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江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(中) [気になる神田川]

三谷坂道34.JPG
 東京各地に数多く残る丸山Click!(円山など)の地名について、地元の伝承・伝説や字名の由来、地形などを調べていると、「おや、これは?」と思うような地域にぶつかることが多い。野方町(およそ現・中野区野方地域)の字名に多い丸山Click!と、隣接する三谷(山谷とも)Click!について調べているときも同じような経験をしている。江戸期には、ちょうど下沼袋村(丸山)と同村および新井村(三谷)の境界で、三谷は丸山を囲むように位置する字名だった。以後、ともに野方村の字名となって記録されている。
 明治以降は、野方村丸山1441番地(現・野方2丁目27番地)あたりが正円形の中心で、大きな丸山を囲むように西北から東、南にかけて三方が正円形の谷間に囲まれている。現存している正円の直径は250mを超える巨大なもので、実際に土地が隆起している地点から実測しても、200m以上はありそうな規模だ。落合地域でいうと、1930年代まで上落合に見られたサークル状の盛りあがりClick!よりもサイズがひとまわり大きい。
 丸山の地形は明治初期から変わっておらず、現在よりも高度があったと思われる丸山が崩され、その土砂でおそらく周囲の壕が埋め立てClick!られたとすれば、江戸期以前の土木工事によるとみられる。より詳細な記録をたどると、近くの実相院の過去帳には江戸中期を境にして、丸山や三谷に居住した人物たちが記載されており、すでに周辺の土地がある程度整地され、農民が入植していたとすると、丸山・三谷一帯の土地が整地造成されたのは、江戸前期あるいはそれ以前ということになりそうだ。
 さて、西武新宿線の野方駅南口へ降り、環七を越えて妙正寺川の橋をわたると、さっそくおかしなカーブを描いた道筋に出会うことになる。丸山や三谷の地域よりも、まだかなり手前の位置だ。家にもどってから、古い地形図や空中写真を改めて参照すると、丸山の大きなサークルの北西側にも、もうひとつ中規模の盛りあがったサークル状の地形(前方後円墳タイプ)があることが判明した。中規模といっても、サークルの直径は100mほどにもなり、丸山を“主墳”と考えれば、同族墳あるいは陪墳の一種だろうか。今回の目的が丸山と三谷だったので、先を急ぐことにする。
 そのまま道を南下すると、三谷の西北部、つまり丸山の西北側の麓に到着する。そこからは明らかに上り坂であり、昔日の丸山がこのあたりからはじまっていた様子がうかがえる。麓の三谷には、丸山を囲んで山麓を円形に通る内周道路と、さらに外側を円形に通る外周道路が敷かれている。その内周と外周との間が、丸山を前方後円墳(ないしは帆立貝式古墳)の後円部と仮定すれば、その周囲に掘られた周濠(壕)ということになるだろう。
 丸山という地名の由来であり、後円部(あるいは円墳)として築かれていた墳丘の大量の土砂は、まわりの周濠を埋め立てるのに活用したと想定することができ、南青山古墳(仮)Click!のケースとまったく同じ地形や風情となっている。野方の丸山・三谷地域のケースは、新たな畑地の開墾のために行われたのだろうが、南青山のケースは江戸前期に旗本の屋敷地造成のために工事が行われたと思われる。
 円形に刻まれた道路を歩いてみるが、丸山と名づけられた丘陵の巨大さに改めて驚く。埋め立てられ、谷が浅くなったとみられる三谷に通う道路は、丸山のサークルに沿って延々とつづいている。丸山の東側は、大正期以後の宅地開発で地形や道筋がずいぶん改造されているのが、大正以前の地形図などと比較すると明らかだが、北側と西側の地形や道筋はほぼ江戸期と変わらない形状を保っているのだろう。
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 丸山や三谷の居住者を探究した労作、1998年(平成10)に実相院から出版された矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から引用してみよう。
  
 最初これらの記録を過去帳で見た時は市三郎、庄兵衛と定右衛門は江古田村の丸山の人かと思ったのですが、市三郎という人の墓が代々三谷にお住まいの矢島達夫さんの墓地にありましたし、多分、丸山は三谷の一部を指すのではないかなと思うようになりました。そしてそのことに確信が持てるようになったのは禅定院さんの過去帳に三谷にお住まいの秋元家のご先祖の方々が丸山の住人として表記されていることに出会った時でした。これらの方々は古くは宝永年間(一七〇四~一七一〇)から始まり、明和年間(一七六四~一七七一)まで丸山の住人であると記録されていました。そしてこれ以後はその居住地は三谷として書かれています。
  
 江戸期半ばのこの時代、宝永と改元される原因となった元禄大地震につづき、改元後も日本各地で地震が記録されている。宝永元年には東北大地震が、宝永2年には九州の霧島連山と桜島が噴火、同3年には浅間山が噴火、同4年には富士山が大噴火、同5年には再び浅間山が噴火、同6年早々には阿蘇山が噴火と、天変地異が連続して起きている。これらの事件と下沼袋村への新たな入植・開墾とは、どこかでつながっているのかもしれない。
 さて、丸山へ登ってみると丘上は平坦にならされていて、もはや「山」の頂上らしきものはきれいになくなっている。各地に残る「丸山」と同様、上部は住宅街で埋めつくされているが、江戸期には畑地が一面に拡がっていたのだろう。丸山の南側の麓には「大久保」Click!と名づけられた湧水源(湧水池)があり、三谷の谷間エリアではその清流を活用して田圃が耕されていたとみられる。現在は暗渠化されているが、この小流れは丸山の東側(三谷)を円形に沿って流れ下り、斜面を600mほど北上して妙正寺川に注いでいた。
 先述の『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』から、再び引用してみよう。
  
 この様に三谷の中央部が江戸時代明和年間位までは丸山と呼ばれていたことが分かります。今は家が沢山建ってしまってわかりにくいのですが、以前でしたら沼袋の清谷寺の下の沼袋小学校辺り、或いは三谷橋付近からこれら秋元家のある方向を望めば周囲から少し高くなっており丸山と呼ばれてもおかしくないような地形をしています。(中略) 地図から地形を見てみますとこの「丸山」を囲んで三方、北、東と南に谷があります。三谷という地名は或いはここから名付けられたと考えられなくもないかと思われます。
  
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①丸山三谷36.jpg ②丸山山内43.JPG
③丸山三谷39.jpg ④丸山三谷40.jpg
⑤丸山三谷47.jpg ⑥丸山三谷49.jpg
⑦丸山三谷54.jpg ⑧丸山三谷56.jpg
⑨丸山三谷59.jpg ⑩丸山三谷60.jpg
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 現状のような盛りあがりだけで、おそらく眺めがよかった江戸期でさえも、人々は「丸山」とは名づけないだろう。日本各地に残る、丸山地名の由来となったあまたの「丸山古墳」Click!あるいは「丸塚」Click!と同様に、こんもりとした丸みを帯びた墳丘の後円部、またはお椀を伏せたような大きな円墳が存在したから「丸山」なのであり、その形状が摺鉢を伏せたような形状だから「摺鉢山古墳」Click!なのだ。現在の丸山は江戸前期、ないしはそれ以前の土木工事によって改造されたあとの姿なのだと思われる。
 著者が書いている、三方を谷間に囲まれているから「三谷」だというのは、わたしもそのとおりだと思う。つまり、北西あたりから刻まれ、丸山をグルっと南まで取り囲む三谷を周濠と見れば、この巨大な古墳の前方部は南西側にあたりそうだ。なぜ、真西の方角ではないかというと、北西の谷間(周濠)が途切れたあたりに「造り出し」Click!があったような気配を、地形図や空中写真から推測することができるからだ。そして、この造り出しの上に位置しているのが、丸山の旧家である秋元作二郎邸ということになる。
 丸山の麓に通う道路を、正円形の道なりに西側から南へとたどっていくと、ちょうど前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)の西側の“くびれ”部にあたる、数多くの同型古墳では造り出しが設けられている位置に、江戸中期の明和年間から居住が確認できる秋元家の大屋敷がある。戦後すぐのころの空中写真を確認しても、丸山・三谷地域では屈指の大邸宅だった様子がうかがえる。
 その敷地の道路側は、現在は駐車場となりその奥に住宅が建っているのだが、その駐車場をのぞいてわたしの足が止まった。駐車場の左手、南側の一隅に大きな庭園石(フロア用複合コピー機ほどのサイズ)とみられる見馴れた岩石がふたつ、ていねいに保存されている。近づいてみると、表面に大小の白い貝殻の化石が無数に付着しているのがわかった。まちがいなく、南関東では古墳の羨道や玄室に多用されていた「房州石」Click!だろう。房州石は駐車場にとどまらず、隣接する邸宅敷地の庭園や玄関先などにも多く配置されている。
 これらの房州石は、江戸中期に秋元一族が丸山を整地・開墾していた際に、墳丘中央に位置する羨道や玄室から出土したものではないだろうか。そして、その石材の中から運搬可能な大きさの石を選び、屋敷にしつらえた大きな庭園に配置した……、そんな経緯を想像することができる。だが、古墳とみられる丸山の規模や大きさからいえば、現存するこれらの房州石は比較的小さな部類だったのではないだろうか。玄室の壁面や天井などに用いられているものは、数メートル規模の石材もめずらしくないからだ。丸山・三谷地域の旧家跡で、房州石が発見できたことは現地を取材しての大きな成果だった。
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 丸山・三谷の地形や地名は古墳に由来するとしても、巨大な前方後円墳(帆立貝式古墳)だろうか、それとも円墳だろうか? 秋元家跡から、南東側の一帯に通う道路を歩いて地形を観察してみると、ほどなく南東側や南側に下っていることがわかった。前方部の墳丘も崩され、その土砂で周囲の段差が埋め立てられ整地されたと仮定すれば、全長が250~260mほどの帆立貝式古墳(前方部が短縮された前方後円墳の一種)を想定することができそうだ。引用の便宜上、この古墳とみられるフォルムを「丸山三谷古墳(仮)」と呼ぶことにする。
                                <つづく>

◆写真上:北側にある古墳フォルムの丘上から、南に口を開ける三谷へと下りる坂道。
◆写真中上は、1925年(大正14)の10,000地形図にみる丸山・三谷地域。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地域。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された同地域とその拡大。秋元一族が、見晴らしのいい位置を占めている。
◆写真中下は、戦後1948年(昭和23)の空中写真にみる丸山・三谷地域。は、その一帯で撮影した現状写真で空中写真の記載番号・撮影方向と照応している。
◆写真下は、旧・秋元作二郎邸跡に残されていた開墾時に出土したとみられる房州石。は、大正初期を想定した丸山・三谷マップ。(監修・矢島英雄)

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