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無謀な戦争は惨敗必至と上代タノ。 [気になる下落合]

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 1941年(昭和16)12月8日、日本が米英に宣戦布告をすると、留学しながら欧米の教育機関や社会状況などを仔細に視察して帰国している上代タノClick!は、その歴然とした国力のちがいを知悉していたためだろう、「今度の戦争は無謀な戦いだ」とさっそく周囲に語っている。また、「米軍の機動力に対し、日本の無計画な軍事行動が破綻をきたすのは必至である」と、開戦早々に惨敗を正確に予見した。
 彼女のように、実際に自分の目で各国を観察した事実にもとづき、論理的かつ実証主義的な学問的視点や解釈をせずとも、川田順造Click!の母親のように「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」「本当にアメリカやイギリスに勝てるわけがない」と、日ごろから欧米製品を使い映画やアニメなど欧米文化に親しんで、大きな国力の差を生活観から感性的に認識していたとみられる、敗戦必至を予見していた女性たちが(城)下町Click!にはかなりいる。
 上代タノは、下落合で執筆Click!して研究社から出版された英米文学評伝叢書第41巻『リー・ハント』(1936年)の「はしがき」に、こんなことを書いている。
  
 それはある時代に限られたことではないが、うそがほんとうのやうな擬態をしてのさばる時に、一旦口を開くと際限なく面倒が起るので、多くの人は沈黙主義を採る。リー・ハントは十九世紀初頭の可なり物騒な英国社会にあって自ら飛んで火中に投じた人である。凡そ物事には正義と愛とに基礎づけられた一筋の道理がなければならぬものと固く信じ、その貫徹のためには文学といはず、政治といはず、宗教、道徳の方面からも言ひたいことを恐れず、躊はず述べたてたものだ。
  
 日本では、政府や軍部が繰り返す軍国主義のプロパガンダClick!で、「うそがほんとうのやうな擬態をしてのさばる」時代を迎え、国家(大日本帝国)を破産させ滅ぼすことになる、無謀でむこうみずな戦争へと突き進んでいった。上代タノは、横行する「亡国」思想を冷徹に見すえ、戦前から戦中にかけ、繰り返し反戦の意志を表明して憲兵隊から目をつけられ、その言動を敗戦の日まで常に監視されつづけた。
 ラジオから軍艦マーチとともに、真珠湾攻撃の「米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」の臨時ニュースが流れる朝、日本女子大では全学生および教職員が講堂に集められた。2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』所収の、『日本女子大学英文学科七十年史』(1976年)から上代タノの文章を孫引きしてみよう。
  
 昭和十六年十二月八日、米英に宣戦布告の日、井上(秀)校長は全校生徒、教職員を講堂に集めて、いよいよ戦争が開始されたことを告げられた。私は何としても戦争に反対であったので、アメリカ人の先生を引っ張って講堂の外に出た。アメリカ人の先生は貴方(上代タノ)がいるから私は我慢すると泣きながら言った。(カッコ内引用者註)
  
 当時の校長だった井上秀は、婦人平和協会で上代タノとともにWILPF(婦人国際自由平和連盟)の活動していた中心人物のはずだった。すでに婦人平和協会は、言論・集会・結社の自由を奪われて解散させられ、同時にWILPFから脱退されられて日本支部は消滅した。だが、会員たちは各地で密かに会合をもち、地下で活動を継続している。
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 この時期、平和主義を掲げる学校への弾圧は、河井道が世田谷区千歳に開校した恵泉女学園の「慰問袋事件」が象徴的だろうか。戦地へ送った慰問袋に、同学園の女生徒が「お互いに殺しあうことを早くやめてください」と書いて特高Click!に踏みこまれている。河井学園長は、その生徒の言葉を否定しなかったため逮捕されて留置場へぶちこまれた。
 日本女子大には憲兵隊に加え、同大を中退した東條かつ子(東條英機Click!の妻)が頻繁に訪れている。卒業もしていない中退者が、「母校」を頻繁に訪問するなどかつて聞いたこともないが、もちろん英語教育や英米文学の講義をまったくやめようとしない、同大英文学部(1942年以降は外国語学科に格下げ)への夫のカサを着た恫喝と圧力のためだ。さらにいえば、同学部の責任者である上代タノへの嫌がらせにほかならない。
 戦争がはじまる前から、英語は政府や軍部から「敵性語」などと呼ばれていたが、開戦と同時に「敵国語」となり徹底して弾圧された。軍国主義を拒否する上代は、東條かつ子の来校についてこんなことを書いている。(同書より)
  
 その頃、東条首相夫人かつ子さん(日本女子大学校中退)は度々学校へ来られた。しかし、私としては会いたくない人だったので、何時もうしろから抜け出して会わぬようにしていた。学校では、学校を疎開することを考えるようになったが、私は一人でも生徒が東京に居る限り疎開はしない、と頑張った。(カッコ内取材者石川ムメ註)
  
 同大英文学部(外国語学科)では、1943年(昭和18)ごろまで「リベラルな雰囲気の中で勉強することが出来た」(同書)ようだが、敗戦色が強まるにつれ同大の全学生が勤労動員に狩りだされている。上代タノは、杉並区にある浴風園の敷地に造られた軍需工場へ、英文学部(外国語学科)の学生たちを引率して通うようになった。
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 この軍需工場で、配属された陸軍の監督将校たちと上代タノは、真正面から対峙することになった。上代は軍部の命令どおり、女学生たちを軍需工場へ引率してきて勤務に就かせたが、工場の昼休みや休み時間、勤労後の退勤までの時間などを活用し、工場内で英語教育と英米文学の講義をはじめたのだ。
 陸軍の配属将校たちは、その光景がにわかに信じられなかったにちがいない。即座に中止を命令したが、上代教授は講義をやめようとはしなかった。すると、上代タノが学校から工場へ女学生たちを引率するのを禁止したが、彼女はそれを無視して引率しつづけ英語教育を継続した。逆に、陸軍の配属将校が彼女の論理に説得されてしまい、しぶしぶ認めるようになっていった。配属された将校の中には、学徒動員で1年前まで学生だった人物もいたのではないかと思われる。
 上代いわく、「日本は今戦いに勝つため一生懸命であるが、戦争が終われば必ず相手国との交渉があり、将来は仲良くしてゆかねばならない。そういう時に敵を知らないで何が出来るか、戦争が終っても、米英がこの地上から滅亡してしまわない限り、英語が無用になる日が来ようとは思われない」。中には、彼女の講義を聴いて「先生、やっぱり(英語教育を)やったほうがいい」と密かに告げる将校までが現れるようになった。
 こうして、上代タノは敗戦の日まで、勤労動員先の工場で英語の講義をつづけている。当時の様子を、同書に収録された学生の証言から引用してみよう。
  
 「こんな時だからこそ、英語を学ぶのです。相手を知る事です。」 上代先生の表情は厳しかった。昭和一九年、太平洋戦争の最中、敵性語を志す者に、「非国民!」の怒号がとび、罪悪感に苛まれていた時の事である。また委縮している私達に、この様に言われたこともある。/「他人の意見に左右されてはいけない。自分でものを考え、発表する習慣をつける事。戦争は何時までも続くものでない。」 全体主義が個人を埋没させる時代だった。
  
 おそらく、上代タノは「戦争は何時までも続くものでない」のあとに、「敗戦後の世界に備えて勉強しなさい」とつけ加えたかったにちがいない。
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 各地でひそかに地下活動をつづけていた婦人平和協会は、敗戦後の1947年(昭和22)にいち早く「日本婦人平和協会」として復活している。会長には上代タノが就任し、WILPF日本支部も同時に活動を再開した。そして、上代会長のもとで反核・反戦平和運動をベースに、朝鮮救援委員会をはじめ沖縄救援委員会、国際関係委員会、人権擁護委員会、ユニセフ委員会などが次々と設置された。1956年(昭和31)に日本女子大学長に就任したあと、上代タノはWILPF日本支部の名誉会長になり、95歳で没するまで国際平和運動をつづけている。

◆写真上:下落合から東へ1,600mほどのところ、同じ目白崖線沿いの肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)から望む日本女子大学の百年館校舎。
◆写真中上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる日本女子大学校。は、明治末に英語を教えるエレナ・フィリップス。上代タノが雑司ヶ谷「暁星寮」にいたときの舎監であり、同時に日本女子大の英文学部教授だった。は、1917年(大正6)に竣工した同大の桜楓家政研究館だが、6年後の関東大震災Click!で大破した。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に行われたGHQによる同大キャンパスの視察で前列の左からふたりめが上代タノ。は、1961年(昭和36)の日本女子大学創立60周年記念式典で講演する上代タノ学長。は、同大の成瀬記念講堂の内部。
◆写真下は、1961年(昭和36)撮影の長崎平和記念公園における上代タノ。は、1964年(昭和39)に新図書館落成式での上代学長。は、同大キャンパスの現状。

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