが、なぜか感応寺と記載されている。これは私見だが、識字率が低い明治初期の寺名は、誰でも読めるよう門前に「かんのうじ」とひらがなで書かれていたのではないだろうか。観音寺は、「かんのんじ」「かんおんじ」「かんのうじ」と3通りの読み方がある。そのうちの「かんのうじ」という表記を見た地図制作者が、早合点して「感応寺」と記載してしまった可能性が高いように思える。したがって、現在は「かんのんじ」と呼ばれることが多い観音寺だが、当時は周囲から「かんのうじ」と呼ばれていたのではないか。
 急峻な目白崖線を貫通するため、高田村の金久保沢の南へのびる谷間を切り通し状に掘削し、南南西へと直線状に走る山手線(当初は日本鉄道の品川赤羽鉄道)だが、1880年(明治13)当時はもちろん敷設されていない。のちに大規模な陸軍射撃場Click!が造られる戸山ヶ原Click!には、横浜に次いで東京初の大きな競馬場Click!が建設されている。目黒へ改めて新競馬場が建設される以前の風景で、大久保射撃場のスペースもいまだ小さい。ただし、競馬場の北西側には、すでに小さめな防弾土塁Click!(三角山Click!)が築かれているのが記録されている。また、防弾土塁は陸軍戸山学校Click!の校庭にも採取されている。
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 落合地域の北側をみると、下落合の本村Click!を除けば清戸道Click!(ほぼ現在の目白通りに相当)沿いの椎名町Click!(落合村と長崎村の境界)が、家屋の密集地帯だったことがわかる。同じ清戸道沿いで、次に賑やかなのは四谷(四家)町Click!だ。ただし、四谷町(四家町)は江戸期から3つの村境で形成された繁華街で、高田四谷町と雑司ヶ谷四家町、それに小石川四家町が合わさって街道沿いに形成されている。
 清戸道の北側の地図(「東京府武蔵国北豊島郡上板宿図」)をたどると、池袋村に隣接して「金井窪村」が採取されている。日本鉄道の目白駅Click!が設置されたのは金久保沢Click!であり、江戸期の弦巻川Click!と南側のカニ川Click!の呼称が同名の金川(神奈川)、弦巻川が形成した雑司ヶ谷から東にかけての谷間が神田久保(神奈久保)Click!目白不動Click!が奉られていた目白坂が通う椿山Click!から西側にかけてを目白山ないしは目白台と、明治初期の地図にはタタラ製鉄Click!にちなんだ、金(かね=鉄・砂鉄のこと)ないしは目白(鋼=はがねの古語)にまつわる地名が、周辺各地に拡がっていた様子がうかがえる。
 さて、フランス式1/20,000地形図は詳細に観察しはじめると、どこまでも面白くてキリがないので、なにかのエピソードにからめ必要に応じて、当該地域をご紹介できればと考えている。今回は、最後に長崎村から池袋村、そして上板橋宿と下板橋宿の同図、すなわち「東京府武蔵国北豊島郡上板宿図」に、鉛筆による興味深い書きこみを見つけたのでご紹介したい。地図の左枠外に、「明治十三年五月第一測期第一測図」と書かれている。さらに「第壱班」として、測量および地図作成を担当した4人の名前が記載されている。この落合地域の北側にあたるエリアが、フランス式1/20,000地形図でいちばん最初に手がけられた図面の一部ではないだろうか。
 左枠外には、「第一号第八測板」と書かれているので、四角く区切られた測量計画エリア(少なくとも8エリア以上?)のうちの1枚が、現在の豊島区と板橋区、練馬区あたりだと想定することができる。なぜプロジェクトが、東京市の西北近郊からスタートしているのか理由は不明だが、武蔵野Click!特有の起伏に富んだ地形が、測量・作図手順への習熟とともに、技術やスキルの向上には最適だと判断したものだろうか。
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 「第一測期第一測図」を担当している「第壱班」のメンバーには、測手(測量士)として陸軍歩兵中尉・小倉信恭と同少尉・菊池主殿、副手(副測量士)として参謀本部測量課雇い(勤務)の細見兵太郎と粟屋篤蔵の、計4名の名前が記載されている。

◆写真上:日本鉄道の目白駅が設置される5年前、1880年(明治13)の金久保沢界隈。
◆写真中上は、1880年(明治13)のフランス式彩色地図に採取された泰雲寺。は、下目黒の黄檗宗・海福寺に移設された泰雲寺の山門と扁額。
◆写真中下は、「感応寺」と誤記載されてしまった観音寺とその現状。は、戸山ヶ原に造成された競馬場とその近くに築造されつつある防弾土塁(三角山)。
◆写真下は、競馬場があったあたりの現状で大久保地区の戸山公園となっている。は、東西に細長く高田村と雑司ヶ谷村、小石川村にまたがる四谷町(四家町)。は、同地図にみるかつて池袋村氷川社の北側にあった金井窪村。
おまけ
ようやく近所にあるモミジの葉が、黄緑色からタイダイ色や赤色に紅葉してきました。
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