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年を越せない貧乏な刀鍛冶たち。 [気になるエトセトラ]

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 今年も、拙サイトをわざわざ訪問いただきありがとうございました。くれぐれも健康に留意され、よいお年をお迎えください。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

  
 下落合の藤稲荷社Click!には、いつのころからかは不明だが「正宗」Click!の太刀が奉納されていたという江戸期のエピソードが残っている。もちろん、鎌倉期に生きた日本刀の最高峰といわれる相州伝(神奈川の鎌倉で生まれた鍛刀技術の技法)の五郎入道正宗Click!とは思えず、別銘の「正宗」(室町期?)か偽名の可能性が高いが、江戸期には目白不動Click!がその名にちなんでおもに目白(鋼)を使う金工師の崇敬を集めていたように、藤稲荷社はある時期に小鍛冶(刀鍛冶)との縁でもあったのだろうか。
 また、隣りの雑司ヶ谷村の金山には、江戸石堂の流れをくむ石堂一派Click!が住みついて鍛刀していた。江戸期に入ると、後期に鍛えられる一部の新々刀Click!を除き、砂鉄からのタタラ製鉄(大鍛冶)Click!目白(鋼)Click!を精錬する技術は膨大なコストがかかるため廃れるので、雑司ヶ谷の石堂派は金山稲荷周辺の砂鉄が目的ではなかっただろう。今日でも、日本美術刀剣保存協会が主宰する出雲タタラの目白(鋼)は生産量も少なく貴重であり、その配給を受けられる刀鍛冶も限られている。
 目白を精錬するタタラの火男(ひょっとこ)Click!たちも、仕事量に比べて収入が少なく貧乏だったが、刀鍛冶はさらに輪をかけて貧乏だった。毎年11月に行われるフイゴ(鞴)祭りClick!で、近所の子供たちがはやし立てるかけ声が、「♪鍛冶屋の貧乏、鍛冶屋の貧乏、貧乏鍛冶屋!」(江戸期)というのにも、その生活の苦しさがうかがわれる。実際、鍛刀だけでは年が越せず、生活が成り立たない刀鍛冶が大量に生まれ、確実に需要を見こめる鉄製の生活用品や、農機具を製造する「野鍛冶」へと転向する刀鍛冶が多かった。
 江戸期に入ると、戦がほとんど途絶えて刀の需要が激減し、武士が腰に指す刀剣または拵(こしらえ=刀装具)は装飾品あるいは美術品としての価値が急速に高まるようになる。刀鍛冶もマーケティングを全面的に見直すようになり、武家相手の鍛刀から、豊臣政権のように刀剣の所有が禁止されておらず、刀剣趣味や鑑定会趣味をもつおカネ持ちの町人へとターゲットを全面的にシフトしていく。書き入れ(注文帳)が焼けずに保存されていた京都の刀屋では、江戸後期になると顧客の7割が町人だった様子が記録されている。
 2尺(約60.6cm)以上の大刀について、町人は帯刀を禁止されていたが所有するのは“勝手”であり、また2尺以下の脇指ないしは短刀は自由に帯刀することができた。「江戸期に刀を指しているのは武家」……という大きな誤解・錯覚は、おそらく時代劇の影響が多大にあるのだろう。物見遊山や旅行の際、町人たちは護身用に必ず帯刀(2尺以下の脇指)して出かけている。町人文化に根づいた身近な刀剣からは、さまざまな刀剣用語Click!が日常の生活用語として浸透するようになった。
 さて、江戸期には特別に高名な刀工はともかく、ふつうの刀鍛冶は生活苦にあえいでいた。消費ニーズがなければ売り上げはほとんどゼロに近く、相槌(あいづち=目白の折り返し鍛錬の際に向こう槌を打つ助手)さえ雇えずに、たったひとりで鍛刀する鍛冶もいた。その生活を少しでも安定させるために、どこかの藩の専属あるいは契約の刀工=藩工になって、定期的に刀を収めて収入を得る刀鍛冶が多かった。以前にご紹介した荘司箕兵衛(大慶直胤)Click!や娘婿の荘司次郎太郎直勝は、秋元家の上州館林藩と契約して1年のうちで鍛刀した作品の幾振りかを秋元家に納品している。
 刀鍛冶は、基本的にひとりの作業では困難なため、相槌を雇ったり弟子をとったりして作業をすることになる。また、膨大な炭(おもに高温が持続する松炭が好まれた)や薪を消費するため、火床(ほと)の燃料費もバカにならない。それに加えて、硬軟とり混ぜた高価で良質な目白(鋼)や、寺社の解体修理などででる、大昔の砂鉄を製錬した良質な古釘などを購入しなければ作品は造れないので、地金屋からの原材料費の調達にも終始腐心していた。
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 江戸前期の高名な刀工に長曾祢興里入道虎徹Click!がいるが、寺社の解体修理などで不要になった良質な古鉄(こてつ)を用いて作刀することから、刀銘に「虎徹」と切るようになる。これらの経費を捻出するため、自身が理想とする作刀とは異なる、意にそぐわない注文打ちにも対応しなければならなかった。江戸期に生きた、そんな生活苦にあえぐ貧乏な刀鍛冶のエピソードが、現代まで数多く伝えられている。
 相州(鎌倉)住の廣光は、江戸期を代表する相州伝直系の刀工のひとりだが、弟子たちへなかなか給料が払えずに苦労している。そこで、弟子たちが稽古のために鍛えた“練習刀”をもってこさせ、その茎(なかご)に「廣光」の銘を切って刀屋へ卸し、なんとか年を越せるカネを捻出している。したがって、廣光なのに明らかに出来の悪い作品は、実は彼の作刀ではない可能性が高いのだが、これは商売のうえでも詐欺にはあたらない。刀屋も見る目があるので、明らかに刀匠自身の作ではないと知りつつもあえて引き取っているとみられる。人気のある刀工は、たとえ当人の作でなくとも「廣光工房」の作品として十分に販売価値があり、リーズナブルな価格に設定することで商売が成り立ったからだ。
 作刀の名人であり藩工もつとめていたが、あまりにも貧乏なので藩に願いでて当時の「非人小屋」(無料宿泊救済施療所のようなシェルター施設)に収容してもらい、そこで作刀をつづけた加賀藩の6代目・清光のようなケースもある。目白(鋼)や薪炭などを藩から支給してもらい、なんとか飢えずに作刀をつづけられたが、自身でも「非人清光」あるいは「乞食清光」を名のるようになる。加賀百万石の藩工であるにもかかわらず、満足に生活できないことへの痛烈な皮肉や批判が、その行動や刀銘にはこめられているような「非人清光」だが、その作品の出来は非常に優れており、沖田総司の愛刀としてもよく知られている。
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 幕末に生きた新々刀の巨匠、新宿区が地元で「四谷正宗」の異名をとるいまや人気No.1の山浦(源)清麿は藩工にならず、源清麿ファンの刀屋や町人、武家たちから出資してもらった「武器講」を生活の糧にして作刀していた。だが、講の資金をすべて生活費や酒代でつかいはたし、大江戸(おえど)から夜逃げをして“蒸発”している。
 にもかかわらず、もともと憎めない性格や容姿をしていたらしく、しばらくすると江戸へともどり、再び武器講へ出資してもらって作刀をつづけている。いま風にいえばイケメンだったらしく、生活に困窮すると近所にある商家のお内儀(かみ)さんたちのもとへ顔をだし、「ちょいと一万石貸してくださいな」「百文さね。頼むよ」と訪ね歩いたという。1854年(安政元)に自刃するまで、困窮生活はつづいていただろう。
 源清磨の弟子であり名工の栗原信秀も、しじゅう生活苦にあえいでいたひとりだ。信秀はカネがなく薪が買えなくなると、邸内の食膳など木製の調度品をたたき壊しては、竈や火床の火点けに利用していた。また、越後の弥彦社から鋼製の神鏡制作を依頼され、前渡し金として制作費の半金をもらったが、制作をはじめる前にすべて生活費につかいはたしてしまった。いざ仕事という段になって、どうしても目白(鋼)を購入するカネを工面することができず、地金屋に泣きついて材料を前借りしている。
 江戸期の刀鍛冶は、弟子入りを希望する若者が工房に現れると、まっ先に「刀鍛冶は貧乏だ。カネが欲しけりゃ商人になれ」と諭して追い返していた。事実、刀鍛冶で一生を貧乏のまま終えるのであれば、商人になって日々地道に稼いだほうが、よほど楽でマシな暮らしができたのだろう。新刀時代がスタートする室町期以前(刀剣美術史の時代区分に安土桃山時代は存在しない)の古刀時代のように、刀が鍛造するそばから売れていた時代はとうの昔話となり、また実際の戦闘では大砲(おおづつ)や鉄砲など火器の重要性が増すにつれ、武器としての刀剣の比重は時代をへるごとに低下していった。
 同時に、武家や町人を問わず、刀剣や刀装具の作品を美術的に鑑賞する“趣味”が拡がり、名刀やそれにまつわる物語を書いた本が出版されたり、美術的に優れた当時の刀工や人気刀工の作品を紹介する本などが売れるようになった。また、刀剣コレクションも武家・町人を問わず当たり前のようになり、刀剣の折り紙つき(鑑定書)を発行する専門職までが流行るようになる。江戸の街中や武家屋敷では、茎(なかご)の銘を隠して刀工を当てるブラインドテスト=鑑定会が、武家や町人が入り混じって開催されるようになった。
 つまり、よほどの名工か有名刀工、人気刀工、給与を保証してくれる藩工でなければ生き残れない、非常にシビアなマーケットが形成されていたのが江戸期であり、一般的な刀工は貧乏にあえぐか、鍛錬技術を活かせる別の職業への転職を考えざるをえなかった。
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 江戸の後期、砂鉄のタタラによる目白(鋼)復興を唱えた新々刀の刀匠・水心子正秀は、「刀剣は変に臨んで身命決断の重器なり」と書いているが、幕末に起きた「変」で威力を発揮したのは、もはや刀剣ではなく最新式の圧倒的な銃火器の導入による戦闘だった。

◆写真上:皮金・芯金・刃金・棟金など、多種多様な目白(鋼)を組み合わせて鍛錬する。
◆写真中上は、日本美術刀剣保存協会(日刀保)が主宰する出雲タタラ(島根県)の目白(鋼)で鍛えられた現代刀の茎。は、のたれ気味の刃文に銀砂を散らしたような荒錵(あらにえ)や砂流し、ときに金筋銀筋が見られる美しい相州伝の鍛錬技法。は、1688年(貞享5)に描かれた『正月揃』に収録された刀鍛冶の正月仕事始め。
◆写真中下は、文化年間に鍬形蕙斎(北尾政美)によって描かれた浮世絵『職人尽絵詞』の刀鍛冶。は、江戸後期に描かれた『名誉職人画之内』の「岡崎五郎【政】宗」。鎌倉の五郎入道正宗がどのように鍛刀していたかはまったく不明で、後世にすべて想像によって描かれたもの。は、鎌倉の本覚寺にある「五郎入道正宗墓」だが、小田原(後北条)帰りの相州伝・綱廣一派が後世になって建立した供養塔だろう。
◆写真下は、新々刀を代表する水心子正秀の茎銘。は、浅草本然寺にある荘司美濃介(大慶)直胤(箕兵衛)と娘婿の荘司直勝(次郎太郎)の墓で、江戸後期を代表する大江戸の刀匠。は、「刀女子」の圧倒的な人気をさらう幕末の源清麿が鍛造した相州伝作品の茎銘。新宿が地元の「四谷正宗」=源清麿の企画展を、作品を中心に新宿歴史博物館あたりで開催すれば、おそらく関東一円の「刀女子」たちが参集するだろう。いまでこそ「刀女子」と呼ばれているが、20年ほど前から都内で開かれた刀剣展に出かけると、やたら若い女性の姿が目立っていた。刀剣は総合芸術といわれ、美しい刀身ばかりでなく拵え(こしらえ=刀装具)の精緻な金工・木工・漆芸・織物・組紐などの伝統工芸や細工にも惹かれるのだろう。

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