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美術刀剣の保存を進めた谷千城と川村景明。 [気になる下落合]

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 下落合378番地の御留山Click!に建っていた相馬孟胤邸Click!で、太素社(妙見社)Click!祭礼Click!が行なわれた当日、武具蔵で公開・展示されていた刀剣類Click!についての記事を少し前に書いた。相馬邸ばかりでなく、下落合700~714番地の西坂にある徳川義恕邸Click!や、下落合1755番地の津軽義孝邸Click!、下落合417番地の近衛篤麿・文麿邸Click!(旧邸)などにも名作は保存されていただろう。武家ではない近衛家にも、1918年(大正7)の売立入札目録Click!から推測すると、古刀時代(慶長期以前)に近畿圏で活躍した刀工作品が何口か眠っていたのではないかと思われる。
 だが、もともとが公家だった近衛家よりは、落合地域に隣接する目白の徳川義親邸Click!細川護立邸Click!のほうが、武門の刀剣蒐集ではふたりとも特に名の知られた人物であり、圧倒的に充実したコレクションを収蔵していた。細川護立は戦後になると、東京国立博物館の外郭団体としてスタートした日本美術刀剣保存協会(日刀保)の会長に就任している。また、徳川義親Click!は1935年(昭和10)に徳川美術館(名古屋)Click!を設立しており、日本最大規模の刀剣蒐集とその展示は、同館の重要な学術研究部門となった。
 下落合・目白界隈には、美術刀剣を趣味とし作品類を蒐集・保存に関連する人物たちが多く住んでいた。明治以降に廃刀令が発布されると、刀剣および刀装具を武器としてではなく、美術工芸品としてその技術とともに保存・継承していこうとする動きが、1900年(明治33)に“武”の中心地だった江戸東京で発生している。犬養毅Click!(美術刀剣界では瑠璃山人/無名堂主人)が発起人となり結成された「中央刀剣会」がそれだが、その呼びかけ人の中には下落合に住んでいた人物たちの名前が何人か見える。西坂・徳川邸Click!から同坂をはさみ、西側に建っていた下落合1218番地の谷千城Click!と、そのすぐ近くの安井息軒邸Click!の跡地に住んでいたとみられる下落合1110番地の川村景明Click!だ。
 幕末から、すでに刀剣の軍事的な需要はほとんどなくなり、陸戦の主流は小銃と大砲に移行していた。それでも武士たちは、腰に刀剣を指していないと不安をおぼえ、銃砲の扱いの邪魔にならないよう短めの大刀に突兵拵え(とっぺいこしらえ)と呼ばれる、細いサーベルを収めるような特殊な外装を工夫・採用して帯刀していた。それだけ、刀剣に対する依存心が強かったのだろう。だが、実際の戦闘では刀を抜く以前に最新式の銃砲で勝敗が決してしまうため、一度も抜刀しないまま戦闘を終えるケースも出はじめていた。
 少しだけ、東京の近代史のおさらいをしてみよう。江戸幕府が倒れ明治期がスタートすると、明治政府は軍隊以外の市民(武家や町人に限らず)が、もはや時代遅れとはいえ刀剣を指して出歩いているのが目ざわりとなり、いつ反抗の刃が薩長政府に向けられるか日増しに不安が高まっていった。まず1869年(明治2)に、森有礼が官吏と軍人以外は帯刀廃止を提案したが、刀剣に愛着のある武家が多かった公儀所で否決され、翌1870年(明治3)には江戸期は許されていた庶民Click!(農工商)の帯刀のみが禁止されている。
 翌1871年(明治4)には、散髪脱刀令が布告され髷を落としたザンギリ頭に、刀を指さない無腰の新しい明治スタイルが推奨されている。つづいて、1872年(明治5)に公布された徴兵令によって武家や町人、農民の区別なく軍人に採用されることになり、彼らが武装して軍隊を組織する形式が常態化するにおよび、戦いが本分だった「武士」という特権階級の権威や存在理由が丸ごと否定された。こうして4年間の猶予期間を設けながら、1876年(明治9)に山県有朋Click!の主導で廃刀令が公布されることになる。
 もっとも、刀鍛冶や金工師(刀装具職人)にしてみれば、江戸後期から注文がガタ減りになり貧乏生活Click!をつづけてきたわけで、かなり以前から「構造不況業種」の最たるものだったが、廃刀令のためにトドメを刺されたことになり、転職をする刀工や金工師が相次いだ。こちらでも何度かご紹介している江戸石堂派Click!の末裔である石堂運寿是一Click!や石堂是秀は、ハサミや小刀、包丁などを製造する刃物鍛冶に転業し、農具の鎌や鋤などを焼く野鍛冶へ転向する刀工も多かった。大慶直胤Click!の門人のひとりで、中村相馬藩の藩工だった慶心斎直正は、廃刀令が公布された直後に将来を悲観して自刃している。
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 廃刀令をめぐり、新しい商売も生まれている。腰に刀を指さないと落ち着かない人々のために、剣客の榊原健吉は大刀のかわりに「倭杖」という重い木刀を、脇指のかわりに「頑固扇」という鉄製の扇子を、製品として売りだしヒットしている。また、名刀工の月山貞一は、さまざまな古作に似せた刀剣を焼いて、有名刀匠の偽名を茎(なかご)に彫っては飢えをしのいでいた。本人にしてみれば、自身の出来のいい作品に偽名を彫らなければならないという、思いだしたくもない時代だったろう。1906年(明治39)に帝室技芸員に選ばれるまで、月山貞一の屈辱的な苦難はつづいた。
 ここでちょっと余談だが、鎌倉の相州伝刀工の銘が切られた、出来は非常にすばらしいが茎が新しく錆つけも不自然な偽名刀とみられる作品は、月山貞一の作品である可能性が高いため、偽作であるにもかかわらず高価で人気が高いという、おかしな現象まで生じている。そのほか、刀剣に直接かかわりのある職業、研師Click!や塗鞘師(木工漆芸師)、白鞘師、柄巻き師などは失業して零落し、その技術が滅びていくのは時間の問題だった。
 一方、刀装具をこしらえていた金工師たちは、刀工たちに比べればまだ市場がめぐまれていたかもしれない。刀装具の注文はなくなったが、人気が高かった金工の置物や小物、タバコ用具、簪など髪飾り、アクセサリー、硯屏、花器などを制作し、国内外に技術の高さを誇っていた。むしろ、刀装具の形状に縛られず新しい商品で自由なデザインを試みられたため、江戸期よりも斬新で優れた作品を生みだしている。輸出も順調で、刀鍛冶ほど困窮することはなかっただろう。中でも名人とうたわれた、本来は刀装具の金工師だった加納夏雄や海野勝珉らは、東京美術学校Click!の教授に迎えられている。
 このような時代状況を背景に、世界で日本にしか存在しないオリジナルの刀剣美術(技術)を後世に継承しようという動きが、明治末になってようやく活発化してくる。その先頭に立っていたのが犬養毅であり、下落合在住の軍人だった谷千城や川村景明らだった。下落合のふたりは江戸期からの武家なので、刀剣にはより身近な愛着を感じていたのだろうが、「中央刀剣会」のメンバーにはその出自や職業、身分の差に関係なく、刀剣美術(技術)が滅びる前に保存しようとする人々が参集している。
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 以下、1900年(明治33)の犬養毅による中央刀剣会設立趣意書から引用してみよう。
  
 (前略) 文化、文政ノ際ニ及ビ、水心子正秀ナルモノ古法ノ久シク廃絶セルヲ歎キ、研鑽工夫殆ンド四十年を積ミ始メテ古法ノ一端ヲ発見シ大ニ復古ノ説ヲ唱フ。天保、弘化ノ交直胤(大慶直胤)、清麿(源清麿)ノ徒其ノ後ヲ継ギ盛ニ之ヲ鼓吹シ、四百有余年廃絶ノ真法漸ク再ビ世ニ明ナラントス。而シテ幾モ無ク明治ノ廃刀令ニ逢ヒ、天国以来ノ妙技此ニ至リテ復タ用ヰル所ナキニ至ル。/爾来今日ニ至ル僅ニ三十年間、海内幾百千ノ鍛工日ニ月ニ零落離散シ、僅ニ存スルモノモ亦老テ後ナカラントス。此ノ如キモノ独リ鍛工ノミニ非ズ。研師、鞘師、柄巻師ノ徒老練ノ名手年ヲ逐テ凋落シ、子弟ノ復タ其ノ業ヲ継承スル者アラズ。若シ今ニシテ之ガ保存ヲ謀ルニ非レバ、各種ノ工人其ノ師伝秘訣ト共ニ漸絶湮滅スルハ今ヨリ数年ノ中ニ在ラン。我邦千有余年ノ工夫経験ヲ以テ大成シタル宝器妙工、豈此ノ如ク棄テテ顧ミザルノ理アランヤ。吾輩窃ニ之ヲ憂フル久シ。因テ茲ニ別記ノ方法ニ依リ之ガ保存ヲ計ラント欲ス。海内同志ノ君子、願クハ我国固有ノ宝器独特ノ妙技ヲ保存スルノ趣旨ヲ以テ本会ヲ讃成シ、奮テ加盟アランコトヲ懇切希望ノ至ニ堪ヘザルナリ。(カッコ内引用者註)
  
 要するに、江戸後期になって古刀時代の優れた作品や鍛刀技術に学ぼうとする新々刀時代を迎え、水心子正秀一門(新々刀の祖/日本橋浜町)や大慶直胤一門(江戸後期きっての刀匠/下谷御徒町)、源清麿一門(四谷正宗/新宿四谷町)を輩出したが、せっかく探究された高度な作品や技術の伝承が廃刀令で絶えてしまうのは惜しい、日本刀はもはや武器ではなく美術品の範疇なのだから、なんとか後世にまでその作品や技術を伝承し保存できないものだろうか……というのが、その設立趣旨だった。
 敗戦直後には、刀剣は武器であると一度は規定した、GHQによる刀剣没収・廃棄が行なわれている。このとき「廃棄」された刀剣の中には、名作がどれほど混じっていたのかは不明だが、米軍によって「土産」として持ちだされた作品の中には名品が多々あり、膨大な文化財が戦争で消滅あるいは流出したとみられる。戦後、しばらくしてから返還された刀剣は「里帰り刀」と呼ばれ、それは現在にいたるまでつづいている。
 GHQは敗戦から2ヶ月後、1945年(昭和20)10月になって美術刀剣への理解が進んだものか、「骨董的価値のある刀剣は審査の上で保管を許可する」とし、GHQの嘱託組織である刀剣審査委員会が設置された。そして、1948年(昭和23)2月には東京国立博物館の傘下に、細川護立を会長とする(財)日本美術刀剣保存協会(日刀保)が設立されて現在にいたっている。
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 刀剣観賞が趣味だったとみられる谷千城と川村景明だが、どのような作品を蒐集していたのかが興味深い。また、細川家所蔵の刀剣作品は、肥後細川庭園Click!(旧・新江戸川公園)にある永青文庫で展覧会が開催されるので、ときどき神田川沿いをブラブラ散歩がてら観賞しに出かけている。いつか、落合・目白地域の社(やしろ)や家々に伝えられた「名刀」(迷刀?含む)Click!をご紹介しているが、近々、同地域の徳川家や相馬家、津軽家、近衛家、細川家などで保存された、由緒由来のハッキリしている名刀類についてご紹介してみたい。

◆写真上:細川家の名刀展が開催される、散歩コースの肥後細川庭園・永青文庫。
◆写真中上上左は、1900年(明治33)に設立される「中央刀剣会」の発起人となった犬養毅。上右は、公家ならではの刀剣類を所蔵していた下落合417番地の近衛篤麿。は、下落合1218番地の谷千城()と、下落合1110番地の川村景明()。
◆写真中下は、現在は目白の和敬塾本館として使われている細川護立邸。は、いまは八ヶ岳高原ヒュッテとして使われている目白町の徳川義親邸(提供:小道さんClick!)。は、御留山にあった相馬邸の南東部にあたる居間(サンルーム/提供:相馬彰様Click!)。
◆写真下は、GHQの命令で行われた「刀狩り」。実施は短期間だったが、多くの作品が廃棄または海外へ流出した。は、美術刀剣の保存に尽力した細川護立()と徳川義親()。は、細川護立名義の一時代前に発行されていた日刀保の折り紙(鑑定書)。

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円空仏が祀られた都内唯一の中井不動尊。 [気になる下落合]

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 子どものころ、両親に連れられて円空仏を見て歩いた記憶がある。公開されている作品は東京都内には少なく、隣りの埼玉県や神奈川県のほうが多かったような憶えがある。もっとも、親父は鎌倉期から室町期にかけての仏師による仏教彫刻や武蔵野の石仏が好きだったようなので、それほど数多くの円空仏を訪ね歩いたわけではない。特に神奈川県には、平安期から鎌倉期にかけての鉈彫りのいい仏像が多い。
 下落合4丁目2290番地(現・中落合4丁目)にある、中井出世不動尊を親とともに訪ねた記憶がないので、おそらく子ども時代には拝観していないのだろう。もっとも、わたしの記憶が抜け落ちている可能性も否定できないので、昔のアルバムに写真が貼ってあったりすると、物心ついたばかりのわたしを連れて目白崖線の急坂をのぼったことになる。
 さて、落合の地誌本にはたいがい紹介されている中井不動尊だが、下落合で暮らしていた人々が中心の拙サイトでは、すっかりご紹介しそびれていたので改めて取りあげてみたい。同不動尊は、明治の初めまで中井御霊社Click!の別当・不動院に安置されていたもので、もともと現在地にあったものではない。明治政府の神仏分離令が発布されると、中井御霊社の不動尊(三尊像)はいき場を失い、近くの小野田家で保存されることになった。この小野田家とは、下落合(4丁目)2286番地にあった下落合でも有数の旧家のひとつで、『落合町誌』Click!(1932年)の時代には小野田錠之輔と記録されている大屋敷だろう。
 明治期には同家に保存されていた不動明王三尊だが、1914年(大正3)に同家の敷地内に堂を建立して祀られている。だが、中井不動への参拝者は日本各地におよび、遠くは鳥取県の米子から、近くは神奈川の横浜や多摩の秋留(現・あきる野市)から参拝に訪れるので、1916~17年(大正5~6)に小野田家所有の畑地の中に石柱を建てて記念し、同時に不動尊の傷んでいた箇所を補修している。1922年(大正11)に、小野田家が敷地30坪と200円を寄進して、現在の場所に一宇を建立した。
 さらに、戦後になると堂宇の傷みが激しくなり、1969年(昭和44)に小野田弥兵衛や信者たちが協力して、集会場を含む新たな不動堂を建設して現在にいたる。不動三尊像の調査は、女子美術大学の岡田芳朗教授が中心となって行われ、正式に円空の作品であると鑑定されている。東京都内で、円空仏が個人蔵ではなく本尊として祀られている堂宇は、中井出世不動尊が唯一のものだ。
 不動本尊および脇侍(きょうじ)像の2体、すなわち矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)は、江戸期に円空が下落合にやってきて彫刻したものではない。文化文政年間に、尾張中嶋郡にある一宮真清大神宮の神宮寺が1733年(享保18)に廃寺となり、般若院に祀られていた不動三尊像を下落合の御霊社へ遷座させた記録が、同不動の台座裏に記録されている。なぜ、遠く尾張国から下落合村へ遷座(勧請)されているのか仔細は不明だが、3体の台座は江戸で彫刻・寄進されているので、尾張から運ばれてきた当初は円空仏の像本体のみだったと思われる。
 ふつう仏像を勧請するのは、室町末ないしは江戸最初期に足利から勧請された目白不動尊Click!がそうであるように、まず本尊を遷座させて祀るのが“お約束”のはずだが、中井不動尊は脇侍像2体から運ばれている。すなわち台座の銘書きによれば、矜羯羅童子像と制多迦童子像は1816年(文化13)に尾張の神宮寺般若院より、杉山平馬と古川喜十郎というふたりの供人(ともびと)が、東海道を背負って(おそらく)下落合村の御霊社まで運びこんでいる。矜羯羅童子像は身の丈64cm、制多迦童子像は身の丈67cmの小像なので、馬や大八車Click!を用いなくても楽々運べたのだろう。
 一方、本尊の不動明王像は、3年後の1819年(文政2)に下落合村へ到着している。本尊は身の丈128cmとサイズが大きく重いので、背負ったとすればかなりたいへんな旅路だったろうが、台座の裏には供人の名が記載されていない。ひょっとすると、東海道の荷運び伝馬を使って運搬したため、先の脇侍像を背負い苦労して運んだ重労働の供人たちとは異なり、不動明王像は付添人の名前を記載しなかったものだろうか。
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 不動三尊像の台座裏に記載された銘について、1980年(昭和55)に新宿区教育委員会から発行された「新宿区文化財総合調査報告書(5)」より引用してみよう。
  
 本尊の台座銘は次のように解釈できる。つまり、文政二年(一八一九)六月十七日に不動尊像が御霊神社に到着し、同年十二月二日に四谷の吉見に依頼した台座が完成した。台座の寄進者は般若院峯重である。/また矜羯羅童子像の台座銘は次のように解釈できる。つまり、文化十三年(一八一六)六月十一日に尾州中嶋郡松降埜荘(まつふりのしょう)青桃丘(せいとうがおか)の一宮真清田神宮別当神宮寺般若院より、杉山平馬と古川喜十郎の両名がお供として東海道を下向して、本二像が到着した。/なお、制多迦童子像の台座銘は、矜羯羅・制多迦二童子像の両岩座を、文政四年(一八二一)十二月に御霊神社別当不動院の勇山が寄進したことを記し、併せて台座作者小石川音羽町七丁目西村藤吉の名を記している。
  
 この文中には「御霊神社」と書かれているが、「神社」Click!という呼称は明治政府がこしらえた近代の造語なので、イザナギとイザナミの第七天神Click!2柱が祀られていた江戸期の当時は(鎌倉期以前からの五郎祖霊も奉られていたかもしれない)、御霊社(ごりょうしゃ)Click!とよばれていただろう。また、本尊の台座作者に「四つ谷/吉見作」と書かれているが、この「四つ谷」が外濠も近い四谷町Click!のことか、または高田(あるいは雑司ヶ谷or小石川)の四谷(家)町Click!のことかさだかではない。
 脇侍像2体の台座には、小石川音羽町にいた彫師(仏師)の名が見えるので、わたしは後者ではないかと考えている。小石川四谷(家)町や音羽町界隈には、幕府の巨刹・護国寺が近いせいで、仏師たちが集中して工房をかまえていたと思われる。
 さて、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の彫像といえば、まずもっともポピュラーな運慶作と伝えられる高野山(金剛峯寺)の2像が思い浮かぶ。各地の博物館などで展示公開されており、ご覧になった方も多いのではなかろうか。だが、円空が制作した脇侍像2体は、それらとはまったくイメージが異なり似ても似つかない風貌をしている。円空が彫る仏像は、仏の柔和な表情に仕上げるためにか、そのほとんどが両眼を閉じるか薄眼の彫り方をしており、あえて大きく開眼した像はめずらしい。
 中井不動尊は、尾張の時代からか、または江戸の下落合村へ運ばれてからの仕事かは不明だが、眼とそのまわりを白い顔料で塗りつぶし、大きな瞳を描きこむという余計なことをしてしまった。したがって、その異様な顔貌のせいか、どこか妖怪じみた雰囲気を醸しだしているようだ。描き加えられた両眼を無視して鑑賞すると、不動明王(2体の脇侍含む)にしては穏和な、円空仏ならではのやわらかい表情をした、どことなくユーモラスで微笑ましい風貌が見えてくるのだが、残念な現状となっている。
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 ここでちょっと脇道にそれるけれど、明治初期まで不動明王三尊が安置されていたのは、御霊社の不動院であって現在地ではない。目白文化村Click!(第一文化村)から、南東方向へと口を開けた谷戸について、「中井不動があるから不動谷と名づけられた」と説明される方がいるが、すぐにもおかしいことに気づかれるだろう。しかも、明治時代を通じて不動尊像は小野田家に保存されていたのであり、いまだ堂さえ建立されていない。大正中期から「不動谷」と呼ばれるようになったとみられる、落合第一小学校Click!前の谷間と中井御霊社にあった不動院とは、直線距離で1kmも離れている。
 おそらく「前谷戸」(本来は鎌倉などの発音と同様に「まえやつ」と発音されたかもしれない)と呼ばれた谷間は、すぐ近くに鎌倉期からの旧家である宇田川家の「前」の「谷戸」なので古くからそう呼ばれていたのであり、本来は付近の土地全体を表す地名ではなかったはずだ。江戸東京の各地に残る、谷戸の近く(前後)にある土地を表現する地名は、「前谷戸」ではなく「谷戸前」であることにも留意したい。「前谷戸」は、谷そのものを指す名称であり、この谷戸が「不動谷」と呼ばれるようになったのは大正の中期以降、つまり初期の小さな中井不動堂が建立され、堤康次郎Click!が目白文化村の前身となる「不動園」Click!を開発したころからだと思われる。しかも、旧家の小野田家は姻戚が住む大泉村(東大泉)Click!を堤康次郎に紹介しており(小野田セメントとの関係も気になる)、箱根土地による大泉学園Click!の開発へ積極的に参画している非常に近しい関係だ。
 従来の「不動谷」は、東へ250mほどのところに口を開けた谷戸、青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)をはさみ東の諏訪谷Click!とは反対側にある西の谷戸にふられていた谷の名称(現在は西ノ谷と呼ばれがち)であり、1967年(昭和42)の新宿区立図書館による規定Click!(新宿区立図書館紀要1)が正しいのだろう。「不動谷」の名称は大正中期に、箱根土地Click!の影がチラつく西へと人為的に「移動」Click!されているように思われる。
 本来の不動谷(西ノ谷)Click!には、早くから谷戸の崖地中腹に小道が通っており、それを北へたどるとやがて天祖社の東側をかすめ、700mほどで金剛院の横手にある長崎不動堂の真ん前に出て参詣できる参道筋だった。「不動谷はどうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部に古くからお住まいの方々の疑問は、大正中期からスタートした箱根土地と小野田家による宅地開発プロジェクト&プロモーションに答えがありそうだ。
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 中井不動尊は、脇侍の矜羯羅・制多迦の童子像も含め新宿区の指定文化財となっており、寺堂で円空仏を鑑賞できる都内でも唯一のスポットとなっている。3像は毎月28日に開帳され、円空作品を間近で鑑賞できるので興味のある方はぜひ下落合(現・中落合)へ。

◆写真上:小野田家の敷地内に建立された、円空作の不動三尊像が安置される不動堂。
◆写真中上は、1980年(昭和55)に撮影された不動三尊像。は、新宿歴史博物館が撮影した同像。光背左側の火炎の一部が、以前からやや欠損しているようだ。上下の写真を比べると、火炎の描き方が一部ちがって見えるのは光の加減だろうか、それとも保修の跡だろうか。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる中井不動堂。1969年(昭和44)まであった大正期の古い堂で、現在の堂よりも規模がかなり小さい。
◆写真中下は、不動明王像()とその台座銘()。下部に「四つ谷」の文字があるが、下高田と雑司ヶ谷、小石川の各村にまたがる四谷(家)町ではないかと思われる。は、同じく矜羯羅童子像()と台座銘()。は、制多迦童子()とその台座銘()。
◆写真下は、不動明王像の上半身。右手の剣と左手の羂索は、別途付加されたもので円空の仕事ではないだろう。は、矜羯羅童子()と制多迦童子()。は、毎月28日に開帳される中井出世不動堂の不動明王三尊像。

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立野信之と小林多喜二。 [気になる下落合]

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 上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!で、掲載する小説部門の担当をまかされていた立野信之Click!は、ある日、蔵原惟人Click!から『一九二八・三・一五』と題する小説をわたされた。北海道の小樽に住む、「文章世界」や「文章倶楽部」など文芸誌の投稿仲間として以前からすでに名前を知っていた、小林多喜二Click!からの原稿だった。立野は、タイトルを『一九二八年三月一五日』とわかりやすく変えて、1928年(昭和3)の「戦旗」11月号と12月号に連載している。
 翌1929年(昭和4)の春、蔵原惟人が立野のもとにやってきて、再び小林多喜二の原稿をわたした。原稿の文字を1字も修正していない、推敲を何度も重ねたとみられる作品のタイトルは『蟹工船』というものだった。そのときの衝撃を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 そして作品を原稿で読了したわたしは、背中を強い力でどやしつけられたような愕きを覚えた。前作にあったような足取りの危なっかしさは、もはやどこにもない。しっかりとした足取りである。重量感もあり、芸術的形象の盛り上げのすばらしさは、私の息の根を止めるほどだった。ことに、短篇を三つ四つ書いただけでスラスラと所謂文壇に出てしまった私は、その頃ようやく自己の作品に文学的苦渋を感じはじめていた頃だっただけに、小林多喜二のひたむきな努力の結晶には一そう背中をどやしつけられた感がした。
  
 小林多喜二が東京にやってきたのは、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の第2回大会が本郷の仏教青年会館で開かれたときで、1930年(昭和5)2月のことだった。この大会で、多喜二は中央委員に就任している。立野信之は、そのころ上落合から杉並町(区)の成宗(1丁目)54番地(現・成田東5丁目)に転居していたが、わざわざ彼に会いに多喜二は成宗の立野邸を訪れている。立野邸の隣家には、橋本英吉Click!が同地番で背中合わせに住み、近くにはやはり上落合から引っ越してきた鹿地亘Click!一家も暮らしていた。
 そのときの立野の印象は、作品から受ける人物像とはかけ離れたもので、そのチグハグさに驚いている。立野は「小林多喜二と名乗る男は」と書いているので、目の前に立っている男が作家本人だとは信じられなかったらしい。
 もともと高級銀行員だったので、明晰で背が高く色白の紳士然とした風貌を予想していたのだが、そこには痩せて背が低く、「出眼に近い眼がぬれて睫毛がかたまって(中略)、やや厚めの唇を田舎者然とだらしなくあけて、がさつな嗄れ声で話す」貧相な男が立っていた。しかも身なりも古ぼけた服装で、股にツギのあたったズボンをはいていた。
 近くの蕎麦屋へ案内すると、多喜二はしじゅう股倉へ両手を入れて身体を前後にフラフラ揺らしながらしゃべった。東京に住みつき、本格的な創作活動をするよう勧めると、「いやア、オレみたいな田舎者は、東京へ出てきたら駄目になる。東京はおっかなくて……」と、歯の欠けた口を大きく開けて笑った。数日後、立野邸を訪れた徳永直も、作品からの印象とはほど遠い実際の小林多喜二の風貌が一致せず、「君は本物の小林君か?」と確認している。多喜二はしきりに蔵原惟人Click!に会いたがったが、そのころ彼はすでに地下へ潜行して所在が「不明」になっていた。
 小林多喜二が東京にやってきたのには、もうひとつ目的があった。過去に1ヶ月ほど小樽で同棲していた田口タキを同行しており、彼女を美容学校へ入学させようと説得していた。彼女の将来を考え、手に職をつけさせようとしたのだろうが、田口タキはそれを拒否している。その手配がうまくいかなかったせいもあるのだろう、このときふたりの間には決定的な齟齬が生じたようだ。多喜二が彼女を見かぎる、大きなきっかけになったかもしれない。
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 「オレは東京にいたら、ダメなんだ……早く北海道へ帰って、小説が書きたい」と立野にこぼした多喜二だが、そのままズルズルと東京滞在を伸ばしていた。4月になると、発禁を連発され資金が乏しくなった「戦旗」編集部では、「戦旗」防衛巡回講演会が関西で開かれることになり、ナルプの書記長だった立野信之が人選をまかされている。彼は作家の家を駈けまわり、江口渙や片岡鉄兵Click!中野重治Click!、貴司山治、大宅壮一Click!、そして小林多喜二を講演メンバーに決めた。
 関西での講演会は京都から大阪、松阪とまわり再び大阪へともどったところで、講師たちがいっせいに検挙されている。片岡鉄兵と小林多喜二を除き4人はすぐに釈放されたが、初めて拷問を受けた多喜二が少し遅れて釈放され、このいっせい検挙のメインターゲットが片岡鉄兵であることが判明した。下落合や葛ヶ谷の片岡邸に、田中清玄ら地下共産党の幹部が出入りしているのを、すでに特高Click!はつかんでいた。片岡鉄兵は起訴され、大阪刑務所へ未決で収監されている。
 5月の初め、小林多喜二は大阪からもどると、そのまま杉並町成宗15番地の立野信之邸に同居をはじめた。ちょうど立野の連れ合いが、夫婦喧嘩が原因で千葉の実家へもどっているときだったので、多喜二を泊めても困らなかった。ふたりは、文藝春秋社に勤める永井龍男の兄・永井二郎が経営する、阿佐ヶ谷駅の近くに開店していた中華料理屋「ピノチオ」Click!という店に、よく生ビールを飲みに連れだって出かけた。そこでは、横光利一や小林秀雄Click!井伏鱒二Click!などと顔を合わせている。
 1930年(昭和5)の5月になると、潜行する蔵原惟人の連絡係をしていた美術家の永田一脩が検挙され、つづいて彼の周囲にいた人々が芋づる式で特高に逮捕されはじめた。立野信之が親しかった、新築地劇場の演出家で劇作家の高田保Click!が検挙されるにおよび、次は自分だと覚悟を決めている。このころになると特高は罪状などどうでもよく、プロレタリア芸術に関わりのある人物や、そのシンパを根こそぎ検挙しはじめている。
 立野信之は、あくまでも文筆活動による表現がメインであって職業革命家になるつもりはなく、どこかへ潜行する勇気も自信も資金もなかった。日々、「ぼんやりと捕まるのを待っていたようなもの」だったが、家に置いていた罪状をデッチ上げられそうな文書類はすべて焼却している。ある夜、ふたりは阿佐ヶ谷駅近くの「ピノチオ」で生ビールを飲んだあと、イタズラ好きな小林多喜二は真夜中の鹿地亘邸へ寄って、寝静まって真っ暗な玄関の格子戸をドンドンとたたいて急いで逃げた。いまでいう「ピンポンダッシュ」だが、多喜二の他愛ない子どものようなイタズラ好きには、立野もただ呆れるばかりだった。
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 鹿地亘邸から逃げた、次の日の明け方近くのことだった。立野信之は、ただならぬ気配を感じて目をさました。同書から、再び引用してみよう。
  
 幾らか眠って、フト眼をさましたわたしの耳に、路地を入ってくる乱れた靴音が聞えた。/「――来たな?!」と思い、どうしたものか、と寝床に仰臥したまま思案した。が、いい考えは何も浮かばない。/ドン、ドン……玄関のガラス戸が鳴った。/「おはよう、立野君……おはよう……!」/聞きおぼえのある声である。/どうしたものか――わたしの思案はまだきまらない。玄関とは反対側のガラス窓を見やると、そこには人の気配はなかった。戸外は夜が明けそめたばかりである。窓のガラスをそっとはずして、そこから飛び出す自分の姿を思い描いていると、またドン、ドン……/「おはよう、立野君……おはよう……!」/「おーい」/玄関に近い八畳の間に寝ていた小林がしわがれ声で返事をし、起きあがった。/ああ、いかん、と思ったが、もう遅い。小林が起って行って、玄関のガラス戸をあけた。/「やあ、君は小林君だね、……小林多喜二君だろう」/招かざる早朝の訪問客は、凱歌に似た声をあげた。/「……いいところにいたな。君も一緒に行ってもらおう」/ドヤドヤとわたしの寝部屋に刑事どもが入ってきた。特高第一課長の中川警部が先頭に立っていた。
  
 立野信之は「特高第一課長」と書いているが、このときの課長は毛利基で、中川成夫はその配下の警部だったはずだ。3年後、毛利と中川は小林多喜二の虐殺に直接手をくだす張本人たちだった。早暁に立野家を襲った特高リーダーの中川成夫は、信じられないことに戦後、東京都北区の教育委員長に就任し叙勲まで受けている。
 国家を滅した亡国思想とともに、言論弾圧の先頭に立って弾圧していた人間が、戦後もノウノウと教育長にいすわり勲章をもらえる現象ひとつとってみても、日本の敗戦処理における思想的な総括のいい加減さと、戦後政治の本質を象徴しているといえるだろう。
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 このとき検挙されたのは共産党員ではなく、シンパと呼ばれた芸術家たちで、立野信之をはじめ片岡鉄兵Click!、中野重治、村山知義Click!、小林多喜二、小川信一、三木清、壺井繁治、山田清三郎Click!らだった。立野と小林は、留置所に2ヶ月間も拘留されて拷問を受け、7月下旬に起訴されて豊多摩刑務所Click!へ送られている。彼らを救援するために、村山籌子Click!原泉Click!壺井栄Click!らが活躍するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合689番地にあった、ナップの機関誌「戦旗」が発行されていた出版部跡。
◆写真中上は、1935年(昭和10)10月に「文学案内」主催で行われた座談会の出席者たち。右から左へ徳永直、大宅壮一、藤森成吉、舟橋聖一Click!、島木健作、貴司山治、杉山平助。は、戦前の名残りをとどめる上落合の一画。
◆写真中下は、立野信之と小林多喜二が住んだ杉並町成宗15番地(右手)界隈の現状。は、1936年(昭和11)1月に行われた「文学案内」座談会の出席者たち。前列右から左へ村山知義、舟橋聖一、森山啓、平林たい子、島木健作、後列右から貴司山治、中野重治、石川達三、青野季吉、北川冬彦、藤森成吉、渡辺順三、遠地輝武の順。は、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)跡の現状。
◆写真下は、上落合481番地にあった中野重治・原泉(子)邸跡あたり。は、立野とともに検挙された小林多喜二()と、のちに多喜二を虐殺する特高課長の毛利基()。は、記事中の高田保が住んだ大磯Click!の相模湾を見おろす山上にある高田保公園。

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御留山の相馬邸に展示されていた刀剣は? [気になる下落合]

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 昨年の暮れ、江戸期にはいつも貧乏だった刀鍛冶の逸話Click!や、今年に入ってから雑司ヶ谷金山(のち赤坂が本拠)で鍛刀した石堂一派Click!、あるいは絵はがきにちなんだ弁慶の長巻Click!と、立てつづけに美術刀剣に関する記事をアップしたら、ある方から岩代国(会津藩)で江戸初期の寛永年間(1624~1645年)から、江戸前期の寛文年間(1661~1673年)ごろにかけ、数代にわたって藩工をつとめた「國定」の脇指をお譲りいただいた。
 拙サイトをはじめて16年になるが、こういう不思議なことがときどき起きるので非常に面白い。わたしが調べていた資料や、テーマとして設定していたそのモノが、なぜか記事を書こうとする前後にどこからかふと手もとへやってくる、いまだに不思議な現象だ。茎(なかご)には、「河内大掾藤原國定」の銘が切られ、磨り上げられていない(短縮されていない)うぶ茎(鍛刀当初の姿)で、長さ(刃長)は1尺7寸6分5厘(約53.5cm)あり、あと6.5cm強で2尺の大刀に迫る大脇指だ。また、刃区(はまち)と棟区(むねまち)の元幅が4cm近くもあり(通常の大刀よりも幅が広め)、重量は新刀期の大刀とほぼ変わらない。
 慶長から江戸最初期に鍛造された長寸の脇指で、江戸期も時代が下るにつれ脇指は1寸4分(約40cm)前後が主流となり、武家や町人を問わず幕府の規制もあって長脇指は幕末までほとんど造られなくなっていく。全体に出来が非常によく、日本美術刀剣保存協会(日刀保)の「特別保存」指定(重要刀剣の手前)の折り紙付きClick!(鑑定書)だ。
 造りは鎬(しのぎ)造りではなく、鵜の首づくりと呼ばれる変わったもので、通常の鎬造り以外に挑戦するのは、刀工の技量が高い証左だ。刃文は、尋常な新刀焼出しに新刀期に見られる典型的な相州伝を焼いており、互の目乱れに荒錵(あらにえ)小錵(こにえ)がよくつき、刃中は湯走りや銀砂を散らしたような砂流し、金筋銀筋、足などがよく入り“働き”が盛んだ。匂い口もしまり、刃文は明るく冴えており、鋩(きっさき)は小丸(こまる)に返りやや掃きかけごころとなっている。鵜の首に特有の棒樋(ぼうひ)が上手に彫られ、地肌はよく練れてつんだ小板目肌をしており、棟(むね)は正統な庵棟で鍛え傷や肌荒れなど、鍛錬技法上の破綻はまったく見られない完璧な出来となっている。
 また、特長のある巨大な大鋩(おおきっさき)を含めた体配(刀姿)は、幕末の新々刀期に大江戸(おえど)Click!で鍛刀した源清麿(四谷正宗)を想起させる意匠をしており、國定は鎌倉の名刀工である貞宗か美濃志津の兼氏あたりの相州伝作品を意識しているのかもしれない。白鞘(しらざや)に収まるが、鎺(はばき:鍔元で刀剣を固定する金具)は銀ムクの二重鎺で、もともと高級な拵え(刀の外装=刀装具など)が付属していたとみられる。
 登録証の数字はわずか3桁で、1951年(昭和26)の「大名登録」刀のひと口だ。「大名登録」とは、同年からはじまった刀剣登録所持制度により、美術刀剣は各地域の教育委員会か文化財保護委員会に届け出なければならなくなり、旧・華族や旧・大名家筋、刀剣愛好家などのもとにあった作品が、各地の自治体へ率先して登録された経緯をさしている。したがって、同年登録の刀剣には、きわめて質がよく重要な作品が多い。目白地域でいえば、相州正宗を含む刀剣の蒐集で高名だった目白の肥後細川家Click!尾張徳川家Click!の作品群は、そのほとんどが同年に発行された「大名登録」の登録証が付属している。
 さて、お譲りいただいた会津藩の藩工「國定」に、なぜ過剰に反応したのかといえば、現在では同じ福島県内となっているが会津藩(加藤家→保科=松平家)の藩工と、やや離れた中村藩(相馬家)の刀剣を鍛えた藩工がどこでどう連絡しているのか?……という課題が、ここしばらく抱えていたわたしのテーマなのだ。そしてもうひとつ、下落合310番地の御留山Click!に建っていた相馬邸Click!で催された、年に一度の太素社(妙見社)Click!の祭礼で展示され、地元の人々に強い印象を残している武具蔵の中には、どのような刀剣作品が含まれていたのかというテーマも同時に探ってみたい。
 祭礼Click!時には相馬家Click!の邸内が開放されて、武具蔵も公開され収蔵品が展示されているのを見学した記録が残っている。2006年(平成18)に地元で発行された『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い)所収の、斎藤昭「わが思い出の記」から引用してみよう。
  
 私が小学生の頃、屋敷の執事の息子が同級生にいたので、ときどき(相馬邸へ)遊びに行き、入口に近い庭に入れてもらいましたが、奥のほうには行けませんでした。ただ、年に一度、屋敷内のお社のお祭りがあり、その時は門を開けて屋敷を開放してくれたので、邸内をいろいろと見物することができました。なかでも蔵の中を見せてくれて、槍やよろい兜などの武具を見たのが記憶に残っています。(カッコ内引用者註)
  
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 相馬家の武具蔵といえば、日本にたったひと口だけ残されていた埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の太刀(銘:山城国西陣住人埋忠明寿/国重文)が思い浮かぶ。室町末期から江戸最初期にはじまる新刀鍛冶の祖であり、江戸後期までつづく新刀時代の先駆けといわれる埋忠明寿だが、ほとんどが短刀や脇指のみしか現存しておらず、奇跡的に1598年(慶長3)8月制作の太刀が、相馬家の武具蔵でひっそりと眠っていた。
 おそらく斎藤昭様Click!も、この唯一の超貴重な埋忠明寿の太刀を、落合第四小学校Click!時代に目にしておられるのではないだろうか。そればかりでなく、将門相馬家Click!は鎌倉期から江戸の幕末にかけて、世界でもっとも長くつづいた武門の封建領主ということでギネスブックにも登録されているので、先祖から伝わる刀剣作品をはじめとする武具が、邸の蔵内には豊富に保存されていた可能性が高い。上記の埋忠明寿の太刀は、現在、刀匠の出身地である地元の京都国立博物館に寄贈されている。
 さて、中村相馬藩の藩工(藩お抱えの刀鍛冶)には、摂津守源正友入道(正友)をはじめ、津田越前守助廣の弟子だった大和大掾源廣近や、幕末には江戸の大慶直胤Click!の門人である慶心斎直正(越前守直正)などがよく知られており、相馬邸の武具蔵にも彼らの作品が収蔵され祭礼時には展示されていたかもしれないが、もうひとり「國貞」「中村住國貞」と銘を切る相馬藩の藩工がいるのを近年になって知った。
 この優秀な技量を備えた刀工については、同藩の城郭があった宇多郡中村(城郭の北東側か)に住んでいたということぐらいしか判明しておらず、どのような系譜の刀鍛冶なのか門弟も記録されていないので、美術刀剣界では“謎の刀工”とされている人物だ。作品も少なく、相馬藩との藩工契約が短かったか、あるいは一時的に相馬藩の抱え刀工として鍛刀したあと、どこかへ移住(帰郷)しているのではないかと思われる。ひょっとすると、この「國貞」銘の名品が相馬邸の武具蔵にも展示されていた可能性がある。
 ちょっと余談だが、刀鍛冶が銘を切るとき名前の上にかぶせる「〇〇守」とか「〇〇介」「〇〇大掾」などは本来、その地域を治める守護(大名)や役人(地頭)などの職位に付与された受領名だが、江戸期にはカネで買える名目だけの肩書きになっていた。京の貧乏な朝廷や公家たちの重要な商売になっていたわけだが、「〇〇守」を受領(購入)するには刀鍛冶の場合、40~50両の大金が必要だったといわれる。価格は、ほぼ位階身分のとおりで「守」→「介」→「大掾」→「掾」または「尉」という順番で安価になった。
 これらの位階を受領する(購入する)には、申請の“代理店”として「日本鍛冶惣匠」の称号をせしめた、京の伊賀守金道を通じて代々行われているが、刀工としての伊賀守金道の作刀に関する技量は、「鍛冶惣匠」を名のっているにもかかわらず、同時代の優れた他の刀匠たちに比べ、かなり見劣りがする出来となっている。
 ちなみに、ショルダーとなった位階は、刀工の技量にまったく比例しない。江戸後期の美濃介を受領した下谷御徒町の荘司箕兵衛(大慶直胤)は、あまた「〇〇守」を受領している刀工たちの上をいく圧倒的な技量だった。同様に、“無冠”の刀匠だった日本橋浜町(館林藩中屋敷)の水心子正秀は門人を多数抱え、新刀を超えた新々刀の時代を拓いた祖として君臨している。また、幕末に出現した新宿四谷の源清麿(無冠)は、他工を寄せつけない飛びぬけた才能を発揮した。高価な「〇〇守」を冠したからといって、決して上手ばかりではないのだ。受領名は、技量が高くて信任が厚いという意味ではまったくなく、それを買える財力のある安定した経営であり、信用ある工房だとアピールする販促材のようなものだ。
 この受領商売のせいで、奥州中村藩の刀匠である正友が摂津守を名のり、摂津大坂の刀匠である津田助廣が越前守を名のるという、受領名と受領者の居住地がまったくバラバラで一致せず、ややこしい状態になっている。また、朝廷+公家による受領名ビジネスは刀鍛冶に限らず、さまざまな工芸分野にも販路を拡大しているので、刀工と金工で受領名がかぶるなど、よけいにわけのわからない混乱した状況となっていった。
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 中村相馬藩で鍛刀していた「國貞」だが、同時代の「國貞」には大坂の高名な和泉守國貞(親國貞)をはじめ、2代・和泉守國貞(井上真改)とその後代がいるが、いずれも新刀期の独自な錵(にえ)本位の相州伝を基盤にしてはいるものの、大坂の國貞一派は末代まで同地を動かずにいたとみられ、また地肌や刃文など鍛刀の技術や手法を観察すると、両者は明らかに異なっている。すると、中村相馬藩の「國貞」はどこからきたのか?……というのが、わたしの先年から抱えつづけていたテーマだったのだ。
 とりあえず関東や関西の「國貞」を調べていったが、それらしい刀鍛冶一派が見つからず、眼を中村相馬藩の周辺に移したとき、会津藩に「國定」一派がいることに気がついた。会津藩の抱え刀匠といえば、幕末までつつく「会津乕徹(虎徹Click!)」といわれた三善長道一派や、先祖が美濃関の出自である兼定一派があまりにも有名だが、同じ藩工の刀鍛冶に河内大掾を代々受領している比較的地味な「國定」がいる。初代の國定は、本名を古川孫大夫といい、同じ会津藩工の3代・兼定(入道兼定=古川孫右衛門)の弟だ。
 この会津藩工の國定について詳しく調べていくと、それぞれ鍛刀しはじめた若いころの初銘が「國定」ではなく、代々「國貞」と切っていたことが判明した。また、初銘の「國貞」は親の跡を継いで工房を引き継ぐと同時に、会津の藩工として「國定」の銘を切りはじめている。相馬中村藩の藩工だった「國貞」は、宝永年間あたりに作品を残しているが、この数代はつづく会津「國定」のうち、年代的に一致するのは3代「國定」だろう。この3代・國定が、会津から中村にやってきて修業がてら鍛刀し、初銘の「國貞」銘を切っていたのではないか。その上出来な評判が相馬家の耳に入り、しばらくは藩工に抜擢され城下の中村に屋敷と工房を与えられて鍛刀していたが、親の國定が年老いて引退するのでその跡を継ぐために、会津の工房へともどっているのではないだろうか。
 中村相馬藩の“謎”の藩工「國貞」と会津藩の代々つづく藩工の「國定」一派とでは、鍛刀の造りや流派がなぜか近似している。また、茎(なかご)に切られた銘でかぶる「國」の字体を比較してみると、会津藩の代々「國定」と中村相馬藩の「國貞」は微妙に異なっているが、刀工が銘を変更するときに鏨(たがね)使いを変化させるのはありがちなこと……などなど、そんな想像をしていた矢先に、なんと会津藩工の「河内大掾藤原國定」の脇指そのものをお譲りいただけたというしだいだ。
 本脇指は、江戸初期に鍛刀された初代・國定(古川孫大夫)の銘が切られており、日刀保が規定するとおりきわめて貴重な文化財だろう。これから、時間のあるときにより深く研究してみたい「國定」(会津)-「國貞」(中村)と、相馬邸武具蔵の収蔵品のテーマなのだ。
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 戦前、御留山の相馬邸で祭礼時に公開されていた武具蔵だが、どのような作品が並べられ展示されていたのか、興味はつきない。房州千葉→相州鎌倉→奥州中村と、900年余にもわたり武家の館(江戸期は城)をかまえてきた相馬家の武具蔵には、ひょっとすると埋忠明寿をはじめとする新刀期の作品ばかりでなく、鎌倉期の相州伝を代表する刀匠たちの作品群も混じっていたのではないかと思うと、蔵内の収蔵品リストか写真でも現存していれば拝見してみたいものだ。最後にもうひとつ余談だが、会津藩の武具蔵には「会津新藤五」と愛称で呼ばれる、正宗の師匠格にあたる鎌倉刀匠の新藤五國光(銘:國光/国宝)が眠っていた。

◆写真上:会津藩の藩工だった、初代・河内大掾藤原國定(古川孫大夫)の茎(なかご)銘。
◆写真中上は、御留山に建っていた相馬邸の玄関(手前)脇にあった巨大な蔵。黒門Click!の東側に位置して建つ、奥に見える蔵が武具蔵だろうか。は、御留山の相馬邸敷地に建つ同家の氏神である太素社(妙見社)。は、上から順に、中村藩相馬家に唯一保存されていた不動明王の彫りが美しい埋忠明寿の太刀(京都国立博物館蔵/重文)、相馬藩の藩工で寛文年間に制作された正友入道の茎、幕末(新々刀期)の相馬藩藩工だった慶心斎直正の大刀体配、忽然と姿を消したように見える相馬藩藩工の國貞が制作した脇指の体配、同じく相馬藩の國貞が切った茎銘、同じく相馬藩の國貞が焼いた相伝刃文。
◆写真中下は、相馬藩の國貞に近似する会津藩工の初代・河内大掾藤原國定による鵜の首造りの豪壮な体配。大刀よりも身幅がかなり広く、2尺を切る長さとはいえ大刀と重量は変わらない。同じくからへ、同刀匠の刃文と大鋩。会津の國定(初銘:國貞)は、初代から後代まで近似した地肌や刃文であり、相馬藩の國貞との関連が興味深い。
◆写真下は、会津藩の藩工を代表する政長(のちの三好長道の初銘)。からへ、通称「会津乕徹(虎徹)」で有名な三善長道の茎銘、会津藩を代表する和泉守兼定の茎銘、幕末(新々刀期)に会津藩の藩工だった道辰と道守のそれぞれ茎に切られた銘と大刀の体配。
おまけ
「会津新藤五」の愛称で知られる、鎌倉相州伝を代表する新藤五國光の短刀(国宝)。
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ようやく入手した籾山牧場絵はがき。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域や長崎地域、高田地域などの周辺域には、明治後期から昭和初期にかけ「東京牧場」Click!と呼ばれた、たくさんの乳牛牧場が存在していた。落合地域では、上落合429番地一帯にあった福室軒牧場Click!、葛ヶ谷374番地(のち西落合1丁目374番地)にあった斎藤牧場Click!、そして上落合と上高田の境界にあたる上落合(2丁目)882番地にあった牧成社牧場Click!の3ヶ所が現在まで確認できる。
 この中で、戦争をはさむ1940年代まで事業を継続していたのは、当時は有名だった「キング牛乳」の加工を引き受けていたとみられる上落合の牧成社牧場だが、戦時中は乳牛Click!だけでなく馬(軍馬)の飼育も行われていたことを、上落合の古い住民の方からうかがっている。1930年代になると、上落合には住宅が密に建ち並ぶようになり、風向きで牧成社牧場から漂ってくる家畜の臭気が住宅街に流れこんで、何度か立ち退き問題にまで発展していることも取材させていただいた。
 これら住宅街に近接した「東京牧場」Click!は、大正末から昭和初期にかけて、さらに郊外域へと次々に移転している。上記のように関東大震災Click!の影響から、建物が稠密な東京の市街地から郊外へ市民の移動が急増するにつれ、住宅街の中に取り残されていく牧場には、臭気や衛生の課題から白い眼が向けられるようになっていった。
 また、警視庁による牛乳の衛生管理Click!が厳しくなるにつれ、より郊外への移転を断念し廃業した牧場も少なくない。行政による衛生管理規制では、牛が十分に運動できる広々とした敷地が求められ、より広い土地を確保できない面積の狭い牧場は廃業に追いこまれている。当時の様子を、1990年(平成2)に発行された「ミルク色の残像」展図録(豊島区立郷土資料館)から引用してみよう。
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 一九〇〇(明治三三)年には、警視庁から「牛乳営業取締に関する施行規則」が公布され、牧場経営者は「公衆衛生」を軸にした国家の統制の下で、搾乳と販売を行わなければならなくなった。包装容器の標示や営業者の定義と許可、病気にかかった乳牛の規制や搾乳所の規制などが定められ、特にその後、搾乳所の構造を規定し運動場の設置を義務づけるなどの条件が付けられ、狭い市内では経営が立ち行かず、大部分の牧場が市外へ移転していく。明確なデータは提示できないものの、当時全くの郊外であった豊島区地域における牧場の数も、この時期を前後して上昇していくようである。
  
 上気の記述は、そのまま落合地域にも重ねて当てはまるだろう。この衛生管理の厳しさは、以前、守山商会Click!の牧場経営にからめて神奈川県の事例でご紹介しているが、東京でも事情はまったく同じだった。
 当時、牛乳による食中毒の防止を名目に、各自治体や警視庁衛生部が次々と厳しい規制による管理・監督強化を実施しているが、これは裏返せば十分な衛生設備へ資本を投下できる大規模な乳製品企業による中小牧場の統合・吸収、ないしは中小牧場への事業つぶしとみごとにシンクロしている。現存する大手乳製品企業の多くは、警視庁や自治体による中小搾乳牧場への規制強化と比例して、急速に成長・発展をとげている。
 やがて、東京郊外だった現在の豊島区や淀橋区(現・新宿区の一部)の市街地化が進んでくると、街中になりつつあった牧場は事実上追いだされ、より地価が安く広い「運動場」を確保できる外周域へと移転していった。その跡地は、大手ディベロッパーや地元の開発業者が入り、新たな分譲住宅地として販売されているケースが多い。
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 さて、落合地域とは道路1本隔てるだけで隣接していた、北豊島郡長崎村五郎窪4277番地(現・南長崎6丁目9番地)の籾山牧場Click!について、かなり以前に記事を書いてご紹介している。そして、籾山英次という人が経営していた、同牧場の写真をようやく手に入れることができた。(冒頭写真) 同牧場が記念絵はがきになっているのは、ずいぶん以前から知っていたが、なかなか現物に出あえなかったのだ。
 籾山牧場は、東京市内で牛乳の需要が急増した明治後期から、大正末あるいは昭和の最初期まで営業していたとみられ、1928年(昭和3)ごろに「籾山分譲地」として宅地開発・販売されている。ただし、この時点で販売されているのは、牧場全体の北西部にあたる籾山牧場の本社屋が建っていた区画であり、全面積の約50%ほどだった。つまり、牛舎や運動場があった残り南東部の広い区画は、牧草地ともどもそのままの状態がつづくので、ひょっとすると昭和に入ってからも規模を縮小して乳牛が飼育されていたか、あるいは乳牛の繁殖所ないしは品種改良所として機能していたのかもしれない。
 文字どおり、「牧歌的」な住宅地だった籾山分譲地は30の区画に分割され、面積は100坪前後から最大472坪までの敷地が販売されている。1928年(昭和3)の販売開始と同時に、すでに4区画が売約済みになっているので、同牧場の住宅地はかなり注目されていたようだ。武蔵野鉄道の東長崎駅まで徒歩5分という好立地も、人気が高かった要因だろう。籾山分譲地のパンフレットについて、1996年(平成8)に発行された「長崎村物語」展図録(豊島区立郷土資料館)のキャプションから引用してみよう。
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 南長崎6丁目には、かつて籾山牧場という牧場があった。その牧場が住宅地として分離(ママ:分譲)されたときの案内パンフレットである。発行年の記載はないが、分譲地の一角(ママ:一画)を購入した方のお話から、1928年(昭和3)年頃の発行と推定される。パンフレットは三つ折り。分譲の場所(「清戸道沿い」とある)、交通、設備等が記され、すでに売買済の区画に「済」の押印がある。表紙の図柄は緑色、分譲地一帯は田園風景で、そのなかに洋風の建物が見える。富士山が望見され、当地が東京郊外の住宅地として適地であることを宣伝している。(ママカッコ内引用者註)
  
 籾山牧場は、その敷地内に千川分水(落合分水Click!=葛ヶ谷分水)が流れており、その小流れを含む牧場の北西敷地が開発されている。その落合分水の様子は、冒頭の籾山牧場絵はがきの門手前、道路沿いにもとらえられている。
 おそらく、大正前期に撮影されたとみられる絵はがきの写真だが、撮影された場所の特定はかなり容易だった。籾山牧場への入口(門)がとらえられた同写真は、明らかに逆光ぎみで撮影されており、北側から南方面を向いて写された可能性が高いことがわかる。すなわち、画面の正面または左寄りが南の方角ということになる。そして、1926年(大正15)に作成された「長崎町西部事情明細図」を参照すると、籾山牧場への入口の記号は、北側の清戸道に面して3ヶ所あることがわかる。
 その入口のうち、いちばん西寄りにあるのが籾山牧場株式会社の本社屋への入口であり、いちばん東寄りにあるのが牛を放牧する牧草地への入口だ。その真ん中にあるのが、おそらく牧場の関係者宅なのだろう、門から向かって右手に小川幸次郎邸が建っている入口だ。したがって、絵はがきの写真は籾山牧場への入口の中央門を撮影したものだろう。
 門を入って、写真の右手に写っているのが小川幸次郎邸だとみられる。そして、写真の左手つまり東側一帯には、籾山牧場の広い牧草地(運動場)が拡がっていることになる。その写真部分を拡大してみると、乳牛らしい姿が何頭かとらえられているのが見える。そして、門の手前に小さな橋が架かっているが、その下を流れているのが直角に折れた千川上水Click!から分岐したばかりの落合分水(葛ヶ谷分水)の小流れだ。この門のある位置から見える奥の敷地は、のちに籾山分譲地として販売される一帯の土地だ。
鬼頭鍋三郎「牛」1932.jpg
江藤純平「牛」1938.jpg
吉屋信子「牛」.jpg
長谷川利行「朝霞のなかの牛」1938.jpg
 昭和初期、牧草地の隣りに赤や青の屋根を載せた西洋館が建ち並ぶ風情は、のどかで美しい眺めだったろう。籾山牧場の周辺は、戦争による絨毯爆撃を受けていないので、西落合と同様に昭和初期に建てられた近代建築の住宅を、いまでも目にすることができる。

◆写真上:大正前期の撮影とみられる、「東京府北豊島郡長崎村籾山牧場」絵はがき。
◆写真中上は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる籾山牧場。は、1926年(大正15)の「長崎町西部事情明細図」にみる同牧場。の2枚は、絵はがきに写る小川幸次郎邸とみられる住宅と、牧草地に放牧されている牛たちの拡大。
◆写真中下の4枚は、1928年(昭和3)ごろに作成された「籾山分譲地」案内パンフレット。の3枚は、同分譲地に残る昭和初期に建設された西洋館いろいろ。
◆写真下は、西落合1丁目306番地(のち303番地)にアトリエがあった鬼頭鍋三郎Click!のデッサン『牛』(1932年)。松下春雄アトリエClick!に残された作品で、近くの籾山牧場での写生と思われる。中上は、下落合1599番地にアトリエがあった江藤純平Click!『牛』。中下は、1928年(昭和3)夏に下落合2108番地の吉屋信子Click!が下落合2143番地あたりで撮影した木陰の乳牛。西武線の際なので、おそらく上落合の牧成社牧場に関係している乳牛だろう。は、同じく1928年(昭和3)に描かれた長谷川利行Click!『朝霞のなかの牛』。

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大隈庭園にある瓢箪型の突起地形。 [気になる神田川]

大隈庭園記念写真(明治期).jpg
 ずいぶん前に、早稲田大学キャンパスの南側にあった富塚古墳(高田富士)Click!を記事にしたとき、大隈重信邸Click!の庭にあった瓢箪型の突起について触れたことがある。戦前の学界では、「瓢箪型古墳」と呼ばれていた前方後円墳Click!だが、大名家や華族、おカネ持ちの庭園に古墳が崩されずそのまま残され、回遊式庭園の築山として活用されていたケースを、これまで拙サイトでも何度か取りあげてきている。
 たとえば、江戸期には土岐美濃守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は華頂宮邸の庭にそのまま残された亀塚古墳Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷の庭園(後楽園)に築山として残され、大正期に鳥居龍蔵の調査で古墳であることが判明した小町塚古墳、江戸期には松平摂津守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は「津ノ守山」と呼ばれ公園のようになっていた新宿角筈古墳(仮)Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内に一時は五条天神社や清水観音堂が建立されたあと、築山のまま境内に残された上野摺鉢山古墳Click!、尾張徳川家の下屋敷庭園にされていた戸山ヶ原Click!から、羨道や玄室と思われる洞穴が出現し「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)Click!にされていた事例や、隣接する洞穴だらけの高田八幡(穴八幡)Click!……などなど、例をあげれば十指にあまるだろう。
 冒頭の写真は、大隈重信邸の回遊式庭園にあったおそらく瓢箪型の突起の前で、1892年(明治25)ごろに撮影されたとみられるめずらしい記念写真だ。大隈重信Click!を中心に、東京専門学校(のち早稲田大学)の教師陣Click!を撮影したものだが、その背後に見えている小高い突起が大隈庭園の南東寄りにあった瓢箪型の突起地形だと思われる。もともと、明治期の大隈庭園には大小の築山がみられるが、これらが大隈邸の建設時に築山として造成されたものか、それとも元をたどれば松平讃岐守の高松藩下屋敷だった敷地なので、その庭園にあった築山をそのまま活かしたものか、正確には規定できない。
 ただし、松平家の庭をそのまま活用しているらしいことは、園内に江戸期よりあった茶室を改修している資料が見えるので、敷地の随所に見える突起地形(築山)や庭をめぐる小径も、おそらく当初のままなのだろう。それらの小丘には、それぞれ江戸期からつづいているとみられる、「天神山」Click!「地蔵山」「稲荷山」「躑躅山」「紅葉山」などの名称があったことも記録されている。これらの名称は、このサイトをつづけてお読みの方々なら、すぐに古墳地名がいくつか混じっていることにお気づきだろう。また、昌蓮Click!「百八塚」Click!に奉った祠と重ね合わせ、いくつかの「山」が昌蓮伝説の「百八塚」に含まれていたのではないか?……と想像される方もいるかもしれない。
 大隈邸の庭園の様子を、1931年(昭和6)に戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』より引用してみよう。ちなみに、ここに描写された大隈庭園の風情は、大隈邸を含め戦災で焼けていないため、明治期とそれほど大きくは変わっていないとみられる。
  
 同所は旧高松藩主松平讃岐守の下邸にて維新後松本病院、英学校等の敷地となり、明治七年侯の所有に帰した、(中略) こゝを過ぎて大書院前に出ずれば、此の庭園の中心とも云ふべく四辺の風趣、真に天下の名園たるに反かざるを味ふ、仰げば地蔵山の老松は清流の上に蟠屈し、寒竹は山の裾を這ふて居る具合は正に一幅の絵画である、大書院に続いて侯の居間があり、其の北方に洋館の寝室がある(、)其れより十字路に出て小逕を西にすれば侯の母堂が居られた、後に久満子刀自の住まれた室、現侯爵夫人の居室に当てられた部屋及び小供室がある、こゝより天神山に出づる路に松見の茶屋がある、亭は松平家時代のものに侯が改築された茶室にて、瀟洒淡雅、常に外客を引見して国風の特色を示された(、)天神山には大隈家の祖先たる菅公廟がある、次いで稲荷山、躑躅山、地蔵山、紅葉山等、優麗清爽、閑雅幽寂なる景致を展べて、一日の清遊を楽むに充分である、(カッコ内引用者註)
  
 文中に「松本病院」とあるのは、松本順Click!が開業した「蘭疇医院」Click!のことだ。
後楽園小町塚古墳.jpg
小町塚古墳(明治初年).jpg
大隈庭園紅葉山1.jpg
 多彩な「山」名が登場するが、大隈邸の北東側にある高めの小丘が「天神山」(現在はリーガロイヤルホテルの下)、池の東側にあるのが「地蔵山」(現在は大半が大学51号館の下)、そして南の瓢箪型をしたいちばん大きな「山」が、明治期から現在まで「紅葉山」と呼ばれていることが判明している。ただし、「稲荷山」と「躑躅山」が、残る突起地形のどちらを指すのかは、資料が見つからないので曖昧なままだ。
 1886年(明治19)に発行された1/5,000地形図に、はっきりと瓢箪型に採取された突起地形「紅葉山」のことを、大隈邸の建設以前(あるいは松平邸以前)からあった古墳ではないかと疑うのは、隣接して富塚古墳Click!(江戸後期には高田富士Click!にされていた)が存在すること、室町期からつづく昌蓮による「百八塚」の伝承が生まれた、大隈邸の門前に位置する宝泉寺の地元であること、このエリアは古くから戸塚地域(下戸塚村)と呼ばれているが、古い文献には「十塚」という漢字を当てはめた地名音が採取されていること、周辺の田畑開墾で出土した古墳の副葬品とみられる遺物が、付近の寺社に奉納されているエピソードClick!が多いこと……などなどの状況証拠からだ。
 さて、冒頭に掲載した東京専門学校の教職員たちが写る記念写真は、大隈邸の庭のどこで撮られたものだろうか。教員の中に夏目漱石Click!の姿が見られるので、1892年(明治25年)5月以降の撮影であることがわかる。この時期、夏目漱石は学費を稼ぐために、いくつかの学校で英語教師のかけもちアルバイトをしている。撮影は曇天の日和りだったものか、画面にクッキリとした陰影は見られないが、光線の加減からカメラマンの背後、または左手が南側のようだ。そう考えると、瓢箪型をした突起地形「紅葉山」の東側に、かっこうの撮影ポイントを見つけることができる。
 ちょうど、庭園の小径が左へとカーブし「紅葉山」の麓にあたる東側に、広場のようなスペースの芝庭が造成されていたあたりだ。カメラマンは、早稲田に拡がる田圃を背後に、西北西を向いてシャッターを切っていることになる。したがって、教職員たちの背後にとらえられた小丘は、「紅葉山」の瓢箪型地形から類推すると前方部が北を、後円部が南を向いているように見えるので、前方部の一部が写っていることになりそうだ。
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大隈庭園1886.jpg
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 記念写真のうしろ2列の人々は、写真館がセッティングした台の上に登っているとみられるので、前から2列目の地面に立っている人物の身長や、背後に写る小丘との距離を考慮すると、その高さはおよそ5~6mほどになるだろうか。もっとも、この突起状の地形が当初からまったく手を加えられず、そのままの姿で残されていたとは考えにくく、土岐美濃守下屋敷の亀塚古墳や、水戸徳川家上屋敷(後楽園)の小町塚古墳がそうであったように、造園師によって庭園の築山に見あうような形状に整えられた可能性を否定できない。瓢箪型の「紅葉山」全体を前方後円墳ととらえれば、そのサイズから想定できる前方部の高さは、もう少しあってもいいような感触があるからだ。
 「紅葉山」全体を南北に計測すると、およそ100m弱ほどの瓢箪型突起になりそうだ。上野公園にかろうじて残された摺鉢山古墳(残滓)の現状、あるいは多摩川沿いの野毛大塚古墳Click!などとほぼ同程度のサイズだが、そのケーススタディにしたがえば後円部の直径は70~80m、墳頂の高さは10m超ほどあったのではないだろうか。もっとも、大隈邸の庭園にする際、芝丸山古墳Click!や新宿角筈古墳(仮)のケースがそうであったように、後円部の墳頂を崩して平らにならし、前方部と同様の高さに整地しているのかもしれない。
 この瓢箪型の「紅葉山」は、かなり早い時期から崩されているとみられる。特に後円部は大学正門通り(早大通り)が敷設された1900年代の初期には消滅しており、早大通りと北側の沿道に並ぶ建物(商店街だろうか)の下になっている。そして、大正期に入ると古い大学講堂のリニューアルが計画されるが、関東大震災Click!で一度中断し、1927年(昭和2)になってようやく正門の正面に大隈記念講堂Click!が竣工している。現在は、瓢箪型の後円部が早大通りと大隈講堂の一部南東隅の真下に、前方部の大半は大隈講堂と大隈ガーデンハウスカフェテリア、さらに大隈講堂裏劇研アトリエの下になっているのではないかとみられる。
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 大隈庭園を散策すると、現在でも「紅葉山」の一部が残されていることに気づく。古墳でいうなら、前方部の北側にあたる部分だ。実際に丘上に立ってみると、5~6mではきかないかもしれない。後円部を崩す際に、その土砂を新たに前方部へ盛ったものだろうか。

◆写真上:1892年(明治25)ごろに撮影された、東京専門学校の教職員記念写真。
◆写真中上は、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある小町塚古墳。は、明治初年に撮影された後楽園の同古墳(左手の山)。は、現在まで残された紅葉山の山頂部。古墳だったとすれば、前方部の北端の一部が残されていることになる。
◆写真中下は、1886年(明治19)に作成された1/5,000地形図にみる大隈邸敷地の突起地形。同邸の庭園ばかりでなく、周辺には円形の突起物が数多く採取されている。は、1910年(明治43)の1/5,000地形図にみる大隈邸。早稲田大学の正門前から東へ伸びる、のちの早大通りや沿道の建物が建設され、紅葉山の大半が破壊されている。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる紅葉山があったあたり。は、1974年(昭和49)の早朝に撮影された後円部があったあたりの早大通り。は、現在の大隈庭園の北側から眺めた紅葉山の残滓(左側の樹木が繁る丘一帯が紅葉山の北端)。

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下落合を描いた画家たち・平塚運一。(3) [気になる下落合]

平塚運一「落合点描」1935.jpg
 きょう取りあげる画面は、落合地域の作品ではあるけれど、描画場所は下落合ではない。西落合1丁目157番地(現・西落合3丁目)の平塚運一Click!アトリエの西側から眺める、荒玉水道Click!のために建設された野方配水搭Click!だ。以前、平塚運一による同配水搭のスケッチ『野方配水搭』はすでにご紹介Click!(オルタネイトテイクページClick!)しているが、今回の画面は新宿歴史博物館に保存されている黒白の木版画作品だ。『落合点描』とタイトルされた同版画は、1935年(昭和10)に制作されている。
 この作品と非常に近似した画面は、尾形亀之助Click!『美しき街』の挿画として採用された、松本竣介によるスケッチ画Click!でも見ることができる。松本竣介が、塔の階段が通う採光窓を旧・街道筋あたりからほぼ真正面にとらえて描いているのに対し、平塚運一の画角はやや北寄りだ。手前には、耕地整理が済んだとみられる敷地に新築の住宅が建ち、その手前には旧・葛ヶ谷時代(1932年より西落合)から変わらない畑地が拡がっている。
 東京35区Click!時代を迎えた1932年(昭和7)、淀橋区Click!(現・新宿区の一部)が成立するとともに葛ヶ谷地域は西落合へと地名を変更しているが、ちょうど新区制の施行と同年に描かれた平塚運一によるスケッチ『野方配水搭』もまた、やや北寄りの位置から野方配水搭を眺めているような雰囲気だ。同スケッチは、かなり遠景に配水搭がとらえられており、おそらく自身のアトリエ付近から西を向いて描いたものと思われる。同スケッチの3年後、1935年(昭和10)に制作されたのが、冒頭に掲載した配水搭の木版画『落合点描』だ。
 葛ヶ谷(西落合)地域の耕地整理は、1925年(大正14)8月に葛ヶ谷耕地整理組合の設立とともにスタートし、新区制が施行された1932年(昭和7)にはいちおう結了しているが、組合自体は残務整理のために同年以降も活動をつづけている。当時の様子を、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 葛ヶ谷に於ける耕地整理事業は大正十四年八月、地元有志貫井栄次郎、岩崎熊太郎、増田平五郎、岩崎仲次郎、岩崎傳五郎、鈴木七左衛門氏の発起によりて設立され、葛ヶ谷及び下落合大上、長崎町の一部旧田畑山林宅地広表七十一町二反九畝十二歩を一丸として、正しき道路系統の上に、理想的住宅地を編成したるものである。経費金七万余円、組合長は初代に川村辰三郎氏次いで岩崎熊太郎氏其衝に就き、現時副組合長荒川角次郎氏組合長代理として残務に従事す。
  
 下落合エリアや長崎町側への葛ヶ谷飛び地も含め、葛ヶ谷のみの耕地整理といっても、当時の町長だった川村辰三郎Click!が初代組合長をつとめているのを見れば、落合町をあげての大がかりな事業だったことがわかる。
 また、葛ヶ谷エリアの耕地整理は、下落合や上落合に比べて遅かったため、東側と北側に接する長崎村(1926年より長崎町)のほうが、1922年(大正11)より耕地整理がスタートしていたので事業が進捗していた。そこで、長崎村(町)の第一・第二耕地整理組合による整理事業の進め方をケーススタディとして参考にし、葛ヶ谷地域へ適用していった記録が長崎側(豊島区)に残っている。
 長崎地域は武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が敷設され、東長崎駅(1915年開設)や椎名町駅(1924年開設)が設置されていたせいで、早くから耕地整理が行われていた。長崎地域の整理事業を参考にしたせいか、下落合や上落合のように古い街道や道筋をそのまま残すやり方ではなく、すなわち地主の所有地の形状を優先した耕地整理ではなく、住宅地の交通に便利なよう碁盤の目Click!のように整然とした直線道路が交差する、現代の宅地開発に見られるような耕地整理が実施された。同時に、葛ヶ谷の地名が西落合に変更されることになり、おそらく落合地域としての一体感も増していったのではないだろうか。
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平塚運一「代々木風景」1931.jpg
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 また、自宅の住所に「くず」という音が入るのを嫌った住民もいたと思われるが、葛ヶ谷Click!の地名は鎌倉期からの“鎌倉地名”相似だと考えているわたしは、やすやすと葛ヶ谷地名を変更したのにはちょっと惜しい気がする。葛ヶ谷に隣接する和田山Click!には、和田氏Click!の館があったという伝承が色濃く残る土地柄なので、鎌倉(幕府)との結びつきが強い地域だったのではないかと考えるからだ。葛ヶ谷から西落合への耕地整理で、改めて落合町の総面積は3,223km2となった。
 さて、平塚運一の『落合点描』から葛ヶ谷の耕地整理へとスライドしてしまったので、野方配水搭の画面にもどろう。『落合点描』が制作された1935年(昭和10)前後の数年間は、平塚運一にとってかなり多忙な時期だったとみられる。1930年(昭和5)には、国画会の絵画部会員に選ばれ、翌1931年(昭和6)には国画会に版画部会が創設されて運営を任されている。また、同年には葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目)に住む料治熊太Click!と交流し、白と黒社から刊行されていた「版芸術」にたびたび寄稿している。また、梅原龍三郎Click!の版画『裸婦十題』の制作に協力したり、安井曾太郎Click!の版画『果物』『椅子に倚る女』をサポートしたのもこのころのことだ。
 その間、織田一磨Click!らとの共著『創作版画の作り方』(崇文堂出版)を刊行したり、平塚運一の個人誌である「版画研究」創刊号を発行したりしている。さらに、1933年(昭和8)には料治熊太Click!から会津八一Click!を紹介され、蒐集していた武蔵国分寺跡の膨大な古瓦研究Click!や書道研究についての指導を受けた。翌1934年(昭和9)には、会津八一Click!や料治熊太の協力で限定50部の『国分寺古瓦拓本集』(私家版)を刊行、つづけて綜合美術研究所から『新しい創作版画の作り方』を出版している。そして、『落合点描』が制作された1935年(昭和10)には、東京美術学校Click!に版画教室が新設され、木版画担当の教師に就任している。また、同年は朝鮮にも旅行している。
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松本竣介「配水塔」.jpg
野方配水搭1931.jpg 平塚運一「落合点描」拡大.jpg
 このように、平塚運一にとってはかなり多忙な、また反面とても充実した仕事の連続の中で、『落合点描』は制作されていることになる。「版画研究」の編集・出版をはじめ、国画会の部会活動や東京美術学校の教職などの仕事に追われ、精神的にもかなり疲弊していたのかもしれない。自邸の窓から、アトリエの庭先から、あるいは自邸近くの道端から眺められる野方配水搭を目にして、ふと気分転換に再び描いてみたくなったものだろうか。
 1932年(昭和7)のスケッチとは異なり、平塚運一は野方配水搭へかなり近づいてとらえている。西落合1丁目157番地の平塚アトリエから、野方配水搭までは直線距離で約430mほどあり、スケッチ『野方配水搭』(1932年)が平塚アトリエの近辺だとすれば、『落合点描』(1935年)は200mほど配水搭へ近づいていることになる。以前にご紹介した斎藤牧場Click!の、放牧地の南端から南東方向へ100mほど下がった地点で、平塚はスケッチブックを広げているのではないかとみられる。
 そして、平塚運一はなぜか、野方配水搭を実際のフォルムよりもかなり細長くデフォルメしてとらえている。絵画表現と精神分析の領域には無知だが、さまざまな役職で多忙な平塚運一の、より高みの次元へ向けた制作意欲の昂揚感、あるいはさまざまな時間的制約に束縛されず、さらにノビノビと自由に制作したい創作意欲の表れのようなニュアンスを、空へ極端に突出した配水搭の画面から、そこはか感じとれやしないだろうか。事実、気分転換のためか『落合点描』の同年には、朝鮮を遊歴する旅に出発している。
 戦後、1962年(昭和37)から平塚運一は米国で暮らしているので、日本国内よりも米国での知名度のほうが高い。1945年(昭和20)の敗戦で、日本が連合国軍に占領されるのと同時に、創作版画で世界的に有名だった下落合2丁目667番地(現・中落合2丁目)の吉田博アトリエClick!には、マッカーサー夫人をはじめ欧米の兵士や家族たちが集まって版画を習ったり、GHQの軍属が「観光バス」を連ねて版画制作を見学しにきたりしていたのと同様に、創作版画への関心は国内よりもむしろ海外のほうが圧倒的に高かった。それは、江戸の浮世絵に対する関心の高さから継続している、欧米における一貫した日本美術への眼差しなのだろう。平塚運一もまた、米国では数多くの弟子たちを抱え、木版画の技法を教えている。
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 タイトルの『落合点描』だが、どこか落合地域をとらえた別の「点描」シリーズがあるのではと期待してしまう。平塚運一が発行していた版画誌「版画研究」や、料治熊太が刊行していた「版芸術」の誌面には、地元の落合地域を描いた版画作品が掲載されているのかもしれないのだが、膨大な作品を残している平塚運一なのでいまだ発見できないでいる。

◆写真上:1935年(昭和10)に制作された、平塚運一の木版画『落合点描』。
◆写真中上は、1933年(昭和8)に西落合1丁目37番地の料治熊太邸における記念写真。背後には面白い人形や、アイヌ民族の太刀(エムシュ=emus)のようなものが見えて興味深い。は、1924年(大正13)制作の平塚運一『駒沢村風景』(上)と1931年(昭和6)制作の『代々木風景』(下)。は、1936年(昭和11)の空中写真で想定する描画ポイント。
◆写真中下は、野方配水搭が竣工して間もないころの1932年(昭和7)にスケッチされた平塚運一『野方配水塔』。は、尾形亀之助の作品に挿画として採用された松本竣介『配水搭』(制作年不詳)。は、1931年(昭和6)の竣工直後に撮影された野方配水搭()と『落合点描』(部分/)の比較。実物に比べ、明らかに配水搭が細身に描かれている。
◆写真下は、配水搭の基礎工事。は、クレーンや足場が撤去される直前の竣工間近な配水搭。は、西落合1丁目157番地にあった平塚運一のアトリエ跡(左手)。

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上落合の材木店2階で暮らす大田洋子。 [気になる下落合]

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 雑司ヶ谷金山の文藝春秋社(菊池寛邸Click!)で、「文藝春秋」の記者と菊池の秘書役をしていた大田洋子は、1928年(昭和3)に同社を辞めて故郷の広島に帰っている。故郷には、毎日新聞記者で妻子のある藤田某との苦い思い出があったが、帰郷ののち彼女は再び藤田との同棲生活をはじめ、藤田の離婚が成立すると正式に結婚している。
 大田洋子が、せっかく入った文藝春秋社をなぜ辞めたのか父親に問われると、「菊池寛が夜這いに来たからやめた、小説家はいやらしい、だから文芸春秋社にはおれん」と話していたのを、実弟が記憶している。だが、文学に対する想いは日々募るばかりで、ついに藤田と離婚すると再び広島を出奔している。すぐに東京へはいかず、尾道や大阪でカフェのダンサーや女給をしながら作品を書きつづけている。そして、1929年(昭和4)に短篇『聖母のゐる黄昏』が、長谷川時雨Click!「女人藝術」Click!に掲載された。
 大田洋子は、昭和初期のブームになっていた「女給」という職業に目をつけ、自らの体験を「女給小説」というかたちで表現したかったのだろう。男性作家が「女給」をテーマに書く作品はいくらでもあったが、女性作家が自身の体験として描く「女給小説」は、いまだめずらしかった時代だ。佐多稲子Click!『キャラメル工場から』をはじめ、平林たい子Click!『施療室にて』、宇野千代Click!『脂粉の顔』、林芙美子Click!『放浪記』などが、新鮮な感覚とともに読まれていた時代だった。大田洋子は1930年(昭和5)、大阪でのカフェの仕事をやめて東京へ再びやってくる。
 東京で彼女を出迎えたのは、長谷川時雨Click!をはじめ、小池みどり、熱田優子、生田花世Click!、小寺菊子ら「女人藝術」の面々だった。いつも不平不満を口にする(書く)大田洋子だが、この時代のことは懐かしい思い出とあたたかな雰囲気でしか表現していないところをみると、よほどメンバーたちからやさしく迎えられたのだろう。以降、大田洋子は「女人藝術」の常連メンバーになっていく。東京にやってきた当初は、とりあえず本郷にあった玄人下宿の2階に落ち着いている。
 「女人藝術」の仲間と親しくなるにつれ、東京生まれの多い編集者たちよりも、むしろ外からやってきて苦労を重ねている同誌の作家たちと気が合った。武者小路実篤Click!の愛人だった下落合の真杉静枝Click!をはじめ、下落合1909番地の中井駅前で開業する医師・辻山義光Click!の妻だった劇作家の辻山春子Click!、同じく下落合1982番地の矢田津世子Click!、児童文学にも才能を発揮した田島準子、そして当時はいまだ尾崎翠Click!に紹介された上落合850番地の家に手塚緑敏Click!とともに暮らしていた林芙美子Click!らだった。また文芸春秋社時代から知己を得ていた横光利一や、下落合1712番地に建つ目白文化村Click!の邸宅に仮住まいをしていた片岡鉄兵Click!たちとの交流も復活している。
 おそらく、落合地域に住んでいた作家たちに誘われたのだろう、1931年(昭和6)ごろ(一説には1933年)から、上落合(2丁目)545番地にあった梅田材木店の2階に間借りしている。場所的にいえば、上落合郵便局Click!の南裏手、落合第二尋常小学校Click!の教師・鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!(上落合667番地)が建つ2軒南隣りの家であり、また1930年(昭和5)から新婚早々の上野壮夫Click!小坂多喜子Click!が住んでいた借家のごく近くだ。
 その時代に撮影されたものだろう、辻山春子を中心に左側に大田洋子が、右側に林芙美子が座る落合時代の記念写真が残っている。3人とも近所同士で、そろって「女人藝術」の執筆メンバーだった。中井駅前の下落合1909番地に建っていた、辻山春子の自宅(辻山医院)で撮られた1枚だと思われ、撮影者は夫の辻山義光だろうか。テーブルの上には大判の本が置かれているが、残念ながら題名は読みとれない。大田洋子と林芙美子は、辻山医院へ徒歩5分以内で着ける位置に住んでいた。
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 大田洋子と矢田津世子、真杉静枝の3人は、このころから「美人」の女流作家として評判になり、なにかとゴシップを書きたてられた。大田洋子が、日本で初めてのボクシング試合を見にいっただけで、新聞に写真入りで紹介されたりする。このころは、なんらかの職業をもつ女性が「美人」というだけで、新聞や雑誌のネタ(餌食)になっていた時代で、それだけマスコミは「男の視点」のみで成立している時代だった。
 このころから、大田洋子について妙なウワサが立ちはじめている。いわく、「大田洋子は、某雑誌の編集者といい仲だ」、「某新聞の某氏が毎晩、落合のうちに泊りにいく」、「作家の某ともできているそうだ」「某雑誌の社主が部屋から寝衣姿で出てきた」……といったたぐいの根拠のない流言だ。「男社会」だったマスコミは、これらのゴシップにさっそく飛びつき、あることないことを次々に報道していく。当時の新聞記者や雑誌記者の中には、大学を出た作家志望の人物たちも少なくなかったので、自身の表現力や実力のなさを棚にあげ、作家として有名になっていく大田洋子ら「美人」の女性作家たちを、「生意気だ」と感じていた男たちもたくさんいたのだろう。
 ちょうど、帝展に入選しつづける渡辺ふみ(亀高文子)Click!に向けられた、「画見博士」こと芳川赳Click!のような差別と先入観だらけの薄らみっともない眼差しだ。彼らの頭の中には、「女が実力で帝展に入選できるはずがない」「女が書いた小説が文芸誌で評判になって売れるはずがない」、なにかカラクリがあるのだろうというかなり病的な偏見が根ざしていた。少し考えればわかりそうなものだが、梅田家の1室を“間借り”している大田洋子が、いっしょに住む大家とその家族に内緒で「男を引っぱりこめる」はずもない。
 また、上記の根拠のないウワサ話にそっくりな流言パターンを、わたしは下落合でもうひとつ知っている。矢田津世子をめぐる、根も葉もないウワサだ。それらの多くが、新聞や雑誌から良いにつけ悪いにつけチヤホヤされる「美人」作家に嫉妬する、林芙美子Click!の口が出所だったことが、彼女の死後に開かれた文芸記者たちの座談会でしばしば暴露されている。故郷に帰った尾崎翠Click!を「鳥取で死んだ」と文芸誌に吹聴してまわり、二度と原稿依頼がいかないようにしたのも彼女の仕業だったことが露呈したが(戦後にNHKが生存を確認している)、矢田津世子もまた、母親や兄の家族とともに下落合の実家で暮らしていたので、気軽に「男を引っぱりこめる」環境でなかっただろう。
 ただし、落合時代の大田洋子は、性格的にはかなり問題があったようで、晩年に大田洋子の家で書生としていっしょに暮らし、彼女の伝記を執筆した江刺昭子によれば、取材を重ねれば重ねるほど気が重くなっていったらしい。戦前の大田洋子を知る人物に取材すると、誰もがイヤな顔をして苦々しい思い出を語っている。江刺昭子が取材した元・新聞記者の小埜某もそのひとりで、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
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 実をいうと、私は、小埜氏に会うかなり前から、洋子の“いやらしさ”(原文傍点)に気付いていた。最初、洋子個人を離れて、原爆関係の作品だけを読み漁っていたころには、原爆の惨状をたたみかけるような強い筆で書きこんでいく、意志の強さには感心させられたけれども、その底に覗く作者のいやらしさには気がつかなかった。洋子の足跡を追いはじめて、戦前の作品を読むころになると、そろそろそのことが気になりはじめた。傲慢で、不遜で、けちで、偏狭で、我が侭で、陰惨で、残忍で、あまりに自己中心的で他への思いやりもない態度、それが歪んだ作家意識につながっていく。そのことは、次々と洋子とつきあいのあった人々に会う度に裏書されていった。/「お金には汚かったですねえ、金を持っていてもいなくても、きれいに使うということを知らなかった」/「彼女が遊びにきているとき、ちょうど私のところへ田舎から食べものを送ってきたりすることがあると、七対三に分けてさっさと自分が多いほうを持って帰るというようなところがありましたね」……(後略)
  
 大田洋子は落合時代、林芙美子をはるかに上まわる性格の悪さだったようでw、証言者の多くが彼女のことを悪しざまにいうのが数多く記録されている。
 だが、改造社に勤める編集者で左翼の活動家であり、下落合2080番地(アビラ村24号)の金山平三アトリエClick!に出入りする黒瀬忠夫と知りあって結婚すると、少し性格が「穏和」になって落ち着いたようだった。だが、それもつかの間、金山平三アトリエで開かれる社交ダンス教室Click!のバートナーだった、金山平三の弟子で菅野某の未亡人に嫉妬し、結局は別れることになってしまった。再び同書から、今度は黒瀬忠夫の回顧を引用してみよう。
  
 幡ヶ谷では、日当たりのよい座敷を大田に提供し、僕は廊下一つ隔てた次の建物の一室を自分の部屋としました。ここでも二人は巧く行かず、大田は妊娠していたのでせう。臥り勝で、仕事は出来ていないようでした。二人の間を最も悪化させたのは、大田が僕と菅野さんとの間を邪推し、嫉妬していたからではないかと思います。食えるようになって後も先方から望まれて、週に二度位金山先生のアトリエでダンスのお相手をし、僕は心の垢を洗って貰いに行くことを楽しみにしていました。今度は菅野さんと御一緒に金山先生宅に往き来するようになった次第です。が、病弱の大田には、あてつけ、邪推の好材料になったことと想像されます。又、大田自身も最も行詰っていた時代だったでせう。/大田は、僕と菅野夫人との間を、近所の人々、医者などに、二人が出来合って「私を追出そうとしている」等言いふらすようになりました。こうなるとおしまいで、僕の面子、菅野さんの名誉のためにも許せなくなりました。
  
 大田洋子は、このころから自身でも被害妄想が極端に強く病的でおかしいと気づきはじめており、のちに何度か病院の精神科へ入退院を繰り返すようになる。
 大田洋子の創作はしばらく低迷がつづくが、1939年(昭和14)の短編『海女』と翌1940年(昭和15)の『流離の岸』で一躍流行作家の仲間入りをし、文学界に改めて揺るぎない地歩を築いている。戦争のキナ臭さが漂いはじめ、なんでも自由に書ける時代が終わろうとしていたが、彼女の傲慢でわがままな「鼻もちならない」(同書)性格は相変わらずだった。
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 その大田洋子の実存や人生を、根底から揺るがす事態が待ちかまえていた。1945年(昭和20)1月、彼女は東京での空襲を逃れ、故郷であり空爆がなかった広島市白島九軒町へ疎開している。8月6日午前8時15分、朝寝坊な大田洋子は蚊帳の中で熟睡していると、彼女の頭上600mで原子爆弾が炸裂し、身体が青い閃光に包まれた次の瞬間、吹き飛ばされた。

◆写真上:上落合545番地の大田洋子宅跡で、右手の角地一帯が梅田材木店跡。
◆写真中上は、1940年(昭和15)に朝日新聞社から出版された大田洋子『桜の国』()と著者()。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる大田洋子下宿とその周辺。
◆写真中下は、大田洋子とは「女人藝術」で親しかった田島準子()と真杉静枝()。は、やはり親しかった矢野津世子()と戦後に撮影された大田洋子()。は、中井駅近くの喫茶店「ワゴン」Click!裏にある下落合1909番地の辻山春子邸(辻山医院)で1933年(昭和8)に撮影されたとみられる左から大田洋子、辻山春子、林芙美子の3人。
◆写真下は、米軍のF13Click!から原爆投下12日前の1945年(昭和20)7月25日に撮影された広島市街。は、原爆投下2日後の同年8月8日に撮影された広島市白島九軒町界隈。

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バスガールたちに和裁を教える悉皆屋。 [気になる下落合]

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 1918年(大正7)の目白通りに面した下落合(字)中原へ、高知県から父親を亡くした母子が住み着いた。父親の出身は高知だが、母親が中野出身だったので、親戚のいる東京へ帰郷したことになる。母親はそこで、娘を育てるために悉皆(しっかい)屋をはじめた。悉皆屋という言葉はすでに死語に近いが、着物の染めや洗い張りを請け負う店のことだ。
 下落合の字名である中原は、現在でいうと子安地蔵あたりを中心に、下落合4丁目の北部から中落合2丁目の北部にかかる目白通り沿いの一帯だ。江戸期からつづく清戸道Click!(せいどどう:目白通り)沿いに長崎村と落合村の双方で発展した、椎名町Click!の東側にあたる地域で、1918年(大正7)の1/10,000地形図を参照すると、山手線・目白駅の周辺よりも商店街が発達していた様子がうかがえる。
 だが、街道を少し外れると、両村とも一面に田畑が拡がっていた時代で、下落合では目白崖線に沿った雑木林や田畑の間に、華族の大きな邸宅や別荘がぽつりぽつりと建っているような風情だった。当時の目白通り沿いの様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、三宅さと子「和裁一筋の暮らし」から引用してみよう。
  
 落合のあの辺りは、長崎田んぼって言ったんですよ。目白通りができるんで道路改正になったんですけどね。そのころまわりは、暑いときなんかドブの水をひしゃくでまくようなそういう処でした。私のとこは、悉皆屋をやっていたんです。お客様が古い着物をお持ちくださると、それを母がほどいて一反の反物にはぎ合わせるのね。それを巻いて中野に持って行くと、職人が洗って張ってきれいにして、それをお客様にお返しする、そういう商売。(中略) でもね、なかなかそんな商売で食べてくっていうのはたいへんですよ。私の月謝払うのだって、ようようだもの。学校へ行っていいって言ったって、お金くれるわけじゃないから、母がお店やってぽつぽつ貯めるのと、あとは私がお風呂屋さんのおばさんにお願いして方々のお仕事させてもらって、夜なべにそういうものを縫ってそれで月謝稼いだの。今のアルバイトよね。
  
 ここに登場しているアルバイト探しを依頼した銭湯は、大正期から今日まで下落合(中原)635番地で営業をつづける「福の湯」Click!のことだろうか。
 母と娘の生活は苦しかったらしく、落合尋常高等小学校Click!(現・落合第一小学校)を卒業した彼女は、豊島師範学校Click!へ進学して教師になりたかったが、中野の実家である染物屋の親戚たちが許さなかった。母親は進ませたかったようだが、「家長」の伯父が「仕事のできる子に育ってもらわなきゃ困る、字で飯を食うんじゃない、学校なんて尋常六年まで行けばたくさんだ」と、上の学校への進学は認めてくれなかった。
 このあたり、(城)下町Click!と近郊の家庭(もとは別の地方?)とでは、環境が正反対の見本Click!のような話だ。下町では多くの場合、男子(父親や親戚の男たち=いわゆる「家父長Click!たち)がなにをいおうが、実質「家長」Click!でマネジメントをつかさどる女子(母親や親戚の女たち)が「それはけっこうなこと、お行きなさい」といえば、それでしまいの世界だった。うちの親父も、府立中から高等学校、大学への進学は祖母が意思決定している。父親や伯父(叔父)たちは、彼女たちの意思決定のあと、個々に発生する課題をクリアするアドバイザーないしは助力者、ときには「財源」としての役割が待っていた。
 これは、新モンゴロイドの大陸系(北冷地適応系)の民族に由来する、中国や朝鮮半島の差別的な教義・思想を、いくら歴代の国家や薩長政府が根づかせようとしても、江戸東京(に限らず東日本ではおしなべて)ではほとんど浸透しなかった底流文化だ。文化人類学的にいえば、古(いにしえ)の千年単位におよぶ日本の基層Click!に近い文化的な側面Click!だろう。
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 三宅さと子は、おそらく落合尋常高等小学校でもかなり成績がよく頭のよい女性だったのだろう、それでも上級の学校をあきらめきれず、母親と親戚を説得して柏木125番地(現・西新宿7丁目)にあった武田裁縫高等女学校へ進学している。彼女はそこで和裁だけでなく、高等科へ進み習字と礼法を学んでいる。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 学校へは、目白の駅から山手線で新宿の西口へ出て通いました。校長先生は竹田太郎吉って名前で、もうだいぶお年でしたから、ちょっと教えてくださるだけで、実質的には副校長の川北先生が指導してましたね。先生はみんな卒業生で女の方ばかり。男の先生は、課外のお習字の先生だけ。私のいるうちに、高等女学校になったんですよ。四年制の二部ができたんです。そちらはお勉強があるんです。高等女学校になったんで、そういうようになったんじゃないかと思います。(中略) 課外で希望者だけ、お習字と生け花とお作法がありました。私は、お習字とお作法だけやらしていただいたんです。小笠原流のお作法ですけどね、今じゃ足で障子あけますもんね。アハハハー。
  
 女学校を卒業してから、下落合でお屋敷の手伝いの話もあったようだが、彼女は母親のもとで習いたての和裁教室を開くことにした。母親が、家を出て働けば着物や履き物などにおカネがかかるし、「出て十円稼ぐならうちで八円稼いだほうがいい」といって、娘を手もとにおいておきたかったようだ。目白通り沿いで和裁教室を開き、評判もよかったらしく生徒もぽつぽつ集まるようになっていった。
 和裁教室の月謝は、ひとり1円20銭だったようで、評判を聞きつけた娘たちが通ってくるようになる。毎日通ってくる生徒の中には、目白通りを走っていたダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)のバスガールClick!たちが大勢いた。バスガールたちは、乗務の合い間をぬっては和裁教室へ通っていたようだ。以前、こちらでご紹介したダット乗合自動車のバスガール・上原とし様Click!や、その同僚たちも和裁を習いに通っていたかもしれない。当時の様子を、同書より引用してみよう。
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 お弟子さんは近所の娘さんが多かったけれど、そのころ、表通りをダット乗合ってのが通っていたの。その女車掌さんがみんな来てました。二〇人くらい乗れる、昔としては大きいバスでしたよ。目白から籾山牧場Click!っていうところまで通っていたと思いますよ。車掌さんは入れ替わり、立ち替わりで、八、九人は来てましたよ。勤務時間が不規則だから、なかなか普通のところでは教えてくれないでしょう。私は家にいるから、いつでもいいよっていうもんですから、三時から来て五時までいるとか、五時に来て八時までいるとか、仕事の合間に教えるという方式で教えてあげたんですよ。だからこの間も、とてつもないところで「先生、先生」って呼ばれたの。私のこと先生って呼ぶなんて誰だろうって思ったら、生徒さんだった人なの。うれしかったわね。教えたものの醍醐味ね。
  
 1933年(昭和8)に目白通りの拡幅工事で、母親の悉皆屋は立ち退くことになり、下落合2丁目(現・下落合4丁目と中落合2丁目の一部)に新しい家を見つけて転居している。そして、同時に彼女は警察官と結婚した。
 彼女の家は母子家庭だったので、防犯上から警察官がちょくちょく立ち寄ってくれていたらしいのだが、その警官の仲介で独身の同僚を紹介されたようだ。戸塚警察署Click!に勤務していた、若い警察官だった。夫は戸塚警察署から中野警察署、そして警視庁の本庁づとめにもどっているが、1938年(昭和13)に本庁の特高第二課に配属された。戦時中もそのままだったので、敗戦後は思想弾圧Click!を追及され公職追放で警視庁をクビになっている。
 当時の和裁に対する手間賃は安く、浴衣を1枚縫って仕上げても50銭だったという。祭りの日が近づくと、「さとちゃんとこへ持ってけば」と浴衣縫いの注文が殺到したらしいが、毎日寝ないで浴衣を8枚仕上げてもわずか4円にしかならなかった。今日の貨幣価値に換算すると、浴衣1枚縫っても5,000円ぐらいにしかならなかった。
 結婚後も和裁はつづけていたが、子どもが生まれていたので和裁教室はやめて、授産場Click!で働いたりデパートからの注文品を縫ったりしていたようだ。着物やちゃんちゃんこなどを縫っては、大手デパートへ納品していたようだが、「ちゃんちゃんこは一〇枚縫ったっていくらにもなんなかったわね。まあ、五〇銭じゃなかったけど…」とこぼしているところをみると、かなり買いたたかれたのだろう。授産場での和裁教授は、ひょっとすると下落合の近衛町に隣接して建っていた目白授産場Click!なのかもしれない。
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 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で、国際聖母病院Click!近くの三宅邸は焼夷弾爆撃で全焼している。それから、また戦後までつづく苦難の時代がはじまるのだが、新宿区地域女性史編纂委員会のインタビュー時にも彼女は中落合(旧・下落合中部)に住んでいるので、大正期から馴れ親しんだ母校のある下落合の街を離れがたく感じていたのだろう。

◆写真上:めったに見かけなくなった、和ばさみとやたら縞の木綿地。
◆写真中上は、下落合中原(のち下落合2丁目/現・下落合4丁目)の目白通り沿いにある子安地蔵尊。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる下落合村椎名町界隈の様子。は、1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」にみる柏木125番地の武田裁縫高等女学校。すぐ南側には、青梅街道をはさんで淀橋浄水場Click!があった。
◆写真中下は、織田一磨『江戸川河岸』(部分)に描かれた江戸川(現・神田川)沿いの洗い張り風景。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合中原エリアの目白通り。このどこかに、通りに面して三宅さと子の母が経営していた悉皆屋と、彼女の和裁教室が開業しているはずだ。は、現代の和裁道具いろいろ。
◆写真下:三宅さと子が開いていた和裁教室へ、大勢通ってきていた昭和初期のダット乗合自動車のバスガールたち。(小川薫様Click!ご提供の「上原としアルバム」より)

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曾宮一念アトリエの絵画教室。 [気になる下落合]

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 曾宮一念Click!が、下落合623番地のアトリエで二度にわたる「どんたくの会」を開き、地元在住の人々に絵画を教えていたのはよく知られた話だ。当時「どんたくの会」に通い、曾宮一念に絵を習っていた方々の証言も残っている。
 画業だけでは生活が苦しいため、下落合で絵画教室を開いていた画家は多い。笠原吉太郎アトリエClick!大久保作次郎アトリエClick!海洲正太郎アトリエClick!などでも絵画教室が開かれており、笠原アトリエには下落合1147番地の外山卯三郎Click!と結婚する一二三夫人Click!が、海洲アトリエには下落合667番地の吉田博Click!のご子孫が通っている。
 「どんたくの会」は、曾宮一念が柏木128番地Click!から下落合に転居して早々、1921年(大正10)に鶴田吾郎Click!とともにはじめた第1次「どんたくの会」と、1931年(昭和6)に鶴田と仲たがいしたあと曾宮がひとりではじめた第2次「どんたくの会」とがある。証言が多いのは、1931年(昭和6)以降の二度めにはじめた画塾のほうだ。また、曾宮一念は絵画の個別指導も行っていたようで、弟子には秋艸堂Click!会津八一Click!などがいる。会津八一は、曾宮が早稲田中学校Click!時代の英語教師だったので、絵画のレッスンでは師弟関係が逆転してしまったことになる。
 曾宮一念は、人になにかを教える“教師タイプ”の性格ではないと思うのだが、第一次大戦後に起きた不況時に、あるいは世界大恐慌Click!の直後に生活費を捻出するためには、画塾を開く以外に方策がなかったのだろう。「どんたくの会」で、曾宮一念は生徒たちに絵の描きかたについて、どのような教え方をしていたのだろうか。
 それを示唆するようなエッセイが、戦後1958年(昭和33)に創刊された山岳雑誌「アルプ」に、曾宮一念の「山を描こう」というタイトルで連載されている。文頭には、絵を「これから試みようとする人々に安易な手引になれば幸いです」と書かれているので、日曜画家を対象に教えていた下落合の「どんたくの会」に通じる趣旨を感じるのだ。
 まず、絵を描く大前提として、絵画の理屈や描法(技法)は「抜きにします」と書いている。画論や技術はもちろん存在するが、究極のところは「どう描いてもカマワナイ」のが本質であり、むしろ画論や技術にとらわれ追随することは「ムズカシイようでヤサシク」、自由に描くことのほうがよほど「ムズカシイのです」として、その点が音楽の初歩で基礎技術をみっちり習得するのとは、大きなちがいだと指摘している。
 絵は明暗でできており、線も明暗も色も、すべて白黒が自然風景のかたちに組み合わされると風景画になるし、抽象画も明暗で組み立てられていることに変わりはなく、立体物を描こうとするとカゲとヒナタができるので、すぐにわかると教えている。室内とは異なり、風景を描く場合は太陽光が変化して安定しないので、あらかじめそれを考慮した立体の描きかたが必要だと説いている。
 風景画について、1972年(昭和47)に木耳社から出版された曾宮一念『白樺の杖』所収の、「アルプ」に掲載された「山を描こう」から引用してみよう。
  
 山には木や岩や雪や雲があって、その表面のものに迷わされます。それらを描くのが目的なら、表面のものに捕われて、山そのものをノガスことがあるのを注意します。/また、平地のサキに山がある場合は、平地はテーブルであり、山は卓上の物体の関係です。山の量感は表側だけで無く、裏側も想像できるように描ける方が良いと思います。/空は山よりズッと遠く、ことに山に近い空ほど遠い感じに見えると、画が広く深く見えます。/以上は普通に自然描写の常識です。しかし、自然写生ばかりが画では無いのですから、立体を無視して平面にしたり、天地左右のプロポーションを変えたり、それらは良い意味での「画そら事」なのです。
  
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 もともと風景は、スケッチブックに捉えきれるはずがないほど巨大なモチーフであり、それを紙という平面に活かせればいいので、あまり上記のことにこだわるなとも書いている。そして、曾宮先生がお勧めの画道具を列記している。
 一、画用紙・スケッチブック。大きさは普通の便箋ぐらいか、その2倍大まで。
 二、鉛筆。4B-6B。但し、紙質によって選ぶ。濃い黒を望む人はカーボン製の
   鉛筆を使う。消しゴム。

 初心者は、とかく画面をキレイに描こうとするが、そんな心配や気配りは無用でむしろマイナスだとし、線がいくつも重なってもかまわないし、消しゴムで消して画用紙が汚くなってもかまわず、ときには汚れることで重厚さが増すことさえあると解説している。あとは、いわく「カッテになさい」。
 ここでは、透明水彩絵の具による淡彩画の技法を解説しているが、油彩画よりもむしろ水彩画のほうがかなり難しいと書いている。これは、絵画を描いたことのある人ならすぐにピンとくる感覚だろうが、油彩画は手間と時間さえかければ、気に入らない箇所は自分の好みに修正することができる。だが、水彩画は一度失敗すると修正がほとんどきかない、いわば一発勝負の画面だ。
 そういう観点からすると、曾宮一念が絵画教室をスケッチと透明水彩からスタートさせているのは、どうすれば描画に失敗しないかを学ばせる、どうやれば自分なりの画面をしくじらずに描くことができるのかを、短期間で学ばせる手段として「淡彩画」を採用しているように見える。また、透明水彩とパステルの併用も教えているが、あくまでも曾宮自身が採用している手法であるとしたうえで、水彩を載せたあとで用いないと画面を汚くしてしまうと注意している。
  
 勝手に描け、と申し上げたのですから、もちろん各独自の方法を採ることが宜しいのですが、私一人の経験では、素描は思い切り濃く描いて置いても、色を付けると、線や明暗が淡れてしまいます。初めに付けた線や暗さが吹き飛んで、シマリの無い平板になり易いものです。この点では透明な水彩えのぐの方が鉛筆の強さを損うことが少なくて済みます。/鉛筆には軽く水彩を塗るなら汚れません。カーボン鉛筆も蝋の入ったものなら汚れません(その代り水をハジクが)。蝋を含まないカーボン木筆や棒状のカーボンのクレヨンに水彩すると墨が溶けて汚れます。それには、フィキサチーフを軽く吹いてから塗ると宜しい。
  
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 山岳誌「アルプ」の連載なので、いちおう山を描くことを中心に解説しているが、後半では山にとらわれず海や野など、多彩な風景画の制作について触れている。
 また、自身の体験として、初めて油絵の具を購入したとき、洋書の絵画入門本として「山の描き方」「海の描き方」「人物の描き方」という、小型本を手に入れて読んだ話をしている。だが、せっかく苦労して英文を翻訳しながら読んでも、「子供だまし」のような内容だったという。山や海、人間にそれぞれ別の描法があるはずがなく、絵画制作では「立体と重量」感、そして「物質」感を表現するのであり、「画家によって、物質を主にした人もあり、立体や重量を主にした人もいます。しかし何よりも先ず画であることが第一でしょう」といい、そう書いているそばからこれは「屁理屈」だとしている。この「屁理屈」については、読者がどう解釈するのか課題のひとつとして残した。
 もうひとつ、いい古された初歩的な「遠近法」についても触れている。遠近法は「大分前時代もの」になったが、遠近法的な手法に反しないほうがいいこともあり、また視覚的には遠い山でも美しいのであれば、その景色を中心に(遠近法にとらわれず)描いても別にかまわないので、自分にとって「美しく感ずるところがどこにあるのか、どこをツカンダラ良いかを考えて」、画面に向きあうべきだとしている。
  
 紙と鉛筆を持てばスグに風景画家になれます。その点、一番ハイリ易い画です。しかし、もう一つの考えは、人物や静物は、その形に規制があるから、その点ではムズカシサがあるけれども、実物通り、時には実物大に、俗な言い方をすれば本物ソックリに写すこともできます。/ところが山・海・空・水は本物を紙に写せません。木の枝、草の葉、森、川原の石をどうコナスか、そういうところに昔から手法が倣われ、手本が作られました。これは先人の作品を参考にするなら良いとしても、それに倣って描くのでは、自分の眼と心で見、感ずるので無く、他人の見方・感じ方になります。(中略) そういう教え方は速成の効果はあがっても、折角の自分の心を失って、他人の代用品を作って喜んでいることになります。/私の、この淡彩入門も、このことに陥らないように気をつけたつもりでも、私一個の方法が首を出していないとも限りません。
  
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 「一応お読みの上、無手勝流に描いてごらんなさい」と結んで、登山の無手勝流は生命の危険があるが、絵画の無手勝流はイノチにかかわることは絶対にないとし、「大いにハメをハズすこと」、ただし課題としていた「屁理屈」はもちろん忘れること……と、曾宮一念ならではのユーモラスなこなれた文章で、「アルプ」誌上の絵画教室をしめくくっている。

◆写真上:100歳も近い晩年に、富士宮アトリエの庭先でラジオ体操をする曾宮一念。
◆写真中上は、1921年(大正10)に竣工間もない下落合623番地の曾宮一念アトリエ。(江崎晴城様Click!提供) は、1934年(昭和9)9月15日に下落合のアトリエで撮影された曾宮一念。は、戦後に富士宮市のアトリエで制作する曾宮一念。
◆写真中下は、3枚とも曾宮一念に絵画を習っていた会津八一のデッサン帳(早稲田大学会津八一記念博物館蔵) は、第2次「どんたくの会」の曾宮一念(右端)。
◆写真下は、1960年(昭和35)に制作された曾宮一念『開聞岳遠望』。は、1965年(昭和40)に描かれた曾宮一念『平野夕映え』。は、1987年(昭和62)に発行の「週刊新潮」11月号に掲載された曾宮一念『八ヶ岳浅雪』(制作年不詳)。

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