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大隈庭園にある瓢箪型の突起地形。 [気になる神田川]

大隈庭園記念写真(明治期).jpg
 ずいぶん前に、早稲田大学キャンパスの南側にあった富塚古墳(高田富士)Click!を記事にしたとき、大隈重信邸Click!の庭にあった瓢箪型の突起について触れたことがある。戦前の学界では、「瓢箪型古墳」と呼ばれていた前方後円墳Click!だが、大名家や華族、おカネ持ちの庭園に古墳が崩されずそのまま残され、回遊式庭園の築山として活用されていたケースを、これまで拙サイトでも何度か取りあげてきている。
 たとえば、江戸期には土岐美濃守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は華頂宮邸の庭にそのまま残された亀塚古墳Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷の庭園(後楽園)に築山として残され、大正期に鳥居龍蔵の調査で古墳であることが判明した小町塚古墳、江戸期には松平摂津守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は「津ノ守山」と呼ばれ公園のようになっていた新宿角筈古墳(仮)Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内に一時は五条天神社や清水観音堂が建立されたあと、築山のまま境内に残された上野摺鉢山古墳Click!、尾張徳川家の下屋敷庭園にされていた戸山ヶ原Click!から、羨道や玄室と思われる洞穴が出現し「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)Click!にされていた事例や、隣接する洞穴だらけの高田八幡(穴八幡)Click!……などなど、例をあげれば十指にあまるだろう。
 冒頭の写真は、大隈重信邸の回遊式庭園にあったおそらく瓢箪型の突起の前で、1892年(明治25)ごろに撮影されたとみられるめずらしい記念写真だ。大隈重信Click!を中心に、東京専門学校(のち早稲田大学)の教師陣Click!を撮影したものだが、その背後に見えている小高い突起が大隈庭園の南東寄りにあった瓢箪型の突起地形だと思われる。もともと、明治期の大隈庭園には大小の築山がみられるが、これらが大隈邸の建設時に築山として造成されたものか、それとも元をたどれば松平讃岐守の高松藩下屋敷だった敷地なので、その庭園にあった築山をそのまま活かしたものか、正確には規定できない。
 ただし、松平家の庭をそのまま活用しているらしいことは、園内に江戸期よりあった茶室を改修している資料が見えるので、敷地の随所に見える突起地形(築山)や庭をめぐる小径も、おそらく当初のままなのだろう。それらの小丘には、それぞれ江戸期からつづいているとみられる、「天神山」Click!「地蔵山」「稲荷山」「躑躅山」「紅葉山」などの名称があったことも記録されている。これらの名称は、このサイトをつづけてお読みの方々なら、すぐに古墳地名がいくつか混じっていることにお気づきだろう。また、昌蓮Click!「百八塚」Click!に奉った祠と重ね合わせ、いくつかの「山」が昌蓮伝説の「百八塚」に含まれていたのではないか?……と想像される方もいるかもしれない。
 大隈邸の庭園の様子を、1931年(昭和6)に戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』より引用してみよう。ちなみに、ここに描写された大隈庭園の風情は、大隈邸を含め戦災で焼けていないため、明治期とそれほど大きくは変わっていないとみられる。
  
 同所は旧高松藩主松平讃岐守の下邸にて維新後松本病院、英学校等の敷地となり、明治七年侯の所有に帰した、(中略) こゝを過ぎて大書院前に出ずれば、此の庭園の中心とも云ふべく四辺の風趣、真に天下の名園たるに反かざるを味ふ、仰げば地蔵山の老松は清流の上に蟠屈し、寒竹は山の裾を這ふて居る具合は正に一幅の絵画である、大書院に続いて侯の居間があり、其の北方に洋館の寝室がある(、)其れより十字路に出て小逕を西にすれば侯の母堂が居られた、後に久満子刀自の住まれた室、現侯爵夫人の居室に当てられた部屋及び小供室がある、こゝより天神山に出づる路に松見の茶屋がある、亭は松平家時代のものに侯が改築された茶室にて、瀟洒淡雅、常に外客を引見して国風の特色を示された(、)天神山には大隈家の祖先たる菅公廟がある、次いで稲荷山、躑躅山、地蔵山、紅葉山等、優麗清爽、閑雅幽寂なる景致を展べて、一日の清遊を楽むに充分である、(カッコ内引用者註)
  
 文中に「松本病院」とあるのは、松本順Click!が開業した「蘭疇医院」Click!のことだ。
後楽園小町塚古墳.jpg
小町塚古墳(明治初年).jpg
大隈庭園紅葉山1.jpg
 多彩な「山」名が登場するが、大隈邸の北東側にある高めの小丘が「天神山」(現在はリーガロイヤルホテルの下)、池の東側にあるのが「地蔵山」(現在は大半が大学51号館の下)、そして南の瓢箪型をしたいちばん大きな「山」が、明治期から現在まで「紅葉山」と呼ばれていることが判明している。ただし、「稲荷山」と「躑躅山」が、残る突起地形のどちらを指すのかは、資料が見つからないので曖昧なままだ。
 1886年(明治19)に発行された1/5,000地形図に、はっきりと瓢箪型に採取された突起地形「紅葉山」のことを、大隈邸の建設以前(あるいは松平邸以前)からあった古墳ではないかと疑うのは、隣接して富塚古墳Click!(江戸後期には高田富士Click!にされていた)が存在すること、室町期からつづく昌蓮による「百八塚」の伝承が生まれた、大隈邸の門前に位置する宝泉寺の地元であること、このエリアは古くから戸塚地域(下戸塚村)と呼ばれているが、古い文献には「十塚」という漢字を当てはめた地名音が採取されていること、周辺の田畑開墾で出土した古墳の副葬品とみられる遺物が、付近の寺社に奉納されているエピソードClick!が多いこと……などなどの状況証拠からだ。
 さて、冒頭に掲載した東京専門学校の教職員たちが写る記念写真は、大隈邸の庭のどこで撮られたものだろうか。教員の中に夏目漱石Click!の姿が見られるので、1892年(明治25年)5月以降の撮影であることがわかる。この時期、夏目漱石は学費を稼ぐために、いくつかの学校で英語教師のかけもちアルバイトをしている。撮影は曇天の日和りだったものか、画面にクッキリとした陰影は見られないが、光線の加減からカメラマンの背後、または左手が南側のようだ。そう考えると、瓢箪型をした突起地形「紅葉山」の東側に、かっこうの撮影ポイントを見つけることができる。
 ちょうど、庭園の小径が左へとカーブし「紅葉山」の麓にあたる東側に、広場のようなスペースの芝庭が造成されていたあたりだ。カメラマンは、早稲田に拡がる田圃を背後に、西北西を向いてシャッターを切っていることになる。したがって、教職員たちの背後にとらえられた小丘は、「紅葉山」の瓢箪型地形から類推すると前方部が北を、後円部が南を向いているように見えるので、前方部の一部が写っていることになりそうだ。
下戸塚大隈邸.jpg
大隈庭園1886.jpg
大隈庭園1910.jpg
 記念写真のうしろ2列の人々は、写真館がセッティングした台の上に登っているとみられるので、前から2列目の地面に立っている人物の身長や、背後に写る小丘との距離を考慮すると、その高さはおよそ5~6mほどになるだろうか。もっとも、この突起状の地形が当初からまったく手を加えられず、そのままの姿で残されていたとは考えにくく、土岐美濃守下屋敷の亀塚古墳や、水戸徳川家上屋敷(後楽園)の小町塚古墳がそうであったように、造園師によって庭園の築山に見あうような形状に整えられた可能性を否定できない。瓢箪型の「紅葉山」全体を前方後円墳ととらえれば、そのサイズから想定できる前方部の高さは、もう少しあってもいいような感触があるからだ。
 「紅葉山」全体を南北に計測すると、およそ100m弱ほどの瓢箪型突起になりそうだ。上野公園にかろうじて残された摺鉢山古墳(残滓)の現状、あるいは多摩川沿いの野毛大塚古墳Click!などとほぼ同程度のサイズだが、そのケーススタディにしたがえば後円部の直径は70~80m、墳頂の高さは10m超ほどあったのではないだろうか。もっとも、大隈邸の庭園にする際、芝丸山古墳Click!や新宿角筈古墳(仮)のケースがそうであったように、後円部の墳頂を崩して平らにならし、前方部と同様の高さに整地しているのかもしれない。
 この瓢箪型の「紅葉山」は、かなり早い時期から崩されているとみられる。特に後円部は大学正門通り(早大通り)が敷設された1900年代の初期には消滅しており、早大通りと北側の沿道に並ぶ建物(商店街だろうか)の下になっている。そして、大正期に入ると古い大学講堂のリニューアルが計画されるが、関東大震災Click!で一度中断し、1927年(昭和2)になってようやく正門の正面に大隈記念講堂Click!が竣工している。現在は、瓢箪型の後円部が早大通りと大隈講堂の一部南東隅の真下に、前方部の大半は大隈講堂と大隈ガーデンハウスカフェテリア、さらに大隈講堂裏劇研アトリエの下になっているのではないかとみられる。
大隈庭園1936.jpg
早大通り1974.jpg
大隈庭園紅葉山2.jpg
 大隈庭園を散策すると、現在でも「紅葉山」の一部が残されていることに気づく。古墳でいうなら、前方部の北側にあたる部分だ。実際に丘上に立ってみると、5~6mではきかないかもしれない。後円部を崩す際に、その土砂を新たに前方部へ盛ったものだろうか。

◆写真上:1892年(明治25)ごろに撮影された、東京専門学校の教職員記念写真。
◆写真中上は、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある小町塚古墳。は、明治初年に撮影された後楽園の同古墳(左手の山)。は、現在まで残された紅葉山の山頂部。古墳だったとすれば、前方部の北端の一部が残されていることになる。
◆写真中下は、1886年(明治19)に作成された1/5,000地形図にみる大隈邸敷地の突起地形。同邸の庭園ばかりでなく、周辺には円形の突起物が数多く採取されている。は、1910年(明治43)の1/5,000地形図にみる大隈邸。早稲田大学の正門前から東へ伸びる、のちの早大通りや沿道の建物が建設され、紅葉山の大半が破壊されている。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる紅葉山があったあたり。は、1974年(昭和49)の早朝に撮影された後円部があったあたりの早大通り。は、現在の大隈庭園の北側から眺めた紅葉山の残滓(左側の樹木が繁る丘一帯が紅葉山の北端)。

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下落合を描いた画家たち・平塚運一。(3) [気になる下落合]

平塚運一「落合点描」1935.jpg
 きょう取りあげる画面は、落合地域の作品ではあるけれど、描画場所は下落合ではない。西落合1丁目157番地(現・西落合3丁目)の平塚運一Click!アトリエの西側から眺める、荒玉水道Click!のために建設された野方配水搭Click!だ。以前、平塚運一による同配水搭のスケッチ『野方配水搭』はすでにご紹介Click!(オルタネイトテイクページClick!)しているが、今回の画面は新宿歴史博物館に保存されている黒白の木版画作品だ。『落合点描』とタイトルされた同版画は、1935年(昭和10)に制作されている。
 この作品と非常に近似した画面は、尾形亀之助Click!『美しき街』の挿画として採用された、松本竣介によるスケッチ画Click!でも見ることができる。松本竣介が、塔の階段が通う採光窓を旧・街道筋あたりからほぼ真正面にとらえて描いているのに対し、平塚運一の画角はやや北寄りだ。手前には、耕地整理が済んだとみられる敷地に新築の住宅が建ち、その手前には旧・葛ヶ谷時代(1932年より西落合)から変わらない畑地が拡がっている。
 東京35区Click!時代を迎えた1932年(昭和7)、淀橋区Click!(現・新宿区の一部)が成立するとともに葛ヶ谷地域は西落合へと地名を変更しているが、ちょうど新区制の施行と同年に描かれた平塚運一によるスケッチ『野方配水搭』もまた、やや北寄りの位置から野方配水搭を眺めているような雰囲気だ。同スケッチは、かなり遠景に配水搭がとらえられており、おそらく自身のアトリエ付近から西を向いて描いたものと思われる。同スケッチの3年後、1935年(昭和10)に制作されたのが、冒頭に掲載した配水搭の木版画『落合点描』だ。
 葛ヶ谷(西落合)地域の耕地整理は、1925年(大正14)8月に葛ヶ谷耕地整理組合の設立とともにスタートし、新区制が施行された1932年(昭和7)にはいちおう結了しているが、組合自体は残務整理のために同年以降も活動をつづけている。当時の様子を、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 葛ヶ谷に於ける耕地整理事業は大正十四年八月、地元有志貫井栄次郎、岩崎熊太郎、増田平五郎、岩崎仲次郎、岩崎傳五郎、鈴木七左衛門氏の発起によりて設立され、葛ヶ谷及び下落合大上、長崎町の一部旧田畑山林宅地広表七十一町二反九畝十二歩を一丸として、正しき道路系統の上に、理想的住宅地を編成したるものである。経費金七万余円、組合長は初代に川村辰三郎氏次いで岩崎熊太郎氏其衝に就き、現時副組合長荒川角次郎氏組合長代理として残務に従事す。
  
 下落合エリアや長崎町側への葛ヶ谷飛び地も含め、葛ヶ谷のみの耕地整理といっても、当時の町長だった川村辰三郎Click!が初代組合長をつとめているのを見れば、落合町をあげての大がかりな事業だったことがわかる。
 また、葛ヶ谷エリアの耕地整理は、下落合や上落合に比べて遅かったため、東側と北側に接する長崎村(1926年より長崎町)のほうが、1922年(大正11)より耕地整理がスタートしていたので事業が進捗していた。そこで、長崎村(町)の第一・第二耕地整理組合による整理事業の進め方をケーススタディとして参考にし、葛ヶ谷地域へ適用していった記録が長崎側(豊島区)に残っている。
 長崎地域は武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が敷設され、東長崎駅(1915年開設)や椎名町駅(1924年開設)が設置されていたせいで、早くから耕地整理が行われていた。長崎地域の整理事業を参考にしたせいか、下落合や上落合のように古い街道や道筋をそのまま残すやり方ではなく、すなわち地主の所有地の形状を優先した耕地整理ではなく、住宅地の交通に便利なよう碁盤の目Click!のように整然とした直線道路が交差する、現代の宅地開発に見られるような耕地整理が実施された。同時に、葛ヶ谷の地名が西落合に変更されることになり、おそらく落合地域としての一体感も増していったのではないだろうか。
平塚運一記念写真1933.jpg
平塚運一「駒沢村風景」1924.jpg
平塚運一「代々木風景」1931.jpg
野方配水搭1936.jpg
 また、自宅の住所に「くず」という音が入るのを嫌った住民もいたと思われるが、葛ヶ谷Click!の地名は鎌倉期からの“鎌倉地名”相似だと考えているわたしは、やすやすと葛ヶ谷地名を変更したのにはちょっと惜しい気がする。葛ヶ谷に隣接する和田山Click!には、和田氏Click!の館があったという伝承が色濃く残る土地柄なので、鎌倉(幕府)との結びつきが強い地域だったのではないかと考えるからだ。葛ヶ谷から西落合への耕地整理で、改めて落合町の総面積は3,223km2となった。
 さて、平塚運一の『落合点描』から葛ヶ谷の耕地整理へとスライドしてしまったので、野方配水搭の画面にもどろう。『落合点描』が制作された1935年(昭和10)前後の数年間は、平塚運一にとってかなり多忙な時期だったとみられる。1930年(昭和5)には、国画会の絵画部会員に選ばれ、翌1931年(昭和6)には国画会に版画部会が創設されて運営を任されている。また、同年には葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目)に住む料治熊太Click!と交流し、白と黒社から刊行されていた「版芸術」にたびたび寄稿している。また、梅原龍三郎Click!の版画『裸婦十題』の制作に協力したり、安井曾太郎Click!の版画『果物』『椅子に倚る女』をサポートしたのもこのころのことだ。
 その間、織田一磨Click!らとの共著『創作版画の作り方』(崇文堂出版)を刊行したり、平塚運一の個人誌である「版画研究」創刊号を発行したりしている。さらに、1933年(昭和8)には料治熊太Click!から会津八一Click!を紹介され、蒐集していた武蔵国分寺跡の膨大な古瓦研究Click!や書道研究についての指導を受けた。翌1934年(昭和9)には、会津八一Click!や料治熊太の協力で限定50部の『国分寺古瓦拓本集』(私家版)を刊行、つづけて綜合美術研究所から『新しい創作版画の作り方』を出版している。そして、『落合点描』が制作された1935年(昭和10)には、東京美術学校Click!に版画教室が新設され、木版画担当の教師に就任している。また、同年は朝鮮にも旅行している。
平塚運一「野方水道塔1932.jpg
松本竣介「配水塔」.jpg
野方配水搭1931.jpg 平塚運一「落合点描」拡大.jpg
 このように、平塚運一にとってはかなり多忙な、また反面とても充実した仕事の連続の中で、『落合点描』は制作されていることになる。「版画研究」の編集・出版をはじめ、国画会の部会活動や東京美術学校の教職などの仕事に追われ、精神的にもかなり疲弊していたのかもしれない。自邸の窓から、アトリエの庭先から、あるいは自邸近くの道端から眺められる野方配水搭を目にして、ふと気分転換に再び描いてみたくなったものだろうか。
 1932年(昭和7)のスケッチとは異なり、平塚運一は野方配水搭へかなり近づいてとらえている。西落合1丁目157番地の平塚アトリエから、野方配水搭までは直線距離で約430mほどあり、スケッチ『野方配水搭』(1932年)が平塚アトリエの近辺だとすれば、『落合点描』(1935年)は200mほど配水搭へ近づいていることになる。以前にご紹介した斎藤牧場Click!の、放牧地の南端から南東方向へ100mほど下がった地点で、平塚はスケッチブックを広げているのではないかとみられる。
 そして、平塚運一はなぜか、野方配水搭を実際のフォルムよりもかなり細長くデフォルメしてとらえている。絵画表現と精神分析の領域には無知だが、さまざまな役職で多忙な平塚運一の、より高みの次元へ向けた制作意欲の昂揚感、あるいはさまざまな時間的制約に束縛されず、さらにノビノビと自由に制作したい創作意欲の表れのようなニュアンスを、空へ極端に突出した配水搭の画面から、そこはか感じとれやしないだろうか。事実、気分転換のためか『落合点描』の同年には、朝鮮を遊歴する旅に出発している。
 戦後、1962年(昭和37)から平塚運一は米国で暮らしているので、日本国内よりも米国での知名度のほうが高い。1945年(昭和20)の敗戦で、日本が連合国軍に占領されるのと同時に、創作版画で世界的に有名だった下落合2丁目667番地(現・中落合2丁目)の吉田博アトリエClick!には、マッカーサー夫人をはじめ欧米の兵士や家族たちが集まって版画を習ったり、GHQの軍属が「観光バス」を連ねて版画制作を見学しにきたりしていたのと同様に、創作版画への関心は国内よりもむしろ海外のほうが圧倒的に高かった。それは、江戸の浮世絵に対する関心の高さから継続している、欧米における一貫した日本美術への眼差しなのだろう。平塚運一もまた、米国では数多くの弟子たちを抱え、木版画の技法を教えている。
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 タイトルの『落合点描』だが、どこか落合地域をとらえた別の「点描」シリーズがあるのではと期待してしまう。平塚運一が発行していた版画誌「版画研究」や、料治熊太が刊行していた「版芸術」の誌面には、地元の落合地域を描いた版画作品が掲載されているのかもしれないのだが、膨大な作品を残している平塚運一なのでいまだ発見できないでいる。

◆写真上:1935年(昭和10)に制作された、平塚運一の木版画『落合点描』。
◆写真中上は、1933年(昭和8)に西落合1丁目37番地の料治熊太邸における記念写真。背後には面白い人形や、アイヌ民族の太刀(エムシュ=emus)のようなものが見えて興味深い。は、1924年(大正13)制作の平塚運一『駒沢村風景』(上)と1931年(昭和6)制作の『代々木風景』(下)。は、1936年(昭和11)の空中写真で想定する描画ポイント。
◆写真中下は、野方配水搭が竣工して間もないころの1932年(昭和7)にスケッチされた平塚運一『野方配水塔』。は、尾形亀之助の作品に挿画として採用された松本竣介『配水搭』(制作年不詳)。は、1931年(昭和6)の竣工直後に撮影された野方配水搭()と『落合点描』(部分/)の比較。実物に比べ、明らかに配水搭が細身に描かれている。
◆写真下は、配水搭の基礎工事。は、クレーンや足場が撤去される直前の竣工間近な配水搭。は、西落合1丁目157番地にあった平塚運一のアトリエ跡(左手)。

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上落合の材木店2階で暮らす大田洋子。 [気になる下落合]

大田洋子下宿跡.jpg
 雑司ヶ谷金山の文藝春秋社(菊池寛邸Click!)で、「文藝春秋」の記者と菊池の秘書役をしていた大田洋子は、1928年(昭和3)に同社を辞めて故郷の広島に帰っている。故郷には、毎日新聞記者で妻子のある藤田某との苦い思い出があったが、帰郷ののち彼女は再び藤田との同棲生活をはじめ、藤田の離婚が成立すると正式に結婚している。
 大田洋子が、せっかく入った文藝春秋社をなぜ辞めたのか父親に問われると、「菊池寛が夜這いに来たからやめた、小説家はいやらしい、だから文芸春秋社にはおれん」と話していたのを、実弟が記憶している。だが、文学に対する想いは日々募るばかりで、ついに藤田と離婚すると再び広島を出奔している。すぐに東京へはいかず、尾道や大阪でカフェのダンサーや女給をしながら作品を書きつづけている。そして、1929年(昭和4)に短篇『聖母のゐる黄昏』が、長谷川時雨Click!「女人藝術」Click!に掲載された。
 大田洋子は、昭和初期のブームになっていた「女給」という職業に目をつけ、自らの体験を「女給小説」というかたちで表現したかったのだろう。男性作家が「女給」をテーマに書く作品はいくらでもあったが、女性作家が自身の体験として描く「女給小説」は、いまだめずらしかった時代だ。佐多稲子Click!『キャラメル工場から』をはじめ、平林たい子Click!『施療室にて』、宇野千代Click!『脂粉の顔』、林芙美子Click!『放浪記』などが、新鮮な感覚とともに読まれていた時代だった。大田洋子は1930年(昭和5)、大阪でのカフェの仕事をやめて東京へ再びやってくる。
 東京で彼女を出迎えたのは、長谷川時雨Click!をはじめ、小池みどり、熱田優子、生田花世Click!、小寺菊子ら「女人藝術」の面々だった。いつも不平不満を口にする(書く)大田洋子だが、この時代のことは懐かしい思い出とあたたかな雰囲気でしか表現していないところをみると、よほどメンバーたちからやさしく迎えられたのだろう。以降、大田洋子は「女人藝術」の常連メンバーになっていく。東京にやってきた当初は、とりあえず本郷にあった玄人下宿の2階に落ち着いている。
 「女人藝術」の仲間と親しくなるにつれ、東京生まれの多い編集者たちよりも、むしろ外からやってきて苦労を重ねている同誌の作家たちと気が合った。武者小路実篤Click!の愛人だった下落合の真杉静枝Click!をはじめ、下落合1909番地の中井駅前で開業する医師・辻山義光Click!の妻だった劇作家の辻山春子Click!、同じく下落合1982番地の矢田津世子Click!、児童文学にも才能を発揮した田島準子、そして当時はいまだ尾崎翠Click!に紹介された上落合850番地の家に手塚緑敏Click!とともに暮らしていた林芙美子Click!らだった。また文芸春秋社時代から知己を得ていた横光利一や、下落合1712番地に建つ目白文化村Click!の邸宅に仮住まいをしていた片岡鉄兵Click!たちとの交流も復活している。
 おそらく、落合地域に住んでいた作家たちに誘われたのだろう、1931年(昭和6)ごろ(一説には1933年)から、上落合(2丁目)545番地にあった梅田材木店の2階に間借りしている。場所的にいえば、上落合郵便局Click!の南裏手、落合第二尋常小学校Click!の教師・鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!(上落合667番地)が建つ2軒南隣りの家であり、また1930年(昭和5)から新婚早々の上野壮夫Click!小坂多喜子Click!が住んでいた借家のごく近くだ。
 その時代に撮影されたものだろう、辻山春子を中心に左側に大田洋子が、右側に林芙美子が座る落合時代の記念写真が残っている。3人とも近所同士で、そろって「女人藝術」の執筆メンバーだった。中井駅前の下落合1909番地に建っていた、辻山春子の自宅(辻山医院)で撮られた1枚だと思われ、撮影者は夫の辻山義光だろうか。テーブルの上には大判の本が置かれているが、残念ながら題名は読みとれない。大田洋子と林芙美子は、辻山医院へ徒歩5分以内で着ける位置に住んでいた。
大田洋子「桜の国」1940.jpg 大田洋子.jpg
大田洋子下宿1938.jpg
 大田洋子と矢田津世子、真杉静枝の3人は、このころから「美人」の女流作家として評判になり、なにかとゴシップを書きたてられた。大田洋子が、日本で初めてのボクシング試合を見にいっただけで、新聞に写真入りで紹介されたりする。このころは、なんらかの職業をもつ女性が「美人」というだけで、新聞や雑誌のネタ(餌食)になっていた時代で、それだけマスコミは「男の視点」のみで成立している時代だった。
 このころから、大田洋子について妙なウワサが立ちはじめている。いわく、「大田洋子は、某雑誌の編集者といい仲だ」、「某新聞の某氏が毎晩、落合のうちに泊りにいく」、「作家の某ともできているそうだ」「某雑誌の社主が部屋から寝衣姿で出てきた」……といったたぐいの根拠のない流言だ。「男社会」だったマスコミは、これらのゴシップにさっそく飛びつき、あることないことを次々に報道していく。当時の新聞記者や雑誌記者の中には、大学を出た作家志望の人物たちも少なくなかったので、自身の表現力や実力のなさを棚にあげ、作家として有名になっていく大田洋子ら「美人」の女性作家たちを、「生意気だ」と感じていた男たちもたくさんいたのだろう。
 ちょうど、帝展に入選しつづける渡辺ふみ(亀高文子)Click!に向けられた、「画見博士」こと芳川赳Click!のような差別と先入観だらけの薄らみっともない眼差しだ。彼らの頭の中には、「女が実力で帝展に入選できるはずがない」「女が書いた小説が文芸誌で評判になって売れるはずがない」、なにかカラクリがあるのだろうというかなり病的な偏見が根ざしていた。少し考えればわかりそうなものだが、梅田家の1室を“間借り”している大田洋子が、いっしょに住む大家とその家族に内緒で「男を引っぱりこめる」はずもない。
 また、上記の根拠のないウワサ話にそっくりな流言パターンを、わたしは下落合でもうひとつ知っている。矢田津世子をめぐる、根も葉もないウワサだ。それらの多くが、新聞や雑誌から良いにつけ悪いにつけチヤホヤされる「美人」作家に嫉妬する、林芙美子Click!の口が出所だったことが、彼女の死後に開かれた文芸記者たちの座談会でしばしば暴露されている。故郷に帰った尾崎翠Click!を「鳥取で死んだ」と文芸誌に吹聴してまわり、二度と原稿依頼がいかないようにしたのも彼女の仕業だったことが露呈したが(戦後にNHKが生存を確認している)、矢田津世子もまた、母親や兄の家族とともに下落合の実家で暮らしていたので、気軽に「男を引っぱりこめる」環境でなかっただろう。
 ただし、落合時代の大田洋子は、性格的にはかなり問題があったようで、晩年に大田洋子の家で書生としていっしょに暮らし、彼女の伝記を執筆した江刺昭子によれば、取材を重ねれば重ねるほど気が重くなっていったらしい。戦前の大田洋子を知る人物に取材すると、誰もがイヤな顔をして苦々しい思い出を語っている。江刺昭子が取材した元・新聞記者の小埜某もそのひとりで、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
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 実をいうと、私は、小埜氏に会うかなり前から、洋子の“いやらしさ”(原文傍点)に気付いていた。最初、洋子個人を離れて、原爆関係の作品だけを読み漁っていたころには、原爆の惨状をたたみかけるような強い筆で書きこんでいく、意志の強さには感心させられたけれども、その底に覗く作者のいやらしさには気がつかなかった。洋子の足跡を追いはじめて、戦前の作品を読むころになると、そろそろそのことが気になりはじめた。傲慢で、不遜で、けちで、偏狭で、我が侭で、陰惨で、残忍で、あまりに自己中心的で他への思いやりもない態度、それが歪んだ作家意識につながっていく。そのことは、次々と洋子とつきあいのあった人々に会う度に裏書されていった。/「お金には汚かったですねえ、金を持っていてもいなくても、きれいに使うということを知らなかった」/「彼女が遊びにきているとき、ちょうど私のところへ田舎から食べものを送ってきたりすることがあると、七対三に分けてさっさと自分が多いほうを持って帰るというようなところがありましたね」……(後略)
  
 大田洋子は落合時代、林芙美子をはるかに上まわる性格の悪さだったようでw、証言者の多くが彼女のことを悪しざまにいうのが数多く記録されている。
 だが、改造社に勤める編集者で左翼の活動家であり、下落合2080番地(アビラ村24号)の金山平三アトリエClick!に出入りする黒瀬忠夫と知りあって結婚すると、少し性格が「穏和」になって落ち着いたようだった。だが、それもつかの間、金山平三アトリエで開かれる社交ダンス教室Click!のバートナーだった、金山平三の弟子で菅野某の未亡人に嫉妬し、結局は別れることになってしまった。再び同書から、今度は黒瀬忠夫の回顧を引用してみよう。
  
 幡ヶ谷では、日当たりのよい座敷を大田に提供し、僕は廊下一つ隔てた次の建物の一室を自分の部屋としました。ここでも二人は巧く行かず、大田は妊娠していたのでせう。臥り勝で、仕事は出来ていないようでした。二人の間を最も悪化させたのは、大田が僕と菅野さんとの間を邪推し、嫉妬していたからではないかと思います。食えるようになって後も先方から望まれて、週に二度位金山先生のアトリエでダンスのお相手をし、僕は心の垢を洗って貰いに行くことを楽しみにしていました。今度は菅野さんと御一緒に金山先生宅に往き来するようになった次第です。が、病弱の大田には、あてつけ、邪推の好材料になったことと想像されます。又、大田自身も最も行詰っていた時代だったでせう。/大田は、僕と菅野夫人との間を、近所の人々、医者などに、二人が出来合って「私を追出そうとしている」等言いふらすようになりました。こうなるとおしまいで、僕の面子、菅野さんの名誉のためにも許せなくなりました。
  
 大田洋子は、このころから自身でも被害妄想が極端に強く病的でおかしいと気づきはじめており、のちに何度か病院の精神科へ入退院を繰り返すようになる。
 大田洋子の創作はしばらく低迷がつづくが、1939年(昭和14)の短編『海女』と翌1940年(昭和15)の『流離の岸』で一躍流行作家の仲間入りをし、文学界に改めて揺るぎない地歩を築いている。戦争のキナ臭さが漂いはじめ、なんでも自由に書ける時代が終わろうとしていたが、彼女の傲慢でわがままな「鼻もちならない」(同書)性格は相変わらずだった。
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 その大田洋子の実存や人生を、根底から揺るがす事態が待ちかまえていた。1945年(昭和20)1月、彼女は東京での空襲を逃れ、故郷であり空爆がなかった広島市白島九軒町へ疎開している。8月6日午前8時15分、朝寝坊な大田洋子は蚊帳の中で熟睡していると、彼女の頭上600mで原子爆弾が炸裂し、身体が青い閃光に包まれた次の瞬間、吹き飛ばされた。

◆写真上:上落合545番地の大田洋子宅跡で、右手の角地一帯が梅田材木店跡。
◆写真中上は、1940年(昭和15)に朝日新聞社から出版された大田洋子『桜の国』()と著者()。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる大田洋子下宿とその周辺。
◆写真中下は、大田洋子とは「女人藝術」で親しかった田島準子()と真杉静枝()。は、やはり親しかった矢野津世子()と戦後に撮影された大田洋子()。は、中井駅近くの喫茶店「ワゴン」Click!裏にある下落合1909番地の辻山春子邸(辻山医院)で1933年(昭和8)に撮影されたとみられる左から大田洋子、辻山春子、林芙美子の3人。
◆写真下は、米軍のF13Click!から原爆投下12日前の1945年(昭和20)7月25日に撮影された広島市街。は、原爆投下2日後の同年8月8日に撮影された広島市白島九軒町界隈。

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バスガールたちに和裁を教える悉皆屋。 [気になる下落合]

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 1918年(大正7)の目白通りに面した下落合(字)中原へ、高知県から父親を亡くした母子が住み着いた。父親の出身は高知だが、母親が中野出身だったので、親戚のいる東京へ帰郷したことになる。母親はそこで、娘を育てるために悉皆(しっかい)屋をはじめた。悉皆屋という言葉はすでに死語に近いが、着物の染めや洗い張りを請け負う店のことだ。
 下落合の字名である中原は、現在でいうと子安地蔵あたりを中心に、下落合4丁目の北部から中落合2丁目の北部にかかる目白通り沿いの一帯だ。江戸期からつづく清戸道Click!(せいどどう:目白通り)沿いに長崎村と落合村の双方で発展した、椎名町Click!の東側にあたる地域で、1918年(大正7)の1/10,000地形図を参照すると、山手線・目白駅の周辺よりも商店街が発達していた様子がうかがえる。
 だが、街道を少し外れると、両村とも一面に田畑が拡がっていた時代で、下落合では目白崖線に沿った雑木林や田畑の間に、華族の大きな邸宅や別荘がぽつりぽつりと建っているような風情だった。当時の目白通り沿いの様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、三宅さと子「和裁一筋の暮らし」から引用してみよう。
  
 落合のあの辺りは、長崎田んぼって言ったんですよ。目白通りができるんで道路改正になったんですけどね。そのころまわりは、暑いときなんかドブの水をひしゃくでまくようなそういう処でした。私のとこは、悉皆屋をやっていたんです。お客様が古い着物をお持ちくださると、それを母がほどいて一反の反物にはぎ合わせるのね。それを巻いて中野に持って行くと、職人が洗って張ってきれいにして、それをお客様にお返しする、そういう商売。(中略) でもね、なかなかそんな商売で食べてくっていうのはたいへんですよ。私の月謝払うのだって、ようようだもの。学校へ行っていいって言ったって、お金くれるわけじゃないから、母がお店やってぽつぽつ貯めるのと、あとは私がお風呂屋さんのおばさんにお願いして方々のお仕事させてもらって、夜なべにそういうものを縫ってそれで月謝稼いだの。今のアルバイトよね。
  
 ここに登場しているアルバイト探しを依頼した銭湯は、大正期から今日まで下落合(中原)635番地で営業をつづける「福の湯」Click!のことだろうか。
 母と娘の生活は苦しかったらしく、落合尋常高等小学校Click!(現・落合第一小学校)を卒業した彼女は、豊島師範学校Click!へ進学して教師になりたかったが、中野の実家である染物屋の親戚たちが許さなかった。母親は進ませたかったようだが、「家長」の伯父が「仕事のできる子に育ってもらわなきゃ困る、字で飯を食うんじゃない、学校なんて尋常六年まで行けばたくさんだ」と、上の学校への進学は認めてくれなかった。
 このあたり、(城)下町Click!と近郊の家庭(もとは別の地方?)とでは、環境が正反対の見本Click!のような話だ。下町では多くの場合、男子(父親や親戚の男たち=いわゆる「家父長Click!たち)がなにをいおうが、実質「家長」Click!でマネジメントをつかさどる女子(母親や親戚の女たち)が「それはけっこうなこと、お行きなさい」といえば、それでしまいの世界だった。うちの親父も、府立中から高等学校、大学への進学は祖母が意思決定している。父親や伯父(叔父)たちは、彼女たちの意思決定のあと、個々に発生する課題をクリアするアドバイザーないしは助力者、ときには「財源」としての役割が待っていた。
 これは、新モンゴロイドの大陸系(北冷地適応系)の民族に由来する、中国や朝鮮半島の差別的な教義・思想を、いくら歴代の国家や薩長政府が根づかせようとしても、江戸東京(に限らず東日本ではおしなべて)ではほとんど浸透しなかった底流文化だ。文化人類学的にいえば、古(いにしえ)の千年単位におよぶ日本の基層Click!に近い文化的な側面Click!だろう。
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 三宅さと子は、おそらく落合尋常高等小学校でもかなり成績がよく頭のよい女性だったのだろう、それでも上級の学校をあきらめきれず、母親と親戚を説得して柏木125番地(現・西新宿7丁目)にあった武田裁縫高等女学校へ進学している。彼女はそこで和裁だけでなく、高等科へ進み習字と礼法を学んでいる。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 学校へは、目白の駅から山手線で新宿の西口へ出て通いました。校長先生は竹田太郎吉って名前で、もうだいぶお年でしたから、ちょっと教えてくださるだけで、実質的には副校長の川北先生が指導してましたね。先生はみんな卒業生で女の方ばかり。男の先生は、課外のお習字の先生だけ。私のいるうちに、高等女学校になったんですよ。四年制の二部ができたんです。そちらはお勉強があるんです。高等女学校になったんで、そういうようになったんじゃないかと思います。(中略) 課外で希望者だけ、お習字と生け花とお作法がありました。私は、お習字とお作法だけやらしていただいたんです。小笠原流のお作法ですけどね、今じゃ足で障子あけますもんね。アハハハー。
  
 女学校を卒業してから、下落合でお屋敷の手伝いの話もあったようだが、彼女は母親のもとで習いたての和裁教室を開くことにした。母親が、家を出て働けば着物や履き物などにおカネがかかるし、「出て十円稼ぐならうちで八円稼いだほうがいい」といって、娘を手もとにおいておきたかったようだ。目白通り沿いで和裁教室を開き、評判もよかったらしく生徒もぽつぽつ集まるようになっていった。
 和裁教室の月謝は、ひとり1円20銭だったようで、評判を聞きつけた娘たちが通ってくるようになる。毎日通ってくる生徒の中には、目白通りを走っていたダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)のバスガールClick!たちが大勢いた。バスガールたちは、乗務の合い間をぬっては和裁教室へ通っていたようだ。以前、こちらでご紹介したダット乗合自動車のバスガール・上原とし様Click!や、その同僚たちも和裁を習いに通っていたかもしれない。当時の様子を、同書より引用してみよう。
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 お弟子さんは近所の娘さんが多かったけれど、そのころ、表通りをダット乗合ってのが通っていたの。その女車掌さんがみんな来てました。二〇人くらい乗れる、昔としては大きいバスでしたよ。目白から籾山牧場Click!っていうところまで通っていたと思いますよ。車掌さんは入れ替わり、立ち替わりで、八、九人は来てましたよ。勤務時間が不規則だから、なかなか普通のところでは教えてくれないでしょう。私は家にいるから、いつでもいいよっていうもんですから、三時から来て五時までいるとか、五時に来て八時までいるとか、仕事の合間に教えるという方式で教えてあげたんですよ。だからこの間も、とてつもないところで「先生、先生」って呼ばれたの。私のこと先生って呼ぶなんて誰だろうって思ったら、生徒さんだった人なの。うれしかったわね。教えたものの醍醐味ね。
  
 1933年(昭和8)に目白通りの拡幅工事で、母親の悉皆屋は立ち退くことになり、下落合2丁目(現・下落合4丁目と中落合2丁目の一部)に新しい家を見つけて転居している。そして、同時に彼女は警察官と結婚した。
 彼女の家は母子家庭だったので、防犯上から警察官がちょくちょく立ち寄ってくれていたらしいのだが、その警官の仲介で独身の同僚を紹介されたようだ。戸塚警察署Click!に勤務していた、若い警察官だった。夫は戸塚警察署から中野警察署、そして警視庁の本庁づとめにもどっているが、1938年(昭和13)に本庁の特高第二課に配属された。戦時中もそのままだったので、敗戦後は思想弾圧Click!を追及され公職追放で警視庁をクビになっている。
 当時の和裁に対する手間賃は安く、浴衣を1枚縫って仕上げても50銭だったという。祭りの日が近づくと、「さとちゃんとこへ持ってけば」と浴衣縫いの注文が殺到したらしいが、毎日寝ないで浴衣を8枚仕上げてもわずか4円にしかならなかった。今日の貨幣価値に換算すると、浴衣1枚縫っても5,000円ぐらいにしかならなかった。
 結婚後も和裁はつづけていたが、子どもが生まれていたので和裁教室はやめて、授産場Click!で働いたりデパートからの注文品を縫ったりしていたようだ。着物やちゃんちゃんこなどを縫っては、大手デパートへ納品していたようだが、「ちゃんちゃんこは一〇枚縫ったっていくらにもなんなかったわね。まあ、五〇銭じゃなかったけど…」とこぼしているところをみると、かなり買いたたかれたのだろう。授産場での和裁教授は、ひょっとすると下落合の近衛町に隣接して建っていた目白授産場Click!なのかもしれない。
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 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で、国際聖母病院Click!近くの三宅邸は焼夷弾爆撃で全焼している。それから、また戦後までつづく苦難の時代がはじまるのだが、新宿区地域女性史編纂委員会のインタビュー時にも彼女は中落合(旧・下落合中部)に住んでいるので、大正期から馴れ親しんだ母校のある下落合の街を離れがたく感じていたのだろう。

◆写真上:めったに見かけなくなった、和ばさみとやたら縞の木綿地。
◆写真中上は、下落合中原(のち下落合2丁目/現・下落合4丁目)の目白通り沿いにある子安地蔵尊。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる下落合村椎名町界隈の様子。は、1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」にみる柏木125番地の武田裁縫高等女学校。すぐ南側には、青梅街道をはさんで淀橋浄水場Click!があった。
◆写真中下は、織田一磨『江戸川河岸』(部分)に描かれた江戸川(現・神田川)沿いの洗い張り風景。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合中原エリアの目白通り。このどこかに、通りに面して三宅さと子の母が経営していた悉皆屋と、彼女の和裁教室が開業しているはずだ。は、現代の和裁道具いろいろ。
◆写真下:三宅さと子が開いていた和裁教室へ、大勢通ってきていた昭和初期のダット乗合自動車のバスガールたち。(小川薫様Click!ご提供の「上原としアルバム」より)

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曾宮一念アトリエの絵画教室。 [気になる下落合]

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 曾宮一念Click!が、下落合623番地のアトリエで二度にわたる「どんたくの会」を開き、地元在住の人々に絵画を教えていたのはよく知られた話だ。当時「どんたくの会」に通い、曾宮一念に絵を習っていた方々の証言も残っている。
 画業だけでは生活が苦しいため、下落合で絵画教室を開いていた画家は多い。笠原吉太郎アトリエClick!大久保作次郎アトリエClick!海洲正太郎アトリエClick!などでも絵画教室が開かれており、笠原アトリエには下落合1147番地の外山卯三郎Click!と結婚する一二三夫人Click!が、海洲アトリエには下落合667番地の吉田博Click!のご子孫が通っている。
 「どんたくの会」は、曾宮一念が柏木128番地Click!から下落合に転居して早々、1921年(大正10)に鶴田吾郎Click!とともにはじめた第1次「どんたくの会」と、1931年(昭和6)に鶴田と仲たがいしたあと曾宮がひとりではじめた第2次「どんたくの会」とがある。証言が多いのは、1931年(昭和6)以降の二度めにはじめた画塾のほうだ。また、曾宮一念は絵画の個別指導も行っていたようで、弟子には秋艸堂Click!会津八一Click!などがいる。会津八一は、曾宮が早稲田中学校Click!時代の英語教師だったので、絵画のレッスンでは師弟関係が逆転してしまったことになる。
 曾宮一念は、人になにかを教える“教師タイプ”の性格ではないと思うのだが、第一次大戦後に起きた不況時に、あるいは世界大恐慌Click!の直後に生活費を捻出するためには、画塾を開く以外に方策がなかったのだろう。「どんたくの会」で、曾宮一念は生徒たちに絵の描きかたについて、どのような教え方をしていたのだろうか。
 それを示唆するようなエッセイが、戦後1958年(昭和33)に創刊された山岳雑誌「アルプ」に、曾宮一念の「山を描こう」というタイトルで連載されている。文頭には、絵を「これから試みようとする人々に安易な手引になれば幸いです」と書かれているので、日曜画家を対象に教えていた下落合の「どんたくの会」に通じる趣旨を感じるのだ。
 まず、絵を描く大前提として、絵画の理屈や描法(技法)は「抜きにします」と書いている。画論や技術はもちろん存在するが、究極のところは「どう描いてもカマワナイ」のが本質であり、むしろ画論や技術にとらわれ追随することは「ムズカシイようでヤサシク」、自由に描くことのほうがよほど「ムズカシイのです」として、その点が音楽の初歩で基礎技術をみっちり習得するのとは、大きなちがいだと指摘している。
 絵は明暗でできており、線も明暗も色も、すべて白黒が自然風景のかたちに組み合わされると風景画になるし、抽象画も明暗で組み立てられていることに変わりはなく、立体物を描こうとするとカゲとヒナタができるので、すぐにわかると教えている。室内とは異なり、風景を描く場合は太陽光が変化して安定しないので、あらかじめそれを考慮した立体の描きかたが必要だと説いている。
 風景画について、1972年(昭和47)に木耳社から出版された曾宮一念『白樺の杖』所収の、「アルプ」に掲載された「山を描こう」から引用してみよう。
  
 山には木や岩や雪や雲があって、その表面のものに迷わされます。それらを描くのが目的なら、表面のものに捕われて、山そのものをノガスことがあるのを注意します。/また、平地のサキに山がある場合は、平地はテーブルであり、山は卓上の物体の関係です。山の量感は表側だけで無く、裏側も想像できるように描ける方が良いと思います。/空は山よりズッと遠く、ことに山に近い空ほど遠い感じに見えると、画が広く深く見えます。/以上は普通に自然描写の常識です。しかし、自然写生ばかりが画では無いのですから、立体を無視して平面にしたり、天地左右のプロポーションを変えたり、それらは良い意味での「画そら事」なのです。
  
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 もともと風景は、スケッチブックに捉えきれるはずがないほど巨大なモチーフであり、それを紙という平面に活かせればいいので、あまり上記のことにこだわるなとも書いている。そして、曾宮先生がお勧めの画道具を列記している。
 一、画用紙・スケッチブック。大きさは普通の便箋ぐらいか、その2倍大まで。
 二、鉛筆。4B-6B。但し、紙質によって選ぶ。濃い黒を望む人はカーボン製の
   鉛筆を使う。消しゴム。

 初心者は、とかく画面をキレイに描こうとするが、そんな心配や気配りは無用でむしろマイナスだとし、線がいくつも重なってもかまわないし、消しゴムで消して画用紙が汚くなってもかまわず、ときには汚れることで重厚さが増すことさえあると解説している。あとは、いわく「カッテになさい」。
 ここでは、透明水彩絵の具による淡彩画の技法を解説しているが、油彩画よりもむしろ水彩画のほうがかなり難しいと書いている。これは、絵画を描いたことのある人ならすぐにピンとくる感覚だろうが、油彩画は手間と時間さえかければ、気に入らない箇所は自分の好みに修正することができる。だが、水彩画は一度失敗すると修正がほとんどきかない、いわば一発勝負の画面だ。
 そういう観点からすると、曾宮一念が絵画教室をスケッチと透明水彩からスタートさせているのは、どうすれば描画に失敗しないかを学ばせる、どうやれば自分なりの画面をしくじらずに描くことができるのかを、短期間で学ばせる手段として「淡彩画」を採用しているように見える。また、透明水彩とパステルの併用も教えているが、あくまでも曾宮自身が採用している手法であるとしたうえで、水彩を載せたあとで用いないと画面を汚くしてしまうと注意している。
  
 勝手に描け、と申し上げたのですから、もちろん各独自の方法を採ることが宜しいのですが、私一人の経験では、素描は思い切り濃く描いて置いても、色を付けると、線や明暗が淡れてしまいます。初めに付けた線や暗さが吹き飛んで、シマリの無い平板になり易いものです。この点では透明な水彩えのぐの方が鉛筆の強さを損うことが少なくて済みます。/鉛筆には軽く水彩を塗るなら汚れません。カーボン鉛筆も蝋の入ったものなら汚れません(その代り水をハジクが)。蝋を含まないカーボン木筆や棒状のカーボンのクレヨンに水彩すると墨が溶けて汚れます。それには、フィキサチーフを軽く吹いてから塗ると宜しい。
  
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 山岳誌「アルプ」の連載なので、いちおう山を描くことを中心に解説しているが、後半では山にとらわれず海や野など、多彩な風景画の制作について触れている。
 また、自身の体験として、初めて油絵の具を購入したとき、洋書の絵画入門本として「山の描き方」「海の描き方」「人物の描き方」という、小型本を手に入れて読んだ話をしている。だが、せっかく苦労して英文を翻訳しながら読んでも、「子供だまし」のような内容だったという。山や海、人間にそれぞれ別の描法があるはずがなく、絵画制作では「立体と重量」感、そして「物質」感を表現するのであり、「画家によって、物質を主にした人もあり、立体や重量を主にした人もいます。しかし何よりも先ず画であることが第一でしょう」といい、そう書いているそばからこれは「屁理屈」だとしている。この「屁理屈」については、読者がどう解釈するのか課題のひとつとして残した。
 もうひとつ、いい古された初歩的な「遠近法」についても触れている。遠近法は「大分前時代もの」になったが、遠近法的な手法に反しないほうがいいこともあり、また視覚的には遠い山でも美しいのであれば、その景色を中心に(遠近法にとらわれず)描いても別にかまわないので、自分にとって「美しく感ずるところがどこにあるのか、どこをツカンダラ良いかを考えて」、画面に向きあうべきだとしている。
  
 紙と鉛筆を持てばスグに風景画家になれます。その点、一番ハイリ易い画です。しかし、もう一つの考えは、人物や静物は、その形に規制があるから、その点ではムズカシサがあるけれども、実物通り、時には実物大に、俗な言い方をすれば本物ソックリに写すこともできます。/ところが山・海・空・水は本物を紙に写せません。木の枝、草の葉、森、川原の石をどうコナスか、そういうところに昔から手法が倣われ、手本が作られました。これは先人の作品を参考にするなら良いとしても、それに倣って描くのでは、自分の眼と心で見、感ずるので無く、他人の見方・感じ方になります。(中略) そういう教え方は速成の効果はあがっても、折角の自分の心を失って、他人の代用品を作って喜んでいることになります。/私の、この淡彩入門も、このことに陥らないように気をつけたつもりでも、私一個の方法が首を出していないとも限りません。
  
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 「一応お読みの上、無手勝流に描いてごらんなさい」と結んで、登山の無手勝流は生命の危険があるが、絵画の無手勝流はイノチにかかわることは絶対にないとし、「大いにハメをハズすこと」、ただし課題としていた「屁理屈」はもちろん忘れること……と、曾宮一念ならではのユーモラスなこなれた文章で、「アルプ」誌上の絵画教室をしめくくっている。

◆写真上:100歳も近い晩年に、富士宮アトリエの庭先でラジオ体操をする曾宮一念。
◆写真中上は、1921年(大正10)に竣工間もない下落合623番地の曾宮一念アトリエ。(江崎晴城様Click!提供) は、1934年(昭和9)9月15日に下落合のアトリエで撮影された曾宮一念。は、戦後に富士宮市のアトリエで制作する曾宮一念。
◆写真中下は、3枚とも曾宮一念に絵画を習っていた会津八一のデッサン帳(早稲田大学会津八一記念博物館蔵) は、第2次「どんたくの会」の曾宮一念(右端)。
◆写真下は、1960年(昭和35)に制作された曾宮一念『開聞岳遠望』。は、1965年(昭和40)に描かれた曾宮一念『平野夕映え』。は、1987年(昭和62)に発行の「週刊新潮」11月号に掲載された曾宮一念『八ヶ岳浅雪』(制作年不詳)。

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