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「前方後円墳風な地形」の月見岡八幡社。 [気になる下落合]

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 旧・八幡通りClick!に面していた、1962年(昭和37)に現在地へ遷座する以前の月見岡八幡社の境内は、大正期から宮司をつとめていた守谷源次郎Click!によれば「前方後円墳風な地形」をしていたと記している。そう書かれているのは、1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)だ。
 当時の月見岡八幡社の地形や、大正期から昭和初期にかけて上落合や下落合に残存していた多種多様な古墳群Click!を観察し、昔日より伝承されてきた「百八塚」Click!の故事と重ね合わせて、落合地域が実は“古墳だらけ”だったのではないかと確信するようになったのだろう。そして、古墳の発掘調査では高名だった鳥居龍蔵Click!を、落合地域へ招聘して大正末から昭和初期にかけフィールドワークを行なっている。
 江戸期には、大田南畝(蜀山人)Click!も訪れた月見の名所だった月見岡(丘)の高台だが、おそらく守谷宮司は前方後円墳の後円部の墳丘だったのではないかと考えていただろう。江戸期には「瓢箪型」をしていたとみられる旧・月見岡八幡社の境内は、大正期現在では北側の一部を削られているようだが、境内の北側、および西側にあった小型の円墳(ないしは前方後円墳)は、大正期まで墳丘の面影が残存していたようで、『移利行久影』に付属する「上落合附近上古之図」に採取されて記載されている。
 境内の北側、すなわち廃寺の泰雲寺Click!側に位置していた小型の古墳と、境内の西北西側に残っていたそれは、守谷宮司が想定する思考の流れに沿えば、主墳の後円部に付属する陪墳ではないかと疑っていたにちがいない。境内の西北西側にあった古墳は、のちに改正道路(山手通り)Click!工事計画Click!にひっかかるため、1927年(昭和2)に移築された落合富士Click!(当初の基盤は大塚浅間古墳Click!)の土台となったようだ。また、同社境内の西側20mほどのところにも、小型の円墳(ないしは前方後円墳)が採取されており、この1基もまた守谷宮司は陪墳のひとつととらえていたかもしれない。
 月見岡八幡社周辺の古墳をはじめ、守谷源次郎は上落合や下落合の古墳群を鳥居龍蔵Click!とともに、多くの古墳の現地調査をしてまわっているようだ。『移利行久影』の冒頭に掲載されている、守谷護「はじめに」から引用してみよう。
  
 折り込んであります「天保末期上落合之図」は、昭和初期の氏子総代・宇田川忠蔵氏・加藤公太郎氏・中村半三郎氏・福室鏻太郎氏・高山治助氏・宇田川傳三郎氏をはじめ、里老の話を総合して書き上げたものです。又、「上落合附近之古之図」(ママ:「上落合附近上古之図」)は、著者・父が昭和初期に考古学者・鳥居龍蔵先生に御指導いただき、上落合附近を調査したものです。古代地割線は、地図を基としたものでなく、長い期間歩いた結果を図示したものです。(カッコ内引用者註)
  
 同書に添付された「天保末期上落合之図」は、まだ記事ではご紹介していないが、同図の制作に参画している人々の名前は、すでにこちらでも何度か登場している人々が多い。また、もうひとつの「上落合附近上古之図」に記載されている古墳群は、やはり守谷宮司が鳥居龍蔵ら考古学チームとともに調査を行なった気配が濃厚だ。その調査記録をなんとか探しだして見てみたいものだが、いまだ鳥居龍蔵関連の資料からは発見できずにいる。
月見岡八幡社境内(戦前).jpg
月見岡八幡社19450402.jpg
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 また、同書には守谷源次郎が作成した、旧・八幡通りに面した月見岡八幡社境内の平面図(200分の1縮小)が掲載されている。その図面を、実際に空中写真へ当てはめてみると、かなり広大な境内だったことがわかる。おそらく、大田南畝Click!が訪れた江戸期の境内は、さらに広範囲にわたっていたのだろう。拝殿および本殿は茅葺きで、現在のものよりも規模がやや大きかったと思われる。また、移築された落合富士も、現存しているものよりも高かったのではないだろうか。守谷宮司が描いたスケッチを参照すると、山頂から見下ろす同社の大きめな拝殿や神楽殿の様子から、大塚浅間古墳を土台としていた移築前の落合富士と同等か、やや高めだったように感じる。
 さて、旧・八幡通りに面していた月見岡八幡社について、守谷源次郎は詳細なスケッチや写真類を残している。これらは、守谷宮司は「東京大空襲」Click!と書いているが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!によって、そのほぼすべてが灰塵に帰した。その時の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 氏子も私も、吾社のみは焼けまいと信じていたが、この日最後に来襲したB29の空襲に、家屋も吾神社も悉く灰墟に帰してしまった。/幸い吾社は、神宿す御鏡も重要書類、文化財の大方を遺し得たとは云え、誠に残念の一語に盡きる思いであった。/地上何物もなく焼けただれた境内に、苦心して揑(ママ:捜)し求めた榊一本を、今日からは吾社のシンボルとして崇めることとなった。(中略) 昭和二十年五月の大空襲によって、本殿、拝殿、木造鳥居等は完全に焼失してしまった。/戦后、徐々に復興して、本社を廻る諸来社もまたそれぞれに再建され、境内全体がようやく整備されて神座す威厳を添え初(ママ:始)めた。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、谷文晁に絵の師である加藤文麗を通じて依頼した、拝殿の天井画30数点もことごとく灰になってしまったが、かろうじて1枚だけ偶然に取り外されていたため、その天井画は現存している。また、数奇な行路をたどって北海道をさまよっていた同社の鰐口についても、谷文晁の天井画とともに以前、ここでご紹介Click!していた。
旧表参道.jpg
旧拝殿.jpg
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 戦後は、少しずつ社殿や鳥居、境内へ包括されていた諸社の殿が復興していったようだが、戦前のような大規模な社殿にはなかなかもどらず、落合富士だけが大きく上落合一帯に目立ってそびえているような風情だったらしい。ようやく戦争の傷跡も目立たなくなり、境内の建物や樹林も落ち着いてきたころ、降ってわいたように落合下水処理場Click!(現・落合水再生センター)の計画がもちあがった。
 同社境内の東側の大半が、落合下水処理場と新たに敷設される新・八幡通りに削られてしまうため、どこかへの遷座を迫られることになった。同社の北西50mほどのところに、当時は廃寺になっていた龍海寺の敷地がそのまま残っていたため、少なくとも社伝では1050年ごろから同地にあったとみられる社の境内を丸ごと遷座せざるをえなくなった。
 この遷座がよほど残念だったものか、守谷源次郎の文章には無念さがにじみでているようだ。『移利行久影』より、つづけて引用してみよう。
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 戦災より既に十有余年、境内樹は未(いまだ)若木ながらも、はや枝を重ね合い本社を廻る諸末社またそれぞれに復興し、境内全体がようやく整備されて威厳を添え初(ママ:始)めた状景は誠に目出度い限りであった。/昭和三十五年旧前田部一帯の地を副して汚水処理場の設置決定に際し、吾社は二千年来住み馴れたこの月見岡の地を離れ、旧竜海寺跡(現在地)に移動するの止むなきに至った。
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 1960年(昭和35)11月に、月見岡八幡社の再建委員会が発足し、翌年2月には社務所と八幡神社愛育園(保育園)の園舎が移転を終えている。つづいて、1962年(昭和37)6月に新たな敷地へ本殿、幣殿、拝殿が竣工し、同年7月には遷座祭が行われた。
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 戦前の月見岡八幡社は、社殿の裏に落合富士を背負っていたため、周囲の街並みを見わたせる格好の展望台だったろう。写真が残っていないのは残念だが、旧・境内から眺めた旧・八幡通り沿いの風景は残っているので、近々改めてご紹介したい。その中には、泰雲寺Click!跡の礎石群とみられる石が、いまだに連なっているのが見られるのも貴重でめずらしい。

◆写真上:月見岡八幡社境内の西側一部で、1963年(昭和38)に開園した八幡公園。
◆写真中上は、守谷源次郎の制作による戦前の境内平面図(200分の1)。は、1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機F13Click!が撮影した空中写真に同平面図を透過させたもの。は、現在の空中写真に同平面図を透過させたもの。
◆写真中下は、旧・八幡通りに面した階段(きざはし)と鳥居につづく表参道。は、藁ぶき屋根が特徴的な焼失前の拝殿。は、守谷源次郎のスケッチで社殿の背後にある落合富士の山頂から神楽殿(左)と拝殿を見下ろしたところ。
◆写真下は、同じく守谷宮司のスケッチで空襲前の月見岡八幡社全景。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる焦土と化した同社境内。は、現在の同社。

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